2013年5月9日木曜日

新庄山城(岡山県岡山市竹原)

新庄山城(しんじょうやまじょう)

●所在地 岡山県岡山市竹原
●別名 奈良部城
●築城期 天文初年
●築城者 新庄助之進
●城主 新庄氏・宇喜多直家
●高さ 127m(比高117m)
●遺構 土塁・堀切など
●登城日 2013年4月27日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 新庄山城は、前稿「乙子城」のある乙子から吉井川を西に渡り、百間川の支流砂川を遡った現在の岡山市竹原にある新庄山に築かれた城砦である。乙子城からは、北に約8キロ余り向かった位置に当たる。
【写真左】新庄山城遠望
 北西麓にある上道公園(小鳥の森・三徳園)から見たもの。
 駐車場は公園内にある駐車場が利用できるが、時間制限があるので注意が必要。
 

現地の説明板より

“新庄山城跡(別名 奈良部城)

 頂に本丸を構え、尾根筋に郭を縦列に配し、先端に堀切のある連郭式の山城。築城年代は不詳であるが、亀山城主中山備中守信正の臣新庄助之進の居城と伝えているので、16世紀前葉であろう。ただし、現在の城跡は宇喜多時代に改修された跡

 天文18年(1549)春、乙子城主宇喜多直家は、砥石城主浮田大和が主君浦上宗景に背いたとし、宗景の軍勢と協力し砥石城を攻め、大和を敗死させた。このときの恩賞として宗景から新庄山城が与えられ、乙子城から移ってきた。
【写真左】案内図
 麓の公園からハイキングコースが整備され、北東端(左)と、西端(右)の両方から尾根伝いにたどる。
 この日は、左側(ゴルフ練習場側)から向かった。
 
 平禄2年(1559)、亀山城主中山備中守と砥石城主島村豊後守とが、主君宗景に対し謀叛の噂があった。宗景は直家に命じてこれを誘殺させた。この功により直家は亀山城を賜り、新庄山城から移った。

 新庄山城は家臣に守らせていたが、直家が岡山城主となったとき、この城は役目を終え廃城となった。なお、本丸跡から焼麦が現在も出土する。”
【写真左】石碑
 北東端の登城口付近に建立されている。
こちらから向かうと、最初から傾斜が険しいが、最短距離で本丸側にたどり着く。

 土曜日だったこともあり、道中で3,4人の下山者とすれ違った。地元ではハイキングコースとしてかなり利用されているようだ。


直家、舅の謀殺と、祖父能家仇討たす

 直家が乙子城から奈良部の新庄山城に移ったのは天文18年(1549)である。前稿「乙子城」で述べたように、砥石城を陥れたものの、宗景の恩賞としてこの城は受けなかった。砥石城の西隣の高取山城には、宿敵島村豊後守(観阿弥)がいたからである。

 ところで、直家が新庄山城に入ってから最初に行ったのは、乙子城在城時代から小競り合いを続けていた瀬戸内諸島に介在していた海賊衆との和睦である。

 当時、児島湾に最も近い現在の玉野市日比の海賊頭領であった四宮隠岐守は、配下に3千もの屈強の軍兵を擁し、下津井の吉田右衛門と児島沿岸部を争っていた。更に、児島湾の南東に浮かぶ犬島を拠点としていた海賊衆日本佐奈介とは、直家が瀬戸内を使って回遊する際、大きな障害となっていた。
【写真左】最初のピーク
 15分程度きつい斜面を登ると、ご覧のピークが現れる。20m程度平坦な箇所だが、おそらく北の守りとしての郭跡だったのだろう。





 この年(天文18年)9月、四宮隠岐守の仲介によって、直家は佐奈介と和睦、三者は一先ず与同の契りを結んだ。直家が海賊衆とこうした和睦を結んだことによって、その後備前から備中方面へ進出する際、海路を使った戦略は大きな役割を果たしていくことになる。

 さて、直家が新庄山城に入る前は、説明板にもあるように、当城の城主は、中山備中守信正の家臣・新庄助之進とされている。中山備中守は、備前・亀山城(岡山県岡山市東区沼)の稿でも述べたように、直家の正妻・奈美の父である。奈美が直家に嫁いだのは、天文20年(1551)である。

 そして、二人が結ばれてからしばらくは平穏な月日が続いた。しかし、8年後の永禄2年(1559)の早春、主君・浦上宗景から直家に天神山城に出仕せよとの命が下った。
【写真左】本丸・その1 石鉄神社
 本丸は幅約8m×長さ20m程度の規模で、中央には石鉄神社本殿があり、元の城主新庄助之進と伊予前神寺の分霊を祀るという。

 なお、この後は祠も鎮座している。



 登城した直家は、宗景から驚くべき密書を見せられた。それは、宗景に恭順を示していた砥石山城の島村観阿弥が、宗景と敵対する御津の金川城(岡山県岡山市北区御津金川)主・松田氏と結びつこうとしていることだった。

 さらに、直家を最も驚かせたのが、直家と同じく浦上氏を支えていた直家の舅・中山備中守が、前者二人と結びつき、謀叛を企んでいるとの内容だった。
【写真左】本丸・その2 北方を俯瞰する。
 奥に見える山並みを超えると、赤磐市に繋がる。








  直家と奈美の間には双子の娘がさずかり、仲睦まじい夫婦生活を送っていた。舅の備中守はそうした娘婿を実の息子のように可愛がっていた。直家が浦上家中で重きをなしていったのも、備中守の後ろ盾があったこともまた事実である。

 しかし、その備中守が実は浦上氏の転覆を謀っていたことを知るにおよび、宗景の前で直家は舅の謀殺を決意することになる。勿論直家にとって、舅を殺害するという行為は避けなければならなかった。

 しかし、主君宗景からのこの命を断れば、逆に宗景によって直家は打果されることになる。このことは、祖父能家から宇喜多家一族の再興と延命を誓った一族の長としてその義務を全うできなくなることになる。
【写真左】南側の郭群
 史料では、尾根筋に郭を縦列に並べ、さらに二段の郭云々と記されているが、現地は大分ハイキングコースとして改変されているようだ。




 永禄3(1560)年2月、直家はその頃恒例となっていた舅備中守との狩りで獲った鴨を主肴として、酒宴の席を設けた。場所は亀山城の近くに直家が造らせた東屋である。

 備中守は直家の歓待によほど嬉しかったのか、したたかに酔い酩酊した。直家は備中守を介抱し寝床まで連れて行くと、その瞬間背中へ抜き打ちの一刀を浴びせた。

  直家は備中守及びその警固をしていた数人の家臣をも殲滅させたあと、天神山城に向かって烽火を挙げた。これは事前に宗景と作戦を練っていた行動で、この烽火を合図に宗景は、使いを砥石城に向かわせた。砥石城の観阿弥はこの使者から「謀叛の首謀者・中山備中守を直家が討ち果たした故、すぐさま亀山城に赴き直家に合力せよ」との命を受けた。
【写真左】展望台(高尾山)に向かう。
 ハイキングコースをさらに進むと、途中で分岐して北に向かうと高尾山がある。
 この頂部に展望台が設置されている(下段写真参照)



 観阿弥はこのとき、自らの謀が宗景に知られたものと肝を冷やしたが、この知らせを聞き安堵した。そして、急ぎ亀山城に駆けつけた。

 城門前にたどり着き、到着した旨を大きな声で伝えた。すると、門扉は開かれたものの、さしたる騒動もなく、静まり返っている。 しばらくすると、
 「主・直家は本丸にてお待ちしております。奥へお入りくだされ」
 と、闇夜の門前から声がした。

 観阿弥はこのときわが身が取り囲まれていると察知した。そして
 「どうやら成敗のあと、合力に駆けつけたが何事もないようなので、儂は家来どもとこのまま砥石に帰るから、三郎佐(直家)にその旨伝えておいてくれ」
 と馬に跨った。その直後暗闇からどっと観阿弥らに向かって鈍い光を放つ刀槍がみえた。観阿弥の跨った馬は既に前を塞がれ、身動きの取れない観阿弥にいちどきに数十本の矢が射られた。馬上の観阿弥は脆くも地面にたたきつけられた。宇喜多の数人の兵がすかさず押さえつけ、観阿弥の首級を獲った。
【写真左】展望台
 高尾山という山の頂部に設置されており、標高137mの高さを持ち、新庄山より10mほど高い。






 天文3年(1534)直家の祖父能家が島村観阿弥に謀殺されてから、26年の歳月を経て、ここに仇討ちを成し遂げたわけである。

 この結果、宗景は直家に対し、亀山城をはじめ、中山備中守及び島村観阿弥の所領を与えた。しかし、我が夫が父を殺したことにより、新庄山城にあった直家の妻奈美は、余りの凄惨な出来事に動転し自害してしまった。
【写真左】展望台から北東方面に新庄山城を遠望する。
 文字通り眺望は新庄山城の本丸より、此方の方が大分良い。






 その後、直家は亀山城へ移り、新庄山城は家来に守備させ、砥石城には異母弟の春家を、乙子城には末弟の忠家を入れた。

 この結果、直家は南備前の4か所の城を支配し、家臣を数千人を擁する浦上氏筆頭の武将となった。こうした直家の隆盛は、主君宗景にとっては逆に脅威となり、後に二人が敵対する下地ともなっていくことなる。
【写真左】展望台より乙子城を遠望する。
 乙子城は新庄山城の南方にあり、直家は常にこの城を確認できたと思われる。
【写真左】展望台より北西方面を見る。
 手前の山を超えると、亀山城(沼城)がある。
【写真左】展望台より北東方面に大日幡山城を遠望する。
 新庄山城の東を流れる沼川を挟んで、対岸には大日幡山城が見える。
 高さ157mで、文明年間には赤松氏の一族が居城したと伝えられる。

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