2012年7月22日日曜日

崇徳天皇 白峯陵(香川県坂出市青海町)

崇徳天皇 白峯陵(すとくてんのう しらみねのみささぎ)

●所在地 香川県坂出市青海町
●備考 白峰寺
●参拝日 2012年3月20日

◆解説
 今稿は少し「山城」とは逸れるが、現在放映されているNHKの大河ドラマ「平清盛」でも登場した崇徳天皇の墓所を取り上げたい。
【写真左】崇徳天皇 白峯陵
 他の天皇陵と同じく宮内庁管轄のもので、一般人は中には入れない。







 ところで、今回の大河ドラマはよくある既存の歴史小説などを原作としたものでなく、藤本有紀氏の脚本をもとに製作されている。

 もっとも、『平家物語』をはじめとする当時の文学的あるいは軍記史料などは当然参考にされていると思われる。

 放映が始まりだしたころは、物語の展開が時間の制約もあって聊か誇張されたきらいもあったが、保元の乱が勃発し出したころ、すなわち崇徳天皇が関わったこの事件ごろから中身が充実し、出演者の演技力も増してきているように思える。
【写真左】白峯寺全図
 本堂をはじめ阿弥陀堂・金堂など多くの堂が建つ。
 白峯陵は西側にあって、その東隣には頓証寺殿がある。


【写真左】白峯寺・その1
 山門付近
 2年後の平成26年には「崇徳天皇850年忌」及び、「当山開創1200年記念法要」と記した看板がある。






崇徳天皇

 テレビで放映されているので、詳細は省くが保元元年(1156)7月、独裁的な君主であった鳥羽院が死去すると、信西(しんぜい)ら院の近臣たちは、それまで不満を持っていた左大臣藤原頼長と崇徳上皇に圧力を加え、挙兵に追い込んだ。保元の乱である。
この乱が起こる当時の対立軸を見ると、天皇家・摂関家、そして武士たちそれぞれ一族内での対立でもあった。

            (後白河側)     (崇徳上皇側)
  • 天皇家   後白河天皇  VS     崇徳上皇
  • 摂関家   藤原忠通    VS     藤原頼長
  • 平氏     平清盛        VS     平忠正
  • 源氏     源義朝      VS     源為義・為朝

【写真左】白峯寺・その2










 この乱に至ったきっかけは、頼長の動きである。次第に後白河側から攻められてきたため、急きょ頼長が崇徳上皇と結んだといわれている。

 頼長は武士を召集するさい、崇徳上皇を奉じておかなければ、馳せ参じるものがいないと踏んでいたのではないかと考えられる。

 さて、讃岐に配流された崇徳院(上皇)は、仏教に深く帰依したといわれているが、一方で生前の供養にと作成した写本を京の寺に納めてほしい旨を朝廷に出したところ、後白河院が「呪詛が込められている」として拒否、これに怒った崇徳院は、舌を噛み切って大魔縁となって、夜叉のような姿になったとの話も残るが、これは後世の創作だろう。
【写真左】白峯陵入口付近
 玉砂利の道を進み、階段を上った所にある。









 参考までに、現地には白峯寺と併せ「崇徳天皇御廟所」について碑文が残っている。かなり長文になるが抄出しておく。

現地の説明板より

崇徳天皇御廟所
四国第81番霊場(別格本山)綾松山 白峯寺 略縁起


当山は弘法・智証両大師の開基である。弘法大師は、弘仁6年(815)当山に登られ、峯に如意宝珠を埋め閼伽井(あかい)を掘られた。かの宝珠の地滝壺となり、三方に流れて増減なしという。次いで貞観2年(860)10月の頃、瀬戸の海上に流木が出現し、光明に耀き異香四周に薫じたので、国司の耳に入り、これを当時入唐留学より帰朝して金倉寺に止住せられていた善知識円珍和尚に尋ねられた。和尚、かの瑞光に導かれて当山に登り、山中を巡検していると白髪の老翁が現れて曰く「吾は此の山の地主神、和尚は正法弘通の聖者なり。この山は七仏法輪を転じ、慈尊入定の霊地なり。相共に仏堂を建て、仏法を興隆せん。かの流木は補陀洛山のいかだなり。」との御神託あり。乃ち流木を山中に引き入れて、千手観音の尊像を彫み、当寺の本尊として仏堂を創建せられた。
【写真左】五輪塔群
 白峯寺境内の一角にご覧のような五輪塔群が並んでいる。
 崇徳天皇に随従していた者か分からないが、かなりの数になる。




その後、保元元年(1156)保元の乱に因り、第75代崇徳天皇当国に御配流、山麓林田郷綾高遠の館(雲井御所)に3か年、のち府中鼓が丘木丸殿(木丸殿御所)に移り6か年、都合9年間配所の月日を過ごされて、長寛2年(1164)旧8月26日崩御遊ばされ、御遺詔によって当山稚児嶽上(御陵のあるところ)に荼毘し、御陵が営まれた。


然るに霊威甚だしく峻厳にして奇瑞帝都に耀いたので、御代々の聖主、公卿、武将も恐れ崇め奉り、御府荘園を寄せて御菩提を弔い、十二時不断の読経三昧等当山に綸旨、院宣を下され、或いは法楽、詩歌、種々の霊器宝物を奉納して御慰霊の誠を尽くされ、特に第100代の後小松帝は、御廟に「頓証寺」の御追号勅額を奉掲して、尊崇の意を表された。また仁安元年神無月の頃、歌聖西行は、四国修行の途次、御廟に参詣し、一夜法施読経し奉ると御廟震動して崇徳院現前して一首の御製を詠ぜられた。
即ち


松山や 浪に流れて こし船の やがて空しく なりにけるかな


西行涙を流して御返歌に


よしや君 昔の玉の 床とても かゝらん後は 何にかはせむ


と詠じ奉ると御納受下されたのか度々鳴動したと云う。
その他、崇徳院御笛の師参りて奉った歌、或いは平大納言時忠卿廟参の砌、奉納せられたる詩歌の序文等は縁起に詳しく載せられている。抑々往時は塔頭21ヶ坊を数え、長日不断の勤行渓々に谺して殷盛を極めていたが、度々祝融、兵火の災いに遭うも藩侯生駒家、松平家の外護によって再建維持され、明治維新の変革を経て現況を保持している。
【写真左】白峯寺付近から瀬戸内を見る。
 崇徳天皇も毎日この景色を眺めていたことと思われる。




 又、当寺は拾芥抄諸寺の部にも載せられており、万葉集に所謂玉藻よし讃岐の国は国柄か見れどもあかぬ神がらか…と世々の集に載せられる所の名所唯此の松山の辺りに相双ぶ如くである。
八雲御抄等に此の国の名所が詳述せられており、この松山の名所古跡であることが理解されるであろう。


雲井御所
(白峯寺縁起)    崇徳院御製
こゝもまた あらぬ雲井となりにけり 空行月の影にまかせて


松山
(新古今)       崇徳院
松山や 波に流れてこし船の やがて空しくなりにけるかな


(白峯縁起)     崇徳院
浜千鳥 あとは都にかよへども 身は松山にねをのみぞなく


白峯
(山家集)     西行
よしや君 昔の玉の床とても かゝらん後は何にかはせむ


松ヶ浦
(後拾遺)   中納言定頼
松山の 松の浦風吹きよせば 忍びて拾へ恋忘貝”


(頓証寺御楽百首)   正三位公禓
あかずみる 木末の宮は白峯の 雲さへおなじ花の夕ばへ


(同三十首)    九條植通公
立つゝく 霞に雪は白峯の 外いづれかよそに見るらん”

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