2011年4月1日金曜日

三石城(岡山県備前市三石)

三石城(みついしじょう)

●所在地 岡山県備前市三石●築城期 正慶2年(元弘3年・1333)
●築城者 伊東大和二郎
●形態 山城
●城主 浦上宗隆・浦上村宗
●遺構 郭・土塁・石垣・堀切・井戸・池・虎口等
●標高 291m
●比高 210m
●指定 岡山県指定史跡
●登城日 2011年1月14日

◆解説(参考文献「日本城郭大系 第13巻」等)
 前稿駒山城(兵庫県赤穂郡上郡町井上)から南西約15キロほど下った岡山県備前市三石に築かれた山城である。
 三石城は備前国の東端にあるため、当然東隣りの播磨国との関係が深い。
【写真左】三石城遠望
 南東麓からみたもの。












 現地の説明板より

“岡山県指定史跡
 三石城
    昭和54年3月27日指定

 三石城は、元弘3年(1333)地頭の伊東氏により築かれたと「太平記」にある。その後、浦上宗隆が備前守護代として入り、以後浦上氏の拠点となった。

 浦上氏は、村宗の代に備前東部から播磨西部にかけてを領するまでになったが、その死後、領地が二分され、備前東部を受け継いだ宗景が享禄4年(1531)天神山城へ移り、三石城は廃城となった。
【写真左】三石城登山口













 城内には当時の遺構がよく残っており、頂上部の本丸(標高291m)から南西に二の丸・三の丸が伸び、本丸の北側には堀切を挟んで独立の曲輪がある。本丸の南西側面には大手曲輪が設けられ、当時の石垣がよく残っている。

 二の丸・三の丸の北側に沿って馬場があり、一段下の大手曲輪との間に池が設けられている。城内には7基の井戸があり、特に三の丸の南にある井戸は、「千貫井戸」と呼ばれ、常に涸れることがない。また、城の外郭線の山陽道側には、2カ所の見張所があり、外敵の侵入を監視するようになっている。
 城内から当時使われていた備前焼大甕(かめ)や、小皿片が出土しており、その一部が備前市歴史民俗資料館に展示されている。

 文化財を大切にし 後世に伝えるよう努力しましょう。
  備前市教育委員会”
【写真左】三石城 案内図
 上記の写真にある登山口に設置されている。







南北朝期

 築城した伊東氏とは、伊東大和二郎という人物で、当地の地頭職である。この伊東氏はおそらく、工藤氏一族伊東氏と思われ、鎌倉時代初期の御家人であった工藤(伊東)祐時(すけとき)の流れと思われる。

 築城期は元弘3年(1333)である。この年、閏2月24日、後醍醐天皇が隠岐島の行在所を脱出し出雲国に向かった。三石城主・伊東大和二郎は、南朝方に与し、当時備前国守護であった加地源二郎左衛門を攻め、これを降した。
 三石城の位置は山陽道に面した重要な場所で、この城に拠って幕府方や六波羅探題が京都の救援に向かうのを阻止したといわれている。
【写真左】 駐車場付近に設置された登山ルート案内図
 登山口からさらに車で向かう道が設置されている。幅員は狭いものの舗装されている。
 左図の「現在地」が駐車場になるが、この場所に当城の説明や写真にあるルート図が設置され、分かりやすい。駐車台数は2,3台程度。

 このルートは北側から南に向かうもので、搦手側になる。大手は南麓の三石の町から直接上るコースとなるが、かなり険しいようだ。

【写真左】略測図












 その後、建武3年(1336)、足利尊氏が京都を追われ九州に敗走した時、当城に尊氏の家臣・石橋和義を置き、新田義貞らの攻撃に耐えたという。このとき、新田義貞は播磨国の白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)も攻めていた。
 おそらく前稿「駒山城」も同様の状況だったと思われる。

 特に、三石城における頑強な防戦によって、新田義貞軍の勢いを決定的に弱体化させ、山陽道制圧をもくろんだ義貞の大敗北となった。
 こうして尊氏は改めて陣を立て直し、上洛後室町幕府の開設へと繋がって行く。
【写真左】登山道その1
 駐車場からスタートすると、すぐに谷に下り、そのあと三石城側の稜線まで登って行く。
 この写真の左側に三石城が控える。




室町・戦国期

 室町期になると、論功行賞として備前国守護職には、赤松氏が任命された。赤松氏の重臣・浦上宗隆は、同国守護代となり三石城を居城とした。その後、浦上氏は代々当城を居城としていく。

 嘉吉の変(1441年)で、赤松満祐が将軍足利義教を暗殺し、その後幕府軍に討伐されたが、そのとき、主家に殉じた浦上氏ではあったが、その後浦上則宗(1429~1502)が、再び赤松家を再興する。
【写真左】登山道その2(三石城遠望)
 上記のピークを過ぎると南方に向かってやや下る尾根となるが、高低差は少なくなる。

 この写真の手前付近からは、視界がいいと牛窓(瀬戸内市)、さらには小豆島も見える。

 なお、写真のほぼ中央部の盛り上がった部分が三石城本丸付近になる。



浦上村宗

 下って則宗の孫・村宗(?~1531)の代になると、時代は下剋上の世となり、村宗は主家・赤松氏と対立するようになる。

 永正16年(1519)、主家の赤松義村は、村宗の拠る三石城を攻めたが、逆に撃退され、さらに大永元年(1521)再び村宗を討つ画策に出たが、またしても敗れ、ついに義村は、播磨国室津に幽閉された。

 その後、村宗は同年9月17日、刺客を使って義村を暗殺。これによって、主君赤松氏に代わり、家臣であった浦上氏による播磨国支配が始まった。ちなみに、この年、甲斐国では武田晴信(信玄)が生まれている。
【写真左】鶯丸
 三石城の北方を守備する出丸で、長径50mの郭を本丸側に持ち、手前に2,3の小規模な郭段を配置している。






 この争いは、播磨国における下剋上を象徴するもので、この後浦上氏は戦国大名へと歩み始める。

 そして、9年後の享禄3年(1530)6月29日、村宗は細川高国と計らい、波多野秀長丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)参照)の子・柳本賢治を、播磨国東条で暗殺、翌4年三好長基(元長)と細川高国の戦いで、細川方に参戦したが、細川方が敗れたため、村宗も中津川で討死した。
 彼の遺骸は、家臣が持ち帰り、現在三石城より西南西6キロの備前市伊里に葬られた。

 「日本城郭大系 第13巻」では、村宗の子には、長男・政宗(1520ごろ~1564)と、二男・宗景、三男・国秀がいたとしている。
 ただ、史料によっては、国秀は村宗の子ではなく、政宗の幼少期、彼の後見人であったとするものもある。
【写真左】堀切・間道
 鶯丸を過ぎると一旦下がり、御覧の堀切が出てくる。この写真の右に本丸が控えているが、堀切をそのまま南下していくと、大手門に繋がる間道が伸びている。




政宗・宗景兄弟の不和

 政宗は、居城を播磨国にある室津城(現:たつの市御津町室津:別名室山城)に移し、三石城には城番を置くこととした。
 その後、政宗は弟達(宗景・国秀)と不和になり、宗景は備前国和気郡の天神山に居城・天神山城(岡山県和気郡和気町田土)を構え自立し、三石城は宗景の持城とした。もう一人の弟・国秀は、同国の瀬戸内海岸に富田松山城(岡山県備前市東片上)を構えた。
【写真左】大手門付近の石垣
 間道は本丸の西麓を取り囲むような配置となり、しばらく歩くと大手郭があり、左に登って行くと二の丸脇から本丸に向かう道があったようだが、現在は消滅している。

 この石垣もその付近に設置されたもので、さらに南下した位置にも石垣が見える。




 享禄5年(1532)長男政宗は、二人の弟たちを討伐するため、最初に三石城を落とし、次に国秀の富田松山城を攻略する。しかし、宗景とは勝負がつかず、双方は撤退した。

 天文6年(1537)12月14日、出雲の尼子晴久(詮久)軍が播磨国に入ってきた。これについては、 三木城(兵庫県三木市上の丸)でも触れているように、尼子氏が播磨に入ってきた理由の一つが、石山本願寺を創建して間もない証如(光教)からの催促による。
【写真左】南に下る大手道
 この道を下って行くと、三石の街の中に出てくる。








 その当時石山本願寺は、寺院といっても城郭に近い形式をとっており、堀・土塁・塀・柵などを駆使した要害堅固なものだったという。

 またさらなる門徒拡大を播磨国に計画していた証如にとって、当国守護であった赤松政村(義村の子で晴政ともいう)の存在は、目障りだったらしく、出雲から上ってきた尼子氏の力を借りることは大きな意味があった。

 参考までに記すと、それから15年後の天文21年(1552)、尼子晴久が安芸国の一向宗門徒の援護を受けて毛利元就を討とうとした際、証如はこれを拒絶している。このころから証如が毛利氏に接近している節がうかがえる。
【写真左】馬場跡
 大手門付近からさらに三の丸西麓に伸びる個所で、長さは約100m程度ある。
 なお、馬場跡の北端部にはおそらく馬の飲料水用と思われる池跡が残っている。



宗景の領国支配

 さて、再び浦上氏の方に話を戻したい。

 こうした状況下の中で、対立していた浦上兄弟が合議して尼子氏に対峙することはなく、兄政宗は尼子氏に与同し、弟宗景は地元国人領主を集め尼子氏に対峙した。

 宗景は後に毛利氏と同盟を結び、浦上氏は完全に分裂していくことになる。
【写真左】三の丸
 馬場跡の東に造られ、北から南に向かって次第に細くなった形で、ちょうど「タツノオトシゴ」のしっぽに似ている。
 長さは馬場跡とほぼ同じ100m前後ある。





 三石城が廃城となったのは、浦上兄弟の分裂が一番の要因だが、宗景が兄政宗亡き後は、播磨国南西部も含め、備前国及び美作南部を治めたことにより、宗景の居城・天神山城の必要性がさらに高まり、それにともなって三石城の存在意義が薄れ、次第に廃城となって行ったようだ。
【写真左】二の丸
 二の丸はさほど大きなものでなく、20×30m程度のもので、本丸側にさらに高くなった小郭を設けている。
【写真左】本丸跡
 南北に長く、楕円の形で長径60m、短径30m程度の規模となっている。
 この写真の奥(北側)には、居館があったといわれている。

【写真左】軍用石
 本丸の北側に残るもので、戦の際この石が使われたのだろう。
【写真左】本丸跡から南麓に三石の街を見る
 三石城本丸からは北方に多少の眺望は確保できるが、南方はあまり眺望は期待できない。

 唯一、南東部に木立の間から眺められる場所があるが、春夏の頃はおそらく無理だろう。

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