2018年7月17日火曜日

長生寺城(山口県下関市豊田町大字殿敷長正司公園)

長生寺城(ちょうしょうじじょう)

●所在地 山口県下関市豊田町大字殿敷長正司公園
●別名 長正寺城
●高さ H:90m(比高50m)
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 豊田種藤
●城主 豊田氏
●遺構 郭・土塁・犬走り等
●備考 神西氏追悼墓碑
●登城日 2016年2月10日

◆解説(参考資料 『日本城郭体系 第14巻』、HP「城郭放浪記」等)
 前稿向山豊田氏館・西殿(山口県下関市豊田町大字殿敷)でも触れたように、豊田氏が大内氏に対する防衛上の観点から、それまで拠った同町一ノ瀬の一ノ瀬城から豊田盆地の北部側に築いたのが長生寺城である。
 なお、当城は別名、長正寺城とも記録されている。
【写真左】長生寺城遠望・その1
 西側から見たもので、西麓には旧肥中街道に沿った国道435号線が走る。
【写真左】長生寺城遠望・その2
 前稿で紹介した東八幡宮から遠望したもので、北西方向へ直線距離でおよそ900m程の位置に所在する。
 東から南麓にかけて木屋川が流れ、西麓には木屋川の支流・山田川が濠の役目をしていたものと思われる。




大内氏による厚東・豊田両氏攻略

 南北朝期、13代種藤のとき、大内氏は弘世が勢力を広げてきた。この間の流れとしては、陶氏居館(山口県周南市大字下上字武井)の稿で述べているように、弘世は当初北朝方即ち尊氏派に属していたが、観応の擾乱が勃発すると、足利直冬に属し、さらには南朝方に転じた。
 この間、弘世は霜降城(山口県宇部市厚東末信)の厚東氏を攻略、次の矛先を豊田氏に向けた。延文3年(1358)のことである。
【写真左】長生寺城に向かう。
 写真にみえる道路は国道436号線で、奥の道路脇には「長正司公園 大藤棚」と書かれた看板が見える路地から向かう。


 
 
  この後、大内氏が豊田氏を攻め滅ぼしたという記録が見えるのは、『防長風土注進案』という史料に「…応永年中大内家の為に亡ぼし由古来より申伝候…」とあるのみで、これ以外に詳しい記録は残っていない。

 ただ、向山豊田氏館・西殿(山口県下関市豊田町大字殿敷)の稿で、13代種藤の庶子種治が御幣司に居を構え(東殿)、嫡子種秀が西殿を居館として14代を名乗り、その子・種世が15代を継嗣していることが記録されている。

 そして戦国期に至り、20代房種のとき大内義長(大内義長墓地・功山寺(山口県下関市長府川端)参照)から追放され、弘治2年(1556)4月自決するまで続いている。このことから、おそらく、最後の当主であった房種は、このとき大内氏から離れ、毛利氏に転じようとしていたのだろう。
【写真左】東斜面から上を見上げる。
 この日登城したとき、公園のエリア付近はご覧のように下草が刈られていた。

 ただ長生寺城を示すような案内板はなく、ここからは凡その見当をつけて主郭を目指した。



長生寺城の支城

 ところで、種藤が新たに長生寺城を居城とした際、種藤はこの他に数か所の支城を築いている。配置した場所は何れも当時の街道筋で、大内氏が進軍する可能性のあるルートを事前に予想して築いたものである。

 当時豊田地域で交差していた主な街道は、深川街道・道滝(滝部)街道・山口街道・小月街道・厚狭街道があった。そして、深川街道には大河内の郷に大河内城を、滝部街道には、八道(やじ)と鷹ノ子の境に鷹ノ子城を、萩原から美禰郡口の通路字城四郎峠にも築き、大手となる小月街道の菊川町方面入口付近には関所を設け、城戸とした。

 厚狭街道には稲光に稲光城、また前稿で旧城であった一ノ瀬城を廃止と記しているが、おそらくこの段階では支城として未だ使われていたものと思われる。
【写真左】郭か
 下草が刈られていた一番上部の位置で、おそらく郭として機能していたものと思われる。

 ここから先は整備されていないが、可能な限り上を目指す。
【写真左】帯郭か
 西側にあるもので、左側の一段下がった郭は奥の方(北側)まで繋がっている。
 このまま先に向かう。
【写真左】北の谷へ
 長正寺城は北から伸びてきた尾根の先端部で構成されているが、城域そのものは途中から西に向きを変えた尾根の丘陵先端部に当たる。

 このため、この写真の位置は、西に変えた尾根の北側にある谷に下っていく部分に当たる。
【写真左】上の段
 帯郭の段から上にある段に上がると、前方に低い土塁が奥まで繋がっている。
【写真左】奥に伸びる郭
 上の段から奥へは東方向に伸びている。削平は丁寧な仕上がりだが、その先からは雑木が多いため向かっていない。
【写真左】途中から振り返る。
 北側には最初に見た犬走りがここまで繋がっている。

 この先には向かっていないが、これだけ長いフラットな削平地があることを考えると、居館らしきものもあったのかもしれない。
【写真左】先端部から豊田の街並みを俯瞰する。
 南方を望んだもので、木屋川がこの方向に下り、菊川町に繋がる。中央に見える山は豊ヶ岳(382m)、残念ながら山城ではない。



神西三基の墓

 ところで、長正寺城の登り口付近には「神西三基の墓」が祀られている。神西とは、管理人の地元出雲の神西城(島根県出雲市東神西)の城主であった神西氏のことである。
【写真左】神西三基の墓
右から神西三郎左衛門国通(元通)、中央が小野高通、左が神西景通の墓で、いずれも供養塔と思われる。



 神西氏については、当該城の稿で既に紹介しているが、現地には次のように記されている。

 現地の説明板より

“神西三基の墓

神西三郎左衛門国通(元通)の墓


   戦国時代末期、神西城(出雲市東神西町)第12代城主であった神西三郎左衛門国通(元通)は、尼子氏の重臣として仇敵毛利氏と幾度となく激戦を交わしましたが、元禄9年(1566)、尼子氏の主城富田城が終えんすると一時毛利氏の軍門にくだりました。
 しかし、尼子氏再興に情熱を燃やす国通は、山中鹿之助らとはかり新宮党の尼子誠久の遺児勝久を擁し、わずか3千の兵力で上月城にたてこもりました。攻める毛利方は3万の大軍で城を包囲しました。
 勝算のない籠城戦を強いられた国通らは、勇猛果敢に戦いを挑みましたが、天正6年(1578)7月3日遂に上月城は終えんしました。 


 この時、国通は自らの命と引き換えに城兵の助命を嘆願し、並みいる軍士の前で堂々とみずから命をたったということです。
 平成9年7月6日、終えんの地上月城跡に国通(元通)の追討碑が建立されました。
 碑文は、西尾理弘出雲市長によります。420余年もたち、無償の愛で2千名もの人命を救ったとしてみとめられました。 


神西国通の妻・貴子姫

 彼女は当時国通と共に上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)にあって、国通が自刃する際、夫のあとを追うつもりだったが、国通に生きのびて尼になるように勧められ、乳母と共に京都に逃れ、夫の供養のため読経の生活を送っていた。
【写真左】神西貴子(孝子)姫佛果之塔
 三基の隣には神西国通の妻孝子の仏果塔も建立されている。





 しかし、美人であったがために、織田信長の家臣・不破将監に見初められ、再婚を強要されたが、拒み続け最後は乳母と一緒に桂川の露と消えたという。その後、おさいという下女も二人のあとを追い、誓願寺の貞安上人によって三人の墓が建てられたという。

 因みに、孝子は尼子家臣であった枡形城主森脇市正の姉に当たる。枡形城というのは出雲・熊野城(島根県松江市八雲町熊野)から意宇川を4キロ下った同町森脇にあった山城である。
【写真左】枡形(山)城遠望
 所在地 島根県松江市八雲町森脇
 南側から見たもの。


小野高通の墓
 雲州 神門郡神西邑 十楽寺開基(手書き) 


 神西家の初代は、鎌倉の御家人小野高通だといわれています。彼は承久の乱(1221)後、新補地頭として神西の地にやってきました。以来12代国通まで350余年、神西家は神西城の城主としてこの地方を治めました。城主は代々三郎左衛門を名乗っています。 

神西12代 

 高通―元通―景通―時景―貞景―清通―惟通―為通―廣通―連通―久通―国通 

神西景通の墓 


上月城終えんの後、母と共に京都に逃れ、その後山口村(豊田町)で帰農したと伝えられます。
          文責 西村酉典(なかよし) 平成10年10月18日”
【写真左】神西城近影
 現在進められている山陰自動車道の延伸工事で、橋脚が神西城の直下(南側)まで敷設され、西に向かって伸びるようだが、城域ではトンネルもしくは、切土による法面の姿も散見されるかもしれない。
 写真:南側にある五輪塔から見た神西城
撮影日 2018年7月。


 以上が現地にあった説明板のおもな内容だが、これを読むと、最終的に貴子が亡くなったあと、嫡男・景通が当地(豊田町)に赴いたということだろう。おそらく彼(景通)をこの豊田町に導いた人物がいたのだろうが、詳しいことは分からない。

2018年7月9日月曜日

向山豊田氏館・西殿(山口県下関市豊田町大字殿敷)

向山豊田氏館・西殿
   (むかいやま とよたしやかた・にしどの)

●所在地 山口県下関市豊田町大字殿敷
●形態 居館
●高さ 標高50m
●築城期 鎌倉時代後期
●築城者 豊田種藤
●遺構 土壇等
●登城日 2016年2月10日

◆解説(参考資料 HP『城郭放浪記』、日本城郭体系等)
 前稿に続いて豊田氏関連の史跡を紹介したい。向山豊田氏館・西殿(以下『西殿』とする)は、前稿の豊田氏館(山口県下関市豊田町大字殿敷)が所在する一ノ瀬城から北の峠を越えて北西に約3キロほど向かい、木屋川の支流・殿敷川を1キロほど遡った丘陵地の麓に所在する。
【写真左】豊田氏西殿付近
 周辺部は現在宅地が点在し、館跡付近は更地になっているが、雑草が繁茂し部分的に湿地帯となっているため、これ以上奥には入っていないが、この奥のあたりにも遺構が残っている(後段参照)。


現地の説明板より

“向山(むかえやま)豊田氏館跡(西殿) 

(1) 豊田氏居住の経歴 
 豊田氏は応徳年代(1084~86)関白藤原道隆より出で、輔長(すけなが)が初代で2代輔平の時一ノ瀬に定住し豊田氏を称した。 

 鎌倉時代の花園天皇の頃(1308頃)、種藤(たねふじ)(後に13代となる)は、一ノ瀬の12代種長・種本父子と別れて、この殿敷を知行地として分立し、房種まで8代、約250年間居を構えたのがこの地である。 
 種藤の庶子種治は御幣司(ごへいじ)に居を構え東殿(ひがしどの)と称し、嫡子種秀は14代西殿と称した。 

 種秀の後、種世・種家兄弟のうち、種家は伊予の二神島に移り二神氏を称し、種世が豊田氏15代となった。 
 後、代々継いで20代房種の時、大内義長から追放され、翌弘治2年(1556)4月、自決して豊田氏は滅亡した。 

(2) 地名 
 豊田氏の住居跡であるから、古くは「豊田殿屋敷」といわれ、略されて「殿屋敷」となり、更に略されて「殿敷」となって村名にもなった。 
【左図】案内図
 説明板に付図されていた配置図だが、下方が北を示す配置になっていたのを管理人によって上方を北に示す図に変更している。
 また、文字などがかすれていたため、管理人によって加筆修正を加えている。

 それぞれの箇所については、下の説明文を参照していただきたい。








区域

 東側の山麓より、西は外堀(安白川)沿線まで。 
 南は水車橋より、御幣司入口まで。北は木屋川土堰までの丘陵地。

(1)水車橋
(2)大堰
(3)土堀(昭和30年代まで一部残っていた)
(4)堀の段
(5)諏訪神社跡(現在西八幡宮に移転して現存)
(6)庭跡 (右)境内庭で池の中島に弁天が真鶴れていた
(ママ)と言われている)
(7)毱の庭(西殿と東殿が蹴毱を楽しんだ所と言われている)
(8)大所(東殿の館跡)
(9)祇園社跡(一ノ瀬居館より移転、現在楢原に現存)

平成5年(1993)4月 ◇日
              下関市教育委員会
               寄贈者
                                  広島市佐伯区  二神種弘氏“

【写真左】道路側から遠望する。
 現地は殆ど手つかず状態で雑種地のような光景になっている。

 奥に見える林の中には「毱の庭」や、さらに東方に「東殿(大所)」があった。



 西殿の範囲は掲示した案内図全体を指すものだが、写真で示した箇所は(4)の堀の段付近に当たる。

 説明板には、「東側の山麓より、西は外堀(安白川)沿線まで。 南は水車橋より、御幣司入口まで。北は木屋川土堰までの丘陵地」、とあるので、南西から北東方向に長径900m、短径70~80mと細長く、その面積は凡そ6万㎡となる。
 ところで、西(西端)は外堀(安白川)沿線までとあるが、この安白川は現在の殿敷川で、木屋川の北に大堰を設け、そこから引きこんでいる。

豊田氏菩提所知行寺跡

 西殿より北西方向に400m程向かうと、木屋川本流に達するが、この位置の南岸には豊田氏の菩提寺・知行寺があったとされる。
【写真左】豊田氏菩提所知行寺跡
 現地は大幅に改変され遺構は全く残っていない。
 道路脇にご覧の石碑と説明板が設置されているのみである。


現地の説明板より

“豊田氏菩提所知行寺跡

 豊田氏の13代長門守種藤は南北朝時代の中頃(1350年代頃)、一ノ瀬から殿敷の向山に移った。
 それと共にこの地点に豊田氏の菩提寺知行寺を建立した。この前の路面の下はその寺院のあった所で、種藤以降、弘治2年(1556)の五郎房種までの、各代々の墓石があった。
    下関市教育委員会”
【写真左】脇に残る墓石の一部
 宝篋印塔の上部になる隅飾りと相輪部だけが残っている。
【写真左】周辺部
 前を走っている道路は県道34号線で、下関の市街地に繋がり、ここから450m程向かうと、右に県道435号線が接続し、豊北町に向かう。
 また、旧街道といわれのが下段の肥中街道(下段参照)である。


肥中街道

 肥中(ひじゅう)街道というのは、現在の山口市役所南の道場門前を起点とし、西へ美祢市~豊田町を経由し、豊北町(下関市)の響灘(日本海)に面した肥中港を終点としていた旧街道である。
【写真左】肥中港
 所在地 山口県下関市豊北町大字神田
 奥行500m、幅100m余りの狭い湾を利用して造られた港で、現在港には数十の漁船が停泊している。
 周辺部はリアス式海岸で、南には特牛(こっとい)港や、角島大橋などがある。
 写真は西側から見たもの。
撮影日 2018年7月16日


 往時山口の大内氏が中国・朝鮮との貿易を盛んに行った際の陸路の一つで、この街道を開設したのは、大内盛見(1377~1431)(益富城(福岡県嘉麻市中益)参照)といわれている。
 総延長凡そ60キロほどで、豊田は南方の小月(下関市)方面との分岐点になる。
【写真左】「肥中街道」と書かれた看板
 知行寺跡の反対側(北側)には木屋川が流れているが、この川を横断する、即ち渡河するルートが肥中街道の一つである。
 ここから降りて川岸まで向かう。
【写真左】川岸に立つ。
 この辺りは岩塊が露出し、川幅も狭くなっている。写真にもあるように手前には大きな岩があり、川向いにも石垣のようなものが見える。

 大内氏時代には橋が架けられていたのかもしれない。
なお、対岸に渡ると楢原地区に至る。


東八幡宮と西八幡宮

 ところで冒頭で紹介した西殿の配置図には描かれていないが、薄緑で着色した南西端には東八幡宮が祀られている。
 縁起などは不明だが、西殿のエリアに入っていると思われるので、豊田氏と何らかの関わりのあった社だろう。
【写真左】東八幡宮・その1
  傾斜のある階段を登っていくと、ご覧の拝殿が建っている。
【写真左】東八幡宮・その2
 本殿












 これと相対する神社が、豊田氏時代の諏訪神社を移転した西八幡神社である。丁度この東八幡宮の参道を登りきったところから北西方向に目を転ずると、赤い屋根で覆われた西八幡神社が遠望できる(下段参照)。
【写真左】東八幡宮から西八幡宮を望む。
 東八幡宮の鳥居下参道から奥にほぼ直線方向に見ると、西八幡宮が鎮座しているのが確認できる。

 こうしたことから、東西両八幡宮は殿敷という豊田氏の本拠地を両側から挟むような配置となっている。
【写真左】東八幡宮から長生寺城を遠望する。
 長生寺城は次稿で紹介する予定だが、種藤の代にそれまでの居城であった一ノ瀬城を廃止し、大内氏に対する防衛拠点として木屋川の西岸に長生寺(長正司)城を築いた。

2018年7月5日木曜日

豊田氏館(山口県下関市豊田町大字殿敷)

豊田氏館(とよたしやかた)

●所在地 山口県下関市豊田町大字殿敷一ノ瀬
●形態 居館
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 豊田氏
●城主 豊田氏
●遺構 ほとんど消滅
●備考 一ノ瀬城
●登城日 2016年2月10日

◆解説(参考資料 『益田市誌』、HP 『城郭放浪記』、『日本城郭体系』等)
 山口県の西部を南北に流れる木屋川(こやがわ)の中流域には豊田町がある。現在下関市と合併しているが、「ホタルと出湯の里」として親しまれている。
 豊田氏館は、その木屋川支流の日野川沿いに築かれた館である。
【写真左】豊田氏館跡・その1
 西側から見たもので、この石碑の奥にある田圃が館跡といわれている。
 現在は土地改良されたため往時の面影はほとんどなくなっているが、この付近にあったといわれる。
 石碑には「豊田大領 豊田氏館跡 昭和41年3月建立」と筆耕されている。

 大領(だいりょう)とは、大宝元年(701)の大宝律令によってできた郡制に基づく郡司の最高職名で、その下には少領・主政・主帳がある。
 因みに、大領の別の呼称としては、「おおみやつこ」というものもあり、管理人の出雲国では延暦17年(798)、同国意宇郡の大領(おおみやつこ)の国造兼任を禁じる、という記録も残されている。


現地の説明板より・その1

“豊田氏の館跡

 豊田氏の2代目の輔平・3代輔行等が一ノ瀬に定住し、豊田郡司となった。
 大内、厚東氏と並ぶ防長の大豪族の一つである。居館のあった「広畠」は城山の東側のふもとの丘陵地で、すぐ上の山谷を「館ヶ浴」といい、隣地を「オビイ屋敷」といった。”
【写真左】【写真左】豊田氏館跡・その2
 同じく西側からみたもので、ここから300m程奥に向かったところには、館ヶ谷があり、椿の名所がある。

 また、写真奥の山を越えると南北朝期に当初長門探題側に属した豊田氏が宮方と戦った大嶺(美祢市)に至る。
【写真左】一ノ瀬城遠望
 豊田氏館の西側には一ノ瀬城が所在する。別名「豊田城」「松尾山城」「長谷山城」ともいい、豊田氏累代の居城といわれている。一ノ瀬は豊浦郡南部との出入口に当たり、現在の城戸といわれる地名もこのときできたものといわれている(後段参照)。
 なお、この日は時間がなく登城していないが、HP『城郭放浪記』氏が当城をアップしておられるので、ご覧いただきたい。


現地の説明板より・その2

“豊田種長追善供養板碑

 関白藤原朝臣道隆4世の孫輔長が土着し是れより豊田を名乗る。
 中世の豪族として、平安の中期より約300余年豊田を本拠として豊浦郡北部・大津郡にわたって勢力を保ち、一ノ瀬広畠に館を構えた11代伊賀守種貞、12代種長、13代種藤の鎌倉中期より南北朝中期の間は豊田氏の全盛であった。
【写真左】豊田種長追善供養板碑
 豊田氏館から少し南に降った位置の道路脇に建立されている。







 本碑は、観応3年(1352)種長が死去し、遺骸は長願寺に埋葬されたのちに供養板碑が建てられ、中央の二文字のキーリック(弥陀)カーマン(不動)の二文字の梵字が刻まれ、下方には人名の痕跡がある15,6人の殉死者の名前らしい。
 豊田氏の文献は、極めて稀な中にあって重要なものである。
 昭和51年3月31日町指定有形文化財に登録された。
  平成12年3月
      下関市教育委員会”

豊田氏

 豊田氏については、残念ながら詳細な記録はあまり残っていない。
 説明板・その2に、関白藤原朝臣道隆4世の孫輔長が当地(豊田)に土着して豊田氏を名乗ったと記されている。関白藤原道隆は平安時代中期の公卿で、藤原北家、摂政関白太政大臣藤原兼家の長男である。冷泉天皇から円融・花山、そして一条天皇の4代を補佐した。
【写真左】追善供養板碑脇の石碑
 板碑脇には筆耕文字が劣化した石碑が祀られていた。劣化していて判読は困難だが、「本堂……」という文字が読めたので、おそらくこの場所は豊田氏に関わった寺院の一つ長願寺跡を示すものだろう。

 因みに、当時一ノ瀬城に向かう道には北・西・南の三方があり、それぞれの道中には、万福寺・明見寺・満願寺(北方側)、勇徳寺・福林寺(西方側)、そして板碑が設置された南方側には、後真院・長谷観音、及び当該地にあった長願寺という寺院が建立されていた。
 そしてこれらの寺院は有事の際、召集した軍兵の屯所に充てられた。


 そして、この道隆の4世の孫が輔長とあるが、傍証となる具体的な史料も残っていないようだ。ただ、出典ははっきりしないものの、輔長が豊田氏を初めて名乗ったあと、2代輔平は豊田・大津両郡の領主となり、3代輔行は豊田大領、4代輔継は豊田惣領、そして5代種継は再び豊田大領とされている。

 次の6代については記録がないためはっきりしないが、『陽明文庫所蔵文書』応安2年(1167)正月21日付の太政官符によれば、豊田種弘が豊田郡大領に補任されていることが記されている。この種弘は輔長から数えて7代目となる。
 
 文永11年(1274)10月、元軍が筑前(九州)に来襲(文永の役)した際、11代伊賀守種貞は、同町一ノ瀬にあった山砦を堅固に修築したといわれている。これが後の一ノ瀬城である。種貞は地元では今でも勇将として語り継がれ、豊田氏といえば、伊賀守がその代名詞となっている。
【写真左】千人塚
 追善供養板碑の反対側(西方)の田圃を見ると、畔の奥に千人塚が祀られている。

 由来などははっきりしないが、おそらく南北朝期のものだろう。
 


 ところで、霜降城(山口県宇部市厚東末信)を本拠とした厚東氏もまた豊田氏と同じく防長の大内氏をはじめとする豪族の一つであった。

 当稿でも少し触れているが、鎌倉執権体制の瓦解にともなって、長門探題北條時直は宮方であった石見の吉見・高津両軍(高津城(島根県益田市高津町上市)参照)からの攻撃を受けることになる。このとき時直は厚東氏及び豊田氏らにその防戦を命じている。正慶2年・元弘3年(1333)3月のことである。
【写真左】追善供養板碑側から一ノ瀬城を遠望する。
 写真右側に追善供養板碑があり、左側の田圃の中に千人塚が祀られている。





 同年3月29日、両軍は大峰(現:山口県美祢市大嶺町)で対峙した。南側に陣した探題側は厚東武実をはじめ、豊田氏の主だった面々には、豊田胤藤(種藤)・種本・種長らがいた。この時の緒戦は吉見軍の活躍で、厚東武実・豊田種藤を敗走させ、その後高津長幸らの熱心な誘いを受けた厚東氏は宮方(後醍醐天皇派)に恭順の意を表した。
【写真左】大峰周辺
 写真は現在の美祢市大嶺町の街並み。

 南北朝期には同町を流れる厚狭川(あさがわ)を挟んで武家方と宮方の激しい戦いがあったものと思われる。



 なお、豊田氏のその後の動きについてははっきりしない点が多いが、種藤もその後河越安芸守・坂田・右田の諸軍とともに宮方に属したとされている。

2018年6月12日火曜日

吉川興経館(広島県広島市安佐北区上深川町)

吉川興経 館(きっかわおきつね やかた)

●所在地 広島県広島市安佐北区上深川町
●形態 居館
●築城期 天文16年(1547)
●城主 吉川興経
●備考 吉川千法師墓・豊島兄弟墓
●登城日 2016年2月5日

◆解説(参考文献 『千代田町史・通史編』等)
 吉川興経の館跡は以前紹介した木之宗山城(広島県広島市安佐北区上深川町)の北東麓に所在する。
【写真左】吉川興経の墓
 吉川興経居館跡に興経の墓が建立されているが、後段でものべているように、居館跡とされる敷地も大変に狭い。




現地の説明板より

“吉川興経居館跡

 吉川氏は鎌倉時代から山県郡大朝町を本拠とした有力武士で、鎌倉時代には、小早川氏とともに戦国大名、毛利氏を支え、山陰地方の支配に当たった。享禄4年(1531)、吉川興経は毛利元就から小河内(現安佐町)などの地を与えられたが、出雲の尼子氏の配下となったため毛利氏と対立した。

 元就は天文16年(1547)、興経をこの地に幽閉し、元就の二男元春を吉川家に入れることに成功した。そして天文19年(1550)、元春を小倉山城(大朝町大字新庄)へ入城させたのち、この居館を襲撃させ、興経とその子千法師を殺害した。興経の遺骨はそのままこの地に葬られ、墓所となっている。

【左図】「吉川 史跡案内図」
 現地に案内図が設置してあるが、大分劣化していたため、管理人によって加筆修正を加えている。
 吉川興経居館跡・墓及び、手島五人兄弟の墓はいずれもJR芸備線の上深川駅の近くにある。



吉川氏尼子・毛利氏がり

 安芸・吉川氏については、駿河丸城(広島県山県郡北広島町大朝胡子町) の稿でも述べたように、鎌倉時代末期の正和2年(1313)、吉川経高が駿河国(静岡県)から安芸国山県郡大朝町(現北広島町)に下向し、その後小倉山城(広島県山県郡北広島町新庄字小倉山)に移るまでの凡そ230余年にわたって当地周辺を支配した一族である。
 安芸・吉川氏の祖といわれている経高から数えて9代となる当主が興経である。

 興経の生誕年は永正5年または永正10年(1518)といわれており定かでない。父は元経で、母は毛利弘元(多治比・猿掛城(広島県安芸高田市吉田町多治比)参照)の娘といわれている。すなわち、元就の甥に当たる。
【写真左】吉川氏と毛利・尼子氏の関係
 元春(毛利)が吉川家に養子に入る前の関係図で、興経の母は元就の妹(姉とも)に当たり、元就の妻は興経の祖父・国経の女で、興経の叔母に当たる。



  ところで、説明板にもあるように、興経が享禄年間に尼子氏の配下となって毛利氏と対立した、と記されているが、吉川氏は興経の曽祖父・経基の代には、本国安芸をはじめ、石見、出雲両国の領主たちと積極的に婚姻関係を結んでいる。

 具体的には、本国安芸では、笠間・綿貫・三須・小河内の諸氏、石見国では、佐波・波根の諸氏、そして出雲では尼子氏と多賀氏である。特に注目されるのは、経基の娘(吉川夫人)が尼子経久の正室として嫁いでいることである。
【写真左】腹切石
 居館手前に残るもので、攻撃を受けた吉川興経は奮戦したがかなわず、屋敷内にあったこの石の上で腹を切って自害したと伝えらえている。



 毛利氏と婚姻関係を初めて結んだのは、次の国経の代からで、石見では小笠原・高橋・福屋などがあり、特に小笠原氏とはかなり以前から婚姻関係を結んでいた。そして、国経の娘が元就の正室として嫁いでいる。つまり、興経の叔母が元就の妻である。

 吉川氏が興経に至るまで、大内氏をはじめ、尼子氏や毛利氏とこうした婚姻関係を結びながら命脈を保ったものの、しかし興経の代にると、彼の独断専行や、元就の台頭によって次第にそのバランスは崩れてきた。
【写真左】吉川興経居館跡
 周囲は一般民家の建物に囲まれ、周囲が塀で囲まれている。
 塀で囲まれた跡が居館跡ということだが、中は予想以上に狭く、この中に興経の墓が祀られ、居館跡というより霊廟のような趣だ。

 このことからおそらく当時はもう少し大きく、隣接する民家も居館跡の敷地だったのかもしれない。


興経と吉川家臣団の軋轢

 興経の変転ぶりは激しかった。有田合戦のときは元就と共に戦い、尼子氏による郡山城包囲合戦では尼子方につき、尼子が敗走すると、今度は大内氏につく。そして富田月山城攻めでは、途中から再度尼子方についた。
 こうした興経の行動に対し、大内氏は天文12年(1543)8月、吉川氏の所領全てを没収、これらを毛利氏に与えた。しかし、元就は大内氏に興経の赦免を願い出たため、興経が出雲から帰国できたという(『陰徳太平記』)。
【写真左】居館と興経の墓
 ごらんのように、居館の敷地は石を積み上げた墓のみが残っている。








 このように、当初元就は興経の行動に対し、ある程度寛大な対応をしていた。これは興経が元就にとって甥であったことも働いだのだろう。

 小倉山城に戻った興経であったが、その後彼は大塩右衛門尉という一人の家臣を重用し過ぎ、他の譜代家臣から反感を買い、家臣団との軋轢を深めていった。そしてその施政は横妨極まるもので、ついに叔父の吉川経世をはじめとする面々は、大塩の館を急襲し右衛門尉一家を殲滅させた(『陰徳太平記』)。
【写真左】吉川家系図
 この頃軋轢が生じたのは、同家(吉川家)では伝統的に一族・重臣の発言権が強かったことも影響しているのかもしれない。

 興経が家督を継いだとき、すでに元経は死没しており、祖父国経が後見役を務めていたものの、天文13年(1544)に亡くなると、興経は独断専行し始める。


興経の隠居を巡る毛利氏との交渉

 この後、彼らは興経を隠居させ、元就の二男元春を養子として吉川家の家督を継いでもらうことを元就に申し入れた。元就はこれに対し、当初応じなかったが、叔父の経世をはじめ市川経好・今田経高ら一族の連判起請文が届くと、元就はこれに同意し次男の元春を吉川家に送り込むことを決意した。
【写真左】近くにあった石垣
 居館跡から少し東の方へ向かった、JR芸備線脇に残る石垣。
 上には民家が建っているようだが、この石垣は周辺の民家のものとは大分趣が違う。
 興経居館時代の石垣か、又はそれを再利用したものかもしれない。


 当然この計画は興経には内密で進められ、元春が吉川家を継ぐ前年の天文15年(1546)7月ごろには次のような交渉内容があったとされる。
  1. 興経の子・千法師は元春のもとに引き取る。
  2. 元春に男子、興経に女子が生まれたら二人を結婚させる。
この2点が合意内容の基本となっていた。さらに、経好ら重臣はこれらに加えて、次の6項目を提案している。
  1. 日野山城(広島県山県郡北広島町新庄)(このころ興経が小倉山城から日野山城に移る準備をしていた)を渡すので、元春殿に登城してもらいたい。
  2. 但し、日野山城を何の代償もなく渡せば、世間では「城を追払われた」などと陰口をたたく者がいるだろうから、興経を隠居させるにあたっては、隠居分の所領を確保してほしい。
  3. 計画が成就した際、以前確約した「与谷城(※)は森脇祐有に与える」との話を今一度確認しておきたい。                         ※与谷城(余谷城:北広島町寺原字狼谷)
  4. 興経の隠居地については、できれば有田にしていただきたい。
  5. 隠居分としては、与谷城に付属する所領を充てていただきたい。これは将来城を持たせるときの備えである。
  6. 寺原へ退去した者も、寺原から当方(経世派の籠る与谷城か)に来た者も、ともにそれぞれもとに帰す(詳細は不明)。
 などとなっている。この後も度々交渉は断続的に行われ、最終的には興経自身も元就をはじめ隆元・元春兄弟に書状を送り、養子契約が成立した礼を述べ(『吉川文書』)、さらに天文16年(1547)2月には、一度は承諾した態度を示している。
【写真左】豊島(手島)兄弟の墓・その1
 興経居館跡の近くには、手島兄弟の墓が祀られている。







現地説明板より

“豊島(手島)兄弟・墓

 天文19年(1550)毛利元就は、熊谷信直・天野隆重に命じて、吉川興経を攻撃させた。不意を突かれた興経勢は、豊島5人兄弟(内蔵充興信、又四郎満武、又五郎弘光、又七郎頼達、又八郎重康)などが奮闘したがかなわず、ことごとく討死、または自害して果てた。

 豊島5人兄弟の墓は、当時は、いまより少し左の方に一つ一つ散在していたが、明治18年5月、第十一世孫岩国豊島諒がここに5人墓として建碑した。
    出展 藝藩通志、ふるさと高陽
    平成26年(2014)2月
    制作者 てくてく中郡古道プロジェクト・狩留家郷土○会
    協賛 株式会社 研創   (以下略)”
【写真左】豊島(手島)兄弟の墓・その2
 駐車場の一角に祀られているが、生垣で囲われているので意外と分かりにくい。





 ただ、興経に与える隠居分を巡って両家(吉川・毛利家)の思惑が一致していなかったようで、その後毛利側は元就・隆元・元春父子の3人の起請文によって次のような提案を伝えている(『古代中世史料編』)。
  1. 興経は毛利領に隠居させる。
  2. 興経に異心がなければ、我々も末代まで違背しない。
  3. 興経に与える隠居分は、興経の死後は子の千法師に与える。
  4. 大内氏から要求されても、興経を渡すようなことはしない。
  5. 興経を備後に送り出して、再び尼子氏と手を結ばせるようなことはしない。
 とあり、とくに3.~5.は吉川氏からの疑念に応えたものである。
 毛利側からのこれら起請文に対し、興経は承諾・誓約した。そして翌閏7月、交渉を担った吉川経世・経好、今田経高の3人も血判起請文を毛利家に提出し、異心無きことを誓った。
【写真左】千法師の墓・その1
 興経の嫡男千法師の墓は居館跡から東へ直線距離でおよそ400m程向かった椎村山の西麓に祀られている。


興経の隠居と
      元春の吉川家相続

 『陰徳太平記』によれば、興経の隠居地は深川(広島市安佐北区)とされ、8月1日(天文16年)、手島内蔵允ら(豊島兄弟)わずかの家臣に伴われて新庄(北広島市)をあとにしたという。そして、興経は新庄から遠く離れた毛利領の深川に幽閉され、元春が吉川家を相続する手続きが完了した。

 最終的に大内氏がこれを正式に承認したのは、天文18年4月(『吉川家文書 430号)とされ、興経が築城開始して間もない日野山城へ元春が入城するのは翌19年2月とされている。
【写真左】千法師の墓・その2
 興経の妻については史料がないため不明だが、興経の嫡男千法師の墓は居館から離れたこの山中に建立されている。
 襲撃を受けたとき、幾人かの家臣らが千法師を引連れ逃亡を図ったものの、この場所で囚われ、殺害されたと考えられる。

 因みに、この千法師と言う名前は、父興経も幼少期に名乗っているもので、殺害されたときはおそらく元服前の年齢だったのだろう。


興経父子の殺害

 結局、興経の隠居場所は、彼が望んでいた有田(吉川領)でなく、毛利氏が提案した深川となっている。実質上興経を拘束したいという毛利氏側の意向が半ば強引に決まったわけである。

 この間の興経の心情を示すものとして、天文16年2月から7月の間に、花押を二度も変えていることが挙げられる。また、退去して間もないこの年の8月17日、興経は元就に下記の書状を送った。
 「…もし私があなたに恨みを抱いて不穏なことを企てているなどという者がいたら、私のもとに送っていただきたい。私の異心のなき本心を言ってやります。…」
 この書状から想像するに、興経は幽閉されたあとも一縷の望みを持っていたのだろう。しかし、毛利氏の対応は次第に厳しくなっていった。
【写真左】中郡古道(なかごおりこどう)
 千法師の墓の脇には中世の古道といわれる中郡古道が横断している。

 この道は、毛利輝元が広島城築城のために、天正17年(1589)白木町に本拠をもっていた井原氏(北田城(広島県広島市安佐北区白木町井原)参照)に命じて、吉田郡山城から広島(城)への資材輸送・連絡道として整備させたもの。


 さて、興経が事実上の幽閉をされた天文16年から3年経った天文19年2月、毛利元春は日野山城に入城、姓を毛利から吉川と替え、吉川元春と名乗った。それから7か月後の同年9月、元就は深川に、元春の舅で高松山城(広島県広島市安佐北区可部町)の城主・熊谷信直、及び財崎城(広島県東広島市志和町志和堀)の城主・天野隆重らを送り、興経・千法師を殺害した。ここに安芸・吉川氏の正統は断絶した。
【写真左】千法師の墓入口付近から上深川の街並みを遠望する。
 千法師の墓から少し下がった位置の高台には、(株)研創という会社があるが、そこの先端部から見たもの。

 興経館跡の南側にはJR芸備線と並行して県道37号線が走り、北側には三條川が流れ、同川はこの先で太田川に合流し、広島城に繋がる。


 残された記録からだけで興経の心情や、毛利方の対応を詳細に見極めることは難しいが、どちらにしても元就としては、丁度このころ三男の隆景を小早川家に養子として送り込む背景もあったことから、最終的には毛利氏による版図拡大を目指すため、安芸・吉川氏の根を断つ必要があったのだろう。
【写真左】木ノ宗山城遠望
 上深川の興経館跡から南西に目を転ずると、木ノ宗山城(木之宗山城)が見える。

 木之宗山城(広島県広島市安佐北区上深川町)の稿でも紹介しているが、当城の城主として吉川興経や、奥西綱仲の名が古記録に見えるとしている。
 もしも、幽閉されていた興経が実際に当城の城主となっていたなら、これが毛利氏による襲撃・殺害の最大の理由となるだろうが、監視され続けていた者が城を持つことは不可能だろう。


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