2020年1月8日水曜日

藤尾城(香川県高松市香西本町465 宇佐神社)

藤尾城(ふじおじょう)

●所在地 香川県高松市香西本町465 宇佐神社
●指定 高松市指定史跡
●高さ 標高20m(比高18m)
●築城期 天正3年(1575)
●築城者 香西佳清
●形態 平山城(海城)
●備考 宇佐神社
●遺構 郭等
●登城日 2016年11月12日

◆解説(参考資料 「高松市埋蔵文化財調査報告書第 117集 2008年」等)
 藤尾城は以前紹介した香西氏の居城・勝賀城(香川県高松市鬼無町) から北東方向へ直線距離1.6キロほど向かった現在の宇佐神社に築かれた平山城である。
【写真左】藤尾城遠望
 宇佐八幡宮(藤尾城)の入口付近を南側から見たもので、中央に鳥居が見える。





現地の説明板より

”市指定史跡 藤尾城跡

  嘉禄年間(1225~27)初代香西資村(すけむら)は勝賀城を詰城、佐料城を居館としてきた。しかし、18代佳清(よしきよ)のとき、土佐の長宗我部元親の讃岐侵攻に備えて、北に海の砦となる芝山城、南の守りに作山城があり、その中央に西の山を背に鎮座する宇佐八幡宮の藤尾山に天正3年(1575)に新城を築き始め、天正5年(1577)に完成を待たずして佐料城から藤尾城に移ったと伝えられている。
【左図】平賀氏関連の史跡案内図
 現地に設置してあったものを管理人によって加筆修正したもの。

 左に平賀氏の詰城勝賀城があり、その東麓に北から芝山城、藤尾城、作山城が配置されている。
 なお、佐料城は左図には描かれていないが、作山城のさらに南方に所在する。



 城は丘陵頂部の八幡宮が所在する部分が本丸、一段下がった西側の平坦地は、二の丸的な様相を呈している。
 また、丘陵周辺には「堀の内」「北の丸」などの地名が残り、地割から城の平面形は変形五角形を呈していた可能性がある。

【写真左】芝山城から藤尾城を遠望する。
 芝山城(香川県高松市香西北町芝山) 芝山城は、藤尾城の北方に築かれた海城である。


【写真左】入口付近
 手前には藤尾城の標柱及び、説明板が設置されている。






 

 天正10年(1582)8月の長宗我部元親軍の攻撃で「西光寺表の戦い」「天神郭の戦い」等の激戦が伝えられているが、香西軍は惜敗し、西讃の香川信景の仲介により和睦。しかし、天正13年(1585)の豊臣秀吉による四国攻めで、長宗我部氏は敗れ、香西氏の藤尾城も廃城となった。
 慶長7年(1602)、城跡には、再び宇佐八幡宮が遷座された。

    高松市教育委員会“

【写真左】藤尾城(宇佐八幡宮)略図
 現地に設置されているもので、車道のコースが描かれているが、実際には大変幅員が狭いので、あまりお勧めできない。

 幸い、南側の道路に数台当社参拝用の駐車スペースが設けられているので、そちらの方がいいだろう。

 藤尾城は長径(東西)150m×短径(南北)110mほどの大きさで、比高は20mを切る。


藤尾八幡宮創建

 藤尾城の前身は説明板にもあるように、元は嘉禄年中(1225~27)に当時の阿野・香川郡の領主であった讃岐藤原氏香西左近将監資村が豊前国の宇佐八幡宮から勧請した藤尾八幡宮である。

 ところで、2008年に行われた発掘調査によれば、この場所から弥生土器などが発掘され、その中には特殊器台・特殊壺などがあり、これらのことから同時代の弥生墳丘墓など遺跡があったことが知られている。
 また、当寺は藤尾城の麓まで瀬戸内が接近しており、件の遺物が吉備内でも分布していることから、このころの生活文化圏が瀬戸内を介して本土(岡山方面)まで広がっていたことを示している。
【写真左】神門
 当城は藤尾城が廃城になった後、再び宇佐八幡宮として再建されたため、城郭としての遺構はほとんど残っていない。

 このため、本稿ではほとんど当社関連の写真のみになることをあらかじめお断りしておきたい。


 さて、香西氏の詰城は、上掲した通り勝賀城で、承久年間(1219~22)に築城されているので、藤尾八幡宮は当城が完成したのち資村が建立したことになる。おそらく平時の居館とされる佐料城もほぼこの時期に築城されたものと思われる。

 なお、管理人はこの佐料城は登城していないが、HP『城郭放浪記』氏がすでに紹介しておられるのでご覧いただきたい。当城は別名讃綾城とも呼び、平城形態の城郭で、藤尾城から南へ1.5キロほど向かった佐料地区に所在した。現在は改変されてわずかに濠跡らしきものが残るのみである。
【写真左】拝殿
 藤尾城廃城のあと、慶長7年に遷座されているが、現在の当殿はその後何回か改築されたものだろう。



 

藤尾城の築城

 藤尾城の築城は、長宗我部元親の讃岐侵攻に備えて行われたもので、当城のほか、海岸部にも芝山城という海城も併せて築いた。この縄張配置を考えると、長宗我部軍が瀬戸内航路を使って進軍してくることを予想して築いたものと推察できる。

 そして香西氏としては長宗我部軍の軍船を想定した最初の防御城を海に面した砦・芝山城とし、それが落とされれば、次にはこの藤尾城で防戦するという計画だったと考えられる。
 そして、藤尾山城から南東に250mほど離れたところには作山城があり、当城には烽火場があったと伝えられていることから、これを佐料城に伝える役目があったと推察されている。
【写真左】幣殿
 拝殿から向かって左側の幣殿部分。
奥行が予想以上にある。






香西氏関連の城郭

 勝賀城を詰城とした香西氏関連の城郭は、このほか周辺部に点在しているが、ここで形態別にまとめると次のようになる。
  • 《山城》   勝賀城、鬼無城、亀水城、黄峰城
  • 《平山城》  佐料城、佐藤城、筑城城、飯田城
  • 《平城》   植松城、中山城、本津城
  • 《海城》   藤尾城、作山城、芝山城
【写真左】本殿
 おそらくこの辺りに本丸を置いていたのだろう。
【写真左】帯郭跡か
 神門を潜ると、目の前を道路が横断している。

 藤尾城の形態から考えて、同心円状の郭が周囲を何段かに取り囲んでいたと思われるので、この神門の前を通る道路も当時は帯郭として機能していたのかもしれない。
【写真左】境内縁
 比高があまりないためか、現在残る崖は険しいものとなっている。
【写真左】一部崩落した崖
 人為的な切岸と思われるが、この辺りは崩落している。

【写真左】塩竃神社
 この近くに下笠居地区生島の浜(現運動公園)があり、寛政2年ごろ藩命によって塩田が開発され、当該地区(小坂の地)に勧請された。

 その後、昭和30年代に塩田の廃止により崇敬者が減少し、当社護持困難となり、平成17年に宇佐神宮境内に末社として本殿を建立奉斎したとされる。
【写真左】香西神社
 祭神は、香西左近将監資村をはじめ、十余柱の先賢と、西南戦争から大東亜戦争に至る戦役で祖国に捧げた二百三十余柱の英霊が合祀されている。

 元は昭和10年、香西小学校校庭の一遇に忠魂社として建立され、その後昭和20年に香西神社と改めこの地に移転修築したもの。

2020年1月3日金曜日

由佐城(香川県高松市香南町由佐字中屋)

由佐城(ゆさじょう)

●所在地 香川県高松市香南町由佐字中屋
●別名 井原城
●形態 平城
●築城期 南北朝期
●築城者 由佐氏
●城主 由佐氏
●遺構 土塁等
●備考 香南歴史民族郷土館
●登城日 2016年11月12日

解説(参考資料 HP『城郭放浪記』等)
 由佐城は以前取り上げた王佐山城(香川県高松市西植田町) から南西方向約5.5㎞ほど向かった香南町由佐に築かれた平城である。
【写真左】模擬天守
 模擬天守風のこの建物は、香南町歴史民俗郷土館で、由佐城跡に建てられた近世の建築物。




現地の説明板より

‟由佐城跡

 建武3年(1336)足利尊氏に従って京都東寺で戦死した益子下野守顕助の子弥次郎秀助が、阿波屋形細川頼春に従って四国に渡り、父の功績により讃岐国香川郡井原荘を賜り、姓は由佐と改め、由佐に屋敷を構えたのが由佐城の始まりです。

 城は、東は香東川、南に沼地の多い自然を巧みに利用した要塞で、天正11年(1583)長宗我部元親軍が攻め入ったが容易に落城せず、和議を申し出たほどでした。
 その後、由佐家の居宅とした屋敷内には、内堀、土塁跡を見ることができました。
 香南町歴史民俗郷土館は、その由佐城跡に建築されたものであり、庭園内には、土塁跡が現在も残されています。”
【写真左】西側から見たもの。
 戦国時代の長曾我部氏侵攻の際、当城の中にはどのような建物があったかよく分からないが、土塁と堀を駆使した平城形式の城郭であったと考えられる。


由佐氏

 説明板にもあるように、城主由佐氏の始祖は益子下野守顕助の子弥次郎秀助である。
 益子氏は、元は下野国(栃木県)の守護であった宇都宮氏の家臣とされ、鎌倉期下野国芳賀郡益子邑の地600町を領有し、同国武士団紀党の棟梁ともいわれている。因みに本拠となる益子邑は現在の益子町で、江戸時代後期に始まった益子焼が有名である。

 益子顕助が建武3年(1336)、京都の東寺の戦いで戦死したといわれるのは、この年の1月尊氏軍が京都に入京した際、南朝方の北畠顕家(北畠氏館跡・庭園(三重県津市美杉町下多気字上村) 参照)が尊氏軍と激闘し、獅子奮迅の活躍で奪還したときの戦いと思われる。
【写真左】周辺部の側溝
 現在では埋め立てられ当時の面影を残す景観はほとんど見られないが、東側を流れる香東川から大量の水を引き込み、二重三重の濠を巡らせていたものと思われる。


 そして顕助の遺児・秀助が細川頼春(細川頼春の墓(徳島県鳴門市大麻町萩原) 参照)に従って四国に渡ったのは、足利尊氏がこの年(建武2年)の2月、九州へ敗走する際、尊氏の命により、頼春をはじめ顕氏といった細川一族が四国に分遣されたときである。

 因みに、頼春が亡くなった後、嫡男頼之の代になると、三河国渥美郡二川郷を出自とする二川四郎左衛門光吉が、同じく井原荘龍満に下向し、龍満城(高松市香川町川東下字立満)を築き、龍満氏を名乗っている。龍満城はいずれ取り上げる予定だが、由佐城から香東川を1キロ余り下った対岸の立満に所在した城館である。

【写真左】土塁・その1
 登城の中で唯一残る土塁の跡

 当時の形状をそのまま残しているのか分からないが、平城城館であったことから、特に堀と土塁には防御上の堅固さを持たせたのだろう。

 土塁の幅は3m前後は確保されている。





戦国期から近代まで

  由佐氏はその後、細川氏に仕えていくが、応仁の乱後細川政元(勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞) 参照)の代に内訌が起こり、政元が香西氏(勝賀城(香川県高松市鬼無町) 参照)によって殺害されると、替わって台頭してきたのが被官であった三好氏である。

 由佐氏は秀盛の代に三好長慶(河内・飯盛山城(大阪府四条畷市南野・大東市) 参照)の臣下となり、畿内を転戦した。しかし、長慶の病死をきっかけに三好氏も衰退すると、秀盛は本拠地讃岐に帰国することになる。やがて、土佐の長宗我部元親(長曽我部氏・岡豊城(高知県南国市岡豊町) 参照)が阿波・讃岐に侵攻しだすと、にわかに讃岐の国人領主も浮足出した。

 ところで、あとで知ったのだが秀盛の墓が当城から少し北に向かったあぜ道付近に建立されているらしい(HP『城郭放浪記』参照)。
【写真左】土塁・その2











 

 長宗我部軍が由佐城を攻め始めたのは、天正10年(1582)といわれる。この頃の城主は秀武で、怒涛の勢いを見せていた長宗我部軍は、秀武の堅固な守りに手こずり、一旦兵を引いた。このとき秀武が伏兵を敷かせたのが後段で紹介する冠纓(かんえい)神社が祀られている冠纓山である。

 冠纓山は由佐城から西に1キロほど向かった標高100mほどの小丘で、当山に陣を構えていた由佐方の伏兵は、秀武が敗走する長宗我部軍を追撃すると、直ちに当山から急襲し、長宗我部軍を翻弄させた。

 しかし、緒戦の秀武の勝利も束の間で、態勢を整えた長宗我部軍はその後の戦いで由佐城を落とし、由佐秀武らは長宗我部の軍門に降り、元親の臣下となった。
【写真左】模擬天守周りの堀
 この堀は当然ながら新たに設置されたものだが、由佐城(郷土館)から南におよそ170mほどむかったところに、「南門」という地名がある。

 おそらくこれは由佐城時代の名残りと思われ、その地区にも東西を横断する小規模な川が流れていることから、これも当時の堀跡ではないかと考えられる。
 従って、城域は少なくとも南北方向に200m近く伸びた規模ではなかったかと推測される。



 天正14年(1586)、秀吉の命により、九州薩摩の島津氏征伐の任を受けた長宗我部信親らは、豊後戸次川の戦いに挑んだ(長宗我部信親の墓・戸次河原合戦(大分県大分市中戸次)参照)。このとき、 秀武の嫡男三郎秀景も軍監・仙谷秀久の失態によりあえなく討死した。

 関ヶ原の戦い後、讃岐の新領主は生駒氏となり、秀景の嫡子久右衛門は同氏に仕えた。しかし、その後生駒氏が改易されると久右衛門は地元に残り郷士となった。
 その子孫は下段の写真にあるように、当城跡に屋敷を構え現代に至ったが、平成8年過ぎから取り壊され、現在の香南歴史民族郷土館が建てられている。
【写真左】「在りし日の由佐家」写真
 館内には平成8年時の同氏屋敷写真が掲示されている。

【写真左】城内(郷土館)の中庭
【写真左】香南町の史跡案内図
 館内には当町の主だった史跡・施設の案内板が掲示してある。
 この中には、由佐城のほか、城郭としては、横井城、行業城・岡館跡があり、西側には前述した細川頼之が崇敬した冠纓(かんえい)神社や由佐天満宮などがある。


【写真左】槍・薙刀展
 この日訪れたとき、館内では「槍・薙刀展 -戦国の長柄武器ー」と題した展示会が行われていた。
 写真は薙刀で、上から巴形薙刀拵、薙刀拵など。
【写真左】槍の部
 
【写真左】矢の部
 様々な種類の矢じりも展示されている。

2020年1月1日水曜日

伊豆・山中城(静岡県三島市山中新田)

伊豆・山中城(いず・やまなかじょう)

●所在地 静岡県三島市山中新田
●指定 国指定史跡
●形態 平山城
●高さ H:570m(比高 40m)
●築城期 不明(永禄年間・1560年代か)
●築城者 小田原北条氏
●城主 北条氏勝
●遺構 障子堀・郭・空堀・馬出し・土塁等
●登城日 2016年11月5日

解説
 2016年11月5日、前稿の高天神城(静岡県掛川市上土方・下土方)登城を終え、次に向かったのが伊豆と相模の国境に築かれた山中城である。
 現地に着いたのが午後の4時前であったこともあり、余裕をもって登城できなかったのが残念だったが、それでもなんとか主だった遺構を見ることができた。
【写真左】山中城の障子堀
 当城の代名詞ともいわれる障子堀。
 あまりに整然と整備されているので、まるで庭園を散策している気分になる。



現地の説明板より

‟国指定史跡 山中城跡
   (昭和9年1月22日指定)

 史跡山中城は、小田原に本城をおいた北条氏が、永禄年間(1560年代)小田原防備のために創築したものである。
 やがて天正17年(1579)豊臣秀吉の小田原征伐に備え、急ぎ西の丸や出丸等の増築が始まり、翌年3月、豊臣軍に包囲され、約17倍の人数にわずか半日で落城したと伝えられる悲劇の山城である。この時の北条方の守将松田康長・副将間宮康俊の墓は、今も三の丸跡の宗閑寺境内に苔むしている。

 三島市では、史跡山中城の公園化を企画し、昭和48年度よりすべての曲輪の全面発掘にふみきり、その学術資料に基づいて、環境整備に着手した。その結果、戦国末期の北条流の築城法が次第に解明され、山城の規模・構造が明らかになった。

 特に堀や土塁の構築法、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋(かけはし)や土橋の配置、曲輪相互間の連絡道等の自然の地形を巧みにとり入れた縄張りの妙味と、空堀・水堀・用水池・井戸等、山城の宿命である飲料水の確保に意を注いだことや、石を使わない山城の最後の姿をとどめている点等、学術的にも貴重な資料を提供している。

   平成11年3月
   文化庁
   静岡県教育委員会
   三島市教育委員会”
【上図】山中城の配置図
 入口付近に設置されているもので、右方向が北を示す。



北条氏

 伊豆・山中城(以下「山中城」とする。)は、小田原城を居城とする北条氏の支城で、箱根10城の一つとされる。国指定史跡となったのが戦前の昭和9年というから当時から山中城の名前はよく知れ渡っていたのだろう。

 秀吉が攻めた小田原征伐の際、最前線の基地としてその役目を担ったが、秀吉の大軍の前に瞬く間に落城、築いてから滅びるまでの期間は極めて短い。概ねこうした短命な城郭はその後の遺構なども劣化や消失することが多いが、当城は逆に遺構も復活し、代名詞でもある「障子堀」などは見事な景観を醸し出している。
 現地は写真でも分かるように大変きれいに整備され、また重要な遺構についても詳しい説明板がそれぞれ設置され、訪れる者にとってもわかりやすくなっている。

 このため、本稿では現地の説明板を中心に紹介していきたい。

【写真左】三の丸付近
 国道1号線沿いに駐車場があり、そこに停めてしばらく北の方へ向かうと、「障子堀・畝堀探訪コース」の案内標識があり、標識に従って進む。

 写真はその始点付近で、左側に三の丸があったが、下段の三の丸堀の方へ向かうルートがあったため、そのままそのコースを選択した。このため、三ノ丸そのものは探訪していない。

上掲した説明板と重複するが、こちらのは平成8年に設置されたもの。

現地の説明板より

‟国指定史跡 山中城跡

 山中城は、文献によると、小田原に本城のあった北条氏が、永禄年間(1558~70)に築城したと伝えられる中世最末期の山城である。
 箱根山西麓の標高580mに位置する、自然の要害に囲まれた山城で、北条氏にとって、西方防備の拠点として極めて重要視されていたが、戦国時代末期の天正18年(1590)3月、全国統一を目指す豊臣秀吉の圧倒的大軍の前に一日で落城したと伝えられている。

 三島市は山中城跡の史跡公園化を目指し、昭和48年から発掘調査を行い、その学術的成果に基づく環境整備を実施した。その結果、本丸や岱崎(だいさき)出丸をはじめとした各曲輪の様子や架橋、箱井戸、田尻の池の配置など、山城の全容がほぼ明らかになった。特に障子堀や畝堀の発見は、水のない空堀の底に畝を残し、敵兵の行動を阻害するという、北条流築城術の特徴の一端を示すものとして注目されている。
 出土遺物には、槍・短刀をはじめとする武器や鉄砲玉、柱や梁等の建築用材、日常生活用具等がある。なお、三ノ丸跡の宗閑寺には、岱崎出丸で戦死した、北条軍の松田康長をはじめ、副将の間宮康俊、豊臣軍の一柳直末など両軍の武将が眠っている。

 平成8年
   文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会”

現地の説明板より

‟三の丸堀
 三の丸の曲輪の西側を出丸まで南北に走るこの堀は、大切な防御のための堀である。
 城内の各曲輪を囲む堀は、城の縄張りに従って掘り割ったり、畝を堀り残したりして自然地形を加工していたのに対し、三の丸堀は自然の谷を利用して、中央に縦の畝を設けて二重堀としている。
 中央の畝を境に、東側の堀は水路として箱井戸・田尻の池からの排水を処理し、西側の堀は空堀として活用していたものである。
 この堀の長さは約180m、最大幅約30m、深さは8mを測る。
 平成8年12月
   文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会"

【写真左】三の丸堀
 この堀の長さは180mもあり長大な規模を持つ。
 東側には宗閑寺や豊臣及び北条方の武将の墓などがあるようだが、この日は探訪していない。


現地の説明板より

 ”田尻の池
 東側の箱井戸と田尻の池とは、一面の湿地帯であったが、山中城築城時、盛土(土塁)によって区切られたものである。
 山城では、水を貯える施設が城の生命であるところから、この池も貴重な溜池の一つであったと考えられる。しかも、西側は「馬舎(うまや)」と伝承されているところから、この池は馬の飲料水・その他に用いられたものと推定される。
 築城時の池の面積は、約148平方メートルであり、あふれた水は三の丸堀に流れ出ていたようである。
 平成11年3月
   文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会"
【写真左】田尻の池
 田尻の池の隣に箱井戸が隣接してあったようだが、案内標識を見つけることはできなかった。

 このあと二の丸方面に向かう。

現地の説明板より

”二ノ丸虎口と架橋

 二ノ丸は東西に延びる尾根を切って構築された曲輪である。尾根の頂部に当たる正面の土塁から、南北方向に傾斜しており、北側には堀が掘られ、南側は斜面となって箱井戸の谷に続いている。この斜面を削ったり盛土して、山中城最大の曲輪二ノ丸は造られたのであるが、本丸が狭いのでその機能を分担したものと思われる。
【写真左】二の丸に向かう途中の道
 右側の切岸の上が二ノ丸に当たる。








 二ノ丸への入口は、三ノ丸から箱井戸を越えてこちら側へ渡り、長い道を上がってこの正面の大土塁(高さ4.5m)に突き当たり、右折して曲輪に入るようになっていた。

 また、二ノ丸と元西櫓の間の堀には、橋脚台が掘り残されており、四隅に橋脚を立てた柱穴が検出された。橋脚の幅は南北4.3m、東西1.7mで、柱の直径は20~30㎝であった。復元した橋は、遺構を保護するため、盛土して本来の位置より高く架けられている。
 平成13年3月
  文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会"
【写真左】架橋
 二ノ丸(別名 北条丸)と元西櫓の間に架けられているもので、別名二ノ丸橋ともいう。
【写真左】堀障子・その1
 架橋付近から見えたもので、二ノ丸と元西櫓の間に設置されたもの。






現地の説明板より

‟元西櫓(もとにしやぐら)


 この曲輪は西ノ丸と二ノ丸の間に位置し、周囲を深い空堀で囲まれた640平方メートルの小曲輪である。当初名称が伝わらないため無名曲輪と呼称したが、調査結果から元西櫓と命名した。
 曲輪内は堀を掘った土を1メートル余りの厚さに盛土し、平らに整地されている。

 この盛土の下部にはロームブロックが積まれていたが、これは曲輪内に溜まった雨水を排水したり、霜による地下水の上昇を抑え、表面を常に乾いた状態に保つための施設と考えられる。しかもロームブロック層は、溜池に向かって傾斜しており、集水路ともなっている。
 平成12年3月
   文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会"
【写真左】元西櫓
 記憶ははっきりしないが、手前が元西櫓で奥が西ノ丸だったと思う。








現地の説明板より

”溜池
 ここは溜池(貯水池)の跡である。山田川の支流の谷がここまで延びてきていたものを盛土によって仕切り、人工土手を造って深い堀としたものである。
 この溜池へ本丸・北ノ丸等の堀水が集まり、また広大な西ノ丸の自然傾斜による排水も、元西櫓の排水も流入するしくみである。深さ4メートル以上発掘したが、池底には達しなかった。

 山城の生命は、水の確保にあるといわれるが、貯水への異常な努力をうかがうことができる。
 平成12年3月
  文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会”
【写真左】溜池
 元西櫓の隣にあるもので、現在は水が溜まっていないが、面積はさほどないが、当時は相当深かったものと思われる。

 このあと本丸方面に向かう。



現地の説明板より

 ‟本丸堀

 山中城の堀の特色の一つに、畝堀があげられる。この堀の中にわずかに見えるのが畝の頂部である。畝と畝の間隔は一定ではないが、ここでは西下がりの地形にあわせて、畝の上部も階段状に西へ下がっている。城の防備上からは、堀の中の水が深く、堀も深いのが堀としては最もよいが、高地では普通空堀である。ここの本丸堀は畝をつくることにより、用水地をも兼ねることができるわけである。
 平成9年11月
  文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会″
【写真左】本丸堀













現地の説明板より

‟北の丸堀

 山城の生命は堀と土塁にあるといわれる。堀の深さが深く、幅が広いほど曲輪につくられる土塁が高く堅固なものとなる。
 北の丸を囲むこの堀は豪快である。400年の歳月は堀底を2m以上埋めているので、築城時は現況より更に要害を誇っていたに違いない。城の内部に敵が進攻することを防ぐため、この外堀は山中城全域を囲むように掘られ、水のない空堀となっている。
 石垣を用いるようになると、堀の両岸はより急峻になるが、石を用いずこれだけの急な堀を構築した技術はみごとである。
 平成9年11月
   文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会″


現地の説明板より

‟北の丸跡

 標高583m、天守櫓に次ぐ本城第二の高地に位置し、面積も1,920㎡とりっぱな曲輪である。一般に曲輪の重要度は、他の曲輪よりも天守櫓により近く、より高い位置、つまり天守櫓との距離と高さに比例するといわれている。この点からも北の丸の重要さがしのばれる。
 調査の結果、この曲輪は堀を掘った土を尾根の上に盛土して平坦面を造り、本丸側を除く、三方を土塁で囲んでいることが判明した。
 また、本丸との間には木製の橋を架けて往来していたことが明らかになったので、木製の橋を復元整備した。
 平成13年3月
   文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会″

【写真左】架橋と北の丸
 奥に見えるのが北の丸と記憶しているが、ひょっとして本丸かもしれない。







現地の説明板より

‟架橋

 発掘調査の結果、本丸と北の丸を結ぶ架橋の存在が明らかになり、その成果を元に日本大学の故・宮脇泰一教授が復元したのがこの木製の橋である。

 山中城の堀には、土橋が多く構築され、現在も残っているが、重要な曲輪には木製の橋も架けられていた。

 木製の橋は土橋と比べて簡単に破壊できるので、戦いの状況によって破壊して、敵兵が堀を渡れなくすることも可能であり、曲輪の防御には有利である。
 平成13年3月
  文化庁  静岡県教育委員会  三島市教育委員会″


現地の説明板より

‟本丸跡
 標高578m、面積1740㎡、天守櫓と共に山中城の中心となる曲輪である。
 周囲は本丸にふさわしい堅固な土塁と深い堀に囲まれ、南は兵糧庫と接している。この曲輪は盛土によって兵糧庫側から2m前後の段を造り、2段の平坦面で築かれている。
 虎口(入口)は南側にあり、北は天守閣と北の丸へ、西は北条丸に続く。
 江戸時代の絵図に描かれた本丸広間は、上段の平坦面、北条丸寄りに建てられており、現在の藤棚の位置である。
 平成9年11月 
  文化庁  静岡県教育委員会  三島市教育委員会″
【写真左】本丸
 奥に藤棚が見えるが、当時この場所に広間があったという。








現地の説明板より

‟西ノ丸
 西ノ丸は3,400㎡の広大な面積を持つ曲輪で、山中城の西方防備の拠点である。
西端の高い見張台はすべて盛土を積み上げたもので、ここを中心に曲輪の三方をコの字型に土塁を築き、内部は尾根の稜線を削平し見張台に近いところから南側は盛土して平坦にならしている。
【写真左】堀障子・その2
 本丸から再び二ノ丸に向かう途中にあるもので、畝の一部に切り込みがある。
 防御上意図したものかもしれない。



 曲輪は全体に東へ傾斜して、東側にある溜池には連絡用通路を排水口として、雨水等が集められるしくみである。
 自然の地形と人知とを一体化した築城術に、北条流の一端を見ることができる。
 平成9年11月
   文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会”

現地の説明板より

‟西の丸見張台
 西の丸見張台は下から盛土によって構築されたものである。
 発掘調査の結果、基底部と肩部にあたる部分を堅固にするために、ロームブロックと黒色土を交互に積んで補強していることが判明した。
 標高は約580mで、本丸の矢立の杉をはじめ、諸曲輪が眼下に入り、連絡・通報上の重要な拠点であったことが推定できる。
 平成8年12月
   文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会”
【写真左】西ノ丸見張台付近
 後背には富士山の姿がうっすらと見える。









現地の説明板より

‟土橋

 土橋は城(曲輪)の虎口(入口)の前を通路だけ残して、その左右に堀を掘って城への出入りの通路としてつくられる。
 この土橋から西の丸へ入るには、土橋を渡って正面の土塁の下を左へ折れ、西の丸南辺からのびてくる土塁との間の細い上り坂の通路を通り、さらにこの二つの喰違い土塁に挟まれた通路に設けた木戸を通る。
 この土橋は第一の関所であり、また高い方の堀の水を溜めておくための堤防でもある。
 平成11年3月
   文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会”
【写真左】西ノ丸
 当城の中でも二ノ丸とおなじく規模の大きな曲輪で、すこし傾斜がついている。





現地の説明板より

‟西ノ丸畝堀

 西ノ丸内部に敵が進入することを防ぐため完全に曲輪の周囲を堀によってとりまいている。山中城では場所によって水のない堀と、水のある堀、やわらかい泥土のある堀とに分けられる。
 この堀の中は、5本の畝によって区画されている。畝の高さは堀底から約2m、さらに西ノ丸の曲輪へ入るには9m近くもよじ登らなければならない。
 遺構を保護するため、現在は芝生や樹木を植栽してあるが、当時はすべりやすいローム層が露出しているものである。
 平成12年3月
   文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会”
【写真左】西ノ丸畝堀
 西ノ丸周囲には山中城の特徴である障子堀や畝堀が密集している。
 夕方に訪れていたため、逆光が多くあまりいい写真は撮れていないが、それでも十分堪能できた。


現地の説明板より

”障子堀

 後北条氏の城には、堀の中を区画するように畝を掘り残す、いわゆる「障子堀」という独特の堀が掘られている。
 西ノ丸と西櫓の間の堀は、中央に太く長い畝を置き、そこから交互に両側の曲輪に向かって畝を出し、障子の桟のように区画されている。
 また、中央の区画には水が湧き出しており、溜まった水は南北の堀へ排水される仕組みになっている。このように水堀と用水地を兼ねた堀が山城に造られていることは非常に珍しく、後北条氏の城の中でも特異な構造である。
 平成12年3月
   文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会”
【写真左】障子堀・その1
【写真左】障子堀・その2
【写真左】障子堀・その3