2015年9月28日月曜日

安芸・障子嶽城(広島県東広島市河内町宇山)

安芸・障子嶽城(あき・しょうじがたけじょう)

●所在地 広島県東広島市河内町宇山
●別名 嶽ヶ城山・高城山
●高さ 556m(比高200m)
●築城期 文永年間(1264~74)又は、南北朝期か
●築城者 上山氏か
●城主 不明
●遺構 郭・土塁・堀切等
●登城日 2015年3月2日

◆解説(参考資料 石井進著「中世武士団」講談社編、サイト『城郭放浪記』等)
 安芸・障子ヶ嶽城(以下「障子ヶ嶽城」とする)は、旧賀茂郡河内町(こうちちょう)宇山にある城砦で、当地は2005年に現在の東広島市に編入されている。
 河内町地区を横に横断している川が沼田川だが、この川を下っていくと以前紹介した小早川氏の居城であった高山城及び新高山城にたどり着く。
【写真左】障子ヶ岳城遠望
 南麓部から見たもので、登城道は写真中央の道を車で暫く進む。







 障子ヶ岳城は別名嶽ヶ城とも呼ばれているが、所在するこの場所には当城の他、添付地図にもあるように、西から小高城、くもん城、下高城、狐城、鶴ヶ城、田屋城、実宗城、桧谷城、といった中小の山城も記録されている。
【写真左】案内図・その1
 現地には「宇山村づくり協議会」という団体が作成した案内図が設置されている。

 この図でいえば、左側に「城山」と記入された場所が障子ヶ岳城となる。
【写真左】案内図・その2
 これも現地に設置されている案内図だが、主として山城を含めた史跡の案内図となっている。

 この中には障子ヶ岳城の支城とおもわれる諸城の位置も書かれている。



現地の説明板より

“障子嶽城跡(通称城山)

 障子嶽城跡は宇山の北側にそびえる標高556m、比高200mの山で、嶽ヶ城山・高城山とも言われますが、地域の人は「城山」と呼び親しんでいます。
 山城としての遺構がよく残っており、本丸跡には土塁があり、本丸のまわりには何段かの郭と空堀が見られます。

 誰が城主であったかは明らかでありませんが、南北朝時代の上山氏の第二の城ではないかと推測されています。
 頂上には桜が植えられて、春には山腹の山桜とともに美しく山を彩っています。
                 (郷土史研究会)”
【写真左】南麓部に設置された案内標識
 この近くには、旧宇山小学校や、隣接してそば打ち道場「さわやか茶屋」という施設などがあるが、おそらくこの辺りが城主宇山氏らが平時生活していた中心地だったと思われる。

 なお、写真の右側にある道を進んで行くと、障子ヶ岳城の登城口に繋がるが、この道はもう一つの東方に聳える竜王社が祀られている竜王山への道でもある。



上山(宇山)氏

 障子ヶ岳城の城主とされている上山氏は、新荘小早川氏から分かれた一族といわれている。小早川氏についてはこれまで安芸・高山城(広島県三原市高坂町)・その1などでも紹介してきているが、障子ヶ岳城主上山氏については、椋梨城(広島県三原市大和町椋梨)で紹介しているように、土肥実平の曾孫すなわち4代茂平の弟・季平が沼田新荘を統治したときに始まる。
【写真左】登城開始
 峠のピーク辺りに登城口があり標識も設置されている。ただ、この位置は幅員があまりないので、車はここから少し下がったところの広い個所に停める。


 このとき、支配された地域が椋梨・和木・大草・小田、そして今稿の上山(宇山)である。 

 従って、上山(宇山)氏の始祖となった武将の名は不明だが、近接している小田城(広島県東広島市河内町小田)の築城者が季平の次男・三郎左衛門信平といわれているので、信平の兄弟であったと考えられる。そしてその時期も、小田城築城期とほぼ変わらない文永年間(1264~74)と推定される。
【写真左】最初のピーク
 この道が当時からの大手道だったかどうか分からないが、一旦小高いピークに出くわす。
 地元の方によって定期的に清掃されているようで、歩きやすい。



第一の城・第二の城

  現地の説明板では、当城・障子ヶ岳城は上山氏の「第二の城」ではないかと記されている。では「第一の城」というのがあるはずだが、これは後段で紹介している「田屋城」と思われる。

 この城については、登城口まで向かったが、看板はあるものの、踏み込む場所の標識がなく、登城口が分からず断念している。
 参考までに当城の麓の写真(下段の写真参照)。なお詳細は、サイト『城郭放浪記』氏が既に登城されているので、こちらをご覧いただきたい。
【写真左】分岐点
 右奥から進んでくると、途中で北側から別の道と合流する。
 この道はあとで下山するときに使ったが、最近新たに敷設された道のようだ。
 この先からしばらく改修(新設か)された道を進むことになる。
【写真左】郭
 「郭」の標識が設置してある。ただ、おそらくこの付近は郭段としての遺構であったのだろうが、道を拡張整備した関係からその面影がほとんど消滅している。


【写真左】本丸直下
 ご覧の通り広い削平地となっているが、結局さきほどの分岐点から伸びた道がここまで繋がり、四駆の軽トラックもしくはSUV車でも通れるようにした道を新たに敷設したということなのだろう。
 駐車できるほどの空き地が確保されているが、地元の人でないとこの道を車で向かうには傾斜がかなりきついためお勧めできない。
【写真左】空堀
 上記空き地の左側には空堀が見える。本丸の東側から南側にかけて巡らされているようだ。
 このあと本丸に向かって進む。
【写真左】本丸に向かう階段
 最近この階段の補修があったようで、「2013年11月24日」と刻銘された文字が階段の踏み面にのこしてあった。
【写真左】腰郭
 本丸の下には凡そ幅4m×奥行6m程度の腰郭があり、そこから約4mほどの高さで本丸が築かれている。
 なお、この腰郭から本丸を囲繞する帯郭が繋がっているようだ。
 本丸の切崖が見えているが、以外と高低差があるため、階段が設置されている。
【写真左】本丸
 北東から南西に延びる尾根頂部を利用した遺構で、全体に細長い円形の形状をなす。
 およそ長径40m×短径15mの規模。
【写真左】土塁
 本丸の周囲には高さ1m前後の土塁が囲繞する。
【写真左】切崖
 本丸の南斜面にあたるが、この付近は傾斜がかなりあり、比高は10m前後はあるだろう。


【写真左】本丸に立つ標柱
 本丸はほぼ東西に伸びる形状で、北側が少し低い段の構成となっている。
【写真左】礎石
 本丸の一角にはまとまった礎石群が見える。元からあった大岩を中心に後から人為的に石列のような形で施工されたような遺構に見える。
【写真左】本丸から北西方面を俯瞰する。
 本丸からの眺望は360度の視界が確保されている。
 写真は西側の福富町方面。
【写真左】南麓を見る。
 登城口側に当たり、中央の白い建物が旧宇山小学校の校舎で、そば茶屋となっている。
 向背の山を越えると、沼田川が流れている。
【写真左】板鍋山
 管理人はこの山に登ったことはないが、標高757mの山でハイキング登山の山として親しまれている。






田屋城

 前記したように、障子ヶ岳城の近くには多くの小規模な山城があるが、そのうちの田屋城を紹介しておきたい。
 当城は障子ヶ岳城の東方約約1.5キロ向かった東宇山地区にあり、山城というより丘城といった方がよさそうな城砦である。
 標高は360m余りだが、ご覧の通り周辺部には集落がとりまき、比高は50mほどの高さを持つ。想像だが、上山氏の平時の住まいがこの田屋城で、詰の城が障子ヶ岳城ではなかったかと考えられる。
【写真左】田屋城遠望
 北側から見たもの。
【写真左】登山口の標識
 この日ここまできたものの、矢印が示している方向では要領を得ないことや、どこを見ても藪コギの登城が予想されたため断念した。

 なお、この場所からは田屋城と併せ、実宗城も100m先にあると記されている。


 説明板によれば、本丸と思われるところの北側に土塁があり、五輪塔があるとされている、そしてこの五輪塔が上山氏の墓といわれている。

2015年9月19日土曜日

瑞応寺と瑞仙寺(鳥取県西伯郡伯耆町・米子市日下)

瑞応寺(ずいおうじ)

●所在地 鳥取県西伯郡伯耆町吉定304
●開創 大永6年(1526)3月
●開基 別所就治
●備考 護身仏十一面観音像
●参拝 2015年8月15日 

瑞仙寺(ずいせんじ)

●所在地 鳥取県米子市日下
●開創 天仁元年(1108)
●開基 源義親家来
●備考 土豪真野氏、山名氏、尼子氏、毛利氏
●参拝 2015年8月15日

◆解説(参考文献『岸本町史』、『鳥取県史ブックレット4 尼子氏と戦国時代の鳥取』(鳥取県立公文書館 県史編さん室編)等)

 三木城(兵庫県三木市上の丸)の稿でも少し触れたが、伯耆国(鳥取県)の日野川沿いには三木城主であった別所氏一族に関わりのある場所がある。このことについてはすでに、同国にあった岸本要害(鳥取県西伯郡伯耆町岸本)でもとりあげているが、今稿ではこれとは別に、別所氏が直接もしくは間接的に関わったと考えられる二つの寺院を取り上げておきたい。
【写真左】瑞応寺
 境内入口には「諾量山 瑞應寺」と刻銘された石碑が建つ。








瑞応寺

 瑞応寺は鳥取県西部を流れる日野川の右岸にある現在の伯耆町吉定という場所にあって、その北には日野川の支流・別所川が流れている。
 当寺の縁起によれば、大永6年(1526)3月、別所就治(なるはる)、すなわち長治の祖父が開いたとされる。そして、当院に収蔵されている護身仏十一面観音像は、長治が終生肌身離さず所持していたものといわれ、三木城落城の際、長治の従兄弟・別所左近忠治が長治から受け取り、密かに当地瑞応寺に持ってきたものといわれている。
【写真左】本堂
 本堂は近年改修されたらしく新しい佇まいを見せている。









 なお、近くにある岸本要害の築城については、北方にあった尾高城(鳥取県米子市尾高)の砦として築城されたという説のほかに、三木城落城後、別所一族が当地に逃れたあと築城したという説も残っている。
【写真左】赤松氏の家紋
 本堂の峰瓦には左右に別々の家紋を模ったものが見える。

 写真は左側にある「二引両に左三つ巴 五七桐」で赤松氏の家紋。
 また、右側に別の家紋も見えたが、こちらは源氏系の竜胆車(りんどうぐるま)のようだ。


別所氏の出自

 ところで、前稿別所長治首塚(兵庫県三木市上の丸町9-4 雲龍寺)でも少し述べているが、通説では別所氏は赤松氏の庶流といわれているが定かでない。
 同稿でも別所氏の簡単な系譜を紹介しているが、改めてこのことについて考察してみたい。

                   《 別所氏系譜 》
 別所祐則 ? ~ ? 
    ⇓
   則治 ?~1513年
           赤松政則の重臣として唐突に現れ、東播磨の守護代となる。
    ⇓
   則定 ? ~ ?   
    ⇓
   就治 1502~63年
            別名・村治又は重治とも呼ばれ、則治の孫又は子とされる。
    ⇓      就治の子 : 安治(長勝)・重宗(重棟)・吉親(賀相)

   安治 1532~70年
    ⇓
   長治 1558(異説あり)~80年
 
 この中で、最初に注目されるのは、長治の祖父・就治(なるはる)である。就治は『鳥取藩史社寺調』によれば、大永6年(1526)3月に、この瑞応寺を建立していることが知られる。ただ、その後の記録がなく、6年後の天文2年(1532)再び当院にあったとされている。
 就治についての詳細な記録はないため、その動静を推測する方法としては、上掲した彼の「別名」を一つの手がかりとすることができる。

 就治は時期は不明だが、途中で「村治」とも名乗っている。この「村」というのは主君であった赤松義村から偏諱を受けたものだろう。置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その2でも述べたように、浦上則宗の孫・村宗が、主君であった赤松義村と不和になり、義村は永正16年(1519)浦上氏の居城三石城を攻めたが撃退され、その後義村は弑逆され、浦上氏は東備前と西播磨を領有することになる。
【写真左】境内から西方を俯瞰する。
 瑞応寺の西麓には日野川が流れ、その手前にはJR伯備線が走っている。

 なお、写真の右側には日野川の支流別所川が東方にある大山(だいせん)の谷間から流れてきており、その地区は「口別所」といわれている。


 就治が大永6年(1526)3月に瑞応寺を建立しているが、このことから主君赤松義村が浦上氏に敗れた7年後、当地伯耆に赴いたということになる。

 では、なぜ別所氏が当地(伯耆国)と関わっていたのだろうか。それを確かめるためには、就治以前の代までさかのぼる必要があるだろう。

 しかし、そもそも伯耆国には、中世文書は極めて少ない。そこでその一助となるのか分からないが、瑞応寺に近接する現在の米子市日下にある瑞仙寺の文書を一つの手がかりとして推考してみたい。


瑞仙寺

 瑞仙寺は、最初に紹介した伯耆町の瑞応寺から北へ約4キロほど向かった米子市日下に所在する古刹である。
【写真左】瑞仙寺
 米子市から岡山方面に向かう際、管理人は度々米子道を利用するが、そのとき車中から左側に常に見えていた寺院で、それまではまったく気にも留めていなかった。

 今回、別所氏について調べていたらこの寺院が関係してたことに少なからず驚いた。


 先ず、当院の現地の説明板より『瑞仙寺文書』のあらましを紹介しておきたい。

"米子市指定有形文化財
 瑞仙寺文書

 曹洞宗久坂山瑞仙寺は、天仁元年(1108)平正盛に討ち取られた源義親の菩提をとむらうため、二人の家来が出家して建立したのがはじまりであると伝えられるが、土豪真野氏らによって守られ、15世紀半ばごろ山名氏が現在地に移した。

 ここに保存されている永享11年(1439)の山名教之書下(かきさげ)ほか30通の中世文書は、この地方を支配した山名氏・尼子氏・毛利氏等による寺領寄進や寺領保証関係のものである。
 中世文書のはなはだ少ない鳥取県内では、15世紀から17世紀にかけての西伯耆政治史研究上貴重な資料である。

 №44 米子市”
【写真左】山名教之書下
 瑞仙寺には説明板にもあるように中世文書が30通以上もあるという。
 このうち山名氏関係文書がどの程度あるのか管理人は分からないが、写真の教之以外には、永正18年1月24日付の山名澄之寄進状もある。
 以下、尼子氏・毛利氏(杉原氏)のものも紹介しておく。
【写真左】尼子勝久安堵状
【写真左】杉原盛重寄進状
 








 
伯耆守護山名氏

 南北朝期から室町期にかけて伯耆国を名目上支配していたのは守護職であった山名氏である。最初に当地を支配したのが以前にも紹介したように山名時氏の子・師義である。

 上掲した瑞泉寺文書に記録されている山名教之は、師義から数えて4代目となるが、このころ伯耆国内では地域ごとに守護代をおいて支配を強めていた。主だった守護代としては、南条氏・小鴨氏・進氏などである。
【写真左】入口付近に建つ「瑞仙寺文書」の標柱
 側面には
「寺領寄進状、安堵状、諸役免許状など中世文書31通。山名、尼子、毛利等支配者の移り変わりを知ることができる。」
 と書かれている。



 応仁元年(1467)5月、細川勝元率いる東軍と、山名宗全(持豊)らの西軍が京の都で激突した。応仁の乱の始まりである。教之もこの戦いで、小鴨氏ら伯耆国人を従えて京に上り、宗全側の西軍として参戦した。

 この大乱はその後地方にも拡大し、翌応仁2年出雲と伯耆の国境を巡って激しい戦いが繰り広げられた。当初出雲国側では月山富田城を本拠とする尼子清貞と、中海沿岸部を支配していた十神山城主・松田氏との戦いであったが、その後伯耆国側から山名六郎が松田氏を支援し、尼子軍と戦火を交えた。この六郎は山名教之の孫・政之とされている。
【写真左】奉納幕
 瑞応寺と同じく、ここにも赤松氏の家紋と、竜胆車の家紋が掲げられている。






 これらの戦いは、いずれも尼子氏の勝利となり、この結果、松田氏が所有していた特に中海・美保関の海上権益を尼子氏がこのとき手中に収め、以後尼子氏の飛躍の一因ともなっていく。

 ところで、尼子氏との戦いごろから教之は、次期守護職を長男・豊之に譲っている。教之の子には、豊之をはじめ、次男・豊氏、三男・之弘、そして四男には元之がいた。このころ、その中の四男・元之は密かに尼子氏と手を結ぶなど伯耆山名氏の結束力は足元から揺らぎ始めていた。

 そうした中、文明3年(1471)9月、新守護職となったばかりの豊之は、伯耆由良嶋(現北栄町)で殺害された。豊之の死因は「賊臣」の手によるもの、すなわち山名家の内訌によるものといわれている。このため、こうした伯耆国内における山名家中の騒動を鎮圧すべく、翌4年(1472)、京にあった前守護山名教之が伯耆へ下向した。しかし、すでに高齢であった教之は翌5年(1473)2月13日、家中を収拾できないまま没した。
【写真左】本堂
 山号は「久坂山」という。
 現在は禅宗系の寺院のようだ。








 その後、伯耆守護は豊之の子・政之が跡を継いだが、依然として叔父の元之との対立が続き、元之はその後尼子氏や、伯耆守護代であった東部に本拠を持つ南条氏とも手を結び、さらには当時播磨・美作の守護であった赤松政則(置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その1参照)の支援も受けていた。
 これに対し政之は、山名氏惣領であった但馬の守護山名政豊及びその家臣・垣屋氏などが与同していた。

 文明12年(1480)8月12日、守護方の垣屋軍は元之が籠る丸山城(円山城)(伯耆町丸山)を攻撃、その2日後には和田山(倉吉市和田附近か)を攻めた立てた。この結果守護軍はいずれも勝利し、元之らは美作国境に近い竹田(東伯郡三朝町上・下西谷付近)に逃れた。

 さらに1ヶ月後には西伯耆の法勝寺城(鳥取県西伯郡南部町法勝寺)や久坂城(瑞仙寺付近と思われる)も攻めたて、いずれも守護軍(政之)らが勝利を収めている。このように、反守護軍は殆どの戦いで敗れたものの、一旦国外に逃れたのち、再び尼子氏と与同して同国は動乱を迎えることになる。
【写真左】古墓
 当院墓所の片隅には古墓がまとめられた箇所があるが、そこに五輪塔と宝篋印塔が混在したような古墓が見えた。






反守護勢力の山名元之と別所氏

 さて、大分前置きが長くなったが、前段で紹介したように、《別所氏系譜》の中で別所則治が「赤松政則の重臣として唐突に現れ、東播磨の守護代となる」と記している。
 そこで、これまで述べたような記録を辿っていくと、伯耆にあった別所氏は、同国の反守護勢力であった元之が、当時の播磨・美作の守護であった赤松政則との接点をもったことから、姿を現したのではないかと推察される。

 そして、当時の伯耆国の状況を考えると、別所氏(則治)は、元々反守護勢力であった山名元之の家臣ではなかったのかとも思えてくる。因みに、則治の孫又は子とされる村治(就治)は、前述したように、主君・赤松義村から偏諱を受けているが、この義村の養父が赤松政則である。

源義親

 ところで、瑞仙寺の縁起の中で、当院を建立した人物が源義親の家臣であったとされている。義親については、源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)及び、鶴ヶ城跡(島根県出雲市多伎町口田儀清武山)でも紹介しているが、主君亡き後、二人の家臣は出雲から隣国・伯耆へ逃れてきたということなのだろう。

2015年8月14日金曜日

別所長治首塚(兵庫県三木市上の丸町9-4 雲龍寺)

別所長治首塚(べっしょながはる くびづか)

●所在地 兵庫県三木市上の丸町9-4 雲龍寺
●参拝日 2014年11月22日

◆解説
 以前紹介した三木城(兵庫県三木市上の丸)の南側にある雲龍寺には、三木合戦で自刃した別所長治の墓が祀られている。
【写真左】別所長治首塚
 現在は五輪塔が建立されている。











現地の説明板より

“由緒の記

 羽柴秀吉の軍勢を迎えうつこと1年10ヶ月、天正8年正月17日申の刻、三木城主別所長治公は将兵、領民の身がわりとなり、一族とともに自刃、その壮烈なる最期は武士の鑑みとして永く語り継がれ、その遺徳は正に永遠にして不滅であります。
【写真左】長治の首塚が祀られている雲龍寺と三木城の配置図
 雲龍寺は二ノ丸の南側にあって、東には「鷹の尾」という物見櫓が配されている。
 下段にも紹介しているように、三木城が築城される以前に既に当院が創建されていた。









 昭和17年、帝国在郷軍人会三木分会によって当首塚の補修が為され、さらに昭和48年3月、別所公奉賛会はさきに三木城再建の構想趣意に賛同され寄進された浄財と首塚修復に当たり寄せられた市民有志の浄財を以て茲に玉垣を建立、併せて照子夫人の霊を合祀いたしました。

 これは実に公の遺徳を偲ぶ三木市民の強い心のあらわれでありまして茲にその由緒を刻み、永くこれを顕彰するものであります。

 昭和48年3月25日
     別所公 奉賛会”
【写真左】雲龍寺山門
 入口の左右にはそれぞれ、
「三木釜山城主 別所則治公中興開基 雲龍寺」
と刻まれた石碑と、
「村上天皇勅願所 後醍醐天皇御下賜 高源山」
の石碑がそれぞれ建立されている。



別所長治

 別所氏は守護大名・赤松氏の庶流といわれているが詳細ははっきりしない。しかし、赤松円心(則村)の孫、すなわち円心の子・則祐の三男・持則の代になって、別所氏の名跡を継いだとされている。

 その後、嘉吉の乱によって赤松氏が衰退すると、別所氏も同じ運命を辿ることになる。応仁の乱が勃発すると、赤松氏も勢力を回復、これに合わせるように別所氏も再び歴史の表舞台に登場することになる(置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その1参照)。
【写真左】雲龍寺境内
 左側が本堂で、長治公首塚は右側にある。










 このとき別所氏は則治の代となり、三木城を築城したとされる。このころ、別所氏は三木城を本城とし、支城の一つとして築いたのが、以前紹介した端谷城(兵庫県神戸市西区櫨谷町寺谷 満福寺)などである。

 さて、三木城を本拠とした別所氏はその後次のような代を重ねた。
  1. 則治               ?~    1513年
  2. 就治(則治の孫とも)      1502~1563年
  3. 安治               1532~1570年
  4. 長治              1558~1580年
 長治の父は元亀元年(1570)に死去するが、長治が父から家督を継いだとき、若年だった長治の後見人として、安治の二人の弟(吉親(賀相)・重宗(棟))が務めた。

 信長・秀吉による西国征途の際、長治は早い段階で信長に恭順を示していたが、後見人である二人の叔父のうち、吉親は秀吉と衝突、これに対し、重宗は一貫して信長に与すべきとして別所一族内で対立。
 このため、重宗は自ら三木城を退城し、浪人となった。その後天正13年(1585)秀吉の傘下に入り、但馬国に1万5千石を与えられ、八木城(兵庫県養父市八鹿町下八木)の城主となっている。
【写真左】雲龍寺周辺図
 別所長治夫婦墓・首塚の右奥は、もとの濠があったところで、当院も三木合戦の際、郭・陣地として使用されたものだろう。








 ところで、長治がなぜ途中から反信長・秀吉へと変わったのだろうか。

 様々な説がいわれているが、その理由として挙げられるのが、秀吉による上月城攻めがあまりにも常軌を逸した残虐な行為であったこと、また、前述したように、別所氏も元は西播磨の領主であった上月城主と同じく赤松氏庶流であったこと、さらには長治の妻が波多野秀治(丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)参照)の女であり、秀治が天正3年(1576)1月の段階で反旗を翻していたことなどが挙げられる。

雲龍寺

 三木城内には雲龍寺という寺院があり、この一角に本稿で紹介した別所長治の首塚が祀られている。
【写真左】「別所長治公・照子夫人 首塚」とかかれた看板

【写真左】長治公・照子夫人の墓
 五輪塔形式の墓石で、昭和17年に補修されたもの。










現地の説明板より

“長治公と雲龍寺

〇雲龍寺(曹洞宗)
 天徳2年(958)に慈恵僧正の創建と伝えられているが、羽柴秀吉との三木合戦時には、三木城内にあったため、殿堂及び伽藍は焼失しました。

 天正8年(1580)1月17日、一族の最後を弔うために、雲龍寺7世の住職春泰禅師が、当時の三木城主別所長治公の自害の席に招かれたときに、長治公は後事を禅師に託し、日頃から愛用していた「天目茶碗」と「唐子遊びの軸」を形見として贈りました。
【写真左】外堀に使われていた石垣
 附近には、三木城の外堀に使用されていたという石垣が積んである。






 三木城開城後、領主杉原伯耆守は秀吉に上訴して寺院を再建しました。
 天正13年(1585)秀吉から境内山林竹木並びに30石の寄進状及び制札を賜り、以後代々の徳川将軍家より御朱印状を承りました。

 秀吉の兵糧攻めにあい、城内の藁まで食べたとの言い伝えにより、当寺では毎年1月17日に藁に見立てた〝うどん″を食べて当時を偲ぶ会が催されています。
【写真左】山門の外側
 この写真の先を進むと、本丸に向かうが、その手前で、右に二ノ丸、左に西の丸が控える。

 もっとも、大半は宅地などになっており、当時の面影は余り残っていない。


 この寺は古い歴史のある寺院で、明治維新までは公寺に属しており、特別な上位の寺でありました。

 その創建は村上天皇の勅命によるもので、天皇の勅願所でありましたが、廃絶すること久しく、その後、播磨、備前、美作の守護職であった時の豪族赤松円心入道則将が、古い寺伝を知り、深くこれを惜しんで朝廷に再建を奏請して、そのご聖慮に沿い、天皇より高源山の山号を賜りました。

 時は後醍醐天皇の元亨2年’(1322)で、天皇の祈願所となりました。のち、文明年間になって、時の城主別所加賀守就治が異忠禅師を招いて再建し、そのとき規模を一新して禅寺として開山した寺院であると伝えています。”

◎関連投稿
 瑞応寺と瑞仙寺(鳥取県西伯郡伯耆町・米子市日下)

2015年8月9日日曜日

竹中半兵衛の墓(兵庫県三木市平井)

竹中半兵衛の墓(たけなかはんべいのはか)

●所在地 兵庫県三木市平井
●探訪日 2014年11月21日


◆解説
 前稿秀吉本陣跡・平井山ノ上付城跡でとりあげた平井山の西麓には、黒田官兵衛と同じく秀吉に仕えた名軍師竹中半兵衛の墓が祀られている。
【写真左】竹中半兵衛の墓・その1
 宝篋印塔又は五輪塔型式の墓石ではないことから、後年建立されたものだろう。






現地の説明板より

“竹中半兵衛の墓

 一世の軍略兵法家として知られた竹中半兵衛重治は、初め斉藤龍興に属し、後に織田信長に従い、秀吉と共に各地に転戦し、殊勲を立てました。

 しかし、三木城攻防戦がたけなわの頃、平井山の陣中に胸を病み、一時は京都に移って療養していましたが、固着した戦況を心配しこの地に帰ってきました。
 けれども、病魔には勝てず天正7年6月13日、36歳の若さをもって永歿しました。臨終の時、秀吉に対して将来の「天下人」と予言し息を引き取りました。
 秀吉は「お先まっくら」と人前もはばからず遺体にとりすがったといわれます。”
【写真左】墓所の前付近
 半兵衛の墓は、秀吉本陣跡・平井山ノ上付城跡の西側に祀られている。






竹中重治

 昨年放送された大河ドラマ「軍師 官兵衛」で登場した竹中半兵衛。華奢で繊細、まるで女性のような姿であったといわれている。
 大河ドラマでは、半兵衛を演じたのは谷原章介氏だったが、知的な面を併せ持ち、よくハマっていた。章介氏は以前から思っていたが、その容姿、立ち振る舞いなどからしてこうした役や、平安期の公家・公卿などがよく似合う俳優さんだ。
【写真左】竹中半兵衛の墓・その2
 地元の方々によって墓守りをされているようで、この日もきれいな花が飾ってあった。





 さて、竹中半兵衛は本名竹中重治といい、美濃国、現在の岐阜県大野町にある大御堂城という平城で天文13年(1544)9月11日に生まれている。のちに出会う黒田官兵衛が、天文15年(1546)に生まれているので、官兵衛より2歳年上となる。

 半兵衛の才能を最初に見出したのは信長といわれている。当時仕えていた暗愚の主君・斉藤龍興の居城・稲葉山城(岐阜城(岐阜県岐阜市金華山)参照)を奪取した半兵衛は、その後、信長がこの城を譲るように要求したものの、頑なに拒絶、その後再び龍興に返還している。

 その後、半兵衛は自らの意志で栗原山(城)に蟄居している。資料によっては、この頃既に信長から誘いを受けていたというのもあるが、実際に仕え始めたのは、主君であった斉藤氏が滅亡した永禄10年(1567)後といわれている。そして、半兵衛は信長直参の家臣ではなく、秀吉に仕えることを自ら申出ている。
【写真左】竹中半兵衛の墓・その3












 秀吉の家臣となって全幅の信頼を受けたことを最も示す記録は、姉川の戦い(姉川古戦場跡(滋賀県長浜市三田町・野村町)参照)のときである。この戦いで秀吉が本陣しとしていたのが、近江・横山城(滋賀県長浜市堀部町・石田町)であるが、秀吉は当城を留守にすることが多く、殆ど半兵衛に任せていた。

 横山城は当時浅井氏の持城であったが、織田方(秀吉)に奪われ、そのあとに当時木下藤吉郎と名乗っていた秀吉が城番を務めることになった。半兵衛は当城において常に戦況を見定めながら、適格な作戦を立てていたものと思われる。
【写真左】竹中半兵衛重治公墓詩
 墓所には江戸時代後期(天保年間)、当地を訪れた儒者・山田翠雨(やまだすいう)が、半兵衛の遺徳を偲びここに詩を残した。



両兵衛

 さて、半兵衛の軍師としての評価はこれまで多く語られてきたので、ここでは割愛するが、前記したように、のちに黒田官兵衛が半兵衛と出合い、半兵衛がいわば師匠となって官兵衛の資質を更に伸ばすことになる。そして、二人はその名前から「両兵衛」とも呼ばれ、秀吉の懐刀となった。

 二人はその後強い絆で信頼を深めていくが、特にそれを証明したのが天正6年における荒木村重の謀反のときのことである。

 説得に向かった官兵衛が、逆に村重に捕らわれ幽閉された際、信長は官兵衛が裏切ったものとし、秀吉に人質として預けていた官兵衛の息子・松寿丸(後の長政)の処刑を命じた。秀吉は処置に困ったが、ここで半兵衛が機転を利かし密かに松寿丸を匿った。翌天正7年10月、有岡城は落城し官兵衛も助け出され、松寿丸も父・官兵衛のもとに返された。

 有岡城の戦いで、信長はもとより、秀吉自身もおそらく官兵衛が裏切ったと思っていた状況下である。信長の命に逆らい、自らの所領地であった岩手城(美濃国)に松寿丸を匿うことは、一つ間違えれば、自身の命にも拘わることになる。

 半兵衛が如何に官兵衛に対して全幅の信頼を寄せていたか、このことからもうかがえる。また、後に成人した黒田長政は、このことについて最後まで半兵衛への感謝を忘れなかったという。

2015年8月4日火曜日

秀吉本陣跡・平井山ノ上付城跡(兵庫県三木市平井・与呂木・志染町安福田)

秀吉本陣跡・平井山ノ上付城跡
    (ひでよしほんじんあと・ひらいやまのうえつけじろあと)

●所在地 兵庫県三木市平井・与呂木・志染町安福田
●指定 国史跡(平成25年3月指定)
●築城期 天正6年(1578)7月
●築城者 織田信忠
●高さ 145.07m
●城主 豊臣秀吉
●遺構 郭群・土塁等
●登城日 2014年11月22日

◆解説
 秀吉本陣跡・平井山ノ上付城跡(以下「秀吉本陣跡」とする)は、以前紹介した三木城(兵庫県三木市上の丸)から北東方面へ約3キロ余り向かった平井山に築かれた山城である。
【写真左】「羽柴秀吉本陣」と書かれた幟
 主郭跡に設置されているもので、後段でも紹介するように、この位置には展望台が設置され、南西方向に三木城を俯瞰することができる。












現地の説明板より

“国史跡 「三木城跡及び付城跡・土塁」
  秀吉本陣跡(平井山ノ上付城跡:平成25年3月指定)

所在地 三木市平井・与呂木(よろき)・志染(しじみ)町安福田(あぶた)

 三木合戦の際、羽柴(後の豊臣)秀吉が本陣とした付城です。
 美襄川(みのかわ)と志染川の間に挟まれた山上に位置し、南西に三木城を望むことができます。
【写真左】駐車場
 おそらく国指定を受けた平成25年度に整備されたものだろう。

 登城口が左側にみえるが、その脇に下段の縄張図と併せ説明板が設置されている。

 この日、駐車場には中型のバスが停まっており、ほどなくして20人前後の団体者が下山してきた。
【写真左】縄張図
 北東部に駐車場が設けられ、そこから階段伝いに進むと、太閤道(伝)があり、周囲には段状の平坦地群が取り巻き、主郭(郭Ⅰ)を過ぎて南側尾根に進むと、大手口(推定)とされる箇所がある。

 なお、これとは別に東側に進むと当城の最高所といわれる箇所があり、郭Ⅱと表記されている。


 天正6年(1578)7月、織田信長の長男・信忠が三木城を支援する神吉(かんき)城や志方城(ともに加古川市)を攻略した後、築城したとされています。8月に羽柴秀吉が入ると、10月15日に津田宗久を招いて茶会を開催しました。
 同22日に別所方が襲来して合戦が繰り広げられましたが、別所長治の弟別所治定らが討死するなど、別所方の敗北に終わっています。
【写真左】愛宕社
 登城口の階段を登っていくと、最初に現れるのがこの「愛宕社」とかかれた祠である。





 城は、土塁囲みの平坦部を主郭(Ⅰ)として東西に尾根が延び、その尾根から分かれる北側の尾根には軍勢が駐屯するための段状の平坦地群が設けられています。主郭(Ⅰ)の東側に延びる尾根は、部分的に土塁で囲まれ、櫓台状の土盛りが見られます。
 なお、Ⅱ・ⅢはⅠから独立した曲輪群を形成し、三木城を包囲する付城群の中では最大規模を誇っています。”
【写真左】段状の平坦地群
 当城の特徴の一つで、本陣跡の周辺部にはこうした段状の平坦地群が多く残る。
 兵士の駐屯を目的として施工されたものだが、長径の割に短径(幅)は3、4m前後が多い。


三木合戦

 説明板にもあるように、秀吉が別所長治の拠る三木城を攻め落した戦いである。この合戦については、以前とりあげた三木城(兵庫県三木市上の丸)でも紹介しているので、詳細は省きたい。
【写真左】太閤道
 主郭及びその先の最高所郭Ⅱまで向かう道はほぼ尾根伝いに設置されている。
 地元では(伝)太閤道と呼ばれている。




 なお、説明板にある志方城(兵庫県加古川市志方町志方町720)は既にアップしているが、神吉城は志方城から南に約3キロほど向かった東神吉町神吉に所在する平城で、現在常楽寺という寺院になっている。
 また、ここからさらに南に下がり、加古川を渡ると、三木合戦の際、途中から別所氏と袂を分かち、秀吉方に与し、その後、賤ヶ岳の合戦(賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦)参照)で活躍し、七本槍の1人とされた糟屋武則の居城・加古川城・称名寺(兵庫県加古川市加古川町本町)がある。
【写真左】主郭・その1
 三方を土塁で囲み、南西方向に三木城を望むことができる。
 現地には展望台が設置されている。







織田信忠

 さて、本稿の秀吉本陣跡は説明板にもあるように、築城したのは織田信長の長男・信忠とされている。三木合戦の前、信忠が最も武功を挙げたのが、松永久秀らが籠城した信貴山城攻めである。

 この戦いのあと信長は主だった戦いの総帥として信忠を指名し、信長後継者としてその地歩を固めていくことになる。しかし、その後本能寺の変において父信長とともに自害したといわれる。享年26歳。
 なお、この他信忠に関連する投稿としては次のものがある。
御着城(兵庫県姫路市御国野町御着)
高遠城(たかとおじょう)跡・長野県上伊那郡高遠町東高遠
【写真左】主郭・その2 土塁
 南西方面に向けて構築されたもので、高さは1m弱のもの。
【写真左】主郭展望台から三木城方面を見る。
 方角としてはこの方面と思われるが、三木城がこの写真に入っているのか判断がつかない。
【写真左】主郭を降りて、東側の方へ向かう。
【写真左】櫓台状の土盛
 主郭の東側に向かうと、およそ100m前後の土盛が現れる。
 またその西端にはさらに高くなった箇所があり、櫓があったものと思われる。
 なお、この位置から北に延びる尾根にも中小の郭群(段状の平坦地群)が連続している。
【写真左】大手口まで100mの地点
 大手口は南側とされている。
【写真左】段状の平坦地群
 大手口付近にも平坦地群が多くみられる。
【写真左】大手口(推定)
 説明板より

“秀吉本陣への入口
 与呂木から谷伝いに上る登城道の本陣入口で、両側を一段高く切盛りし、段状に平坦地を設け、見張りなどの兵を駐屯させたと思われます。”