2014年2月11日火曜日

霊仙山城(愛媛県今治市旦・宮ヶ崎字上成乙)

霊仙山城(りょうぜんやまじょう)

●愛媛県今治市旦・宮ヶ崎字上成乙
●築城期 南北朝期か
●築城者 不明
●備考 国分山城支城
●城主 中川親武・通任(戦国期)
●廃城年 天正13年(1585)
●遺構 城門、石垣、土塁、郭、堀切等
●高さ 157m(比高140m)
●登城日 2013年9月22日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
 霊仙山城は、前稿脇屋義助廟堂(愛媛県今治市国分4丁目)から南に約2キロほど向かった標高157mの霊仙山に築かれた城砦である。

 そして、以前紹介した世田山城(愛媛県今治市朝倉~西条市楠)や、笠松山城(愛媛県今治市朝倉南)の北方に位置した独立山城でもある。

 当城の西麓には、戦国期の城主であった中川親武が建立したとされる円久寺があり、当院には縁起と併せ、霊仙山城とのかかわりを記した説明板があり、次のように掲載されている。
【写真左】霊仙山城遠望
 2009年10月に登城した南方に聳える笠松山城(下段の写真参照)から見たもの。
【写真左】霊仙山城から脇屋義助廟堂など国分方面を俯瞰する。

 上下2枚の写真を見ても、南北朝期から戦国期の前半まで主だったこの辺りの城砦は、ほとんど「海城」であったと推測され、村上水軍をはじめとした制海権を持つ水軍領主が、紛れもなく勝敗のカギを握っていたものと思われる。



円久寺由緒より

“円久寺の由緒

 霊仙山城主中川山城守親武は、伊予の国を守っていた河野18家の一族で松山の藤原村(今の伊予鉄市駅付近)に居住していたのであるが、河野本家の河野道直(道後湯築城主)の命により、霊仙山城主として派遣されたのである。
【写真左】円久寺
 今治バイパス(R196 )の高市交差点から南に進み、頓田川沿いに進むと、霊仙山の北西麓に建立されている。




 その親武が郷里の藤原村の寺を迎えて建てたのが円九寺で、御本尊は薬師如来であり、建立は天正元年で今より410年前である。親武はその後5年にして天正5年旧暦12月7日に54歳で病気で亡くなった。

 例祭は新暦1月7日に行われている。なお、350回忌が昭和元年に当たるのを紀念して、親武を祀る山城堂が新築され、400回忌の法要も昭和50年に盛大に行われたのである。

 親武が亡くなったので、弟の常陸介通任(みちとう)があとを継ぎ、霊仙山を守っていたのであるが、8年後の天正13年に来島通総(みちふさ)のために、激戦回を重ね遂に落城され、逃げて讃岐にかくれており、30年後に大坂夏の陣で討死したために、その墓所は当地にもなく所在不明である。
【写真左】登城口に至る。
 当院の奥に墓地があり、その奥に進むと、霊仙山城の登城口がある。

 写真中央部の箇所。ここから本丸まではおそそ700mとされているが、実際はもう少しあったような気がする。


 当時の戦いに参加した家来には、麻生・世良・渡辺・秋山・石丸・加藤・村上・長井家があり、これらの家の方は後年戦火により荒れた寺の再興につくしたのである。

 尚、親武の娘は天正7年に亡くなられ、お姫さんとして南山腹に祀られており、400年祭の法要も行われた。更に親武の妹は、家老大炊介の妻となっており、十二社さんの麓の麻生本家の墓所に祀られており、大炊介の400年祭も昭和49年に親族により盛大に行われたのである。
【写真左】登城道
 主だった部分はごらんのような手すり、階段が敷設されており、地元では手ごろなハイキングコースとなっているようだ。




 次に円久寺が曹洞宗として正式に認められたのは寛文6年で、それ以前の住職は7代あるが、認証後は17人で、17世が現在の村上徳存和尚で、16世が藤原画雲和尚である。この画雲和尚は山林や畑等の開墾整備をすると共に、昭和元年に山城堂を、昭和6年に庫裡を、昭和40年に本堂を新築するなど、その功績は甚大であったが、昭和45年9月3日に89歳で亡くなられたのである。
【写真左】霊仙山城遠望
 登城途中のピークで当城の頂部が見える。









 尚、前4代目の清室和尚は、世良家に生まれ出家して住職となり、円久寺の中興に努力せられたので、画雲和尚と共に円久寺再興に特に功績大であったとして、戒名では最高位の称号が贈られている。これら歴代の和尚さんの墓は、山城堂の西隣に祀られてある。

 尚、円久寺・山城堂・お姫さん・麻生本家は勿論、檀家のご先祖全体を見守って下さるのが十二社さんであり、南山腹に祀られていたが台風で倒壊したので、昭和57年4月にコンクリート建に再建したのである。
    記 昭和57年 1982年”
【写真左】もう一つの登城道と合流
 登城道は円久寺側からのものと、谷を一つ隔てた北側の登畑からのものがある。
 ただ、ここから合流して一本の道になる。



築城期・築城者

 霊仙山城の築城期や築城者ははっきりしない。しかし、『日本城郭体系第16巻』によれば、当城は前稿脇屋義助廟堂(愛媛県今治市国分4丁目)で紹介した国分山城の支城の一つであったとされる。
 このため、築城期も南北朝時代を降るものではないだろう、としている。

 当城の位置を見てみると、写真でも示したように、本丸から俯瞰すると、北方2キロの位置には脇屋義助廟堂や国分山城が控え、南東方向へ目を転ずると、笠松山城・世田山城が重なるように背尾根の頂を見せている。まさに南北朝期の南朝方最後の戦いの場所となったであることは論を待たないだろう。
【写真左】郭段
 本丸直下、200m手前には中央部に堀切跡と思われる鞍部の前後に郭段が確認できる。
 ここまでは割と緩やかな坂道だが、この先からは急傾斜の箇所が出てくる。


遺構

 霊仙山は東西1キロ、南北1.6キロのほぼ独立した山である。城砦としての規模はさほど大きなものではないが、西尾根や南尾根には広い谷が構成され、要所には水源も確保されていた。

 現在明確な遺構を残すものは、頂部にある東西30m×南北80mの楕円形の主郭と、登城途中に見える二の丸と見れる削平地がある程度で、特記されるものは余りない。
【写真左】本丸北端
 少し息が荒くなったところで、本丸の北端・切崖が見える。









 しかし、当城がもっともその価値を持っていたのは、前記したように国分山城の支城であったことや、南北朝期における世田山・笠松山城攻めの際、北朝・南朝方ともこの城砦が戦略上重要な位置を占めていたことだろう。
【写真左】本丸
 北側から見たもので、9月の登城だっため、ご覧の通り雑草が繁茂している。







戦国期

 説明板にもあるように、戦国期は河野18家の一つといわれた中川家の親武が城主といわれる。菩提寺である円久寺が親武によって建てられたのが天正元年(1573)といわれているから、入城したのもおそらくこの直前だろう。

 入城の命を下したのが、説明板にもあるように、河野本家の河野道直(道後湯築城主)とされている。説明板では、道直とされているが、一般的には「通直」である。ただ、ここで混乱するのは、河野氏累代の中で、この時期「通直」なる人物が実は二人存在している。
【写真】土塁
 要所に土塁が認められるが、当時は全周囲に渡って構築されていたものと思われる。

 本丸付近には特徴的な遺構は認められないが、南北間で北側1/3と区画された段差が見える。


 一人は、河野氏22代・通清から数えて9代目に二家に分かれたうちの一つで、通義(30代)から教通を経て孫となった(通宣の子)・通直で、もう一人は通生から通吉の子となった通直である。
 最初の通直は、同氏当主36代で、官位は弾正少弼とされ、もう一人の通直は39代・伊予守である。
【写真左】笠松山城と世田山城
 おそらく、右側の突起した位置が笠松山城本丸で、左側の尖った山が世田山城と思われる。






 36代弾正少弼には嫡男がいなかったため、後に通義の兄弟で、予州家を興した通之の流れを組む晴通が、弾正少弼に養子に入り、晴道が亡くなると、再び予州家から晴通の弟・通宣が家督を引き継ぎ、その後継に伊予守通直が継ぐことになる。つまり、36代の通直から39代の通直までは嫡嗣でなく、養子の形が多い。
【写真左】八幡神社
 円久寺を少し下った位置に祀られている。
 この付近には古代・中世の史跡が大変多く、「宮ヶ崎18寺社参拝コース」というものも作られている。

 八幡神社は、斉明天皇(白鳳時代・661年頃)豊前(大分県)宇佐八幡宮から勧請されたもので、戦国期、霊仙山城主・中川山城守が敬神奉献したが、長宗我部氏による攻略の際、戦禍を受けた。その後地元民によって再興され今日に至っている。


 さて、ここまで同氏系譜をなぞってみたが、円久寺の縁起説明板に記されていることが事実としても、残念ながら中川親武に霊仙山城に入城を命じた通直が36代なのか、39代なのか、管理人としては判断がつかない。

2014年2月9日日曜日

脇屋義助廟堂(愛媛県今治市国分4丁目)

脇屋義助廟堂(わきやよしすけ びょうどう)

●所在地 愛媛県今治市国分4丁目
●探訪日 2013年9月22日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
 前稿来島城(愛媛県今治市波止浜来島)から南に12キロほど下ると、四国霊場第59番札所・金光山最勝院 国分寺がある。この地域は往古伊予の国府があったところで、いわば伊予の文化経済発祥の地でもある。

 甘崎城(愛媛県今治市上浦町甘崎)でも述べたが、平安期には藤原純友による天慶の乱において当地もまた灰燼に帰した。更に南北朝期になると、南朝方が最後の砦として戦った地域でもある。そして、南朝方の総帥・脇屋義助がこの地で病没したところでもある。
【写真左】脇屋義助廟堂
 後段にもあるように、この廟は江戸時代に建立されているもので、円柱型の形式のものとなっている。






脇屋義助

 脇屋義助についてはこれまで、

脇屋義助の墓(鳥取県倉吉市新町 大蓮寺)
田尾城(徳島県三好市山城町岩戸)
星ヶ城・その1(香川県小豆島町大字安田字険阻山)
世田山城(愛媛県今治市朝倉~西条市楠)
備中・福山城(岡山県総社市清音三因)
川之江城(愛媛県四国中央市川之江町大門字城山)

 などで度々取り上げてきたので、本稿では詳細は省くが、南北朝期に活躍した南朝方の武将で、新田義貞の実弟である。
 兄の新田義貞が亡くなった後、南朝方の総帥として伊予今治において北朝方と最後の戦いを決するべく、越前から赴くが、不運にも当地で病没した武将である。

 彼の墓としては、上掲の鳥取県倉吉市大蓮寺のものを既に紹介しているが、当稿でも述べたように、この墓は、いわゆる供養塔(山名時氏によって建立されたと思われる)であって、今稿紹介するものが本当の墓ということになる。
【写真左】四国霊場第59番札所・金光山最勝院 国分寺 本堂
 四国の霊場に近い山城探訪の折は、できるだけ札所にお参りしてから向かうようにしている。

 遍路さんたちのように、正式な参拝や読経はできないが、それでもなんだかんだで、半数(44)以上の札所には参拝してきたようだ。

 
現地の説明板より

“脇屋義助公廟堂の由来

 延元元年(1336)5月、楠木正成、新田義貞らの連合軍を摂津国湊川に打ち破った足利軍は、戦勝の余勢をかって、京都に攻め入った。同年6月、京都の東寺に入った尊氏は、持明院統の光明天皇を皇位につけて政権の合法化をはかり、後醍醐天皇を洛中の花山院に幽閉して、北朝中心の体制をかためた。そこで、天皇はひそかに花山院を脱出し、大和国吉野に潜幸して吉野朝廷をひらいた。
【写真左】脇屋義助廟案内の石碑
 国分寺前にある鐘突堂の脇に案内を示す石碑が建っている。







吉野朝忠臣 従三位脇屋刑部卿源義助公霊廟道 是ヨリ二丁

 と刻銘されている。


 そして尊氏追討の綸旨が諸国の武将に発せられた。ここに、尊氏が擁立した京都の北朝(光明天皇)と、吉野の南朝(後醍醐天皇)の両皇統が並び立ち、諸国の武士は南北の二派にわかれて、熾烈な抗争が各地で展開された。しかし、戦況は南朝方に不利に展開、新田義貞、北畠顕家などの有力武将が相次いで討死、後醍醐天皇も崩御されたので、南朝方の勢力は急速に衰えていった。そこで、後村上天皇は失った勢力を西国で回復するべく、新田義貞の弟脇屋義助を南軍の総帥として伊予に下した。
【写真左】 春日神社
 国分寺の東隣に祭られている。
縁起によれば、後冷泉天皇の永承5年(1050)8月、国分寺第12世権大僧部雲海が国分寺の鎮守として当社を勧請した、とあり、以前は国分寺境内に本社が建立されていたようだ。

 ちなみに、後冷泉天皇の母・藤原僖子は、平安期摂関政治の頂点に立った藤原道長の六女である。


 興国3年(1342)5月、義助の一行は、塩飽水軍(佐々木信胤)の船団に護送されて、今張(今治)の浦に到着した。しかし義助は不運にもその直後に病に倒れ、国分寺に急逝した。薨年(こうねん)は38歳であった。

 この報せをうけた阿波の守護細川頼春は、義助の死を好機とみて、総勢7千の大軍をひきいて伊予に侵入、南朝方が最後の砦とたのむ世田・笠松城を七方から包囲した。
 熾烈な攻防40有余日、南朝方は衆寡敵せず、ついに世田城は落ち、大館氏明ら十七士は山中で壮烈な自刃を遂げた。

 現在の義助公の廟堂は寛文9年(1669)今治藩士町野政貞らが再建したものである。
 また、廟堂の脇には、今治藩の儒学者佐伯惟忠が建てた表忠碑があり、貝原益軒の讃文を刻んでいる。
      今治市教育委員会”
【写真左】廟堂脇の坂
 この場所に至るまで案内標識がほとんどなく、大分ウロウロしたが、途中からこの坂に向かう位置にきて分かった。
 写真の左側に入口がある(下段写真参照)
【写真左】入り口の階段
 この階段を上がり、堂の裏に回ると義助の廟堂が建立されている。


 




国分山城・国分寺

 義助廟堂が祀られている箇所は、写真にもあるように、四国霊場第59番札所・国分寺から歩いて東に300m程歩くと、こんもりとした丘があり、階段を登ったところに祠堂が祀られ、その建物のうしろに祀られている。
【写真左】義助廟堂
 裏側から見たもの。











 そしてそこからさらに東に向かうと、標高100m余りの唐子山という山がある。

 この山の頂部を中心に北東麓に屋敷を構えたとされる国分山城がある。

 築城期は不明ながら、文献史料に初めて出てくるのは、興国3年(1342)5月である。上掲の説明板にもあるように、当城に拠ったのはまさに、脇屋義助が総帥となって、南朝方の拠点とした時期である。
【写真左】国分城主・小川土佐守祐忠夫妻、及び家臣の墓
 義助廟堂のすぐ脇には、国分城主・小川土佐守祐忠夫妻等の墓が祀られている。

 戦国期における国分(山)城は、毛利氏(小早川隆景)が伊予平定後、入封のないまま、筑前に転封され、その後福島正則が湯築城から移るも、文禄4年(1595)尾張清州城へ転封。そのあと、池田秀氏が城主となったが、慶長年間の朝鮮出兵で戦死したため、小川祐忠が入った。

 ところが、関ヶ原の戦いで西軍に与したため、戦後領地を没収された。そして戦いのあと入ったのが、藤堂高虎である。しかし、高虎はこの城は近世城郭としては不向きで、結局この城を廃城とし、新たに現在の今治城を築くことになる。



 残念ながら、義助廟探訪のあと、当城に登城すべく麓の登山口を捜したがなかなか見つからず、この日は登城できなかった。いずれ機会があれば、当城も登城したいと思っている。
 なお、当城については、『城郭放浪記』氏がアップされているので、ご覧いただきたい。
【写真左】霊廟のある丘を遠望
 霊廟のある丘を過ぎて、ご覧の堤土手を進むと、国分山城に至る。(下段の写真参照)
【写真左】国分山城遠望
 霊廟側の丘と、国分山城の間には現在鳥越池という溜池がある。

 池の北方は大きく改変され住宅団地が建っているが、東の国分山城と、霊廟側の間にあるこの池は、南北朝期にはおそらく谷を形成し、その南端部は、燧灘と繋がった入江の地勢を見せていたものと思われる。

2014年2月6日木曜日

来島城(愛媛県今治市波止浜来島)

来島城(くるしまじょう)

●所在地 愛媛県今治市波止浜来島
●築城期 応永26年(1419)
●築城者 村上吉房
●城主 来島村上氏
●形態 水軍城
●遺構 郭・館跡・桟橋跡ピット・石垣
●規模 200m×300m
●高さ 海抜42.1m
●登城日 2014年1月29日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
 四国伊予方面に向かう際、瀬戸内しまなみ海道を利用するが、来島海峡第三大橋を通るたびに、カーブにさしかかると北西方向に瞬間だがこの来島が見えていた。
【写真左】来島城遠望
 西方の対岸波方町大浦付近から見たもの。

 手前の道路からは直線距離で約300m程度しか離れていないが、間の瀬戸の潮の流れは常に早い。


 管理人にとって、孤島にある海城登城は山城登城とはまた違った趣がある。船を使って島を訪れるという経験は、以前小豆島の星ヶ城などがあったが、こうした小規模な島に渡るという経験はなく、今回言い知れぬちょっとした興奮と不安が脳裏をよぎる。連れ合いは小豆島のときもそうだったが、乗る前から「船酔い」を気にしながら、しぶしぶ付き合った。
【写真左】渡船乗り場
 奥には4,5万トン級の船が数艘浮かんでいた。










燈明台(とうみょうだい)

 波止浜(はしはま)というこのあたりは、下段の説明板にもあるように、深く入り込んだ湾となっており、東西両岸には大型の船舶を製造する造船所のドックが並び、そこに設置されたクレーン機械などが賑やかな音を立てている。

 来島に向かうには、波止浜港の西岸「新来島どっく波止浜工場」の南にあるバス停前の発着場から運行している渡船を使う。
 丁度、この一角には「燈明台」という灯篭風の石塔が建っており、波止浜港の中央部に当たる。

“燈明台

 奥深い入江が箱のような形をした波止浜湾は、筥潟湾(はこがたわん)と呼ばれ、古くから帆船の重要な風待ち、潮待ちの天然の良港で、戦国時代は来島水軍の船溜まりとして重要視され、天和3年(1683)以降の塩田開発による町家の増加、塩買船、塩田資材を供給する船の出入りが多くなり、港町として発展し、伊予の小長崎といわれるほどに成長した。

【写真左】燈明台
 左の白い壁の建物が渡船切符売り場(自動販売機)を兼ねた待合室。









 元禄16年(1703)には港の入り口に出入船舶を監督する船番所が置かれ、船舶と他国者の出入りを厳しく取り締まり、船税の徴収にもあたった。今もその付近を御番所前(ごばんしょまえ)という。(現在地より北の方、ドックの中あたり)

 この大燈明台は、嘉永2年(1849)に御番所前に建てられたもので、高さ約6メートルあり、海上の安全を祈願したもので、当時の波止浜の人々の意気を示している。明治35年(1902)に現在地に移された。
 南面に嘉永二己酉十月吉日、海上安全と彫られ、東面には金比羅大権現と彫られている。
 この前から来島、児島、馬島への渡船が発着している。”
【写真左】対岸(東方)小浦町側の造船所
 写真にみえる小山には、展望台など公園施設があるが、こちらにも糸山城という城砦が築かれていた。
 おそらく来島城の支城のような役割を持っていたものと思われるが、詳細は不明である。


 平日だったこともあり、波止場付近の駐車場に車をとめ、近くの待合室にある自動販売機で往復の切符を買う。そこから、少し歩くと桟橋があり渡船が止まっていた。出航前まで少し時間があったので渡船の船長さんと立ち話をした。

 「お客さんは殆ど釣り客が多いが、最近は来島城を訪れる人も少し増えてきたようだよ。村上水軍のことをよく聞かれるが、一口に村上水軍といっても色々あって、来島水軍も歴史が長いことは知っているが、それ以上詳しいことはわしらも分からんよ…」

 と少し申し訳なさそうな顔をしながら答えてくれた。立ち話をしている間に、4,5人の釣り客が船に乗り込んでくる。平日でもこうして途切れることなく、来島など三島へ釣りを目的に客が乗り込んでくるようだ。
【写真左】来島城遠望
 渡船の先端部(ランプウェイ)から望む。









来島城

 波止浜から出た船は来島までわずか5分という短い船旅だ。出航するとすぐに来島に向かって真っ直ぐに船が進む。舟は全長7,8m位か、乗船定員は20名程度で、屋根のついた客室があるが、乗船時間が短いせいか、だれも中に入らず、外のデッキにある椅子に座る。

 先端部のランプウェイから来島城の姿が目に入った。渡船する前、西岸部からは細長い島に見えたが、南側から見ると島の幅はさらに小さく見える。
 
 連合いが心配していた「船酔い」をする間もなく、来島に着いた。船着場に降りてスロープ状のタラップを進むと、奥に八千矛神社と御先神社が出迎えてくれる。その脇に当城由来の説明板が設置してあった。
【写真左】八千矛神社
 隣接して東側には御先神社、岩戸神社などが祀られている。
 奥の方は来島城本丸が遠望できる。






“来島城跡

 伊予水軍一千年の歴史の中で、特に南北朝時代には村上水軍と称して、来島、能島、因島に分かれ、強大な勢力を誇った。来島氏はこの島を本城とし、島々に城砦を築き、海上を支配していた。戦国時代には八幡大菩薩の旗印を押し立て、朝鮮、支那沿岸にまで押しかけ和寇として恐れられ勇名をあげた。
 徳川時代に九州豊後の山奥に移され、伊予水軍の歴史は終わった。この絵図は来島氏の城砦絵図で山上は幾段にも仕切られた跡があり、磯には館の柱穴が多く残り、島内には矢竹なども生えている。
    水軍観光ルート協議会”
【写真左】来島城要図
 島の待合室のような建物の壁に設置されているもので、配置などがよく分かる。

 北側から南にかけて細い尾根を使って、本丸・二の丸・三の丸を構え、二の丸の東方に館跡があったとされている。











来島村上氏

 来島城が築かれたのは応永26年(1419)のこととされている。室町幕府第4代将軍、足利義持のころである。

 来島村上氏は、伊予海賊の頭領村上義顕の三男吉房が分家独立し、来島に入島し来島村上氏を名乗ったのに始まるという。

 ちなみに、吉房の父、村上義顕については詳細は分からないが、以前甘崎城でも少しふれたように、この村上氏も後期村上氏、すなわち南北朝期、南朝方の命によって下向したとされる北畠親房(田丸城(三重県度会郡玉城町田丸)参照)の孫(自称)といわれた師清以後の村上氏の流れとされる。
【写真左】登城口付近
「来島村上水軍」と書かれた幟が建っているが、ここから左方向が城域で、右方向に行くと柱穴に辿りつく。




 親房の子で、悲運の公家武将といわれた顕家(あきいえ)(北畠氏館跡・庭園(三重県津市美杉町下多気字上村)参照)の嫡男に顕成(あきなり)がおり、伝承では『太平記』の作者の1人ともいわれ、また一方では村上水軍の祖ともいわれてる。

 師清が自ら親房の孫と名乗っているようだが、もしそれが事実とすれば、師清は北畠顕成自身ということになるが、真偽のほどは解らない。ただ、村上義顕という名に「顕」が使われていることを考慮すると、北畠氏(顕家)と何らかのかかわりのあった武将だろう。
【写真左】村上神社
 高さはさほどないものの、急な階段を上がると村上神社が祀られている。

 すでにこのあたりから城域となっており、ここから東に進むと、心月庵という旧館跡がある。


 室町期には河野氏の被官として活躍しているが、その後伊予本土の野間郡・風早郡・越智郡などへ勢力を伸ばし、四代出雲守通康の頃になると、もっとも隆盛を誇った。当時、主家の河野通直は通康の能力を高く評価し、嫡女を通康に嫁がせ、さらに天文12年(1543)には嫡男が居なかったため、自分の後継者として指名した。しかし、河野氏家臣団は彼通康が海賊衆であることを理由に異を唱え、来島城を襲った。これを第一次来島合戦という。
【写真左】心月庵
 来島氏の館跡とされているところで、現在写真のような建物が建つ。

 なお、この建物の後は高さ3m程度の高さで郭が控え、東側(右)には土塁が残る。


 その後、通直は分家の河野通政に譲るということで一応の和睦となった。時は移った26年後の永禄12年(1569)、元来島家の家臣であった池原牛福丸が河野家を継いでから同氏の統制は乱れ、能島村上氏などとも衝突するようになった。

 天正10年(1582)、秀吉(信長)ら西国制覇を進めた時、他の村上氏と袂を分けた来島村上氏は毛利・河野氏からも離反し、織田方に走った。このため、能島・因島両村上水軍は、来島城をはじめとする来島村上氏の拠点を次々と襲い、当時の城主来島(村上)通総は遂に来島城を捨て、秀吉の下に敗走した。
【写真左】二の丸付近
 東側にある心月庵(館跡)から再び尾根側の二の丸に戻る。

 三の丸は平坦な郭だが、二の丸は北の本丸に向かって登り勾配がついている。


 その後、秀吉が四国征伐を開始した天正13年の際は、通総が先陣として伊予に攻め入り、その功によって風早郡に14,000石の領地を与えられた。この段階で来島城は廃城とされ、旧領にあった城砦も悉く破却されたという。
【写真左】二の丸から東側の郭段を見る。
 南北に連続する本丸・二の丸・三の丸とは別に、東側にはこうした幅の広い郭が構築されている。
【写真左】本丸・その1
 凡そ長径30m×短径6,7mの規模を持つもので、東・北・西端は天険の要害となっている。
【写真左】本丸・その2
 ほとんどフラットな仕上げなっているが、北側の一角には30cm程度の窪みが認められる。
 虎口若しくは、何らかの施設があったものだろうか。
【写真左】本丸・その3
 北側から南を見る。少し弓なりの形状となっている。
【写真左】本丸から来島瀬戸を見る。
 この位置からでも潮の流れが急であることが分かる。
【写真左】本丸からしまなみ海道来島海峡第三大橋を見る。
【写真左】埠頭から遠見山城を見る。
 この位置からはかすかに以前取り上げた遠見山城(愛媛県今治市波方町郷)が見える。

2014年2月1日土曜日

泊崎城(広島県尾道市瀬戸田町宮原)

泊崎城(とまりさきじょう)

●所在地 広島県尾道市瀬戸田町宮原
●築城期 不明
●築城者 不明(村上氏か)
●城主 不明(村上氏か)
●高さ 標高11m
●遺構 ほとんど消滅
●形態 水軍城
●登城日 2013年5月22日

◆解説(『日本城郭体系第13巻』等)
 泊城は、前稿甘崎城(愛媛県今治市上浦町甘崎)のある大三島の東隣の島・生口島にある水軍城である。

 ただ、初めに断わっておきたいのは、当城に関する資料がほとんどなく、城名も当城とは別に近くに「宮崎城」というのがあって、場合によっては、「宮崎城」である可能性もある。
【写真左】泊城
 手前には数軒の家が並んでおり、たまたま附近におられた地元の奥さんに登城道を尋ねたところ、お隣さんの家の脇を通っていけるという。
 その奥さんに、御丁寧にそのお宅の方まで案内していただき、ご了承を得た。

 この写真が頂部で主郭ということになる。手前の岩の角を登っていく。
 

標高11mの山

 冒頭にもあるように、その標高はわずか11mである。地図では「城山 11m」と記載されているので、一応地理学的には「山」の扱いであるが、高さがわずか11mなので、山というより小丘と呼んだ方がふさわしいかもしれない。

 さて、先述した「宮崎城」については、村上氏の家臣・救井景国が城主であったとされているので、当城もおそらくこの救井氏に関係する武将がかかわっていたものと思われる。

 せっかくだったので、件の奥さん方に当城の由来などを尋ねてみたが、「城山(しろやま)」ということ以外は分からないという。もっとも、昔はこの場所から南西部にかけてもこのような岩と砂の混じった丘が続いていたということで、当時の城山の規模はもう少し浜に沿って伸びていたと考えられる。
【写真左】横から見たもの。
 おそらく切削された箇所だろう。
【写真左】主郭先端部から見る。
 防波堤が伸び、近くに宮原の漁港がある。
【写真左】宮原の漁港
 左側に霞んで見える島は、伯方島。
【写真左】主郭から宮原の町並みを見る。
 この辺りは全体に低地となっているので、中世戦国期にはまだ海面、もしくは干潮時のみ浜となっていたのかもしれない。
【写真左】浜ノ宮神社
 近くには浜ノ宮神社が祀られている。

 宮原という地名はこの社から命名されたと思われる。
【写真左】鳥居
 浜ノ宮神社を前にした浜に鳥居が建っている。

 この位置にあるということは、当時鳥居の下まで舟で来て、参拝していたということかもしれない。
 
 奥に見えるのは岩城島。

2014年1月31日金曜日

甘崎城(愛媛県今治市上浦町甘崎)

甘崎城(あまさきじょう)

●所在地 愛媛県今治市上浦町甘崎
●別名 古城山甘崎城
●築城期 天智天皇10年(671)
●築城者 越智氏
●城主 今岡民部(三島村上氏)、村上吉継、藤堂大学頭(大輔)等
●廃城年 慶長13年(1608)
●形態 水軍城
●遺構 郭・井戸跡・石垣・桟橋逆茂木用ピット・海門跡・祭祀跡・石湯跡等
●指定 県指定史跡
●規模 300m×80m
●探訪日 2013年7月1日(甘崎城)、2014年1月27日(向雲寺)

◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
 甘崎城は、しまなみ海道を横断する島の一つ大三島(現今治市)の東方上浦甘崎の東岸に浮かぶ島に築城された日本最古といわれた水軍城である。
【写真左】甘崎城遠望
 対岸の岸壁から見たもの。
【写真左】甘崎城概要図
 伯方島にある「ふるさと歴史公園居館」に掲示されていたもので、愛媛大学考古学教室調査資料による。



現地の説明板より

“古城島甘崎城跡
   (愛媛県指定史跡)

 古城島甘崎城跡は古名を天崎城と記され、守護神を祭る甘崎荒神社(現地)の伝えによると天智天皇10年(671)8月7日、唐軍の侵攻に備えて、勅命によりて築城すと云。

 その初名を上門島海防城といいし由、以て日本最古の水軍城とすべく、以来瀬戸内水軍史上にその名を記し、重ねることはなはだ多く、元禄4年(1691)この沖を航したドイツ人ケンペルも帰国後、「日本誌」その雄姿を記して「海中よりそびゆる堡壘あり」と述べた。

 今日の姿になったのは幕末のころらしく、海底にはなお築城礎石の巨石の列20余条延べ約1000メートルを存し、その技法の一部は古代に属するものと見られている。”
【写真左】甘崎城遠望
 大三島の東方に浮かぶ生口島の瀬戸田パーキングエリア(しまなみ海道)側から見たもの。

 





上門島海防城

 当城の築城期が天智天皇10年(671)とされているのは、当地にある甘崎荒神社の御由緒調査書から紹介された『伊予越智誌』によるもので、水軍城としては最も古いものとされている。ただ、詳しく見れば、以前紹介した讃岐の引田城跡(香川県東かがわ市 引田)などは、これより4年ほど遡った天智6年(667)に築城されている。
【写真左】南側
 干潮時には歩いて渡ることができるようだが、この日訪れた時はその状況ではなく、遠望のみとなった。





 どちらにしても、天智2年(663)8月27日、朝鮮半島白村江において日本と百済の連合軍が、唐・新羅連合軍に大敗したことによって、日本が帰国するや否や、対馬・壱岐などに防人・烽火を設置し、筑紫に水城を築いたのを起点として、西国地域もそれにあわせて築かれたもので、築城年はそれぞれ多少の違いはあるものの、同じ目的のもとに築かれたものと思われる。
【写真左】北側
 この写真では分かりずらいが、満潮時には、北側の淵からさらに間を開けて小さな島が見える。
 この島も当城の一部だったと思われる。



 ちなみに、唐や新羅の侵攻という危機を受けつつあった西国に対し、時の中央・大和朝廷では、大織冠と大臣の位を受け、藤原の氏を賜った中臣鎌足が、興福寺を創建しているが、3年後の天智11年には、壬申の乱が始まるという内外ともに不穏な時を迎えている。

 甘崎城が築城された当時、防衛のため当然ながら甘崎城以外の芸予諸島の要衝にも同じような城砦が築かれた。因みに、この当時甘崎城付近を上門島海(大三島・伯方島・生口島)といっていたことから、甘崎城を上門島海防城といい、南の大島~波方(四国)の来島海峡(中門島海)に築城されたものを、中門島海防城、さらに下がった風早鹿島を下門島海防城と呼んだ。
【写真左】北東部に生口島を見る。
 甘崎城と対岸の生口島(尾道市瀬戸田町)の間が愛媛県と広島県の境になる。





 天慶の乱

 甘崎という名称の語源になったのは、上記した三城の「海防」から来たものといわれている。「海」は「あま」で、「防」は「さき」で、従って元は「海防城(あまのさきじょう)」であろう。

 また、これまで海に面した城砦を「水軍城」として、度々紹介しているが、そもそも「水軍」という名称が使用されたのは昭和に入ってからで、一般的には「海城」を根城として、そのもとに軍船や兵員を常備する戦闘集団であった海賊衆を示す。
【写真左】説明板
 岸壁に設置されている。


 さて、往古に築かれた甘崎城が具体的にその機能を果たしたのが、時代がやや下った天慶の乱のときである。
 乱の詳細については省くが、瀬戸内でもっともその名が知られるのは、藤原純友である。

 藤原純友については、以前取り上げた筑前の大宰府政庁跡(福岡県太宰府市観世音寺4-6-1)でも紹介しているように、元はその名が示すように平安期の朝廷にあった貴族だが、運悪く都を追われるように西下し、当時伊予守であった父の従兄弟藤原元名を頼り、当初は瀬戸内の海賊を鎮圧する役人となっていた。

 しかし、時をほぼ同じくして関東にあった坂東武士平将門が兵を挙げると、呼応するように純友も瀬戸内海賊衆を率いて挙げた。中央政権に対する不満は、将門と同じく純友にも共通するものがあったのだろう。
【写真左】大宰府政庁跡




 純友は瀬戸内を中心に、東は畿内・播磨方面から、西は鎮西大宰府をも襲撃、略奪を図った。
 純友が本拠としていたのは、瀬戸内からは遠く離れた宇和島市の西方、豊後水道に浮かぶ日振島である。最盛期には純友は約1,000艘以上の軍船を従えていたというから、前記した三城方面を含め、瀬戸内海をほぼ手中にしていたと考えられる。

 その後、朝廷は大軍を率いて純友鎮圧のために西下し、天慶4年(941)5月20日、追捕凶賊使(追捕使)小野好古らが、博多湾にて鎮圧、伊予に逃れた純友は、同国警固使橘遠保により討たれたといわれるが定かでない。

大山祇神社

 ところで、甘崎城は大三島と指呼の間だが、大三島は古来より大山積神を祀る大山祇神社がある。現在総本社は同島西岸にあるが、元は南東部(後段の向雲寺方面)にあったといわれ、甘崎城も他の水軍城と同じく深く関わりがあったという。
【写真左】大山祇神社・本殿



 平家・源氏とも深く崇拝し、武運長久を祈り、その流れは戦国期の瀬戸内争乱の際も絶えることがなかったという。このため、多くの刀・武具等が奉納されている。

【写真左】向雲寺
 甘崎城を望む岸壁から南に約2キロほど向かった丘陵地の中腹に創建された寺院。
 戦国期末になると、藤堂高虎の支配地となり、藤堂大輔(従弟・良勝)が城主となった。

 当院には彼の墓碑があると記録されており、この日参拝し、墓地・境内を散策したが残念ながら見つからなかった。

遺構

 江戸時代末期より明治にかけて、大三島では水田開発が行われ、その護岸工事として甘崎城に残っていた石垣が使われたという。このため、現地にはすでにそれらはほとんどないものの、干潮時になると、北岸と南岸にその基底部に設置された石列が露出する。また、石垣以前に設置されたとされる桟橋や防御用の逆茂木設置のための穴が幾何学的に配置されている。
【写真左】向雲寺にある「いも地蔵」前の拝殿
 現地には「甘藷地蔵」の説明板が設置されている。

 甘藷(かんしょ)と読むが、通称サツマイモと呼称されているもので、江戸時代全国的に飢餓に苦しんだとき、同島出身の下見(あさみ)吉十郎(1673~1755)が、薩摩国伊集院村から国禁を犯しながらも甘藷を持ち帰り、島の農民に栽培方法を教え、それが芸予諸島一帯に広まり、飢餓を救ったといわれる。
【写真左】甘藷地蔵
 吉十郎が亡くなった後、島民らが彼の業績を讃え、甘藷(いも)地蔵が建立されたという。

 なお、吉十郎の先祖は伊予河野氏の出で、河野通直が没落したとき帰農したという。



廃城

 冒頭にも記したように、当城の廃城年は慶長年間である。天智天皇の白鳳時代から江戸初期までの約900年余にわたってこの水軍城は活用されたことになる。それだけ瀬戸内における水軍城(海城)が果たす役割は、時の支配者や、関わった水運経済などに大きなものをもたらしてきたという証左でもある。
【写真左】向雲寺墓地から甘崎城を遠望する。
 奥に見える橋は、瀬戸内しまなみ海道の多々羅大橋