2011年1月4日火曜日

小石見城・その2(島根県浜田市原井町)

小石見城(こいわみじょう)・その2

◆解説(参考文献「石見町誌・上巻」「益田市誌・上巻」等)
 南北朝期における小石見城の主だった戦いは前稿の通りであるが、今稿ではその後の動きを取り上げたい。
【写真左】小石見城遠望その1
 登城口付近まで道路が繋がっているので、比高は5,60m程度と思われる。

 写真は南麓側から見たもので、右側が本丸付近になる。

明応年間の戦い

 最初に取り上げるのは、明応年間(1492~1500)ごろの動きである。以前にも取り上げた、益田氏と三隅氏との抗争に絡んだもので、小石見城を含む現在の浜田市を中心として戦端が開いた。

 当時この地域を治めていたのは、三隅氏で、その被官だった岡本宗左衛門尉が、明応4年(1495)3月16日、石見国小石見郷の池田名を安堵されている(岡本文書)。
【写真左】遠望その2
 西麓側から見たもので、本丸は右端になる。

 現在、当城を含んだ山の北側には、浜田道関係の新設道路の工事が行われており、今後もこの周辺の景観は大幅に変わるだろう。


 また、明応8年(1499)3月には、その南方に当たる永安別府半分・弥積分については、三隅興信吉川国経に譲り(吉川家文書)、同年9月には、同じく興信が、石見国二宮神主・岡本次郎左衛門尉の軍功を賞し、小石見郷政所名などを領有させている(岡本文書)。

 この年(明応8年)9月~10月、三隅興信は、明応の政変に絡んで安芸国廿日市に出陣していたが、その隙を突いて、益田氏が小石見の三子山城(H140m:小石見城の東方3キロ)を攻めた。
 当城に拠ったのは、岡本旅人(次郎左衛門尉と思われる)で、その家臣・肥塚三郎右衛門が活躍し後に、帰国した興信から感状を得ている(肥塚文書)。
 この合戦の際、周辺では小石見城・長浜中原ヶ城・瀬戸ヶ島でも戦が行われた。

戦国期

毛利氏がほぼ出雲国・石見国を手中にしかけた元亀元年(1570)頃、出雲国では山中鹿助による尼子再興の動きがあったが、石見国では、以前「三隅城その3」(2010年8月30日投稿)でも紹介したように、三隅隆繁・国定兄弟(周布氏・福屋氏の一部含む)による反毛利軍が執拗に活動していた。

 当時、毛利元就は安芸吉田郡山城で病に伏せっており、9月、輝元は隆景・元資を伴い一旦帰国することになった。吉川元春は出雲・神西城に、宍戸隆家・口羽通良・杉原重盛らと留まり、勝久・鹿助と対峙していた。
【写真左】井戸跡か
 西側の長い郭の中央部に大きなくぼみが残っており、おそらく井戸跡と思われる。







 このため、石見国が手薄状態になり、毛利方となった地元の二宮・岡本氏らでは、三隅氏の動きを押さえることができなかった。

 同年5月、元春は二男・元氏に命じて石見討伐に向かわせた。このとき合戦場となったのが、江津島の星、浜田の鷹巣城(周布城か)と小石見城である。

 勝敗は吉川元氏軍の勝利に終わり、周布春氏は自害、三隅城に逃れて再び戦った三隅国定は9月26日に討死、隆繁は自害した。
 この戦のあと、元氏軍は急ぎ、出雲国へ帰還し、尼子勝久・山中鹿助らの再興軍との戦いに参戦していくことになる。

 ところで、このときの小石見城は、名称を変えて「大陣平(おおじんひら)」と呼ばれている。
【写真左】西の郭西端部
 当該郭が西に伸びきったところで、一旦切崖があり、さらにそのまま西から北(道路工事付近)まで、郭らしき遺構が確認できたが、戦国期の名称である「大陣平」という個所は、その辺も含めた場所だったかもしれない。

小石見城(島根県浜田市原井町)その1

小石見城(こいわみじょう)・その1

●所在地 島根県浜田市原井町
●築城期 南北朝時代
●築城者 井村兼雄
●標高 153m
●備考 大陣平
●遺構 郭、帯郭、石垣
●登城日 2010年12月20日

◆解説(参考文献「石見町誌・上巻」「益田市誌・上巻」等)
 これまで、当城については、特に井野城(島根県浜田市三隅町井野 殿河内)や、三隅城・その3(島根県浜田市三隅町三隅)で少し触れてきているように、石見南北朝期に重要な城として登場している。
 また、戦国期になると、備考欄にも示す「大陣平」という名称でも出てくる山城である。
ただ、その割には当城そのものの内容を紹介した史料が少なく、大分前から気になる山城だった。
【写真左】登城口付近の案内板
 小石見城を示すものは現地ではこれだけで、登城路を示すものはない。

 浜田市街地は山間部に入ると、途端に道が狭くなり、カーブが多いが、駐車スペースはこの案内板のあるカーブの端にできるだけ寄せて停めた。

 なお、当日はこの案内板の右側にある畑にむかう道を進んだが、このコースが正式なものかは分からない。


 所在地は浜田市にあるが、現在この付近は当時の地形が大幅に改変されている。国道9号線の浜田バイパス(山陰道)が開設されて以来、浜田の街並みはずいぶんと変わってきたようだ。

 当然、南北朝期の姿とは想像もつかないようなものになっているが、日本海に入り組んだ海岸を巧みに利用した浜田の港側からみるとと、壁のような岩が乱立し、中小の河川の谷は深く、中世山城を築城するには、天然の要害を最大限利用できたものと思われる。
【写真左】南麓部
 登城口から100m程度東方に向かうと、畑や梅の木などが植えられた場所で道は無くなる。そのあとブッシュを少しかき分け、本丸の南麓部に入った場所がこの写真である。

 「日本城郭大系第14巻」では、城域は畑地となっていると記されているが、すでにこのあたりから植林された杉と、自然林の混在した状況になっている。
 当然道らしきものはないため、勘を頼りに北へ伸びる稜線を進む。


 小石見城の築城期については、上段に示したように南北朝期とされ、築城者は井野城の城主でもあった井村兼雄とされている。

 ところで、これに先立つ元暦2年(1185)6月、御神本(益田)兼栄・兼高父子のとき、源頼朝から恩賞として小石見城も含まれる土地を安堵されている。この中の明細を見ると、当該地は、石見国伊甘郷及び小石見とある。もちろん、この時に築城されたという記録はないが、益田氏が益田の七尾城に移住する前の所領範囲が、
  • 美濃郡  匹見・丸茂別府・益田庄など
  • 那賀郡  木束郷・永安別府・吉高・伊甘郷・良万・小石見など
  • 邇摩郡  温泉郷・宅野別府など
  • 邑智郡  市木別府・長田別府など
  • 安濃郡  鳥居別府・吉光など
となっており、すでに広大な領地を所有していたことを考えると、そのころから例えば伊甘山安国寺(島根県浜田市上府町イ65)の稿でも述べたように、「笹山城」のような城砦施設もしくは館が、上記所領地ごとに置かれていたとしても不思議でない。
【写真左】郭その1
 おそらく当初は郭だったと思われるが、前記したように近代になって段々畑となった個所と思われる。

 南麓部にはこうした不揃いの壇跡が見える。


雲月作戦

 さて、小石見城が登場するのは、南北朝期の石見・安芸における「雲月作戦」と呼ばれる戦いの流れで出てくる。

 雲月というのは、現在の広島県北広島町と、島根県浜田市旭町の県境にある雲月山(標高911m)を中心とした峠の周辺で、「今福芸北線」(114号線)のルートに当たる。地形的には、安芸側は緩やかな方だが、峠を越えた石見に入ると、現在でも険しく深い谷や屈曲した山道の連続で、当時この峠を越えることは相当な困難が伴ったと思われる。
【写真左】郭その2
 南側の不定形な郭段を登ると、写真に見える本丸西側に伸びた平坦地にたどり着く。

 形状は本丸西に約50m程度伸び、そのあと北に向かって30m程度L字型に伸びた郭が続く。


 最初に宮方が勢威を失ったのは、興国元年(暦応3年:1340)の8月ごろで、日野邦光は石見を去り、高津長幸は九州に奔った。興国2年6月、足利直義は安芸守護であった武田信武に石見派兵を命じた。

 同年7月、安芸の武家方は山県郡大朝に終結し、雲月峠を目指して中国山脈の南麓沿いに陣を配置。さらに石見から上野頼兼は、南を迂回し(おそらく匹見側から入ったとおもわれる)、安芸の八幡原(やわたはら)を通って、安芸の武家方と合流した。

 このころ、国境を越えた安芸の中野地区内奥原(現在の北広島町奥原)には、宮方の福屋氏大多和(大峠)城(場所は不明)に拠って、安芸武家方軍を迎え撃つ態勢をとっていた。
6月26日、この大多和城を中心にして、石見宮方軍と安芸・石見武家方連合軍との合戦が始まった。

 武家方の大軍の前に、宮方福屋氏は敗れ、都野保通神主城(島根県江津市二宮町神主)参照)・邑智宗連・河上孫三郎(石見・河内城(島根県浜田市三隅町河内)参照)、らが降参した。

 また、さらに宮方の第2陣を配していた、領家玉光や、三隅・福屋氏なども、雲月峠において続いて敗れ、領家氏の居城であった東屋城(H309m:島根県邑南町日貫)も陥落し、領家氏は滅亡する。
【写真左】本丸その1
 西側郭から再び東方に向かって本丸を目指すと、写真のような本丸の姿が見えてくる。






 ところで、ここで出てきた都野保通については、「石見町誌・上巻」では、その後戦死した公算が強い、としているが、以前取り上げた「都野城」において、その後、同年8月22日、「都野保通、大和田城で北朝党・武田氏俊に降伏する(吉川文書)、とあり、6月の安芸での降参後、再び宮方軍として戦っている。 

 また、邑智宗連については、初めて出てきた武将だが、元弘2年(1332)、備後の品治郡(ほむじぐん:後の芦名郡)宮内で自刃した桜山玆俊桜山城(広島県福山市新市町大字宮内)参照)の遺児といわれ、逃れて安芸の山県郡より邑智郡矢上に来住し、矢上氏を称し、矢上城に拠った(山県郡史)といわれ、別説では田所綾木の鳥懸城(鞍掛城)に拠ったともいわれている(石見誌)。
【写真左】本丸その2
 本丸頂部の規模は5m四方程度で小規模だ。現地に祠のようなものを探したが、なにもない。

 本丸の北東端は、南麓と正反対に深い切崖になっている。


 武家方軍はその勝利の勢いを保持したまま、次に向かったのは、福屋氏の本城である本明城(もとあけじょう)(島根県江津市有福温泉)である。
 本明城については、以前にも紹介したように、石見の山城の中でも屈指の城砦である。

 石見・安芸両守護が率いる連合軍の先陣は、益田兼見・土屋平三らが名を連ねた。8月8日、本明城に迫ったものの、予想通り当城が要害堅固であることや、福屋氏の守備は堅かったため、その後7カ月という長期戦に陥った。

 しかし、興国3年(康永元年:1342)2月1日、北党(武家方)の益田兼見は、地元の地理に詳しい有福五分一地頭・越生(おごせ)光氏を案内人として、強行突破を図り、石見本明城を落とした。

 そして、いよいよ12日になると、井村兼雄の拠る小石見城に迫った。17日、宮方軍の総大将であった新田義氏は降伏、周布城主・周布兼氏も降り、このため、孤軍奮闘していた井村兼雄は夜半に武家方の囲いを破って、井野村(井野城)に奔った。
【写真左】本丸跡より北方に浜田港を見る。
 眺望はほとんど望めないが、唯一木々の間から北に浜田港を望むことができる。

 ただ、それが可能なのは当日のような冬季でないと無理だろう。

 この写真も余りはっきりとは映っていないが…。

2011年1月1日土曜日

明けましておめでとうございます

明けましておめでとうございます。

 2008年12月29日という、その年も終りになってから立ち上げたこのブログも、足掛け4年目に入りました。

 山城探訪した記録を公開するという行為は、それまですでに多くの方がやってきていることで、当初、二番煎じの感が無きにしも非ず、という気持ちでしたが、同じ山城でも探訪する人によって、興味を持つ部分や、着眼点に違いがあり、これはこれで、それなりの価値があるのではないかと思い、アップしてきました。

 昨年(2010)は結果的に、121回の投稿を行いました。タイトルの「西国」という割には、山陰地方に偏っていますが、これは管理人の住んでいる場所と関連するために、どうしてもこうした結果となります。

 特に後半は石見地方に特化した感じとなりました。このブログをアップするに当たって、参考にした文献は、専門家のように沢山は持ち合わせていません。
 ただ、よく利用させていただいている「益田市誌・上巻」や「石見町誌・上巻」などは、管理人にとって、いわば「バイブル」のような存在で、これがなかったら、石見の中世山城は体系的に把握はできなかったと思います。
【写真上】佐和山城遠望
 彦根城側から見る。(2008年9月)



◆「西国の山城」統計
 さて、このブログのこの1年間の統計について記しておきたいと思います。

 ※データカウント開始時期、2010年の5月より
●参加者
      日本         17,052
      アメリカ合衆国      320
      ラトビア           59
      カナダ           37
      オランダ             33
以下、フランス、チェコ共和国、イラク、スウェーデン、大韓民国など

●ページビュー
 長宗我部信親の墓・戸次河原合戦(2010/3/10)     239
 井野城(2010/9/02)                       66
 米山寺・小早川隆景墓(2010/06/15)             62
 鷲尾山城(2010/5/09)                     48
 三隅城(2010/08/03)                       43
 丸屋城(2010/05/08)                       39
 引田城(2010/01/13)                       38

以下、周防・若山城、別当城、楪城となっています。

 サイトに関する技術的なことは、至って疎く、編集上のレイアウトなども、いまだに洗練されていません。

 ところで、ブログ形式であったこともあり、上記のように、どの投稿が一番アクセスが多かったか、分かります。
 また、このブログを見ている人は国内だけと思っていましたが、上記のようにアメリカ合衆国や、ラトビアなどといった外国からの人が予想以上にあることに驚きました。

 そもそも「山城」そのものが、天守閣を持つ近世城郭に比べ、マイナーな存在ですので、正直言ってさほどの反響はないだろうと思っていました。ところが、蓋を開けてみると、このような結果で、管理人としては望外の喜びです。それだけ山城に対する認知度が高まってきているということでしょうか。

 本年もどの程度探訪と、ブログアップができるかわかりませんが、体力と時間の許す限りこのブログを更新していきたいと思います。

トミー拝
2011年 元旦



   

2010年12月24日金曜日

高嶽山宗兼院(島根県益田市馬谷町)

高嶽山宗兼院(たかだけやまそうけんいん)

●所在地 島根県益田市馬谷町
●創建年 鎌倉期
●開基 滝口半田時員
●山号 高嶽山
●宗派 曹洞宗
●探訪日 2010年9月12日

◆解説
 前稿馬谷高嶽城(島根県益田市馬谷)で取り上げた築城者・平宗兼を菩提する寺院である。
平宗兼の家臣・滝口半田時員(たきぐちはんでんときかず)が、宗兼没後、彼の冥福を祈って、馬谷高嶽城が見える東麓に建立したものである。
【写真左】高嶽山宗兼院入口













 宗兼は、建保元年(1213)には、当地に佐比売山厳島神社、多紀都比売命を祀り、鎮守の社とした。この場所は確認していないが、おそらく、当院の南西部に突き出した小規模な社があったので、この場所かもしれない。

 なお、宗兼の没した時期は分からないが、寿永4年(1185)の源平合戦・壇ノ浦で益田兼高に捉えられていることから、承久年間(1219~21)からさほど遠くないころに亡くなっていると思われる。

【写真左】山門
 現地には、当院の縁起など記したものはない。

【写真左】本堂
 なお、境内周辺を平宗兼や半田時員関係の墓石がないか歩いてみたが、特記すべきものは見いだせなかった。
【写真左】駐車場側から見る。

馬谷高嶽城(島根県益田市馬谷)

馬谷高嶽城(うまのたにたかだけじょう)

●所在地 益田市馬谷町
●築城期 建久4年(1193)
●築城者 平宗範(宗兼)
●城主 益田兼高、足利直冬、杉森氏久
●標高 460m
●別名 大屋形城・高嶽城
●遺構 郭、腰郭、土塁、石垣、堀切、井戸
●登城日 2010年2月7日、及び12月20日

◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」「日本城郭大系第14巻」等)
 馬谷高嶽城は、本年9月13日投稿「上久々茂土居跡」や、同じく9月9日投稿「大谷城」でも少し紹介しているように、上久々茂土居跡をさらにさかのぼった益田川支流馬谷川と、大谷土居跡の脇を流れる大谷本溢川の源流の間に挟まれた標高460mの山城である。
【写真左】馬谷高嶽城遠望
  東麓から見たもの。











現地の説明板より

“寿永4年(1185)、源平合戦で壇ノ浦に敗れた平家の将・平 宗盛(清盛の三男)平宗範は、源義経の幕下で参戦した御神本兼高(後に益田と改姓)に捕らえられたが、素直に帰順したので、馬谷に住むことを許されたので、この地に築城を命ぜられたものと思われる。

 馬谷城は、別名高嶽城とも謂われ、馬谷・大谷形・岩倉の三村に跨る標高460mの山嶽の中央にある。
 140年後の文和2年(1353)、足利直冬が探題として入城、中国地方に号令することとなった。
 しかし、当時の政変からここに住んだのは僅か数ヶ月にすぎなかったのではなかろうか。
【写真左】登城口付近
 登城口は2,3カ所あるようだが、この場所は本丸より北に伸びた稜線の東麓部になる。

 なお、麓に行くまでのルートとしては、以前取り上げた益田川が大きく蛇行する位置の「上久々茂土居跡」付近で南(右)に枝分かれする道(途中まで道が広くなっている)に入り、東の谷になる馬谷に向かうと、正面に当山の姿が見える。
 

 第3次城主杉森氏久も、毛利・益田の領主に反逆謀叛を起こして死亡してしまった。
 以来、城山と呼ばれて親しまれてきたこの山も、歴史の変遷と年月の隔たりよりさだかでないが、本丸・神社跡オバンバの石・物見櫓など伝説を頼れば、峻険な馬谷側よりも大屋形側が登山口として浮かび上がってくるのである。

 益田兼高は、建久4年益田七尾城に城を築いて、ここを主城とし高嶽城などを支城として補築したものと思われる。
 神秘に包まれた山岳は、滅多に人を寄せつけず今も眠り続けているのである。
平成9年5月 文 熊谷政雄
真砂地区活性化対策協議会”
【写真左】前半の登城路
 前半は細い尾根を登って行くことになる。途中でピークがあり、そこを左に回り、再び大小の尾根を進む。




 大要は上記説明板のとおりであるが、平宗範は益田兼高に降伏した後、名を兼高の兼を戴いて宗兼と称しているようだ。

 建保元年(1213)、彼は馬谷に佐比売山厳島神社を建立、多紀都比売命を祀り、鎮守の社とした。
 以前取り上げた兼高の居城・七尾城の築城期を明記せず、「鎌倉期」としていたが、具体的には、おそらく、この黒谷高嶽城という支城を築城した時期と同じ、建久4年(1193)と思われる。説明板にもあるように、命じたのは益田兼高で、築城の実行者は平宗兼である。

 宗兼の家臣・滝口半田時員(はんでんときかず)は、宗兼没後、彼の冥福を祈って、東麓に高嶽山宗兼(見)院を菩提寺として建立した。
【写真左】井戸跡
 ピークを過ぎて南方面に向かう尾根道の途中に井戸跡がある。

 当城の上部は岩盤のような地質であるため、水の出る場所としては、このあたりしか出なかっただろう。
 直径は約4mぐらいか。


南北朝期

 説明板にもあるように、この時期当城には、一時足利直冬が在城している。その時期は、文和2年(1353)の2月頃と思われるが、数か月もしくは、間を開けて数回在陣している節がある。
【写真左】石塁か
 登城路中間点当たりにあったもので、加工跡がありそうな大きな石が、散在していた。






 最初に訪れたのは、前記のように2月ごろで、同月28日付で、直冬から益田兼見に宛ての感状が届けられている(益田家什書)。

 このとき、益田兼見が招いたものだが、当時馬谷高嶽城と併せて、下種の平家ヶ嶽(北方13キロ烏帽子山南麓)を支城としたという。

 また、同年(文和2年)6月23日付で、直冬は南朝の命により、足利義詮追討への参陣を益田彦三郎に促している(萩閥3)。

 ところで、北側の山麓大屋形村には、直冬の住む大館があったという。直冬の晩年は以前にも紹介したように、最期は都治(江津市)の高畑城(慈恩寺)で隠遁した。
【写真左】倒木
 こうした倒木が途中で2,3カ所あったが、迂回したり、跨いだりして向かう。







戦国期

 馬谷高嶽城より、北へ約6キロ向かうと、益田川本流の北麓に以前紹介した四ツ山城(島根県益田市美都町朝倉・小原 滝山)がある。

 この城は、最後に益田氏が領有し、城番としていた田川源八が、馬谷高嶽城主であった杉森氏久の攻撃にあって討死している。

 馬谷高嶽城主・杉森氏が四ツ山城を攻撃した時期は不明だが、益田氏が領有する前の三隅一族の一人であった須懸忠高が益田氏に攻められ、城中で自害したのが、元亀元年(1570)8月29日であるので、それ以降となる。
【写真左】次第に傾斜がきつくなる。
 途中から、本丸まで何メートルという表示が出てくる。400m手前あたりから傾斜がきつくなり、階段が設置してあるが、ほとんど朽ち果てていて、あまり信用できない。そうした個所にはロープが設置してある。



 この杉森氏久については、その出自などは不明だが、毛利・益田氏に対して最期まで徹底して抗戦している。
 「益田市誌・上巻」によれば、彼の縁戚関係であった因幡国倉掛城主・杉森下総守が毛利・益田氏に滅ぼされた遺恨からであるという。

 残念ながら、この因幡国倉掛城という城砦については、手持ちの史料などを見る限り詳細が不明だ。「石陽軍見聞記」という史料には詳細が記されているという。
【写真左】最初にみえた堀切
 堀切という名称を付けた標識があるのは、この写真の個所と、すぐ先のものと、合計2カ所である。
 ただ、この位置に来るまでに、当時は堀切だったのではないかと思われる個所が2カ所程度あったが、大分埋まっていた。



 その後、杉森氏は元亀年間(1570~72)に、毛利方の瀬戸内海水軍領主・児玉小次郎及び同平太、そして地元国人領主領家氏によって討たれたという。

 児玉氏はこのころ毛利方にあって、その水軍力をいかんなく発揮し、石見・出雲の日本海を文字通り東奔西走している。
 主だったこのころの記録を拾ってみると、次のようなものがある。
 時期はいずれも元亀元年(1570)のものである。
【写真左】いよいよ急こう配の登り坂
 2番目の堀切と抜けると、途端にきつくなる。御覧のように岩だらけの登坂路になるので、雨の日は無理だろう。
 このあたりから呼吸が乱れ、何度も休憩をとった。
  • 4月9日 毛利輝元より井上・児玉・武安・林氏に対し、安来から温泉津への兵糧輸送船は、温泉津から回航するよう命じる(萩閥101)。
  • 10月6日 毛利元就、児玉就英に対し、船を準備し早々に神西湊へ赴くよう命じる(萩閥101)。
  • 10月17日 毛利元就、児玉就英に対し、温泉津で準備した船に8日に乗船したとの報告を受けたこと、水・米の補給や水夫の徴発を命じていることなどを伝える。
  • 10月19日 児玉就英、去る16日に宇龍(大社)より加賀浦(松江)に水軍を移動させる。
  • 10月28日 毛利元就・輝元、児玉就英に対し、24日に加賀浦で尼子方の船を攻撃し兵糧等を焼き捨てたことを賞する(萩閥100)。
  • 11月2日 毛利元就・輝元、児玉就英に対し、25日に森山(美保関)で新山城の兵糧船を捕らえ兵糧等を焼き捨てたことを賞する(萩閥100)。
【写真左】郭段
 急こう配の登坂路を過ぎると、今度は勾配はないものの、極端な細尾根道(土橋か)があり、そのあと、かなり手が加えられたこの郭段が控える。



 この外にも、元亀2年(1571 )3月19日、出雲の高瀬城(斐川町)が落城し、城主米原綱寛が新山城(松江市)に奔った際にも、児玉水軍は多大な功績を挙げている。
 
 こうしたことから、馬谷高嶽城の城主杉森氏が討たれたのは、おそらく新山城が落城した元亀2年(1571)8月21日以降と思われる。
 なお、杉森氏を討った児玉小次郎・平太は、これより先の永禄年間、それまでの戦功によって久代三百原に、城を築いた。この場所は現在の益田市下本郷のJR山陰線の東(平原上組付近)にあるが、遺構は残っていない。
【写真左】頂部の帯郭
 上記の郭を過ぎると、再びあえぎながら登る急坂が待っている。距離が短かったので助かったが、体力のない者には相当こたえる。

 そうした修羅場を抜けると、嘘のような平坦地が現れる。本丸北に導くU字型の帯郭だ。
 笹竹が繁茂している。当時もあったとすれば、「竹矢」として相当使われたのだろう。
 これら左右の竹をかき分け両端部に立つと、どの個所も第一級の切崖である。
 帯郭の一部、右側(西~南にかけて)には50cm高の土塁跡が見える。

【写真左】本丸直前に建つ「山口神社跡」
 史料がないため、山口神社の詳細は不明だ。

 戦国期のものとすれば、杉森氏もしくは、杉森氏を討った児玉一族に関わるものだろうか。

【写真左】山口神社跡から本丸を見る。
 南端部の帯郭から凡そ100m程度歩くと、当該神社の奥に高さ2m程度の本丸の姿が見える。

【写真左】本丸跡に建つ「高嶽城」の縄張図
 この図でいえば、登ってきたのは右上の「至大屋形」からで、右側が北を示す。
 なお、この図の左側に大型の腰郭・帯郭などが図示されているが、現状は整備されておらず、この日は踏破していない。

 山城ファンとしては、この個所が見ごたえがあると思われるが、間に厳しい切崖があり、さらに笹竹・雑木などが大規模に繁茂しているため、おそらくそこまで整備できなかったのだろう。

【写真左】本丸跡に設置された登山者記録所
 中に記帳ファイルがあり、記入されていたが、主に地元益田市民が多い。意外と子どもたちも登っているようだ。

 ただ、現在は記帳が満杯で、書く所がなく、余白に記帳しておいた。

【写真左】主郭から北に伸びる郭1段目
 北に伸びる郭は3段に構成さている。

【写真左】同上の3段目の郭
 この郭下は整備されていないが、1~3段目の高低差は平均して4m程度ある。

【写真左】北東麓に宗兼院を見る。
 上段で紹介した平宗兼の家臣・滝口半田時員が建立したといわれる「高嶽山宗兼院」が見える。
【写真左】本丸から東に伸びる郭と土塁
 長さは約20m程度で、主として南面に土塁を残している。

【写真左】本丸より北方を見る。
 この方向には、四ツ山城が控える。

【写真左】本丸から東方を見る。
 写真中央の山は飯盛山(477m)で、これを越えると以前紹介した丸茂城(島根県益田市美都町丸茂)などがある。
 なお、現在本丸から俯瞰できる方向は、北と東方面が主である。

2010年12月22日水曜日

黒谷横山城(島根県益田市柏原)

黒谷・横山城(くろたに・よこやまじょう)

●所在地 島根県益田市柏原町
●築城期 鎌倉~南北朝期
●築城者 菖蒲五郎真盛(実盛)、波多野彦次郎、波多野彦三郎
●城主 波多野彦六郎等
●標高 350m
●比高 210m
●指定 益田市指定文化財
●登城日 2010年1月16日

◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」「日本城郭大系第14巻」その他)
 前稿嘉年城(山口県山口市阿東町嘉年下)でも少し紹介したとおり、当城も特に南北朝期、激しい戦いが繰り広げられた山城である。横山城または、黒谷城と呼ぶ。
 所在地は現在の柏原町としているが、西側の桂平町、南の愛栄町に挟まれた東西に伸びる峰を利用した城砦である。
【写真左】黒谷横山城遠望
 北西麓の桂平小学校付近から見たもの。









 現地の説明板より

“益田市指定文化財
  史跡  横山城跡
          指定 昭和50年4月21日
 横山城は、標高350mの山頂に築かれた中世の山城です。本丸は全長67m、幅16mの平坦地で、本丸の東端には5段の空堀が残り、本丸の南斜面には全長67m、幅3~6mの帯状の二ノ丸があり、厩(うまや)の段と称されています。

 この城は、鎌倉時代に幕府から美濃地・黒谷地頭に任命され、関東から下ってきた菖蒲(しょうぶ)五郎真盛(実盛)が築城したと考えられていますが、定かではありません。
【写真左】登城口付近
 南側の道からあがった峠付近になる。
この位置に、「山頂まで233m」という案内が設置してある。

 この脇に車2台分程度の駐車スペースが確保されている。


 南北朝時代には、南朝方と北朝方の間で、またその後は、益田氏と津和野の吉見氏が美濃地・黒谷の領有をめぐって当城の争奪を繰り返しました。

 安土桃山時代には、完全に益田氏の支配下に置かれましたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに敗れた益田元祥が、須佐に移ると、時の城主喜島(きじま)備後守宗勝も、長門国市見に移り、横山城は廃城となりました。
  平成17年3月 益田市教育委員会”
【左図】黒谷横山城の図(「益田市誌・上巻」より転載)
 この図では、左が東で、右が西となる。
 現在、桂平町の南にある金ヶ峠より分岐し、北の野中地区に向かう途中の道から、黒谷城南麓を通り、東の大久保地区に向かう道が整備されている(ただし車1台分の幅員)。

 比高210mとしているが、これは北麓の桂平町からの登山道からの設定で、上記のルート(南麓)を使えば、比高は100m弱となる。


 当地・美濃地黒谷に地頭として入った菖蒲(波多野)氏については、貞応元年(1222)とされている(益田市誌上巻)ので、いわゆる承久の乱による論功行賞によるものだろう。

 萩閥益田家文書に下記のものが見える。

菖蒲五郎真盛自関東所給預也
   但於未知福地地頭職者、雖被載于御下文、先度他人給之事、可令存其旨之状如件。
貞応元年(1222)九月十八日
   武蔵守 平判(北条泰時)
   相模守 平判(北条時房)”
【写真左】登城路
 登城口から、東の方に向かって斜めに登るコースが造られている。ほとんど直線だが、傾斜はさほどなく、歩きやすい。


  ところで、この黒谷横山城から北へ約3キロ向かったところに、横尾という地区がある。この地区には横尾墓の台と呼ぶ田圃の中に、「横尾右衛門 法名黒谷院殿請求大居士の墓」というのがあり、彼をこの土地の開拓始祖とし、田中明神として尊崇しているという。

 「益田市誌・上巻」では、彼が没した時期が嘉暦元年(1225)であることから、菖蒲五郎真盛とは、この横尾右衛門のことではないかとしている。

 この墓は探訪していないが、黒谷横山城の北麓を流れる上黒谷川を挟んで、北方にある上黒谷や美濃地にかけては、この外に原城(黒周 原 H160m)、朝柄山城(有福城:黒周 H220m)、美濃地城(桜田城:美濃地 H145m)もあり、横尾右衛門が菖蒲五郎真盛でないとしても、これら三城の城主と関わりがあった武将と思われる。
【写真左】登城到達地点に見える堀切
 上掲した図で示された、本丸と二ノ丸の間にある堀切で、この写真では左側に本丸が造られている。

 さて、これまで石見における南北朝争乱については、度々関係した諸城でとりあげてきたが、大雑把な時系列でいえば、建武2年(1335)から康永2年(1343)の約9年間がもっとも激しい戦いのあった時期といえる。

黒谷・横山城の戦い

 「久利家文書」に、以下のような記録が見える。
  • 建武3年・延元元年(1336)5月12日付で、赤波朝房が石見国上黒谷城での軍忠状を上野頼兼に提出する。
同年(1336)5月10日、上野頼兼(武家方派遣将軍)侵略の報を知った宮方軍の高津長幸は、長州への進軍を計画、三隅兼連の嫡男・兼雄、波多野彦六郎、難波中務入道、周布兼茂、内田兼家らと呼応し、高津を出発、白上(高津川の支流白上川沿い)を経て黒谷に向かった。

 その日の10日から11日の2日間、頼兼の旗下にあった吉川経明らの軍と山の手において激戦に及んだ(吉川家什書)。
 「日本城郭大系第14巻」によれば、宮方であった城主・波多野彦六郎が敗れ、当城は北朝方(武家方)の将・石見守護上野頼兼の手におちたとある。宮方軍のうち、波多野彦六郎が先にこの黒谷城に拠っていたことになる。

 翌年の建武4年には、しかし宮方軍が一旦挽回するものの、その年の後半と思われるが、再び北朝軍が奪回している。
【写真左】本丸跡に建つ「喜島備後守追悼の碑」
 この脇に石塔があり、次のように記されている。
“記
 此の喜島備後守追悼之碑は、昭和17年5月10日、発起人大石要吉氏が建立経費三百二十円外諸経費一切を負担し建立した。
  昭和60年6月吉日  大石敏登、青木義友 之建”


室町期の黒谷

 その後、室町期に入ると次のような動きが記されているが、複数の史料で差異がみられる。
 「益田市誌・上巻」によると、黒谷の地に菖蒲氏が入部してから、180年後の応永9年(1402)、時の七尾城主・益田兼世が周防入道大内源征との契約によって、黒谷の地頭を兼ねた(益田兼明蔵「本宗益田家系図」)、とあるが、「益田家文書」では、時期がこれより下る。すなわち、
 応永12年(1405)1月5日付で、

“石見守護・山名氏利が、益田兼世に石見国長野荘内黒谷郷の地頭職を安堵する。”
とある。

 さらに、応永18年(1411)、黒谷は13代益田秀兼の弟・氏秀が所有した。氏秀は彦次郎氏兼と称し、波多野姓を名乗った、とあるが、これも、益田家文書では、その時期は逆にさかのぼった応永14年(1407)12月11日とし、

“石見国守護・山名氏利、益田兼家に石見国の所領を、波多野氏秀に長野荘内黒谷郷の地頭職を安堵し、兼家の公田に段銭を課すことを許可する。”
 とある。
【写真左】本丸北面
 本丸の西端部から、北東方面を望んだもので、中央奥に益田市街地、及び日本海が望める。

 なお、当城の本丸北面は全体に切崖になっており、吉見氏側が拠った場合には、北東から攻めてくる益田氏に対して有利になるが、益田氏が拠った場合には、南側は切崖が少ないので、不利になっただろうと思われる。

波多野氏

 ところで、黒谷城に関わってきた波多野氏については、敵味方にそれぞれ存在している。
 応永18年、益田秀兼の弟・氏秀がのちに波多野姓を名乗ったとあるが、益田氏や吉見氏のどちらかが、領有してきても、当城の城主は波多野氏となっているふしがある。

 このことから想像すると、断片的な記録しかないため、断言はできないが、黒谷横山城をめぐっては、相当早くから波多野氏一族内で、益田派と、吉見派に分裂していたのではないだろうか。そして、最後の応永18年には、同氏の嗣子が途絶えたか、あるいは、益田氏が半ば強制的に支配し、同氏へ養子として入ったのではないだろうか。
【写真左】本丸南下の郭
 整備されていないので、状況は分かりづらいが、幅5m、長径20m程度だろうか。本丸との高低差は5m程度だろう。

 なお、この日登城した登城路の途中にも、不揃いながら、郭が数カ所点在していたが、遺構としてまとまっているのは頂部である本丸・二ノ丸付近が多い。


 さて、このような状態で益田氏と吉見氏の抗争が続く。最終的に当城が益田氏の支配に落ち着いたのは、文明6年(1474)7月の足利義政の袖判御教による。その主な内容は、益田貞兼に石見国長野荘高津など七郷の地頭職等を安堵する(萩閥7)、というものである。
【写真左】本丸西端から本丸を見る
 石碑が建っている個所が主郭部分であるが、その位置から西端まではおよそ50m程度ある。その先端部は伐採されていないが、切崖状態に見えた。

 なお、石碑の先に登ってきた堀切が2段にくまれ、その先東方へ向かって長い二ノ丸が続く。


戦国期

 戦国期以降については、天正年間、益田元祥の命によって、下黒谷城(原城:黒谷城より北方3キロにあった山城)の城主藤原宗秀の孫・宗勝が城主となり、後に宗勝は喜島(きじま)氏を名乗っている。

 関ヶ原の戦いでは、益田元祥(毛利方)に従い、敗れた後、元祥に随従したまま当城を離れたため、廃城となった。

【写真左】本丸から南方に津和野方面を見る。
 眺望がこれだけ良好であることを考えると、いかに両者(益田氏・吉見氏)が当城を確保したかったか、よくわかる。

【写真左】本丸から北方を見る。
 北麓の上黒谷町となるが、中央部に先鋒した山が浄土寺山(250m)で、その手前の中腹部に先述した原城があり、右側峰奥には朝柄山城(220m)がある。
 なお、この写真の左側は山口県になる。

【写真左】馬場跡か
 本丸下の二段の堀切を抜けて東方に進んでいくと、二ノ丸になる。全体に痩せ尾根ながら、長さは数百メートルと長大だ。

 郭としては300m程度までだが、仏峠といわれる個所直前までの鞍部が城域として使用されたと考えられる。
 この写真は平坦面の精度がよい個所で、50m程度確保されていた。おそらく馬場跡だったのだろう。

【写真左】途中に見えた尖った岩
 二ノ丸は痩せ尾根個所が多く、南北にわたって切崖個所が長く伸びている。
 この写真は北側の個所だが、この上から落ちたらひとたまりもない。
 まさに天険の要害である。

 なお、二ノ丸をさらに東方に下って行くと、おそらく上図に示した北側からの登山口に向かうと思われる。


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