2014年11月26日水曜日

大津・天竺城(高知県高知市大津)

大津・天竺城(おおつ・てんじくじょう)

●所在地 高知県高知市大津
●別名 天竺城
●高さ 46m(比高40m)
●形態 丘城
●築城期 室町初期(応永年間か
●築城者 天竺氏
●城主 天竺氏・津野氏
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2014年3月18日

◆解説(参考文献 「室町幕府外様衆の基礎的研究」木下聡著(東京大学日本史学研究室紀要 第15号等)

 高知港(浦戸湾)に注ぐ主だった河川には、鏡川と国分川の二つがある。このうち東方から流れる国分川には、支流・舟入川が注いでいる。そしてこの川の河口部から大津と呼ばれる地域があるが、下流部を大津乙といい、ここからさらに遡り、中流域に至ると大津甲となっている。
【写真左】二ノ段に祀られる八幡宮
 当城の最高所だが、史料によればこの箇所は二ノ段とされ、その東側が詰ノ段といわれている。



 大津という地名からわかるように、中世にはこのあたりも舟入川の各所に船着場が設けられ、大小さまざまな船が停泊していたものだろう。

 大津・天竺城はこの大津甲という地区にあって、同川の南にある高さ約50m程の丘に築かれた城砦である。小規模な丘城であるが、当時の地勢・状況を推測すれば、水城であったと考えられる。
【写真左】北側から西端部を見る。
 手前は舟入川に懸かる橋。
 同川を下る(右方向)と国分川に合流し、高知港・浦戸湾にそそぐ。
【写真左】北側から中央部を見る。
 この位置のほぼ中央部に主郭がある。
【写真左】北側から東端部を見る。
 凡そ東西200m×南北150mの規模で、南側は細い尾根が繋がり、介良と境をなす高天ヶ原山(H:107m)が控える。


現地の説明板より

“大津天竺城跡

 足利の世、土佐の守護代細川氏の一族・天竺右近花氏が居城したところで、天竺城と呼ばれた。

 応仁の乱で細川氏の後だてを失い、その姿を史上から没し去るが、落城については諸説があり詳らかでない。
 山上に古城八幡宮がある。”
【写真左】北側の登城口付近
 主郭付近に八幡宮が祀られているので、参道でもあるが、その手前には「とさでん交通ごめん線」という電車が走っているため、先ずはこの踏切を渡らなくてはならない。

 写真左には説明板と「天竺右近花氏大津城址」と刻銘された石碑が建つ。


室町幕府外様衆における天竺氏と細川氏

 城主は天竺氏であったといわれている。説明板では「土佐の守護代細川氏の一族・天竺右近花氏」とされている。

 天竺(てんじく)、この地名からあの「西遊記」を連想させるが、同氏の出自は、三河国幡豆郡天竺を名字の地としている(「『室町幕府外様衆の基礎的研究』木下聡 東京大学日本史学研究室紀要 第15号 2011年3月」以下『室町幕府外様衆』とする)。
【写真左】登城道(参道)の階段
 写真では分かりづらいが、おそろしく急な階段である。
中央に手すりがあるから何とか登れるが、これまで登った階段の中では最も急傾斜のものだろう。
 比高があまりないため、この傾斜は要害性を充分に保つものだろう。

 なお、この階段を登る勇気と体力がない方には、別の道も用意されている。西側から向かうもので、こちらは緩やかとなっている。



 因みに、この場所は現在の愛知県西尾市天竹町で、平安時代にこの地に中国大陸西方の渡来人が漂着し、綿が伝えられたという伝説があり、現在でもその地には「綿」を祀る天竹神社が所在しているという。

 ところで、京における室町幕府を支えた組織としては、職制・地位で区分すると、相番衆・御供衆・外様衆・奉公衆などがあるが、このうち『室町幕府外様衆』によれば、奉公衆一番衆に細川天竺氏の名があり、永享年間(1429~41)に細川天竺三郎、文安年間(1444~49)に天竺駿河三郎、長享年間(1487~88)に細川天竺源命丸などの名が見える。
【写真左】詰ノ段
 階段を登りきるとすぐに尾根筋となるが、ここから既に詰ノ段とされているところで、いわゆる主郭に相当する箇所である。

 写真でも分かるように、現在は参道として中央部が削られているが、もともと削平されていて、南(左側)には土塁が囲繞している。
 ここから奥に進む。


 このころ外様衆として活躍した有力守護の細川一族は次のようなメンバーで構成されていた。
  1. 細川奥州家 細川和氏の子・業氏を祖とする。
  2. 細川宍草  南北朝期斯波氏家臣で守護代を務めた細川鹿草の系譜か。
  3. 細川天竺・弥六  (本稿)
  4. 細川観音寺 讃岐国観音寺を名字の地とする細川一族か。
  5. 細川駿河守 永享年間に活躍した氏家が最初の駿河守、鎌倉期に分家したものか。
  6. 細川伊予守 細川伊予守賢氏など
  7. 細川土佐守 細川氏系譜では詳細不明。
今稿の大津・天竺城城主は上掲した3.の細川天竺・弥六の一族と思われるが、そのつながり等詳細は不明である。ただ、『室町幕府外様衆』が一定の組織体制を確立したころには既に天竺氏も当地・土佐に赴いていたと考えられるので、一つの節目とされる「三管領四職七頭」の制が定まる応永5年(1398)ごろ、同氏が当地を細川氏の命によって治めたのではないかと思われる。
【写真左】堀切跡
 詰ノ段と奥に祀られている八幡宮との間には堀切があった。現在は参道を整備したため埋められてしまっているが、南北に竪堀状の遺構を残している。
 この先に冒頭で紹介している二ノ段・八幡宮がある。


備中・軽尾城主天竺氏

 ところで、細川氏が守護職として領国支配をしたものとしては、土佐国以外としては備中国がある。

 同国における細川氏の支配は、初期に細川頼之の末弟・満之を始めとし、その後幾多の争乱により勢力を弱め、その間、阿波細川氏や、野洲細川家などが断続的に繋いだりしているが、永正年間ごろより事実上細川氏による守護職補任はなくなってしまう。
【写真左】八幡宮本殿
 最高所の二ノ段に祀られているもので、地元氏子のみなさんによって代々受け継がれているようだ。
 このあと裏側(西)に廻る。



 しかし、同国の中には、辛うじて細川氏の命脈を繋いだ一族もいた。その一人が軽尾城(岡山県高梁市備中町西油野)を居城とした備中・天竺氏である。
【写真右】軽尾城遠望
 応仁の乱後、細川氏の勢力が弱まったものの、備中の軽尾城における城主として、天竺氏が戦国期に至るまで続いたのは、やはり地理的なものがあったからだろう。

 この地は北に伯耆国、西に備後国を控える山深いところで、特に軽尾城の西麓は成羽川上流にあって、切り立つ溪谷が延々と続き、容易に人を寄せ付けない所である。
 

戦国期

 さて、土佐の守護職・細川氏が応仁の乱において、当地の支配から離れることになると、天竺氏は後ろ楯を失うことになるが、それでも自力によって暫く続いたようである。

 しかし、戦国期の天文13年(1544)11月20日、長宗我部国親の夜襲によって落城、当時の城主であった天竺右近守花氏は当城にて討死したとされる。
【写真左】土塁
 八幡宮の南西隅に残る土塁で、石積の施工が残る。
 この奥には堀切があるが、この場所からは急傾斜のため、直接行かず、一旦南側の参道まで降りて、向かうことにする。


高知市大津と愛知県西尾市天竹にある地名

 先述したように大津・天竺城の所在する高知市大津の南方には、介良乙・甲があり、以前紹介した源希義墓所(高知県高知市介良)がある。
 同稿でも述べているように、室町・戦国期に至ると、希義後裔として吉良氏が登場してくる。戦国期、吉良氏が活躍する場は高知市の西方、仁淀川東岸の弘岡(吉良城・春野町)だが、おそらく始祖はこの高知市介良辺りを本拠としていたのだろう。
【写真左】堀切・その1
 当城最大の堀切で、右側が二ノ段(八幡宮)で、左側が三ノ段に当たる。

 なお、天竺城にはこのほかの堀切としては、更に西に向かった三ノ段と四ノ段の間にもあり、詰ノ段と併せて3か所設置されている。


 これに対し、前段で紹介している天竺氏元祖の地・愛知県西尾市天竹(町)付近を見てみると、天竹の東方を流れる矢作古川を境に、東岸には吉良町がある。この地は御存じ「赤穂浪士」で有名な吉良上野介の所領地・吉良荘である。

 こうしてみると、土佐の天竺・吉良(介良)、三河の天竹(天竺)・吉良とほぼ同じ地名が隣接して所在していることになる。これは単なる偶然ではないだろう。明らかに両国当該地との密接な関連があったものと考えられるが、残念ながら詳細は分からない。
【写真左】堀切・その2
 先ほどの堀切を北側から見たもの。ところどころに岩塊が見える。
【写真左】三ノ段側の腰郭
 三ノ段から四ノ段にかけては、ごらんのように竹が繁茂しているため分かりにくいが、三ノ段北側には腰郭が付随している。
 ただ、この写真の右側から西にかけては斜面が崩落しているようで、遺構は殆ど残っていない。
【写真左】井戸跡か
 西に向かう参道脇にあったもので、水の手としては、これ以上低い場所では海水が混ざるため、この附近しか確保できなかったと思われる。
【写真左】西に降りる参道
 写真の右側が四ノ段に当たるが、おそらくこの参道は当時、犬走りに使われていたと思われる。
 このまま降りていく。
【写真左】西側の参道
 参道を降りて振り返って見たものだが、おそらく手前の宅地となっている箇所が船着場となっていて、ここから舟で舟入川を使って、出入りしていたものだろう。
 下山後、再び北側に戻る。
【写真左】舟入川
 右に天竺城があり、北麓を舟入川が流れる。
 現地は今では陸地だが、当時は殆ど海と接近していたと思われる。

 左側に見える水門は、そのための干満調整のものだろう。
【写真左】天竺神社
 天竺城の東端部には、昭和60年代改築されたという天竺神社が祀られている。

 この祠の後ろに、天竺右近守花氏の墓が建立されているが、その墓の裏には、

“天文13年11月20日 自刃
昭和3年2月改設 ”

と刻銘されている。


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2014年11月20日木曜日

本山土居跡(高知県長岡郡本山町本山377-2上街公園)

本山土居跡(もとやまどいあと)

●所在地 高知県長岡郡本山町本山377-2 上街公園
●高さ 250m(比高5m)
●別名 本山屋敷跡
●形態 居館跡
●築城期 戦国期以前
●城主 本山采女、山内刑部・但馬、野中直継・野中兼山、山内下総、孕石頼母
●遺構 石垣
●指定 本山町指定史跡
●登城日 2014年3月17日

◆解説
 前稿本山城(高知県長岡郡本山町本山)でも紹介したように、本山城の北西麓には本山氏の居館跡とされた土居跡(以下「土居屋敷」とする)が残っている。
【写真左】本山土居屋敷遠望・その1
 本山城直下の北麓から見たもので、この箇所は周囲の住宅地より少し高い位置にある。





現地の説明板より

“本山土居跡

 土地の豪族本山氏の土居の一つで、天正17年(1586)長宗我部検地当時は、本山采女が住んでいた。

 山内一豊の土佐入国御、慶長6年(1601)山内刑部(永原一照)が本山1300石を与えられてここに住んだが、その子但馬は、私曲の罪によって元和6年(1620)知行を没収されて、佐川の深尾家に預けられたため、それ以来本山土居はしばらく領主不在となった。
【写真左】本山土居屋敷遠望・その2
 少し下がった位置から見たもの。









 寛永7年(1630)野中直継が本山土居を預けられて、1000石を加増せられ、養嗣子兼山も当然これを受け継いだ。

 兼山は藩主忠義の厚い信頼をえて、藩奉行職として敏腕を発揮したが、本山領主としても吉野川の支流の樫ノ川や、木能津川に下津野堰・トドロ堰・ノボリ立堰・カタシ山堰・井口堰を設けて用水をひいて多くの新田を開発し、その余沢を現在まで及ぼしている。
【写真左】当時の想像絵図
 現地の説明板に添図されたもので、手前(北側)に門があったようだ。




 又寛永20年(1643)に発せられた「本山掟」は、兼山と領民をつなぐ歴史的文書といえよう。 寛文3年(1663)兼山失脚後、本山土居は山内下総、次いで孕石頼母らによって管理されたが、明治になってすべての建物が取りこわされ、今はその石垣にわずかに面影をしのぶばかりである。
   本山町教育委員会
   昭和57年度高知県文化財保存事業”
【写真左】入口付近
 北側を走る道路の脇にあり、写真の右側に数台駐車できるスペースがある。







本山氏から長宗我部・山内氏へ

 本山土居屋敷がいつごろ築かれたものかはっきりしないが、本山城が築城された初期、おそらく北麓に同氏及び家臣などの屋敷などが当然建っていたと思われ、当該土居屋敷などもこれらのうちの一つだったと思われる。特に、現在の場所は麓の中でも少し高台にあり、当初城主であった本山氏自身が入っていた可能性もある。
【写真左】東側の公園
 奥の高くなったところが土居屋敷だが、手前の低くなったところは、館主の世話などをする者の家や厩などがあったのかもしれない。


 説明板では、天正17年長宗我部検地当時、本山采女が住んでいたという。天正17年といえば、長宗我部元親はすでに豊臣秀吉に降伏し、秀吉の臣下として活躍しているころである。

 また、その前年に元親は後の高知城となる大高坂城へ最初に移ったころである。
 しかし、当時大高坂城周辺部は治水が整備されておらず、一旦旧本拠城であった岡豊城(長曽我部氏・岡豊城(高知県南国市岡豊町)参照)へ戻り、その後天正19年(1591)には浦戸城を築いて移っている。
【写真左】石碑など
 北側には巨石などが並び、奥には石碑が建っている。
【写真左】土居屋敷跡と書かれた標柱
【写真左】土居屋敷から南方に本山城を見る。
 文字通り指呼の間に本拠城本山城が見えるが、現在は樹木が林立しているため、本丸などは見えない。
【写真左】西側斜面
 左側との建物底面より2m前後高い。
【写真左】南側の石垣・その1
 南側にはご覧のような石垣が残る。
【写真左】【写真左】南側の石垣・その2
 上の石垣を正面から見たもので、高さ4m以上はあるだろう。

 このあと、南側斜面を東に進む。
【写真左】南斜面の東部
 東に進むにつれて右下の民家との比高差が高くなり、山城の切崖と変わらない様相を呈する。

 中段には犬走りのような通路が残る。
【写真左】南東端まで来る。
 左上の角が屋敷の石積端にあたる。
【写真左】南斜面を振り返ってみる。
 比高差で最大10m以上はあるだろう。

 なお、左下にある民家だが、件の説明板にもあるように、江戸期野中兼山による樫ノ川の堰によってできた用水路が流れていたものと思われる。
【写真左】屋敷跡東の公園南側
【写真左】東側の階段と公園
 南東端にもこのような階段があり、ここからも出入りできるようにしていたようだ。
 右の低い箇所は公園

 このあと、この階段を上がって東側に入る。
【写真左】東側

2014年11月19日水曜日

本山城(高知県長岡郡本山町本山)

本山城(もとやまじょう)

●所在地 高知県長岡郡本山町本山
●高さ 372m(比高120m)
●築城期 鎌倉初期か
●築城者 八木氏(吉良氏庶流)か
●城主 本山養明・清茂・辰茂、及び長宗我部氏
●指定 町指定史跡
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2014年3月17日

◆解説(参考資料「サイト『城郭放浪記』」等)
 本山城は、前稿土佐・和田本城(高知県土佐郡土佐町和田字東古城)の南麓を走る国道439号線を、東に約10キロほど向かった本山町本山に所在する。
【写真左】本山城遠望
 北麓にある本山土居跡から見たもの。なお、本山土居跡は次稿で紹介する予定である。






現地の説明板より・その1

“ 田井山の東端近く北にのびた尾根の先端部を利用した中世の山城跡・詰ノ段・二ノ段、三ノ段と小さな郭一つが残るが、土塁などの遺構は残っていず、三ノ段西方部はかつて射的場として造成されたものである。

 詰ノ段南下の尾根には、幅20mの堀切が残っている。土佐の戦国七雄の一、本山氏の城であるが、築城年代ははっきりしない。
【写真左】本山城及び十二所神社案内図
 北麓の本山町内に設置されているもので、現在地と書かれた所から、南に真っ直ぐ行くと、十二所神社(②)があり、その脇から西に向かって山を目指すと本山城がある。

 ただ、この案内図はこの箇所にしかないため、十二所神社にいきなり行くと、本山城の方向が分からなくなるかもしれない。


 本山氏の出自は、清和源氏吉良庶流の八木氏であるとも(「南路志」ほか)、平氏であるとも(「土佐名家系譜」)・但馬(兵庫県)国造八木氏とも(「本山城懐古史」)いうが、いずれも決め手を欠く。
 平安時代の末に当地に入り、吾橋庄の地頭職などを足がかりとして成長した八木氏が、のちに地名にちなんで本山氏を名乗ったものであろう。
【写真左】十二所神社参道
 ご覧の通りほぼ直線の坂道だが、街中も含め幅員が狭いので、慎重な運転が必要。
 運転に自信のない方は、街のほうに観光用の駐車場があったと思われるので、そこに停めて歩いて向かわれることをお勧めする。

 なお、十二所神社については後段で紹介したい。本山城はこの写真でいえば右側にある。


 戦国時代、養明次いで清茂(茂宗・梅慶・梅渓と号す)が出て、嶺北地方一帯に勢力をのばし、やがて南の高知平野に進出、土佐郡朝倉城(現高知市)を築いてここに移り、本山城は子の茂辰に委ねた。

 朝倉城に拠った清茂は、天文年間(1532~55)、現在の高知市域の支配を確立するとともに、機をみて荒倉山を越えて弘岡(現吾川郡春野町)に進出して、吉良氏を滅ぼし、更に仁淀川を渡って高岡郡に兵を出した。
 こうして西は幡多郡中村(現中村市の一条氏、東は長岡郡岡豊(現南国市)の長宗我部氏と対峙することとなった。
【写真左】本山城へ向かう。
 十二所神社の手前に西に向かう道がある。少し行くと「城山の森・展望所」などと書かれた看板があるが、そこをスル―して道なりに向かう。


 天文24年(1555)、清茂が没し茂辰があとを継いだが、永禄3年(1560)茂辰の家臣が長宗我部氏の兵糧船を襲ったことから、本山・長宗我部両氏の土佐中原をめぐる戦いが本格化し、吾川郡長浜(現高知市)の戦・土佐郡朝倉の朝倉合戦を経て、長宗我部氏の圧迫に耐えきれなくなった茂辰は、永禄6年朝倉城をすてて、本山に退いた。
【写真左】城域に入る。
 本山城は南北に伸びる尾根先端部に築かれており、南北に長く東西幅は短い。
 写真は、そのうち北端部最下段に当たる郭の一部で、東・北・西へと回り込んだ形となるため、帯郭といえる。


 本山城は要害の地にあるとはいえ、相次ぐ長宗我部氏の攻撃は本山家中に動揺と離反を引き起こし、茂辰は没し、子の親茂が防戦に努めたが、ついに長宗我部氏の軍門に降った。

 本山氏が長宗我部氏の配下に入った年についてははっきりしないが、元亀元年(1570)とも、元亀2年ともいわれている。”
【写真左】本山城から北方に本山の街並みを見る。
 当城の主要部からは眺望は期待できないが、東側の入り口付近からは本山の街並みが少し見える。
 吉野川は特にこの箇所で大きく蛇行している。


本山氏の出自

 説明板にもあるように、築城者である本山氏の出自については不明な点が多いが、この説明板では「平安時代の末に当地に入り、吾橋庄の地頭職などを足がかりとして成長した八木氏」がのちに当地名から本山氏を名乗ったのではないかとしている。

 八木氏といえば、説明板にもあるように、但馬(兵庫県)の八木氏が思い起こされる。
 以前紹介した八木城(兵庫県養父市八鹿町下八木)、八木・土城(兵庫県養父市八鹿町下八木)、さらには但馬・朝倉城(兵庫県養父市八鹿町朝倉字向山)でも、八木氏及び朝倉氏が出てくる。
 こうしてみると、但馬国の八木氏と、そこから遠い土佐国にあった本山氏(八木氏)との間に、何らかの接点があったのかもしれない。
【写真左】北側最下段の帯郭
 説明板にある「三ノ段」という箇所に当たるが、実際は細かく見ると、4段の構成となっている。

 長さは周囲を取り巻くのでもっとも規模が大きい。なお、この写真では右側が北を示し、左側(南側)上部に本丸が控える。


安芸(高知)朝倉に進出

 ところで、前段で紹介した説明板は街中に設置されたものだが、これとは別に本山城の二ノ段付近にもある。本山氏がのちに安芸・朝倉に進出し、朝倉城(高知県高知市朝倉字城山)を築城した経緯も書かれている。
 内容は重複する箇所もあるが、全文を紹介しておきたい。

現地の説明板より・その2

“この地の豪族本山氏の居城跡で、標高は377.5m、町並みからの比高ほぼ130mの所に詰の段を構える山城である。
 土佐の戦国時代、本山養明、茂宗(梅慶)、茂辰と隆盛をきわめ、「土佐戦国の7守護」の一人に数えられた。1527年頃には現在の高知市朝倉に進出し、朝倉城を拠点にほぼ20年間土佐中原を支配した。
【写真左】安芸・朝倉城
 所在地:高知市朝倉字城山 写真:本丸附近。別名・重松城。

 本山梅慶が天文年間中に土佐中央部を支配し、同9年(1540)ここに移ったとされ、永禄3年(1560)頃より始まった長宗我部氏との攻防が約3年続き、死守困難とみた梅慶の嫡男・茂辰(しげとき)は、同6年(1563)1月、城を焼いて、本拠・本山城に退去した。


 しかし、長宗我部氏との激しい攻防戦に敗れ、本山城に撤退、さらに瓜生野城に退き、1571年に降った。
 山城の遺構は総じて各曲輪とも後世の手が入り、もとの形をそこねているが、詰の段南尾根の堀切と、その西側斜面にのびる竪堀は原形をとどめている。また堀切から尾根を38mほど登ったところに小規模な堀切も確認できる。”
【写真左】石積
 射的場として使われたというが、いつのころだろうか。









土佐七雄と本山氏

 さて戦国期における本山氏についてはこれまで、高知市朝倉にあった朝倉城でも紹介しているので、改めてご覧いただきたいが、土佐七雄の1人とされている。

◎土佐七雄の一族名称と当時の本貫地

   一族名称       おもな支配地
  • 本山氏         長岡郡
  • 長宗我部氏      長岡郡
  • 大平氏         高岡郡
  • 津野氏         高岡郡
  • 香宗我部氏      香美郡
  • 吉良氏         吾川郡
  • 安芸氏         安芸郡
【写真左】三ノ段
 西側に廻り、左側の二ノ段を見たもの。
このあと、東(左)に戻り二ノ段に向かう。
【写真左】二ノ段

【写真左】二ノ段から一ノ段へ向かう
 当日の踏査は順を追って進んだものでないため、写真の位置が今一つ整理できていないが、二ノ段の西側から繋がる坂道で、一ノ段に繋がる。
 石積された階段跡のようだ。
【写真左】一ノ段
 この奥にはさらに高さ1.5m程高くなった小郭状のものがある。
【写真左】主郭・その1
 この郭を含めると、下段から数えて4つの段が構成されている。
【写真左】主郭・その2
 石碑
 「大正元年十一月建立」と刻まれている石碑だが、その下の石積もこの時期のものだろう。
【写真左】南側から主郭を見上げる
 主郭の南に続く尾根は一旦ここで断ち切られている。
 ここからの比高は10m以上はあるだろう。
【写真左】本山土居跡
 本山城の北麓には、本山氏の土居跡とされる「本山土居」が見える。
 天正17年(1586)当時は、本山采女が住んでいたという。
 土居跡については次稿で改めて紹介したい。

 なお、本山城の北麓から西へ500m程向かったところに「山内刑部墓所」があるとの標識をみつけたが、この日はむかっていない。
 山内刑部は山内一豊の一族だろうか。
 このあと、本山城から西に回り、麓に出て再び下の方から登城始点の十二所神社に戻る。
【写真左】十二所神社
 本山城の北麓側から登城始点である十二所神社にもどるべく、あぜ道のようなところを歩く。

 縁起を見ると、今から800年以上前にはすでにあったというから古刹である。


“『十二所神社』

 うっ蒼たる巨杉老樹に囲まれたこの神域に鎮座する神社の祭神は、伊弉册尊・速玉男命・事解男之命・天照大御神・天忍穂耳尊・彦火瓊々杵尊・彦火火出見命・鸕鵜草不合尊・軻遇突知命・埴山姫命・岡象女命・稚産霊命の十二柱を祀る。

 当社の沿革は「長徳寺文書」承元2年(1209、鎌倉前期)の「十二所、供田」が初見で、建治2年(1276)、弘安11年(1288)正月、同年2月及び応安7年(1374)等の古文書がある。

 殊に弘安11年2月の文書には「土佐国吾橋山長徳寺若王子古奉祀熊野山十二所権現当山之地主等為氏伽藍経数百歳星霜之処也(以下略)」と、その創建が古代であることを記録している。

 『土佐州郡志』に「帰全山、或は之を別宮山と謂う 旧(もと)十二所権現社有り今は無し」と記し、当社が古代から中世にかけて帰全山に鎮座して居たことが示されている。

 戦国乱世の永禄年中、本山氏と長宗我部氏との合戦で兵火に罹災し、帰全山から永田村今宮に移り、慶長15年5月に再建され、寛永15年(1638)12月、領主野中兼山公のとき、現在地に遷る。
 明治元年、十二所大権現を十二所神社と改称した。

 明治41年、本山字番匠屋敷に鎮座の若宮神社。同、東土居の地主神社。同、野々田の稲荷神社。同、帰全山の別宮神社。及び西山鎮座、天満宮の五社が本殿に合祀された。大正9年11月郷社に列せらる。

 年間祭事 ⋇夏祭 旧暦 6月8日 ⋇例大祭・護神幸祭 11月23日
      平成23年度 住民生活に光をそそぐ交付金事業
               本山町教育委員会”