2014年7月13日日曜日

荒滝山城(山口県宇部市大字東吉部字荒滝)

荒滝山城(あらたきやまじょう)

●所在地 山口県宇部市大字東吉部字荒滝
●高さ 459m(比高350m)
●築城期 室町時代
●築城者 内藤隆春
●城主 内藤氏
●指定 山口県指定史跡
●遺構 郭・堀切・土塁・石垣等
●登城日 2014年1月6日

◆解説(参考『日本城郭体系第14巻』等)
 荒滝山城は、山口県の西部を流れる厚東川(ことうがわ)の西方に聳える荒滝山に築城された内藤氏の居城といわれている。

 ちなみに荒滝山城の東麓を流れる厚東川を20キロほど下ると、以前紹介した霜降城(山口県宇部市厚東末信)・その1が位置している。
【写真左】荒滝山城遠望
 南西麓の駐車場側から見たもので、頂部はなだらかな形に見える。

 駐車場に向かう道は、県道231号線から北に枝分かれした林道だが、分岐点にある標識は少し小さいので、見落とすかもしれない。



現地の説明板より

“荒滝山城跡
           山口県指定文化財(史跡)

 荒滝山城は、大内氏の重臣で長門国の守護代だった内藤隆春(1528~1600)の居城と伝えられています。県内でも最大級の規模を持つ、中世の山城跡です。平時は山麓の今小野の館で生活し、戦時にこの山城にたてこもったと考えられます。

 この城は、標高459mの荒滝山の山頂につくられた主郭を中心として、東側尾根の出丸、西側尾根の西郭の三つの大きな郭群によって構成する連郭式の山城です。
【写真左】説明板
 麓の駐車場周りにはご覧のようなカラフルな説明板が設置してある。
 ちなみに、この付近には文字通り「荒滝」という名瀑があり、耳観音という像も祀られている。
また、舗装された駐車場の他、トイレも整備されているのでうれしい。


 尾根を切断する堀切、斜面に竪堀を連続して掘った畝状空堀群、城の出入り口である虎口、石積などの山城の防御施設を、山頂一帯のいたる所で見ることができます。
 市教委が行った発掘調査では、土師器・瓦質土器・中国や朝鮮から輸入された陶磁器など、主に16世紀中頃から後半にかけての、飲食や調理に使われた土器が出土しました。また、出土した遺物から、山口の大内氏との関係が伺われます。

 宇部市教育委員会”
【写真左】登城口付近
 麓には一軒の民家があり、その右側には石垣で積まれた棚田がある。西側から回り込みながら進む。







内藤氏

  荒滝山城の城主内藤隆春は、大内氏の重鎮として代々仕えた内藤一族の一人である。内藤氏が守護代として大内氏に仕え始めたのは、大内氏第11代当主・盛見(1377~1431)のころで、盛貞が最初といわれる。この頃大内氏は分郡守護体制をとっており、もう一人の守護代としては既に陶氏が任じている。
【写真左】分岐点・その1
 登り始めてから約20分ほど進むと、荒滝山城の北東に聳える「日ノ岳」に向かう道が出てくる。
 そのまま荒滝山側の道を少し進むと、今度は、南登山口側から伸びる道と合流する地点にでる。こちらの方はあまり使われていないようだ。
【写真左】分岐点・その2
 附近には休憩用の木製のベンチもおかれているが、劣化している。








 盛貞のあとを引き継いだのが、大内氏第13代教弘のときの盛世である。以下隆春に至るまでの流れを下段に示す。
  1. 盛世(盛貞) ~1468 主君・大内盛見 
  2. 盛武 ?~?
  3. 弘矩 1446~1495  主君・大内政弘⇒義興 
  4. 弘春 ? ~1502   主君・大内義興 弘春の兄・弘矩及びその子弘和、讒言によって大内義興に誅殺され、急遽家督を継ぐ。
  5. 興盛 1495~1554  主君・大内義興⇒義隆          弘春嫡男 妻 内藤弘矩娘
  6. 隆春 1528~1600  主君・大内義隆⇒毛利元就⇒輝元  興盛嫡男 妻 吉見隆頼娘
大内氏における内藤氏の世襲は概ね上記の通りで、守護代としてその地位にあったが、弘矩の代のとき、上掲したように主君義興は讒言によって弘矩を誅殺している。このため、弘春が跡を継いでいる。
【写真左】祠と鳥居
 本丸手前350m地点にあるもので、この付近から屹立した巨岩が現れる。










内藤隆春

 内藤隆春については、これまで石見の益田藤兼の墓(島根県益田市七尾町桜谷)でも少し触れているが、隆春の娘は益田藤兼の二番目の側室として七尾城に入っている。

 上掲したように、代々受け継いできた大内氏の重臣(守護代)ではあったが、天文20年(1551)、義隆が大寧寺の変(大内義隆墓地・大寧寺(山口県長門市深川湯本)参照)に巻き込まれた際、隆春は主君である義隆を守ろうとはしなかった。
【写真左】石積付近
 本丸南東部に当たる個所で、左側の斜面は草に覆われているが、平成13年度発掘調査で石積と石段が確認された。

 山頂の郭へ通じる南斜面通路の壁面はこうした石積が築かれているという。


 その背景には、このころ大内氏を支えてきた陶晴賢が事実上の実力者となっており、しかも晴賢と義兄弟であった甥の内藤隆世が、この時期形式上内藤氏の当主であり、その彼が晴賢に属したことなどがあり、隆春及び父・興盛らは静観の態度をとっていた。
【写真上】全体図
 荒滝山城は大きく分けて、主郭・西郭・出丸(千畳敷)の3か所で構成されている。

 この図は、縄張図の形式ではないが、これによると、遺構の数は凡そ次のようになっている。
 堀切×5~8ヵ所、畝状空堀群×20数ヵ所、虎口×6か所、石積×6カ所(いずれも概算値)。


 その後陶晴賢が厳島で毛利氏と戦う段になると、隆春は毛利氏に属した。晴賢が厳島に敗れたあと大内義長は、その2年後の弘治3年(1557)長門長福寺で自害するが、このとき甥の隆世も後を追った。この結果、隆春は改めて内藤氏当主として、また長門国守護代として元就に認知されることになる。

 荒滝山城の築城開始時期は、冒頭で示した大内氏第11代当主・盛見(1377~1431)、すなわち長門国守護代として始めて任に就いた盛貞の時と思われるが、本格的な整備を行ったのは、おそらくこの時期、すなわち永禄1~2年(1558~59)ごろと思われる。
【写真左】東に連続する郭段
 本丸から東にかけて約6段の郭が続く。3段目の郭はもっとも幅があり、その下には畝状の竪堀群(空堀群)が4条連なっているが、現地は雑木の覆われて明瞭でない。


 ところで、隆春の実姉・尾崎局は、元就の長男・隆元の正室である。つまり隆元は隆春の義兄となるが、隆元が不慮の死を遂げ、さらに元就が元亀2年(1571)に亡くなると、毛利家中で隆春を支援するものが少なくなり、さらには讒言が輝元の耳に入り、改めて輝元に対し忠誠を誓う起請文を提出させられている。

 隆春には男子がいたがいずれも早逝したため、養子として宍戸元秀(毛利氏側)の次男・元盛を迎えた。
【写真左】3段目の郭から主郭を見る。
【写真左】主郭
 主郭の一角には明治天皇の銅像が建立されている。
【写真左】北方に秋吉台を見る。
 荒滝山城からほぼ真北にはカルスト台地で有名な秋吉台が見える。
 向背の山を越えると、日本海側の長門・萩に至る。


【写真左】南方に霜降城を遠望する。
 おそらく⇓マークの山が南北朝期戦いの繰り広げられた霜降城霜降城(山口県宇部市厚東末信)・その1参照)と思われる。

 視界が良いと周防灘も俯瞰できるだろう。
【写真左】主郭北東部附近
 この辺りから右にかけて畝状空堀群が配されているが、現地は雑木や雑草で覆われて明瞭でない(下の写真参照)。
【写真左】竪堀
 標識はあるものの、倒木などで踏み込めない。
 ここからさらに東方の出丸側に向かう。
【写真左】堀切
 主郭側から出丸に向かう途中にあるもので、予想以上に規模が大きく、両端までの長さは100m前後ある。
【写真左】出丸縄張図
 主郭から出丸までの距離は、図面で見る以上に距離があり、独立した城砦として機能していたようにも思える。
【写真左】出丸の石積
 出丸は東西にそれぞれ長さ50m×幅20~30mの郭を2段構成し、境目の中央南に虎口を2か所置いている。そして、その東端部に降る尾根には5段の郭を配している。
 また北側には畝状竪堀を中小10数ヵ所配置している。
 写真は、西側郭の南面に残る石積みで、高さ約1mほどのもの。

 このあと、再び本丸側に引き返し、西郭に向かう。
【写真左】堀切
 主郭から西郭に至る個所のもので、特徴的なのは、この堀切の西側にもう一条が走り、北側でさらに西側から伸びた堀切と合流していることである(下の写真参照)。
【写真左】堀切配置図
 左図の右側が主郭で、西郭との間には計4本の堀切が配置されている。

 すべての堀切を越えていよいよ西郭に入る。
【写真左】西郭手前の犬走り
 西郭の概要は下段の図の通り、南側に大きな郭を配し、さらに北側に向かって小郭が配されている。
 この写真は手前の大きな郭の東側から北に向けて伸びる犬走り。
【写真左】西郭概要図
 中央の大きな郭は特記すべきものはなかったので、そのまま「現在地」と書かれたところに向かう。
【写真左】西郭・その1
 手前の郭から傾斜を持たせて、下に下がり、先端部周囲には土塁が残る。
 ここからさらに左側にある虎口を使って、西側に下りていく。
【写真左】堀切と塹壕の組合せ
 西郭の特徴はこの下段に取り巻く遺構で、北側には畝状竪堀群を配し、上部の先端郭を囲繞するように、空堀が配されている。
【写真左】空堀側面の石積
 囲繞する空堀の位置にあるもので、大分崩れているが、当時は屹立するような施工だったものと思われる。
【写真左】畝状竪堀
 当城の中では「西郭」区域に残る遺構が最も明瞭で、しかも見ごたえがある。
 この竪堀などはその典型だろう。
【写真左】竪堀下段から上を見上げる。
 上から見た時は緩い傾斜だと思ったが、下に降りて見上げると、かなり急傾斜に感ずる。

2014年7月8日火曜日

財崎城(広島県東広島市志和町志和堀)

財崎城(さいざきじょう)

●所在地 広島県東広島市志和町志和堀
●築城期 戦国期(天文3~天正6年(1534~78)か
●築城者 天野隆重又は元重
●高さ 標高220m(比高20m)
●形態 居館跡か
●遺構 ほとんど消滅(小学校)
●備考 浄源寺跡
●登城日 2013年12月6日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 財崎城は旧賀茂郡志和町にあった城館で、現在合併に伴い東広島市に所在する。所在地名は志和掘という。

 この付近は四方を山々に囲まれ、谷間を流れる関が東川が合流する地点でゆっくりと北に向かい、太田川の支流三条川へと流れているが、この川は太田川河口とは反対におよそ6キロも北に向かって流れている。初めて当地を訪れた時、下流が北に向かっていることに驚いたものである。
【写真左】財崎城跡に建つ志和掘小学校
 財崎城は居館であったといわれるため、郭が西側に2段程度あり、東側に堀切をつけた程度のものだったといわれている。
【写真左】志和掘り小学校のグランド
   現在の学校正面玄関付近から登り勾配になっているので、校舎及び運動場あたりに館などが数棟建っていたものと思われる。



堀財崎天野氏

 さて、築城者は天野隆重といわれている。時期は天文3年~天正6年(1534~78)といわれている。隆重についてはこれまで、藤ケ瀬城跡・その2小倉山城(広島県山県郡北広島町新庄字小倉山)横田山城(島根県松江市美保関町森山)でも紹介しているが、父は元貞である。
【写真左】郭段跡か
 運動場の南側から高くなった段があり、現在は石碑(学校関係)が立っているが、おそらくこの辺りに居館などがあったものと思われる。

 このあと、この奥の高くなった墓地方面に向かう。



 『日本城郭大系第13巻』によれば、当城に拠っていた天野氏と、志和東にある米山城を本拠としていた天野氏とは同族であるが、別系といわれ、隆重の父・元貞は、米山城8代興次の弟であったという。

 財崎城主天野氏は、始祖元貞から始まり、隆重・元明・元信・元重と続いた。こちらの方はその後堀財崎天野氏と呼ばれるようになる。
【写真左】浄源寺跡付近・その1
 財崎城(志和掘小学校)の向背は、東から舌陵丘陵が伸びているが、その先端部に天野氏の菩提寺といわれた浄源寺があったという。

 現在寺院など建物はないが、手前に墓地や奥には、垰堂という祠が立っている。
 垰堂は法正院と王子谷の地蔵堂を合祀したものといわれているので、近世のものかもしれない。


 ところで、隆重の子元明は、関ヶ原の合戦後、毛利氏に従って防長へ転出したが、元信は元明の養子として家を継いでいる。元信は慶長10年8月、萩城増築工事に際し、益田元祥と争っている(「五郎太石事件萩城(山口県萩市堀内)参照)。
【写真左】浄源寺跡付近・その2
 北側の先端部は木立があって明瞭ではないが、急傾斜となっている。








 元信はその名前からして、おそらく熊谷元直から偏諱を受けていたのだろう、毛利氏が秀吉と和睦して以来、元直は黒田官兵衛の知遇を得、キリシタンとなっていた。このため、元信もキリシタンとなっていたが、輝元から棄教の命を受けるも拒否、元直ともども死刑に処せられた。
【写真左】垰堂から墓地を見る。
 先ほどの垰堂に上がり、墓地を見たもので、奥の藪を抜けると志和掘小学校がある。

 この墓地付近から浄源寺及び境内があったものと思われる。
 このあと山側の方に進む。
【写真左】宝篋印塔と石碑
 入口から竹林が覆っているが、その一角には近代墓石と並んでご覧の宝篋印塔2基と石碑がある。

  『日本城郭大系第13巻』には、天野隆重の子の墓と伝えられる五輪塔がある、と記されているが、おそらくこの宝篋印塔がそれに当たるかもしれない。
【写真左】本堂跡か
 五輪塔のある段からさらに北にむかってかなり広い削平地がある。この写真でははっきりしないが、その奥にも石碑が見える。

 位置的にこの付近がもっとも高台に当たるので、本堂はこの辺りにあったと推察される。

2014年7月7日月曜日

中道子山城(兵庫県加古川市志方町岡)

中道子山城(ちゅうどうしさんじょう)

●所在地 兵庫県加古川市志方町広尾
●別名 赤松城・志方の城山
●高さ 272m
●築城期 至徳年間(1384~86)
●築城者 赤松氏範(氏則)
●城主 赤松氏
●遺構 郭・堀切・土塁・井戸・石積等
●登城日 2014年3月4日

◆解説
 中道子山城は、加古川市志方町広尾に所在する山城で、先月取り上げた志方城から東北東へ約5キロほど隔てた標高272mの城山に築かれている。
【写真左】中道子山城遠望
 南西麓からみたもので、当城が所在する城山は東西約3キロ、南北2キロに及ぶほぼ独立峰となっている。
【写真左】ハイキングコースの地図
 西側からスタートして城山(中道子山城)を経由し、東側の権現ダムに至るコースが描かれている。




現地の説明板より

“中道子山城跡

 播磨国守護赤松氏範(氏則)によって築かれ、本丸・二の丸・三の丸から構成され、東播磨で最大の約66,000㎡の広さがあります。

 山城跡には、城攻めの時に、斜面に竹の皮を敷いたが火をつけられた、坂の上から鯛をかかげ食料があると見せつけたなどの伝説があります。
【写真左】駐車場近くにある登城入口
 車で行けるのはこの手前にある駐車場までで、ここから歩いて向かう。写真中央の道で、車道としての幅員は十分あるが、現在は入口に5本ぐらいのポールが立っており、ここから徒歩でしばらく歩くことになる。


 本丸は、標高271mの山頂にあり、土塁囲いが残っています。本丸入口の米倉跡は、三方を土塁で囲み、内側には石垣を積み上げています。
 二の丸には、大手門と櫓門が造られました。大手門は、四脚門の構えをもつ山城跡最大の門です。櫓門は、本丸への通路に2か所あります。
 三の丸には、搦手となる裏門があります。
【写真左】磨崖毘沙門天
 舗装された坂道をしばらく進むと、旧城山道といわれている毘沙門天が祀られた奇岩の場所が見える。
 ここから直接登ることもできるが、今回は下山道として利用した。


 山城跡北側には、尾根を2本の堀切で切断しています。また、谷間には井戸を造り、堤を築いて貯水池にしています。今も井戸の水は涸れません。
 山城跡は、大永年間(1521~27)までに築城され、火災後規模を大きくして再築城しています。これが現在の中道子山城跡です。この山城跡は、近世城郭へと移り変わる過渡期の姿を残しています。

  平成13年3月  加古川市教育委員会”
【写真左】縄張図
 三方向の尾根を基軸としてY字状に城域が構成されている。
 南側(今回の登城コース)に二の丸が控え、その脇に大手門を置き、そこから北に向かって、行くと、西側に伸びる尾根には三の丸が控え、東側には二つの城門に挟まれた米蔵をおいて、その奥に本丸が配置されている。

 三の丸と本丸の間にある谷間には井戸が設けられている。
 なお、搦手は北側になっている。
 この縄張を見ると、相当長い期間の籠城(居住)が可能な設計といえる。


    
赤松氏範(氏則)

 赤松氏範は、前稿白旗城で紹介した赤松円心の四男である。また、置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その1でも列記したように、円心の子には、長子・範資をはじめとし、二男・貞範、三男則祐、及び五男・氏康と5人の男子がいた。
【写真左】大手門付近
 最初に見えてくるのが大手門で、この辺りに櫓門も設置されていた。








 これら兄弟の大半は父・円心に従って尊氏方に付いたが、氏範は兄たちと意見が合わず、足利直義が南朝に降り、高師直・師泰討伐に動いた観応の擾乱(1350年)の際は、南朝方に属した。

 その後、南朝方の硬派・四条隆俊に属して足利義詮を破るが、同方のリベラル派であった楠木正儀や石塔頼房らとは同一行動はとっていない。
【写真左】二の丸
 手前の標柱が立っている箇所が二の丸とされている。
 奥にはさらに二段の郭が控えているが、広義的にはこの郭段も二の丸の一部と考えられる。




 このころから山名時氏(山名寺・山名時氏墓(鳥取県倉吉市巌城)参照)は、足利直冬(足利直冬・慈恩寺(島根県江津市都治町)参照)と連合し、京都をめざし、正平10年(1355)1月16日、桃井直常も与同して氏範ら南朝軍は京都を回復した。ところが、それもつかの間で、3月12日になると、足利尊氏・義詮ら幕府軍が再び南朝軍を破り、義詮は入京を果たした。これによりまたもや南朝軍は京を離れることとなった。
【写真左】櫓門
 櫓門は二の丸側にもあるが、この写真のものは、城門・米倉側のもので、ここから右に向かうと本丸に繋がり、入ってまっすぐ進むと三の丸に繋がる。

 なお、左側には前記した二の丸の一部である楕円形の郭(管理人としてはむしろこちらが二ノ丸の主要部と思われるのだが…)に繋がる。


 この後、北朝方もそうであったように、南朝方も次第に内部に亀裂を生じ始めた。以前にも述べたように、南朝の精神的指導者・北畠親房が正平9年/文和3年(1354)に亡くなると、その兆候が現れ始めた。特に護良親王の子(後醍醐天皇の孫)であった赤松宮(陸良親王)は、南朝方にあって最も急進派とされ、ついには他の南朝方と対立、このとき氏範も赤松宮につき従った。しかし、最終的には南朝方主流派によって破れ、氏範は次兄の則祐を頼り播磨に戻った。
【写真左】空堀
 櫓門を過ぎて三の丸方面に向かう途中にあるもので、深さ2m前後。この空堀は三の丸と二の丸側を完全に分断するものでなく、北側には連絡路として道が残っている。


 播磨に一旦戻った氏範であったが、9年後の正平24年(1369)、再び南朝に帰順し、攝津国で挙兵した。このころ、南朝方は既に北朝方と和睦を図ろうとしていたため、氏範の行動は殆ど単独行動であったと考えられる。

 この3年前の正平22年、南朝方の葉室光資が使者として、北朝方に和睦を申入れをした際、足利義詮は同意せず、不調に終わっている。しかし、同年暮れ、義詮は政務を義満に譲り、翌年義満は征夷大将軍となり、しかも、氏範挙兵の正平24年1月には、南朝方の実力者・楠木正儀が義満と通じた(後に南朝に帰順)。
【写真左】三の丸
 北西にのびる尾根に築かれており、手前の郭の先にはさらに3m前後下がった位置に帯郭が取り巻く。
 さらにその先には二条の堀切が配されているが、この日はそこまで向かっていない。

 このあと、帯郭の先端部にある搦手門に向かう。


 おそらくそうした南朝方の一連の動きに対する反発が氏範の挙兵に繋がったものと思われる。
 氏範挙兵の報を受けた義満は、直ちに次兄の則祐や一族の一人赤松光範に討伐の命を下した。しかし、実弟追討の命を受けた則祐である。則祐には弟を誅滅する冷徹さはなかった。この結果、氏範は南朝の再興を願いつつ、しばらく播磨・摂津の間を潜伏することになる。そして、氏範最期の戦いが行われた。義満の命を受けた正平24年(1369)から17年後の元中3年/至徳3年(1386)9月のことである。
【写真左】搦手門・城門跡
 三の丸の北側にあるもので、この付近には小規模ながら長い空堀状の遺構が残り、しかも屈折した箇所が多い。
 敵の侵入を混乱させる目的にも見える。



 氏範討伐の幕命を受けたのは、細川頼元(鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)参照)、及び山名氏一族である。

 戦いの結果、氏範一族郎党合わせ100余名が、中道子山城から北東へ30キロほど向かった加東市平木の播州清水寺にて自害した。享年57歳。

 中道子山城の築城は、おそらく氏範最期の戦いとなったこの時期のことと思われる。
【写真左】井戸跡
 搦手門側からそのまま本丸西側斜面を過ぎると、谷間を利用した位置に井戸跡が残る。
 周囲は小規模な郭群で構成されており、この上には「米倉」などがあることから、数棟の建物などがあった可能性が高い。
【写真左】米倉
 本丸側に向かう途中にあるもので、三方は土塁が囲み、本丸側に向かって登り勾配の底面となっている。
 食糧保存のため、湿気対策が施されていたのだろう。
【写真左】本丸・その1
 当城最大の郭で、およそ長径100m×短径50mの楕円形のもの。
 底面も丁寧に仕上がりほぼフラット。
【写真左】本丸・その2
 一角には石碑が建立され「赤松城址」と刻銘されている。
 また、傍らには「平成26年 2014年 黒田官兵衛の当たり年! 官兵衛ゆかりの名山
志方の 城山」と書かれた幟が建っている。
【写真左】土塁
 本丸のほぼ全周に亘って土塁が巡らされていたようで、現在は特に北側に明瞭に確認できる。
【写真左】本丸から二の丸及び播磨灘を望む。
 本丸から南方を見たもので、手前に二の丸の一部が見え、さらにその先には加古川市・高砂市の市街地が眼下に広がり、播磨灘が霞んで見える。
【写真左】本丸から明石海峡大橋・淡路島を見る。
 鮮明な写真ではないが、少し東に目を転ずると、明石海峡大橋の橋脚と淡路島が確認できる。

2014年7月1日火曜日

白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)

白旗城(しろはたじょう)

●所在地 兵庫県赤穂郡上郡町赤松
●高さ 標高440m
●築城期鎌倉末期~南北朝初期(建武3年(1336))
●築城者 赤松則村(円心)
●城主 赤松氏
●指定 国指定史跡
●遺構 堀切・郭等
●登城日 2014年5月4日

◆解説
 白旗城は以前紹介した駒山城(兵庫県赤穂郡上郡町井上)の東麓を流れる千種川を挟んで、北東6キロに聳える白旗山に築かれた城砦である。当城は、赤松三城の一つといわれ、もっとも西方に配置されている。
【写真左】白旗城遠望
 北西麓から見たもので、麓にはかなり大きな看板が設置してある。
【写真左】白旗城の各部名称
 麓にある案内板に掲示されているもので、この写真では文字が小さいが、右側から
堀切(伝)、櫛橋丸(伝)、堀切、二ノ丸(伝)、馬場丸(伝)、本丸(伝)、三の丸(伝)、堀切
と標記されている(下段の配置図参照)。


 現地の説明板より

“白旗城跡(赤松・細野・大富・野桑)

 白旗城跡は、標高約440mの白旗山上にある南北朝~戦国時代(14~16世紀)の山城で、建武3年(1336)に足利尊氏に与した赤松円心によって築かれ、新田義貞率いる軍勢による50余日の城攻めに耐えた堅固な城です。
【写真左】案内図
 登城コースは2通りあるようだが、この日登城した北西側からのコースが多いようだ。






 以後、嘉吉の乱(1441年)で赤松氏が一旦滅びるまで、播磨・備前・美作の守護大名赤松氏の本城として固守されました。

 現在のこる縄張の一部は、戦国時代前年までの改修を受けており、長さ約550mに及ぶ尾根上を中心に、本丸・二の丸・三の丸・櫛橋丸・馬場丸・侍屋敷・桜門と伝えられる曲輪跡や、堀切・土塁・石積などの防御施設が残っています。
【写真左】配置図(縄張図)
 主だった遺構は、左(西側)から櫛橋丸(第4郭)、二の丸(第2郭)、侍屋敷、馬場丸、本丸(第1郭)、三の丸(第3郭)などが図示されている。



 城跡へは、赤松・野桑の両側から近畿自然歩道を通って登ることができます。
 白旗城跡は、感状山城跡(相生市矢野町)・置塩城(姫路市夢前町)とともに国指定史跡になっています。
【写真左】登城口
 駐車場は特に標記されていないが、手前を流れる川の上手の土手に広いスペースがあるので、ここに停める。

 そこから約50m程歩くと、ご覧のような柵付の入り口がある。猪・鹿除け用のもので、出入りの際はきちっと紐で閉めておく。


白旗城年表
  • 1336年(建武3年)   赤松円心、白旗城を築城。新田義貞の軍勢に対して50余日の籠城戦に耐える。その功により円心、播磨守守護に。
  • 1361年(康安元年)  南朝の軍勢京を占拠。赤松則祐、足利春王丸(後の3代将軍義満)を白旗城に迎える。
  • 1427年(応永34年)  赤松満祐、4代将軍義持と対立して下国。白旗城に籠城準備。後に和解。
  • 1429年(正長2年)  満祐、播磨国の土一揆鎮圧後、白旗城跡に白旗降下の瑞兆を報じ、勅使の下向を乞う。
  • 1441年(嘉吉元年)  嘉吉の乱。赤松氏城山城に一旦滅亡。白旗城も落城か?
  • 1454年(享徳3年)   赤松則尚、播磨奪回を目指し白旗城に陣する。
  • 1499年(明応8年)   守護代浦上則宗とその部将宇喜多能家、白旗城に籠城、浦上村国と合戦。
  • 1520年(永正17年)   播磨守護赤松義村、守護代浦上村宗と対立し、白旗城に陣する。
【写真左】五輪塔群等
 登城口から少し歩くと、左手に「白旗城跡山麓五輪塔群」、「白旗八幡社跡」「栖雲寺(せいうじ)跡」などが見えてくる。
 栖雲寺は、円心の次男・貞範が建立したとされている。

 写真の標柱元には小さな五輪塔群が見える。


赤松円心

 白旗城の築城者とされる赤松円心については、これまで置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その1でも紹介しているように、赤松氏は村上源氏の流れを組み、始祖・家範から数えて4代目となる人物である。本名は則村で円心は後の法名である。
【写真左】登城口から300mの地点
 暫く平坦な道がこの位置まで続くが、ここから登り勾配のガレバ道となる。






 足利尊氏と同様、鎌倉幕府討幕の命を後醍醐天皇から受け、六波羅攻略に活躍したものの、建武の新政において、播磨守護職をはく奪されるなど不遇な扱いを受けた。そして尊氏と行動を共にすることになる。
【写真左】登城道
 谷間の渓流と並行して登る道で、このあたりから風がほとんど吹かない。

 途中で下山してこられた御年輩のご夫婦に出会った。70歳はとうに過ぎておられるだろうご夫婦だったが、実にしっかりとした足取りだ。登山経験豊富な方々なのだろう。

 我々もその年になっても登れるだろうか。
【写真左】最初のピーク
 尾根に到達。ここまで1.1キロで、右に向かうと東側の鞍居バス停まで3.1キロと書かれている。

 ここから尾根筋に0.8キロ向かうと、白旗城に繋がる。
【写真左】堀切
 前半はやや細い尾根で、次第に幅が広くなっていく。
 この堀切は最初に見えたもので、尾根幅が狭いため、効果が高いものだろう。
【写真左】櫛橋丸の横を通る。
 櫛橋丸は尾根筋を進むとたどり着くが、尾根に到着するまでに相当体力を消耗していたため、省略してその脇の道を進んだ。
 この写真は、櫛橋丸北端部で、この先にある二の丸に向かう地点。
 ここまでは尾根の東側にある道を進んだ。
【写真左】二の丸・その1
 このあたりから尾根幅は広くなり、削平された郭が出現する。
 写真は二の丸の一角で、4段の構成となっているが、一番下の段。
 さらに東に進む。
【写真左】二の丸・その2
 最高所の位置で、かなり広々とした郭である。
なお、この位置から南に降りていくと、侍屋敷といわれる郭があるが、余り整備されていないようで、今回は省略した。
【写真左】馬場丸
 二の丸を過ぎると、次第に尾根幅が狭くなるが、長さ約80m前後の馬場丸が控える。

 馬の調練場がこの位置にあることから、厩も近くにあったものと思われる。恐らく、侍屋敷付近にあったのかしれない。


【写真左】桜門
 馬場丸を過ぎると、ここから登り勾配となるが、この付近が桜門と呼ばれていた。
【写真左】本丸・その1
 本丸はさほど大きなものでなく、長径20m×短径10mほどの規模を持ち、周囲に帯郭が取り巻く。
【写真左】本丸・その2
 本丸跡一角にはご覧のような石碑が建つ。
 なお、本丸から南の尾根筋には、およそ150m程の尾根に小郭が構築され、第10郭付郭(群)があるが、かなり急斜面で降った所にあるため、踏査していない。
【写真左】三の丸・その1
 本丸から北に延びる尾根筋に三の丸が配されている。
 

【写真左】三の丸・その2
 本丸との比高差は約5,6m程度下がっている。規模は周囲の小郭を含めると、本丸より規模が大きいかもしれない。
【写真左】土塁
 三の丸の北端部に配置されているもので、高さ2m前後。
 なお、土塁を超えると切崖となっているが、その下にも尾根を分断する堀切が構築されている。
【写真左】本丸付近から北東部を俯瞰する。
 白旗城からの眺望はあまりよくないが、北東部と西側の千種川沿いを少し見ることは出来る。
【写真左】松雲寺
 上段で紹介した赤松貞範建立の栖雲寺(せいうじ)を継承する寺院で、北西麓赤松に建てれれている。
【写真左】赤松三尊像
 白旗城の北西・河野原宝林寺境内にあるもので、円心館の建物に安置されている。
赤松円心・赤松則祐(円心の三男)・別法和尚(雪村友梅説もある)・覚安尼(則祐の娘千種姫)の木座像を、赤松三尊像という。