2011年4月3日日曜日

富田松山城(岡山県備前市東片上)

富田松山城(とだまつやまじょう)

●所在地 岡山県備前市東片上
●築城期 文明年間(1469~87)
●築城者 浦上国秀、浦上景行
●標高/比高 200m/200m
●遺構 郭・土塁・堀切等
●形態 輪郭式山城
●登城日 2010年2月23日

◆解説(参考文献「日本城郭大系 第13巻」等)
 前稿まで紹介した三石城(岡山県備前市三石)天神山城(岡山県和気郡和気町田土)と同じく、浦上氏の居城とされた山城である。
 所在地は、岡山県備前市にあって、播磨灘から奥行きの長い片上湾の東麓に聳える富田松山に築かれている。

 海に面していることもあって、山城の形態と海城の機能を併せ持った城砦と思われる。この付近には、片上湾を基点に、東方に富田松山城を置いて、西方には茶臼山城、及び田井山城と呼ばれる城砦もあったことから、瀬戸内から攻めてくる防御も設計構築されていたと思われる。
【写真左】富田松山城遠望
 片上湾南岸から見たもので、写真左側に備前市役所はじめ同市の中心市街地がある。



現地の説明板より

富田松山城址について
 富田松山城址は、東片上、南岸、海抜209mの頂(いただき)にあって、残礎等はほぼ旧態を追想するに足る。

 また、眺望よく戦国時代に相応しい山城であった。播州と備前東南部を扼する浦上氏は、本城を三石に置く関係から、備中の雄・松田氏に対して西方面を固める城砦として築いたものであろう。

 文明、若しくはそれ以前から天正年間に至るまで、約100年の間、代々浦上氏の居城であった。
 城主のうち、浦上近江守国秀から「片上年寄中」宛ての書状(享禄末?)2通が現存している。
   以上  平成元年2月建立 ”
【写真左】登山口
 当城の東麓、東片上の品川白煉瓦グランド付近に駐車スペースがあり、ここから歩いて行く。
 


 
 築城期は明確ではないが、当地・備前の代名詞といわれる備前焼が室町期に隆盛を誇り、それらが当時最大の産業として大きな利益を生んだことから、必然的に海上交通の軍事的城砦が併せて造られていったものと思われる。

 当時の支配勢力図は、備前国守護職であった赤松氏及び、当守護代の浦上氏が当地を押さえ、西方には、備前松田氏が備中・備後勢と組み、互いに覇を競った。
【写真左】富田松山城址縄張略測図
 登城口付近の説明板に付記されている図で、全体の構成がよくわかる。









福岡合戦

 文明15年(1483)、吉井川沿い築かれた備前・福岡城(岡山県瀬戸内市長船町福岡)に拠る浦上則宗(赤松氏守護代)に、金川城(岡山県岡山市北区御津金川)を本拠とする松田元成が攻撃(福岡合戦)、翌年当城は堕ちた。
 
 勢いづいた松田氏は、次に浦上氏の本城・三石城を攻めて行ったが、反撃にあい遁走中に元成は自刃した。

 富田松山城は、こうした経緯から浦上氏の本城・三石城の西のかためとして、本格的な城砦が築かれたものと思われる。

 従って、今月投稿した三石城の中で、浦上国秀が当城を構えた、と記しているが、富田松山城の築城期は、戦国期よりさかのぼった文明年間に既に築城されていたと考えられる。
【写真左】登山道分岐点
 富田松山城の登山ルートは今回の東麓側と、西麓側の2コースあるようだが、西麓側には駐車場が確保されていないようで、一般的には東麓側からのほうが多いようだ。

 写真は東麓側からのものだが、途中で分岐点となるところ。右は北側から入る短距離コース、左は南側から回って入るコース。今回登りは右をとり、下山は左側のコースをとった。



浦上国秀の出自

 さて、このときの城主である浦上国秀については、三石城の稿でも付記しているように、父・村宗の子、すなわち長男・政宗、二男・宗景、そして三男・国秀とする説もあるが、別の史料では、国秀だけは、これらの兄弟ではなく、長男・政宗の後見人であったとするものもある。
【写真左】最初のピーク
 東方の峰に向かう尾根筋で、「東出丸」といわれるところの稜線部分。





 名前だけで判断するのは、よくないが、浦上兄弟の名前からして、父村宗のそれぞれの一字をとった長男・政宗、二男・宗景に対し、国秀のみが村宗の字を戴くものとなっていない。

 こうしたことから、管理人としては、国秀はやはり村宗の三男ではなく、政宗の後見人であったとするほうが事実ではないかと思われる。
【写真左】雨乞い峠と富田松山城の分岐点
 この辺りになると、ほとんどピークの延長線上で、左に向かうと、もうひとつの下山コース(雨乞い峠)となり、右に向かうと富田松山城(本丸まで300m)に繋がる。



 国秀が富田松山城に在城したのは、天文年間(1532~55)であったという。その後一時城主がだれであったか不明で、14年後の永禄12年(1569)には、浦上景行だったという。

 そして、前稿「天神山城」でも紹介した宇喜多直家砥石城・その1(岡山県瀬戸内市邑久町豊原)参照)が、やはり天神山城と同じく、天正5年(1577)頃、当城・富田松山城も攻め落としたといわれている。
【写真左】東出丸
 本城の東方200mにあるもので、長径30m、短径15m程度の郭となっている。
 大分侵食され低くなっているものの、ほぼ全周囲にわたって土塁が構成されている。

【写真左】東出丸から富田松山本城を遠望する。
 東出丸から一旦下がり、途中の堀切を右に見て南側斜面から向かうと本城にたどり着く。
【写真左】堀切
 富田松山城には明確に残る堀切はこの個所が唯一で、長さ50m、深さは20~50m程度もあり、規模が大きい。

 なお、撮影場所は本城に向かう南側の搦手ルートで、この後最初の段が控え、さらに三の丸が設けられ、そのあと本丸が控えている。
【写真左】三の丸
 本丸東方に設置されているもので、長径30m×短径20mの規模。
 なお、この北方の個所から直接大手筋に向かう道が設置されている。
【写真左】本丸・その1
 長径60×短径38mで、卵型をなし、周囲を上幅2m、高さ1mの土塁が囲む。
【写真左】本丸・その2・土塁
 本丸の全周囲を土塁が囲むものは他の城砦でも見受けられるが、これだけ綺麗に整備されているところは珍しいほうだろう。

【写真左】本丸から二の丸・大手筋に向かうところ
 本丸の西側には下段の二の丸に降りる開口部がある。この道はそのまま、二の丸、小郭(2段)、及び大手曲輪、大手腰曲輪の脇を通り、最後は大手筋に繋がる。

【写真左】二の丸
 長径50m、短径15mの規模で、搦手・大手の両側を扼する位置に設置されている。
 なお、二の丸の南方にも下に3,4カ所の郭段が控えている。
【写真左】大手曲輪
 中間部の郭段で、南側からぐるっと二の丸下を周り、北西端から本丸北中央部まで、200~250mの長さを誇る。幅はほぼ10m程度。

【写真左】井戸跡
 大手腰曲輪エリアにあったもので、搦手側に近い。
 当城の山の地質から考えると、相当深い井戸だったと思われる。
【写真左】片上湾を望む
 本丸からの眺望もよいが、さらにいいポイントは、東出丸から本城に向かう途中の搦手コースからの眺めは必見である。

 写真に見える橋は、片上湾の東端にある岡山ブルーラインの片上橋。その奥には播磨灘が控える。

 風景写真に興味がある方には特にオススメと思われる。

2011年4月2日土曜日

天神山城(岡山県和気郡和気町田土)その1

天神山城(てんじんやまじょう)・その1

●所在地 岡山県和気郡和気町田土
●城郭構造 連郭式山城
●築城年 享禄5年(1532)
●築城者 浦上宗景
●廃城年 天正5年(1577)
●標高/比高 338m/310m
●遺構 郭・土塁・石垣・空堀・侍屋敷等
●指定 岡山県指定史跡
●登城日 2008年12月17日

◆解説(参考文献「日本城郭大系 第13巻」等)
 前稿「三石城」でも紹介したように、浦上政宗の弟・宗景によって築かれた山城である。

 天神山城は、備前国の中でも特にその規模の大きさや遺構の多さなど、戦国期の山城として見るべきものが多く、西国の山城の中でも最高クラスのものだろう。
 このため、三石城以上にサイトや史料で多く紹介されている。
【写真左】天神山城遠望
 西麓からみたもので、右下には吉井川が流れる。










 所在地は三石城より北西へ10キロ程度向かった吉井川の東に聳える天神山に築かれている。

 前稿でも記したように、この場所は北方の美作国に向かう位置でもあるが、当城麓の地理的社会条件からすれば、吉井川両岸はそそり立つ山並みに覆われ、けっして良好な地どりとはいえない。

浦上宗景

 築城者である浦上宗景は、前稿でも紹介したように、兄政宗と不和になり、備前国東部の有力国人を引き連れて分立し、天神山に拠った。
【写真左】登城口付近
 この脇には 天石門別神社が建立されている。










 天神山城を築いたのは、享禄5年(天文元年:1532)頃といわれている。宗景はその後天正5年(1577)に宇喜多直家(乙子城(岡山県岡山市乙子)参照)に攻略され落城するまでの45年間、この城に在城した。
 つまり、天神山城は一代限りの城主となったまれな城である。

 ところで、度々参考にしている「日本城郭大系 第13巻」(新人物往来社編)の「岡山編」記述は非常に内容の濃いものだが、天神山城についても詳細な説明がなされている。これによると、天神山城はその経緯から整理すると、3期に分けられるという。
【写真左】天神山城跡配置図
 この図でいえば、左下のところに登山口があり、西端から尾根伝いに登って行くコースが描かれている。

 なお、この図にはないが、登山コースはこの外に、北側から向かうコースもあるようで、こちらの方が体力的には負担が少ないようだ。

 また、この図の左端に「浦上与次郎墓」が描かれている。彼は宗景の嫡男で、宇喜多直家の娘を妻とするものの、直家に毒殺された。享年29歳。

【写真上】天神山城鳥瞰図
 上の配置図と併せてご覧いただきたいが、この図は、天正初年頃を想定して描いたもので、各所に建屋(構造物)も再現している。






 第1期は、兄政宗から分立し、直後にこの天神山に築城を開始した天文元年頃(1532年)。

 第2期は、天文10年代から末年(1541~54)で、宗景が戦国大名として成長し、併せて当城の城郭形成期をなした頃。

 第3期は、永禄年間(1558~)から天正5年(1577)の落城までのもので、最盛期には備前国をはじめ、美作・播磨国の一部まで所領を拡大し、元亀2年(1571)には上洛して織田信長に謁見したころである。
【写真左】下の段
 西端部最初の郭で、「五十騎一備の枡形」とある。










宇喜多直家の攻略

 しかし、急激な成長の後に待っていたのは、徐々に台頭しだした家臣・宇喜多直家による造反だった。家臣が主君を追い落とすいわゆる下剋上の事例は、直家に限ったことではないが、その策謀の陰湿さから、後に斎藤道三・松永弾正と並んで、三悪人と呼ばれた。

 天神山城が宇喜多直家によって落とされたのは、天正5年(1577)のこととされているが、実際にはそれ以前にすでに天神山城を奪われていた。

 そのあと、再び宗景は旧家臣であった坪井・馬場氏などを引き入れ、天神山城に拠った。ところが、このときも直家らの策略によって、宗景派から内応者が出始め、ついに落城した。追われた宗景の遁走先は不明だが、口伝では筑前に逃れ後に出家したといわれている。
【写真左】下の段から西の段を見る。
 段差は約10m程度ある。西の段の先端部には櫓台が設けられている。

 現在は展望台が設置され、眼下に吉井川が見える(下の写真参照)。

【写真左】西の段より吉井川を見る。
 南方をみたもので、この川を下ると、児島湾・播磨灘にそそぐ。

【写真左】三の丸

 説明板より

“三の丸
 三の丸とは通常、二の丸と同様に城主の館、もしくは重臣(家老格)の屋敷が置かれていた。
 城本来の機能的構成部分の外郭に相当する。
 虎口は、他の郭と比べて厳重を極めている。”

【写真左】三の丸から東方を見る
 このあたりから次第に規模が大きな郭が見え始める。
【写真左】鍛冶場

 説明板より

“城の拡幅工事に必要な器具の製造・修理・武具・武器の確保のため、鍛冶職人を常に置いていた”


 これまで他の山城も見てきたが、明確に「鍛冶場」と表記されたところは管理人の知る限りこの城砦が初めてだ。

 天神山城の規模がいかに大きいか、こうした設備によって改めて知ることができる。
【写真左】百貫井戸跡
 残念ながら当該井戸には足を踏み入れていない。
 この写真から150mほど下がったところにあったようだ。
 名前からして、相当大きな井戸のようだ。
【写真左】桜の馬場その1


 現地の説明板より

“連郭式山城最大の曲輪、両側面には帯曲輪・腰曲輪・犬走りなどがある。
 中央北側に大手門があり、西隅に鍛冶場があった。”
【写真左】桜の馬場その2
 御覧の通り当城最大の郭で、長大である。
【写真左】長屋の段を見る
 長大な「桜の馬場」を過ぎると、一旦下がり、次に見えるのが「長屋の段」である。

 この場所には、倉庫があり、鉄砲櫓、食糧櫓・武器櫓があったという。

【写真左】二の丸及び本丸直近
 長屋の段を過ぎると、二の丸が控える。二の丸を過ぎると、いよいよ本丸の西端部が見えてくる。
【写真左】空堀
 二の丸と本丸の間にあるもので、現在は大分浅くなっているが、当時は相当深く掘り下げられていたのだろう。
【写真左】本丸
 西端の下の段から相当歩いてやっと本丸にたどり着く。
 距離にすると、約600m程度になる。









 この後、さらに東方に向かって遺構が残るが、それらについては次稿で紹介したい。

天神山城・その2(岡山県和気郡和気町田土)

天神山城(てんじんやまじょう)・その2

●所在地 岡山県和気郡和気町田土●登城日 2008年12月17日

◆解説
 前稿に引き続き、本稿では天神山城の本丸を含め東方側、及び侍屋敷跡などを紹介したい。

 ところで、前稿で紹介した「鳥瞰図」は天正初年頃のもので、これとは別に南東方向の尾根伝い300mの地点に、前期天神山城がある。これは別名「太鼓丸城」とよばれるもので、当初浦上宗景はここに拠ったとされる。
 おそらく西方に新しく造った天神山城と併せて、後には出城としての機能を持たせたものと思われる。

 登城したこの日は、残念ながら太鼓丸城には登城していないが、度々参考にさせていただいている「城格放浪記」さんのサイトには、詳細な太鼓丸の写真が掲載されているので、ぜひご覧いただきたい。
【写真左】本丸跡に建つ石碑
 石碑には「浦上遠江守宗景之城址」とあり、「陸軍大将 宇垣一成 書」と刻まれている。
 宇垣一成は、地元(現・岡山市東区瀬戸内町)の生まれ、昭和13年、近衛内閣で外務大臣を務めている。

 本丸の規模は長さ55m、最大幅17mの長方形だが、いびつな形状である。

【写真左】本丸付近の標識
 この場所から太鼓丸へは700m、二の丸へ400m、桜の馬場へ300mと記されている。

【写真左】天津社
 天文2年(1533)、本丸築城の時、山麓に遷宮した、とされている。

 この社は前稿の登山口付近に建つ神社で、現在の「天石門別神社」である(下の写真参照)。

【写真左】天石門別神社本殿

【写真左】飛騨の丸
 本丸を過ぎると次には「飛騨の丸」という郭が控えている。
 規模は、長さ24m、幅8~17m程度で、この辺りから幅はやや狭くなってくる。

【写真左】南櫓台
 上記の飛騨の丸を過ぎると、「馬屋の段」という廓があり、それを過ぎると、この「南櫓台」がある。
 南櫓台は、天神山本城(後期築城のもの)の東端部に当たり、東方の峰に築城された「太鼓丸城」との連絡を主たる目的として造られている。

【写真左】天瀬侍屋敷
 上記の南櫓台から一旦飛騨の丸付近まで戻り、そこから南に降ると、「天瀬侍屋敷」に繋がる。

 天神山城の平時の生活場所だったと考えられているが、この外にも東西麓に家臣団の屋敷があったと推定されているが、遺構は未確認である。

【写真左】侍屋敷の「中の段」
 天瀬侍屋敷については、後段の写真を参照していただきたいが、主だったものとしては、


  • ぐるみの段
  • 土塁の段
  • 上の段
  • 中の段
  • 下の段
の5カ所からなり、さらに当該屋敷下には兵士たちの住まいと思われる7,8カ所の小規模な段が残っている。

【写真左】天瀬侍屋敷配置図
 現地を踏査すると、吉井川に面した天神山稜線の傾斜がかなり急角度のため、こうした場所に段を設け屋敷を構えていたことは驚きである。

 これまでも相当数の崩落個所が残っており、戦国期でもこの屋敷に住んでいる際は、おそらく度々屋敷周りの土木改修に追われていたのだろう。

【写真左】天瀬侍屋敷から下ったところ
 なお、以前は吉井川沿いに「片上鉄道」という線路があったようだが、現在は無くなり、その鉄道跡が舗装され写真のような歩道となっている。
 この写真でいえば、右側に侍屋敷があり、道路の奥に向かうと、最初の登山口に戻る。

【写真左】清流50選 天神淵付近
 上記の歩道を進み、振り返ってみたもので、右に見える道路は国道374号線、及び吉井川。また左の岩は天神山側。

【写真左】歩道付近から見えた奇岩
 天神山全体が岩山で構成されているが、歩道側にはこうした奇岩が多くみられる。
 地震が起きたら、そうとうの規模で落石が発生するような光景である。


2011年4月1日金曜日

三石城(岡山県備前市三石)

三石城(みついしじょう)

●所在地 岡山県備前市三石●築城期 正慶2年(元弘3年・1333)
●築城者 伊東大和二郎
●形態 山城
●城主 浦上宗隆・浦上村宗
●遺構 郭・土塁・石垣・堀切・井戸・池・虎口等
●標高 291m
●比高 210m
●指定 岡山県指定史跡
●登城日 2011年1月14日

◆解説(参考文献「日本城郭大系 第13巻」等)
 前稿駒山城(兵庫県赤穂郡上郡町井上)から南西約15キロほど下った岡山県備前市三石に築かれた山城である。
 三石城は備前国の東端にあるため、当然東隣りの播磨国との関係が深い。
【写真左】三石城遠望
 南東麓からみたもの。












 現地の説明板より

“岡山県指定史跡
 三石城
    昭和54年3月27日指定

 三石城は、元弘3年(1333)地頭の伊東氏により築かれたと「太平記」にある。その後、浦上宗隆が備前守護代として入り、以後浦上氏の拠点となった。

 浦上氏は、村宗の代に備前東部から播磨西部にかけてを領するまでになったが、その死後、領地が二分され、備前東部を受け継いだ宗景が享禄4年(1531)天神山城へ移り、三石城は廃城となった。
【写真左】三石城登山口













 城内には当時の遺構がよく残っており、頂上部の本丸(標高291m)から南西に二の丸・三の丸が伸び、本丸の北側には堀切を挟んで独立の曲輪がある。本丸の南西側面には大手曲輪が設けられ、当時の石垣がよく残っている。

 二の丸・三の丸の北側に沿って馬場があり、一段下の大手曲輪との間に池が設けられている。城内には7基の井戸があり、特に三の丸の南にある井戸は、「千貫井戸」と呼ばれ、常に涸れることがない。また、城の外郭線の山陽道側には、2カ所の見張所があり、外敵の侵入を監視するようになっている。
 城内から当時使われていた備前焼大甕(かめ)や、小皿片が出土しており、その一部が備前市歴史民俗資料館に展示されている。

 文化財を大切にし 後世に伝えるよう努力しましょう。
  備前市教育委員会”
【写真左】三石城 案内図
 上記の写真にある登山口に設置されている。







南北朝期

 築城した伊東氏とは、伊東大和二郎という人物で、当地の地頭職である。この伊東氏はおそらく、工藤氏一族伊東氏と思われ、鎌倉時代初期の御家人であった工藤(伊東)祐時(すけとき)の流れと思われる。

 築城期は元弘3年(1333)である。この年、閏2月24日、後醍醐天皇が隠岐島の行在所を脱出し出雲国に向かった。三石城主・伊東大和二郎は、南朝方に与し、当時備前国守護であった加地源二郎左衛門を攻め、これを降した。
 三石城の位置は山陽道に面した重要な場所で、この城に拠って幕府方や六波羅探題が京都の救援に向かうのを阻止したといわれている。
【写真左】 駐車場付近に設置された登山ルート案内図
 登山口からさらに車で向かう道が設置されている。幅員は狭いものの舗装されている。
 左図の「現在地」が駐車場になるが、この場所に当城の説明や写真にあるルート図が設置され、分かりやすい。駐車台数は2,3台程度。

 このルートは北側から南に向かうもので、搦手側になる。大手は南麓の三石の町から直接上るコースとなるが、かなり険しいようだ。

【写真左】略測図












 その後、建武3年(1336)、足利尊氏が京都を追われ九州に敗走した時、当城に尊氏の家臣・石橋和義を置き、新田義貞らの攻撃に耐えたという。このとき、新田義貞は播磨国の白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)も攻めていた。
 おそらく前稿「駒山城」も同様の状況だったと思われる。

 特に、三石城における頑強な防戦によって、新田義貞軍の勢いを決定的に弱体化させ、山陽道制圧をもくろんだ義貞の大敗北となった。
 こうして尊氏は改めて陣を立て直し、上洛後室町幕府の開設へと繋がって行く。
【写真左】登山道その1
 駐車場からスタートすると、すぐに谷に下り、そのあと三石城側の稜線まで登って行く。
 この写真の左側に三石城が控える。




室町・戦国期

 室町期になると、論功行賞として備前国守護職には、赤松氏が任命された。赤松氏の重臣・浦上宗隆は、同国守護代となり三石城を居城とした。その後、浦上氏は代々当城を居城としていく。

 嘉吉の変(1441年)で、赤松満祐が将軍足利義教を暗殺し、その後幕府軍に討伐されたが、そのとき、主家に殉じた浦上氏ではあったが、その後浦上則宗(1429~1502)が、再び赤松家を再興する。
【写真左】登山道その2(三石城遠望)
 上記のピークを過ぎると南方に向かってやや下る尾根となるが、高低差は少なくなる。

 この写真の手前付近からは、視界がいいと牛窓(瀬戸内市)、さらには小豆島も見える。

 なお、写真のほぼ中央部の盛り上がった部分が三石城本丸付近になる。



浦上村宗

 下って則宗の孫・村宗(?~1531)の代になると、時代は下剋上の世となり、村宗は主家・赤松氏と対立するようになる。

 永正16年(1519)、主家の赤松義村は、村宗の拠る三石城を攻めたが、逆に撃退され、さらに大永元年(1521)再び村宗を討つ画策に出たが、またしても敗れ、ついに義村は、播磨国室津に幽閉された。

 その後、村宗は同年9月17日、刺客を使って義村を暗殺。これによって、主君赤松氏に代わり、家臣であった浦上氏による播磨国支配が始まった。ちなみに、この年、甲斐国では武田晴信(信玄)が生まれている。
【写真左】鶯丸
 三石城の北方を守備する出丸で、長径50mの郭を本丸側に持ち、手前に2,3の小規模な郭段を配置している。






 この争いは、播磨国における下剋上を象徴するもので、この後浦上氏は戦国大名へと歩み始める。

 そして、9年後の享禄3年(1530)6月29日、村宗は細川高国と計らい、波多野秀長丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)参照)の子・柳本賢治を、播磨国東条で暗殺、翌4年三好長基(元長)と細川高国の戦いで、細川方に参戦したが、細川方が敗れたため、村宗も中津川で討死した。
 彼の遺骸は、家臣が持ち帰り、現在三石城より西南西6キロの備前市伊里(木谷)に葬られた。
【写真左】浦上村宗の墓
備前市指定史跡となっているもので、かなり大型の宝篋印塔である。二基建立されているが、村宗の墓は右側の大きい方のものと思われるが、左側の墓については不明。

 麓には伊里川が流れ、当時この場所は船着場で、ここから4キロほど南下すると、穂浪港(瀬戸内)に繋がる。
 村宗の遺骸は、家臣が持ち帰ったとあるが、嫡子政宗及び次子宗景の兄弟が摂津から船で持ち帰ったともいわれている。
所在地:備前市木谷
撮影日:2018年9月19日


 「日本城郭大系 第13巻」では、村宗の子には、長男・政宗(1520ごろ~1564)と、二男・宗景、三男・国秀がいたとしている。
 ただ、史料によっては、国秀は村宗の子ではなく、政宗の幼少期、彼の後見人であったとするものもある。
【写真左】堀切・間道
 鶯丸を過ぎると一旦下がり、御覧の堀切が出てくる。この写真の右に本丸が控えているが、堀切をそのまま南下していくと、大手門に繋がる間道が伸びている。




政宗・宗景兄弟の不和

 政宗は、居城を播磨国にある室津城(現:たつの市御津町室津:別名室山城)に移し、三石城には城番を置くこととした。
 その後、政宗は弟達(宗景・国秀)と不和になり、宗景は備前国和気郡の天神山に居城・天神山城(岡山県和気郡和気町田土)を構え自立し、三石城は宗景の持城とした。もう一人の弟・国秀は、同国の瀬戸内海岸に富田松山城(岡山県備前市東片上)を構えた。
【写真左】大手門付近の石垣
 間道は本丸の西麓を取り囲むような配置となり、しばらく歩くと大手郭があり、左に登って行くと二の丸脇から本丸に向かう道があったようだが、現在は消滅している。

 この石垣もその付近に設置されたもので、さらに南下した位置にも石垣が見える。




 享禄5年(1532)長男政宗は、二人の弟たちを討伐するため、最初に三石城を落とし、次に国秀の富田松山城を攻略する。しかし、宗景とは勝負がつかず、双方は撤退した。

 天文6年(1537)12月14日、出雲の尼子晴久(詮久)軍が播磨国に入ってきた。これについては、 三木城(兵庫県三木市上の丸)でも触れているように、尼子氏が播磨に入ってきた理由の一つが、石山本願寺を創建して間もない証如(光教)からの催促による。
【写真左】南に下る大手道
 この道を下って行くと、三石の街の中に出てくる。








 その当時石山本願寺は、寺院といっても城郭に近い形式をとっており、堀・土塁・塀・柵などを駆使した要害堅固なものだったという。

 またさらなる門徒拡大を播磨国に計画していた証如にとって、当国守護であった赤松政村(義村の子で晴政ともいう)の存在は、目障りだったらしく、出雲から上ってきた尼子氏の力を借りることは大きな意味があった。

 参考までに記すと、それから15年後の天文21年(1552)、尼子晴久が安芸国の一向宗門徒の援護を受けて毛利元就を討とうとした際、証如はこれを拒絶している。このころから証如が毛利氏に接近している節がうかがえる。
【写真左】馬場跡
 大手門付近からさらに三の丸西麓に伸びる個所で、長さは約100m程度ある。
 なお、馬場跡の北端部にはおそらく馬の飲料水用と思われる池跡が残っている。



宗景の領国支配

 さて、再び浦上氏の方に話を戻したい。

 こうした状況下の中で、対立していた浦上兄弟が合議して尼子氏に対峙することはなく、兄政宗は尼子氏に与同し、弟宗景は地元国人領主を集め尼子氏に対峙した。

 宗景は後に毛利氏と同盟を結び、浦上氏は完全に分裂していくことになる。
【写真左】三の丸
 馬場跡の東に造られ、北から南に向かって次第に細くなった形で、ちょうど「タツノオトシゴ」のしっぽに似ている。
 長さは馬場跡とほぼ同じ100m前後ある。





 三石城が廃城となったのは、浦上兄弟の分裂が一番の要因だが、宗景が兄政宗亡き後は、播磨国南西部も含め、備前国及び美作南部を治めたことにより、宗景の居城・天神山城の必要性がさらに高まり、それにともなって三石城の存在意義が薄れ、次第に廃城となって行ったようだ。
【写真左】二の丸
 二の丸はさほど大きなものでなく、20×30m程度のもので、本丸側にさらに高くなった小郭を設けている。
【写真左】本丸跡
 南北に長く、楕円の形で長径60m、短径30m程度の規模となっている。
 この写真の奥(北側)には、居館があったといわれている。

【写真左】軍用石
 本丸の北側に残るもので、戦の際この石が使われたのだろう。
【写真左】本丸跡から南麓に三石の街を見る
 三石城本丸からは北方に多少の眺望は確保できるが、南方はあまり眺望は期待できない。

 唯一、南東部に木立の間から眺められる場所があるが、春夏の頃はおそらく無理だろう。