2009年2月6日金曜日

家古屋城(かこやじょう)(島根県浜田市旭町)

家古屋城(かこやじょう)

●所在地 島根県浜田市 旭町 今市
●築城期 天福元年(1233)鎌倉時代中期
●築城者 福屋兼弘     
●遺跡の現状  山林 
●標高 457 m
●備考 別名:両子山城跡・小屋城跡・日和山城跡・三本松城跡
●遺構種別 溝 その他  郭 堀切
●登城日 2008年10月18日(土曜日)午後、晴れ

◆解説
 役場庁舎前の説明板より

“役場庁舎前方の標高457.3mの山が、家古屋城跡で、古屋城とも誤り伝えられている。

 天福元年(1233)、益田兼高の三男・福屋兼弘の築城という。子孫累代石見奥地から現広島県芸北町一帯に勢力を張り、南北朝争乱の世には、三隅・周布・都農の諸豪と共に、終始南朝方として活躍していた。
【写真左】家古屋城遠景
南側から撮ったものだが、左右の二つの山とも城郭で、島根県遺跡データベースでは、標高の少し高い(457.3m)右側を本丸跡としている。

 現状は残念ながら右側の方はあまり手入れされておらず、遺構の確認に入るには普通の服装では無理がある。
 地元では、左の山を「前城」、右の山を「後城」と呼ぶらしい。

 戦国の時代には、大内・尼子・毛利に属して名声をあげている。

 山頂に「前城」「後城」「馬場」の地名があり、全山に階段状の平地が配置されている。この城を中心に多くの支城、砦がある。ここを主城とした期間は明らかでないが、落城と修復が繰り返されており、悲話の伝承もある。


 永禄5年(1562)、毛利元就にそむいて滅亡したとき、福屋隆兼の主城は跡市の本明城であった。
    旭町教育委員会“
【写真左】旭町支所前に設置されている説明板
 この説明板の内容は、前記したごとく書かれているが、説明板と正対して見るため、冒頭の「役場前方の標高457.3mの山が…」と書かれていると、家古屋城と真反対の山を見る格好になる。

 しかもその山(後段の写真参照)が、本物の家古屋城の山より形がいいものだから、当初はその山が家古屋城だと思い込んでいた。

 やはり、こうしたときは必ず地図を添付した説明板にしないと、よっぽど間違った山に上るはめになる。
【写真左】前城の郭
 広さは40m前後のやや変形した台形に近い形をしている。

 10月も半ばを過ぎていたため、雑草は短いと思っていたが、ごらんのとおり、かなり伸びていて、地面はほとんど見えない。

 ただ、この位置まで電気のケーブルパイプがつながっていて、イベント用の道具らしきものが見えたことから、案外定期的な行事をやっているかもしれない。
【写真左】前城郭に設置された石碑
 「石央地域 知事と語る シマネスクふるさと金城 家古屋山」と刻んである。おそらく何らかの文化事業助成金によって作られたものと思われる。

 それにしても、なんとも抽象的な表示で、何をどうしたいのか、第三者から見たら全く分からない事業・イベント?に思われた。

 一山城ファンから言わせてもらえば、こういうものを設置するならば、他の山城のように、当城の歴史とか、縄張り図を設置するか、または未整備の「後城」の手入れをするなど、やってもらいたいことが多いのだが…。

【写真左】「前城」から見た「後城」遠望
 下の写真にもあるように、前城の一番高い位置までは踏み込めたが、それから先のおそらくあるだろう「堀切」「郭」「本丸」へは行くことができなかった。

【写真左】前城の「郭」
 このあたりになると、岩の塊と、雑木や笹竹などが繁茂していて、地面の凹凸部が見えずらい。









【写真左】前城に上がる横の坂道








【写真左】前城から見た南方向の山々












【写真左】手前の山が、最初に家古屋城と勘違いした山
 ちょうど家古屋城と斜め向かいにある山で、名前は不明だが、出城の役目もしていたかもしれない。

 また、この山の右奥には「小谷城」という地名もあるので、家古屋城を取り巻く砦群としての史跡が点在している可能性が高い。


◆この城は、前稿でとりあげた「本明城」の城主・福屋氏が本明城を築城する1年前(天福元年・1233)に築城している。つまり、本城である本明城より早く築城していることになる。

 これは福屋氏の本家・益田氏が、もともとこの地区の近くにある「御神本(みかもと)」の出であることから、実際には益田氏御神本時代にすでにこのあたりに館を建てていたと思われる。
 いうなれば、益田氏の祖を生んだこの旭町(浜田市)が、石見地方の中世・戦国期のスタート地点であることになる。

2009年2月5日木曜日

本明城(島根県江津市有福温泉)


本明城(ほんみょうじょう)

●所在地  島根県江津市有福温泉町本明
●築城期  文暦元年(1234)又は、1264~1278年頃
●築城主  福屋兼広
●別名 乙明城又は福屋城
●標高   417m
●遺構   郭 帯郭 腰郭
●登城日  2008,1,15

解説
 建久3年(1192)御神本兼高が、それまで浜田にあった居館を、益田に移し、このときより姓を御神本から益田に改め、益田兼高と名乗った。その兼高の三男・福屋兼弘が築城したのがこの本明(ほんみょう、又は、もとあけ)城である。別名、「乙明城」「福屋城」とも呼ばれている。

現地の説明板より

“江津市指定 史跡及び名勝
 本明城跡

  1. この城跡は、江津市文化財保護条例第9条第1項の規定により昭和55年7月14日付けをもって江津市史跡及び名勝に指定されました。
  2. 尾根を境に南側は、那賀郡金城町乙明です。時代により福屋城・乙明(音明)城などの別称があります。
  3. 福屋氏の最後の居城の形態(縄張り)としての郭(平坦面)をよく残しています。
  4. 「東の丸」からは、炭化米や大豆が出土したことがあります。この山の北麓の福田の地には、福田八幡宮がありこの丘陵は、福屋氏の城館跡と考えられます。
  5. 福屋氏がこの地を離れた後は、毛利氏の支配に入りました。
  6. 主郭付近の標高400m上のヤマモモの木は、県内最高位の高さにあると思われます。
  7. 四季を通じて種々な趣の山中、頂上からは日本海や中国山地を望む風光明媚の地です。

 規模 長軸 約1,000m
 比高 長軸 約40m 短軸 約80m

   江津市教育委員会
     (平成7年9月設置)

 注意 郭(平坦面)端などを崩さないこと。
     樹木等を許可なく伐採しないこと。


 築城期については、上記したように二説あるが、前稿で取り上げたこの近くにある「周布城」が安貞2年(1228)ということを考えると、文暦元年すなわち、1234年が正しいと思われる。
【写真左】本明城遠望
 北側からみたもの。
手前の道路は途中まで整備された県道50号線。








 南北朝時代は、この石見も激しく揺れ動いた地で、特に出雲の塩冶高貞が宍道町佐々布で割腹自殺した1341年(興国2年/暦応4年)の2月、有福五分一地頭・越生老氏と久利郷一部地頭・赤波公房が、上野頼兼(石見守護で足利尊氏派)に従って、当城が攻められている。

その後もいろいろな動きがあり、他の山城・一族と同様、戦国末期で一つの終焉を迎える。

【写真左】登山口に設置された案内板
 非常にユニークな案内板である。
 登城したこの日のルートは、この図でいえば、左下の「本明東コース」からで、県道50号線から分岐した位置が登城始点になる。
【写真左】登城開始
 この日小雨混じりのあいにくの天気だったが、向かうことにした。









戦国期

 永禄5年(1562)、ジワリジワリと石見から攻め落としてきた毛利元就は、この福屋氏のもう一つの出城・松山城(江津市松川町)を落とす。一族の城主・福屋隆任(たかやす)は討死し、当城は落城。

 本明城の城主・隆兼(12代)は、松山城から長躯当城に戻り、再度防戦しようとしたが、すでに戦意喪失。

 この城に火を放って、浜田の浜から日本海へ船で脱出し、出雲へ行ったん逃れ、最後は大和の松永弾正の元へ。その後は徳島の蜂須賀氏のところに身を寄せたとある。
330年の福屋氏の歴史がここに幕を下ろした。

【写真左】本明城略測図
 「平成2年12月1日 作図 寺井 毅」とあり、「中国自動車道広島浜田建設予定地内埋蔵文化財発掘調査報告書Ⅲ」の「福屋氏の城郭」から転載された図のようだ。
 平成7年9月に設置されている。

 この図でいえば管理人が登城したルートは右上の方からで、細長い尾根上には、「馬の段」「東の丸」「主郭」「不動の滝」などが図示してある。
【写真左】登城途中にある鳥居
 本丸跡には金毘羅宮が祀られている。
【写真左】不動尊祠
 島根名水百選の一つ。ここで休憩し名水を頂く。
【写真左】最初のピーク
 東の丸付近で、この辺りから絶景が広がる。
【写真左】東の丸
 この先にある本丸よりも整備された郭で、おそらく家臣の多くがこの場所に陣を構えたのだろう。
【写真左】中国山地・その1
【写真左】中国山地・その2
 付近には本明城ほどの高さを持つ山がないこともあって、眺望はすこぶる良い。

【写真左】本丸・その1
 本丸跡には金比羅神社の本殿が建っている。
【写真左】本丸・その2
 全体にこの付近は岩塊が多く、尾根幅は狭いが、長軸がおよそ1キロもあることから、規模としては大きい方だろう。





 県道50号線から登山口の案内は出ているものの、その先を案内するものがないため、大分迷った。
 しかし、何とか登山口のあるところに着き、しかも専用の駐車場や案内板が出ていて大いに助かった。因みにこの場所は、隣が民家であり、たぶんこの家の方が土地を提供しているような感じだ。
【写真左】三角点
 標高417.1mの地点。この位置からさらに尾根伝いに西におよそ300m向かうと、標高400mの頂部があり、この付近も本明城の城域とされている。



 おばあさんが一人おられ、軽く会釈をしてから登った。
 案内板には時間にして30分と書いてあったが、とても30分では無理で、おそらく倍の1時間はかかっていると思う。

 登山道は傾斜がきついものの最初の半分は十分な道幅がとってあり、これまで登った山城の中でも親切な方だ。しかし、後半になると、かなり傾斜がきついため、相生の感状山城のような険しい道になった。途中で名水百選のところがあり、ここでのどを潤し、たどり着いた。
【写真左】三瓶山か
 東に目を向けると、一際屹立した山が見える。おそらく三瓶山だろう。





 この日は、1月とは思えない温暖な日で、セーターを脱いでいたものの、大汗をかいた。
頂上は確かにすばらしい眺めで、ほぼ360度の絶景。特に日本海が見えたのは感動もの。また、頂上部は巨石で構成されていて、苗木城(なえぎじょう)跡・岐阜県中津川市苗木の小型版といったところか。

 城郭の形状は、東西に相当長いようで、時間があれば全体を見ようと思ったが、何しろ一旦下って、再び上がる元気もないため、本丸部分と、東丸といわれる部分のみ足を踏み入れ、下山した。このあと、南下し、数年ぶりに美又温泉へ行き、汗を流した。

2009年2月3日火曜日

周布城(すふじょう)(浜田市周布町)

◆登城日 2008年5月15日(晴れ)

遺跡名称 :鳶巣城跡 とびのすじょうあと
所在地 :浜田市 周布町口10 要害
時代: 中世 
遺跡の現状 :山林 
土地保有 :民有地 
指定: 市町村指定
標高: 82 m
備考 :興国山 聖徳寺

【写真】周布城遠景と手前:聖徳寺

解説①
周布氏の居城。周布兼定が築城。
鎌倉幕府が、蒙古襲来に備えてつくった、石見沿岸防禦十八城の一つである。
(以上島根県遺跡データより)

解説②

周布側の川沿いに進んでいくと、案内が設置されている。内容下記のとおり。
“鳶(とび)巣(のす)城跡と聖徳寺※(後段にこの寺の追記事項あり)
 前方の鳶巣山にある城跡は、鎌倉時代前期(1228年)浜田の豪族・益田兼定がこの地に砦を設け、以後周布氏累代の居城として、室町時代後期(1570)毛利氏に攻められ、落城するまでの約300年間、浜田西部を支配する拠点となっていた。
 また、山麓には周布氏の菩提所・曹洞宗聖徳寺があり、その本堂には江戸時代後期(1866)の長州軍との戦いの弾痕が残っている。“


【写真】周布城遠景(左右合成したもの)
◆写真に見える聖徳寺という寺の境内に看板があり、重複するがこれも転載しておく
“昭和44年11月3日指定 浜田市指定史跡
鳶巣城跡
 鳶巣山は、別名要害山ともいい、城砦は、尼子の月山城を思わせるものがあって、防備に自然の地形をよく利用し、工夫を凝らしている。この付近の平地に城下町ができていたことは、土地名等により想像できる。
 文永年間(鎌倉時代)浜田西部の豪族・益田兼定が地頭職となり、鳶巣山に築城し、以後周布氏の居城となり、元亀元年(1570)周布氏が毛利氏に攻められて落城するまで、約300年間、浜田西部の一帯を支配する拠点となっていた。また鎌倉時代、幕府が蒙古襲来に備えた石見沿岸の防御18城の一つである。
昭和51年3月25日建立
浜田市教育委員会“


【写真左】堀切
はっきりと認められる堀切りは2か所あって、写真はそのうちの一つ。
 登り口付近は現在墓地になっており、その奥の方から登るようになっている。




【写真左】本丸の側面

登城道は、城郭の西側にあり、何段かの郭を過ぎると、写真のような本丸の側面が見える。
 途中の遺構部分はほとんどこうした杉の植林がしてあり、山城の写真撮影としては少し邪魔になるが、かといって雑林・雑草のままでは、いよいよ荒廃した姿になるため、これも一つの山城保全対策かもしれない。
 下の郭からの高さはさほどなく、4m前後か。本丸の大きさは、はっきりと覚えていないが、20~30m四方だったと思う。



【写真左】本丸下の帯曲輪
 徒歩で探索できるのは、この本丸付近までで、それより奥(北方向)はご覧のとおり、藪こぎになるため、断念した。
 なお、この奥に、太鼓楼があるらしい。


◆この周布城は、前記したとおり、山城とはいうものの、鎌倉幕府が蒙古襲来に備えて造ったという背景があることから、「海城」としての役目が初期にはあったと思われる。現在は周布城の脇を流れる周布川からの堆積によってだいぶ内陸の位置に変わっているが、当時は北西部の津摩町付近は離島で、この周布城(鳶巣山)まで海岸部が迫っていた。

写真にある周布城下の寺院について
「島根の寺院 第2巻」によると次の通り。
興国山 聖徳寺
 縁起 当寺は、浜田市周布町にあり、国道9号線の周布大橋から、周布川上流に徒歩で約9分、田園の中に静かなたたずまいをみせている。
 寺伝によると、草創は推古16年(607)の頃、聖徳太子の作と伝えられる仏像が祀られ、安貞2年(1228)から正嘉2年(1258)のころ、地頭として益田氏兼定が当地に鳶巣城を築き、周布氏初代となり、当寺を菩提寺に定めた。
 正中元年(1324)、四代・兼信が一禅僧を講じて、禅寺として寺領70余貫を寄進したと伝える。
 応永年間(1394~1428)大徹門下の洞雲胡泉和尚が来(らい)錫(しゃく)し、曹洞宗として開山。盛んに禅風をひろめ当地方屈指の禅道場として栄えた。元盛はこれに深く帰依して、寺領120貫を寄進した。
 天正、文禄(1573~1595)に至り、戦乱の世となり慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦から、周布氏は落城、長州へ退去した。その混乱の一時期寺運が衰えていた。
 幸いにも、慶長年間に大和国より、大源門下補厳寺の泰屋全雄和尚が、この地に来錫して、古刹の退廃を惜しみ、補厳寺末として再興、禅道布教に20年。その努力が報われて、往時の如くに壇信徒420軒を数えるにいたった。(中略)
 境内には、周布家代々の墓碑があり、鮮苔古色を帯びて、一層清閑なたたずまいを見せている。(中略)
 因みに、当山の開基・益田兼定が周布郷を譲与されたのは、安貞2年(1228)2月6日付の北条泰時、時房連署の領地の安堵状でわかる。
 それによると、周布郷、鳥居郷、安富名、福光村を譲与され、その他の地頭識となり、鳶巣山に砦を構え、周布と称するにおよんで、この地が鎌倉時代前期(1228)から室町時代後期(1570)、毛利氏に攻められ落城するまでの約300年間、浜田西部を支配する有力な拠点となっていた。
 そして、その山麓に周布氏の菩提所・興国山 聖徳寺があり、その本堂には、江戸時代後期(1866)の長州軍との戦いの弾痕が今なお残っている。以上。


◆資料によっては、益田兼季(1264~75)が築城したというのもあるが、山城(海城)の初期の施工はおそらく兼定のころと思われる。

2009年2月2日月曜日

石見(いわみ)城(島根県大田市)

◆このブログでは、同じ島根県でも初めて、石見部の山城を取り上げることになる。

石見城

所在地 大田市 仁摩町 大国 宮村

◆登城日 2009年2月1日(日)曇り
時代 :中世 
遺跡種別 :城館跡 
遺跡の現状 :山林 
指定: 世界遺産登録・国指定
標高 :153 m
遺構概要: 郭 帯郭 土塁 堀切
備考 :  銀山柵内から北西5㎞にある16世紀の山城。 仁摩方面を守備するための重要拠点。 1565年頃に、温泉(ゆ)氏が軍事的拠点にしていた。
(参考:島根県遺跡データベース)

◆この城の築城期について明確な記録はないようだが、基本的にこの城を含め、石見銀山の防衛のための城で、銀山の流れと軌を同一にしていると思われる。
 2007年7月、世界遺産登録され、一躍有名になった石見銀山だが、銀山中心部は言うまでもなく、その区域はかなり広い。山城関係では、この石見城を含め、中心部の山吹城、矢滝城、矢筈城などがある。
 世界遺産登録なった後、特に昨年2008年からは観光客が急増し、大森銀山地区へは直接車で入ることができなくなった。いずれ投稿することになると思うが、当方は前述した「山吹城」は世界遺産登録になる前に登城しているので、山城ファンの一人としてはラッキーだった。
◆さて、この石見城だが、場所的には石見銀山の東北部に位置していることから、当然出雲部や日本海側からの来襲に備えて築城されたものと思われる。銀山が発見されたのは、よく言われる「博多の豪商・神谷寿貞らが日本海の船から見たら、石見銀山方面の山が銀色に光っていたので発見し、堀始めた。その時が大永6年(1526)である」という説は、かなり粉飾された話で、実際には14世紀ごろから銀が発見されている。
 銀山の関係する山城として、山吹城はこのころ(延慶年間:1310年ごろ)には既に築城していた。
 そして、具体的に銀の生産に動き出したのは、おそらく永正14年(1517)に幕府が山口の大内義興を石見国守護職に任命したころだと思われる。
◆それに合わせて、義興は同年(1517年)、この石見城のある龍巖山北側山麓に「石見神社(八幡社)」を建立している。


【写真左】石見八幡神社とその後ろにある龍厳山(石見城)遠景

◆このころから大内氏と尼子経久が、たびたび石見銀山をめぐって争奪戦を繰り返す。したがって、銀山を守るべく大内氏が東側に築城した石見城は、かなり早い段階(石見神社建立と同じ永正14年ごろか)でできたものと思われる。ちなみに矢滝城は、それより遅い11年後の享禄元年(1528)である。




◆石見城の登城だが、ある程度登城口は「城郭放浪記」氏の写真でつかめてはいたものの、登り口に何にも標識がないため、念のため付近の地元の方に確認して登った。


【写真左】登城口付近
この写真の左側から細い登り道があり、そこから約2,30分程度で上れる。








【写真左】登城してしばらくすると、いつの時代か分からないが、石垣の遺構があり、陶器製のものやトタン板などがあったので、近世のものかもしれない。

【写真左】龍巖山と東の山(名称不明)との合流点
尾根伝いの部分で、この付近の幅も広くなり、石見城本丸はこの写真では左側になる。登りの傾斜もここからは緩やかな勾配となる。



【写真左】最初に見えた堀切り
だいぶ埋まってしまった堀切だが、遺構としては十分確認できる。









【写真左】なぞの穴
こうした穴がもう一か所あり、左右(南北)に並んで見えた。直径は1m弱なので、井戸としては小さい。どういう目的で作られたのか不明。

【写真下左右】本丸跡付近


本丸そのものは大きくはないものの、それまでの何段かの郭や、北側に見えた帯曲輪などの規模を含めると、中規模といええる。また、遺構もさほど破損しておらず、十分堪能できた。






【写真左】本丸跡から南方向を見る
この方向(やや南西の方向)に石見銀山がある。なお、本丸の西側突端部は岩が突き出ていて、この場所からの眺めはさらに良く見ええる。






【写真左】本丸跡から西の方向を見る
写真の山は高山というキャンプ地のあるところで、その中腹には上野という集落も見える。






【写真左】本丸跡から北の方向を見る
眼下には、邇摩の街並みと日本海が見える。戦略上特にこの方向はより重要な視界で、大内氏、尼子氏、毛利氏などもこの城の重要性は相当高いものと思っていただろう。




【写真左】追加写真として、石見城の西先端部を掲載する
真正面からはじっくりと見ていないが、奇岩の大岩である。

小田・富士ヶ城(島根県出雲市多伎町)その2





























◆この稿は、前回取り上げた小田・富士ヶ城探訪の際、間違って登って行った時の報告である。
 結論から言って、間違ったことが思わぬ収穫で、この山付近も限りなく山城関係の遺構と考えたい。担当所管の島根県や出雲市がどの程度調査したのか分からないが、私にはそう思える。
◆前回の写真で示した舗装された道路をどんどん登って行くと、南から東にかけてぐるっと回るようなルートの道なっており、途中で左側に牛舎の廃屋があり、突き当りには同じく廃屋となった民家にぶち当たった。
●この間にまったく富士ヶ城の案内板がなかったため、少し引き返したところ、南側に行く山道が見えたので、この道を登って行った。しばらくすると、左右に分かれる地点に来て、まず左側の道を尾根伝いに登っていくと、谷の最終地点にいたり、そこには谷の傾斜を利用した池ができていたが、水はほとんどなかった。
●再びここからいったん別れた地点まで戻り、今度は右の道を行くと、途中からだんだんと平坦な地形になり、突然土橋(写真参照)のようなものが目に入った。よく見ると、その土橋の両側には5,6m四方の二つの池ができており、この土橋の下は連絡管(おそらく石材をくりぬいた穴)のようなものが設置されている。下流部の池の土手は頑丈な施工がしてあり、同じくその上を十分に歩くことができる。
◆一般的な水田用のため池と構造がだいぶ違うので、他の用途に使われていた可能性(生活用の飲料水など)がある。
 さらに奥に行くと、左右の山並みの尾根付近に出て、右(北西側)の山(写真参照)を見ると、まるで山城の本丸を見上げるような雰囲気がある。さっそく登ってみたのが添付写真である。大きさはさほど大きくはないものの、明らかに人工的に削平された平坦な形状で、やや楕円形に近い。直径15m前後か。
 この位置から、北東部に目を転じると、富士ヶ城の上部が少し見え、さらにその奥に日本海が見える。もちろんこの頂上部の雑木をすべて伐採すれば、この北西部眼下の谷の集落はすべて見えるだろう。
◆どちらにしても、この遺構は富士ヶ城と尾根伝いにつながっているので、最盛期はこの付近までが城郭として使われ、おもに平常時の生活(武家屋敷か)がなされていたのではないだろうか。

小田・富士ヶ城(島根県出雲市多伎町)その1

登城日 2009年2月1日(日)曇り
所在地 出雲市 多伎町 小田 菅沢
時代 中世 
遺跡種別 城館跡 
遺跡の現状 山林 
土地保有 民有地 
指定 未指定
標高 148 m
備考 遺構一部破損
遺構概要 郭 帯郭 腰郭 土塁 堀切 虎口 櫓台

(参考:島根県遺跡データベースより)

◆近くに住んでいながら、全く知らなかった山城である。これも最近「城郭放浪記」さんの更新記録から知った次第。 (ありがとうございます)

【写真右】左から2番目の山が、富士ヶ城

 もともと左の山とその右にある富士ヶ城は尾根でつながっていたとのこと。採石の結果ほとんど別れた山になった。


解説(①麓交差点にある説明板より)
“小田富士ヶ城について
 小田富士ヶ城は、室町時代応永年間(1394~1428)に尼子清定(経久の父)の臣下・小田常陸守(おだひたちのかみ)によって築かれた山城である。その形が富士山に似ていることから富士ヶ城と呼称された。
 当時の城は「山城」の部類にはいるもので、後世の立派な天守閣のあるような平城ではなく、見張りの為の館を備えた陣地楼(じんちろう)というべきものであった。これより東方10キロにある神西城の防衛ラインの一拠点として、石見方諸候及び山陽方諸候の安全守備を担っていた出城であったろう。
 現在小田土居屋の墓地にある宝篋印塔の碑台に「元亀2年(1571)未(ひつじ)春」とあるのは、城主・小田常陸守が戦死したと思われる文明2年(1470)から100年後に当たるもので、その追善供養塔と思われる。
平成9年3月 出雲観光協会“


現地の説明板の内容について
 説明板に
「小田富士ヶ城は、室町時代応永年間(1394~1428)に尼子清定(経久の父)の臣下・小田常陸守(おだひたちのかみ)によって築かれた山城である。」とあるが、応永年間には尼子清定はまだ登場していない 応永2年(1395)3月に、足利義満が、佐々木(京極)高詮に、山名満幸討伐の功績により、出雲国・隠岐国守護職と闕(けつ)所分を宛がっている。そして4年後の応永6年11月に正式に、義満が佐々木高詮に出雲国守護職に任じた。
 応永8年(1401)9月に高詮が亡くなり、翌応永9年に初めて尼子持久が、野崎武右衛門に従って富田城に入城する。このころ守護は高詮の子・佐々木高光で、応永20年(1413)に高光が没すると、足利義持は、高光の子(童子丸・持光)に父の所領を安堵し、出雲・隠岐・飛騨の三カ国の守護職に補任する。
 その後守護職としての京極持光の名は直接には出てこらず、「守護・京極氏」という名で、このころ杵築大社三月会や、日御碕倹校職の相続について、仲裁や調停などに追われている。
 持光の名があまり出ていない一つの原因として、応永27年(1420)の5月、幕府が、守護である持光の家臣が、東福寺領の出雲国末次荘(現在の松江市役所付近)を濫妨していることを注意されているので、このころから守護京極氏としての統制が不安定なものになってきていることを思わせる。

 さて、尼子清定であるが、彼が歴史上にはっきりと出てくるのは、応仁の乱のころ、すなわち応仁元年(1467)である。この年、11月に東軍方・細川勝元が、清定に対し、出雲での戦功を賞している。応仁の乱の状況は山陰でも同じように東軍・西軍と分かれており、特に出雲部は京極氏が、西軍方の伯耆・山名氏と争い、さらに長門方面は同じく大内氏などがいたので、挟み撃ち状態である。しかも京極氏・尼子氏の足元では松田氏などと激しい戦いをしている。
 そうしたことから、尼子清定を優先した記録ならば、「応永年間」ではなく、「応仁年間(1467~1468」の間違いではないだろうか。


【写真右】登城口付近

 最初の案内板は、この写真手前にあり、そのままこの道を上がっていった。ところが、これがとんでもない勘違いで、実はこの写真のちょうど歩いている位置から左に脇道があり、それが登城道だった。

 城格放浪記さんが探訪した折は、その案内板はしっかりと設置してあったのだが、ちょうど真正面の部分が伐採作業の際、看板まではずしてあり、しかも地面に置いてあった看板が裏返しのままだった。

【写真左】登城途中の案内板
上記の案内板がこのように最初から設置してあれば、迷うこともなかった。








【写真左】本丸跡

 この山自体がそんなに大きくはないため、当然本丸も小ぶりで、南側から北に向かって台形状に細くなり、先端部で切崖状態になっている。

 現地には富士ヶ城の由来などを記した説明板がひとつあるだけで、ほかは何もない。ちなみにこの説明板の内容と、道路端に設置してあった案内板は、ほぼ同じ内容だが、こちらの方が古く、合併前の「多伎町教育委員会」となっていた。

【写真左】本丸北端部から見た多伎町の町並みと日本海
 この写真の左側には、法蔵寺という寺があり、小田常陸守が鎌倉から勧請した「如意輪観世音菩薩坐像」という町の指定有形文化財が所蔵されているとのこと。







【写真左】同じく本丸北端部から見た日御碕(大社)方面

 説明板では、この城が東方にある神西城との関係を伝えている。ただ、神西城の防衛もあったかもしれないが、それ以上に思えるのは、この小田川上流部にある佐田町の「伊秩城」や「吉栗山城」との関係を重視した城だと思える。

 いまでこそ、南側は笹竹や雑木で南東部は見にくいが、小田川の支流・宇杉川沿いの佐田小田停車場線は昔からの街道であり、特に吉栗山城は鎌倉期からの山城として使われていたとの記録がある(詳細な調査記録はないが…)。