2017年1月24日火曜日

洞雲寺(広島県廿日市市佐方1071番地1)

洞雲寺(とううんじ)

●所在地 広島県廿日市市佐方1071番地1
●創建 長享元年(1478)
●開祖 金岡用兼(きんこう ようけん
●宗派 曹洞宗
●県指定文化財 洞雲寺文書、絹本著色金岡用兼師像等
●墓地 陶晴賢の墓、友田興藤の墓、桂元澄夫妻の墓、毛利(穂田)元清の墓
●参拝日 2015年5月10日

◆解説
 前稿安芸・桜尾城(広島県廿日市市桜尾本町 桜尾公園)から600m余り北西に向かった佐方地区に曹洞宗の寺院洞雲寺が建立されている。寺伝は下記の説明板にもある通り、桜尾城主兼厳島神社神主藤原教親・宗親父子が長享元年に菩提寺として創建したものという。
【写真左】洞雲寺遠望
 南東側の道路から見たもの。最近周辺の道路が整備され、それに併せて当院の山門周囲も綺麗にされたようだ。



 また、当院墓地には桜尾城に関わる武将すなわち、藤原(友田)興藤、桂元澄、毛利元清夫妻の墓及び、陶晴賢の首塚の墓が祀られている。

現地の説明板

洞雲寺

 応龍山洞雲寺は、大内氏の重臣陶氏の菩提寺である山口県・龍文寺の僧金岡用兼(きんこうようけん)を開祖とし、桜尾城主であった厳島神社藤原教親・宗親親子により、長享元年(1487)その菩提寺として創建された曹洞宗の禅院である。

 金岡禅師は当時、名僧として名高く、本山永平寺の諸伽藍の復興をなしとげ、また、阿波国(徳島県)守護大名細川成之(しげゆき)の帰依を受け、同国の丈六寺と桂林寺も管轄していた。
 現在、洞雲寺に所蔵されている「正法眼蔵(しょうほうげんぞう)」(県重文)は、禅師みずからがこの桂林寺において書写したものである。
【写真左】陶晴賢、藤原興藤、桂元澄夫妻、穂田元清夫妻の墓の位置を示す。
 中央が本堂で、左右の墓地にそれぞれ建立されている。



 藤原氏は宗親のあとも代々菩提寺として洞雲寺に領地を与え、その死亡後も代わって大内氏がこれらの寺領を認め、さらに毛利氏の時代には、重臣の桂元澄、ついで元就の四男元清が桜尾城代として洞雲寺を菩提寺と同じように保護したため、寺には40通に及ぶ戦国期の貴重な古文書(県重文)が残されている。

 また、寺内には、藤原興藤、桂元澄、毛利元清夫妻の墓や、陶晴賢の首塚(いずれも市重文)などがあり、戦国期の興亡の姿をいまに語りかけている。
 これらを含め、同寺には現在、県重要文化財7点、市重要文化財7点がある。

     昭和63年3月

               廿日市市教育委員会”




陶晴賢の墓

【写真左】陶晴賢の墓 
 墓石の隣には、「尾張守 陶晴賢入道全姜公之墓」と記銘された石碑が建つ。






 説明板より

“陶晴賢の墓 (市指定史跡 昭和50年1月14日指定)

 陶晴賢は戦国時代の武将で、陶興房の二男である。大内氏の重臣として活躍していたが、天文20年(1551)8月、大内義隆父子を襲い自刃させ、大内氏の領国を制圧した。
 弘治元年(1555)10月の「厳島合戦」で、水軍に勝る毛利元就の奇襲戦に敗れ、厳島で自刃し、桜尾城において首実検の後、この洞雲寺に葬られた。
【写真左】後ろ側から見たもの
 なお、その左側にも小型の宝篋印塔が建立されている。殉死した者たちかもしれない。





 陶晴賢の墓は最初は首塚であったが、後に現在のような宝篋印塔を墓石としている。
 墓石は三段の花崗岩と安山岩製の基壇の上に立ち、印塔自体は軟質な安山岩製である。
 総高129cmで、この宝篋印塔は基礎部と塔身部がつながり、笠部も軒が厚くなるなど、各部に形式の退化したところや、また風化した跡が認められる。歴史上著名な武将の墓として貴重である。
   平成12年3月 廿日市市教育委員会”




友田(藤原)興藤の墓

【写真左】友田興藤の墓・その1













 説明板より

“友田(藤原)興藤の墓
  (市指定史跡 昭和50年1月14日指定)

 友田興藤は、厳島神主の藤原神主家の一族である。永正15年(1518)、大内義隆が神領を直接支配したことに反抗し、実力で神主になり、度々、桜尾城を中心に攻防を繰り返した。
 天文10年(1541)、大内氏の攻撃に抗しきれず、城に火を懸け自刃した。
【写真左】友田興藤の墓・その2
 傍らにも小型の宝篋印塔が隣接しているが、殉死していった者たちのものだろう。





 友田興藤の墓は、総高199.5cmの花崗岩製の宝篋印塔である。塔身部の正面格狭間(こうざま)の中に「興藤」、その横に「天文九年庚子(かのえね)八月日」と刻んでいる。

 興藤の没年は天文10年4月6日といわれるので、この印塔は興藤が在世中に造立した逆修塔であろう。造りに無骨さが感じられるが、力量感のある宝篋印塔である。紀年銘もあり、室町時代末期の標準的な宝篋印塔として重要である。”


桂元澄の墓

【写真左】桂 元澄の墓
 












 説明板より

“桂 元澄墓

 元澄は毛利家の重臣なり。厳島合戦の前夜より、桜尾城主として所在に君臨すること16年、永禄12年卒す。後裔桂太郎城址を町に贈り、以て桂公園としてのこす。



毛利元清夫妻の墓

【写真左】毛利元清夫妻の墓













説明板より

“毛利元清夫妻墓

 元就の四男元清は長府毛利家の遠祖なり。初め備中猿懸城主穂田氏を嗣ぎ、後毛利氏に復す。
 元澄のあとを承け桜尾城主となり、経営すること29年、慶長2年卒す。
 法名を洞雲寺笑山と号す。

  廿日市市教育委員会”

 説明板の下線を引いた備中猿懸城とは、以前紹介した備中・猿掛城・その2(岡山県小田郡矢掛町横谷)とのことで、近くにある曹洞宗の禅寺・洞松寺にも毛利元清の宝篋印塔が建立されている。従って、洞松寺にある宝篋印塔は供養塔となる。



洞雲寺金岡用兼

 洞雲寺の開祖は、金岡用兼(きんこうようけん)といわれている。
 永享10年(1438)、讃岐国那珂郡(現在の丸亀市・坂出市・善通寺市区域)で生れているが、没年は不明。

 文安5年(1449)出家し、周防国の龍文寺大庵須益(だいあんすやき)に師事し、その後安芸国に渡り、長享元年に当時厳島神社神主であった藤原教親の開基によって、洞雲寺を創建する。永平寺の諸伽藍復興や、阿波国の守護細川成之との出会いはその後である。
【写真左】洞雲寺
 規模はさほど大きくはないが、落ち着いた佇まいを見せる。
【写真左】洞雲寺から桜尾城方面を見る。
 写真の奥に桜尾城が控えているが、都市計画工事によって周辺部が大幅に変わり、この位置からは桜尾城を見ることは出来ない。

 なお、この辺りが「城内」と呼ばれている箇所で、おそらく厳島合戦後、当地を治めた桂元澄や、毛利元清時代に城下町として整備された際、当地名が付けられたのだろう。


大庵須益龍文寺及び大寧寺

 金岡用兼の師・大庵須益が営んだ龍文寺は、現在の山口県周南市長穂門前に所在し、大内氏の重臣陶氏の菩提寺である。(龍文寺(山口県周南市大字長穂字門前)参照)。

 陶氏第5代盛政によって永享2年(1430)(又は1429)に建立されているが、須益が周防の龍文寺に来る前にいたのが、戦国期、大内義隆が自刃した長門の大寧寺で、当院(大寧寺)の第6代に当たる。
【写真左】大寧寺
 所在地:山口県長門市深川湯本
 参拝日 2007年3月14日








 安芸・桜尾城の稿で、天文10年に大内氏が桜尾城を攻略し、一時重臣の鷲頭氏を城番として入れているが、これはおそらく桜尾城に近接していた洞雲寺が、長門大寧寺の大庵須益を通じて鷲頭氏がかかわったことから大内氏が任命したものだろう。
【写真左】龍文寺の山門
 所在地:山口県周南市大字長穂門前
 参拝日 2017年1月21日

 西吉祥山の山号を受け、西の永平寺ともいわれている。
 当院についてはいずれ別稿で取り上げたい。

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