2018年12月3日月曜日

鶴居城(兵庫県神崎郡市川町鶴居)

鶴居城(つるいじょう)

●所在地 兵庫県神崎郡市川町鶴居
●別名 稲荷山城、永良山城、残要の城
●高さ H:433m(300m)
●築城期 南北朝後半期
●築城者 永良三郎則綱(赤松円心孫)
●城主 赤松氏、山名氏、広瀬近江守雅親
●遺構 郭・堀切・竪堀・石垣等
●登城日 2016年4月9日

解説(参考資料 『しそうSNS』等)
 鶴居城が所在する市川町は兵庫県の中央部にあって、地名と同名の二級河川・市川が北から南に下り、播磨灘に注ぐ。市川と並行して走るのが但馬街道(生野街道)で、ほぼ同じコースをJR播但線が通り、さらに現在は播但連絡道路という高規格道路が同じく併設され、中国自動車道と山陽自動車道を繋ぐ。
 鶴居城はこの市川町にあるJR鶴居駅から北西におよそ2キロほど向かった稲荷山に築かれている。

【写真左】鶴居城遠望
 西側から見たもので、こちら側から見ると独立した山容に見えるが、実際には北西側から延びる尾根の先端部に築かれている。


現地の説明版より

❝稲荷山城

 稲荷山城は標高433m稲荷山山頂にあり、東西14m、 南北31m、周囲約85m。その北側・南側にはいくつもの平坦地、石積跡・土留めなども見られます。古老の話では井戸もあったそうです。
 城は南北朝後半、赤松則村(円心)の孫・永良三郎則綱がここに城を築き居城としたのが始まりで、その子・孫と受け継ぎ播磨の北の要地とされていました。
【写真左】麓にある案内版
 登城道は「南コース」と「北コース」の二つがあるが、距離は少し長くなるが、「北コース」が負担が少ないため、こちらを選んだ。


 赤松氏は嘉吉の乱(1441年)のあと、但馬の山名持豊の兵4500騎に生野峠から攻め込まれ、大山口・田原の戦いに敗れ、長久2年(1488)赤松政則が播磨をとりかえすまでの45年の間、山名氏の支配のもとにおかれました。
 その後、赤松政則は応仁の乱に失地を回復し、守護となったので稲荷山城も復興し、広瀬近江守雅親が城主となり、谷城主も兼ねていましたが、永禄3年(1560)討死したといわれています。
 同じく谷城は、永禄のころ(1558~1570)戦火により消失廃城とあり、両城とも同じ運命を辿ったと考えらえれます。
      鶴居歴史研究会❞
【写真左】登城口の門
 登城口には「鶴居城山城址の会 平成21年度里山ふれあい森づくり(住民参画型)」と書かれた門が設置されている。
 なお、この市川付近も含めた但馬街道は生野銀山を起点とした「銀の馬車道」でもあり、そのイラストも添えてある。




永良三郎則綱

 鶴居城の築城者は赤松則村の孫・永良三郎則綱といわれる。赤松 則村、すなわち赤松円心についてはすでに白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)などで度々とり上げているので詳細は省くが、赤松氏4代当主で、もともと六波羅探題の家臣であったとされ、後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕時には逆に反幕府方として活躍し、その功によって播磨守護となり、建武の新政後は足利尊氏に与した。
【写真左】このあたりから郭段が見え始める。
 登城道は前半緩い坂道で、後半から九十九折れとなり、次第に傾斜がついてくる。写真は頂上までおよそ300mとなったあたりの場所。


 さて、鶴居城の築城者である永良三郎則綱だが、円心の孫であることから、その父は円心の子となる。これまで円心の子としては、次の面々が知られる。
  1. 長男・範資(のりすけ) 5代当主 摂津国・播磨国守護
  2. 次男・貞範(さだのり)       美作国守護
  3. 三男・則祐(のりすけ) 6代当主 室町幕府禅律方、播磨国・備前国・摂津国守護
  4. 四男・氏範(うじのり) 上記3人の兄弟とは不仲で、南朝方に与し、播磨清水寺にて自害。(下段の写真参照)
【写真右】赤松氏範の墓
所在地 兵庫県加東市平木 播州清水寺
赤松氏範弾正少弼 法名 本光院荘覺道成
永徳3年9月(南朝弘和3年)(1386年)
参拝日 2015年10月17日

 墓所入口付近には昭和6年9月2日に建立された石碑があり、「南朝忠臣赤松氏範父子並一族憤死…」と筆耕されている。


 このうち長男範資には、8人の子があり、則綱は八男になる。因みに範資の他の子としては、三男・師頼が在田氏(播磨・河内城(兵庫県加西市河内町西谷) の祖となり、五男・範隆が葉山氏の祖となり、摂津国戸賀庄の地頭となった。また、七男・則広は佐用郡広岡郷に入り、広岡氏の祖となった。

 則綱は民部大輔を称し、当時永良庄といわれた市川町に入り、永良氏を名乗った。則綱の孫・泰秀は、次稿に予定している鶴居城から南へ2キロほど下った谷地区に谷城を築いたといわれる。また泰秀は、併せて当城(鶴居城)を拾一城(豊池城)に移すが、こののちも鶴居城に城代を置いていた。
【写真左】本丸が見えてきた。
 途中から尾根筋にたどり着くが、そこから中小の細長い郭段が続く。






広瀬近江守雅親

 さて、上掲した説明板では永禄3年、鶴居城の城主で谷城主も兼ねていた広瀬近江守雅親が討死したとある。そして谷城も永禄年間(1558~1570)に落城したとされている。

 この広瀬氏は赤松氏の一族で、5代当主・範資の四男師頼を始祖とする。範資の跡を継いだ6代当主は三男則祐であるが、則祐が播磨守護となったとき、宍粟郡周辺を任せるため、兄範資の四男師頼を長水城の城主に任じ、広瀬氏を名乗った。
【写真左】南北登城道の合流点
 反対側のコース(南)の整備状況は分からないが、当時は大手道だった可能性がある。




 広瀬氏はその後の継嗣で赤松惣領家から養嗣子則親を迎え、満親と繋いだ。しかし、この滿親の代に赤松宗家であった満祐が京都で将軍足利義政を殺害、世にいう「嘉吉の乱」(嘉吉元年:1441年6月24日)が勃発した。この乱において、幕府軍からの討伐を受けた赤松満祐は同年9月10日、播磨木山城にて自害、長水城城主であった広瀬氏も没落したといわれている。
【写真左】郭段
 先ほどの合流点から次第に明瞭な郭段が出てくる。
 写真のものは少し土塁のような遺構を残している。



 しかし、今稿でとりあげた永禄年間における鶴居城の城主が、広瀬近江守雅親と記録されていることから、嘉吉の乱時に没落していた広瀬氏が潜伏後、戦国期に至って、西播磨から中播磨の神崎郡に移っていったことが推察される。

 なお、嘉吉の乱後は宇野氏が代わって長水城を本拠としている(長水城についてはいずれ別稿で取り上げたい)。
【写真左】石積・その1
 写真奥には、連続する郭段の切岸部に石積の一部が見える。









赤松晴政(政村)

 ところで、永正17年(1520)から永禄年間ごろ(~1565)までの赤松氏当主は、第11代の晴政である。晴政については、(塩田城(兵庫県宍粟市山崎町塩田)の稿でも述べたが、 彼の父義村は美作の守護代であった浦上村宗(三石城(岡山県備前市三石)参照) との抗争に敗れ、晴政はわずか8歳のとき、家督を継いだ。
 晴政はこのため一時的に浦上氏と和睦を結ぶが、これは依然として但馬をはじめ播磨の北部を窺う山名氏の脅威があったためである。しかし、山名氏の勢力が衰えると再び浦上氏と争った。
【写真左】石積・その2
 さきほどの石積より明瞭に残っているもので、主郭直近に残るもの。
 この後いよいよ主郭が姿を現す。



 享禄4年(1531)、管領細川高国は細川晴元を攻めるため、浦上村宗を摂津国に侵攻させた。この時、晴政は村宗の後詰めとして参戦している。しかしこれは晴政による表向きの態度で、裏では晴元と画策を図り、高国及び村宗を挟み撃ちにし、村宗を戦死させ、その後高国も自害に追い込んだ(播磨・小谷城(兵庫県加西市北条町小谷字城山)参照)。
【写真右】浦上村宗の墓
所在地 岡山県備前市木谷
村宗は享禄4年(1531)6月4日、摂津天王寺で戦死。その後嫡子政宗等が遺体を収めて帰国し、当地木谷に葬ったといわれている。
参拝日 2018年9月19日


 
 ところで、出雲の尼子氏が播磨国に関わりを持ち出すきっかけとなったのが、大永7年(1527)京都桂川で柳本賢治・三好元長らに敗れ、越前の朝倉氏などを頼り、享禄2年(1529)9月16日に越前から出雲国に入った細川高国による支援要請からである。
【写真左】本丸・その1
 南北に延びる尾根頂部に楕円形の削平地を持つもので、眺望はすこぶる良い。




 天文6年(1537)12月14日、尼子晴久(詮久)は大軍を率いて播磨国に入った。 その後の動きについては少し端折るが、天文21年(1552)尼子晴久は、因幡・伯耆・備前・備中・備後・美作の守護職に補任される。これにより、それまで備前・美作守護職であった晴政は2国を失った。

 こののち、赤松氏の凋落ぶりは雪崩を打ったように落ちていくことになる。特に永禄元年(1558)8月に起こった重臣・小寺政職(まさもと)(塩田城(兵庫県宍粟市山崎町塩田)参照) による晴政嫡男の義祐を担いだ奇襲により追放されると、晴政は娘婿の赤松政秀のもとにに逃れた。文字通り赤松家の分裂である。

 鶴居城における広瀬雅親の討死及び、その支城とされる谷城もこのころ落城しているが、これらも赤松惣領家分裂に端を発し、さらに別所氏(三木城(兵庫県三木市上の丸)参照)などが攻略したことも起因に挙げられるだろう。
【写真左】本丸・その2
地元の団体「鶴居城山城址の会」によって設置された看板。
【写真左】本丸・その3 北端部に当たる箇所。
【写真左】本丸北の郭
 最高所の本丸から北に少し下がると郭が残る。さらにその先に向かう。
【写真左】堀切
 少し進むと堀切がある。またこの尾根筋には二条程度の竪堀も付随している。


【写真左】本丸から谷城及び飯盛山城を俯瞰する。
 本丸からは南に、谷城、市川を挟んで西岸には飯盛山城が見える。両城とも鶴居城の支城といわれ、次稿で紹介する予定である。
【写真左】下山後再び遠望する



2018年11月20日火曜日

安芸・日野原城(広島県安芸高田市美土里町本郷)

安芸・日野原城(あき・ひのはらじょう)

●所在地 広島県安芸高田市美土里町本郷
●別名 高城・高の山城
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 不明
●城主 日野氏、高橋氏か
●高さ H:528m(190m)
●遺構 郭・堀切・竪堀
●登城日 2016年3月25日

◆解説(参考文献 『安芸高田お城拝見~山城60ベストガイド~』安芸高田市歴史民俗博物館編

 安芸・日野原城(以下「日野原城」とする。)は、安芸高田市に所在する山城で、以前取り上げた安芸・松尾城(広島県安芸高田市美土里町横田)から西におよそ3キロほど向かった位置に築かれた。
【写真左】日野原城遠望
 東麓を走る吉田邑南線(県道6号線)から見たもの。








 上記に示した吉田邑南線はおそらく戦国期にすでに開かれていた街道と思われ、起点は毛利元就の居城・吉田郡山城 から石見の二ツ山城(島根県邑南町鱒淵永明寺) までを結ぶ道で、街道筋には多治比・猿掛城(広島県安芸高田市吉田町多治比) や、冒頭の安芸・松尾城及び、生田・高橋城(広島県安芸高田市美土里町生田)などが配置している。

築城者と城主

 日本城郭体系では城主として進藤杢之充の名がみえるが、ただ所在地が同町木村となっているので、城名は同一ながらはっきりしない。また、地元の伝説では南北朝時代に南朝方であった日野氏が当城に籠ったが落城したといわれてる。

 最近発刊された非常に読みやすい著書『安芸高田お城拝見』(安芸高田市歴史民俗博物館編)でも指摘されているように、戦国期には高橋氏の勢力圏でもあり、同氏一族の居城としても使用された可能性が高い。
【写真左】主郭下の駐車場

 当城に向かうには、電波塔などの施設点検のための道路が設置されているので、これを使う。

 東から南にかけて走る道路(金屋壬生線)の途中から当城に向かう道があるが、目立った標識もないため、カーナビを頼りに向かう。

 写真は主郭と思われる南側の下にアスファルトで整地された駐車場。おそらく当時の二の丸付近と思われる。



遺構

 添付写真にもあるように、現在主郭を中心とした区域には電波塔などの施設が建設され、このため大幅な改変がなされている。
 特に平成22年に地デジ用の電波塔が建設された際に発掘調査などが行われたが、すでに明確な遺構を確認することはできなかったとされている。

 ただ、主郭から北西に下る尾根筋には2本の堀切、また現在駐車場となっている南側の尾根には竪堀が残されているようだ。
【写真左】主郭の西側斜面
 この斜面も、もとは郭段などがあったものと思われるが、施設設置工事のためなくなったかもしれない。


【写真左】竪堀

 あまり明瞭でないが、駐車場の東斜面には2~3本の竪堀が確認できる。


【写真左】主郭に向かう
 駐車場から主郭まではおよそ10mほどの高低差がある。

 現在は管理用に階段が設置されていて登りやすくなっている。
【写真左】主郭から駐車場を見下ろす。
 南方を望む角度になるが、駐車場との高低差は思った以上に高く感じる。
【写真左】主郭
 御覧のように鉄塔を設置するため表面は相当重機などで均されている。

 主郭部分の遺構はまったく消滅していると思われるが、大きさは当時と同じ程度であったと思われる。
【写真左】三角点
頂部528.3mの高さになる。なお、このピークとは別に、西へ200mほど向かった位置にもほぼ同じ高さのピークがあるが、こちらには城郭遺構があるのか不明。

 また、当城から南東方向450mへ向かっの尾根筋には、松笠城といわれる城郭があり、ふもとの街道(金屋壬生線))を見下ろす位置に築かれていることから、日野原城の出丸(前城)であった可能性もある。
【写真左】主郭北の郭
 主郭を取り巻く郭群は腰郭の形態として東・北・西の各方向に4,5か所確認できる。ただ、現状は雑木が繁茂していて明瞭ではない。
【写真左】主郭西の郭
 奥のほうの尾根を北西に進むと二条の堀切があるということだが、当日は断念した。
【写真左】竪堀か
 だいぶ埋まっていたため断定できないが、駐車場の東斜面に見える。
【写真左】南東麓を俯瞰する。
 日野原城の南東麓には神楽で有名な神楽門前湯治村が建っている。

 その湯治村の背後にも丹蔵城という城郭があることが確認されているが、街道の分岐点となるので、日野原城と何らかのかかわりがあったものと思われる。
【写真左】主郭を横から見る。
 下山前にもう一度振り返る。

2018年11月15日木曜日

笠置山城(京都府相楽郡笠置町笠置)

笠置山城(かさぎやまじょう)

●所在地 京都府相良郡笠置町笠置
●指定 国指定史跡覚
●高さ H:288m(比高 200m)
●形態 山城
●備考 行在所・笠置寺
●築城期 南北朝期
●築城者 後醍醐天皇等
●城主 木沢長政
●遺構 郭・堀切・土塁
●登城日 2016年3月6日

◆解説(参考文献 「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」仁木宏・福島克彦編等〉
 笠置山城は木津川の南岸にそそり立つ笠置山に築かれた山岳寺院(笠置寺)と併存していた山城である。
【写真左】笠置寺の本尊・弥勒磨崖仏

 古来より天人彫刻五十尺の仏といわれ、奈良時代中期には彫刻されていたという。




現地の説明版より

❝笠置山縁起
 笠置山寺の歴史は古く、その創建は不明であるが出土品から見て飛鳥時代すでに造営されていたようである。

 奈良時代大和大峰山と同じく修験行場として栄え、平安時代には永承7年(1052)以後世の末、法思想の流行とともに笠置山寺本尊弥勒大磨崖仏は天人彫刻の仏として非常な信仰をうけた。
【写真左】案内図

 現地に設置してあった簡単な案内図で、文字が小さいため分かりずらいが、右下の現在地は麓から急坂道を登ったところにある駐車場で、そこから歩いて向かう。

 この図では中央にある行在所付近が最高所に当たる。なお、後段でも示すように山城遺構としては笠置寺山門を過ぎた毘沙門堂から南の尾根筋に多く残っている。
 
【写真左】駐車場付近

 笠置寺に向かうには西麓の狭い急坂道を登って行く(運転に不慣れな方は時間はかかるが、下の方に停めて歩いて行ったほうがいいかもしれない)

 登り詰めたところに広い駐車場があり、ここに停めてから歩いて向かう。


 更に鎌倉時代、建久2年(1191)藤原貞慶(解脱上人)が日本の宗教改革者としてその運動を当寺から展開するとき信仰の寺として全盛を極めた時代であった。

 しかし、元弘元年(1331)8月、倒幕計画に失敗された後醍醐天皇の行在所となり、幕府との攻防一ヶ月9月29日、全山焼亡、以後復興ならず、室町時代少々の復興を見るも江戸末期には荒廃、ついに明治初年無住寺となった。
 明治9年、大倉丈英和尚錫を此の山に止め復興に力を尽くすこと20年、ようやく現在の姿に山容を整えられたのである。❞
【写真左】山門

 駐車場から坂を登って行くと、山門がある。笠置寺の入口にあたるところで、ここで拝観料を払って入る。
 



笠置寺

 説明版の縁起にも記されているように、創建期は不明であるが、往古法相宗として開かれた山岳修験の道場であった。ちなみに現在法相宗を本山としている代表的なものとしては、奈良の興福寺、及び薬師寺などがある。 近世に至ると、笠置寺は真言宗智山派の寺院となった。山号は鹿鷺山、本尊は弥勒仏。
【写真左】ここで拝観料を払い入山する。

 上掲した案内図をもとに反時計回りのコースで向かう。





 笠置寺の北麓には木津川が東西に流れ、それと並行して伊賀街道(国道163号線)が走る。 東隣の南山城村を超えると伊賀国(三重県)に至り、笠置山の西麓を通る笠置街道を2キロほど南下するとすぐに大和国(奈良県)に入る。ちなみにこの入口にあたるのが、徳川幕府兵法指南役を務めた大和柳生藩家老屋敷が所在する柳生庄(奈良市柳生町)である。
【写真左】伝虚空蔵磨崖仏

 現地の説明版より

"寺伝では弘仁年間(810~824)弘法大師賀この石にのぼり求聞寺法を修し一夜にして彫刻せし虚空蔵菩薩といわれる。

 彫刻の様式から中国山西省運崗の磨崖仏に相通じるものがあるところから、本尊弥勒菩薩と同様奈良時代の渡来人の作と考えられる。
 先年拓本にとり8m×10mの大掛軸が出来た。おそらく拓本の掛軸としては最大だろう。
  笠置寺奉賛会"  

元弘の変

 笠置山(城)についてはこれまで、匠ヶ城(岡山県井原市上稲木町)などでも紹介してきたように、鎌倉幕府を倒そうとした後醍醐天皇が、笠置山に籠ったものの、幕府軍の猛攻によって陥落、天皇が捕らわれた地である。
 笠置山陥落後、花園上皇(後醍醐天皇の先代)は後醍醐のこうした動きを次のように記した。
「王家の恥、何事かこれ如(し)かんや、天下静謐、もっとも悦ぶべしといえども、一朝の恥辱また嘆かざるべからず」

 翌2年(1322)後醍醐天皇は隠岐に流され、天皇の子息尊澄(宗良親王)は讃岐へ、尊良(たかよし)親王は土佐に流罪になった。
【写真左】ゆるぎ石

現地の説明版より

"(ゆるぎ石)
 元弘元年(1331年)9月28日、後醍醐天皇が鎌倉幕府の奇襲を受けたところである。
 この石は奇襲に備えるため、武器としてここに運ばれたが使用されなかった。重心が中央にあり、人の力で動くため“ゆるぎ石"といわれている。″



木沢長政

 戦国期に至って当城を城郭として改修したといわれるのが木沢長政といわれる。彼についてはすでに信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山) でも述べているが、長政が笠置山城に入ったのは天文10年(1541)である。彼はもともと畠山氏の被官であったが、その後細川晴元に鞍替えし、山城国守護代から大和国守護職まで勢力を広げ、特に笠置山(寺)を抑えていた興福寺が勢力を弱めると、同国(大和)の北東出入口であるこの笠置寺をいわゆる境目の城郭として整備していった。
【写真左】ゆるぎ石付近から東方に木津川を望む。

 写真に見える木津川は、ここからさらに遡っていくと南から流れてくる名張川と合流する。また、そのまま本流木津川を東進すると伊賀国に至る。

 因みに、笠置山から伊賀国まではおよそ10キロ余りである。


山岳寺院と城郭

 上述したように笠置山城は、もともと山岳寺院であり、その後城郭としても整備された経緯を持つ特異なケースだが、実はこうした事例は意外と多く残されている。近畿地方で山岳寺院と城郭が併存してきたものとして、30か所余りのものが明らかにされている(『畿内・近国の戦国合戦』福島克彦著 ㈱吉川弘文館)。
 特にその代表例として最も大規模なものは、近江の観音寺城(滋賀県近江八幡市安土町) などが挙げられるだろう。
【写真左】岩山に根を張る松

 上の写真と同じくゆるぎ石付近から西方を撮ったもので、見事な松が立っている。

 松の枝から木津川が見える。このまま下っていくと、木津川は大山崎町で宇治川・桂川と合流し、淀川となって大阪湾に注ぐ。


 今回の登城では笠置寺をはじめ、主として北側エリアにある史跡・遺構を探訪したが、山城の見どころとしては、むしろ南側の尾根にそれらがあるようだ。
 具体的には稲荷大明神から南に鐘楼跡・六角堂跡などがあるが、このあたりから尾根の西側に畝上空堀群、さらに南に進んで二重堀切、そして最南端にはまとまった郭群があり、その南入口付近には堀切と「側射施設」があることが最近の発掘調査で判明している。
【写真左】二の丸跡・その1

 現地の説明版より

(二の丸跡)
 太平記には"笠置の城は山高くして………”と書かれているが、後醍醐天皇の仮皇居であり正式な築城はされなかった。
 しかし室町時代以降、山頂行在所跡を本丸とみたてたのか一段下のこの広場を二の丸跡とよぶようになった.”
【写真左】二の丸跡・その2

 ところどころにこうした巨石が散在しているため、平滑された一般的な郭の形態はなしていないが、兵站地として使用されたのだろう。

【写真左】貝吹岩・宝蔵坊跡と後醍醐天皇在所に向かう分岐点

 二の丸跡を下ると、正面奥に貝吹岩があり、左に向かうと行在所につながる。
 先ず貝吹岩に向かう。
【写真左】貝吹岩

 横に長い一枚岩で、往古修行中の山伏たちがこの上に乗ってほら貝を吹いたことから名づけられたという。
【写真左】宝蔵坊跡

 貝吹岩付近から下に見える谷間にあったとされ、現在はなだらかな段が残る。
【写真左】行在所入口

 現地の説明版より

❝後醍醐天皇行在所跡

 元弘元年(1331)8月27日政治改革に失敗され、京都御所を出られた後醍醐天皇を受け入れた場所である。

 天皇方2,500、笠置山に向かって北条方75,000と伝う大軍を相手に攻防一ヶ月、ついに9月28日夜半風雨を味方にした北条方50名の決死隊により奇襲攻撃を受け、大磨崖仏を始め笠置寺山内49ヶ寺すべて灰塵に帰してしまった。
  標高290m笠置山頂である。
     笠置寺奉賛会″
【写真左】行在所

 宮内庁管轄の区域になるため一般人は入れないが、中のほうは平たん地になっており、自然の樹木が生えている。
 おそらく当時はこの中に仮宮殿のような建物が建てられていたのだろう。
【写真左】大師堂

現地の説明版より

”大師堂
 石仏弘法大師(室町期)を奉安する。
 天平勝宝3年(751)東大寺實忠和尚により建立された正月堂の跡である。
 旧正月堂は元弘元年(1331)の元弘戦乱で焼亡、以来復興されず、明治30年(1897)関西鉄道の開通により、現笠置駅にあった大師堂を笠置寺旧正月堂跡に移築し現在に至る。
 正月堂の名は笠置寺本尊禮堂にとどめる。東大寺山内には、このため当初から正月堂は建立されていない。
    笠置寺奉賛会"
【写真左】近くの店でスイーツをいただく。

 笠置寺の隣には料理旅館があり、そこでスイーツ(わらび餅だったと思う)と飲み物をいただいた。
【写真左】笠置山遠望

 下山後少し西進した箇所から見上げたもの。










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「司馬遼太郎 因幡・伯耆のみち檮原街道 街道をゆく27」より 
田丸城(三重県度会郡玉城町田丸)