2017年1月6日金曜日

出雲・勝山城(島根県安来市広瀬町石原)

出雲・勝山城(いずも・かつやまじょう)

●所在地 島根県安来市広瀬町石原
●別名 滝山城
●高さ 250m(比高 230m)
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 田中三良左衛門
●遺構 畝状竪堀群、郭、堀切、土塁
●備考 尼子十砦、京羅木城塞群
●登城日 2014年10月24日

◆解説(参考文献『出雲の山城』高屋茂男編・ハーベスト出版等)
 地元の山城でありながら中々登城できなかった山城の一つで、登城したのは2014年の10月である。本来ならもっと前にアップしなければならないのだが、いつもの癖で他県などの山城に浮気?していたのか、登城後3年も保留していた。
【写真左】勝山城遠望
 飯梨川を隔てた南岸にある「道の駅広場富田城」から見たもので、橋の下を流れるのが飯梨川。





大内氏月山富田城攻

 さて、この勝山城については、京羅木山城・砦群 その2でも少し紹介しているが、第一次月山富田城攻めとして、天文11年(1542)から山口の大内義隆が毛利軍をはじめ石見国人衆らも引連れて尼子氏の居城・月山富田城攻めを行っている。このとき本陣としたのが、富田城の西方に控える京羅木山城である。そしてこの戦いの際、大内方の前線基地として使われたといわれるのが、勝山城である。

 大内氏による月山富田城攻めは、翌天文12年(1543)まで行われたが、長引く戦いと吉川興経・三刀屋久扶ら多くのものが途中から尼子方に寝返ったため、大内氏は大敗北することになる。
【写真左】勝山城と京羅木山城遠望
 上の写真と同じく「道の駅広場富田城」から見たもので、京羅木山城から富田城までは、直線距離で3.5キロであるのに対し、勝山城からは2.5キロと勝山城の方が富田城により近い位置になる。



月山富田城落城

 勝山城は、富田城から見ると手前の飯梨川を挟んで北方2.5キロの位置にある。富田城の本丸は標高184mであるが、勝山城は250mと70m程高い。しかも、この位置からは特に飯梨川下流域の動きがよく分かり、逐次本陣である京羅木山へ連絡していたものと思われる。
【写真左】京羅木山側から勝山城を俯瞰する。
 京羅木山主郭から勝山城の先端部までは尾根筋を通っていくことになり、その距離は総延長で4キロほどになる。
 下段に示すように、富田城が落城する永禄9年頃は、おそらく京羅木山城を降りて、富田城により近いこの勝山城を本陣とした可能性が高いと思われる。


 尼子氏が滅亡するきっかけとなったのが、第二次月山富田城攻めである。すなわち、毛利元就による永禄年間から始まる出雲国への進出からである。荒隅城(島根県松江市国屋町南平)の稿でも述べたように、天文年間における大内氏の富田城攻めで大敗退を自ら経験していた元就は、同じ過ちを犯さないため慎重に策略を練った。そして、永禄5年(1562)12月に荒隅城を築いてからの動きは活発となり、白鹿城(島根県松江市法吉町)攻略を皮切りに、富田城の兵糧攻めにシフトしていくことになる。
【写真左】登城道
 この日向かった登城道は勝山城の南の谷から入ったが、途中から道は沢登りとなり、シダや倒木に遮られかなり体力を消耗した。

 勝山城の南西斜面には竪堀などが配置されていない理由は、一つにはこの谷がこのように歩行困難な状況であることと、斜面が急峻であることから必要なかったためと考えられる。


 永禄8年(1565)4月、兵糧が途絶え始めた月山富田城では、逃げ出すものが増えだした。元就は本陣を先ず星上山に移した。そして秋になると、富田城に接近、京羅木山に本陣を移し、攻め落とす前に富田城に対し、降伏・退去の意志を確認する手立てを行った。

 これに対し、富田城内では軍議が開かれたが、主戦派と和睦・降伏派などに意見が分かれ、白鹿城の守将であった牛尾久清などは退去した。富田城内における統率は乱れ、城主尼子義久は長年忠節を尽くした重臣宇山久兼(「久信」説あり)を、讒言により誅殺してしまった。
【写真左】勝山城側の尾根を進む。
 谷の終点部で右方向を示す標識があり、そこから尾根にとりついた道を進む。





 このころ、毛利方は京羅木山を本陣とし、そこから東に伸びる尾根筋上にあった勝山城や、石原山城など向城の整備を進めていった。なお、史料によっては、この段階で本陣を京羅木山から勝山城に移したとする説もある。

 永禄9年(1566)11月21日、尼子義久はついに元就の軍門に降り、ここに月山富田城は落城することになる。
【写真左】尾根にたどり着く。
 尾根に着くと、左手にも道が見えたので、おそらく京羅木山側から続くものと思われる。このあと、右に向かい勝山城を目指す。



畝状竪堀(空堀)群

 勝山城の特徴として挙げられるのは、なんといっても夥しい数で構成された畝状竪堀(空堀)群である。『出雲の山城』でも示されているように、特に北から南東に伸びる尾根の東斜面には堀切も含めると42本もの竪堀が確認される。
【写真左】勝山城鳥瞰図
 『出雲の山城』高屋茂男氏作図の縄張図を参考に管理人が描いたもので、畝状竪堀群は東斜面に集中している。





 勝山城の西側斜面がかなり急傾斜であるのに対し、東斜面は全体になだらかな箇所が多いことから構築されたものと思われるが、それにしても現地に足を踏み入れると、その徹底した普請計画に驚かされる。
 竪堀(空堀)遺構が残る山城では出雲国はおろか、管理人がこれまで登城してきた山陰の山城の中でも5本の指に入るものだろう。
【写真左】分岐点
 尾根に入ってから1分ほど進むと、左側に降りる道が見える。おそらくこれは勝山城の東方植田町側の谷筋から伸びる道だろう。
 このまま右の尾根道を奥に進む。
【写真左】ここから登り勾配
 勝山城の主郭に向かう途中には、一旦最高所267mのピークをこえなければならない。
【写真左】最初のピーク
 この位置が最高所267mの地点で、遺構らしきものはないが、まとまった平坦地になっている。勝山城はこのピークを越え、一旦鞍部を過ぎてから城域とされているが、勝山城を本陣とした頃はこの付近も兵站地として利用されていたと思われる。
【写真左】勝山城と月山富田城が見えてきた。
 上掲した最高所付近から見たもので、左側には勝山城の先端部が、その奥には月山富田城が見える。
【写真左】三条の堀切
 勝山城の城域に入る手前で尾根は一旦下がり、鞍部となるが、その箇所に三条の堀切が残る。
 現地は大分埋まっているが、当時はかなり深い堀切だったと思われる。
【写真左】堀切
 城域側の堀切で、両端部は竪堀としてそのまま谷に降りていく。
【写真左】竪堀
 左側に枡形虎口が控えているが、その手前の東斜面に残るもので、このあたりから連続して竪堀が出始める。
【写真左】人枡入口付近
 勝山城の要所にはこうした案内標識が設置されている。「人枡入口」とかかれた箇所で、正面の奥がその枡に当たる。
 左側から回り込む。
【写真左】畝状竪堀群
 虎口に向かう手前で、左手に再び畝状竪堀群が目に入る。
【写真左】虎口
 右に向きを変えて登っていくと、虎口が出迎える。
【写真左】虎口と土塁
 虎口を抜けると、ほぼ四角形で囲まれた郭が控え、その周囲には土塁が囲繞している。
 写真は西側から見たもの。このあと、さらに先端部に向かうため右に進む。
【写真左】西側に残る土塁と郭
 先ほどの虎口をこえて南に進むと、一旦尾根幅が絞られ、その後膨らむが、尾根軸は東に屈折していく。
 ほぼ軸が東に向いた辺りから、右(南)側には土塁が少しずつ高くなっていく。
【写真左】先端部に出た。
 勝山城の東端部にあたるところで、左側には高さ2m近い土塁が設置されている。
【写真左】月山富田城を俯瞰する。
 先端部からは月山富田城がはっきりと見える。

 毛利軍による富田城攻めは足かけ7年にも及んでいる。
 ここに佇むと、毛利軍の陣城のうち、京羅木山城やこの勝山城は、他の戦場で普請したような一時的な向城ではなく、長期戦に備えた根城に近いものになっていたのではないかと想像してしまう。
【写真左】月山富田城遠望
 勝山城からは南側の塩谷は見えないが、手前の菅谷口を含め、主要な郭群内の動きは毛利方にとって、手に取るように分かったことだろう。
【写真左】虎口と土塁
 この郭の形状は東方向に蛇の頭のような三角形をなしており、北側には最初に紹介した人枡虎口と同じような配置で、左側(北側)に虎口をとっている。
 このあと、この虎口を抜けて北側斜面に向かう。
【写真左】畝状竪堀
 虎口を降りると、さっそくここにも竪堀が張り巡らされている。
【写真左】竪堀上端部
 各竪堀の上端部は、ご覧の様な直線の空堀と直角に交わっている。竪堀は郭上段部までは伸びておらず、横に伸びた空堀との交差で終わっている。
 敵兵がここまで登ってきたら、一旦この空堀で足止めさせようとしたねらいがあるかもしれない。

2016年12月25日日曜日

山科本願寺跡(京都府京都市山科区西野阿芸沢町)

山科本願寺跡(やましな ほんがんじあと)

●所在地 京都府京都市山科区西野阿芸沢町
●指定 国指定史跡
●形態 寺院城郭・寺内町
●築城期 文明10年(1478)
●築城者 蓮如上人
●高さ 標高46m(比高0m)
●遺構 土塁、濠
●登城日 2016年8月23日

◆解説(参考文献 「入門 親鸞と浄土真宗」洋泉社発行、「畿内・近国の戦国合戦」福島克彦著、「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」仁木宏・福島克彦編等)

 浄土真宗中興の祖・蓮如が築城した寺院城郭山科本願寺は、京都の西方山科に建てられた。山科は古代から交通の要所として栄えた場所で、西へは洛東といわれた東山へ繋がり、東へは逢坂関をこえて大津宿へ繋がっていた。
【写真左】内寺内に残る土塁
 現在の山科中央公園にある通称「御土居の森」といわれているところで、東西75m、南北600mの規模を持つ。




現地説明板より

“山科本願寺・寺内町

 山科本願寺は、文明10年(1478)に浄土真宗中興の祖である蓮如上人により造営が開始された寺内町です。寺域は南北約1km、東西約0.8kmにおよび、周囲には防御施設として土塁や濠が巡っており、寺域内は主要な堂舎がある「御本寺(ごほんじ)」、家臣や僧侶が生活する「内寺内」、寺に関わる職人・商人などが生活する「外寺内」の3つの郭で構成されていました。

 「寺中広大無辺にして、荘厳さながら仏国のごとし」と言われるほど、繁栄していたことが想像できます。しかし天文元年(1532)に細川晴元が率いる法華宗徒と延暦寺、近江守護六角氏の連合軍により、焼き討ちにあいます。
【写真左】山科本願寺推定復元図
 現地に設置されているもので、斜めから撮ったため見ずらいが、上から外寺内、内寺内、御本寺のエリアが図示されている。
 このうち、残存土塁は冒頭のものとは別に、中小6ヶ所残っている。

 当時の土塁として推定されているのが、黄土色の区画線に当たり、中央の御本寺を囲み、さらにその外側の内寺内も同じく土塁で囲んでいるが、外寺内の囲みは土塁は設置されていないようだ。ただ東西を流れる川を利用して部分的に濠が巡らされている。





 この地は山科本願寺の北東部に位置します。昭和48年に団地の建設に伴い、山科本願寺における最初の本格的な調査が行われた場所です。

 「御本寺」と「内寺内」を限る南北方向の土塁と平行する濠や「御本寺」と「内寺内」をつなぐ道路や、石垣、鍛冶場、石組みの井戸が見つかりました。またこれら上面に堆積していた焼土や灰は、山科本願寺が焼き討ちにあったことを裏付ける証拠となりました。

 これまでの調査成果で、土塁の造成の様子や中枢部である「御本寺」西側に庭園や石風呂などの施設のほか、全国的にも珍しい工芸品なども出土し、その重要性がより一層明らかになってきました。
【写真左】山科本願寺復元イメージ図
 中央の青い屋根などが示されている箇所が御本寺で、この境内には御影堂をはじめ、阿弥陀堂、宗主居館等が設置されていた。



 また寺域を巡る土塁は一部現存しており、その姿を今も目にすることができます。

 中でも現在地のすぐ北にある山科中央公園に残る土塁は、「内寺内」の北東角にあたり、東西75m、南北60mにわたって残っており、当時の状況をよく留めています。

 平成14年には蓮如の隠居所としてつくられた南殿とともに、国史跡に指定されています。
  平成26年3月 京都市”
【写真左】安祥寺川
 探訪したこの日は北側の四丁野町(しちょうのちょう)側にある駐車場に停め、そこから安祥寺川に沿いの道を南に歩いて向かった。

 安祥寺川は北側の外寺内と内寺内の境を流れ、南北に続いていた土塁と並行に流れていたと思われるが、現在のように内寺内区域内を縦走せず、外寺内側を流れていのかもしれない。

 中央奥に見える森のような箇所が下段で紹介する大型の土塁跡で、写真の左側には東本願寺山科別院が建っている。



浄土真宗中興祖・蓮如

 寛正6年(1465)、同宗開祖親鸞の本来の教えに戻るべく大胆な改革を行った蓮如は、比叡山衆徒や高田専修寺から激しく非難され、大谷本願寺を破却された。それから近江を転々とし、越前に辿りつき、吉崎御坊(福井県あわら市吉崎)を建てた。

 その後、蓮如が吉崎御坊をあとにしたのは、文明7年(1475)の8月21日といわれている。越前を去った後、再び教線拡大に努めるべく摂津、河内、和泉と足を延ばした。丁度世はあの大義なき争乱、応仁・文明の乱が終わる頃である。10年余りの長い間戦禍にまみれ、その結果洛中洛外は勿論のこと、畿内の至るところに飢餓や疫病による死骸が横たわり、さらには窃盗、略奪、放火、ならず者の横行が頻発した。長らく続いてきた公家・寺社の荘園支配は、この乱後ほとんどが崩壊し、多くの公家も京都を離れた。
【写真左】外寺内側から見た土塁
 上掲の道を南に進んで行くと、途中で右手に安祥寺中学校があり、さらに進むとご覧の公園が現れる。正面奥のこんもりとした森のようなものが山科本願寺跡の中で最大の規模のもの土塁である。
 この土塁を超えると内寺内に入る。


 疲弊しきった人々が求めたものは、飢えからの解放と、平穏な日常の渇望である。民衆は、その方途として精神のよりどころを信仰に求めた。蓮如の行くところはどこでも多くの参詣者が集まった。まさに時代が求めていたということだろう。
【写真左】山科中央公園内案内図
 現地の案内図に管理人よって土塁の位置を加筆したもの。
 土塁の南西側には多目的広場として運動場があるが、野球場でいえば、センター側の外野スタンドのような配置になっている。



本願寺再建

 大谷本願寺が破却されてから18年後の文明10年(1478)、蓮如は山科に本願寺を再建すべく造営を開始した。
 再建する際に、いわば仮住まいとしたのが「柴ノ庵」である。その後、「馬屋」、翌年には寺務所の「綱所(向所)(こうしょ)」を、4月には堺にあった古坊を移築し「寝殿」が建てられた。この区域が「御本寺」といわれる箇所で、造営開始から3年後の文明13年春には竣工している。

 その後、内寺内、外寺内などが順次建てられた。このうち、内寺内は蓮如の第23子・実悟が残した記録『山科御坊事並其時代事』によれば、永正初年頃(1504~)に内寺内(第2郭)を、同10年頃に外寺内(第3郭)を建てたとされる。
【写真左】土塁に登る。
 北側の遊園地側に設置された階段を使って土塁天端に登る。
 遊園地側から目測で見ると、凡そ7,8mの高さはあると思われる。



 ところで、永正元年(1504)閏3月15日、将軍足利義澄(大内氏遺跡・凌雲寺跡(山口県山口市中尾)参照)が本願寺を訪れ(『後法興院記』)、同3年7月14~16日にかけては、管領細川政元(勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)参照)が当寺を訪れている(『後法成寺関白記』『宣胤卿記』)。

 この二人(義澄と政元)の間には微妙な関係があり、対立しながらも幕府を支えた。しかし、政元は山科本願寺を訪れた翌々年(永正5年)、暗殺されてしまう。
【写真左】土塁天端
 中央部にはご覧の様な歩道が設置され、西端から南端まで歩けるようになっている。
 場所によっては郭ほどの幅を持つ箇所もある。



 また、再興された山科本願寺が再び隆盛を誇りだした永正3年、加賀・能登・越中の一向一揆宗徒は、越前の朝倉貞景(一乗谷朝倉氏遺跡・庭園(福井県福井市城戸ノ内町)参照)によって撃退され、蓮如が創建した吉崎御坊は破壊された。

 山科本願寺再建を終えた蓮如は、延徳元年(1489)法灯を五男・実如に譲った。形式上は隠居だが、蓮如の教化に対する熱意は衰えることなく、その後明応6年(1497)には大阪に入って御坊を建立した。これがのちの石山本願寺となる。その2年後、波瀾万丈の85年の生涯を山科本願寺にて終え遷化した。
【写真左】石碑
 L字状となった土塁で、南に降りた箇所には「山科本願寺土塁跡」と刻銘された石碑が建つ。





 
寺院城郭

 山科本願寺に残る御本寺付近の土塁などは蓮如の生存中に設置されたものだが、内寺内・外寺内を含めたいわゆる惣構えの形態を完成させたのは、実如や証如の時代とされる。特に、明応8年(1499)から落城する天文元年(1532)の30年余の間に、本格的な寺院城郭が整えられたといわれている。
【写真左】西端部
 右側はグランドになっており、この位置が西端部になる。
 このあと左側に向かう。
【写真左】濠跡か
 案内図では「自由広場」といわれているところで、手前のグランド面より2~3mほど低くなっている。
 写真の右側が土塁になるが、低くなった分だけ土塁天端との比高はさらに高くなりおよそ10m程度になる。
【写真左】南側から土塁を遠望する。
 土塁の南側にはかなりおおきなグランドがある。この付近が内寺内の北側に当たる。
 このあと、東に進んで蓮如上人御廟所に向かう。
【写真左】安祥寺川を挟んで土塁と蓮如上人御廟所
 グランドの南側にある道を東に進むと、安祥寺川に掛かる橋がある。おそらく左側の土塁は安祥寺川に沿って南まで延びていたものと思われる。
 この橋を右に進むと、右に見える蓮如上人の御廟所が祀られている。
【写真左】蓮如上人御廟所・その1
 唐門風の門があり、この扉を開けて中に入る。
【写真左】蓮如上人御廟所・その2
 五輪塔もしくは宝篋印塔型式の墓石があると思ったが、柵の中は盛土した塚のようなものとなっている。
【写真左】蓮如上人像
 安祥寺川を挟んで東側にある東本願寺山科別院境内に建立されている。
【写真左】南殿の石碑
 上記まで紹介した箇所とは別に、蓮如上人御廟所から東へ凡そ600mほど行った音羽伊勢宿町には、「南殿跡」がある。この日は時間もなかったため、こちらには探訪していない。

2016年12月21日水曜日

船岡山城(京都府京都市北区紫野北舟岡町)

船岡山城(ふなおかやまじょう)

●所在地 京都府京都市北区紫野北舟岡町
●指定 国指定史跡
●高さ 112m
●形態 丘城
●築城期 応仁元年(1467)
●築城者 山名宗全
●遺構 空堀
●備考 船岡山公園
●登城日 2015年4月18日

◆解説
 船岡山城は、京都市北区紫野にある独立小丘で、南東から北西に凡そ450mの長軸をとり、北西側の最大幅は220m余りの規模を持つ。因みに、船岡山城の北西端の延長線上1.3キロの位置には京都五山送り火の一つ、左大文字(衣笠大北山)が控える。
【写真左】「史跡 船岡山」の石碑
 現在の船岡山は、南東部が後段で紹介する建勲神社の敷地で、北西部が船岡山公園の領域となっている。
 写真は、建勲神社の南麓部に設置された石碑。



現地説明板・その1

“史跡 船岡山(昭和43年2月15日 文部省指定)

 舟岡山は標高112m、面積25,000坪の優美な小山である。今より千二百年の昔、京都に都が定められる際、船岡山が北の基点となり、この山の真南が、大極殿だいごくでん、朱雀大路すじゃくおおじとなった。これは、陰陽五行いんようごぎょう思想・風水思想に基づいて、船岡山は大地の気が溢れ出る玄武の小山であるとされたためである。
 平安期の昔には、清少納言が枕草子で「丘は船岡……」と讃え、又、清原元輔・藤原俊成等、多くの和歌が残されている。船岡山は平安京の人々が若菜摘み、わらび採りに興じるまさに、清遊の地であった。
【写真左】建勲神社参道付近
 なお、柵が設けられている中のエリアは神域のため、禁足地となっている。







 戦国時代の応仁の乱の際、この船岡山が西軍の陣地になり、船岡山周辺一帯はその後、西陣の名で呼ばれている。この戦国の世を統一して、太平の世を開いた織田信長が、本能寺の変で没すると、豊臣秀吉は時の正親町(おおぎまち)天皇の勅許を得て、主君信長公の御魂(みたま)を、この船岡山に祀ろうとした。

 以来船岡山は、信長公の大切な地として伝えられ、明治2年、明治天皇がここに建勲神社を創建された。文部省は、日本の歴史の重要な舞台に、しばしば登場した船岡山の全体を指定基準に基づいて、「国の史跡」に指定し、地形や現状の変更をしない様、保護を計っている。
 又、京都府は平成7年3月27日、新たに制定した「京都の自然二百選」歴史環境部門第1号に選定した。なお、京都市は、昭和6年7月14日付にて、制定直後の「風致地区」に船岡山を指定した。
           建勲神社”
【写真左】宝篋印塔
 参道の階段脇に建立されているもので、おそらく応仁・文明の乱か、または永正の船岡山合戦の際討死した名のある武将のものだろう。




現地説明板・その2

“船岡山は標高112mの優美な小山です。平安京の造営時、玄武の山とされ、都の中心となる朱雀大路はこの舟岡山の真南に造られました。

 1467年からの応仁の乱においては、西軍の陣地が置かれ、戦いが行われた古戦場であることから、昭和43年に国の史跡に指定されました。また、この付近が「西陣」の名で呼ばれることの由来ともなっています。
 この周辺の岩が露出する一帯は、公園東側の林中の横堀跡や削平面(展望広場部分)と共に、古戦場の雰囲気を色濃く伝える景観を形成しています。

 園路を通行するにあたっては、張り出した岩肌に注意して頂きますよう、お願いいたします。
     北部みどり管理事務所”
【写真左】建勲神社境内
 桜の木などが多くみられたので、春には多くの人が訪れるのだろう。








応仁・文明

 船岡山が絡む大きな戦いで最初に起ったのが、鶴城(兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城)でも述べたように、応仁・文明の乱である。応仁元年(1467)1月7日、将軍足利義政から管領職を罷免された畠山政長は自邸に火をかけ、京都の上御霊神社に陣を構えた。
 同月18日、畠山義就(よしひろ)、政長を上御霊神社に攻めこれを破った。このクーデータをきっかけに応仁の乱が始まることになる。
【写真左】船岡山公園
 建勲神社から南側にある小道を北西方向に進むと、公園が設置されている。おそらく、この辺りも郭としての遺構があったものだろう。




 同年5月26日、細川勝元率いる東軍と、山名宗全率いる西軍が激突。洛中における戦火はあっという間に全国に飛散した。

 管理人の地元山陰では、出雲・隠岐守護職であった京極持清は東軍方細川勝元へ、石見守護職であった山名政清は西軍山名宗全へ味方することとなった。翌応仁2年、足利義視は西軍へ投じ、義政は東軍へと分かれ、幕府内も両派に分かれた。

 この乱で西軍方として山名宗全が陣を張ったのが、船岡山である。これに対し、勝元は自邸近くの花の御所を陣として構え、将軍義政、義視、義尚を押さえた。

 因みに同乱が始まった応仁元年の対立構図は次のようになる。

《東軍》 
 足利義政、義視、義尚(幕府)
 細川勝元、畠山政長、斯波義敏

《西軍》
 山名持豊(宗全)、畠山義就、斯波義廉
 大内政弘

 ところが、翌年になると義視は西軍に走った。この後混迷の極みに達し、大義なき戦いとなっていく。その後、文明5年(1473)に東西それぞれのリーダーであった持豊と勝元が亡くなり、あとを受けた山名政豊と細川政元が講和し、文明9年(1477)漸く終結した。
【写真左】船岡山の三等三角点
 船岡山の最高所で、正確には標高111.89m、北緯35度2分8秒756、東経135度44分40秒417の地点となる。

 応仁・文明の乱の際、山名氏の本丸として使われた箇所と思われる。

 


永正船岡山合戦

 永正8年(1511)8月23~24日、細川高国・大内義興ら、室町幕府将軍足利義稙を擁立する軍と、前将軍足利義澄を擁立する細川澄元・政賢(まさかた)の軍が船岡山で激突、高国・義興らが勝利し、澄元は摂津に逃れた。これを永正の船岡山合戦という。

 益田藤兼の墓(島根県益田市七尾町桜谷)でも紹介しているが、この戦いで、出雲・石見から大内義興を援護すべく参陣した主な面々は次の通りである。
  • 出雲国 尼子経久、尼子国久他
  • 石見国 益田宗兼、尹兼父子・高橋治部少輔・周布興兼・久利清兵衛・小笠原長隆他
【写真左】岩塊が露出する箇所・その1
 上掲の三角点から少し南に降りていくと、ご覧のような岩塊が顔をのぞかせる。
 この辺りも郭としての利用があったものと思われる。
【写真左】岩塊が露出する箇所・その2
 先ほどの箇所から南側に降りたところで、どの程度までが当時の遺構なのか分からないが、この付近の傾斜は予想以上に角度があるので、切崖の機能も有していたのだろう。
 このあと、北西端に向かう。
【写真左】横堀・その1
 当城の中でもっとも遺構として良好に残っているもので、本丸から少し下がった北西側にある。
【写真左】横堀・その2
 奥に見える歩道とさほど比高差はないが、当時はもっと深かったものと思われる。
【写真左】横堀・その3
【写真左】横堀・その4
 北西側の斜面はなだらかになって、外周部は歩道や公園などが設置されたため、当時の遺構状況は不明だが、これらの横堀などは単条ではなく、防御性から考えて、外周部に同心円状に何条もの横堀が巡らされていたように思われる。
【写真左】船岡山から比叡山を遠望する。
 船岡山から東方に比叡山の山々が見える。
【写真左】大徳寺を遠望する。
 船岡山の北側を通る北大路通を挟んで、北東には大徳寺が見える。当寺も応仁・文明の乱において、一時焼土と化し荒廃したが、一休和尚が復興、桃山時代には秀吉が信長の菩提を弔うため総見院を建立するなど、再興に尽くした。



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