2016年3月10日木曜日

高橋右京進館跡(愛媛県西条市喜多台)

高橋右京進館跡
          (たかはしうきょうのしん やかたあと)

●所在地 愛媛県西条市喜多台
●築城 元亀2年(1571)か
●城主 高橋右京進
●遺構 祠等
●備考 藤森神社
●登城日 2015年3月23日、2016年2月21日(藤森神社)

◆解説(参考資料 『日本城郭体系第16巻』、『愛媛県の歴史』山川出版社、HP『レファレンス協同データベース』『城郭放浪記』その他)

 前稿鷺ノ森城(愛媛県西条市壬生川)でも述べたように、今稿では高橋右京進館跡を取り上げたい。当館跡は鷺ノ森城から西に約1キロほど向かった喜多台地区に残るものである。
【写真左】高橋右京進館跡
 広々とした田圃の一画に祠を祀る。
 中央の墓石のようなものはおそらく五輪塔形式のものだったのだろう。
【写真左】高橋右京進館跡・藤森神社の配置図
 前稿でも述べたように、このあたりも中州状の地勢であったと思われる。





高橋右京進

 元亀2年(1571)、妙口剣山城主黒川美濃守と、新居郡金子山城主金子備後守らは、鷲ノ森城主壬生川摂津守を襲撃した。それまでも度々両者は鷺ノ森城を攻めていたが、壬生川摂津守は何とか持ちこたえていたものの、ついに元亀2年の攻撃では落城も時間の問題とみられていた。
【写真左】遠望写真
 北側から見たもので、小祠を祀る小屋がポツンと田圃の脇に立つ。

 土地改良された関係から当時の面影は殆ど消滅しているが、おそらくこの周囲が館跡・敷地だったのだろう。


 時の城主壬生川通国は、安芸の毛利氏と来島城(愛媛県今治市波止浜来島)の来島氏に援軍を要請した。毛利氏側から派遣されたのが、高橋右京進を将とする軍勢であった。戦いは右京進などの活躍もあり、壬生川氏が勝利した。そして、この戦功によって右京進は当地喜多台を与えられ、この地の開発に努めたという。

 現在その喜多台という地区の田圃の脇には、高橋右京進館跡が残されている。また、彼がそのころ建立したとされる藤森神社も近くに残っている(後段参照)。
【写真左】石碑
「高橋右京進館跡」と刻銘された石碑が左側に建つ。

 この横面には「昭和31年 壬生川史談会」と筆耕された文字が見えるが、もう一つの石碑には「明治27年3月吉日」と記された石碑も建立されている。

 従って、代々この地が高橋右京進の館であったと言い伝えられてきたのだろう。





 さて、この高橋氏(右京進)は、毛利氏側から派遣された武将だという。また、その時期は元亀2年(1571)であったと記録されている。元亀2年といえば、毛利元就が亡くなった年である。

 この前年、元就は長年の宿敵であった出雲月山富田城攻めにおいて、病を押して自ら出陣していたが、9月に病状は悪化し、輝元・小早川隆景を伴い、安芸吉田郡山城へ帰国した。そして、翌2年6月14日、ついに元就は75歳をもって逝去した。一週間後の同月21日、輝元・隆景らが葬儀を取り仕切った。
【写真左】館跡から瓶ヶ森を見る。
 北側から見たもので、後背には石鎚山脈の一つ瓶ヶ森(かめがもり:1,897m)が控える。




 このように、この年(元亀2年)における毛利氏の動きは、元就の死去ということもあって表立った動きは少ない。

 強いて言えば、その後尼子氏との戦いを任された吉川元春が出雲で奮戦し、弟の小早川隆景がこの年の春、備前児島での戦いなどを行っているが、途中で元就危篤の報を聞いた隆景は一旦安芸に戻っている。

 そうした状況下での、伊予壬生川氏からの毛利氏に対する支援要請である。支援要請の具体的な時期については記録がないが、どちらにしても毛利氏としては本格的な軍団を派遣する環境下ではなかったと考えられる。
【写真左】館跡から世田山(城)を見る。
 北に目を転ずると、今治市との境に聳える世田山城(愛媛県今治市朝倉~西条市楠)が見える。



益田藤兼と毛利氏

 このことから、毛利氏側としては、直属の譜代家臣らを伊予に派遣させず、他の一族で毛利氏傘下にあった者に命じた可能性が高い。そこで白羽の矢を立てられたと考えられるのが、石見益田氏である。
【写真左】益田氏の居城・七尾城
 








 弘治3年(1557)4月3日、元就は長門国勝山城にて大内義長を攻め、義長は自害することになり、ここに大内氏が滅ぶことになるが、その直前まで大内方に与していた益田藤兼は、3月23日に至って大内氏から毛利氏へと服属している。

 この後、益田藤兼の二男と吉川元春の女子が縁組を行う(永禄10年・1567)など毛利氏一族と益田氏の関係は強くなっていった。

 そこで、元就の危篤・逝去という毛利氏にとって重大な局面に対し、益田氏が協力していったことは十分に考えられる。そして、鷲影神社・高橋地頭鼻(島根県益田市元町)で紹介した高橋氏(庶家)が益田氏の命を受け、伊予に渡ったという可能性も十分想像できる。

 ただ、残念ながら毛利氏が益田氏に対し、伊予丹生川氏支援要請をした記録や、益田氏が高橋(地頭)氏と、この件に関して契約したような記録は、『益田家文書』などには残っていない。

藤森神社

 右京進が建立したとされる神社である。場所は高橋右京進館跡から南西の方向約300mの地点にあり、境内の前は現在遊園地のような施設が併設されている。
【写真左】藤森神社
 右側には「藤森荒魂神社」と銘打った石碑が建ち、安政年間に建立された鳥居が残る。

 なお、石碑の裏には総代の名簿が記されており、この中には「高橋姓」の名も見える。


 神社の名称が、鷲影神社であれば、上述したように益田氏の家臣であった高橋氏であることがほぼ確実なのだが、残念ながら藤森神社という名称である。

 藤森神社として有名なのは、京都市伏見区深草鳥居崎町に所在するものだが、高橋氏との関係は分からない。
【写真左】拝殿
 規模は小さいが、当社では「藤まつり カラオケ歌謡際」といったイベントが定期的に行われているようだ。

 また、左側の壁には「藤森の歌」という歌詞が掲げられ、「…右京進が庵を建て社をまつる荒魂の昔を語る藤の花…」といった詩が綴られている。
【写真左】本殿
【写真左】奈良原神社
 藤森神社境内に合祀された社で、おそらく今治市の楢原山山頂に祀られている楢原(奈良原)神社を勧請したものだろう。

2016年3月6日日曜日

鷺ノ森城(愛媛県西条市壬生川)

鷺ノ森城(さぎのもりじょう)

●所在地 愛媛県西条市壬生川町三津屋
●別名 鷺の森城
●築城期 応永元年(1394)
●築城者 桑原河内守通興(河野通之)
●城主 壬生川氏(桑原氏)・壬生川通国・三郎兵衛
●形態 平城(海城)
●高さ 海抜3m
●遺構 濠・土塁
●備考 鷺森神社
●登城日 2016年2月21日

◆解説(参考資料 『日本城郭体系第16巻』、『愛媛県の歴史』山川出版社、HP『レファレンス協同データベース』『城郭放浪記』その他)

 鷺の森城は燧灘(瀬戸内海)に面した現在の西条市壬生川(にゅうがわ)町にあり、西側には国道196線やJR予讃線が走っている。
 室町時代に築かれたという鷺の森城は、当時海に面していた城郭で、現在でも比高3mという場所に所在している。
【写真左】鷺ノ森城
 現地は鷺ノ森神社となっており、入口には鳥居が建立されているが、その左側の石碑に「鷺森城跡」と刻銘された石碑が立つ。
【写真左】鷺の森城・大曲砦等配置図
 現在、鷺の森城を含めた西条市壬生川付近は、殆ど干陸化された街並みを形成しているが、中世のころは左図のような不揃いな河川が流下し、中洲状の地勢であったと考えられる。

 また、燧灘海岸部における干満差は3m前後であったことから、後段で示す大曲川の中流部・大曲砦辺りまで、満潮時は海であったと推察され、このことから、当時(中世)の戦は、いわゆる船戦さ(ふないくさ)の形態が多かったのではないかと思われる。


 応永元年(1394)、伊予国の守護職であった河野通之が、家臣であった桑原通興に命じて鷺の森に土居構えの城を築いたという(『東予市誌(東予市刊 1987)』)。

河野氏惣領家予州家

 応永年間というのは、室町幕府将軍・足利義満が将軍職を辞任し出家する(応永2年:1395)ころだが、実際には義満がこれ以降がもっとも大きな力を誇示する時期でもある。
【写真左】北側から見た鷺の森城
 手前の船着場のような水路は、当城が築城された当時は、南側を流れる大曲川の支流と考えられ、南北両川が濠の役目をしていたものと推察される。

 なお、左側に見える水門の先には、鷺の森城の東側に残る濠が繋がっている(下段の写真参照)。


 さて、この当時伊予国の守護職は、湯築城(愛媛県松山市道後湯之町)を本拠とする河野氏惣領家で、通之の兄・通義である。彼もまた前稿鷲影神社・高橋地頭鼻(島根県益田市元町)でも紹介した石見益田氏と同じく、室町幕府のいわば外様守護的立場であったため、明徳の乱など、各地で勃発した騒乱鎮圧があるたびに幕府の命を受け、出兵を繰り返していた。
【写真左】東側の濠跡
 上記水門に繋がる濠跡で、探訪したこの時間は干潮時だったようで、底が露出していた。
 右側が鷺の森城。
【写真左】南側の濠跡
 この状況から判断すると、当城の海抜は3m前後になるだろう。
 右側が鷺の森城。







 河野氏がこのような任務に就かざるを得なかったのは、隣国の讃岐国を治めていた足利一門の細川氏が、次第に東予区域まで侵攻し出し、それを食い止める方策の一つとして、河野氏が幕府に働きかけをしていくのだが、その代償としてのものだった。

《河野氏系図》
           (惣領家) 通義 → 通久 → 教通(通直)
 通堯(通直) ⇒
           (予州家) 通之 → 通元 → 通春

 しかし、応永元年(1394)、その通義はついに病魔に侵されてしまった。『予章記』によれば、死に際に弟で河野氏予州家の通之に家督を譲ることを決意、その際その頃懐妊中だった通義の妻が男子を産んだならば、その子が成人するまで後見し、以後はその子に家督を相続させるように言い残した。通義亡き後産まれたのは通久である。

 通之は兄の遺言通り、惣領家の嫡男通久が応永13年(1406)に元服すると、家督を通久に譲り、その報告と承認を兼ねて上洛を果たした。
【写真左】鷺の森神社の楠
 境内にはご覧のような楠の大木が植わっている。
 西条市指定文化財・天然記念物で、樹高約25m、胸高幹周6.1m、樹齢600年余りといわれているので、鷺の森城築城後間もない頃に植えられたものだろう。


 しかし、その後、通之とその子・通元の父子(予州家)は、惣領家通久に敵対するようになる。
 いわば分家が本家に敵対した形で、具体的な理由は記録に残っていないが、そもそも通之・通元といったこの名前から推察するに、細川氏からの偏諱(細川頼之・頼元)による可能性が高く、予州家が細川氏に与同していったことを示すものだろう。
【写真左】鷺の森神社本殿
 現在も氏子の皆さんによって定期的に祭礼が行われているようだ。







 ところで、河野氏の宗家、すなわち惣領家は前述したように、その頃本拠地を湯築城に置き、通之ら予州家の本拠地は、現在の伊予灘に面した三津浜(湊山城)周辺で、おそらく水軍領主としての側面も持っていたものと思われる。

 この後、惣領家と予州家の争いは、次の代の教通と通春まで続き、このため同国内における河野氏の分国支配体制は確立できないまま、戦国時代を迎えることになる。

戦国期

 戦国期の享禄年間から天正年間のころになると、鷺の森城は金子山城(愛媛県新居浜市滝の宮町)の金子元宅や、小松町妙口の剣山城主黒川氏などから度々攻撃を受けた。特に、元亀2年(1571)には、金子・黒川の両陣営による猛攻撃を受け、落城の危機に瀕した。

 このとき、鷺ノ森城主であった壬生川通国は、中国の毛利氏と来島城(愛媛県今治市波止浜来島)の来島氏に救援を求めた。これに対し、毛利氏は家臣の高橋右京進を将とする軍勢を派遣させ、落城は免れたという。なお、壬生川氏は、桑原通興が当城に入ったのち、当地名であった壬生川を姓とし、桑原から壬生川に改姓している。
【写真左】大曲砦
 所在地:西条市周布(しゅう)
 大曲砦は鷺の森城の南側を流れる大曲川を約1キロほど登ったところにあり、住宅と田圃の脇に残るが、下の写真にもあるように、この砦も河川もしくは海を介した中州にあったものと思われる。
【写真左】大曲峠遠望
 北側から見たもので、砦跡には古木が植わり、明治時代にはこの場所が小社であったことが別の石碑に記されている。



 しかし、その3年後の天正2年(1574)、鷺ノ森城主・壬生川摂津守通光は、再び剣山城主黒川対馬守と戦い、城を出て大曲砦(写真参照)に陣を敷いたが、黒川勢が優位に立ち、摂津守は砦を出て、大曲橋を渡り、円海寺に入ろうとしたとき、黒川方の久米道清、首藤金世の両名に討たれた。
【写真左】近くを流れる大曲川
 大曲砦の付近で川は分岐し、写真の川が砦を囲むような配置になる。
 大曲砦はこの右の住宅の隣に位置している。





壬生川摂津守の墓

 大曲砦の脇を走る道路を北に進むと、円海寺地区に入るが、この場所に壬生川摂津守の墓が祀られている。
 この場所も田圃の脇にあって、写真のように墓と併せ小宮も併設されている。
【写真左】壬生川摂津守の墓遠望
 所在地:西条市円海寺
 大曲砦から北西約1キロ隔てたところにあって、この近くには地区名である円海寺に因んだ円海庵という寺院が所在する。また、この場所のほぼ真上を今治小松自動車道が走っている。

 写真は、北側から見たもので、コンクリート製の塀で囲み、緑色のテント式屋根が設置されている。
【写真左】摂津守の墓・その1
 熱心な地元信者の方々によって、綺麗な花が添えてある。おそらく毎日参拝されているのだろう。
 なお、この中には椅子やテーブルなどが常設されており、四国八十八ヶ所の遍路さんたちの休憩所も兼ねているのかもしれない。
【写真左】摂津守の墓・その2
 上の写真のように祭壇には多くの花・供物があるため、正面からは墓石が見えない。このため、裏に回って五輪塔を撮った。




 なお、元亀2年に応援に駆け付けた高橋右京進については、次稿で紹介することにしたい。

2016年2月20日土曜日

鷲影神社・高橋地頭鼻(島根県益田市元町)

鷲影神社(わしかげじんじゃ)
     ・高橋地頭鼻(たかはしじとうはな)


●所在地 島根県益田市元町
●創建 長禄2年(1458
●創建者 高橋頼之・頼久父子
●探訪日 2016年2月1日、11日

◆解説(参考文献『益田市誌』等)
  島根県益田市の市街地である元町には、鷲影神社という小さな社が祀られている。この社を創建したのは、前稿阿瀬尾城(岡山県新見市哲多町田渕)で紹介した高橋民部少輔貞春の流れを持つ「地頭鼻高橋家」である。
【写真左】阿瀬尾山 鷲影神社
 所在地 島根県益田市元町

 ご覧の通り、民家の隣で、その左側は崖となっている。




 手前の石碑には、「阿瀬尾山 鷲影神社」と刻銘されている。

 この場所は、益田市元町の南端部にあたる丘陵地で、周辺には階段状の団地が建ち並び、住宅地の脇に鎮座している。

 境内は小規模なものだが、その奥には石碑が建立されており、そこには備中阿瀬尾城から石見阿須那鷲影城に移り、さらには当地益田に下向してきた地頭鼻高橋家の由来を示す碑文が刻まれている。

鷲影神社(益田市元町)の碑文

“備中守護職松山城主高橋九郎左衛門尉光國 参河守時英事 元弘三癸酉年五月近江國番場合戦於六波羅探題北條仲時従嫡子時住太郎範時事、次子仲光次郎光時事共討死平田場峠蓮華寺葬光國之◇
 備中国阿哲郡田渕阿瀬尾城城主別名馬酔木城主高橋民部少輔貞春南北朝争乱之延文五庚子一月河内国干破釼合戦於討死

【写真左】碑文が刻まれた石碑
 本殿前の境内に建立されているが、時が経ったこともあり、筆耕された文字が部分的に潰れていたり、見難くなった箇所もある。


 嫡子高橋左近将監貞頼応永十五戌子年十月従兄石見國邑智郡阿須那藤掛城主高橋刑部少輔貞光之招応石見国邑智郡神稲郷大庭鷲影城主トナリ翌々応永十七癸寅年二月城内西之丸ニ鷲影城鎮護社創建守護神武内宿祢貞頼之曽祖父光國父貞春之三神祀ル
 貞頼之嫡子左近将監頼之◇民部少輔頼久父子嘉吉元辛酉年八月播磨赤松之乱後益田七尾城主益田越中守兼堯之招応鷲影城ヲ去り長禄二戌寅年益田庄上吉田郷移リ八幡原地頭家敷住百貫地知行三神祀鎮守社再建然処子孫高橋源四郎明治十癸未九月没被故有鎮守社廃絶今度高尾山地開発ヲ記念シ永年宿願之当鎮守阿瀬尾山鷲影神社ヲ再建ス
 昭和四十九年十一月二日 上吉田 地頭鼻 高橋正喜“
(註:◇・判読不能個所)
【写真左】鷲影神社本殿 ご覧の通り本殿は1間ほどの幅をもった小さなもので、昭和49年に再建されているようだ。





 一部判読不能な箇所もあって明瞭ではないが、この碑文を要約すると概ね次のような内容と思われる。

(要約)(途中から)
「…… 延文5年(正平15年:1360)、備中阿哲郡の田渕にある阿瀬尾城(馬酔木城)の城主であった高橋民部少輔貞春は、南北朝動乱において河内国の合戦で討死し、その後嫡子・貞頼は、父の死から40年余り経った応永15年(1408)10月、石見阿須那藤掛城主・高橋貞光の招きで近接の神稲郷大庭の鷲影城主となった。2年後の応永17年(1410)正月、鷲影城の西の丸に守護神として、武内宿祢貞頼・曽祖父光國・父貞春の三神として当城鎮護社守護神を祀る。

 嘉吉元年(1441)の乱において、頼之・頼久父子播磨に参陣、その後益田兼堯(かねたか)の招きで鷲影城を去り、長禄2年(1458)、益田庄上吉田郷に移り、八幡原地頭となり、100貫の知行を受け、三神祀鎮守社を再建した。然しその子孫高橋源四郎が明治10年に没し、鎮守社も廃絶した。この度(昭和49年)高尾山地開発を記念し、長年の願いであった当鎮守阿瀬尾山鷲影神社をここに再建する。

       昭和49年11月2日 上吉田 地頭鼻 高橋正嘉 」 
(以上 ※下線管理人による)

 上述した要約文でほぼ高橋貞春以降の流れが分かると思われるが、これをもとに順を追って足跡を整理したい。

高橋貞頼、阿須那に来住

 前稿の阿瀬尾城(岡山県新見市哲多町田渕)でも述べたように、貞春が河内国で戦死してから約40年余り経った応永15年(1408)10月、師光嫡男の石見阿須那藤掛城主・高橋貞光の招きで、貞春嫡男・貞頼は藤掛城の東隣神稲大庭の鷲影城主となった。

 おそらく、貞春が戦死したころ、貞頼は生まれて間もない幼児であったのだろう。従って、貞頼が阿須那に来住したときは既に40代半ばの年齢であったと思われる。
 このころ、高橋氏惣領・貞光は、藤掛城からさらに出羽の肥沃な上流部方面へも触手を伸ばしていった時期である。

貞頼、鷲影城を築く

 貞光の代になると、出羽氏の領地を次々と攻略、別当城(島根県邑智郡邑南町和田下和田)並びに、二ツ山城(島根県邑南町鱒淵永明寺)を手中にしたとことにより、貞光は拡大した領地の守備堅持を確保するため、甥の貞頼には同氏支配地の東方を扼する任務を与えるため鷲影城を築かせたと推察される。
【写真左】鷲影城と軍原を遠望する
 所在地:邑南町 阿須那 大庭、戸河内

 鷲影城の標高は415mなので、西隣のH・354mの藤掛城より60m余り高い。以前登城を試みたが、登城口がどのあたりなのか不明で断念した。郭・帯郭・堀切・竪堀など遺構の種類も多いようだ。
 写真の左側には出羽川が流れ、その対岸に興光が自刃したといわれる軍原古戦場(キャンプ場)がある。
 なお、貞頼らが鷲影城を居城としていたころの屋敷は、この写真にみえる大庭地区であったと考えられる。


 そして、鷲影城を築いて間もない応永17年(1410)正月、貞頼は当城西ノ丸に守護神として、同氏元祖とされる武内宿祢貞頼、曽祖父光國、そして父貞春を三神として崇め、当城鎮護社を祀った。これが後に益田に移った際の鷲影神社のもととなる。
【写真左】大庭の集落から鷲影城を見る
 西麓にある大庭の集落から見たものだが、左側に延びた舌陵丘陵部は、遺構の記録はないものの、この頂部に上がれば西方の藤掛城を見る位置にあるので、常時連絡用の物見櫓的なものが設置されていたのかもしれない。


嘉吉の乱

 嘉吉元年(1441)6月24日、播磨・備前・美作三国の守護であった赤松満祐は、将軍足利義教を謀殺した。直後幕府内に動揺が走り、混乱を極めたが、7月に至ってようやく満祐追討の命が出され、西国の諸将が発向することになった。このとき多くの西国武士が播磨・備前・美作方面に向かっているが、このうち石見国では益田兼堯が7月24日付で幕府から満祐追討の命を受けている。 また石見高橋氏では、上述したように鷲影城主であった頼之・頼久がこの戦いに参陣している。
【写真左】鷲影城本丸
 この写真は、2015年10月3日当地阿須那で行われた高橋氏660年記念事業の際、会場ロビーに展示されていた写真である。
 本丸跡には祠のようなものが鎮座しているようだ。





頼之、鷲影城を去り益田氏に仕える

 嘉吉の乱がおこったころの益田氏は、兼堯が第15代当主になって間もないころである。嘉吉の乱後、頼之・頼久父子は石見鷲影城に帰城していると思われるが、乱の17年後である長禄2年(1458)、頼之父子はこの益田兼堯の招きで益田庄へ移り、当地八幡原地頭となった。
【写真左】益田氏の居城・七尾城本丸から鷲影神社方面を俯瞰する。
 七尾城からは西方に直線距離で2キロ余りの地点に当たり、標高60mほどの丘陵地に建立されている。


 ところで、益田氏の招きとはいえ、なぜ鷲影城主であった頼之父子が、やっと住み慣れてきた阿須那を離れ、益田に赴いたのだろうか。惣領高橋氏にとっても、このころは石見・安芸の領国支配に向けて盛んに勢威を広げていく最中であり、他国の大名に対して、いわば身内同然の一族を与えるほどの余裕はなかったはずである。しかし、結果として頼之らは益田氏に仕えることになった。
【写真左】鷲影神社が祀られている高台を見る。
 写真は北麓の市民学習センター(旧石西県民文化会館)側から見たもので、高橋氏が来住する前は、益田氏の庶流益田兼家が赤城(せきじょう)を築いていた場所である。
 従って、高橋氏もおそらくこの赤城跡に居城を構えていたものと思われる。


 七尾城・その3でも述べたように、嘉吉の乱に際し、同年(嘉吉元年:1441)8月23日、兼堯は山名氏の一族山名道作の配下に属し、美作高尾の城(所在地不明)を落とし、細川持之から感状を受けたのを皮切りに、27日には東に進んで蟹坂(兵庫県明石市和坂)へ進撃したが、暫くそこに留まっている。その後は、九州へも発向している。この後も度々幕府の命によって各国(九州・中国・四国・畿内など)の戦地に赴いている。
【写真左】鷲影神社直下
 写真の高台右側に当社が祀られているが、この付近から急坂道となり、高低差が著しい。
 おそらく郭段が構成されていたのだろう。


 寛正4年(1463)12月20日、兼堯は戦乱平定により幕府に対し、帰国の願いを申し出た。しかし、幕府は再度の上洛を命じた(『萩閥7』)。兼堯は大げさに言えば、本貫地である石見益田に在居することはほとんどなく、戦に明け暮れていたと思える。こうした経緯を考えると、そもそも頼之父子は嘉吉の乱後、すぐには石見阿須那に帰城できず、かなり長い間、益田兼堯に随従・同行していたのではないだろうかとも考えられる。

高橋地頭鼻

 ところで、冒頭で紹介した「鷲影神社」から北に下がり、現在の益田市役所方面に向かうと、道路脇に「地頭鼻高橋本家地蔵菩薩」と呼ばれる地蔵菩薩が祀られている。
【写真左】地頭鼻高橋本家地蔵菩薩が祀られている小堂
 小堂の中には地蔵菩薩が納められている。








説明板より

“地頭鼻高橋本家地地蔵菩薩(通称赤城地蔵)
1、 建立の由来
 長禄2年高橋次郎左衛門尉頼久が、上吉田地頭となって8代子孫の吉左衛門頼勝の時、貞享3年倅新之助を亡くし、その供養のため正徳年間に地蔵菩薩を建立した。

 高橋本家は、次郎左衛門尉頼久より5代子孫の三郎左衛門尉頼泰の時、毛利氏に従って須佐に移住した益田氏の下を離れ上吉田に残り帰農し、以降「地頭鼻高橋家」と称した。
 明治になり地頭鼻高橋本家は休溢(現元町)の山手に屋敷を移したが、地蔵菩薩は建立場所(現市役所裏手)に留めた。

【写真左】正面からみた小堂
右には「子守子授け地蔵菩薩」、左には「地頭鼻高橋本家」と書かれた表札が掲げられている。





2、 近年の模様
 吉田地区における二大石造地蔵菩薩(赤城、今西)の内の一体であり、「子守子授け地蔵」として広く地域内外の信仰を集め、お参りが絶えない。
 特に次郎左衛門尉頼久より18代子孫の正喜は厚く敬い、毎年4月21日には先祖と共に供養を行っていた。現在も管理は地頭鼻高橋本家で引き継がれている。
(その経緯は「益田市史(矢富熊一郎著)370p~371p」、「益田市誌上巻(益田市誌編纂委員会)874p~875p」に記載されている)”

 以上のように、備中阿瀬尾城(馬醉木城)主であった高橋貞春の系譜は、石見阿須那(神稲大庭)の鷲影城へ入り、その後益田氏の招きで上吉田の地頭となっていくが、その後天正年間に至ると、頼恭(よりたか)は益田氏が毛利氏に属したことから、同6年(1578)の播磨上月城攻めに参陣している。

 なお、元亀年間、東予(愛媛県)の鷺ノ森城主・壬生川氏(河野氏家臣)が、周辺の諸豪に攻められたとき、毛利氏の命によって、救援に駆けつけた高橋某という将がいるが、次稿ではこれに関わる城址を紹介したい。


◎関連投稿
嶽山城(大阪府富田林市龍泉)

2016年2月16日火曜日

阿瀬尾城(岡山県新見市哲多町田渕)

阿瀬尾城(あせびじょう)

●所在地 岡山県新見市哲多町田渕
●別名 馬醉木城
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 高橋民部少輔貞春(藤木)
●形態 丘城(城館か)
●高さ 510m(比高20m)
●遺構 郭
●備考 荒戸山観光レクリェーション施設
●登城日 2016年2月14日

◆解説(参考文献・資料 『日本城郭体系第13巻』『大和村誌』「鷲影神社碑文」等)
 前稿まで石見高橋氏の惣領、すなわち師光の系譜を中心として紹介してきたが、ここで師光の弟と思われる武将を取り上げたい。

高橋貞春

 その武将とは、高橋民部少輔貞春、別名藤太という人物である。これまで述べたように、師光が石見阿須那に下向する前に拠っていたのが、備中松山城(岡山県高梁市内山下)であった。これに対し、貞春は同国の北西部に当たる現在の新見市哲多町田渕を本拠としていた。そして、その居城とされているのが、阿瀬尾城、別名「馬醉(酔)木城」である。
【写真左】馬酔木城遠望・その1
 馬酔木城は、下段でもしめすように、その形態は丘城とされ、一般的な要害を誇る山城ではない。
 



貞春師光などの関係

 ところで、『益田市誌』などには、貞春は師光の子として記されているが、状況を考えると、師光が息子を備中に残したまま、石見に下向することは考えられない。このため『大和村誌』にもあるように、父を光義とし、その子に師光・貞春・詮光の三兄弟がいたと考えられる。

 さて、貞春はその名前から推測すると、おそらく細川頼春(細川頼春の墓(徳島県鳴門市大麻町萩原)参照)から偏諱を受けたものだろう。すなわち、そのころ、武家方(尊氏・高師直派)の一員であったと考えられる。
【写真左】阿瀬尾城跡に設置された施設案内図
 現地にあった案内図で、上方が北方向を示す。案内図は大分劣化していたため、管理人によって分かりやすく修正したものだが、現在の南麓を東西に走る県道50号線のすぐ上に位置し、山小屋・コミュニティー広場といった辺り全体がおそらく阿瀬尾城の城域だったと考えられる。

 施設整備のため大幅な改変が為されたと思われるが、形態として丘城であったことを考えると、当時この場所が高橋貞春らの屋敷跡だったと推測される。

 
 兄師光が石見阿須那に下向して地歩を固めつつあったころ、弟貞春は延文5年・正平15年(1360)、5月、河内国千早赤阪(千早城(大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早)参照) に参陣するも武運拙く討死した(『太平記』)。

 この戦いは、当時南朝方として一翼を担っていた楠木正儀の拠る河内赤阪城などを幕府軍が攻略したものだが、すでにこのころ頼春は亡くなり、生前彼が後見していた細川清氏(白峰合戦古戦場(香川県坂出市林田町)参照)が率いて戦ったものである。
【写真左】グランドと屋内型運動場
 上記の案内図にはこの建物は描かれていないが、中はグランドゴルフなどができるようになっている。

 左側が入口で北になり、ここからさらに南側の施設に向かう。




貞春遺児・頼貞、石見阿須那下向する 

 貞春が河内国で亡くなったあと、所領地であった備中国田淵はその後どうなったのか詳細は不明であるが、そのころから細川氏による守護職としての力が弱まり、秋庭氏(後期秋庭氏)などへ移りつつあったので、貞春没後の高橋氏は当地の支配は出来なくなっていったのだろう。

 貞春没後40年余り経った応永15年(1408)、彼の嫡男・頼貞は、石見阿須那の高橋貞光の招きで、神稲郷大庭の鷲影城主となった。
【写真左】山小屋
 この付近でキャンプを行うようになっていたようだが、現在では小屋も使用されず朽ち果ててきている。






阿瀬尾城(馬醉木城)

 さて、当城は写真にもあるように、現在地元民のためのレクリェーション施設となっており、遺構は殆ど残っていない。所在地を考えると、備中国の北西端部にあたり、備後国と接し、さらには伯耆・出雲両国とも近いため、貞春らは常に緊張した領国経営を強いられていたものと考えられる。
【写真左】南側の段
 小屋の南側に廻ってみると、東西に延びた段が確認できたが、当時のものか、近年のものか判断できない。
【写真左】忠魂碑
 小屋側入口付近に建立されているもので、城跡の碑かと期待したが、先の大戦における地元戦没者を慰霊したもの。




阿瀬尾城の文字

 一通り現地を踏査したが、現地には阿瀬尾城を示すものが全くないため、半ばあきらめかけていたとき、発見したのが次の写真である。

【写真左】合祀者氏名欄の末尾に記された「阿瀬尾城」の文字

 忠魂碑の裏側には戦没者名が列記してあるが、末尾には次のように記されている。

“昭和四十二年十月十二日 大字田渕

     阿瀬尾城址 ◇◇

 新砥 忠魂碑建設委員会◇◇”

 なお、当初阿瀬尾城を「あせおじょう」と呼称していたが、別名馬酔木城、とあるのでツツジ科アセビ属の常緑低木のアセビから命名されたものだろう。従って、阿瀬尾城の呼称は「あせびじょう」としておく。



荒戸神社と荒戸山

 ところで、阿瀬尾城から西北西へ伸びる山道を約1キロほど登っていくと、荒戸神社がある。その真北に聳えるのが荒戸山である。
【写真左】荒戸神社・本殿
 左側斜面は荒戸山の南面に当たる。









現地の説明板

“岡山県指定重要文化財 昭和62年4月3日指定
    荒戸神社本殿

 本殿は室町時代の建築様式を伝える貴重な建造物で、祭神は大錦積命、天照大神、他に16神がある。
 創建は、正中元年(1324)荒戸山山頂に建立されたが、嘉吉2年火災により焼失したため、文安元年(1444)現在地に再建された。

 本殿の特徴として、入母屋造桧皮葺で、向拝を持たない屋根は全国的にも少ない古い形態で、基壇を作らず石敷きとした床下の工法は古式のものである。

 荒戸神社  新見市教育委員会”
【写真左】荒戸神社境内
 向背に見える山が、荒戸山(城)である。









 当社の創建は正中元年(1324)とされている。この時期の備中国を支配していたのは、秋庭氏累代の墓(岡山県高梁市有漢町有漢茶堂)でも紹介したように、「前期秋庭氏」の時代で、おそらく4代・秋庭小三郎、及び5代・三郎重和が創建に関わったものだろう。
【写真左】阿瀬尾城(馬醉木城)と荒戸山(城)を遠望する。
 東方から見たもので、阿瀬尾城は手前に延びる丘陵部があるため見ずらいが、奥の方にある。


 そして、その7年後の元弘元年(1331)から高橋氏や高氏(こうのし)などが代わって支配することになるが、それは、笠置山城(京都府相楽郡笠置町笠置) に拠った後醍醐天皇が捕らわれ、翌元弘2年、隠岐の島へ配流され、高橋氏は、武家方の一員として尊氏及び、高師直などに属して戦った時期でもある。

 また、高橋貞春が居城を阿瀬尾城としていたとき、荒戸山城はおそらく詰の城としての機能を持っていたものと推察される。
【写真左】荒戸山全景

説明板より

“新見市指定天然記念物 昭和41年6月1日指定

 荒戸山

 昔から土地の人々の間では「鍋山」と呼び、標高761.9mで町内一の高さを誇り、地質時代新生代第3紀の初め(約200万年前)に噴出したと考えられている。この火山は、玄武岩から成っており、トロイデ(鐘状火山)といわれる。

 荒戸山中腹には、玄武岩の柱状節理が多くみられる。この柱状節理は、学術的に価値の高いものである。また、山中には推定樹齢150年以上の荒戸神社参道の杉並木や、200年を超えるケヤキ、コナラ、クヌギなどが混成する天然林がある。
  荒戸神社  新見市教育委員会”
【写真左】荒戸山登山口
 この日は登城(登山)する時間もなく向かっていないが、一般の登山・ハイキングコースとして利用されているようだ。
 また、荒戸神社を中心にして東西に広い駐車場が設置されているので、定期的な祭事が行われているのかもしれない。



 その後、当社は嘉吉2年(1442)火災に遭ったという。この火災は単なる失火ではないだろう。当時社は山頂にあり、荒戸山そのものが山城であったので、戦火が交わったとしても不思議でない。それを裏付ける出来事としては、前年の6月24日、赤松満祐が、時の将軍足利義教を暗殺(嘉吉の乱)し、9月この満祐らを追討すべく、主だった西国の諸将が播磨を目指して参陣している。そうした混乱に起因したものだろう。
【写真左】荒戸神社下山途中の道から阿瀬尾城を見る。
 黄色の線で囲んだ箇所が阿瀬尾城になるが、冬以外の時期では樹木に覆われて見えないかもしれない。

 

 そしてこの嘉吉の乱に参陣した西国の武将の中には、石見鷲影城主となっていた頼貞の嫡男・頼之とその子・頼久らがいた。

 次稿ではこの頼之・頼久の動きを追って見たい。

◎関連投稿
 鷲影神社・高橋地頭鼻(島根県益田市元町)

2016年1月31日日曜日

藤掛城・その2(島根県邑智郡邑南町木須田)

藤掛城(ふじかけじょう)・その2


●所在地 島根県邑智郡邑南町木須田
●別名 藤根城
●高さ 354m
●登城日 2015年10月3日、4日

◆解説(参考文献 『佐田町史』、『石見町誌』、「大宅姓高橋氏の時代から毛利氏へ」2015年10月13日、高橋氏660年記念事業 岸田裕之広島大名誉教授講演添付資料等)

高橋興光の墓

 藤掛城の西麓には、享禄2年(1529)5月2日、元就の謀略による高橋氏一族の鷲影城主であった盛光によって自害に追い込まれた藤掛城主・興光の墓が祀られている。
【写真左】高橋興光の墓・その1
 自然石を加工したもので、いつ頃建立されたものかわからないが、架台を含めた高さは2m近い規模のもの。

 


 興光の墓の場所は非常に分かりにくい所にある。これまで、藤掛城の登城も何度か試みるものの、道が分からず断念し、そのあとは興光の墓だけでも探し出そうとしたが、当時現地には案内を示すものなどがまったくないため、これも分からなかった。
 
 今回の「高橋氏660年記念事業」で地元の方々によって、要所に案内標識が設置されたことにより、登城と併せ念願の墓石をみつけることができた。
【写真左】常栄寺付近を見る。
 写真は藤掛城の東麓を示したもので、麓には常栄寺というすでに廃寺となった寺院がある。

 興光の墓はこの寺の裏側に南北に延びる小道があり、その道を南に向かったところにある。
 なお、常栄寺については後段でも触れる。
【写真左】興光墓に向かう
 本堂の北側に向かうと、ご覧の標識が設置されており、イノシシ除けの柵を開けて、そこから南に進む道がある。この道は地元の方の墓地にもつながっている。

 なお、写真の左側に常栄寺の本堂がある。
【写真左】麓から伸びる細い丘陵
 墓石の位置は、常念寺から南へ凡そ200m程度進んだ箇所になるが、丁度この右側が谷になっており、その対岸部を人工的に伸ばしたような丘陵部先端に祀られている。

 墓石の祀られている箇所の先端部からは、急傾斜で出羽川と接しているため、この箇所も対岸を扼す櫓的な機能を持たせた単独の郭だったかもしれない。
【写真左】高橋興光の墓・その2
 石碑には
「藤掛城主 高橋大九郎興光之墓 享禄2年5月2日
と刻まれてている。














常栄寺

 ところで、興光の墓に向かう位置には先ほど紹介した常栄寺がある。常栄寺という寺院は、吉田郡山城・その2でも紹介しているように、毛利元就の長男隆元の菩提寺で、毛利氏の居城・郡山城の一画に建立され、のちに防長移封後、山口に移っている。
【写真左】常栄寺本堂屋根にある家紋
 御存知の「一文字・三星」で、毛利氏の家紋である。




 藤掛城麓の常栄寺もそれに関わる寺院で、天正5年(1577)、郡山城時代の常栄寺にあった一人の僧がこの地に来住し庵を建て、38年後の元和元年(1615)、それまでの禅宗から浄土真宗に改宗し、山号を「郡要山」として布教につとめたという。
【写真左】本堂に設置された山号
「郡要山」の山号が掲げられている。










 なお、興光が自害した経緯は、前稿でも紹介しているが、これとは別に、2009年に投稿した口羽氏・その3 二つの軍原(いくさばら)でも取り上げているのでご覧いただきたい。

藤掛城周辺部

 さて、藤掛城の主だった遺構部は前稿で紹介しているが、当城から谷を隔てた南の尾根も少し紹介しておきたい。
【写真左】藤掛城の南側の尾根を進む。
 この写真でいえば、手前で左側に向かうと藤掛城に繋がる。
●登城日:2014年10月28日




 結論から言えば、いわゆる山城遺構としての明瞭なものは確認できなかった。しかし、この場所からさらに南西部に進むと、室町期高橋氏の一族とされる雪田民部少輔光理が領地していた雪田に繋がっていたので、当城の本丸南側の尾根にある堀切を介して、さらに南側尾根筋にも物見櫓的な遺構があったのかもしれない。
【写真左】長い尾根
 藤掛城のピーク(H:358m)からさらに尾根伝いに南進するとH:452mのピークがあるが、その途中にはまとまった長さの平坦な尾根がある。

 おそらく、こうした箇所は負け戦の際、逃走するためのルートとしても想定されていたのかもしれない。



賀茂神社

 藤掛城の東麓には阿須那の街並みがあるが、ここに賀茂神社が祀られている。現地に設置された説明板には創建時期が書かれていないため、分からないが、おそらく南北朝期と思われる。
 
 『石見誌』によれば、高橋氏が阿須那に入部する前、当地を支配していた出羽氏が建立したものとされている。その後、高橋氏の勢力が急激に拡大していき、藤掛城などの築城に繋がる。
【写真左】賀茂神社
 本殿および境内付近












当社には数種の文化財が残されている。
この中では棟札が3枚あり、それぞれ次のようなものである。

  • 「奉再興賀茂大明神社一宇 天文19年」   天文19年(1550)9月、毛利隆元と口羽通良が当社を再建したときのもの。
  • 「奉建立天神宮御賽殿一宇 弘治4年」  口羽通良が天神宮(天満宮)を建立した際の棟札。
  • 「奉諸願成就 八蓮壹本大宅朝臣 元亀4年」  天正元年(1573)11月、大宅(高橋)氏一統を鎮魂するため八注連神楽を奉納したときの棟札。

【写真左】高橋氏鎮魂の神楽置札(棟札)
 岸田名誉教授の講演会の会場ロビーに設置されていた写真だが、キャプションには、
興光憤死後40数年も経ってから、通良に霊祭を催させた阿須那の人々の心は、今も変わっていない
 と書かれている。

 それだけ当時から阿須那における高橋氏は、領民に慕われていたのだろう。


 口羽通良については、以前紹介したように、藤掛城から出羽川を下った江の川との合流地点にある口羽の琵琶甲城主で、高橋氏が滅んだあと、口羽・阿須那を治めた毛利氏の重鎮で、同氏四家老の一人といわれた信仰心の厚い武将である。

 この他の文化財としては、「板得著色神馬図 二面」があるが、現地の説明板では、永禄12年(1569)に大宅朝臣(高橋)就光が祈願成就のお礼として奉納した、と書かれている。しかし、高橋氏は前稿でも紹介したように享禄2年(1529)に興光を最期として事実上滅んでいるので、一見すると不可解に思える。

 しかし、石見高橋氏の嫡流は興光の自害で消滅しているが、貞光の時期(室町初期)に庶流が一時阿須那に下向し、その後益田氏に仕えているので、永禄12年に奉納したという高橋就光はこの系譜かもしれない。
【写真左】講演中の岸田裕之広島大学名誉教授
 2015年10月3日
 阿須那公民館








高橋氏の系図

 さて、高橋氏を取り上げる際、度々管理人は同氏の系譜・系図をその都度確認してきているが、諸説が多く、未だに不明瞭な点が多い。従って、了得していないものの、数種の史料を元にまとめてみると、同氏後半期の系譜上の流れは、おそらく下記のようなものではなかったかと推察される。

   師光 ⇒ 貞光 ⇒ 朝貞 ⇒ 久光 ⇒ 清光

と続き、この清光には、下記の4人の男子がいた。
  1. 元光
  2. 重光(弘厚) 平時の居城は、田所の本城で、属城としては松尾城(但し石見久喜の松尾城)
  3. 盛光  鷲影城主
  4. 家光
そして、重光(弘厚)の子に、興光と光吉の二人の男子がいた。

 重光(弘厚) → 興光
         → 光吉(幸松丸)

 以上のような繋がりではなかったかと考えられるが、これでもなお不確かな点があり、同氏系図については、まだ検討の余地がある。

 次稿では、興光を急襲した盛光が居城としていた鷲影城に関わる高橋氏の庶流などについて取り上げたい。