2013年12月16日月曜日

上大野城(徳島県阿南市上大野町城山神社)

上大野城(かみおおのじょう)

●所在地 徳島県阿南市上大野町城山
●築城期 永禄8年3月(1565年)
●築城者 仁木伊賀守源高長
●城主 仁木伊賀守源高長
●高さ 143.4m
●遺構 郭等 
●備考 城山神社
●登城日 2013年11月17日

◆解説(参考資料 サイト「うるめしま」等)
 前稿までは主として吉野川流域に所在してきた城砦を取り上げてきたが、今稿は徳島県のもう一つの大河・那賀川沿いに築城された上大野城を取り上げたい。
【写真左】上大野城遠望
 東側から見たもの。











 ところで、吉野川は西隣の高知県を源流とし、徳島県を東西に横断する一級河川だが、那賀川は徳島県域のみを流れる川で、この条件としては、吉野川より長く、その距離は125キロにも及ぶ。
【写真左】本丸付近から那賀川を望む
 上大野城は、那賀川が大きく蛇行を繰り返す場所の東岸に築かれている。






 今でこそ、上大野城付近は河口から約13キロ余り入った中流域になるが、戦国期にはこの辺りまでは紀伊水道が深く食い込み、深江の地勢であったと思われる。

現地の説明板・その1より

“城山神社参拝の拜

 位置 阿南市上大野町大山田62番地
 標高 143.4m(阿南市都市計画地図)

1、城山の由来
 旧大野村誌によると、戦国時代に京都より来た仁木伊賀守源高長という武将が、永禄8年3月(1565年)にこの地に築城、家臣130人を城下(今の城之内地区)に住まわせたが、やがて土佐の長宗我部の軍に攻められ、天正5年(1577)落城焼失したとある。
 以来、この地を城山と呼ぶようになったのである。
【写真左】登城口付近
 登城道は南側と、北側の二か所あるようだが、この日は阿南養護学校側の南側から向かった。

 麓から当城中腹部まで一面にミカン畑が広がり、往来できる道は、車一台分がやっと通れる狭い道がほとんどで、写真にある道は、四駆の軽トラックなら向かうことができるが、普通車には厳しい。このため、麓の空き地に止め、ここから歩いて登る。


2、城山神社
 当社建立の年代は詳らかでないが、手洗鉢・石段・獅子狛等の年号その他から推測して、170年前すでに有名であったようである。
 祭神は、素戔鳴尊である。尊は天照大神の御弟で武勇に勝れ、出雲に降って八岐大蛇を退治された。またその地で櫛稲田姫とご同棲のみぎり詠まれた「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を」の歌は、短歌の起源となっている。
 このように素戔鳴尊は、文武両道に秀でた知勇兼備の神様である。従って尊をお祀りしている当社には武運長久、学業成就を祈願するため参詣する軍人や学者が多いのである。
【写真左】北側ルートとの合流点
 最初のピークで、このあたりにもミカン畑があり、収穫中の農家の人に出会った。
 この位置からさらに簡易舗装された道が続くが、急峻で狭く、徒歩が安全だ。


3、城山の花崗岩質
 城山を形成している花崗岩質の岩盤は、4億2千万年前のもので、地質学上極めて価値の高いものである。昭和42年(1967)に徳島県の天然記念物に指定されている。
 以上の如く当城山には歴史的、宗教的、学術的に貴重なばかりでなく、昔から近郷近在の人々の信仰の支えとして、また大野の象徴として今日に至っている。

    昭和56年(1981)9月記”
【写真左】ミカン畑
 登城道途中に見たもので、幅の狭い畑が何層にも段を構成している。








仁木高長

 説明板にもあるように、築城期は戦国の後期で、しかも築城したのは地元阿波国出身でない人物・仁木氏という。仁木氏は「阿波誌」によれば、足利義廉を始祖とし、義国が仁木姓を名乗ったとある。
【写真左】二の丸付近
 ご覧の通り現在は城山神社が祀られているため、城砦としての遺構は明瞭に残っていないが、おそらくこの境内となった場所が二の丸と思われる。



 足利義廉(あしかがよしかど)、あまり馴染みのない人物である。
 江戸時代末期に編纂されたという『系図纂要』によれば、義廉は室町幕府第11代将軍足利義澄の次男・義維(よしつな)の末裔とされる。

 この流れはのちに、上大野城のある阿南市の平島を本拠として、14代将軍足利義栄(よしひで)を輩出し、後に当地名から平島公方と呼ばれた。(平島館(徳島県阿南市那賀川町古津字居)参照)

 永禄8年(1565)5月、第13代室町幕府将軍・足利義輝は、三好義継(義重・長慶の養嗣子)及び松永久秀らによって切腹させられた。これは三好長慶が亡くなった後、長慶のあとを継いだ三好三人衆と、長慶の臣下であった松永久秀が、義輝を排斥し、新たに義稙の養子であった義維の嫡男・義栄を新将軍として担ぎ、彼らは彼を傀儡とする政権を構築せんとしたからである。

 実際、義栄は3年後の永禄11年(1568)2月8日、三好三人衆の推薦によって朝廷から第14代将軍(征夷大将軍)の宣下を受けるが、このころ、既に彼を担ぎ出した三好三人衆と松永久秀の反目が顕著になり、さらには義栄自身の体調が芳しくなく、上洛しなかった将軍である。
【写真左】二の丸付近から本殿側を見る
 手前の二の丸と思われる削平地からさらに階段があり、手前に鳥居がある。
 この鳥居を潜り階段を上ると、城山神社が祀られている本丸跡にたどり着く。

  
 ところで、義栄が将軍の宣下を受けた2か月後、越前朝倉の一乗谷に匿われていた足利義秋は、4月15日、元服し名を「義昭」と改めた。

 それからほどなくして将軍となったばかりの義栄は、その年の10月ごろ病没した。享年30歳。

 余命いくばくもないという知らせは、すでにこの段階で織田信長の耳にも入っていたのだろう。義栄の死去と相前後し、9月26日、信長は義昭を奉じて上洛、10月18日には、義昭は朝廷から征夷大将軍・第15代将軍の宣下を受けることになった。

 見方によっては、、三好三人衆・松永久秀らが担ぐ義栄と、織田信長らが担ぐ義昭との義輝亡き後の将軍職を巡っての入京争いともいえる。
【写真左】本丸跡・その1
 南北25m×東西10m程度の規模のもので、北側には城山神社の本殿が建立されている。





 ところで、本稿の城主といわれる仁木氏が、この足利義廉を始祖とし、義国が仁木姓を名乗ったとある。

 これとは別に、同姓同名の仁木高長が細川高国の盟友として知られるが、彼が活躍していたのはこれよりだいぶ前のことで、別人と思われる。

 また、同じ仁木氏としては、三好衆とは反目して、足利義昭が還俗する前、一乗院に幽閉され覚慶を名乗っていたころ、甲賀の土豪・和田惟政と協力して、脱出を計画していた仁木長頼がいる。 おそらく、阿波に移住した義国は、元は長頼とは同族であったと思われるが、詳細は不明である。
【写真左】本丸跡・その2
 本殿裏の北端部にはご覧の祠祀られ、それを取り囲むように古木が佇む。






現地の説明板・その2より

“城山の「黄金の伝説」

 大野の城山落城の際、仁木伊賀守の一子高持式部大輔大学は、兵法を学ぶため、上洛していました。その大学に連絡をとり、仁木家の再興をはかろうとした家老紀伊守次郎五郎盛利■先祖は、上州上諏訪城主で秋元和泉平朝臣と言い、1502年阿波の国に罷り越し、現在の小松島市櫛渕に居所を構え名を渕和泉守盛貞と名のっていた。
【写真左】切崖
 本丸の西から北にかけては険しい切崖状の法面となっている。







 落城後櫛渕に身を隠していた盛利は、百姓に変装し夜陰に乗じて櫛渕をたちましたが、無念にも途中で追手に捕えられ斬殺されてしまいました。その時持っていた密書に、軍資金の隠し場所を(が)書いてあったそうですが、捕えた兵士は無学のため読むことができず、持っていた密書が何であるかを知ることができなかったのであります。後日この密書には、

 『朝に夕に日のあたる七原の見ゆるところ
    白い椿の花咲く此のところ、冬雪もつもらず』

 と書いてあったといわれ、これは軍資金のありかを示したものだと云い伝えられています。その後、軍資金は雪の積もらない白い椿の生えている場所だということで、城山中を探した人もあったようですが、いまだに探し当てた人はいないようです。
【写真左】五輪塔
 下山したとき、目にしたもので、南側の中腹部の谷間に建立されている。

 天正5年の長宗我部氏による落城の際、討死した仁木氏の一族もしくは城主・高長のものかもしれない。



 城山付近は、戦中戦後に開墾され、今では城山一帯はみかん畑になっています。その中には冷たい水が渾々と湧き出る場所は出てきたようですが、残念ながら、資金や宝物を隠した場所は見つかっていません。もう少し掘れば出てくるのではないかと、おおくの人々に億万長者の夢と希望を抱かせた城山の黄金の話は、昔から現代にこのように語りつがれているのであります。
 阿南第一中学校中大野学習会”
【写真左】説明板「黄金の伝説」が設置されている箇所の菩薩像
 下山した後、車を切り回しするため向かったところ見つけた箇所で、南無観世音菩薩像が祀られている。

 仁木氏を代々慰霊してきたものと思われる。

2013年12月12日木曜日

中鳥城(徳島県美馬市美馬町中鳥)・その2

中鳥城(なかとりじょう)・その2

●所在地 徳島県美馬市美馬町中鳥
●築城期  元亀元年ごろか
●築城者 浅野但馬守
●城主 浅野但馬守、久米刑馬亮、前田利恒(京本入道)
●形態 平山城(河城)
●遺構 石垣等
●登城日 2013年11月16日

◆解説
 中鳥城を築いたといわれる浅野但馬守のあと、天正年間(1573)に当城に拠ったといわれているのが、久米刑馬亮である。今稿ではこの久米某と川島城を中心にして、この頃の様子を推察してみたい。
【写真左】中鳥城遠望














川島城との関わり

 ところで、中鳥城から吉野川を約28キロほど下った所には、以前紹介した川島城(徳島県吉野川市川島町川島)がある。記録によれば、当城の築城期は元亀3年(1572)頃といわれ、中鳥城が築城された時期とほぼ同じころである。そして、築城したのが三好氏の家臣・川島兵衛之進とされている。
【写真左】川島城模擬天守
 当然ながら戦国期にはこのような近世城郭形式の城郭などはなく、近代に入って建立された建物である。




 ただ、後段でも示すように、築城期はこれより遡り、兵衛之進の祖父・惟重が築いたともされるが、ここでは孫の兵衛之進としておく。兵衛之進は、築城したその年当城において、三好氏一族の内訌により、長治に属し、重臣篠原長房と戦い(川島合戦)、その後、天正7年(1579)阿波国侵攻を図った長宗我部元親の猛攻に遭い、三好一族共々討死したとされる。

 さて、この川島氏(河島氏)であるが、以前にも述べたように、永禄年間を主な時期として、美作(岡山)の上ノ殿城(岡山県久米郡久米南町中籾)の城主であったという。
【写真左】上ノ殿城(うえんとじょう)
 主郭跡には現在「河島神社」が祀られている。






 川島氏が、その後阿波国に移ったのは、元々同氏が阿波小笠原氏の流れを持つことからで、おそらく長宗我部氏による阿波国侵攻に際し、阿波小笠原氏(三好氏など)からの救援を求められたからであろう。
【写真左】川島氏の墓
 社には川島氏と思われる2基の宝篋印塔が祀られている。









久米刑馬亮

 さて、天正年間に中鳥城に拠った久米刑馬亮なる人物だが、彼は当城とは別に当時、中鳥城から吉野川を14キロほど下った北岸の阿波町西林(阿波市)に陣も構えている。

 また西林とは別に北方1.5キロの丘陵地の馬場・日吉付近には、西林城や日吉城なども長宗我部氏と戦った記録が残る。
 このことから、久米氏は主として吉野川を中心とした船戦を担った武将と思われる。
【写真左】中鳥城附近の吉野川
 下流の阿波町西林・川島城方面を見る。









 ところで、この久米という姓だが、前段で紹介した美作の上ノ殿城のあった場所は、久米郡久米町である。おそらく、刑馬亮はこの久米の出身と考えられ、当然ながら川島氏と深い関係があったものと思われる。

2013年12月10日火曜日

中鳥城(徳島県美馬市美馬町中鳥)・その1

中鳥城(なかとりじょう)・その1

●所在地 徳島県美馬市美馬町中鳥
●築城期  元亀元年ごろか
●築城者 浅野但馬守
●城主 浅野但馬守、久米刑馬亮、前田利恒(京本入道)
●形態 平山城(河城)
●遺構 石垣等
●登城日 2013年11月16日

◆解説
 中鳥城は吉野川の川中に築城された珍しい城砦で、形態としては学術名にはないが、河城ともいうべき遺構である。

 所在地は、以前取り上げた同市内にある阿波・重清城から南方へ1キロほど向かった吉野川の川中にある。
 現在は下段に示すように、度重なる洪水のため、昭和63年から64年にかけて島内に住んでいた28戸が県内外へ移住、その後平成2年から築堤工事等が始まり、約20年間の工期をかけて完成した。
【写真左】中鳥城遠望
 吉野川北岸の「四国三郎の郷」側から見たもの。
 右が上流で、左が下流になる。





【写真左】周辺地図
 この辺りは「水辺の楽校・ふるさとハイキングマップ」といわれる箇所で、中鳥城跡(伊射奈美神社跡)が右下に表示されている(詳細は下段の図参照)
【写真左】中鳥城位置図
 伊射奈美神社の東側にあったとされるので、図示しておく。
【写真左】昭和48年頃の航空写真
 東西に長く両端部が尖った豆状の島であり、45haの面積を持っていたといわれるので、現在の東京ドームの10倍近い面積だったということになる。



現地の説明板より・その1

“記念碑
 日本一社 延喜式内社 伊射奈美神社

 鎮座地 徳島県美馬市美馬町中鳥589番地
 御祭神 伊邪那美尊 速玉之男神 事解男命
 合祀 天照大神 素戔嗚尊 大山祇神 猿田彦大神
 神紋 十六菊紋

由緒
 神社の創祀は不詳。神話時代の創建とされる淡路、伊沙奈美神社と同時期と考えられ、伊邪那美神社を建てられ、阿波の神々の中で最も格式の高いのは、貞観11年(869)阿波国伊射奈美神社正五位の神階を賜う。伊邪那美尊を単独神として祀る全国唯一の神社として、延喜式神名帳に登載される最も格式の高い古社。
【写真左】移築された伊射奈美神社
 吉野川北岸の築堤から少し降りた場所に建立されている。







 阿波の美馬郡は古くから田畑の豊穣を祈願、古代の水の神として穀霊、穀神信仰、母神崇拝の稲作にゆかりの霊格の中心地。

 渡来人の法道仙人が伊宇摩山仏母寺を中鳥に建立開基。奈良時代、神社に付属の寺を聖武天皇勅令により忌部神宮寺と寺号を改め、文治3年(1186)神社再建され社殿戸扉に、神代自古御鎮座、伊射奈美尊神社と記す。
 本殿箱棟に神紋十六菊御紋あり、古昔最も盛大なる神詞にして美馬、三好の総鎮守として伝える。
【写真左】初代城主・浅野但馬守の墓・その1




 本殿裏の境内に建立されているもので、左石柱の側面には、

 二代久米刑馬 没 石井
 三代前田利恒

と刻銘されている。


 戦国動乱の時代、天文年間(1532)三好長慶の祈願所として綾地の御先幟を献納。

 元和3年(1617)蜂須賀候祈願の為黒昔幟、甲冑二領奉納、家老稲田稙元祈願の為長刀を奉納。

 室町時代の後期、中鳥城主に、元亀元年(1570)浅野但馬守、安土桃山時代天正年間(1573)久米刑馬亮拠る。後に前田京本入道が城主。神社再興の正徳3年(1713)享保16年(1731)棟札保存。
【写真左】初代城主・浅野但馬守の墓・その2
 後ろから見たもの。
 中鳥城が中鳥島にあった当時はこのほかにもこうした五輪塔などがあったのかもしれない。



 戦国から江戸時代、天文(1532)から明歴(1655)年間に、中鳥村三百有余の人家があったとされ、享保11年(1726)大洪水え吉野川南岸から切り離され、川中島となる。明治5年9月官制による神社分類で伊射奈美神社は村社に任ぜられ、明治8年神社建替え戸扉に神代自古御鎮座、式内村社伊射奈美神社とあり、社殿に保存。

 昭和9年6月1日中鳥は半田町から分離、重清村へ合併。昭和61年(1986)建設省が吉野川洪水時の浸水被害を防ぐため、西村中鳥堤防工事で用地買収、63年に28戸移転。神社は平成4年10月7日現在地に拝殿。神殿を新築落成し御鎮座。

    平成19年4月吉日 移転記念碑建立。”
【写真左】附近の史跡マップ
 地元重清西小学校の作成とある。









現地の説明板より・その2

 “中鳥島について

 中鳥島は、1726年(享保11年)の大洪水で南岸から切り離された吉野川河口から約58km上流に位置した面積45ヘクタールの川中島である。昭和9年6月1日に旧半田町から旧重清村に編入された。編入当時の戸数は43戸、人口225人であった。

西村・中鳥地区築堤について
 吉野川の築堤工事が実施されるにあたり、昭和57年に全島買収による住民移転の同意がなされ、昭和63年から64年にかけて島内に残っていた28戸が県内外へと移住し、平成2年12月に高瀬谷川の護岸工事が開始され、平成18年3月に中鳥川樋門が完成している。事業延長は3370m(高瀬谷川合流点~中野谷川合流点)、総事業費は約100億円、事業期間は昭和61年から平成18年3月までの20年間である。
【写真左】中鳥川公園
 左側に吉野川・中鳥島があり、右側には中鳥川がある。
 地元民の散歩・ジョギングコースのようだ。






伊射奈美神社・中鳥城跡・中鳥学校跡について
 伊射奈美神社は築堤による全島買収により平成4年10月7日に現在の場所に拝殿、神殿を新築落成している。この際に中鳥城主の墓も現在の伊射奈美神社に移築されている。

 神社の東側にはかつて吉野川の氾濫になやまされた中鳥住民の避難場所となっていた中鳥城本丸跡、島民が生活用水として利用した池が現在も残っている。また、旧中鳥神社境内地南側には、半田尋常高等小学校中鳥分教所があり、重清村への編入に際し、児童は重清村立重清西尋常高等小学校に編入していることを示す資料も残されている。

天文年間から明暦年間まで中鳥村
明歴年間より半田村に合併

1、明治14年 寺子屋式教授 17年間閉鎖
1、明治15年 半田校中鳥尋常小学校建築
1、昭和6年4月1日 廃止し、分教場として3年以下生徒
1、昭和10年 重清西尋常小学校に編入


注意
 堤外地の竹林の南側の親水階段を利用すると川原を通って中鳥島を訪ねることができます。
島を訪ねる際には、急な増水などに十分ご注意ください。”



伊射奈美神社

 上掲した説明板から推察すると、中鳥島に当社が祀られたのは相当古い時期のようである。

 貞観11年(869)阿波国伊射奈美神社正五位の神階を賜う

 とある。
【写真左】伊射奈美神社
 堤防側から見たもの。
 ここから右に少し向かったところには、「中鳥渡し跡」があった。





 この頃の日本の出来事としては、貞観3年に東大寺の大仏修理の供養がなされ、翌4年5月に、海賊が横行したため、山陽・南海二道諸国に海賊追補が命ぜられ、当年(貞観11年)12月には、新羅の海賊に備えて、諸国の俘囚を大宰府に配置したりしている。

 また、管理人の住む出雲国附近では、この動きが特に顕著であったらしく、隠岐国浪人の安曇福雄が、前隠岐守・越智宿祢貞厚と新羅人が共に叛逆を謀ったと誣告(ぶこく)した罪で、遠流に処せられる(「三実」)、という記録も見える。

【写真左】熊野本宮大社の旧社地大斎原
 所在地 和歌山県田辺市本宮町本宮


 ところで、伊射奈美神社のように、川の中にあった島に祀られた社として有名なのは、和歌山県の熊野本宮大社の旧社地大斎原だが、当社もそうした川の中に建立するという共通した意味づけがあったのだろう。




築城期

 中鳥城が築城されたのは、初代城主として元亀元年(1570)浅野但馬守の記録があるので、恐らくこの頃だろう。その後、安土桃山時代天正年間(1573)久米刑馬亮拠ると記されている。
【写真左】北岸から中鳥城を見る。
 この日は前日まで続いた長雨のため、渡河できず、渡ることは出来なかった。

 中鳥城が伊射奈美神社の東にあったというから、場合によっては神社の石垣かもしれない。



 ただ、これより先の天文年間(1532)に、三好長慶が祈願所として綾地の御先幟を献納したとあるので、既に砦もしくは番所的なものがあった可能性もある。

 さて、この中で、浅野但馬守なる人物が元亀年間当城主であったとされているが、この人物については詳細は不明である。ただ、このころ長慶の跡を引き継いだ三好三人衆(三好長逸・政康、岩成友通)らが、畿内統一を図り始め、母国阿波では篠原長房が背後を固めている時期である。

【写真左】伊射奈美神社から重清城方面を見る。
 重清城と中鳥城の距離は約1キロ程度であることから、長宗我部氏による阿波侵攻の際、重清城の南方(川沿い)を守備する役目を当城が担ったかもしれない。



 そして元亀元年(1570)6月、織田信長・徳川家康らが、近江姉川畔で浅井長政・朝倉景健を破ると(姉川古戦場跡)、9月には、三好三人衆が本願寺顕如に味方し、本願寺門徒らも引き込んで信長の陣営を襲った(石山合戦の始まり)。

 こうした畿内の動きをみると、おそらく浅野但馬守は三好三人衆もしくは、当時味方であった篠原長房をはじめとする三好一族らと阿波を守備していたのかもしれない。
 そして、その後長宗我部氏による阿波侵攻において、当城に拠った武将が久米刑馬亮だったのだろう。

 ところで、この久米刑馬亮については、次稿で少し触れておきたい。

2013年12月8日日曜日

芝生城(徳島県三好市三野町芝生)

芝生城(しぼうじょう)

●所在地 徳島県三好市三野町芝生
●築城年 室町期
●築城者 小笠原義長
●形態 平山城(城館)
●遺構 ほとんど消滅
●登城日 2013年11月16日

◆解説
 芝生城は、平成の大合併で三好市となった旧三野町に所在する城館である。

 ところで、山城探訪をする際、できるだけ最新の地図を見ながら場所の確認をしておくが、この三野町だけは、西方の区域にある三好市から離れた飛び地となっており、珍しい配置となっている。因みに間に介在する自治体は、東みよし町で、どちらも「みよし」という地名を持つ。

 当地に限らず今般の自治体の合併についてはいろいろ紆余曲折があったが、管理人にとってもっとも杞憂するのは、新市町名によって旧地名(自治体名)などが消滅してほしくないことだ。地名は歴史を物語るキーワードであり、それ自体が長い地元の歴史を伝えているからである。
【写真左】芝生城跡
 中央の看板が芝生城の説明板である。
 










現地の説明板より

“芝生城址

    戦国大名「三好長慶一族」の本拠地

 寛正年間(1465年ごろ)小笠原家11代義長は、池田の大西城を廃し芝生城を築き、姓を三好と改めここを居城とし、三好氏の家祖となったという。以後、2代長之、3代之長、4代長秀、5代元長、6代長慶(ながよし)まで、芝生城は三好氏の本拠ととなった。

 三好長慶は、大永2年(1522)2月13日、芝生城において産声を挙げた。長慶を身籠った母は、吉野川の清流で水ごりをとり、「天晴れ、英雄英傑を生ませ給え」と念じたという。
【写真左】説明板
 かなり大きなもので、道路脇に設置されている。










 天文元年(1532)堺から帰国していた長慶は、父の戦死後奮起し、翌年12歳を以て芝生城を出陣、勝瑞城(藍住町)を経て、再び畿内に進出した。折しも抗争中の管領細川晴元と、一向宗本願寺光教の和議を調停するなど、軍功を挙げながら一進一退を重ねたが、天文19年(1550)ついに京の都を制覇し、最高実力者の座を手中に収めるに至った。

 一方、乱世の教養人としての長慶は、茶道や連歌の分野にも長じ、凡そ権謀術数には縁遠い側面も持ち合わせていたのである。
 京畿一円と、中・四国の9か国を支配する天下人にまで出世した長慶だが、永禄7年(1564)7月4日、不運にも河内国飯盛山城で病死、享年43歳だった。
【写真左】イメージ図
 ご覧のように、屋敷跡だったようだが、防御的なものは、西側の谷を濠とし、周辺部にも空堀を巡らしていたと思われる。









 その後、天正年間(1575ごろ)に勝瑞城主三好長治滞城の伝承もあり、正確な芝生城廃城の時期は不詳だが、少なくとも長慶病没までの凡そ100年間芝生城は三好一族の拠城であったとおもわれる。

 城下は芝生上の河岸段丘全域に広がる約100町歩(ヘクタール)に及び、周辺を断崖と空堀に囲まれた城跡のここ殿屋敷は、凡そ2町歩を擁する要害、景観の地でもある。

 城址は、江戸時代後期の文化文政(1802~27)に至って開削導水された「三村用水」の恩恵に浴して以来、農民が待ち望んだ黄金の稲穂が波打つ田園地帯に変貌した。いまは「兵ものどもが夢のあと」往時のよすがさえ伺い知ることは出来ないが、三好一族の繁栄と活躍の一時期に思いをはせ、壮大な歴史ロマンの夢を描いてみましょう。

    平成11年(1999年)10月吉日
    三野町・三野町文化財保護審議会”
【写真左】芝生城周辺部・その1
 周囲は現在田圃や団地などが点在し、のどかな風景を創りだしている。










三好長慶

 長慶については、勝瑞館(徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地)ですでに述べているので、割愛させていただく。

 なお、上掲の説明板には、
 「小笠原家11代義長は、池田の大西城を廃し芝生城を築き、姓を三好と改め…」
 と記されているが、これまでも述べたように、三好姓とした時期は明確でないと思われる。
【写真左】芝生城周辺部・その2
 芝生城跡は北側の讃岐山脈から南に延びる舌状丘陵の先端部に当たり、その東端部や、西側の奥にそれぞれ溜池がある。

 当時はこれらも要害のための壕の役目をしていたものと考えられる。


◎関連投稿
芥川山城(大阪府高槻市大字原)
河内・飯盛山城(大阪府四条畷市南野・大東市)

2013年12月7日土曜日

白地・大西城・その2(徳島県三好市池田町白地)

白地・大西城(はくち・おおにしじょう)その2

●所在地 徳島県三好市池田町白地
●登城日 2013年11月16日

◆解説
 前稿に引き続いて白地城を中心として取り上げる。
【写真左】白地城址から北東に吉野川などを俯瞰する。
 白地城の北方で吉野川は大きく東に向きを変え、東進する。





南北朝期から戦国期

 前稿でも述べたように、南北朝期に至ると、近藤氏(大西氏)は小笠原氏と与同し、南朝方として北朝方と戦った。当地における主だった武将としては、南朝方の脇屋義助を大将として、小笠原義盛やその子といわれる頼清らが、他方北朝方は大将として、細川和氏が派遣された。

 南朝方の小笠原義盛らは大西氏(近藤氏)らと粘り強く戦うが、その後義盛は細川氏と和議を結んだ。しかし、頼清は途中から四国に入った脇屋義助と呼応し、田尾城や八石城を拠城として戦った。この時期には白地城があまり記録に見えないが、当城がこのころ重要な拠点となったことは明らかである。

 なお、田尾城の項でも述べたように、この戦いの中で次第に南朝方にとって、利あらずと見た小笠原義盛は細川氏と和議を結んだ。これに対し、頼清が、細川氏と手を結んだ父に従わず、あくまでも南朝方とし戦っていくことになる。

 このことが、のちに小笠原氏が吉野川東部(下流部)へ移っていくきっかけともなり、その際、姓も三好氏と改姓したといわれているが、諸説紛々あり、このあたりははっきりしない。
 また、父と袂を分けた頼清は、その後大西姓を名乗り、以後戦国時代まで続いたといわれているが、この辺りも伝承に基づくものが多く、何とも言えない。

 ただ、戦国期の段階で、下段にも示すように大西氏は覚養という白地城を拠点として阿波・讃岐・伊予の境目を治めていた武将が出ているので(田尾城参照)、南北朝期から数えれば200年以上同氏の支配が当地にあったことを示す。

長宗我部氏の侵攻

 戦国期に至ると、土佐の雄・長宗我部氏による阿讃進出が始まる。白地城に進攻してきた時期は、天正4年(1576)ごろとされ、当時の城主・大西覚養を味方に引き込み、覚養の養子であった上野介を人質とした。
【写真左】八幡神社・その1
 白地城跡を北に進むと、伊予方面から流れて吉野川に合流する馬路川があるが、その手前の切り立った場所に当社が祀られている。

 縁起は不明だが、長宗我部氏が四国統一の祈願をした場所でもあったのだろう。
 下段の写真にもあるように、参道は急傾斜で切崖形態に近い。

 南側が二の丸だったといわれているので、この場所も馬路川を壕として活用し、この場所を出城的な要塞としたのではないだろうか。


 白地城の位置は、北に讃岐、東に阿波、西に伊予と分岐する位置である。地どりとしては理想的な場所になる。

 翌天正5年3月、事実上の阿波国の盟主といわれた三好長治が、主君であった細川真之(さねゆき)仁宇城(徳島県那賀郡那賀町仁宇)参照)を那賀の茨ヶ岡城に攻めたが、逆に真之を支援した地元国人領主一宮成祐(一宮城跡参照)や、伊沢頼俊らによって破れ自害、当時勝瑞城を本拠としていた三好一族はこれを機に、動揺と混乱が走った。
【写真左】八幡神社・その2
 参道の階段だが、ご覧の通り足を踏み外すと転げ落ちそうだ。






 このため、それを立て直すべく、長治の実弟で、讃岐十河氏に養嗣子として入っていた十河存保(まさやす:三好政康)(十河城参照)が急遽勝瑞城に入って三好一族の鎮静化を図った。やがて三好一族の勢威が回復すると、大西覚養は、長宗我部氏から離反し、再び存保(三好氏)に与同した。

 このため、元親は人質であった上野介を大将とし、阿波に出兵し覚養を讃岐に奔らせた。この後長宗我部軍は本格的に吉野川沿いを東に進み、天正7年には重清城を落とし、更に岩倉城も攻略していくことになる。

【写真左】八幡寺
 八幡神社の北隣にあって、この箇所がもっとも北端部に当たる。
 境内の北から吉野川俯瞰すれば、まさしく物見櫓があっただろうと思われる。




石見白地城と九条家の関わり

 ところで、前稿で当地白地が西園寺家の荘園であったことを述べた。そこで、再び鎌倉・南北朝期に遡る話になるが、以前にものべた石見小笠原氏が阿波国から下向した経緯とは別に、西園寺家と深いかかわりのあった九条家の荘園が、石見国に鎌倉期までにあったという説も付記しておきたい。

川本町誌「歴史編」より

“ …三原楞厳寺文書によると、四か村(三原、田窪、北佐木、南佐木あるいは三原、田窪、崎、白地)に分かれていたが、都の貴族九条家の荘園として鎌倉期まで大家庄三原郷と呼ばれていたのではないかと云われています。…”

 お気づきのように、この中には「白地」という地名があり、ここでは「しらじ」と呼称する。また、築城年代ははっきりしないものの、石見小笠原氏の出城として標高340mの「白地城」(島根県邑智郡川本町南佐木 白地)という城砦も残る。

 このように、石見の白地という地区も、阿波国における九条家や西園寺家などが深くかかわり、その基礎の上に小笠原氏が介在していたのではないだろうか。

2013年12月2日月曜日

白地・大西城・その1(徳島県三好市池田町白地)

白地・大西城(はくち・おおにしじょう)その1

●所在地 徳島県三好市池田町白地
●築城期 平安末期~鎌倉時代初期
●築城者 近藤京帝(大西氏)
●城主 近藤(大西氏)、長宗我部氏
●高さ 標高100~150m
●遺構 ほとんど消滅
●登城日 2013年11月16日

◆解説
 今稿の白地・大西城については前稿でも述べたように、池田・大西城を居城としていた小笠原氏が吉野川下流部の方へ移住していくと、白地・大西城(以下「白地城」とする)の城主大西氏が池田・大西城を支配していったといわれている。
【写真左】白地城跡
 旧「かんぽの宿」があったところで、現在「あわの抄」という温泉施設に代わっている。

 この付近が白地城の主郭など主要な場所があった所といわれているが、ご覧の通り全く改変され、遺構らしきものも見いだせない。
 南側から見たもので、建物奥に見える山は吉野川対岸の讃岐山脈。



 現地の説明板・その1

“白地大西城址

 白地大西城は田井庄(四国中央部)の庄司近藤氏が建武2年(1335)この地に城を構え、郷名をとって大西と改姓し、政を取って以来8代(250年)にわたる居城である。大西とは阿波の最西地を意味し、往時この地は土佐、讃岐、伊予の各地に通ずる兵事交通の要路であり、大西氏は外に出ては大剛、内にあっては民治に意を用いた領主であった。

 天正3年(1575)長宗我部元親は阿波侵略を開始し、南方の海部氏が最初に領土を奪れ、天正5年(1577)には大西氏も防戦かいなくその所領を侵され、城主大西覚養は身を以て讃岐麻城に難を避けた。
 元親は白地城に入りこれを改修して根拠地とし四国統一の志をなしとげた。その後元親は天正13年(1585)豊臣秀吉の四国遠征軍との戦いに破れ、土佐に退いた。

 以来、大西城は廃城となったが、最近に至るまで旧城の最高地の削平地から堀、武者ばしり等が残存し、往時を偲ぶことができた。”
【写真左】説明板・その1
 あわの抄敷地内に建っている。










 上掲した説明板は、白地城の主郭付近といわれた跡に建っている旧かんぽの宿(現あわの抄)の敷地に設置されたものだが、これとは別に白地公民館脇に設置された当地の歴史を概説した説明板もあったので、紹介しておきたい。
【写真左】白地公民館付近
 「あわの抄」(主郭付近)から少し下がった北東部にあって、この付近から標高が高くなっている。
 この辺りは二の丸的な役目を持った郭群だったと思われる。



現地の説明板・その2

“白地の沿革
 
 中世に白地は西園寺の荘園田井之庄の館として荘官近藤京帝(1150年頃)がこの地に居を構え城を築いたのが白地城のはじまりである。近藤氏は大西氏に改姓、白地落城までの約400余年郡内はおろか、西讃東予に力をのばし善政をしき禄高2~5万石の城主として住民の信頼を得てきた。

 長宗我部元親の侵攻(1577)後彼も白地城を修築しここを根城として8年間四国全土に号令した。
 近世に入り蜂須賀入国と同時に白地渡船番所を置き、国境警備に当たった。この番所についたのは池田士で月番勤務した。

 一方白地の磯は川船の港として一応の終点として繁栄し、川岸に巨大な常夜屋が建設されていた。近代に入り平田船が総計35、六艘就業し80戸の生計を養い、陸路は馬路川沿いに荷車が讃岐へ伊予へ、また川沿いには川口へと物資を運んだ。
【写真左】説明板・その2
 白地公民館の隅の方に掲示されている。







 また明治時代吉野川上流から伐りだされた木材を白地渡しの上で筏に組み込まれ、これを徳島方面へ運搬した。大正から昭和初期にかけて白地木材労働組合が結成されて、白地は木材輸送の根拠地でもあった。また大正3年岡田式渡船が導入されて往来は隆盛を極め、渡し沿いの下道には54、5軒の旅館が軒を並べて繁栄した。それが三好橋開通(昭和2年)川池バス開通(昭和9年)土讃線開通(昭和10年)と共に往時の活況は夢とついえさり、戦後昭和50年池田ダムの完成により白地渡しは湖底に沈んだ。

 しかし、昭和42年阿波池田簡易保険保養センター建設、昭和47年池田第一中学校校舎建設、昭和51年池田大橋の完成により活気を呈しつつある。
   (昭和59年・3)”
【写真左】白地公民館・小学校付近
 写真の右側の高くなった辺りが「あわの抄」(主郭)付近になる。







 ご覧の通り、上掲した二つの説明板を比較すると、白地城の築城期については合致していない。
 
 結論から言えば、下段の説明板・その2が示すように、また、麻口城(香川県三豊市高瀬町下麻)田尾城(徳島県三好市山城町岩戸)でも述べたように、近藤氏が築城、若しくは館を構えたのは平安末期すなわち、久安年間末期(1150年頃)と思われる。ちょうど保元の乱(崇徳天皇 白峯陵(香川県坂出市青海町)参照)が始まる頃である。、

九条家と西園寺家

 白地地域は鎌倉前期には、田井之庄の荘園があったところとされ、その領有者は西園寺氏とされている。当地が同氏の所領として確立したのはおそらく、西園寺氏中興の祖といわれた公経(きんつね)の時と考えられる。そして、同氏とさらに深い関係を持っていたのが、摂関の九条家である。
 
 九条家は、平家滅亡後も積極的に鎌倉幕府と関係を持ち、朝廷との橋渡し役を行っている。このことは朝廷内でもっとも発言力を高めていった。しかし、土御門天皇火葬塚(徳島県鳴門市大麻町池谷)でも述べたように、承久の乱が起こる前、後鳥羽上皇は当時もっとも幕府寄りといわれた九条兼実を建久7年(1196)関白・氏長者の地位をはく奪、九条家一族を排斥した。そして九条家の代わりにライバルであった近衛家の基通が関白となり、源通親が朝廷の実権を握ることになる(建久7年の政変)。

 こうした動きの後、承久の乱がおこるが、乱後一時的ではあるが摂関政治が復活する。この中心人物が、建久7年の政変で失脚した兼実の孫・道家である。道家は承久の乱において倒幕方には与していなかったが、摂政を罷免されるものの、北条政子が亡くなった後、岳父であった西園寺公経の援助もあって、関白に任命される。しかし、四条天皇の急逝によって、幕府側が推す後嵯峨天皇が決まると、道家は外戚の力を失うことになる。これに代わって力を強めたのが岳父西園寺公経である。
【写真左】「あわの抄」から西側を見る。
 整地されているため、判断がつかないが、西側の山までの東西幅は想像以上に長い。





 公経は乱後の貞応元年(1222)に太政大臣、翌2年には従一位に昇進、関東申次に着任するなど、幕府と朝廷の橋渡しを行った。さらに、孫娘を後嵯峨天皇の中宮へ入れ、これがのちに持明院統が幕府と深い関係を持つきっかけとなる。

 そしてさらには朝廷人事を意のままに操り、次第に周囲から怨嗟の声が上がるようになる。貴族から武者の支配となりつつあった時代である。公卿として生き残るための保身術は、公経にとって徹底した打算と我欲がなければならなかったのであろう。同時代を生きた公卿・平経高は、彼を評して「世の奸臣」と記した(「平戸記」)。
【写真左】歌碑
 この歌碑は中世の史跡とは直接関係ないが、先の大戦中に作曲されたもののようだ。
「梅と兵隊」というタイトルが刻まれている。





大西(近藤)氏と小笠原氏

 前置きが大分長くなったが、今稿の白地は、こうした流れを持った西園寺氏の荘園である。田井之庄の荘官・近藤氏も当然ながら西園寺氏から派遣された人物だったのだろう。

 ところで、この近藤氏がその後、姓を大西氏と改姓しているが、大西という名称は、南北朝時代に至って、阿波国三好郡の西部を総称して呼ばれたという。このことから、姓を大西氏と改姓したのは南北朝期と思われる。
【写真左】白地城北端部から東方を見る。
 次稿で紹介する予定の八幡神社・八幡寺附近から見たもので、R32 号線とR192号線を結ぶ池田大橋や、左奥には徳島自動車道の「へそっ湖大橋」が見える。



 ここで再び話は遡って恐縮だが、承久の乱以前に当地の守護職として任命されていたのは佐々木経高である。

 経高の兄・定綱が、近江・石見・長門の守護職並びに隠岐国地頭職を得たのは建久4年(1193)の暮れであるから、おそらく経高が阿波国守護職を得たのもこの頃だろう。

 承久の乱においては、宇多源氏佐々木氏流でありながら、幕府側につかず、後鳥羽上皇側に属した。このため、上皇側の敗北によって、自害の道を選んだ。
 佐々木氏が阿波国の守護職としてあったとき、近藤氏がどのような状況になっていたかわからないが、おそらく一時的には佐々木氏の元に属していたのだろう。

 乱後、幕府は佐々木氏に代わって、小笠原長清を阿波国守護職として任命することになる。ただ、前記したように、阿波国の中でも白地地域は既に承久の乱において西園寺氏は幕府方についていたため、当地を預かっていた近藤氏は、そのまま当地支配を維持し、吉野川の対岸池田大西を守護所(池田・大西城)として本拠を持つことになった新守護職・小笠原氏の傘下となったと思われる。

 当然ながら小笠原氏が入部するさい、近藤氏の協力が働いたことは想像に難くない。両氏はその後縁戚関係も度々重ね、100年後の南北朝動乱期においても四国南朝方の主力として活躍していくことになる。

 今稿はここまでとし、次稿では戦国期に至るまでの様子を概観したい。

2013年11月28日木曜日

池田・大西城(徳島県三好市池田町上野)

池田・大西城(いけだ・おおにしじょう)

●所在地 徳島県三好市池田町上野
●築城期 承久の乱(1221年)後
●築城者 小笠原長清・長経
●廃城 寛永15年(1638)
●遺構 石垣
●備考 阿波九城の一つ
●指定 池田大西城城郭並木《天然記念物》
●高さ 標高およそ130m
●規模 およそ東西300~400m×南北200m
●登城日 2013年11月16日

◆解説
 今稿は再び阿波小笠原氏関連の史跡として、三好市池田町にある大西城を取り上げる。

 現在池田・大西城跡には甲子園で有名になった県立池田高校や、中学校、幼稚園、そして小学校などが建ち並び、ほとんど当時の遺構は消滅しているが、唯一江戸初期まであった当城の石垣が残る。
【写真左】池田・大西城の石垣
 幼稚園の建物の一角に残るもので、おそらく蜂須賀氏時代のものだろう。

 現在の石垣は幼稚園の建築施工時に解体され、その後積まれたものだろう。



現地の説明板より・その1

“三好市指定文化財《天然記念物》

 池田大西城城郭並木
     昭和46年11月15日指定

 池田大西城城郭並木は、池田町のウエノの上野台地にあり、御嶽神社から池田小学校体育館前にかけての約70メートルの間の道路南側にある。
 ムク、エノキ、カシ等の大木が立派な並木を形成しており、城の名残を留め、昔を偲ばせるものである。樹齢については定かではないが、阿波九城の頃に植えられたものと考えられ、約400年前と推定されている。
【写真左】城郭並木
 道路を挟んで左側に池田高校・中学校・小学校などが並ぶ。
 学校のさらに左(北側)は傾斜となって国道32号線が吉野川に沿って走る。
 写真の右側はかなり深い谷を形成し、池田の街並みが広がる。


 池田大西城(池田城のこと)は、承久の乱の後、阿波の守護となった小笠原氏によって承久3年(1221)に築かれたものである。
 小笠原氏が勝瑞(現在の板野郡藍住町)に移ってからは、白地大西氏の支配下にあり、蜂須賀氏の入国後、秀吉から阿波一国を与えられた蜂須賀氏が藩政時代に阿波九城の一つとして修築を行った。
 現在もこの付近に昔、城があったことを証拠づける城の石垣の一部が当時のまま残されている。

 約400年間にわたって、池田大西城と共に阿波の都として栄えた池田の歴史を今に伝える貴重な城郭並木として、昭和46年11月に文化財指定された。

      三好市教育委員会”
【写真左】池田・大西城(ウエノ丘陵)の南側
 ご覧のように天険の切崖状となってる。
 この直下付近が「池田断層」で、当時は湿地帯であった部分を濠として普請したものと思われる。



現地の説明板より・その2

“池田大西城跡

 池田大西城は承久3年(1221)阿波の守護として信濃の深志(現在の長野県)から来た小笠原長清によって築かれ、400年に余って繁栄したが、寛永15年(1638)江戸幕府の一国一城制により廃城になった。

 この石垣の積み方は野づら積みといわれるもので、昭和54年幼稚園改築の際、北側に埋蔵して保存し、東側はコンクリートの下から一部観察できるようにしている。
      池田町教育委員会”



池田断層(四国中央構造線)

 ところで、山城の話題からそれるが、吉野川が高知県側から北上し、この池田付近で大きく東に曲がる個所から東西に延びるラインは、活断層の一つである「池田断層」とほぼ重なる。
【写真左】池田断層・その1
 東端部から東方を見たもので、手前が池田・大西城の東端部で現在諏訪神社があるところ。
 池田断層はこの位置から概ね吉野川北岸を並行して東に延びる。


 そして、国土地理院の地図でこの付近の活断層図を見てみると、当城のある池田ウエノの丘陵地、すなわち、西端の丸山公園(H:206m)から、東端部の諏訪神社までの南斜面(東西約1.5キロ)は、この池田断層と重なり、深い谷を形成していた。

 また、反対側の北岸は、北を流れる吉野川の浸食作用によって、同じく抉り取られた地勢となっている。

 このため、現在のような池田町市街地の景観とは少し趣が異なり、承久年間のころ築かれたころの池田城は、南北とも切り立った天険の要害をなし、南西麓の池田総合体育館付近(丸山神社南)から細長い扇状地をつくり出し、吉野川へと向かっていたものと考えられる。
【写真左】池田断層・その2
 池田・大西城から南側の池田の街並みをみたもので、おそらく左側にみえる橋の下あたりが四国中央構造線(池田断層)と思われる。



 このため、その場所はおそらく船溜まりとして、あるいは上流部から運んできた材木の集積地としての役目がその当時からあったものと推察される。


 ちなみに管理人の知る限り、こうした活断層帯直下に築かれた山城としては、当城以外では以前紹介した長野県の高遠城(たかとおじょう)跡・長野県上伊那郡高遠町東高遠がある。



小笠原長清・長経

 現地の説明板では、池田・大西城を築城したのは小笠原長清といわれている。阿波小笠原氏の始祖でもあった長清については、これまで阿波・重清城(徳島県美馬市美馬町字城)・その1で既に述べたとおりである。
【写真左】池田・大西城遠望
 東側から見たもので、国道32号線の中央トンネルが、当城の東端部から掘削されている。
 トンネルの上は、現在諏訪神社が祀られている。




 ただ、築城者としては長清の名が公式な記録としてあったとはいえ、長期にわたってこの池田・大西城に在城していたかどうかは不明である。

 むしろ、長清の嫡男・長経が貞応2年(1223)父の跡を継いで阿波守護となっているので、当城が築城されたのはほとんど長経の手によるものだろう。
【写真左】諏訪神社・その1
 阿波小笠原氏が当地に下向する前にいた信濃小笠原氏の本拠地は、深志という所であったとされる。

 現在の松本市内に当たるが、当然当社は地元信濃の諏訪神社から勧請されたものだろう。

 
 ところで、長清の生誕年は諸説あるものの、応保2年(1162)とされている。したがって、長経に阿波守護として家督を譲ったころ(貞応2年)は、61歳前後で当時としては長寿であるが、さらに20年近くも生き、仁治3年(1242)、すなわち80歳まで生き続けている。晩年はどうやら京にあったらしく、この年(仁治3年)東山の館で没した。

 その後、長経があとを継ぐが、長経に嗣子が居なかったのか、宝治元年(1247)に亡くなると、弟の長房が跡を継ぎ、建治2年(1276)まで活躍することになる。

 丁度この頃から元・高麗軍の来襲が顕著になってきたころで、長房の子と思われる長種・長景らも西国武士として鎮西武士と共に戦ったものと思われる。なお、長房の孫と思われる重清城築城者で、のちに石見小笠原氏となった長親は、石見の益田兼時の傘下として石見の防備に当たることになる。
【写真左】諏訪神社・その2
 現在当地は「諏訪公園」として市民の憩いの場となっている。

 このため、当時あったと思われる郭などの遺構は殆ど消滅しているが、このあたりは軍船または交易用の船着場を管理・警固する役目を持った施設などがあったものと思われる。



白地大西氏

 さて、池田大西城は、その後小笠原氏が吉野川からさらに下流部に移住していくと、白地大西氏が当城を支配していったとある。

 この白地大西氏は、次稿の「白地城」で紹介する予定にしているが、池田・大西城から西の吉野川を挟んだ対岸に築かれた白地・大西城の築城者で、田尾城(徳島県三好市山城町岩戸)でも紹介したように、元は西園寺荘園田井之庄の荘官近藤京帝がその始祖といわれている。京帝は荘官時代、すなわち久安年間(1150)ごろにこの地に館を構え、のち近藤氏から大西氏と改称している。
【写真左】白地城跡から、池田・大西城方面を見る。
 右側の山を越えたところに池田・大西城が控える。
 手前の川は吉野川で、このあたりで大きく東側に蛇行し池田町方面に流れる。
 中央に見える橋は、徳島自動車道の「池田へそっ湖大橋」。


 従って、池田・大西城より白地城のほうが約70年ほど先に築城されていることになる。
 
 このことから、阿波小笠原氏が当地に下向した際、近藤氏(大西氏)と何らかの関わりがあり、入国の際近藤氏による支援があったと考えられる。

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