2016年4月24日日曜日

牛の皮城(広島県尾道市御調町大町)

牛の皮城(うしのかわじょう)

●所在地 広島県尾道市御調町大町
●高さ H:233m(比高150m)
●築城期 不明
●築城者 森光氏
●城主 森光氏
●遺構 北郭群・南郭群、畝状竪堀群・郭・堀切等
●登城日 2016年4月12日

◆解説(参考文献「平成25年度ひろしまの遺跡を語る 城館研究最前線 資料集」より事例報告Ⅱ 「牛の皮城跡の発掘調査」(公財)広島県教育事業団埋蔵文化財調査室主任調査研究員 山田繁樹、「日本城郭体系第13巻」等)

  牛の皮城は、前稿雲雀城(広島県尾道市御調町市)でも紹介したように、御調方面に進出した三吉氏の家臣の一人、森光(守光)氏の居城とされている。所在地は雲雀城の麓を流れる御調川を北東方向へ約2.5キロほど下った同町大町というところにある。
 築城期などは不明だが、おそらく雲雀城と同じく、三吉氏の家臣森光氏が当地に入った15世紀末頃と推察される。
【写真左】牛の皮城遠望
 北側から見たもので、手前(右)に北郭群があり、その奥に南郭群が見える。
 なお、この写真は登城口に繋がる道ではなく、駐車した墓地に向かう道である。
 登城口はこの写真では右側に当たる。


北郭群・南郭群と畝状竪堀群

 当城の縄張りで特徴的なこととしては、第一に、南方の頂部に独立した郭群を配し、さらにそこから北に180m程下った尾根上の軸線にも独立した郭群を配していること、第二には、何よりも双方の郭群には夥しい数の畝状郭群が周囲に張り巡らされていることである。
【写真左】牛の皮城 鳥瞰図
 「牛の皮城跡の発掘調査」(公財)広島県教育事業団埋蔵文化財調査室主任調査研究員 山田繁樹氏の資料を基に描いたもの。

 主だった遺構は描いたつもりだが、南郭群の南斜面にある畝状竪堀群は、角度的に描けなかった。



 西側には現在中国横断自動車道尾道線(以下「尾道道」とする)が走っているが、この道路建設工事に伴い、平成15年から18年にかけて発掘調査が行われ、その報告が平成26年1月11日、(公財)広島県教育事業団によって発表されている。概略は次の通りである。
【写真左】登城口
 現地には案内標識などは設置されていないが、北郭群の北端部に入口がある。
 なお、この写真には写っていないが、右側には尾道道の橋脚が建っている。




(1)北郭群

 南東側最高所(H:166m)から北西側(H:145m)にかけて1郭・2郭・3郭・4郭・5郭と郭段が続く。このうち、4郭だけは極めて小さなもので、3郭と5郭の連絡道的な位置づけとなっている。
【写真左】畝状竪堀群・その1
 北郭群の5郭、すなわち最北端の郭段に設置された畝状竪堀で、写真では2条しか見えないが、この左右にも中小の竪堀が控えている。


 畝状竪堀群では、5ヵ所の郭のうち、北端にあるのが5郭だが、この郭の先には放射線状に14か所の畝状竪堀が配置されている。このうち西側では尾道道のため、一分消滅しているようだが、調査当時の写真を見ると、竪堀間の間隔が狭いこともあり、まるで南米の「アスカの地上絵」のようにも見える。
【写真左】畝状竪堀群・その2
 北郭群の3郭から1郭にかけて東斜面に残る個所で、長さは短いものの、堀幅は広い。
【写真左】2郭付近
 北郭群の南方に配置されている1郭及び2郭の頂部から見たもので、二つの郭附近からは尾道道や西麓部の大町の集落が俯瞰できる。

 なお、2郭の西斜面には、一本のかなり長い竪堀があったようだが、尾道道設置のため消失しているようだ。
 写真は、2郭の西端部から北方を見たもの。



(2)南郭群

 北郭群の突起した1郭から南東方向に伸びる尾根を100m程進んで行くと、南郭群に入る。最初に見えてくるのが、尾根中心部に小さく突き出した小郭で、南郭群のいわば入口となる個所となる。おそらくこの箇所には監視を兼ねた番所のようなものがあったと推察される(下段写真「小郭」参照)。
【写真左】竪堀と堀切
 北郭群の1郭(最南端)の南側にあるもので、ここから左の尾根に向かうと、南郭群に繋がる。
 ここには2条の畝状竪堀及び堀切が配置され、南郭群と遮断する意図が読み取れる。

 なお、登城道はこの写真の下から登っていくコースとなっているが、急傾斜のため部分的に階段が設置されている。
 このあと、尾根伝いに南に進み南郭群に向かう。
【写真左】南郭群に入る。
 北郭群から南郭群に向かう道は、尾根道となっている。道は殆ど手つかず状態なので、藪コギや倒木などがあり、歩きにくいが、南郭群に入りかけると、少し開けてくる。



 北郭群が北西から南東の方位に長軸を撮っているのに対し、南郭群は90度変えて、北東から南西に長軸をとっている。

  主郭は最高所となるH:230mの位置に、長径30m×短径20m前後の方形平坦地を備え、その南東斜面には上段の斜面に10か所の畝状竪堀を配し、さらに下段の斜面には長さ20~30mの規模を持つ竪堀が3本単独に走る。
【写真左】小郭
 南郭群の領域に入るとすぐに右手に独立した小郭が見える。
 長径8m×短径5mほどの小規模なものだが、おそらくここが見張的な役割を持っていたものと思われる。
 このあと、辛うじて残る踏み跡を進むと、次第に東側を進むことになる。



 また、東斜面にも大小の竪堀が6本配置され、主郭の南西部に付属する腰郭の下段には、北側から幅10~20mの帯郭が取り巻き、その南西端にはさらに2段の腰郭が付属している。
 この腰郭の先は斜面が少し緩いためか、尾根を横断するような長い竪堀(堀切)が2本並行して並ぶ。
【写真左】竪堀
 南郭群の東・南斜面にもまとまった畝状竪堀群が構築されている。
 このうち東斜面では、上段部に平均して10~20mの長さの竪堀があり、さらにこれらの中から3本の竪堀が下段に延びている。写真は、その下段にも延長している竪堀を上から見たもの。
【写真左】東南部の竪堀から上を目指す。
 畝状竪堀群を横断していったのだが、いつまでも主郭方面に向かう道が見つからないため、この付近の竪堀から強引に上を目指した。
 しかしトライしたものの、上に向かうまともな道が見つからず、再び中断部まで降り、そのまま外周を時計廻りに進んだ。
【写真左】主郭から3段目の郭
 結局、北側から入って東に廻り、西側の腰郭の南斜面から強引に登ってこの郭にたどり着いた。
 当城最大の規模を持つ郭で、幅広い帯郭の形態を持つ。

 写真の右側が主郭方面になるが、直近の切崖は主郭の真下にある腰郭のもの。左側の郭から更に西には2段の腰郭が付随している。
【写真左】主郭方面を見上げる。
 勾配はさほどないものの、高低差は10m前後ある。ここから直登できないこともないが、まともな道は更にこの郭を回り込んだ北西部に設置してある。
 先ずはこの郭の西端部まで進んでみる。
【写真左】西端部
 この先も余り整備されていないため、写真では判然としないが、西麓の集落などが見える。
 なお、このまま尾根筋を下っていくと、二条の竪堀と、尾根中心部を軸とする竪堀がある。
【写真左】井戸跡か
 主郭の西側まで回り込んで行くと、郭幅は狭くなっていくが、その終点部にご覧のような大きな窪みが見える。
 長径5m前後のもので、大分埋まってはいるが、おそらく井戸跡だろう。
 この場所から上を見ると、崩れてはいるものの九十九折の廃道らしきものが見えたので、ここから主郭を目指す。
【写真左】主郭下の腰郭へ向かう。
 大量の枯葉があるため、分かりにくいが、登り道の脇には土留め用の石積跡も散見された。
【写真左】腰郭
 主郭直下にある小規模な郭で、奥行8m×幅7m前後のもの。
 左側が主郭方向になる。
【写真左】腰郭から主郭を見上げる。
 腰郭から北東方向に主郭が控えており、比高差は凡そ8m前後。登り道は矢印で示したように、踏み跡がよく残っており、勾配は多少あるものの、周りの木に捕まりながら簡単に登れる。
【写真左】主郭
 雑木林のような光景だが、地面の方は平滑に仕上げられている。
【写真左】土塁
 主郭の外周部のうち、北郭群方向(北西方向)の位置には高さ50cm程度の土塁が残る。
 
 この場所には薄い紫色の綺麗な花がたくさん咲いている。
【写真左】真っ直ぐに伸びた竪堀
 主郭の縁付近も殆ど熊笹などで覆われているが、北側の一画だけ開放された箇所があり、その位置から下を見ると、一直線に竪堀が伸びている。
 前述したように、上段の竪堀と、下段の竪堀が連続している箇所のようだ。
【写真左】福成寺にある五輪塔群
 牛の皮城の西麓には城主森光氏の菩提寺といわれる福成寺がある。

 当院の墓地には五輪塔・宝篋印塔などの墓石が一画にまとめられているが、おそらく森光氏一族のものだろう。
【写真左】福成寺から牛の皮城を見る。
 墓地から東の方を見上げると、尾道道を介して牛の皮城が遠望できる。

2016年4月11日月曜日

雲雀城(広島県尾道市御調町市)

雲雀城(ひばりじょう)

●所在地 広島県尾道市御調町市
●高さ 210m(比高120m)
●築城期 嘉吉3年(1443)
●築城者 土倉夏平(小早川氏一族)
●城主 土倉氏、池上氏
●遺構 堀切・郭・井戸・土壇等
●登城日 2014年11月28日

◆解説(参考文献「御調町史」等)
  雲雀城は北方の三次・世羅方面から南下してきた旧石見銀山街道(R184号線)と、東方の府中市街から西進してきた旧山陽道(R486号線)が合流する御調町(尾道市)の市という地区にあって、御調川と、その支流諸原川の間に挟まれた雲雀山に築かれている。
【写真左】雲雀城遠望・その1
 北側から見たもので、2015年3月に撮影したもの。
 この時期に見ると尾根筋の形がよく分かる。
【写真左】雲雀城遠望・その2
 この写真は、麓からさらに北に向かった公園から撮ったもの。
 2014年11月28日撮影





現地説明板・その1(赤字・管理人による)

“雲雀城址
 御調町域で成立の古い山城は、大塔の撰場城(千羽ヶ城)で、仁野の善福寺の過去帳に、嘉吉2年(1442)に大道庄官藤原時実が築城したとある。ついで嘉吉3年(1443)には、小早川氏の一族の土倉夏平が、交通の要衝で、この地の経済的中心地である市(いち)を眼下に望むこの雲雀山に築城している。しかし、この時点での小早川氏の支配はあまり長く続かず、退去したようである。
【写真左】雲雀城址 実測図
 この図は、北麓にある「道の駅クロスロードみつぎ」に置いてあったものだが、図中の北を示す方位は実際とは大分違う。

 この図でいえば、北西方向を示す角度が実際の北となる。



 この雲雀城に本格的に入ってきたのは、三吉氏の家臣の池上氏である。三吉氏は、近江国から双三郡八次村(現三次市)に来住した地頭で、鎌倉・室町時代を通じて勢力を伸張し、明応年間(1492~1501)に南下して世羅・御調に勢力を扶植し、有力家臣を各地に配置していった。
 御調町域関係では、市の雲雀(山)城の池上氏、大町の牛皮城の森光(守光)氏、丸門田の丸山城の上里氏がそれである。
【写真左】登城道
 今回は北麓の道の駅に車を停め、そこから歩いて向かった。
 尾道市御調支所と北麓の間にある狭い道を進み、一旦東側まで廻ると、神社下に出る。そこに「雲雀城 ⇒」の標識があるので、それに従って進む。
 写真は神社の北側に差し掛かった箇所。


 雲雀(山)城は、市の町並みの南西にそびえるこの雲雀山(227m)の山頂を中心に築かれて、御調町域の主要通路を含む地域を見渡すことができる。
 山頂の削平地に、本丸があり、その南に深さ約20m、幅約3mの堀切(空堀)があり、北側に二の丸やその帯曲輪、東に出丸や井戸曲輪があり、土塁の跡や堀切・竪堀などが見られる。城主は平素は山麓の居館にいたが、それは市頭に近いところにあったと推測され、麓の本照寺付近の可能性が大きいと考えられる。
【写真左】空堀
 出丸に向かう途中に設置されたもので、北側からの侵入を防ぐために設けられている。
 この説明板にも書かれているように、斜面を垂直に掘ったものなので、ここでは竪堀となる。



 当城には明応2年(1493)に三吉氏の家臣池上丹羽守が城主として入り、この地を統治した。のちに池上氏は、尼子晴久の勢力下にあった天文13年(1544)、旧主であった三吉広隆攻撃に牛皮城主森光(守光)氏や、丸山城主上里氏とともに参加している。”
【写真左】出丸・その1
 北東部に配されているもので、本丸までの高さからすると凡そ1/3の位置になる。
 郭が2段で構成され、上段に社が祀られている。
【写真左】出丸・その2
 上段に祀られた社で、この奥に本丸に向かう道がある。







池上・森光・上里氏
 
 雲雀城が築かれたのは説明板にもあるように、嘉吉2年及び同3年にそれぞれ、大道庄官藤原時実、小早川氏の一族の土倉夏平と記されているが、本格的に築城したのは三吉氏の家臣であった池上氏とされている。そしてほぼ同じ時期に、東方にあった大町に牛の皮城(広島県尾道市御調町大町)を森光氏が、西方の丸門田には上里氏が丸山城を築城している。
【写真左】井戸郭
 出丸から本丸に向かう道は次第に険しく、狭くなり、油断していると滑落する箇所も多くなる。

 途中で本丸の北側直下となる斜面には井戸が設けられ、「井戸郭」と命名してあるが、実際は郭というほどの平坦な箇所はほとんどなく、直径1m×深さ30cm程の岩をくりぬいた箇所がある。

 この日は殆ど水がなく、当時もさほど湧きあがるほどの水は出なかったと思われるが、水の手としては重要な場所だったと思われる。


 これら三氏は何れも当時三吉氏の家臣で、特に丸山城築城の上里氏は、戦国期に尾関山城(広島県三次市三吉町)の城番を任された上里氏と同じ系譜である。

 ところで、三吉氏が御調方面へ進出した理由について、具体的な史料は残されていないが、冒頭でも述べたように、御調川沿いは古代から水田地帯として条里制が敷かれ、東西南北を走る街道があり、交通の要衝であったことが最も大きな理由であったと考えられる。その際、併せて御調に至る途中の世羅方面にも勢力を扶植したとされている。
【写真左】二の丸へ向かう。
 井戸郭から二の丸に向かうには、一旦東側に回り込み、そこから枯葉で覆われた急勾配の斜面をよじ登る。

 管理人はいつも専用の杖を携帯しているが、この日ばかりは殆ど役に役に立たなかった。むしろ要所では両手を使って登る場面が多く、杖が邪魔になるほどだった。


 さて、三吉氏の家臣であった池上氏は、明応3年(1493)池上丹波守が当地を支配してから暫くすると、やがて出雲の尼子経久の勢力下に入った。その時期についての具体的な史料は見当たらないが、天文年間の初期と思われ、その後天文13年(1544)7月28日、尼子晴久が備後国三吉城(比叡尾山城か)の三吉広隆を攻めているが、このとき件の三氏(池上・森光・上里)が尼子方に属していたと考えられる。
【写真左】二の丸到着
 短い距離だが、久しぶりにスリル満点の険しい道だった。
 
 連合いからは何度も途中で「この道は違うでしょう?!」や「帰りたいコール」を連発された。
 二の丸に到着した途端、心身ともにどっと疲れが出た。

奥に本丸の切崖が見える。
【写真左】二の丸
 二の丸は冒頭で示した図でも分かるように、北から東面にかけて、10~20m前後の幅を保ち、本丸側を凡そ100m前後に亘って囲繞している。

 底面はかなり平滑に仕上がっている。

 このあと、本丸側に向かう。
【写真左】本丸南下の帯郭
 二の丸側から西方向に登っていくと、最初に見える郭で、本丸の長径とほぼ同じ長さを持つが、幅が3m前後と細いので、犬走りとしての役目もあったものと思われる。
【写真左】本丸東下の腰郭
 前記の帯郭と連絡されたより少し高い位置に構築されたもので、東西10mの奥行を持つ。
 写真左側面が本丸の切崖になる。
【写真左】石積
 先ほどの帯郭から本丸に向かう箇所に残るもので、大分崩れてはいるが人為的に積み上げられたもの。
【写真左】主郭
 東西に長径30m余×南北短径10m前後の規模を持つ。
 写真は、東側から西方向を見たもので、奥には高さ2m程度の土壇が配されている。
【写真左】土壇
 主郭の西端部にあるもので、よく見ると東面は石積の跡が残る。
 奥行は5m前後で、さらにその先を行くと、大堀切が断ち切られている。
【写真左】大堀切
 土壇の西端部から見下ろしたもので、大型のものである。

 土壇からはほぼ垂直になっているため、直接降りることは危険なため、一旦南側斜面に降りて、堀切の南端部までトラバースする。
【写真左】大堀切
 南側の斜面は急傾斜でしかも枯葉が堆積していることから、西進しようにも度々足元が救われ、やっとの思いで最初の堀切にたどり着く。
 尾根を深く断ち切った迫力満点の堀切である。
【写真左】堀切から本丸を見上げる。
 これまで登城した中でも3本の指に入る見事な堀切で、規模は深さ20m×幅3m。

 断ち切った傾斜面は険しく、直接この斜面をよじ登ることはできなかった。おそらく当時の状況をそのまま残している箇所だろう。
【写真左】竪堀
 この堀切から西に登り尾根筋に立つと、南北に数本の竪堀が見える。

 南北の斜面そのものが急傾斜なので、これだけでも十分だが、さらに竪堀が付けられている。
【写真左】堀切を介して東方に本丸を見る。
 手前の樹木があるため全体が見えないが、本丸土壇の北側が見える。








本照寺

 雲雀城の東麓には池上氏が関わった本照寺という寺院がある。そしてその後ろには池上氏代々の墓地が祀られている。
【写真左】本照寺













現地の説明板

“雲雀城と本照寺

(中略)

 照源寺を石原谷に再興したのも池上因幡守と伝え、さらに城の下になべかむり、日親上人を開基として永正元年(1504)に本照寺を建立している。諸書によってその説を異にし、天正11年池上丹後守菩提所となすとか、文安元年日親開基、天正13年池上因幡再建などとまちまちであるが、江戸時代焼けたことは間違いなく、その時に古文書を焼失して資料を失っている。現在の建物はその後に建立されたもので、大イチョウのみが昔の面影を伝えている。
【写真左】池上氏の墓地に向かう。
 本殿の裏にあって、一番高いところに建立されている。



 寺の背後に池上氏代々の墓地というのがあるが、これは雲雀城二の丸にあったものを境内に移したものだという。
 室町時代の特色をもついかにも城主のものとしてうなづける。
 大形の五輪石塔を中心に10数基の苔むした墓石は、兵乱の昔を物語っています。

   昭和56年11月
  御調町教育委員会
  御調町文化財保護委員会”
【写真左】池上氏墓石群

















現地の説明板より

“池上城主 墓所

天正12年甲申8月28日 正壽院殿玉翁道仙日築大居士
  城主 池上刑部少輔七郎殿
天正8年庚辰6月15日 正連院妙安日翁大姉
     池上刑部少輔七郎殿室

天正19年辛卯2月8日 院殿奇格梅香日持大居士
  城主 池上久太郎殿
文禄4年己未9月11日 只心院殿妙相代恵日如大姉
   池上久太郎殿 室

慶長6年辛丑9月10日 遠城院殿遠本日到大居士
   城主 池上周満中殿
梅上院殿 壽日香大姉
   池上周満中殿室

慶長10年己巳7月10日 池上院殿周覚了頼日義大居士
   城主 池上因幡守殿

昭和56年11月
 御調町教育委員会
 御調町文化財保護委員会”

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稲村山城(広島県三原市小坂町)

2016年4月5日火曜日

備中・丸山城(岡山県高梁市宇治町穴田)

備中・丸山城(びっちゅう・まるやまじょう)

●所在地 岡山県高梁市宇治町穴田
●高さ 373m(比高50m)
●築城期 天正年中
●築城者 赤木忠房・忠直
●城主 赤木忠直
●遺構 郭(本丸・二の丸・三の丸)、土壇等
●登城日 2016年3月15日

◆解説
 前稿滝谷城・しらげか城(岡山県高梁市宇治町本郷・宇治)から南に約2キロほど向かうと、次第に宇治の平坦な盆地は幅を狭め登り坂となる。その坂の始点から南を見ると、丸い小丘が見える。この小丘の東側には島木川がながれているが、川の浸食作用によって、こちらの面は西側のなだらかな面とは反対に険峻な様相を呈している。

 これが承久の乱(1221年)において、新補地頭として信濃から下向してきた赤木氏最後の当主・忠直の居城・丸山城である。
【写真左】丸山城遠望
 北側から見たもので、主郭の北側は少し開けているが、これは後段で紹介するように、地元のH氏が少しずつ竹などを伐採しているためである。


現地の説明板

“丸山城 彩りの山里の城跡
 宇治盆地の最南端にあって、羽山谷を押さえるいっぽう長屋・黒鳥・田原への道を制する要地である。標高差は約50mの平山城である。小規模ながら本丸・二の丸・三の丸と出丸も備えている。近くに屋敷(これは後に造られたものであろう)があり、その下に「根小屋」という屋号の家もある。
【写真左】丸山城の略図
 長軸は凡そ170mの長さを東西にとり、幅は平均して30m前後の規模だが、東側の島木川がかなり深い谷を形成しているので、図面以上にこのエリアの要害性は極めて高いといえるだろう。


 天正年中に赤木忠直が築城したと伝えられている。忠直は滝谷城のところでふれた忠房の嫡男で、天正10年の高松城攻めの際、小早川隆景の求めに応じ、父の忠房が忠直に兵を付け、急ぎ高松城の救援に駆けつけたので、5月5日陣中で輝元から感状を添えて100貫の領地を与えられた。

 高松落城の際の講和条約でも、高梁川以西の領有権は依然として毛利氏にあったから、その所領は安泰であった。しかし、忠房は近い将来、必ず豊臣方の西進があることを予期して丸山城を築いた。
【写真左】出丸へ向かう
 南側には東端部にある出丸につなぐ長い郭を進む。奥に見える建物は、本丸の西隅に祀られていた宮を移築したもの。



 関ヶ原の戦い後、毛利氏は周防・長門に押し込まれ、辛うじて家名を保つことができたが、赤木一族ではこのときも毛利氏に従って周防・長門に移るもの、土地に留まるものそれぞれの思いのまま行動した。

 こうして勢力を失ったものの、主だった家系の赤木家は残り、家宝の赤韋威(あかがわおどし)の大鎧と兜は今日まで伝えられ、今は国宝に指定され、輝かしい家系を語っている。

・宇治地域まちづくり推進委員会”
【写真左】出丸
 東端部にある出丸だが、この下にも2段の腰郭が付随している。








高松落城後講和条約

 美作・荒神山城(岡山県津山市荒神山)の稿でも述べているが、天正10年(1582)5月の秀吉による備中高松城攻めのあと、秀吉方と毛利氏が互いの領有地について協議を行い、一定の講和条約を結んでいる。

 その内容の基本となったのが、高梁川を境として西側を毛利氏、東側を秀吉方としたものである。 しかしその協議の実態は、毛利方に属していた美作や備中の国人領主にとって、不利な点が多く、彼らは毛利氏や秀吉方に対して度々異議申し立てを行い、是正をするよう要求している。

 この交渉に当たったのは、秀吉方では黒田官兵衛(黒田城(兵庫県西脇市黒田庄黒田字城山)参照)・蜂須賀正勝、毛利方では安国寺恵瓊(新日山安国寺 不動院(広島市東区牛田新町)参照)である。
【写真左】出丸東端部
 竹が繁茂していて明瞭でない写真だが、出丸の北~東~南斜面は険峻な斜面となって、島木川に至る。





 今稿まで紹介してきた赤川氏の所領は、境界とする高梁川の支流成羽川水系に当たり、説明板にもあるように、従前どおり毛利氏領に入っているため、一見すると問題ないように思えるが、同じ高梁川支流の小田川沿い(高梁川本流の西側)にあった備中・猿掛城などは、秀吉方とするよう要求されている。

 因みに、当時の猿掛城主は元就四男の穂井田(毛利)元清であったが、この要求に対し、毛利方担当の恵瓊は、なかば捨て鉢気味に「城(猿掛城)を獲られるのなら、城主である元清も秀吉の家臣にしてほしい」とまで言っている。
【写真左】堀切か
 出丸(右)と三の丸(左)の連絡部にあたり、冒頭の略図には示されていないが、尾根を断ち切ったような鞍部が認められる。
 おそらく堀切がこの場所に構築されていたものと思われる。

【写真左】石積
 本丸の西端部に祀られていた宮(土壇)に向かう道の始点で、一部モルタルなどで補修されているが、石そのものは当時のものだろう。




 いわずもがな、こうした高梁川境界を基本合意としながら、個々の領地境界がそれと整合しない内容で進められたのは、秀吉による命が交渉中の官兵衛らに対して指示されていたわけだが、その間秀吉は信長亡き後、賤ヶ岳に柴田勝家を破り(賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦)参照)、名実ともに信長の後継者として名乗りを挙げ、より毛利氏に対し強硬な態度へ変わっていったこともその背景にあったと思われる。

 そうした日々変わっていく状況は、丸山城主・赤木氏にも伝わっていたのだろう。父・忠房が秀吉による西進があると恐れたのも無理はない。
【写真左】社殿跡の土壇
 冒頭で紹介している宮があった場所で、本丸の西端部にあたり、5m前後の長さの方形で、高さは約4m近くある。

 現在倒木や枯葉などで覆われているが、瓦片などが残っている。

 手前にには、大正10年に「大願主◇◇」によって遷宮されたと記された石碑が残る。
 このあと本丸に向かう。


 
 結局双方(毛利方・秀吉方)で最終的に講和が結ばれたのは、高松城攻めが終わってから3年もの歳月が過ぎた天正13年(1585)であった。

 ところで、丸山城が宇治盆地の南方に築かれたのは、おそらく秀吉軍が攻める場合、成羽川から入って、島木川を遡上してくると予想したことからこの地に普請したものと考えられる。
【写真左】本丸
 長径67m×短径30の規模を持つ当城最大の郭。

 この日登城した際、ご案内頂いたH氏が最近から少しずつ竹などの伐採作業を行い、見晴らしのいいこの本丸北側から始めたという。
 ただ、余りに広いため、一人ではなかなかはかどらないと、自嘲気味に話しておられた。
【写真左】土塁
 本丸及び、二の丸、さらに先ほどの出丸の北側には土塁が設けられている。
 写真はそのうち本丸のものだが、高さは約2m近い。

 この先も少し向かってみたが、藪コギ状態なので写真は撮っていない。

【写真左】丸山城に隣接する屋敷
 案内していただいたH氏の邸宅で、石積を基礎とした白壁の塀が屋敷を囲む。

 おそらく江戸期に建物の基礎が出来ていたのではないだろうか。



庄屋・屋敷

 高松城攻めの際、城主赤木忠直(忠道)が毛利氏を支援すべく駆けつけ、その褒賞として当地(穴田)を賜り、その末孫が庄屋を世襲したとされるが、おそらくこの庄屋がH氏の屋敷ではないかと思われる。

 ところで、丸山城を案内していただいた後、お礼を云い帰ろうとしたら、H氏から屋敷の方でお茶を差し上げたいので母屋に上がって下さいと案内された。
 
 表門の脇にあるもう一つ別の勝手口のような門をくぐると、苔むした庭がある。その奥に2階建ての母屋があり、左側には納屋が建っている。玄関のタタキをあがると4畳ほどの間があり、東(右)が客間となっている。天井を見ると、太い梁が何本も横に並び、如何にも庄屋らしき佇まいだ。

 「実は私、北海道からIターンしてきたんですよ」という。この屋敷は以前住んでおられた方が年をとられ、施設に入られたため住む人がいなくなり、宇治町の方で屋敷の維持管理も兼ねた入居人の募集をしていたのを知り、何度かこちらを訪れたのち、気に入って定年を機にこちらに移住したという。

 そして、丸山城の方もこちらの屋敷所有の土地で、暇をみつけては本丸の北側が眺望がよいので少しずつこの間から伐採している、という。また、夏になると、岡山市のほうから子供たちなどの体験学習として我が家に泊めて、田舎での農作業なども開催しているという。客間にはそうした行事を行った時の写真が沢山飾ってあり、外国人も時々訪れているようだ。

蓮華寺の五輪塔

 丸山城から北へ約1キロほど向かった本郷地区には、前稿で紹介した滝谷城の初代城主赤木太郎忠長の墓とされる五輪塔が祀られている。
【写真左】五輪塔群・その1
 説明板にもあるように、中央の2基がひときわ大きい。









現地の説明板

“備中宇治彩りの山里の史跡巡り①
  宇治町本郷
 蓮華寺の五輪塔(高梁市指定重要文化財)

石造美術
 滝谷城主赤木氏のゆかりの者の墓塔と思われる五輪塔で、蓮華寺境内に白色五輪塔、宝篋印塔に混じりひときわ大きさも群を抜いている。
 向かって高さ162cm、高さ153cmでどちらも墓壇を比較的幅広く取り、水輪は、球型、火輪の軒先は真反りを示すが、左塔は鎌倉期、右塔は室町期の様式を示している。
 これについては、組み替えの説もある。
 両墓塔とも花崗岩であることで、当地方を代表する鎌倉期、室町期を代表する五輪塔であるといえる。”
【写真左】五輪塔群・その2
 まわりにも中小の墓石が集められている。
【写真左】蓮華寺
 蓮華寺の開創期ははっきりしないものの、赤木氏が承久年間(1221頃)に当地に下向したときには既に存在していたようで、往時相当の伽藍を有していたとされる。

 正保元年(1644)、成羽町源樹寺第三世学州玄碩和尚を開山とし曹洞宗となった。

 手前の石碑には

「平成6年3月 28代当主 赤木慶雄 建立」
 と刻銘されている。

右側に見える道は、吹屋街道の旧道。

蓮福寺の五輪塔

 蓮華寺から少し丸山城側に戻ったところには、蓮福寺という別の寺院があるが、この墓所の一画にも五輪塔群が祀られている。ただ、特に指定を受けたものではないが、一基だけは大きなものがある。
 なお、当院は慶長5年(1600)、萩原氏の菩提所として草創されている。
【写真左】蓮福寺の五輪塔群
 中央のものがひときわ大きい。


 このほか、丸山城の西方には極楽寺跡があり、そこにはさらに多くの石塔群があるということだが、管理人は訪れていない。