2010年4月12日月曜日

徳山屋敷跡(岡山県真庭市蒜山西茅部)

徳山屋敷跡(とくやまやしきあと)

●所在地 岡山県真庭市蒜山西茅部
●登城日 2010年4月5日及び2013年6月10日
●標高 450m前後
●規模 200m~250m
●築城期 南北朝後期
●築城者 徳山将監広照
●遺構 郭、堀切等

◆解説(参考文献「蒜山の文化財:蒜山文化財保護委員会等編)
 これまで何度もその脇を車で通っていながら、全く知らなかった山城・居館跡である。

 所在地は、米子自動車道の蒜山インターチェンジ直下にあり、ちょうど料金所を抜け、ぐるっと左に旋回し国道482号線との交差点に行くまで左手方向にみえる丘である。

 今までその景色は何度も見ていたが、この丘は、てっきり高速道路を造る際に出てきた余分な残土を積み上げたものだと思っていた。
【写真左】徳山屋敷跡遠望
 北側に走る国道482号線側から撮ったもので、手前は土地改良された田圃。写真右奥には、蒜山ICの料金所がある。

 南北に郭を構成し、中央に中型の堀切を残している。この写真では見難いが、右側にも堀切跡がある。



 今年になって、東方にある蒜山郷土博物館を訪れた際、「蒜山の文化財」という冊子を手にしたところ、当城の紹介が載っており、少なからず驚いた。

◎城主・徳山氏

 同冊子によると、城主徳山氏は蒜山地域の地頭職を代々務めた一族であるという。初代の徳山将監広照は、赤松氏配下の武将岩倉春時の家老職であった。美作守護山名時氏の攻撃によって、岩倉氏が滅亡した際、子の右馬丞(うまのじょう)と共に山名氏に帰順、一時紀州(現:和歌山県)に移り住む。

 しかし、明徳年間(1390~94)に山名氏に代わって赤松氏が再び美作守護に返り咲いたので、再び将監父子も当地・蒜山に帰ってくる。

 以来、徳山氏は戦国時代まで美作の国人として、この地方で一代勢力をなした。江戸期になると帰農し、山中タバコの販売や鉄山経営などを手掛け、上福田村の庄屋、中庄屋を務めるなど山中地方屈指の地主となった。

 また、徳山屋敷から南方に聳える波作利城(はさりじょう)(※)の城主岩倉氏が、冬季になると山頂の城から降りて、この屋敷に滞在したという伝承も残っている。
【写真左】さらに近付いて北側から見たもの
 郭の高さは現在7~8m程度だが、当時は右側にある田圃も城域と思われ、もう1,2段程度の郭があったものと思われる。

 なお、写真を撮った位置には小川が流れているが、これは岡山三大河川の一つ、旭川で当時はこの川が水堀の役目をしていたものと思われる。

(※)波作利城
 現在の「ひるぜんベアバレースキー場」の東麓にあった山城で、西峰の丸山から北東部に伸びた岩倉山の北麓部に築城されていたという。いずれ機会があったら探訪してみたい。

【写真左】東側に廻って撮った堀切
 屋敷跡とされているが、これだけはっきりとした郭や堀切を構成しているので、山城と定義した方がいいように思われる。

 想像だが、城域はこれらを含め、料金所や国道482号線と交差する位置付近まで城砦施設があったと思われる。



 なお、この屋敷跡地のすぐ近くに、道の駅「風の家」があり、昨年11月19日投稿で10数基の五輪塔群を紹介している。

 このことから、おそらく、これらは徳山氏一族のものと思われる。ただ、当初からこの位置にあったかは疑問に思え、高速道路の工事や、周辺の土地改良工事のため移設した可能性が高い。


追加写真

 2013年6月10日、近くのハーブ園に行く途中に、当城の看板が道路脇にあったのを見つけたので、追加しておきたい。
【写真左】説明板
 内容は、既述したものとほとんど変わりないため、転記は省略させていただく。
【写真左】遠望
 時節がら草丈が伸びてあまりいい写真ではないが、高くなった郭段の形は確認できる。

 なお、この写真は南側から撮ったものだが、蒜山ハーブガーデンハービルに向かう道の途中にある。

2010年4月11日日曜日

鶴ヶ城跡(島根県出雲市多伎町口田儀清武山)

鶴ヶ城(つるがじょう)

●所在地 島根県出雲市多伎町口田儀清武山
●別名 田儀城
●登城日 2008年10月10日
●標高 147m
●築城期 平安末期(鎌倉時代)
●築城者 古荘二郎左衛門
●城主 小野玄蕃守
●遺構 郭、土塁、石垣、堀切、竪堀等
●別名 津戸要害山城、田儀城

◆解説(参考文献「島根家に遺跡データベース」等)

 鶴ヶ城は別名「田儀城」とも呼ばれ、現在の出雲市西端にあたる多伎町口田儀に所在する。この場所は文字通り出雲国と石見国の境目にあり、しかも当城の北方1キロ眼下には、日本海を俯瞰できる位置に築城された城砦である。


【写真左】本丸跡に設置された休憩所
当城跡は全体に公園のような施設が設けられている。
 なお、本丸の規模は500坪程度(30m×55m)となっている。



 先ず、現地にある説明板より概要を記す。

源義家の嫡子対馬守義親が、隠岐に流される途中、清嶽山にさくを作り、鶴ヶ丸となずけて弟・義忠とともに守った。古荘二郎左衛門が築城したという。


 室町時代に小野氏が城を築き鶴ヶ城となずけ、尼子36城の一城として、一万五千石を領した。  1572年毛利輝元に攻められて落城、その後田儀城と改められ大鳥馬場が守ったが、関ヶ原の役後、堀尾氏に属し、やがて武家諸法度により廃城となった。”
【写真左】鶴ヶ城遠望
 東方の手引ヶ丘公園から見たもので、鶴ヶ城の北麓は日本海が迫る。








源対馬守義親

 源義家は言わずもがな、八幡太郎義家である。日本中世史の中で、事実上の武者の時代を切り開いた
人物といわれ、後に後裔として源頼朝や足利尊氏らが輩出している。
【写真左】本丸を西側からみたもの








 義家の次男・義親も武勇に優れていたが、対馬守に任じられ九州に赴いたとき、官吏を殺害したため、康和4年(1102)12月、隠岐国に配流された(「百錬抄・中右記・殿暦」)。

 ただ、「古事談」によれば、義親は実際には隠岐には行かず、出雲国に留まったまま、地元の官吏をここでも殺害、官物を略奪した、とある。

 父の偉功を背景に、忠勤に励むことを拒否し、好き勝手な振る舞いをしたからだと思われるが、実は出雲国でも、同じころ出雲守に任じられた藤原忠清の神人(じにん)が、濫行したとの記録もある(承徳元年:1097年)。

 義親は、前記したように出雲国においても濫行におよび、目代を殺害している。その時期は、嘉承2年(1107)12月19日とされ、このため、白河上皇の命によると思われるが、諸国の盗賊の取締を担った検非違使・因幡守平正盛に、義親追討が下る。

 翌年・嘉承3年(1108)1月6日、正盛は出雲で(場所は不明)義親を討った。同月29日、正盛は義親らの首を携えて入京する。
 このことから、正盛が義親を討った場所は、少なくとも義親らが拠った当城・鶴ヶ城からさほど離れていない場所と考えられる。

◎関連投稿
 源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)

【写真左】本丸の東側から日本海・田儀港を見る。
 眺望は周辺の木々が遮り、あまり良くないが、この場所からは眼下に日本海などを見ることができる。

 なお、この田儀港(湊)は、中世の日本海交流として、宇龍湊や美保関湊と同じく、中国・朝鮮との航路を結んだ水運基地の一つでもある。


 後段に記す当地の領主・神西氏の本拠地であった神西湖は、当時大きく日本海に間口を開け、神西湊が開設されており、田儀湊と相互の物資交換が行われていたようだ。




神西(小野)氏

 その後、南北朝時代には、古荘二郎左衛門という人物が、当城で籠城したという伝承がある。

 室町時代になって、鶴ヶ城と名づけたのは、小野氏とある。これは神西城(島根県出雲市東神西)(その1)及び、神西城(その3)・神西八幡宮でも述べたように、承久の乱後の貞応2年(1223)、論功行賞によって新補地頭として赴任してきた神西三郎左衛門小野高通の後裔と思われる。
【写真左】本丸西の下にある「馬場跡」
 帯郭としての機能も併せ持ったものと思われ、幅は20m程度だが、奥行きは相当に深い。







 神西氏(小野氏)は、神西城を居城とし、庄内12カ村を知行しているが、この中には鶴ヶ城の所在地である口田儀も含め、奥田儀、多伎、小田など出雲国の最西端すべてを安堵されている。

 下って、大永年間(1521~28)の間に、小野玄蕃守が尼子36城の一つとして、1万5千石を領した、と記録されている。ただ玄蕃守の苗字を、小野(古荘)ともしているので、途中で小野氏と古荘氏との間で、血縁関係が生じた可能性がある。

 さて、後段の説明では、織豊時代の元亀3年(1572)、毛利輝元に攻められて鶴ヶ城が落城したとある。具体的な内容としては、当時小野氏の家臣であった広瀬右近尉が当城を守備したものの、三島清右衛門という銀山師(銅山師とも)が毛利輝元に進言し、これによって落城したと伝えられている。

 鉱山技師のような人物が関わったことは、おそらく兵糧攻めとして、たとえば井戸の水脈を地中内において掘削し、湧水を遮ったようなことだろうか。

 なお、ここでは、落城期の時期が元亀3年とあるが、以前取り上げた佐田の伊秩城跡(島根県出雲市佐田町一窪田)その1にある「…天正6年(1578)田儀城落城云々…」と合致していないが、状況を考えると、元亀3年の落城の可能性が高い。

2010年4月10日土曜日

二ツ丸城跡(島根県出雲市乙立町)

二ツ丸城跡(ふたつまるじょうあと)

●所在地 島根県出雲市乙立町
●登城日 2010年1月24日
●標高 308m
●比高 150m
●遺構 郭、堀切
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 不明

◆解説(参考文献「島根県遺跡データベース」「出雲の山々:島根県勤労者山岳連盟編」等)
 前稿「高櫓城」の麓を流れる神戸川を下り、乙立(おったち)町に入ると、支流・後谷川が西麓の山から流れて合流している。この後谷川をさかのぼると、西隣の湖陵町と接した二つの峰を持つ「二ツ丸山」がそびえている。

【写真左】二ツ丸山城遠望
 二ツ丸山北方を東西に走る国道9号線よりみたもので、よくわかる。



 アクセスはこの乙立町からもいけるが、道(林道岩坪線)が狭いので、北方の神西町からの方が車で行くには便利だ。

 近辺の山城としては、南方の高櫓城の外に、北方3キロには神西氏が拠った神西城がある。神西城方面からみると、ラクダのコブのような形をしていて、周囲の山並みの中でも目立つ山である。

 この山城については、ときどき情報提供していただいている「城之助」さんから教えていただき、まずまずの山城であるとの情報を得ていた。
 今年の1月、多少寒いながらも、山城登城としてはむしろこれくらいがいいだろうと思い、向かった。
【写真左】登城口付近
 林道脇に設置されているが、この付近に一軒の民家がある。ちょうどカーブしている地点で、幅員も広くあり、そこに駐車スペースがとれる。

 標識には標高290mとあり、地図では308mとなっていて、どちらが正しいかわからない。ただ南北にそれぞれの峰があるので、双方の標高を示しているかもしれない。



 二ツ丸の由来は、スサノウノミコトの出雲神話の時代にさかのぼるといわれている。残念ながら中世・戦国期における当城の記録がほとんどなく、築城期、築城者、城主なども不明である。

 しかし、前稿で紹介した高櫓城に拠った城主の領地範囲が、南に大呂(約5キロ四方)、西に窟(ムクロ)の岩畳となって、東方は乙立から古志まで及んでいたことから、おそらく戦国期は高櫓城の支城と思われる。
【写真左】途中に見える平坦地
 全体に登城路は荒れ加減になっているが、特に難渋するほどでもない。

 写真は北麓に差し掛かる地点にみえた場所で、谷が少し開き、両側から湧水が流れ、平坦部にも湿地帯のような景色を見せているところである。

 不揃いながら2,3の段丘があるので、おそらく簡易な屋敷跡だったと思われる。当時は用水・排水の施設が完備され、平坦地には居住できる施設を数カ所設けていたと思われるが、廃城になると雑木の成長と、排水設備の老朽化に伴い、屋敷跡地全体がこうして浸水され、湿地帯のような光景をつくりだすことが多いようだ。
【写真左】北側の峰・登城途中
 登城経路は、最初に北側の峰(主郭か)から向かうようになっている。

 しばらくは平坦な尾根を歩くが、麓から傾斜がきつくなっていく。






【写真左】最初に見えた堀切
※本稿では、便宜上北側の頂部を「北の丸」とし、南側の頂部を「南の丸」と仮称させていただく。

 この写真は北の丸の手前に見えた堀切で、このあたりから小規模な郭段が点在してくる。





【写真左】北の丸登城
 手前に石垣と思われるものがある。ここからは一気にまっすぐに登るコースとなっているので、途端に呼吸が乱れる。








【写真左】北の丸主郭付近
 主郭となっている頂部の幅は5m前後と狭いが、南北に長い形状となっている。特に西側の切崖は一部に大岩が突き出て、その下は目がくらむところがある。ほとんど自然のままの造りに見えるが、数カ所に削平されたような個所が認められる。





【写真左】北の丸から南西方向に三瓶山を見る
 二ツ丸山城の周囲には遮る山並みは少なく、眺望がよい。このことは戦略上重要な要素なので、戦国期に限らず、古代から狼煙台としても使用されてきたのかもしれない。






【写真左】北の丸から東方に、高瀬城、城平山城などを見る
 神戸川、斐伊川などを越えた斐川町にある高瀬城などがはっきりと見える。








写真左】北の丸から日御碕半島・日本海を見る
 写真手前の松林がないと、神戸川や神西湖がよく見えるだろう。








【写真左】北の丸から南の丸を見る
 冒頭で記したように、北の丸と南の丸の標高がそれぞれはっきりしないが、現地に立つと、この南の丸の方が高く感じたので、南の丸が308mで、北の丸が290mかもしれない。







【写真左】北の丸から南の丸に向かう尾根道
 この写真では分かりにくいが、途中で極端に狭められた尾根道がある。見方によっては、「土橋」とも思えるような雰囲気がある。
 この後、南の丸に向かったが、尾根長さがあったため、北の丸ほどの急傾斜はなかった。また、途中で、明確に加工された腰郭が残っている。




【写真左】南の丸頂部
 北の丸に比べ、南の丸の規模が大きい。幅はほとんど変わらないが、平坦地の南北間長径が長く、おそらく南の丸より2倍はあるだろう。

2010年4月8日木曜日

高櫓城跡(島根県出雲市佐田町反辺慶正)

高櫓城跡(たかやぐらじょうあと)

●所在地 島根県出雲市佐田町反辺慶正
●登城日 2008年3月2日
●築城期 不明(文明18年:1486年?)
●築城者 不明
●城主 亀井永綱、本城越中守経(常)光、熊谷右近太夫広実 
●標高 320m
●遺構 郭、堀切、帯郭、礎石建物(本丸・二の丸・三の丸)、石碑、井戸、馬場、五輪塔等
●別名 須佐城、高矢倉城

◆解説(参考文献「佐田町史」「島根県遺跡データベース」等)
 先月の投稿で取り上げた「伊秩城」の中でも少し触れているが、当城は出雲市佐田町にある山城である。伊秩城からは、佐田町を流れる神戸川を約6キロほど下り、出雲市佐田支所の附近で同川が北に方向を変える位置の南方の高櫓山に築城されている。
【写真左】高櫓城遠望
 出雲市佐田支所手前の東麓からみたもので、中央の山であるが、この角度からみると特に北側は険峻な様相を呈し、要害堅固な山城であることを思わせる。
 なお、手前の橋を流れているのが神戸川である。



 現在当城を含めた区域は、「目田森林公園」として整備され、地元民の憩いの場としても活用されている。公園として整備されているため、当時の城下の遺構は改変されているようだが、上部の本丸周辺はほとんど改変されていない。

 ところで、出雲部の山城として旧市町村の中では、頓原町と並んで佐田町内には多くの山城や砦が残っている。参考までに示すと、佐田町には53カ所、頓原町には54か所(「島根家遺跡データベース」より)と群を抜いて多い。この理由は、佐田町についていえば、当時の出雲国と石見国の境目(特に石見銀山と近接)であり、頓原町については、出雲国と備後・安芸国との境目であったことから、戦略上多く造られたと思われる。
【写真左】目田森林公園と高櫓城本丸遠望
 公園内もおそらく元の城砦施設があったものと思われるが、写真にあるように多くの施設が建っているため、当時の遺構を確認することは困難だ。



◎亀井永綱
 築城期ははっきりしない。伊秩城の稿でも記したように、当城のある須佐地域は元は国司直轄領であったことから、近隣の郷より遅れて築城されたようだ。記録で初めて見える城主は、亀井永綱である。

 彼は尼子氏に属し、その祖は佐世氏と同じく湯氏である。湯氏は現在の玉造温泉のある湯庄を領していた。このため、亀井永綱の元の名は、湯三郎左衛門永綱ともいっていたという。彼は、同じ尼子氏に仕えた石見国余世城主・多胡辰敬(ときたか)の女を娶る。
【写真左】
 公園奥にある「殿様墓」とその由来説明板
 この説明板では、亀井永綱の在城年数を35年としている。
 写真には、宝篋印塔二基があり、熊谷広実夫妻のものという。


 二人の間にできた子の一人・新十郎真矩(まさのり)は、後に山中鹿助の女を娶り、外舅(がいきゅう)・亀井秀綱の家名を継ぎ、以後亀井真矩となり、さらに真矩を改め、亀井玆矩と名乗った。その後よく知られているように、彼は後に豊臣秀吉に仕え、功により因幡鹿野城主となり、その子・政矩は石見津和野藩主となっていく。

 さて、永綱の話に戻るが、高櫓城の城主となった時期について、佐田町史では、おそらく文明18年(1486)以後から永禄年間(1558~69)以前であろうとしている。その理由として、新井白石が著した藩翰譜の中に「父永綱(玆矩の父)の代に至って、当国須佐の城に住す」と記されているからとしている。

 ただこれだけでは余りにもその推定期間が長く、その後城主となった本城常光との関係もあるので、もう少し絞ってみたい。
【写真左】本丸に向かう登城道入口
 目田公園そのものがかなり高い位置にあるため、この場所から本丸まではあまり時間はかからない。おそらく5分程度で行けたと記憶している。


永綱が高櫓城の城主となったのは、当然ながら尼子経久の意向による。経久が出雲国を次第に扶植しつつあった時期と思われるので、その節目は永正5年(1508)、大内義興が足利義稙を援護して入京した際、経久他、石見国の諸将も同行し、内外ともに出雲国の主将であることを誇示した頃であると思われる。

 帰国後、記録によると、永正7年(1510)4月16日には、尼子経久の指示により、大社領と日御碕社領の境界に制札を打たせるべく、亀井秀綱が御碕検校にその旨を伝えている(「日御碕神社文書」)。その後、永正16年(1519)7月13日になると、亀井秀綱は、国造・千家豊俊に杵築大社神官別火某の上官職を安堵させている(「千家文書」)。
【写真左】本丸下の郭
 本丸の南方に郭が2段程度造られている。このときは、南北の眺望がよく確認できた。



 以上のように、重要な執務・権限を行使していることから、このころには秀綱が高櫓城の城主として、采配をふるっていたと考えられ、当城に入城したのは、永正7年(1510)前後と考えられる。

◎本城常光
 さて、そのあとの城主とされているのが、以前にも取り上げた本城常光である。彼については、謎とされている部分が多く、高櫓城に在城した時期なども、周辺の状況から推測していくしかない。

 本城常光については、昨年(2009年)3月投稿で紹介しているので、そちらをご覧いただきたいが、高櫓城に入ったのは、結論からいえば、大永3年(1523)と考えられる。
【写真左】井戸跡
 二の丸跡といわれている平坦地に残っているもので、形状から判断すると当時の直系は4m前後はあったものと思われる。






 この時期については佐田町史も同様の結論を出しているが、その理由は、先月取り上げた「伊秩城」が落城した時期と関係する。伊秩城が最初に落城したのは、同年3月である。

 同稿(「伊秩城跡 その1」)でも記したように、落城した伊秩城には、伊秩元苗を置き、東方の高櫓城には、本城常光を置いている。なお、それまでの亀井秀綱がなぜ交代させられたのか、理由はよくわからない。
【写真左】本丸跡
 大正10年8月、村の青年団が中心となって熊谷広実350年の遠忌を営んだという。このとき、桐原家・横山家などゆかりの人々を集め山上祭りも行う。
 写真にある祠などはおそらくその時祀られた宇佐八幡の御神霊や、昭和12年本殿、拝殿の新造、昭和46年の改築のものと思われる。
 



 本城常光が高櫓城に拠ってからは、尼子・毛利の抗争はさらに激しくなり、特に石見銀山をめぐる戦いはよく知られている。その間の詳細は省略するが、常光が高櫓城に入城した大永3年(1523)から37年後の永禄3年(1560)6月、銀山をめぐる両者の大戦の一つである「新原崩れ」によって、尼子方の勝利があり、常光は高櫓城と併せ「石見銀山山吹城」の城主も兼ねることになった。
【写真左】本丸跡北端部
 石碑は秋葉大権現のものか、あるいは天王を祀ったといわれている石碑と思われる。
 この先は断崖絶壁で、当城の要害さがよくわかる。



 その後、毛利元就の懐柔策によって、常光は毛利方に属したものの、彼の所業は元就の檄に触れ、永禄5年11月5日寅の刻、誅殺された。このときの場所として挙げられている一つが、現在の斐川町学頭軍原とされている。佐田町史にはそのくだりを次のように記している。

“…本城の指揮する須佐勢は、出雲郡学頭軍原というところに陣取り、毛利方より月山富田城攻めの指示を待つべく、安堵の陣を敷いていたときである。

 元春は軍議の結果、永禄5年11月5日寅の刻(午前5時)、船を集めて学頭軍原の本城の陣所へ湖水(宍道湖)を渡り二千の兵をもって、鯨波(ときのこえ)をあげて取り囲み、本城勢の不意を襲って夜討をかけた。本城勢は防戦したものの、多勢に無勢で遂に一人残らず討死し、吉田勢(元春側)の中にも手負い死人の数は少なからずあった。戦いが終わったのは、同日の未(ひつじ)の下刻(午後3時)で、実に10時間にわたる激闘となった。
【写真左】本丸北端から北方を見る
 写真の谷には神戸川が流れ、出雲市・大社方面に下る。なお、途中には奇岩で有名な景勝地・立久恵峡がある。





 本城父子(長男・久光は石州都賀にいたが、討手を遣わし、興宅寺において誅殺)並びに、家臣らの首は、獄門に掛置き、元春は、出雲郡上之郷(かんのご)・舟津の出雲大川(斐伊川)を渡り、上の江に陣を進め、須佐高櫓城番へ軍使をたてた。曰く
 「このたび、本庄越中守常光、近年罪道邪佞(ざいどうじゃねい)のこと数多きため、討ち果たし、諸々の軍勢共残りなく誅伐せり。城預かりの者は、今後毛利に従い、忠勤を励む心あらば、本領を安堵させ、一同を召抱え申さむ。さもなくば攻め落とし、罪科を行うが如何や」
 と申し伝えた。城中一同は驚き入り、「違背致しまず」と誓ったので、召抱えられた。…”


◎熊谷広実

 本城常光誅殺の後、当城に入ったのが毛利氏の寵臣(ちょうしん)であった熊谷少輔九郎右近太夫広実である。その時の申付け状は次のとおりである。

“須佐高矢倉要害城督申付候。よって須佐500貫、乙立(おったち)35貫、古志内(こしのうち)100貫、遣わし置き候、全(まさ)に申付けらるべき状件の如し。
   永禄5年(1562)霜月(11月)23日
          隆元(元就の長男)  判
          元就           判
 熊谷少輔九郎 殿”
【写真左】熊谷広実のもう一つの墓といわれている墓地
 高櫓城から南に下った途中の道端にあるもので、大正15年偶然墓碑が発掘されたという。分骨したのか、または回向塔なのか、判明していない、と記されている。




 熊谷広実は、平家物語の「一の谷源平合戦」で名高い関東武者・熊谷直実の後裔・15代目である芸州三入(広島県可部町)の高松城主・熊谷信直の三男である。
 永禄12年(1569)6月、山中鹿助は尼子勝久を擁して隠岐国から出雲国に入った。そして勝久は高櫓城にも使者を送り、高櫓城開城を熊谷氏に迫った。

 佐田町史では、このとき広実は在城し、父信直が九州へ転戦中とし、尼子の使者を切り捨てたとある。その後尼子方は大いに怒り、高櫓城を攻め、熊谷の手兵はよく防戦し、尼子方を退けたので、翌元亀元年(1570)6月、輝元から感状を賜った、とある。 

 ただ、「毛利四代」によれば、この時の高櫓城に在任していたのは、広実ではなく、「信正」となっている。信正なる人物がどういう関係のものか不明だが、どちらにしても熊谷姓であるので、一族であることは間違いない。

 その後広実は、感状を賜った2ヶ月後の8月25日、病のため亡くなる。享年33歳だった。結局高櫓城には足掛け9年ほどの短い在任となった。広実の跡は、子の与右衛門元実が継いだが、最終的には慶長5年末、高櫓城・熊谷氏一族郎党(三入高松城の熊谷氏も)、毛利氏と共に萩の城下、一部は岩国の城下へ経ち退いた。高櫓城の廃城もその時をもってなされたものと思われる。

2010年4月7日水曜日

高麻城跡(島根県雲南市加茂町大西)

高麻城跡(たかさじょうあと)

●所在地 島根県雲南市加茂町大西・大東町仁和寺
●登城日 2008年10月28日
●標高 196m
●比高 130m
●築城期 天文年間(1532~55)
●築城者 鞍掛近江守次郎四郎源久光
●別名 大西城・高佐城
●遺構 郭、腰郭、帯郭、堀切、虎口、井戸等

◆解説(参考文献「加茂町誌」「尼子盛衰人物記」「島根県遺跡データベース」「日本城郭大系14巻」等)
 前稿「佐世城」で取り上げたように、高麻城は佐世城のある下佐世地区より北方へ向い、斐伊川の支流・赤川を越えた加茂町と大東町にまたがる高麻山に築かれた山城である。

 また、この高麻城の北方には昨年11月に取り上げた丸倉山城跡(島根県松江市宍道町・雲南市大東町)がある。
 高麻城は、戦国期尼子氏の居城・月山富田城を支える「尼子十旗」の一つで、10番目の支城として位置づけられた。
【写真左】高麻城の位置図
 現地の登城口に設置されている。登城道は現在のところ、南側から向かうコースのみとなっているが、南西部に長く伸びた砦群とも繋がっているので、当時はこの経路もあったと思われる



 築城されたのは天文年間となっているが、もともとこの地域は大西荘として地頭職である飯沼氏が治めていたところである。

 加茂町誌によると、隣の大東一部地頭を治めていた飯沼四郎の子が、この大西荘を領し、当地名を名乗って大西を姓としたものであろう、としている。

 では、冒頭に示した築城者・鞍掛氏とはどういう関係なのか、という疑問が出てくる。加茂町誌によると、鞍掛氏の名が見えるのは、天文3年(1534)加茂神社に「高佐城主・鞍掛近江守源久光再建」とある寄進(状)と、「備前国住横山左近将監友成」在銘の刀一刀が奉納されている。

 また永禄9年(1566)11月28日、富田下城届出衆に、「鞍掛三郎右衛門尉、伯州にて馬より落死」とある。
【写真左】高麻城縄張図
(出典:島根県教育委員会『出雲・隠岐の城館跡』1998年より)

 高麻山は独立系の山で、主郭を中心に5本の尾根が伸び、幾何学的にはバランスのとれた城域を構成している。

 ただ、全体に比高が低いことや、小ぶりな郭や主郭であるため、長期の籠城戦には適していなかったと思われる。
 なお、水の手は以前紹介した北方の丸倉山から導いていたといわれているが、遺構ははっきりしない。


 「鞍掛」の名は現在の仁多郡大字三沢(現奥出雲町)の通称で、上・下鞍掛として残り、明治初年まで鞍掛村があった。そのことから、鞍掛氏は元々三沢城の一族で、高麻城を領し、後に「転封された」と記している。

 このことから、高麻城の城主は鞍掛氏から大西氏へと変わったということなのだろう。また、妹尾豊三郎編書「尼子盛衰人物記」では、「結局この山に拠った城主は、はじめ鞍掛氏を名乗り、それが後に大西氏と変わったものだと考えられる」と記している。
【写真左】高麻城登城口
 管理人の自宅から近い場所にあるにもかかわらず、この位置を突き止めるまで大分時間がかかった。

 たまたま、このころ「城格放浪記」さんが登城され、紹介していただいたので、やっとわかった次第。改めてお礼申し上げます。


 ただ、同記で紹介している「出雲私史」では、

“元亀元年(1570)4月17日、三笠城主牛尾弾正忠は、妻子と共に火に投じて死に、18日元春(吉川)は、軍を神門郡十倉山(戸倉山)に移し、高瀬城を攻めようと六千騎を率いてこれに赴かんとした。

 その時、大西城主・大西十兵衛と、高麻城主・鞍掛治部兵衛は、敵の威風を望み(ママ)城を捨てて高瀬城に入った…”

 と記され、このことから「大西城」と「高麻城」が同一のものでなく、別々の城であったことを示している。しかし、高麻城以外に近辺にそれらしき城郭は見当たらないことや、「出雲私史」そのものが江戸期に入ってから著されたものであることを考えると、なんとも判断しかねる。
【写真左】登城途中に見えた赤川南麓の大東町近松付近
 この写真の方向には、山中鹿助の伯父といわれている立原氏の近松城などがある。




 なお、鞍掛氏が大西氏へと姓を変えたような記述が「尼子盛衰人物記」に見られるが、管理人としては、両氏ともそのまま変わることなく、世襲していると考えたい。

 特に鞍掛氏については、現在当地加茂町から北西に隣接する斐川町に、福間家があり、同氏は鞍掛氏の末孫といわれている。

【写真左】本丸下の郭
 遺構の数は多いものの、ほとんどが小規模なもので、この郭も数メートルの長径のもの。





 「高麻の城主・鞍掛次郎四郎源久勝なる者、落城の際、当地に流浪したる…」と伝え、さらに隣接の宍道町(松江市)の多根家では、その祖・多根惣右衛門は、鞍掛近江守の家老で、惣右衛門は佐々布(さそ)川の川尻湖水の辺りに住み、その地を加茂分けといい、守護神として加茂大明神を屋敷の南に祀ったといわれている。
【写真左】本丸跡
 中央部に地蔵が祭ってある。本丸の大きさは長径20m、短径10m程度のものだったと思われる。眺望は残念ながらほとんどなく、南方がかろうじて見える程度だったと記憶している。




 ところで当城が落城した時期については、はっきりとした記録はないものの、上掲の出雲私史が述べているように、元亀元年4月17日には城兵は自ら堕ちて行ったものと思われる。
【写真左】高麻城遠望
 南側の赤川を越え近松付近からみたもの。

2010年4月1日木曜日

佐世城(島根県雲南市大東町下佐世)

佐世城(させじょう)

●所在地 島根県雲南市大東町下佐世
●登城日 2007年12月8日
●標高 80m
●比高 30m
●築城期 室町期
●築城者 佐世清信
●遺構 堀切、郭、五輪塔、土塁、櫓等
●別名 金剛山城

◆解説(参考文献「日本城郭大系14巻」「尼子盛衰人物記」等)
 佐世城は、先月30日投稿した山口県の「高嶺城」のところで、当城の最後の城番として任を負った佐世氏の居城である。

【写真上】金剛山佐世城案内図

 この案内図には、佐世城に関わった他の史跡も図示されている。





 所在地である島根県雲南市大東町の佐世地区は、西方4,5キロに三刀屋城(尾崎城)があり、東方5キロに牛尾氏の三笠城を、また北方3キロに高麻城(未投稿)を控える位置にある。

 先ず、現地にある説明板より当城の概要を転載しておく。

金剛山佐世城跡
 佐世城は正中3年(1326)佐世七郎左衛門清信が築城して以来、9代佐世伊豆守正勝まで276年にわたる居城であった。
 初代清信は、湯頼清の五男・清信で、東忌部地頭から佐世の庄を領し、佐世七郎左衛門清信と名を改め、佐世氏の祖となった。



【左図】佐世家系譜
 現地に設置されているもので、文字が小さいが、佐世氏が湯氏から分かれている箇所が左下に表記されている。





 以来8代佐世伊豆守清宗まで尼子氏の家老衆として、12万石を領していたが、永禄8年(1565)より毛利氏に属し、防州山口に移住。その後数々の軍功により、文禄3年(1594)再び佐世城主に迎えられた。佐世氏は、代々文武共に優れ、特に書画、詩歌の遺品が多い。また敬神崇仏の念も厚く、神社、仏閣を造営するなど、大きな業績を残した。


 正勝公には嗣子がなく、慶長6年(1601)逝去と同時に、甥に当たる防州山口の佐世丹羽守元量が後職に任じられたため、佐世家は断絶した。

  昭和49年4月7日  大東町教育委員会 佐世城址城山公園整備委員会”
【写真左】本丸下から見る
 同城跡の北側には現在ゲートボール場などや、公園設備が付帯されているが、おそらくこのあたりも当時の城域だったと思われる。



 初代清信の父・湯頼清は、塩冶氏や隠岐氏と同じ佐々木氏一族である。築城期である正中3年は、嘉暦元年でもあるが、このころ出雲では杵築大社(出雲大社)仮殿造営のため、幕府の命によって国内の諸族にその資金の調達を通知している。


 そうした中、鰐淵寺では濫妨狼藉などが発生、挙句同寺北院で三重塔以下の堂舎がすべて炎上という記録も見える。おそらくこれらは放火であったと思われる。

 というのも、日本国内ではすでに後醍醐天皇の討幕計画が発覚し、六波羅探題は厳しい処罰を行い、土岐頼兼を殺し、日野資朝を佐渡に配流(1325)する。執権である北条氏自身も不安定な国情を嫌い、高時出家の後、北条貞顕がなるが、すぐに降り、代わって北条守時が執権となった。そうした先の見えなくなったころに、佐世城が造られたことになる。
【写真左】井戸跡 現地はほとんど埋まっており、公園の一部と化している。





 おそらくこれは逆にいえば、当時出雲守護であった佐々木定清(貞清)が、雲南地域の監視役を、従兄である清信に佐世の地を任せたいという狙いもあったのではないだろうか。


戦国期

 下って戦国期である。尼子分限帳によると、佐世清宗は、家老衆の中では以前取り上げた宇山飛騨守に次ぐ重臣であったという。


 彼には男子3人、女子3人の子があり、このうち長女は、宍道湖西岸の斐川高瀬城主・米原綱寛正室となる。男子は、長男・正勝、次男・元嘉、三男・大二郎となっている。残りの女子2名については不明である
【写真左】侍屋敷跡(政務・事務の事務所、侍の詰所)
 現在残っている佐世城跡は、小規模な山城(というより平城といったほうがいいかもしれない)であるが、郭などは明確に残っている。


 ただ表示されている城域より、もう少し西の尾根伝いまで範囲が広いような気がするが、そのあたりは未整備なので何とも言えない。



 清宗はそうしたことから尼子氏から信頼を受ける立場にあったが、永禄3年(1561)に尼子晴久が49歳で亡くなると、一気に尼子氏の勢力は弱体化し、清宗の娘婿であった米原綱寛は毛利方に降ってしまった。

 そして永禄8年(1565)月の富田城三面攻撃(第二次月山富田城攻め)の際は、舅・清宗と婿・綱寛が敵味方に分かれて戦うはめになった。幸い翌永禄9年11月末、ついに尼子義久は、兵糧の欠乏や、清宗と同じく尼子の重臣・宇山飛騨守の誅殺などもあって、富田城を開城。


 このため両名とも討死することなく、佐世清宗はじめ、富田城に籠城していた主だった面々(亀井能登守安綱、河本弥兵衛隆任、湯信濃守惟宗など)は、毛利方に投降した。

 清宗はその後入道して源友と名乗り、法名は「永林院法厳源入居士」という。後に佐世城東方に、源入寺を建立した(写真参照)

 清宗の長男・次男の正勝・元嘉は、その後毛利氏の家臣として忠節を励み、朝鮮征伐に従軍、また次男・元嘉は関ヶ原の戦いにも参戦し、毛利氏が萩氏に移封された時も、その活躍が認められ、禄高はむしろ増えたという。

 
【写真左】佐世正勝の墓といわれる五輪塔
 佐世城の東方にある狩山八幡宮境内脇に建立されているもので、当社も正勝が京都石清水八幡宮より勧請したもの。







上記説明板にある郷里佐世に帰ることを許されたのは、長男正勝で、文禄3年(1594)9月9日のことである。「萩閥24」によると、輝元は佐世伊豆守(正勝)に、佐世郷850石を宛がう、とある。出雲国出身で元の領地をこの時期宛がわれたのは、佐世氏が最初で、翌年から輝元は、出雲・石見・隠岐の検地を始めている。

 正勝には子がなく、佐世家が断絶したのは、祖である当地(出雲大東)であり、完全に同氏一族が絶えたわけではない。弟・元嘉の子・正景がそのあとを継いでいる。
【写真左】源入寺
 当院は佐世城から北東約800mの丘に建立されている。








前原一誠

 参考までに佐世氏の末裔として有名なのは、明治新政府の方針に異を唱え、奥平謙輔らと起こした「萩の乱」の首謀者・前原一誠である。新政府側の方針である「徴兵制」に反対し、萩に帰郷してから起こしたものだが、すぐに鎮圧され同地で処刑された。享年43歳。

 前原一誠の父は佐世彦七といい、一誠の幼名は佐世八十郎と呼んでいたが、慶応元年、藩の許可を得て、前原を継ぎ、前原彦太郎(一誠)と改めている。なお、これも奇しき縁というか、前原家は元々米原綱寛(太尾山城・その5参照)の子孫とも言われている。当初米原と名乗っていたが、江戸期に入って何代目かわからないが、「米原」を「前原」という似た呼称に変えたともいわれている。
【写真左】前原一誠旧宅
所在地 山口県萩市土原
 「前原一誠舊宅地」と玄関前に石碑が設置されている。
 なお、個人所有のものとなっているため、敷地内には入れない。