2018年1月11日木曜日

敦賀城(福井県敦賀市結城町)

敦賀城(つるがじょう)

●所在地 福井県敦賀市結城町
●形態 平城
●築城期 天正11年(1582)
●築城者 蜂屋頼隆
●城主 蜂屋頼隆、大谷吉継、結城氏
●遺構 ほとんど消滅
●登城日 2015年10月24日

◆解説(参考資料 HP『城郭放浪記』等)
 敦賀城は、現在の敦賀市結城町を中心とした位置に築かれたという。築城者は当時羽柴秀吉の家臣だった蜂屋頼隆が天正11年(1583)に築いたといわれている。
【写真左】敦賀城・その1
 下段でも述べているように、敦賀城跡としての遺構は殆ど残っていない。

 写真は城域の北西部に建立されている真願寺付近。



蜂屋頼隆

 蜂屋頼隆はもともと織田信長に仕えており、天正8年(1580)3月、10年にも及ぶ大坂石山本願寺合戦が和睦したあと、翌9年には和泉国領地のため、織田信張と共に岸和田城に入城している。
【写真左】真願寺入口
 HP『城郭放浪記』氏が2006年10月に訪れた写真では、この門の両側には塀があり、その右側には、「大谷吉継 敦賀城跡」と筆耕された石碑が建立されていたが、管理人が今回(2015年10月24日)訪れたときには、既に塀は取り壊され、石碑もなくなっていた。




 その後、本能寺の変により秀吉に属した頼隆は、秀吉の命により敦賀の花城山城に入城したという。

 この花城山城というのは、敦賀市の西方を流れる井ノ口川の西岸にある通称鉢山(高さ100m弱)に築かれていた山城で、もともとこの城は、天正3年織田信長によって敦賀郡を与えられた武藤舜秀がこの城に拠っていた。

 そしてその後、岸和田から移った蜂屋頼隆が敦賀城を築いたとされる。その後、頼隆は九州征伐などに従軍しているが、天正17年(1589)9月25日病没した。
【写真左】真願寺墓地
 西側から見たもので、墓地が並ぶ。











大谷吉継

 蜂屋頼隆が死去してから3か月後の同年(天正17年)12月、新たな敦賀城主として入城したのは大谷吉継である。

 ただ、吉継が敦賀城に在城したのは極めて短い期間で、この年の11月にはすでに秀吉が、北条氏討伐のため諸大名に出陣の命を出し、秀吉自身も翌年(天正18年)3月には出立していることから、入城してから実質2か月程度ではなかったかと考えられる。

 しかし、吉継の敦賀城時代に残る史料を整理してみると、山論の裁許や、年貢の収納、都市計画(下町整備)など具体的な民政に関わったことが判明している。おそらく、これらの事績は吉継在城時はもちろんのこと、その後留守にしていた時でも、地元敦賀に残っていた家臣達に適切な指示を出していたことからだろう。
【写真左】北側を流れる川・その1
 おそらく当時の濠跡だったと思われ、この川(赤川)は手前に流れて、東側の敦賀港に食い込んだ船着場に繋がる。







敦賀城

 敦賀城の遺構は残念ながら殆ど残っていない。位置的には、北側の敦賀港に極めて近い場所にあり、また伝承によれば、現在の結城町を中心として南北500m、東西300mの範囲にあったということから、いわゆる海城または水軍城としての形態をもったものだったと考えられる。

 敦賀城の城主であった大谷吉継が関ヶ原の戦いで破れ自刃したあと、城将として留守を預かっていた蜂屋将監によって、東軍方に城は引き渡され、徳川家康の次男であった結城秀康によって代官が派遣されていたが、元和2年(1616)一国一城令によって城は破却された。

 敦賀城の所在地の一つである現在の結城町という町名も、この結城秀康の姓から命名されたものである。
【写真左】北側を流れる川・その2
 左側が真願寺。なお、この写真の奥に向かうと、西側を流れる黒河川に至る。


 帰宅してから分かったのだが、敦賀城跡を示すものは、真願寺から南東に向かった現在の敦賀西小学校の東側の通りに石碑があり、また、真願寺の西方にある来迎寺の表門は、敦賀城の中門であったという。


◎関連投稿
 大谷吉継の墓・陣跡(岐阜県不破郡関ヶ原町山中32)

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