2017年12月13日水曜日

利光宗魚の墓(大分県大分市大字上戸次字利光)

利光宗魚(としみつそうぎょのはか)

●所在地 大分県大分市大字上戸次字利光
●備考 鶴賀城・成大寺
●参拝日 2015年10月12日

◆解説(参考文献『日本城郭体系 第16巻』等)
 豊前・豊後の山城探訪最終日となったこの日(2015年10月12日)、その7年前の2008年に訪れた長宗我部信親の墓・戸次河原合戦(大分県大分市中戸次)に関わる鶴賀城の麓を探訪した。

 この日は帰途に着く予定でもあったため、時間もなく最初から登城の予定を立てていなかった。しかし、そのまま近くをスル―するのも勿体ないため、登城口の確認だけして置こうと思い向かった。
【写真左】利光宗魚の墓
 宗魚の墓は中央のものだが、墓石が宝篋印塔又は五輪塔の形式でないことから、後年(近世)建立されたものとおもわれる。



現地の説明板より

“成大寺(じょうだいじ)由来

 開基は詳らかでないが、大日如来を本尊とする天台宗の寺であった。寛弘8年(1011)に佛工定朝(ぶつこうじょうちょう)が毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)を刻し安置している。
 建久7年(1196)大友氏入封後、九州鎮護の「惣道場」となり、嘉禎2年(1236)には、戸次氏の「祈願所」となる。正平2年(1347)より利光氏の「香崋院(こうげいん)」として、末院六か寺を有する大寺院であった。

 天文22年6月26日(1553)に大友宗麟より、肥後にある土地10町4反を寺領として、寄進を受け隆盛を極めていたが、天正14年(1586)の鶴賀城の戦いで全部焼失した。
 慶安元年(1648)戸次願行寺(がんぎょうじ)住職仁山(じんざん)和尚により、臨済宗妙心寺派の成大寺として再興された。その後、昭和27年(1952)寺籍を無くし利光区の管理となり現在に至る。

    平成18年12月吉日
    大分市地域まちづくり活性化事業
    協力  成大寺保存会“
【写真左】成大寺 住職 信庵阿奢利正忠の墓
 宗魚の右側に建立され、標柱の側面には「観応元年1月15日亡(1350)」と記されている。
 戸次氏から利光氏へと替わった頃なので、説明板にもあるように、末院六か寺を有する大寺院となったときの住職と思われ、いわば中興の祖と考えられる。
 ただ、墓の形式が五輪塔なので、元は武士(阿南氏か)だったと推測される。



利光氏

 鶴賀城の城主利光氏の出自についてははっきりしない点が多いが、佐藤蔵太郎著『鶴賀城戦史』によれば、前稿の豊後・戸次氏館(大分県豊後大野市大野町田中・最乗寺で紹介した大神氏系阿南基家のあと、大友氏(能直か)入国後、基家の弟親家が下賜され、姓を地名から利光としたとされる。

 しかし、上掲の説明板にもあるように、麓にあった成大寺が建久7年の大友氏入国後、九州鎮護の「惣道場」となり、嘉禎2年(1236)に、戸次氏の「祈願所」となったと書かれているので、この段階では、大友氏2代親秀の次男重秀が戸次荘(鶴賀城)に最初に入ったときと思われる。

 その後、理由は不明だが、戸次氏は当地・戸次荘を離れている(西部の大野荘地域へ)ので、大友氏傘下となった阿南氏が、正平年間(南北朝期)に戸次氏と入れ替わり、阿南から利光姓を名乗ったものと推測される。
【写真左】墓周辺
 成大寺跡には、件の墓石と左側に見える集会所のような建物が建っている。
 この場所が鶴賀城の登城口の一つになる。
なお、本丸はこの写真でいえば右側に当たる。


利光宗魚

 さて、長宗我部信親の墓・戸次河原合戦の稿で述べたとおり、天正14年(1586)、長宗我部信親ら豊臣軍が豊後水道を渡海する前まで、必死に島津軍の攻撃に耐えていたのが鶴賀城主・利光宗魚である。宗魚は別名、越前守鑑教、宗匡ともいった。

 当初2万の大軍を率いた島津軍が鶴賀城を包囲したとき、城主・宗魚は当城には在城しておらず、宗魚の嫡男・弾正忠統久をはじめ、弟の平助・叔父の成大寺豪永・高橋左近・村上三郎右衛門以下わずか700人、それに老若男女併せて3,000余人だったという。
【写真左】「鶴賀城跡↑」の案内板
 ここから本丸跡まで約900m(約30分)、のろし台(15分)、穀物倉(20分)などと付記してある。

 一瞬登城したくなったが、帰りの時間も考慮し断念した。機会があれば鶴賀城や鏡城などをはじめ、島津軍が進軍した城砦なども改めて訪ねてみたいものだ。


 城主・宗魚はこのとき、3,900余騎を引連れ肥前に出征中だった。この肥前とはおそらく島津方の島津忠長(ただたけ)及び伊集院忠棟の両将が2万の大軍を率いて北上し、大友氏に寝返った筑紫広門の守る肥前・勝尾城や朝日山城での戦いに援軍として向かっていたときと思われる。

 鶴賀城の危機を知った宗魚は急ぎ軍を引き返し、途中で龍王城(豊前・龍王城(大分県宇佐市安心院町龍王字古城)参照)にあった大友宗麟の嫡男・義統(よしむね)に謁して別れを告げ、鶴賀城に向かったという。

 義統が龍王城に在陣していた理由は、耳川の戦い後、大友氏に背いた安心院氏を当城で攻略した後ではあったが、本来ならば宗魚と一緒に鶴賀城に援軍すべきである。『九州諸家盛衰記』では彼のことを「不明惰弱(懦弱)(ふめいだじゃく)」と記している。優柔不断で識見状況判断に欠け、しかも酒乱であったという。一説には大友家の衰退は義統が招いたとも云われている。もっとも、このとき義統は、その後援軍してくる豊臣軍と合流するためにこの地に待っていたという説もある。
【写真左】成大寺跡から本丸方面を遠望
 成大寺からはほぼ南の方向に本丸が位置する。直線距離では700m前後となる。





 さて、宗魚が鶴賀城に戻ってから島津軍との戦いが再開された。時に天正14年11月末のことである。緒戦では局地的な戦いが繰り広げられたが、12月5日本格的な戦いが始まった。島津軍の猛攻により、三の丸・二の丸まで焼け落ち、いよいよ牙城本丸に差し迫った。しかし宗魚らの必死の抵抗があったため、島津軍は深追いせず一旦鶴賀城の南にある梨尾山の陣に引き上げた。

 12月7日の夕、宗魚は梨尾山にある島津軍の様子を見ようと、鶴賀城の櫓に上った。そのとき木陰に潜んでいた島津軍の一人の兵が一矢を放った。矢は宗魚の急所に当たり絶命したという。また、別説では流れ弾に当たったためともいわれている。
【写真左】成大寺から西方を眺望する。
 成大寺や鶴賀城の西麓を大野川(戸次川)が南北に流れ、対岸には阿南氏の居城といわれた天面山城がある。
 おそらく写真左側の山と思われる。
【写真左】大野川(戸次川)を見る。
 成大寺を少し降りたところの東岸部から北を見たもの。豊臣軍は下流となる奥の方から進軍してきており、西岸には豊臣軍が軍議を開いたという鏡城がある。

 従って、この位置はちょうど島津軍が鶴賀城を陥れたあと、豊臣軍と相対した場所になる。

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