2010年3月15日月曜日

石城山神籠石(山口県光市大字塩田)

石城山神籠石(いわきさんこうごいし)

●所在地 山口県光市大字塩田
●登城日 2009年3月29日
●築城期 5~7世紀
●標高 352m
●形式 山城
●遺構 列石、水門、土塁
●指定 国指定史跡
【写真左】所在地を示す地図
 赤字の個所は伊藤博文の旧居跡で、その位置から東方にむかった所に石城山がある。




◆解説(参考文献「鳥取・島根・山口の城郭」新人物往来社編、その他)

 山口県で最も古い城といわれているのは、「長門の城」といわれ、日本書紀の天智天皇4年(665)8月条にそれが見えている。
 これは以前取り上げた香川県の引田城と同じく、その2年前(663)、百済救済のため派遣された日本軍が、錦江河口の白山江において新羅を支援する唐の軍船に敗れ、帰国後本州西端部に築城したときのものといわれている。

 残念ながら「長門の城」の所在地などは不明であるが、今回取り上げる石城山神籠石もそのころのものといわれている。
【写真左】案内図
現地は「石城山県立自然公園史跡」となっており、駐車場付近には幕末期の奇兵隊練兵場跡に、キャンプ場が造られている。




 所在地は、山口県の西部光市内にあるが、周防灘からは4,5キロほど山間部に入ったところにある。
 前記の香川・引田城と比べると、大分内陸部に入った地点といえる。ただ、山頂部に立つと、思った以上に瀬戸内が近くに見える。

 中世山城の視点を基準にすると、現地遺構の理解が容易でないが、神籠石といわれる列が全長2.6kmにもわたって造られ、水門、水口などその規模は巨大である。

 その他の史跡としては、式内社石城神社(祭神:大山祇神・雷神・高竈神。本殿は文明元年(1469)大内政弘の再建)が鎮座し、社坊神護寺跡などが散在している。
 すべての遺構を見ようとすると、半日でもはとても無理である。この日は従ってほんの一部を踏破した。
【写真左】駐車場付近からみた「胎蔵坊跡」「立石坊跡」方面
 石城山の中にはこうした夥しい数の坊跡がある。築城期から下った平安期頃にはおそらく大規模な山岳信仰の聖地でもあったかもしれない。


現地の説明板より

“国指定文化財
史跡 石城山神籠石(いわきさんこうごいし)
   昭和10年6月7日所在地 光市大字塩田

 「石城山神籠石」は、巨石を一列の帯状に並べて、山の中腹から8合目あたりを鉢巻き状に取り囲んでいる古代の大土木工事の遺跡である。
 明治42年秋、当時の熊毛郡視学・西原為吉氏(福岡県出身)によって発表された。それまでは、九州にしか存在しないとされていたこの大遺跡が本州でも発見されたので、考古学界の注目するところとなった。
【写真左】仁王門(随身門)
 最初に向かうルートの一つにこの仁王門がある。この先には、奇兵隊記念碑や石城神社や神護寺跡(第二奇兵隊本陣跡)がある




 この「石城山神籠石」の列石線は、南側鶴ヶ峰(標高357.6mでテレビ塔の建っている峰)の近く(標高約342m)を頂点として下向きに回り、石城五峰(高日ヶ峰・鶴ヶ峰・大峰・月ヶ峰・星ヶ峰)を取り囲み、最下部は北水門あたりで、標高268mまで下がっている。(駐車場の地図参照)列石線の総延長は、2,533,54mにも及ぶ大規模なものである。

 列石線が谷間を横切る場所には、高い石垣壁を築き、その中央の下部に水門を設け、北水門・東水門・南水門・西水門が発見されている。(水門の奥行き10.6~20m)城門は、表門と裏門に当たるとみられる遺構が発見され、第一門跡(北門)には「沓(くつ)石」と呼ばれる2個の門扉の柱礎石が残っている。
【写真左】石城神社


 「神籠石」をいつ頃、だれが、何の目的で構築したかについては、明治31年(1898)福岡県高良山で発見されて以来ながく定説がなく、神域説と山城説とで論争されてきた。

 昭和38・39年、国の文化財保護委員会(現・文化庁)、山口県教育委員会、大和村(現・光市)との共同による発掘調査の結果、従来知られていなかった人枡、柱穴、版築工法による大土塁が、数百メートルにわたり発見され、古代山城遺構であることがはっきりした。
 平成19年9月  光市教育委員会”

【写真左】第二奇兵隊本陣跡

 詳細は下段の説明板に記されている。

石城山第二奇兵隊の由来

 奇兵隊は文久3年(1863)5月、下関海峡における攘夷決行の直後、防長非常の際に生まれた一種の義勇兵である。

 入隊者は誰でもよい。平民も士分と同様、刀を帯び苗字を用いることができ、まさに血気の青年の憧れの的であった。「正兵はすでに藩制の編隊あるを以て、新設の隊はこれを奇兵隊と呼ばん。

 正中の奇、奇中の正、専ら奇を主として防禦に従事すべし」とは、隊長高杉晋作の命ずるところ、意気他隊を圧し、まさに旭日昇天の概があった。

 石城山の第二奇兵隊は、これに呼応して、俗論党の多かった東部周防もぜひ正義派に一致させなければならぬとし、白井小助、木谷修蔵等を中心に富永有隣、楢崎剛十郎、松宮相良等馳せ来たり熊毛郡室積(光市)を拠点とし、同志を糾合したことに始まる。

 小周防(光市)真行寺からは、立石孫一郎、橋本左内等の諸浪士、大島郡久賀からは真武隊の大洲鉄然、中原雅平、櫛部鉄牛等の同志合流し来って、総員三百名。これを最初南奇兵隊と呼称した。
【写真左】第二奇兵隊跡付近
 この溝も水路の付属設備と思われる。



 その年の三月、訓練強化のため転陣して、石城山に移駐、道中全員純白の上衣に紫袴をうがち、朱鞘の長刀を帯び幹部は皆馬上であったという。

 石城山に入るや、高札を立て庶民の入山を禁じ、神護寺を本陣として、第一、第二、第三の兵舎、練兵場、厩、病院等の設備を整え、正式の練兵を日課とした。

 翌4月には総督山内梅三郎が吉田の本隊と兼任であったため、石城山陣営を第二奇兵隊と改称した。8月には世嗣毛利定広公(後の元徳公)が、石城山陣営に閲兵のことあり、隊では地雷火の実演や、小銃の演習などを御覧に供し、特別の賞詞を賜った。
【写真左】第二奇兵隊を過ぎて外構部の分かれ道付近
 右に行くと、西水門へ行く


 越えて慶応2年6月、四境の役あり、石城山第二奇兵隊は直ちに大島郡に出撃、安下庄の幕軍を破り、転戦して久賀に上陸の幕軍も粉砕、たちどころに大島郡全島を回復するの戦果を挙げた。これより名声大いに上がる。後更に鳥羽、伏見の役に功あり、王政維新につながる□韻、永く松籲に止まる。

 この顕彰碑は、その偉業を永く伝えるために建立したもので、昭和19年10月元首相岸信介氏登山の際、詠詩ならびに揮毫である。

  第二奇兵隊を懐う
  関東健児起って血盟す、回天の偉業雲を破って成る、
       千古の秘謎尚解く可し、誰か遺烈を水て聖明に応えん

昭和58年4月  光市教育委員会”
【写真左】石城山から周防灘方面を見る
 この日は靄がかかっていたが、視界がよければ瀬戸内や四国方面も見えるだろう。


【写真左】「三国志城」と書かれた近くの建物
 石城山に車で行ける専用の登山ドライブウェイがあるが、その入口付近には写真にある博物館のような食堂のような変わった建物がある。

 石城山の由来から、おそらく中国と関係があったとして、こうした施設ができたのだろう。中に入ると、三国志に出てくるヒーローのフィギアや関連グッズが販売してあった。

 こうした場所で、諸葛孔明などと対面できるとは予想もしていなかった。




◆感想
 石城山は冒頭でも記したように、余りにも大規模な山城のため、すべての遺構を見ようとすると優に一日はかかるだろう。水路の有無とは別に、これとよく似た山城として思い浮かんだのは、岡山の鬼ヶ城である。ただ、規模はこちらの方がはるかに大きいだろう。

2010年3月14日日曜日

中津城(大分県中津市二ノ丁)

中津城(なかつじょう)

●所在地 大分県中津市二ノ丁●登城日 2005年10月10日
●形式 平城
●指定 市指定史跡
●築城期 天正16年(1588)
●築城者 黒田如水(孝高/官兵衛)
●備考 日本三大水城の一つ
●遺構 石垣・堀


◆解説
 中津城に訪れたのは、5年前の2005年10月で、今のように山城を目的とした探訪ではなく、このころは、国東半島の六郷満山や耶馬渓の雰囲気や景色を堪能するためだった。そのため、この時撮った中津城の写真は、ついでに訪れたような気分だったので、枚数も2,3枚程度しか撮っていない。


【写真左】中津城その1
 五重五階の天守と二重櫓(南東隅櫓跡)がある。







 現在の中津城天守閣などは、模擬天守で、しかも当時実際に天守があったかどうかも不明とのことらしい。
 昭和39年(1964)に現在の模擬天守が鉄筋コンクリートで造られている。当然歴史的建造物とは言えないが、当地に城を築いたというモニュメント効果はあっただろうと思われる。
【写真左】中津城前の広場
 駐車場も兼ねた広場で、周辺には奥平神社などがある。






 管理人にとって興味があるのは築城者であった黒田如水(孝高)である。特に秀吉の懐刀・軍師として有名だが、一方では藤堂高虎と同じく築城の名手でもあったという。

 秀吉の天下取りに最大の知力と助言を与えたにも拘わらず、その代価としての報償は余りにも低いものだった。
 秀吉が彼の非凡な才能に恐れていたためともいわれるが、あえてそれに甘んじ続けた如水の本意はよくわからないものの、遺訓を目にすれば、なんとなく彼の独立した精神世界が垣間見られる。曰く

“人に媚びず、富貴を望まず”

◆ところで、この中津城は現在売却する計画があるという。享保2年(1717)に入封し、明治維新まで続いた奥平氏の子孫が、それまで管理運営してきたが、入場者の激減により維持費の確保が困難となり、これ以上赤字経営を続けることが困難だというのが理由らしい。
【写真左】中津城その2
 この場所から近くには福沢諭吉旧居・記念館もある。

 また、このときは訪れていないが、中津城から東南500mほどいくと、合元寺がある。

 この寺は通称「赤壁」と呼ばれ、如水が播磨からこの地に入封するとき、彼に従ってやってきた浄土宗西山派開山空上人が開いた寺である。
 如水が天正17年に、前領主だった宇都宮氏との抗争を繰り広げた寺で、戦の際同寺の門前白壁に血痕が残り、度々塗り替えても赤い血の色が出てくるため、最後は赤色に塗り替えたという言い伝えがある。



 地方の城郭で、民間業者が所有・運営しているところがどの程度あるのかわからないが、中津城に限らず、そうした状況は、おそらく同じような悩みと問題を抱えているのかもしれない。

 そうした場合、一番いい方法は、地元自治体が代わってやるのが理想だが、今のように、自治体そのものが逆に民間に払い下げたり、指定管理などというような方向へ持っていく御時世なので、なかなかコトは簡単にはいかない。


◎関連投稿

中津城・城井神社(大分県中津市二ノ丁)
馬ヶ岳城(福岡県行橋市大字津積字馬ヶ岳)
合元寺(大分県中津市寺町973)

2010年3月10日水曜日

杵築城(大分県杵築市杵築)

杵築城(きつきじょう)

●所在地 大分県杵築市杵築
●登城日 2008年12月4日
●築城期 明徳4年(1393)
●築城者 木附頼直
●城主 木附氏、前田氏、杉原氏、細川氏、小笠原氏、松平氏等
●別名 木付城、勝山城、臥牛城
●形式 平城(海城)、模擬天守

◆解説
 大分県別府湾の北部で、国東半島の南部に位置する杵築市の守江湾を望む位置に築城されている。現在は模擬天守となっているが、築城当初はおそらく海城として、砦形式のものであったと思われる。
【写真左】杵築城配置図
 上が北を示す。なお、この図は江戸期のもので、現在は天守東部、北部は干陸化され市街地となっている。




●現地の説明板より

杵築(木付)城について
 建長2年(1250)、大友親秀の六男・親重は、豊後国速見郡武者所として、八坂郷木付荘に封ぜられ、地名の木付を氏とし、竹ノ尾の高台に築城し、竹ノ尾城にいった。
 木付氏4代頼直のとき、城を現在地の城山に移築、応永元年(1394)9月竣工、木付城と名づけた。

 木付城を別の名を、台山城、臥牛城また勝山城とも呼ばれるが、台山とは八坂川、高山川の合流地点に突出した台地に由来し、臥牛は、台山の地形が牛の寝た姿に似ていることによる。勝山城のいわれは、木付16代鎮直の時代、島津義弘軍の攻撃を受けたが、天正15年(1587)2月、これを撃退勝利をおさめた武功にあやかるものである。
【写真左】杵築城遠望
 杵築城の北東部(パチンコ店)駐車場からみたもの。








 さて、文禄2年(1593)、木付氏滅亡後、藩主の交代相次ぎ、正保2年(1645)、松平英親が転封されてより、明治に至るまで松平氏の治藩下に栄えた。

 杵築の地名は、正徳2年(1712)8月、徳川6代将軍家宣下賜の朱印状に木付の文字が杵築と書かれたことによる。”



 杵築という文字が使われたのは、当城主松平(能見家)3代・重休(しげやす) (1691~1715)の時代で、 幕府の伺いをたてたのち、承認され杵築とされている。杵築という名が最も知られているのは、出雲大社(島根)の旧名である「杵築大社」であり、明治4年までこの名が使われている。

 「杵築」の語源は、「…を築く、あるいは建てる」というようなところからきているらしいが、豊後木付の漢字にこれが充てられたのは、たぶんに出雲杵築大社の名前も参考になっているかもしれない。
【写真左】杵築城入口の門








 なお、初代木付(大友)頼直が建てたといわれる竹ノ尾城は、現在若宮神社となっているところで、杵築城の北側を流れる高山川を2キロ余り登った宮司地区にある。ここは探訪していないが、『城格放浪記』さんのサイトで紹介されているので、御覧頂きたい。

【写真左】城内に安置された多数の古墓
 城内には写真にあるような多くの古墓が安置されている。

 木附氏、松平氏など杵築城に関わった武将の墓で、五輪塔形式のものや、宝篋印塔形式のものなどが整然と配置されている。

 これらのほとんどは、近在に分散していたものらしく、のちに当地にまとめられたものという。

 城郭内にこうした形でまとめられたケースは、意外と少ない。多くは菩提寺や祈願所などそれぞれに設置されているケースの方が多い。

【写真左】天守真下から見上げる
 模擬天守で、しかもRC造りで小ぶりな建物である。建物内には展示品が収められており、博物館のような内容だ。

 主な展示品としては、杵築藩主松平氏の具足・陣羽織をはじめとし、石田三成の兄・石田正澄が着用した兜がある。

 石田正澄は、関ヶ原の戦いにおいて、弟三成と同じく西軍として参加。佐和山城で小早川秀秋の攻撃を受け、父正継とともに当城で自害している。
 なぜ、彼の兜がここにあるのか 展示室に経緯が書いてあったかもしれないが、残念ながらメモをとっていなかったため、分からない。

【写真左】天守付近から西南方面を見る
 杵築城が設置されている台地は、写真にみえるような岩山が繋がった地形で、今月紹介した「臼杵城」周辺の地形・地質とよく似ている。


【写真左】天守跡から国東半島を見る。
 写真左方向をさらに進むと、六郷満山といわれる国東半島の山岳信仰のメッカに繋がる。
 



宮本武蔵について

 ところで、当地に宮本武蔵についての説明板があったので、転載しておく。

“宮本武蔵 杵築(木付)に

 慶長17年(1612)、関門海峡に浮かぶ巌流島で、宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘を行ったとき、この試合の検分役を務めたのは、細川藩筆頭家老で、杵築(木付)城代の松井興長であった。

 決闘が終わって、門司城代沼田延元のもとにいた武蔵は、佐々木小次郎の門人たちに命を狙われたので、鉄砲組に護衛されて養父無二斎のいる豊後へ送り届けたと沼田日記に記されている。
「二天記」では、松井興長は、無二斎の門人であると記述されており、地元では、武蔵が杵築に来たのではないかと言い伝えられている。

杵築市観光協会”

長宗我部信親の墓・戸次河原合戦(大分県大分市中戸次)

長宗我部信親の墓・十河一族の碑
(ちょうそかべのぶちかのはか・そごういちぞくのひ)
戸次河原合戦
(へつぎかわらかっせん)

●所在地 大分県大分市中戸次・竹中)
●探訪日 2008年12月4日

◆解説
 大分市の東部に流れる大野川の旧名は、戸次(へつぎ)川という。この戸次川の中流域に戸次という地名があり、現在国道10号線が平行して走っている。

戸次河原の合戦
 
 天正14年(1586)、この地で、大友義統(宗麟の子)および秀吉から派遣された四国勢である長宗我部信親、十河一族の連合軍と、怒涛の勢いで北上してきた島津軍との壮絶な戦いがあった。

 この戦いで、長宗我部元親の最愛の息子・信親は悲運の死を遂げることになる。
【写真左】「長宗我部信親の墓・十河一族の碑」入口付近
 右に見える道は、東部の臼杵市方面から国道10号線に繋がり、大分市方面に向かう枝線で、この位置から500m奥に向かうと、10号線と接する。

 写真の案内板には、当該墓・碑の案内があり、ここから歩いて100mほどの地点にある。なお、上段の文字は「戸次本町の町並み」まで1.8キロの表示。


 現地には長宗我部信親の墓、十河一族の碑が建立されている。以下現地の説明板より転載する。

“1586年(天正14)11月下旬、薩摩(鹿児島県)の島津家久が2万の軍勢を率いて豊後(大分県)に侵入してきました。鶴賀城の城主利光宗魚(そうぎょ)は、兵700を含む老若男女3000と共に島津軍に激しく抵抗しました。

 しかし、城は包囲され宗魚は討死しました。知らせを受け、豊臣秀吉が豊後に派遣した長宗我部元親・信親(土佐・高知県)、十河存保(そごうまさやす)仙石秀久(讃岐・香川県)の軍勢が、大友義統(よしむね・22代)の軍勢と合流、大友・四国連合軍6000が鶴賀城を救援するため、鏡城に到着しました。
【写真左】鎧塚
 戦士を祀ったと思われる石祠









 12月12日朝、大友・四国連合軍は、戸次川(大野川)を渡り、山崎、脇津留、迫の口に陣を敷き、脇津留で両軍が激突、合戦が始まりました。
 島津軍先陣の伊集院久宜(ひさのぶ)は、一旦脇津留から利光まで兵を引くと、大友・四国連合軍はこれを追撃しました。

 すると繁みや土手にいた伏兵に鉄砲で攻撃を受け、後方の島津家久と新納大善正(にいろだいぜんのしょう)に反撃され、さらに迫の口東方の本庄主税介に側面を攻撃され、島津軍のわな(釣野伏戦法・つりのぶせせんぽう)に落ちました。

 敵に囲まれる絶望的な状況の中、信親は家臣700と獅子奮迅の戦いをします。しかし刀の刃は欠け、鎧はちぎれついに力尽き、家臣全員とともに22歳の短い生涯を終えました。
【写真左】墓所全景
 この区域全体が墓所公園のような造りになっている。写真はアップしていないが、「鶴賀城戸次河原合戦之碑」や仁王像のようなもの、また数十体の地蔵が並べられている。



 大友・四国連合軍は中津留まで押し込まれ、総崩れとなり府内に退却しました。この戦いを「戸次河原の合戦」といい、両軍併せて2000人以上もの死者を出しました。

 信親は島津氏によって山崎に葬られ、のちに元親が遣わした僧により、荼毘にふされました。持ち帰られた信親の遺骨と遺品を見て、元親やその家臣たちは悲しみのあまり涙したといいます。”


長宗我部信親(1565~1586)

 長宗我部元親の長男。1575年織田信長から「信」の字を与えられ、「信親」と名乗るようになりました。背の高さは6尺1寸(約184cm)と長身で、色は白く礼儀正しく、家臣には分け隔てなく接し、領民には常に情けをかけるなど、人々から慕われていたと伝えられています。
 元親にとって期待の息子でした。”
【写真左】長宗我部信親の墓その1






【写真左】長宗我部元親の墓その2
 よくある五輪塔や、宝篋印塔の形式のものでなく、 幅広い円柱型のものとなっている。







【写真左】戸次河原の合戦要図
 地図が細かいため読みづらいが、同図をクリックすると拡大できるので、多少は配置が確認できると思われる。上方が北になり、大分市側になる。






【写真左】鶴賀城縄張図
 上記図の下方にあるが、この縄張図を見ると、遺構の種類や個所が多いようだ。
 なお、鏡城の縄張図はこの場所には明示されていない。








鶴賀城

 日向国(宮崎県)から府内および臼杵へ向かう交通の要衝地に築かれた城で、土塁や堀切、畝状空堀で敵の侵入を防いでいます。

 フロイスの『日本史』に「利光と称するキリシタン貴人の城」とあり、城主利光宗魚は、キリスト教徒であったことがうかがえます。”



【写真左】同墓地から南方に、鶴賀城を遠望する。
 おそらく写真右の山だろうと思われる。








四国霊場33番札所・高福山 雪蹊寺(せっけいじ)の長宗我部信親の墓

 ところで、長宗我部信親の墓は彼の領地・土佐にも建立されている。
【写真左】高知市長浜にある雪渓寺の山門









 場所は、高知市桂浜に近い四国霊場33番札所・雪渓寺境内にある。

 当院は、延暦年間弘法大師が高福寺として開基し、その後鎌倉時代には、運慶と湛慶の作になる毘沙門天の仏像などが安置されたことにより、慶雲寺と改称される。

 戦国時代になると、信親の父、すなわち元親の菩提寺となり、彼の法号にちんなんで、雪渓寺と改称された。

 雪渓寺境内の最深部にあるが、ここには信親はじめ部下の供養塔も祀られている。
【写真左】長宗我部信親の墓
 この墓は宝篋印塔形式のものである。
 なお、蛇足ながら、この写真背後の山は長浜城跡で、戦国期、本山梅慶の子・茂辰の支城で、大窪美作守が城主だった。

 永禄3年5月26日、長宗我部国親(元親の父)が、奇襲し攻略した。


 ここには信親の討死の原因を次のように記している。

“天正14年(1586)12月12日、豊後の国(大分県)戸次川畔で薩摩の島津義久の大軍と対峙しましたが、四国勢の主将・仙石秀久の無謀な渡河作戦のため、対岸に控えていた5千の島津軍の伏兵により、仙石勢は敗走しました。

 信親以下土佐勢は、踏みとどまって奮戦しましたが、衆寡(しゅうか)敵せず、700余人と共に22歳を一期として戦死しました。”

◎関連投稿
十河城(香川県高松市十川東町)
利光宗魚の墓(大分県大分市大字上戸次字利光)
由佐城(香川県高松市香南町由佐字中屋)

2010年3月9日火曜日

佐伯城(大分県佐伯市城山)

佐伯城(さいきじょう)

●所在地 大分県佐伯市城山
●登城日 2008年12月3日
●築城年 慶長7年(1602)
●築城者 毛利高政
●形態 平山城
●標高 137m
●別名 鶴屋城、鶴ヶ城、鶴城、鶴谷城
●遺構 天守台、櫓門(現存)、石垣、郭等

◆解説
 佐伯市という呼称は「さえき」ではなく、「さいき」という。大分県の南端部にある市で、南隣は宮崎県延岡市と接する。戦国期の国名でいえば、豊後と日向の境目となる位置になる。

 佐伯城は江戸期に築城された城郭で、戦国期のものではない。戦国期でこの地域にあったのは、佐伯城のある佐伯市街から北西約4キロにある、栂牟礼山城(223.6m)である。残念ながらこの時は時間がなく、登城していない。
【写真左】佐伯城遠望

 東南麓からみたもので、手前の建物は佐伯市の文化会館。







 現地の説明板より

史跡 豊後 佐伯城
 城山山頂の城址は、海抜140m、遠く南豊の山々をめぐらし、番匠川は曲がりくねって佐伯湾にそそぎ、はるかに豊後水道を隔てて、四国の島山が霞んで見える。眼下には県南の政治・経済・産業・文教の中心都市、人口5万の佐伯市街がひろがり、展望絶景、歩いて15分で登れる景勝の地である。

 慶長6年(1601)4月、日田より入封の初代・毛利高政は、この地を相して佐伯荘2万石の本拠地と定め、先ず山頂に築城の工を起こし、城下町の建設に取り掛かった。
【写真左】三の丸櫓門
 写真右側が駐車場になっている。櫓門を抜けると上記の文化会館と敷地がある。このあたりほとんどは、江戸期の遺構跡らしい。



 三層の天守閣を持つ本丸を中心に、二の丸・西の丸を西南に伸ばし、北の丸を東北に広げ、あたかも舞鶴の翼を張った姿に自ずと鶴屋城と名づけられ、また鶴城と呼ばれた。

 城は4年後の慶長11年に完成したが、ほどなく失火により本丸・二の丸を失い、その復興をあえて行わず、寛永14年(1657)、山麓に三の丸を開き、大いに殿館を営んで以来200数十年、佐伯藩政はもっぱらここで執られた。それは、山城の不便さを避けてのことである。そして明治初年の版籍奉還・廃藩置県によって廃城となった。今は城郭の遺構としては僅かに三の丸櫓門を残すだけであるが、なお城跡を示す石垣はほとんど完全に残り、城址公園として市民に親しまれている。

【写真左】登城口付近
 佐伯城へ向かう道は、地元出身の国木田独歩にちなんだ「独歩碑の道」「登城の道」「翌明の道」「若宮の道」という名称の付いた4つの道がある。

 この日歩いた道がこのうちどれなのか、すっかり忘れたが、江戸初期にできた道と思われ、余り手が加えられていないものだった。
 なお、写真左側に上記文化会館がある。


◆略歴

慶長6年(1601) 毛利高政、日田より佐伯荘に入封する。
慶長7年(1602) 近江の人・市田祐定に命じて築城を始める。
慶長11年(1606) 築城完工、鶴屋城と呼ぶ。
元和元年(1615) 高政、大坂夏の陣に参加。
【写真左】佐伯城山頂部の郭
 当城は平山城と定義されているが、標高はさほどないものの、険峻さ・地どりを考えると、近世城郭でありながら、十分に山城の雰囲気を持った城郭である。

 写真の部分は北に伸びた郭で、幅は狭いものの長さは相当にある。



元和3年(1617) 鶴屋城二の丸より出火、本丸天守閣焼失する。
寛永14年(1637) 山麓に三の丸を造り藩政を執る。
宝永4年(1707) 地震津波のため、486戸倒壊する。
享保4年(1729) 鶴屋城修復する。ただし天守閣設けず。
安永6年(1777) 8代藩主・高標、藩校「四教堂」をつくる。
天明元年(1781) 高標、城中に佐伯文庫(蔵書8万巻)をつくる。
文化9年(1812) 直川ほか7カ村の農民が一揆をおこす。
明治2年(1869) 12代藩主・高謙、版籍を奉還する。
明治4年(1871) 廃藩置県、7月佐伯県のち大分県となる。
佐伯市教育委員会”
【写真左】本丸近くにある橋











 説明板にある初代・毛利高政は、今月投稿の「角牟礼城・その2」(3月6日)で示したように、文禄3年(1594)から豊臣秀吉の命によって、日田・玖珠郡に入部し、6年間にわたって、角牟礼城を築城(改修)している(ただ、高政の本城は、日田の日隅城を居城としている)。

 その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、最初は西軍方に与していたが、途中から東軍に寝返った。この最中、東軍方に転じた黒田如水によって角牟礼城も開城されている。
【写真左】本丸から南に伸びた部分
 写真左側から眼下に佐伯市街が眺望できる。









 毛利高政は東軍方になったものの、元西軍(豊臣方)であったことから、家康からの処分は改易される状況でもあったが、藤堂高虎の仲介で免れた。その結果、慶長6年2万石で佐伯に転封された。他の外様大名同様、石高も少ない上に、他国の城普請の手伝いを度々命じられ、初期から佐伯藩の財政は厳しいものがあったようだ。

 なお、毛利姓とはなっているが、元は森姓で、天正10年(1582)本能寺の変で、信長が横死した際、秀吉は備前高松城で、急ぎ毛利方と和睦、このときの条件の一つが人質として、森高政と実兄重政毛利輝元に差し出したことから始まる。その後、輝元から両名は気に入られ、姓を森から毛利へと改姓した。
【写真左】南側に残る井戸跡
 この井戸の直径はおそらく3m前後は優にある大きなものだ。地形的に考えると、相当深く掘らないと水が出ないだろうから、当時の掘削工事には多大な労力が費やされただろう。
【写真左】本丸跡
 佐伯城の見どころは、何といっても石垣群であり、また、ここから俯瞰する佐伯の町並みや豊後水道の景色である。
 現在残っている石垣から、慶長年間に築城された当時を想像するだけで、城郭の勇壮さが偲ばれる。
 本丸跡の中央部には、祠が祀ってある。

【写真左】本丸跡から佐伯市街を見る
 入り組んだリアス式海岸の景色や、豊後水道の青い海が絶妙のバランスとなって、見る者を飽きさせない。
 国木田独歩は登山好きだったこともあり、この佐伯城の山頂には何度も登っている。写真には治めていないが、本丸付近には独歩の記念碑も立っている。

2010年3月8日月曜日

大友宗麟墓地(大分県津久見市大字津久見字ミウチ)

大友宗麟墓地(おおともそうりんぼち)

●所在地 大分県津久見市大字津久見字ミウチ
●探訪日 2008年12月3日

◆解説
 臼杵城のある臼杵市からさらに南下し、津久見市に入ると、佐伯津久見線(日向街道・36号線)がある。ここから少し西に入ったところに大友宗麟の墓地がある。

 墓地手前には、津久見高校や津久見小学校などがあり、住宅地の奥に設置されている。道が狭く、不定形な住宅団地の中を通っていくため、少し戸惑うが、ところどころに標識があるのでそれを頼りにすれば、たどり着ける。

 墓地公園そのものは駐車場も広く取ってあり、地元市民の憩いの場も兼ねた公園のようだ。
【写真左】宗麟の銅像と、説明板の碑










現地の説明板より、転載する。

“大友宗麟は享禄3年(1530)府内(大分市)の大友館で生まれ、父義鑑の横死のあとを受けて天文19年(1550)弱冠21歳で、戦国時代の真只中に大友氏21代の城主となった。

 その後、内は統治に意を用い、外は武威を張り豊前・豊後・筑前筑後・肥前肥後の6カ国と日向伊豫の各半分を領し、勢威九州を圧し大友の最盛期を築いた。

 城主となった翌年宗麟は、日本に初めてキリスト教を伝えた聖フランシスコ・ザビエルを迎えて教旨を聴き、大いに心服し、以後キリスト教を庇護したため、信者は日毎に増え府内には西欧文化が絢爛と栄えた。

 天正6年(1578)神父カブラルから洗礼を受け経名をフランシスコをした。天正10年(1582)には、キリシタン大名大村・有馬と共に少年使節をローマに派遣した。

 しかし、天正14年(1586)島津と戦って破れ、翌年豊臣秀吉の島津討伐があったが既に疲労甚だしく、天正15年(1587)5月23日、津久見の住居で聖者の如く浄く帰天した。時に58歳であった。

 葬儀は神父たちによって盛大に行われ、墓もキリスト教式に建てられたが、宗麟の死後僅か1ヶ月の後、秀吉が突如耶蘇教禁令を発布したため、嫡子義統は仏式の墓に取り替えた。その墓も荒廃し200年後の寛政年間に臼杵の旧族臼杵城豊が、堂宇を新築し新しい墓をこれに納めたのが現在の墓である。
【写真左】堂宇と思われる
 宗麟がキリスト教に入信する前は、大友氏は代々禅宗である臨済宗を崇敬し、宗麟自身も京都から大徳寺瑞峯院の怡雲禅師を招き、修禅に励んだ。

 当初宗麟はキリスト教と同宗両派を信心したため、宣教師たちは困惑したという。

 洗礼を受ける前、宗麟は同師から戒名「瑞峯院殿瑞峯宗麟大居士」も授けられている。おそらくこの堂宇にその戒名が刻銘されていると思われるが、判読が困難。
 

 しかしその堂宇も破滅し、見るに堪えないので、このたび石田秀夫津久見市長、木下郁前県知事、平山高高明カトリック大分司教、山本峯生県教育長と後任の矢野朔雄氏と私が、大友宗麟公顕彰会を作り、設計は斯界の権威磯崎新氏に委嘱し、経費の大部分は水族館マリーンパレスが創業14周年記念事業として負担した。

昭和52年9月  大友宗麟公顕彰会代表
         ㈱マリーンパレス社長  上田 保”
【写真左】宗麟の墓
 磯崎新氏の設計によるもの。なかなか斬新なデザインである。






【写真左】墓地公園内
 モミジなどがたくさん植えられている。

2010年3月7日日曜日

臼杵城(大分県臼杵市大字臼杵)

臼杵城(うすきじょう)

●所在地 大分県臼杵市大字臼杵字丹生島
●登城日 2008年12月3日
●築城期 弘治2年(1556)~永禄5年(1562)
●築城者 大友宗麟
●城主 大友氏、福原氏、太田氏、稲葉氏
●形式 連郭式平山城(海城)
●別名 丹生島城
●指定 大分県指定史跡(昭和41年3月22日)

◆解説(参考文献「戦国九州三国志」学研、「西国の戦国合戦」山本浩樹著、その他)
 現地の説明板より

県指定史跡 臼杵城跡

 臼杵城は、永禄5年(1562)、大友宗麟によって臼杵湾に浮かぶ丹生嶋に築かれました。
 大友氏ののち、福原直高、太田一吉と城主が変わり、慶長5年(1600)からは、稲葉貞通が臼杵城主として入府し、明治4年(1871)の廃藩置県を迎えるまで、稲葉氏が城主として臼杵を治めてきました。
臼杵市・臼杵市教育委員会
【写真左】臼杵城遠望
 当城の西側にあたる部分で、写真手前の道路と向いの石垣の間には堀が残っている。宗麟時代には臼杵城全体は、丹生嶋という島に築城されていたので、いわゆる海城である。

 従って、この手前付近の道路も海で、その向の石垣部分が大手口といわれていた。
 城の規模はさほどないものの、こうした岩山を巧みに利用した情景は見ごたえがある。



大友宗麟

 大友宗麟(そうりん)という名前は、彼が32歳のとき(永禄5年・1562)、出家して号した名前で、それまでは鑑鎮(よししげ)と名乗っていた。

 生まれたのは、享禄3年(1530)1月3日(別説では5月4日)に、当時豊後守護だった父・大友義鑑(よしあき)の長男として、現在の大分市(府内)に生まれている。ちなみに、彼と同時期に生まれた戦国武将としては、越後の上杉謙信で、同じく1月生まれである。
【写真左】大手口付近
 この日(2008年12月3日)訪れた時、大手口も含め数カ所改修工事が行われていた。







 戦国時代によくあるケースとして、家督相続に絡み、身内同士で謀殺事件が起こることがある。彼もまた20歳のとき、実父・義鑑から廃嫡され、このことに宗麟の家臣らが反旗を挙げ、実父および嗣子とされた異母弟・塩市丸を殺害。

 このクーデターは「二階崩れの変」と呼ばれ、これによって、宗麟が大友氏の家督を受け継ぐことになる。

 よく似たケースとしては、武田信玄の例がある。常識的には当時、長男が自動的に世襲するのが通例である。宗麟も信玄も、どうしたわけか長男であるにも拘わらず、実父から嫌われる。
宗麟はこのクーデターを機に、一気に九州一の戦国大名に向かって走り出すが、他の戦国武将とは別の世界観・理想を持っていた。
【写真左】二の丸櫓門













賛美歌が流れる町

 天文20年(1551)9月、フランシスコ・ザビエルが当時大友氏の居館であった府内城を訪れ、宗麟に拝謁する。

 豊後でのキリスト教布教を許し、府内には教会も造られ、そこではビオラの演奏で賛美歌が歌われ、クリスマスの日にはキリストを題材にした演劇も行われたという。また、宣教師らによって造られた病院や福祉施設もあったというから、当時の日本の城下町としては、他に例を見ない別世界の町の姿があった。

 ところで、日本の戦国期で、これらヨーロッパ音楽などを生で聞いた武将としては、織田信長、豊臣秀吉らが挙げられている。ただ、彼らがどれほどこの当時のヨーロッパ音楽を聴いて、理解していたかとなると、疑問が残る。これはセレモニーの一つとして演奏されたので、信長や秀吉からみれば、音楽よりも楽器や、服装などに注目が置かれ、観賞会の態は成していなかったと思われる。
【写真左】二の丸跡の図











宗麟の音楽観

 それに対し、確証はないのだが、宗麟の場合はこのヨーロッパからもたらされた音楽、特に教会音楽や、ポリフォニー楽曲に相当興味を持ったのではないだろうかと思われる。

 というのも、彼はのちには、日向(宮崎県延岡)の務志賀(むしかに、キリスト教理の理想国家を建設することを夢見る。ちなみに、務志賀は、ポルトガル語の「ムジカ(音楽)」の語意から来たもので、宗麟がその地名を名づけたといわれている。そうした記録からも、彼が特に西洋音楽・教会音楽に熱心だったことが分かる。

そこで、少し脱線して恐縮だが、当時宗麟が、宣教師らから具体的にどのような音楽・楽曲を聞いていたかというのが、前から興味があった。
写真左】大砲「国崩し」の複製
 この「国崩し」といわれる大砲は、天正4年(1576)ポルトガル人から宗麟へ送られたものという。島津氏が攻めた天正14年(1586)、当城で2基が使用された。



 このころヨーロッパを中心にした音楽の中で、最も親しまれていた作曲家としては、ジョスカン・デ・プレ(1450?~1521)がいる。

 そこで、確証はまったくないのだが、おそらく彼の作品も演奏されていたのではないだろうかと想像される。彼の作品には、ミサ曲、モテット、世俗曲など多くの作品が残され、現在でもよく演奏されている。

 そして、管理人としてさらに興味が尽きないのは、これら宣教師らの中に、当時使用されていた「ビウェラ(ギター族楽器)」という楽器を弾きこなす者がいたのではないかと想像もするのである。もしその奏者がいたなら、おそらく彼は、ジョスカン・デ・プレの声楽曲「ミレ・レグレ」を定旋律に編曲した、当時の最も優れたビウェラ奏者・ルイス・デ・ナルバエス(※)の独奏曲「皇帝の歌(Cancion del Emperador)」を、たとえば「御前演奏」として、弾いたのではないか、と、そんな想像と期待をしてみたくもなる。

 なお、この「皇帝の歌」の譜面はオリジナル譜(タブラチュア譜)ではないものの、当方はギター版のものとして編曲されたものを持っていて、時々つま弾いている。despacio(ゆったり)とした曲で、格調高い雰囲気を持った楽曲である。

ルイス・デ・ナルバエス(Luis de Narvaez:1510~1555頃)
 グラナダに生まれた作曲家・ビウェラ奏者で、フェリーぺ2世に仕える。1538年「デルフィンの6冊の曲集」を発表。「皇帝の歌」はこの中に含まれる。

【写真左】臼杵城北側の石垣改修工事の模様
 これまで登城した時に、こうした工事現場を見る機会はなかったので、非常に興味深いものがあった。






丹生嶋城の攻防

 さて、臼杵城の話題からとんでもなく脱線してしまった。話を戻したい。
臼杵城が注目されるのは、宗麟の晩年で、天正14年(1586)島津氏に攻め入られ、同年10月ついに当城に立てこもった時である。いわゆる「丹生嶋城の攻防」といわれた合戦である。

 宗麟の最盛期は永禄2年(1559)で、この年、豊後・肥前・肥後と押さえ、さらに豊前・筑前・筑後の守護となり、さらに13代足利義輝から九州探題に任ぜられた時である。その3年後の永禄5年、冒頭に記したように、出家して宗麟を号す。

 元亀元年(1570)には、長期にわたりあった毛利氏と和睦(毛利氏側の都合:出雲国における尼子再興軍の進攻により撤兵)。

 このあとから次第に大友氏に陰りが見え始める。天正6年(1578)、正室・奈多氏と信仰上(キリスト教)の見解の不一致から離縁。3月になると、嫡男・義統(よしむね)を日向に出兵、一旦奪回するも、11月には耳川の戦いで島津側に惨敗。その後、島津氏は次第に北上し、前記したように当城で籠城することになる。このとき使われた大友方の大砲は威力を見せ、別名「国崩し」(上段写真参照)と呼ばれている。

◎関連投稿
豊前・龍王城(大分県宇佐市安心院町龍王字古城)

2010年3月6日土曜日

角牟礼城・その2

角牟礼城(つのむれじょう)・その2

◆解説
 角牟礼城・その2として、今稿は当城を地域資源や文化のまちづくりにも活用している「つのむれ会」という団体の紹介と併せ、当城周辺の眺望を中心に紹介したい。

【写真左】眺望その1












 前稿で紹介できなかったが、現地にはこの「つのむれ会」という団体によって作られた詳細な年表が設置されていたので、改めて下段に転載しておく。

難攻不落の角牟礼城略年表(つのむれ会)
   所在地 大分県玖珠郡玖珠町大字森(角埋山・標高576m)

1122(保安3年)
 11月19日の「清原氏所領配分状」(大友文書)に「角牟礼鐘突堂」とあり、これ以前に山岳宗教の堂宇がここにあったと思われる。

1155(久寿2年
 このころ源為朝が築城したと伝えられる。

1278~1287(弘安年間)
 このころ森三郎朝通が、ここに居城したという。

1534(天文3年)
 大友義鑑(よしあき)は、古後中務少輔以下8名の玖珠郡衆あてに、新堀築造の感状を出す(菊池氏、大内氏に対する備えとして)。

1586(天正14年)
 12月、大友氏攻略の島津軍約6千人が玖珠郡に攻め入る。

1587(天正15年)
 1~3月、角牟礼城攻撃。籠城の森五郎左衛門はじめ古後、太田氏等約11千人、島津軍数度の猛攻に屈せず、これを撃退する。
【写真左】眺望その2













1593(文禄2年)
 豊臣秀吉は大友吉統(よしむね)を罰し、除国。豊後国は秀吉の直轄地となる。森氏等も城を捨てる。

1594(文禄3年)
 毛利高政は、秀吉の命を受けて日田・玖珠郡に入部。以後6年の間に本格的な築城を目指し、穴太積みの石垣や櫓門も造られたのではないかといわれている。

1600(慶長5年)
 9月、関ヶ原の戦いで西軍敗北。城は黒田如水により開城。

1601(慶長6年)
 徳川家康、元伊予の水軍大将久留嶋(来島)康親を森に封ずる。康親は館を角埋山の麓(童話碑のところ)に構える。角牟礼城は廃城となる(毛利高政は佐伯城へ移る)。

1615(元和元年)
 幕府、一国一城令を公布。2代藩主久留嶋通春は、城の建物・石垣の一部を破却。

(藩政時代)
 その後森藩では、有事に備えて山一帯を管理し、通常は一般の入場を禁じていた。

1993(平成5年)
 玖珠町教育委員会により、城跡の発掘調査が始まる。(櫓門跡などの礎石・瓦片・磁器などが出土)”
【写真左】眺望その3





◆「つのむれ会」について

 全国の主要な山城でも、地域ごとにその保存活動などはされていると思われるが、この「つのむれ会」のHPを見ると、非常に地元住民の積極的な活動を知ることができる。
 昭和56年(1981)の結成というから、四半世紀を超える。会員は現在200名以上を数える。

 角牟礼城は平成17年に国指定史跡となっているが、山城としての遺構の価値もさることながら、こうした地道な活動があったから、指定史跡を受けることもできたと思われる。

【写真左】眺望その4
 この山は角牟礼城本丸から南東方向に見える「大岩扇山(691m)」という山で、この方向からみると、まるで北アメリカのグランドキャニオンの渓谷に見える。




 天守閣などのある近世城郭については、一般的に観光地の一部としても、多くの人の目に留まるが、山城となると、なかなかその認知度が低いため、こうした保存管理や啓蒙活動まで含めた維持団体を結成することは、至難の業である。それを考えると、当会の活動は称賛に値する。
【写真左】本丸付近
 虎口跡といわれている個所である。