佐伯城(さいきじょう)
●所在地 大分県佐伯市城山
●登城日 2008年12月3日
●築城年 慶長7年(1602)
●築城者 毛利高政
●形態 平山城
●標高 137m
●別名 鶴屋城、鶴ヶ城、鶴城、鶴谷城
●遺構 天守台、櫓門(現存)、石垣、郭等
◆解説
佐伯市という呼称は「さえき」ではなく、「さいき」という。大分県の南端部にある市で、南隣は宮崎県延岡市と接する。戦国期の国名でいえば、豊後と日向の境目となる位置になる。
佐伯城は江戸期に築城された城郭で、戦国期のものではない。戦国期でこの地域にあったのは、佐伯城のある佐伯市街から北西約4キロにある、栂牟礼山城(223.6m)である。残念ながらこの時は時間がなく、登城していない。
【写真左】佐伯城遠望
東南麓からみたもので、手前の建物は佐伯市の文化会館。
現地の説明板より
“史跡 豊後 佐伯城
城山山頂の城址は、海抜140m、遠く南豊の山々をめぐらし、番匠川は曲がりくねって佐伯湾にそそぎ、はるかに豊後水道を隔てて、四国の島山が霞んで見える。眼下には県南の政治・経済・産業・文教の中心都市、人口5万の佐伯市街がひろがり、展望絶景、歩いて15分で登れる景勝の地である。
慶長6年(1601)4月、日田より入封の初代・毛利高政は、この地を相して佐伯荘2万石の本拠地と定め、先ず山頂に築城の工を起こし、城下町の建設に取り掛かった。
【写真左】三の丸櫓門
写真右側が駐車場になっている。櫓門を抜けると上記の文化会館と敷地がある。このあたりほとんどは、江戸期の遺構跡らしい。
三層の天守閣を持つ本丸を中心に、二の丸・西の丸を西南に伸ばし、北の丸を東北に広げ、あたかも舞鶴の翼を張った姿に自ずと鶴屋城と名づけられ、また鶴城と呼ばれた。
城は4年後の慶長11年に完成したが、ほどなく失火により本丸・二の丸を失い、その復興をあえて行わず、寛永14年(1657)、山麓に三の丸を開き、大いに殿館を営んで以来200数十年、佐伯藩政はもっぱらここで執られた。それは、山城の不便さを避けてのことである。そして明治初年の版籍奉還・廃藩置県によって廃城となった。今は城郭の遺構としては僅かに三の丸櫓門を残すだけであるが、なお城跡を示す石垣はほとんど完全に残り、城址公園として市民に親しまれている。
【写真左】登城口付近
佐伯城へ向かう道は、地元出身の国木田独歩にちなんだ「独歩碑の道」「登城の道」「翌明の道」「若宮の道」という名称の付いた4つの道がある。
この日歩いた道がこのうちどれなのか、すっかり忘れたが、江戸初期にできた道と思われ、余り手が加えられていないものだった。
なお、写真左側に上記文化会館がある。
◆略歴
慶長6年(1601) 毛利高政、日田より佐伯荘に入封する。
慶長7年(1602) 近江の人・市田祐定に命じて築城を始める。
慶長11年(1606) 築城完工、鶴屋城と呼ぶ。
元和元年(1615) 高政、大坂夏の陣に参加。
【写真左】佐伯城山頂部の郭
当城は平山城と定義されているが、標高はさほどないものの、険峻さ・地どりを考えると、近世城郭でありながら、十分に山城の雰囲気を持った城郭である。
写真の部分は北に伸びた郭で、幅は狭いものの長さは相当にある。
元和3年(1617) 鶴屋城二の丸より出火、本丸天守閣焼失する。
寛永14年(1637) 山麓に三の丸を造り藩政を執る。
宝永4年(1707) 地震津波のため、486戸倒壊する。
享保4年(1729) 鶴屋城修復する。ただし天守閣設けず。
安永6年(1777) 8代藩主・高標、藩校「四教堂」をつくる。
天明元年(1781) 高標、城中に佐伯文庫(蔵書8万巻)をつくる。
文化9年(1812) 直川ほか7カ村の農民が一揆をおこす。
明治2年(1869) 12代藩主・高謙、版籍を奉還する。
明治4年(1871) 廃藩置県、7月佐伯県のち大分県となる。
佐伯市教育委員会”
【写真左】本丸近くにある橋
説明板にある初代・毛利高政は、今月投稿の「角牟礼城・その2」(3月6日)で示したように、文禄3年(1594)から豊臣秀吉の命によって、日田・玖珠郡に入部し、6年間にわたって、角牟礼城を築城(改修)している(ただ、高政の本城は、日田の日隅城を居城としている)。
その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、最初は西軍方に与していたが、途中から東軍に寝返った。この最中、東軍方に転じた黒田如水によって角牟礼城も開城されている。
【写真左】本丸から南に伸びた部分
写真左側から眼下に佐伯市街が眺望できる。
毛利高政は東軍方になったものの、元西軍(豊臣方)であったことから、家康からの処分は改易される状況でもあったが、藤堂高虎の仲介で免れた。その結果、慶長6年2万石で佐伯に転封された。他の外様大名同様、石高も少ない上に、他国の城普請の手伝いを度々命じられ、初期から佐伯藩の財政は厳しいものがあったようだ。
なお、毛利姓とはなっているが、元は森姓で、天正10年(1582)本能寺の変で、信長が横死した際、秀吉は備前高松城で、急ぎ毛利方と和睦、このときの条件の一つが人質として、森高政と実兄重政を毛利輝元に差し出したことから始まる。その後、輝元から両名は気に入られ、姓を森から毛利へと改姓した。
【写真左】南側に残る井戸跡
この井戸の直径はおそらく3m前後は優にある大きなものだ。地形的に考えると、相当深く掘らないと水が出ないだろうから、当時の掘削工事には多大な労力が費やされただろう。
【写真左】本丸跡
佐伯城の見どころは、何といっても石垣群であり、また、ここから俯瞰する佐伯の町並みや豊後水道の景色である。
現在残っている石垣から、慶長年間に築城された当時を想像するだけで、城郭の勇壮さが偲ばれる。
本丸跡の中央部には、祠が祀ってある。
【写真左】本丸跡から佐伯市街を見る
入り組んだリアス式海岸の景色や、豊後水道の青い海が絶妙のバランスとなって、見る者を飽きさせない。
国木田独歩は登山好きだったこともあり、この佐伯城の山頂には何度も登っている。写真には治めていないが、本丸付近には独歩の記念碑も立っている。
●所在地 大分県佐伯市城山
●登城日 2008年12月3日
●築城年 慶長7年(1602)
●築城者 毛利高政
●形態 平山城
●標高 137m
●別名 鶴屋城、鶴ヶ城、鶴城、鶴谷城
●遺構 天守台、櫓門(現存)、石垣、郭等
◆解説
佐伯市という呼称は「さえき」ではなく、「さいき」という。大分県の南端部にある市で、南隣は宮崎県延岡市と接する。戦国期の国名でいえば、豊後と日向の境目となる位置になる。
佐伯城は江戸期に築城された城郭で、戦国期のものではない。戦国期でこの地域にあったのは、佐伯城のある佐伯市街から北西約4キロにある、栂牟礼山城(223.6m)である。残念ながらこの時は時間がなく、登城していない。
【写真左】佐伯城遠望
東南麓からみたもので、手前の建物は佐伯市の文化会館。
現地の説明板より
“史跡 豊後 佐伯城
城山山頂の城址は、海抜140m、遠く南豊の山々をめぐらし、番匠川は曲がりくねって佐伯湾にそそぎ、はるかに豊後水道を隔てて、四国の島山が霞んで見える。眼下には県南の政治・経済・産業・文教の中心都市、人口5万の佐伯市街がひろがり、展望絶景、歩いて15分で登れる景勝の地である。
慶長6年(1601)4月、日田より入封の初代・毛利高政は、この地を相して佐伯荘2万石の本拠地と定め、先ず山頂に築城の工を起こし、城下町の建設に取り掛かった。
【写真左】三の丸櫓門
写真右側が駐車場になっている。櫓門を抜けると上記の文化会館と敷地がある。このあたりほとんどは、江戸期の遺構跡らしい。
三層の天守閣を持つ本丸を中心に、二の丸・西の丸を西南に伸ばし、北の丸を東北に広げ、あたかも舞鶴の翼を張った姿に自ずと鶴屋城と名づけられ、また鶴城と呼ばれた。
城は4年後の慶長11年に完成したが、ほどなく失火により本丸・二の丸を失い、その復興をあえて行わず、寛永14年(1657)、山麓に三の丸を開き、大いに殿館を営んで以来200数十年、佐伯藩政はもっぱらここで執られた。それは、山城の不便さを避けてのことである。そして明治初年の版籍奉還・廃藩置県によって廃城となった。今は城郭の遺構としては僅かに三の丸櫓門を残すだけであるが、なお城跡を示す石垣はほとんど完全に残り、城址公園として市民に親しまれている。
【写真左】登城口付近
佐伯城へ向かう道は、地元出身の国木田独歩にちなんだ「独歩碑の道」「登城の道」「翌明の道」「若宮の道」という名称の付いた4つの道がある。
この日歩いた道がこのうちどれなのか、すっかり忘れたが、江戸初期にできた道と思われ、余り手が加えられていないものだった。
なお、写真左側に上記文化会館がある。
◆略歴
慶長6年(1601) 毛利高政、日田より佐伯荘に入封する。
慶長7年(1602) 近江の人・市田祐定に命じて築城を始める。
慶長11年(1606) 築城完工、鶴屋城と呼ぶ。
元和元年(1615) 高政、大坂夏の陣に参加。
【写真左】佐伯城山頂部の郭
当城は平山城と定義されているが、標高はさほどないものの、険峻さ・地どりを考えると、近世城郭でありながら、十分に山城の雰囲気を持った城郭である。
写真の部分は北に伸びた郭で、幅は狭いものの長さは相当にある。
元和3年(1617) 鶴屋城二の丸より出火、本丸天守閣焼失する。
寛永14年(1637) 山麓に三の丸を造り藩政を執る。
宝永4年(1707) 地震津波のため、486戸倒壊する。
享保4年(1729) 鶴屋城修復する。ただし天守閣設けず。
安永6年(1777) 8代藩主・高標、藩校「四教堂」をつくる。
天明元年(1781) 高標、城中に佐伯文庫(蔵書8万巻)をつくる。
文化9年(1812) 直川ほか7カ村の農民が一揆をおこす。
明治2年(1869) 12代藩主・高謙、版籍を奉還する。
明治4年(1871) 廃藩置県、7月佐伯県のち大分県となる。
佐伯市教育委員会”
【写真左】本丸近くにある橋
説明板にある初代・毛利高政は、今月投稿の「角牟礼城・その2」(3月6日)で示したように、文禄3年(1594)から豊臣秀吉の命によって、日田・玖珠郡に入部し、6年間にわたって、角牟礼城を築城(改修)している(ただ、高政の本城は、日田の日隅城を居城としている)。
その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、最初は西軍方に与していたが、途中から東軍に寝返った。この最中、東軍方に転じた黒田如水によって角牟礼城も開城されている。
【写真左】本丸から南に伸びた部分
写真左側から眼下に佐伯市街が眺望できる。
毛利高政は東軍方になったものの、元西軍(豊臣方)であったことから、家康からの処分は改易される状況でもあったが、藤堂高虎の仲介で免れた。その結果、慶長6年2万石で佐伯に転封された。他の外様大名同様、石高も少ない上に、他国の城普請の手伝いを度々命じられ、初期から佐伯藩の財政は厳しいものがあったようだ。
なお、毛利姓とはなっているが、元は森姓で、天正10年(1582)本能寺の変で、信長が横死した際、秀吉は備前高松城で、急ぎ毛利方と和睦、このときの条件の一つが人質として、森高政と実兄重政を毛利輝元に差し出したことから始まる。その後、輝元から両名は気に入られ、姓を森から毛利へと改姓した。
【写真左】南側に残る井戸跡
この井戸の直径はおそらく3m前後は優にある大きなものだ。地形的に考えると、相当深く掘らないと水が出ないだろうから、当時の掘削工事には多大な労力が費やされただろう。
【写真左】本丸跡
佐伯城の見どころは、何といっても石垣群であり、また、ここから俯瞰する佐伯の町並みや豊後水道の景色である。
現在残っている石垣から、慶長年間に築城された当時を想像するだけで、城郭の勇壮さが偲ばれる。
本丸跡の中央部には、祠が祀ってある。
【写真左】本丸跡から佐伯市街を見る
入り組んだリアス式海岸の景色や、豊後水道の青い海が絶妙のバランスとなって、見る者を飽きさせない。
国木田独歩は登山好きだったこともあり、この佐伯城の山頂には何度も登っている。写真には治めていないが、本丸付近には独歩の記念碑も立っている。
0 件のコメント:
コメントを投稿