立花山城(たちばなやまじょう)
●所在地 福岡県新宮町・久山町・福岡市東区
●登城日 2008年12月2日
●築城年 元徳2年(1330)、または建武元年(1334)
●築城者 立花(大友)貞載
●城主 立花鑑載(あきとし)、立花道雪・小早川氏等
●標高 367m
●廃城年 1601年
◆解説(参考文献「戦国九州三国志」学習研究社発行、「西国の戦国合戦」山本浩樹著、「尼子盛衰人物記」妹尾豊三郎編、その他)
このところ、島根県や鳥取県の山城が続いてきたので、今稿からしばらく山陰地方以外の山城を取り上げたい。
【写真左】立花山城遠望
駐車場付近からみたもの
今回取り上げる立花山城は、九州福岡県にある山城だが、昨年取り上げた島根県出雲市の斐川町新指定文化財「米原氏関連寄進状、棟札」講演その2の際にも、少し取り上げているように、毛利・尼子氏も関わった山城でもある。
現地の説明板より
“立花城 旧蹟
立花城は1334年に、足利尊氏の家臣として仕えた大友貞宗(本拠地・豊後)の子・大友貞載(さだとし)の築城で、貞載がこの地名の立花姓を名乗って以来、立花氏は勢威を振い、「筑前の要塞」として重要拠点となった。
戦国時代には、有数の貿易港・博多の利権争いを巡って、立花城を舞台に熾烈な争奪戦が繰り広げられた。 戦国を征した豊臣秀吉が九州を統一後、立花氏は、柳川城主として移った。
立花城(山城)には、小早川氏が入城したが、水軍を得意としたため、名島に城を築く。のちに黒田氏が名島城に入城し、西暦1601年に福岡城を築いてより、立花城は廃城となった。
福岡城の城壁の石は、主に立花山より移送したものが多く、立花山には僅かながら城の石垣跡が点在している。
福岡市東区役所(一区一美事業)”
【写真左】立花山登山道案内図
登山口付近に設置されている。登山道は6コースあるようだが、今回は北側の立花山バス停から登った。
説明板にもあるように、立花山城は大友氏(宗麟)が関わった山城であり、特に毛利氏との長い戦いでは度々戦禍に見舞われた。大友宗麟については、いずれ機会を改めて取り上げたいが、西国の部将の中でも異色の人物で、キリシタン大名として、一時期は九州一の戦国大名となった。
【写真左】登城路途中の古井戸付近
立花山城での貴重な飲料水を確保していた井戸跡で、写真右から少し下がった所にあるが、井戸の輪郭を示す石垣はあるものの、ほとんど埋まっている。
立花山城が注目される時期は、永禄11年(1568)で、宗麟が龍造寺を攻め入ったとき、この隙をついて、それまで大友方だった、当城主・立花鑑載(あきとし)や高橋鑑種(あきたね)らが背き、当城に籠った。
このため、龍造寺氏との戦いはいったん中止・和睦し、立花山城の攻撃に変更した。
約4カ月後の7月、立花鑑載を討ち取ったが、他の毛利方や地元国人領主である宗像・秋月・原田、および加勢していた毛利方は討ち漏らした。
【写真左】立花山城本丸跡
かなり広い削平地となっており、本丸の大きさとしては規模が大きい。
ただ、一般の山城のような明確な遺構は多くは残っておらず、市民のハイキング登山用の山として沢山の人が活用しているようだ。
この日も、10人程度の人が登っていた。
明くる永禄12年(1569)4月、毛利勢は4万の大軍(この中には出雲の元尼子方武将・斐川高瀬城主・米原綱寛もいた)で宗像領に入り、一気に立花城に迫ってきた。5月から始まった戦いは熾烈を極め、大友方3万の軍勢は劣勢に立たされ、一旦同城を開城し、立花城西麓の多々良浜で再び激しく交えた。
今度は、毛利勢が前進できなくなり、10月に入ると、宗麟は大内家の遺臣を山口に侵攻させた。この年、出雲国では6月23日、山中鹿助が尼子勝久を擁して、隠岐国から島根半島に上陸し、次々と尼子旧臣を引き入れて、尼子再興戦が始まっていた。このため、毛利方としては、いつまでも北九州にとどまることはできなくなった。
【写真左】石垣の一部
立花山から少し西の松尾山に向かう鞍部には、明確な石垣群が残っているようだが、この日は時間がなく、そこまでは行っていない。この石垣の跡は、本丸近くにあったもの。
この結果、毛利方が九州から撤退したため、宗麟はこの時をもって一挙に優位に立ち、高橋鑑種を降し、立花山城を奪回した。
毛利氏との戦いは、その後元亀2年(1571)6月に元就が亡くなったことを機に、一旦収まったが、その後は九州内において、島津氏・龍造寺氏との交戦に巻き込まれ、次第に所領を失っていく。
【写真左】本丸跡から博多湾を望む・その1
志賀島、能古島、玄界灘が夕日に染まり、夕暮れ時に合わせて、わざわざ登ってくる人も多い。
【写真左】その2
博多の街並み
◎関連投稿
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筑前・岩屋城・その1(福岡県太宰府市大字観世音寺字岩屋)
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●築城年 元徳2年(1330)、または建武元年(1334)
●築城者 立花(大友)貞載
●城主 立花鑑載(あきとし)、立花道雪・小早川氏等
●標高 367m
●廃城年 1601年
◆解説(参考文献「戦国九州三国志」学習研究社発行、「西国の戦国合戦」山本浩樹著、「尼子盛衰人物記」妹尾豊三郎編、その他)
このところ、島根県や鳥取県の山城が続いてきたので、今稿からしばらく山陰地方以外の山城を取り上げたい。
【写真左】立花山城遠望
駐車場付近からみたもの
今回取り上げる立花山城は、九州福岡県にある山城だが、昨年取り上げた島根県出雲市の斐川町新指定文化財「米原氏関連寄進状、棟札」講演その2の際にも、少し取り上げているように、毛利・尼子氏も関わった山城でもある。
現地の説明板より
“立花城 旧蹟
立花城は1334年に、足利尊氏の家臣として仕えた大友貞宗(本拠地・豊後)の子・大友貞載(さだとし)の築城で、貞載がこの地名の立花姓を名乗って以来、立花氏は勢威を振い、「筑前の要塞」として重要拠点となった。
戦国時代には、有数の貿易港・博多の利権争いを巡って、立花城を舞台に熾烈な争奪戦が繰り広げられた。 戦国を征した豊臣秀吉が九州を統一後、立花氏は、柳川城主として移った。
立花城(山城)には、小早川氏が入城したが、水軍を得意としたため、名島に城を築く。のちに黒田氏が名島城に入城し、西暦1601年に福岡城を築いてより、立花城は廃城となった。
福岡城の城壁の石は、主に立花山より移送したものが多く、立花山には僅かながら城の石垣跡が点在している。
福岡市東区役所(一区一美事業)”
【写真左】立花山登山道案内図
登山口付近に設置されている。登山道は6コースあるようだが、今回は北側の立花山バス停から登った。
説明板にもあるように、立花山城は大友氏(宗麟)が関わった山城であり、特に毛利氏との長い戦いでは度々戦禍に見舞われた。大友宗麟については、いずれ機会を改めて取り上げたいが、西国の部将の中でも異色の人物で、キリシタン大名として、一時期は九州一の戦国大名となった。
【写真左】登城路途中の古井戸付近
立花山城での貴重な飲料水を確保していた井戸跡で、写真右から少し下がった所にあるが、井戸の輪郭を示す石垣はあるものの、ほとんど埋まっている。
立花山城が注目される時期は、永禄11年(1568)で、宗麟が龍造寺を攻め入ったとき、この隙をついて、それまで大友方だった、当城主・立花鑑載(あきとし)や高橋鑑種(あきたね)らが背き、当城に籠った。
このため、龍造寺氏との戦いはいったん中止・和睦し、立花山城の攻撃に変更した。
約4カ月後の7月、立花鑑載を討ち取ったが、他の毛利方や地元国人領主である宗像・秋月・原田、および加勢していた毛利方は討ち漏らした。
【写真左】立花山城本丸跡
かなり広い削平地となっており、本丸の大きさとしては規模が大きい。
ただ、一般の山城のような明確な遺構は多くは残っておらず、市民のハイキング登山用の山として沢山の人が活用しているようだ。
この日も、10人程度の人が登っていた。
明くる永禄12年(1569)4月、毛利勢は4万の大軍(この中には出雲の元尼子方武将・斐川高瀬城主・米原綱寛もいた)で宗像領に入り、一気に立花城に迫ってきた。5月から始まった戦いは熾烈を極め、大友方3万の軍勢は劣勢に立たされ、一旦同城を開城し、立花城西麓の多々良浜で再び激しく交えた。
今度は、毛利勢が前進できなくなり、10月に入ると、宗麟は大内家の遺臣を山口に侵攻させた。この年、出雲国では6月23日、山中鹿助が尼子勝久を擁して、隠岐国から島根半島に上陸し、次々と尼子旧臣を引き入れて、尼子再興戦が始まっていた。このため、毛利方としては、いつまでも北九州にとどまることはできなくなった。
【写真左】石垣の一部
立花山から少し西の松尾山に向かう鞍部には、明確な石垣群が残っているようだが、この日は時間がなく、そこまでは行っていない。この石垣の跡は、本丸近くにあったもの。
この結果、毛利方が九州から撤退したため、宗麟はこの時をもって一挙に優位に立ち、高橋鑑種を降し、立花山城を奪回した。
毛利氏との戦いは、その後元亀2年(1571)6月に元就が亡くなったことを機に、一旦収まったが、その後は九州内において、島津氏・龍造寺氏との交戦に巻き込まれ、次第に所領を失っていく。
【写真左】本丸跡から博多湾を望む・その1
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