賀田城跡(かだじょうあと)
●所在地 島根県飯石郡飯南町下来島松本
前稿まで紹介した瀬戸山城から国道54号線を北上し、来島下三日市から分岐する国道184号線に入り、2キロほど行くと、標高500m弱の通称「松本山」が見える。この山に賀田城が築かれた。
永禄年間、石見・出雲の国人領主が次々と毛利方に降っていき、瀬戸山城主・赤名右京亮光清も、ほとんどの家臣とともにその考えを示したところ、重鎮であった森田左衛門と烏田権兵衛の両名は、異を唱え袂を分かった。そしてこの賀田城に立てこもり、毛利方並びに赤名一族とも戦った城である。
今稿では、「当町教育委員会編 文化財探訪4~6」(以下「文化財探訪」とする)に当城の詳細な調査報告が載せてあり、これらも併せ参考資料として紹介したいと思う。
先ず、この賀田城についての由来は現地にある説明板より、重複する内容もあるが転載する。
賀田城は、飯南町下来島にある通称「松本山」(標高494m)に築かれた中世の山城です。
1560年(永禄3年)には、毛利軍への降伏を決めた城主に対し、徹底抗戦を主張し、下城して戦った島田勝定・森田勝経の軍が立てこもった城としても知られています。また、関ヶ原の戦いのちの堀尾氏の出雲国入封に際しては、彼らの手によって改修が行われたことが、城の構造などから指摘されています。
現在、本丸跡へは登山道が整備され、およそ30分で行くことができます。山頂付近には当時の堀切・土塁・連続竪堀群など、山城の遺構がよい状態で残されています。
特に、第7郭と第8郭は、それぞれ単独の防御拠点でありながら、連携した防御構造となっており、この特殊な構造は、県内の城に類例がなく、大変貴重であるといえます。
登城したのは、2008年4月で(デジカメの撮影日設定を間違えている)、しかも雨模様の時だったこともあり、城域全体を踏破していない。
ところで、当城で少し気になったのは、表示板関係の統一である。
●所在地 島根県飯石郡飯南町下来島松本
●登城日 2008年4月23日
●標高 494m
●築城期 南北朝時代
●築城者 不明
●城主 森田左衛門・烏田権兵衛等
●遺構 郭、虎口、土塁、馬出
●別名 高名和城、石が城、松本城
この近くには「加田の湯温泉」があり、多くの人が訪れる。
前稿まで紹介した瀬戸山城から国道54号線を北上し、来島下三日市から分岐する国道184号線に入り、2キロほど行くと、標高500m弱の通称「松本山」が見える。この山に賀田城が築かれた。
永禄年間、石見・出雲の国人領主が次々と毛利方に降っていき、瀬戸山城主・赤名右京亮光清も、ほとんどの家臣とともにその考えを示したところ、重鎮であった森田左衛門と烏田権兵衛の両名は、異を唱え袂を分かった。そしてこの賀田城に立てこもり、毛利方並びに赤名一族とも戦った城である。
【写真左】登城口付近
新しい案内板が設置されている。右に見える道路は狭いが、駐車スペースはこの近くに空地のようなところがあるので、1,2台は確保できると思われる。
今稿では、「当町教育委員会編 文化財探訪4~6」(以下「文化財探訪」とする)に当城の詳細な調査報告が載せてあり、これらも併せ参考資料として紹介したいと思う。
先ず、この賀田城についての由来は現地にある説明板より、重複する内容もあるが転載する。
“賀田城
賀田城は、飯南町下来島にある通称「松本山」(標高494m)に築かれた中世の山城です。
『赤穴家系図』によると、1346年(正平元年)に石見地方の国人領主であった佐波実連の弟・秀清が「都賀高巻城に籠城して利あらず、のち、下来島高名和城に籠る。
また、同書に「佐馬助幸季(赤穴美作守幸清の弟)、下来島・八神・志津見・波多の四村を領す。下来島高名和城に居し、のち、越後守と号す」とあります。
築城に関わった人物や、年代は不明ですが、南北朝時代にはすでに存在し、のちに赤穴氏が入り、瀬戸山城(赤穴氏の本城)の支城的な役割を果たしたことがうかがわれます。
【写真左】現地に設置された看板
当城も地元自治会の協力によって、こうした看板が設置され、分かりやすくなっている。1560年(永禄3年)には、毛利軍への降伏を決めた城主に対し、徹底抗戦を主張し、下城して戦った島田勝定・森田勝経の軍が立てこもった城としても知られています。また、関ヶ原の戦いのちの堀尾氏の出雲国入封に際しては、彼らの手によって改修が行われたことが、城の構造などから指摘されています。
現在、本丸跡へは登山道が整備され、およそ30分で行くことができます。山頂付近には当時の堀切・土塁・連続竪堀群など、山城の遺構がよい状態で残されています。
特に、第7郭と第8郭は、それぞれ単独の防御拠点でありながら、連携した防御構造となっており、この特殊な構造は、県内の城に類例がなく、大変貴重であるといえます。
【写真上・下】賀田城縄張図、及び7郭・8郭縄張図(「文化財探訪」より)
登城したのは、2008年4月で(デジカメの撮影日設定を間違えている)、しかも雨模様の時だったこともあり、城域全体を踏破していない。
このため、頂いた資料の特記個所まで詳しく見ていないので、資料を元に紹介したい。
図のように、東西に長く伸びた山城で、城域長さはおよそ600m前後になる。
また、「文化財探訪」でも指摘されている、第7郭から8郭(図の左側)にかけての仕掛けは特殊なもので、城外から第8郭に入った敵は、その土塁の上まであがり、そこを第7郭から狙い撃ちされるという仕組みになっている。
【写真左】三の丸付近
「賀田城を守る会」によると、当城の最大の特徴は、「連続竪堀群」が主郭部南側一帯に長さ30m、幅3~5mの堀が8本真下に伸びていることである。
また、「文化財探訪」でも指摘されている、第7郭から8郭(図の左側)にかけての仕掛けは特殊なもので、城外から第8郭に入った敵は、その土塁の上まであがり、そこを第7郭から狙い撃ちされるという仕組みになっている。
【写真左】三の丸付近
【写真左】第2郭から見た本丸側面
3郭から直接本丸へ登る道が見つからなかったので、一旦2郭に回り、本丸に向かった。
添付縄張図にもあるように、主郭の中央部が少し高くなっている。本丸の形状は東西に約40m程度長く、幅は10m程度だろうか。
【写真左】主郭付近
【写真左】主郭付近
明確に残ったものではないが、土塁跡をうかがわせる。
ところで、当城で少し気になったのは、表示板関係の統一である。
当日確認はできなかったが、現地にこのような五輪塔がある。この写真は頓原町教育委員会より頂いた資料の中のものである。
森田左衛門や、烏田勝定のものかもしれない。
永禄年間、毛利元就が向城として築城したとされている武名ヶ平山城。
おなじく元就が瀬戸山城を攻める際、西方にあった元山に陣城をつくったとされている。これによって、武名ヶ平と挟み打ちができたわけである。
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