石城山神籠石(いわきさんこうごいし)
●所在地 山口県光市大字塩田
●登城日 2009年3月29日
●築城期 5~7世紀
●標高 352m
●形式 山城
●遺構 列石、水門、土塁
●指定 国指定史跡
【写真左】所在地を示す地図
赤字の個所は伊藤博文の旧居跡で、その位置から東方にむかった所に石城山がある。
◆解説(参考文献「鳥取・島根・山口の城郭」新人物往来社編、その他)
山口県で最も古い城といわれているのは、「長門の城」といわれ、日本書紀の天智天皇4年(665)8月条にそれが見えている。
これは以前取り上げた香川県の引田城と同じく、その2年前(663)、百済救済のため派遣された日本軍が、錦江河口の白山江において新羅を支援する唐の軍船に敗れ、帰国後本州西端部に築城したときのものといわれている。
残念ながら「長門の城」の所在地などは不明であるが、今回取り上げる石城山神籠石もそのころのものといわれている。
【写真左】案内図
現地は「石城山県立自然公園史跡」となっており、駐車場付近には幕末期の奇兵隊練兵場跡に、キャンプ場が造られている。
所在地は、山口県の西部光市内にあるが、周防灘からは4,5キロほど山間部に入ったところにある。
前記の香川・引田城と比べると、大分内陸部に入った地点といえる。ただ、山頂部に立つと、思った以上に瀬戸内が近くに見える。
中世山城の視点を基準にすると、現地遺構の理解が容易でないが、神籠石といわれる列が全長2.6kmにもわたって造られ、水門、水口などその規模は巨大である。
その他の史跡としては、式内社石城神社(祭神:大山祇神・雷神・高竈神。本殿は文明元年(1469)大内政弘の再建)が鎮座し、社坊神護寺跡などが散在している。
すべての遺構を見ようとすると、半日でもはとても無理である。この日は従ってほんの一部を踏破した。
【写真左】駐車場付近からみた「胎蔵坊跡」「立石坊跡」方面
石城山の中にはこうした夥しい数の坊跡がある。築城期から下った平安期頃にはおそらく大規模な山岳信仰の聖地でもあったかもしれない。
現地の説明板より
“国指定文化財
史跡 石城山神籠石(いわきさんこうごいし)
昭和10年6月7日所在地 光市大字塩田
「石城山神籠石」は、巨石を一列の帯状に並べて、山の中腹から8合目あたりを鉢巻き状に取り囲んでいる古代の大土木工事の遺跡である。
明治42年秋、当時の熊毛郡視学・西原為吉氏(福岡県出身)によって発表された。それまでは、九州にしか存在しないとされていたこの大遺跡が本州でも発見されたので、考古学界の注目するところとなった。
【写真左】仁王門(随身門)
最初に向かうルートの一つにこの仁王門がある。この先には、奇兵隊記念碑や石城神社や神護寺跡(第二奇兵隊本陣跡)がある 。
この「石城山神籠石」の列石線は、南側鶴ヶ峰(標高357.6mでテレビ塔の建っている峰)の近く(標高約342m)を頂点として下向きに回り、石城五峰(高日ヶ峰・鶴ヶ峰・大峰・月ヶ峰・星ヶ峰)を取り囲み、最下部は北水門あたりで、標高268mまで下がっている。(駐車場の地図参照)列石線の総延長は、2,533,54mにも及ぶ大規模なものである。
列石線が谷間を横切る場所には、高い石垣壁を築き、その中央の下部に水門を設け、北水門・東水門・南水門・西水門が発見されている。(水門の奥行き10.6~20m)城門は、表門と裏門に当たるとみられる遺構が発見され、第一門跡(北門)には「沓(くつ)石」と呼ばれる2個の門扉の柱礎石が残っている。
【写真左】石城神社
「神籠石」をいつ頃、だれが、何の目的で構築したかについては、明治31年(1898)福岡県高良山で発見されて以来ながく定説がなく、神域説と山城説とで論争されてきた。
昭和38・39年、国の文化財保護委員会(現・文化庁)、山口県教育委員会、大和村(現・光市)との共同による発掘調査の結果、従来知られていなかった人枡、柱穴、版築工法による大土塁が、数百メートルにわたり発見され、古代山城遺構であることがはっきりした。
平成19年9月 光市教育委員会”
【写真左】第二奇兵隊本陣跡
詳細は下段の説明板に記されている。
“石城山第二奇兵隊の由来
奇兵隊は文久3年(1863)5月、下関海峡における攘夷決行の直後、防長非常の際に生まれた一種の義勇兵である。
入隊者は誰でもよい。平民も士分と同様、刀を帯び苗字を用いることができ、まさに血気の青年の憧れの的であった。「正兵はすでに藩制の編隊あるを以て、新設の隊はこれを奇兵隊と呼ばん。
正中の奇、奇中の正、専ら奇を主として防禦に従事すべし」とは、隊長高杉晋作の命ずるところ、意気他隊を圧し、まさに旭日昇天の概があった。
石城山の第二奇兵隊は、これに呼応して、俗論党の多かった東部周防もぜひ正義派に一致させなければならぬとし、白井小助、木谷修蔵等を中心に富永有隣、楢崎剛十郎、松宮相良等馳せ来たり熊毛郡室積(光市)を拠点とし、同志を糾合したことに始まる。
小周防(光市)真行寺からは、立石孫一郎、橋本左内等の諸浪士、大島郡久賀からは真武隊の大洲鉄然、中原雅平、櫛部鉄牛等の同志合流し来って、総員三百名。これを最初南奇兵隊と呼称した。
【写真左】第二奇兵隊跡付近
この溝も水路の付属設備と思われる。
その年の三月、訓練強化のため転陣して、石城山に移駐、道中全員純白の上衣に紫袴をうがち、朱鞘の長刀を帯び幹部は皆馬上であったという。
石城山に入るや、高札を立て庶民の入山を禁じ、神護寺を本陣として、第一、第二、第三の兵舎、練兵場、厩、病院等の設備を整え、正式の練兵を日課とした。
翌4月には総督山内梅三郎が吉田の本隊と兼任であったため、石城山陣営を第二奇兵隊と改称した。8月には世嗣毛利定広公(後の元徳公)が、石城山陣営に閲兵のことあり、隊では地雷火の実演や、小銃の演習などを御覧に供し、特別の賞詞を賜った。
【写真左】第二奇兵隊を過ぎて外構部の分かれ道付近
右に行くと、西水門へ行く
越えて慶応2年6月、四境の役あり、石城山第二奇兵隊は直ちに大島郡に出撃、安下庄の幕軍を破り、転戦して久賀に上陸の幕軍も粉砕、たちどころに大島郡全島を回復するの戦果を挙げた。これより名声大いに上がる。後更に鳥羽、伏見の役に功あり、王政維新につながる□韻、永く松籲に止まる。
この顕彰碑は、その偉業を永く伝えるために建立したもので、昭和19年10月元首相岸信介氏登山の際、詠詩ならびに揮毫である。
第二奇兵隊を懐う
関東健児起って血盟す、回天の偉業雲を破って成る、
千古の秘謎尚解く可し、誰か遺烈を水て聖明に応えん
昭和58年4月 光市教育委員会”
【写真左】石城山から周防灘方面を見る
この日は靄がかかっていたが、視界がよければ瀬戸内や四国方面も見えるだろう。
【写真左】「三国志城」と書かれた近くの建物
石城山に車で行ける専用の登山ドライブウェイがあるが、その入口付近には写真にある博物館のような食堂のような変わった建物がある。
石城山の由来から、おそらく中国と関係があったとして、こうした施設ができたのだろう。中に入ると、三国志に出てくるヒーローのフィギアや関連グッズが販売してあった。
こうした場所で、諸葛孔明などと対面できるとは予想もしていなかった。
◆感想
石城山は冒頭でも記したように、余りにも大規模な山城のため、すべての遺構を見ようとすると優に一日はかかるだろう。水路の有無とは別に、これとよく似た山城として思い浮かんだのは、岡山の鬼ヶ城である。ただ、規模はこちらの方がはるかに大きいだろう。
●所在地 山口県光市大字塩田
●登城日 2009年3月29日
●築城期 5~7世紀
●標高 352m
●形式 山城
●遺構 列石、水門、土塁
●指定 国指定史跡
【写真左】所在地を示す地図
赤字の個所は伊藤博文の旧居跡で、その位置から東方にむかった所に石城山がある。
◆解説(参考文献「鳥取・島根・山口の城郭」新人物往来社編、その他)
山口県で最も古い城といわれているのは、「長門の城」といわれ、日本書紀の天智天皇4年(665)8月条にそれが見えている。
これは以前取り上げた香川県の引田城と同じく、その2年前(663)、百済救済のため派遣された日本軍が、錦江河口の白山江において新羅を支援する唐の軍船に敗れ、帰国後本州西端部に築城したときのものといわれている。
残念ながら「長門の城」の所在地などは不明であるが、今回取り上げる石城山神籠石もそのころのものといわれている。
【写真左】案内図
現地は「石城山県立自然公園史跡」となっており、駐車場付近には幕末期の奇兵隊練兵場跡に、キャンプ場が造られている。
所在地は、山口県の西部光市内にあるが、周防灘からは4,5キロほど山間部に入ったところにある。
前記の香川・引田城と比べると、大分内陸部に入った地点といえる。ただ、山頂部に立つと、思った以上に瀬戸内が近くに見える。
中世山城の視点を基準にすると、現地遺構の理解が容易でないが、神籠石といわれる列が全長2.6kmにもわたって造られ、水門、水口などその規模は巨大である。
その他の史跡としては、式内社石城神社(祭神:大山祇神・雷神・高竈神。本殿は文明元年(1469)大内政弘の再建)が鎮座し、社坊神護寺跡などが散在している。
すべての遺構を見ようとすると、半日でもはとても無理である。この日は従ってほんの一部を踏破した。
【写真左】駐車場付近からみた「胎蔵坊跡」「立石坊跡」方面
石城山の中にはこうした夥しい数の坊跡がある。築城期から下った平安期頃にはおそらく大規模な山岳信仰の聖地でもあったかもしれない。
現地の説明板より
“国指定文化財
史跡 石城山神籠石(いわきさんこうごいし)
昭和10年6月7日所在地 光市大字塩田
「石城山神籠石」は、巨石を一列の帯状に並べて、山の中腹から8合目あたりを鉢巻き状に取り囲んでいる古代の大土木工事の遺跡である。
明治42年秋、当時の熊毛郡視学・西原為吉氏(福岡県出身)によって発表された。それまでは、九州にしか存在しないとされていたこの大遺跡が本州でも発見されたので、考古学界の注目するところとなった。
【写真左】仁王門(随身門)
最初に向かうルートの一つにこの仁王門がある。この先には、奇兵隊記念碑や石城神社や神護寺跡(第二奇兵隊本陣跡)がある 。
この「石城山神籠石」の列石線は、南側鶴ヶ峰(標高357.6mでテレビ塔の建っている峰)の近く(標高約342m)を頂点として下向きに回り、石城五峰(高日ヶ峰・鶴ヶ峰・大峰・月ヶ峰・星ヶ峰)を取り囲み、最下部は北水門あたりで、標高268mまで下がっている。(駐車場の地図参照)列石線の総延長は、2,533,54mにも及ぶ大規模なものである。
列石線が谷間を横切る場所には、高い石垣壁を築き、その中央の下部に水門を設け、北水門・東水門・南水門・西水門が発見されている。(水門の奥行き10.6~20m)城門は、表門と裏門に当たるとみられる遺構が発見され、第一門跡(北門)には「沓(くつ)石」と呼ばれる2個の門扉の柱礎石が残っている。
【写真左】石城神社
「神籠石」をいつ頃、だれが、何の目的で構築したかについては、明治31年(1898)福岡県高良山で発見されて以来ながく定説がなく、神域説と山城説とで論争されてきた。
昭和38・39年、国の文化財保護委員会(現・文化庁)、山口県教育委員会、大和村(現・光市)との共同による発掘調査の結果、従来知られていなかった人枡、柱穴、版築工法による大土塁が、数百メートルにわたり発見され、古代山城遺構であることがはっきりした。
平成19年9月 光市教育委員会”
【写真左】第二奇兵隊本陣跡
詳細は下段の説明板に記されている。
“石城山第二奇兵隊の由来
奇兵隊は文久3年(1863)5月、下関海峡における攘夷決行の直後、防長非常の際に生まれた一種の義勇兵である。
入隊者は誰でもよい。平民も士分と同様、刀を帯び苗字を用いることができ、まさに血気の青年の憧れの的であった。「正兵はすでに藩制の編隊あるを以て、新設の隊はこれを奇兵隊と呼ばん。
正中の奇、奇中の正、専ら奇を主として防禦に従事すべし」とは、隊長高杉晋作の命ずるところ、意気他隊を圧し、まさに旭日昇天の概があった。
石城山の第二奇兵隊は、これに呼応して、俗論党の多かった東部周防もぜひ正義派に一致させなければならぬとし、白井小助、木谷修蔵等を中心に富永有隣、楢崎剛十郎、松宮相良等馳せ来たり熊毛郡室積(光市)を拠点とし、同志を糾合したことに始まる。
小周防(光市)真行寺からは、立石孫一郎、橋本左内等の諸浪士、大島郡久賀からは真武隊の大洲鉄然、中原雅平、櫛部鉄牛等の同志合流し来って、総員三百名。これを最初南奇兵隊と呼称した。
【写真左】第二奇兵隊跡付近
この溝も水路の付属設備と思われる。
その年の三月、訓練強化のため転陣して、石城山に移駐、道中全員純白の上衣に紫袴をうがち、朱鞘の長刀を帯び幹部は皆馬上であったという。
石城山に入るや、高札を立て庶民の入山を禁じ、神護寺を本陣として、第一、第二、第三の兵舎、練兵場、厩、病院等の設備を整え、正式の練兵を日課とした。
翌4月には総督山内梅三郎が吉田の本隊と兼任であったため、石城山陣営を第二奇兵隊と改称した。8月には世嗣毛利定広公(後の元徳公)が、石城山陣営に閲兵のことあり、隊では地雷火の実演や、小銃の演習などを御覧に供し、特別の賞詞を賜った。
【写真左】第二奇兵隊を過ぎて外構部の分かれ道付近
右に行くと、西水門へ行く
越えて慶応2年6月、四境の役あり、石城山第二奇兵隊は直ちに大島郡に出撃、安下庄の幕軍を破り、転戦して久賀に上陸の幕軍も粉砕、たちどころに大島郡全島を回復するの戦果を挙げた。これより名声大いに上がる。後更に鳥羽、伏見の役に功あり、王政維新につながる□韻、永く松籲に止まる。
この顕彰碑は、その偉業を永く伝えるために建立したもので、昭和19年10月元首相岸信介氏登山の際、詠詩ならびに揮毫である。
第二奇兵隊を懐う
関東健児起って血盟す、回天の偉業雲を破って成る、
千古の秘謎尚解く可し、誰か遺烈を水て聖明に応えん
昭和58年4月 光市教育委員会”
【写真左】石城山から周防灘方面を見る
この日は靄がかかっていたが、視界がよければ瀬戸内や四国方面も見えるだろう。
【写真左】「三国志城」と書かれた近くの建物
石城山に車で行ける専用の登山ドライブウェイがあるが、その入口付近には写真にある博物館のような食堂のような変わった建物がある。
石城山の由来から、おそらく中国と関係があったとして、こうした施設ができたのだろう。中に入ると、三国志に出てくるヒーローのフィギアや関連グッズが販売してあった。
こうした場所で、諸葛孔明などと対面できるとは予想もしていなかった。
◆感想
石城山は冒頭でも記したように、余りにも大規模な山城のため、すべての遺構を見ようとすると優に一日はかかるだろう。水路の有無とは別に、これとよく似た山城として思い浮かんだのは、岡山の鬼ヶ城である。ただ、規模はこちらの方がはるかに大きいだろう。
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