2014年12月9日火曜日

備中・鬼ノ身城(岡山県総社市山田)

備中・鬼ノ身城(びっちゅう・きのみじょう)

●所在地 岡山県総社市山田
●別名 鬼身城
●高さ 284m
●指定 総社市指定重要文化財(史跡)
●築城期 至徳2年・元中2年(1385)以前
●築城者 不明
●城主 今川上総介泰範、上田氏(実親など)、宍戸氏
●遺構 郭段・井戸なと
●登城日 2014年5月1日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 鬼ノ身城は、岡山三大河川の一つ・高梁川の西方に築かれた城砦である。
【写真左】鬼ノ身城遠望・その1
 南側から見たもの。
【写真左】鬼ノ身城遠望・その2
 同じく南側から見たもので、撮影日は2015年2月21日。








現地の説明板より

鬼ノ身城跡
     昭和55年(1980)1月14日指定

 鬼ノ身城がいつ、誰によって築かれた城であったかについては伝えられていませんが、南北朝時代末期には今川上総介泰範が、16世紀初めからは上田氏が城主になったことが分かっています。

 5代目の上田孫次郎実親は、備中松山城主三村元親の弟で、三村方に所属していました。その三村氏は、毛利方に所属していましたが、天正2(1574)に謀叛を起こしたことで、同年11月に毛利方の大軍が備中国へ出陣してきました。三村方は居城の松山城をはじめ、備中国内にある出場の防御を固め、鬼ノ身城へも兵3,000騎を配置しました。
【写真左】登城道・その1
 鬼ノ身城に向かう道は南側からは2コースあるようだが、いずれも途中から幅員は狭くなり、さらにワダチが深くなるところも多いため、この日管理人は一番西側の亀甲池手前の空き地に車を停め、そこから1キロ余りの道を歩いて向かった。

 左の池は亀甲池と呼ばれる溜池で、池の西岸の先には、後段で紹介する当城主であった今川氏の位牌残る華光寺がある。


 しかし、三村方の諸城はことごとく落城し、鬼ノ身城も天正3年1月16日より包囲され籠城戦となり、23日からは数万の兵による総攻撃を受けました。城は昼夜の戦いにも耐え続けましたが、ついに開城するしか方法がなくなりました。城内の兵を救うために城主上田実親は命をかけました。1月29日辰の刻に切腹。この時、実親は20歳でした。

 上田氏滅亡のあとは、毛利方の武将である宍戸安芸守陸家が城主に命ぜられて、城代が置かれましたが、関ヶ原の合戦の後に廃城となりました。
【写真左】切通しされた道
 登城道の前半部であるが、この手前から大分登り坂になり、この箇所で鬼ノ身城の尾根下にたどり着く。

 軽自動車の四駆ならここまで来れるかもしれない。


 城が築かれた場所は、瀬戸内から陸路で松山城へと通じる街道に面しており、また瀬戸内への前線拠点としても重要な城でした。岡山県下では珍しい「扇の縄」といわれる堅固な山城を築いています。
 山頂の主郭(一ノ壇)から扇を広げた形に壇を連続し、人頭大の石や一抱えもある角礫を使った石垣なども築きながら3段で構成されています。
 中世から戦国期の山城の形状がよく残されており、防御性にすぐれた山城であったと評価されています。
      平成22(2010)10月  総社市教育委員会”
【写真左】分岐点
 矢印で示した線がこの日向かった道だが、この写真の手前左側にも登る道がある。

 この道はさらに東側の谷から向かった道で、どちらからでも登れるようだ。


上田氏

 『日本城郭体系第13巻』によれば、少なくとも源平合戦の頃までさかのぼることができるが、当時の城主は不明とされている。

 その後、南北朝時代には説明板にもあるように、今川上総介泰範となっている。これは鬼ノ身城の西麓にある華光寺の位牌に記されているという。今川氏が在城した時期は具体的には至徳2年・元中2年(1385)ごろとされている。この時期は室町幕府第3代将軍・足利義満がもっとも権力を誇示したころで、特に西国の領主らに対する公式な土地の安堵状発行が目立っている。
【写真左】両側にブロックが敷かれている箇所
 途中から道の両側にはコンクリート製のブロックが敷設されている。おそらくこれは管理のため、軽トラックでも登れるよう地元の関係者のためのものだろう。

 連れ合いが一見楽しそうに杖を振っているが、道中には桜の木が植えてあり、その枝から尺取虫が垂れ下がり、常に顔などに当たるため、杖で前以て振り落している。尺取虫が異常に多い。


 翌元中3年7月10日、義満は京都・鎌倉の五山の順位を定め、京都においては南禅寺を五山の上とし、禅寺の最高位としている。また、さらに翌元中4年には南北朝動乱期、尊氏・直義らとあらそった足利直冬が7月、ひっそりと石見の山中で没した(足利直冬・慈恩寺(島根県江津市都治町)参照)。
【写真左】もう一つの登り口がある谷
 この日、最初にトライした谷で、道があり、簡易舗装されていたが、とても車で登れるほどの幅員でなかったため、取りやめた場所。



 鬼ノ身城の城主がその後、上田氏に代わっていくが、その経緯ははっきりしない。上田氏がその名を初めて見せるのは、文亀元年(1501)である。

 初代上田勘解由左衛門は、備中国水内荘の管理運営に優れた手腕を発揮したとされている。この水内荘というのは、鬼ノ身城の東麓を流れる高梁川を遡った現在の総社市の原という地区で、山間部でありながら規模の大きな棚田が広がっている所である。

 その後、大永2年(1522)には上田近江守光宝、永禄9年(1566)には上田近江守家実と続き、天正年間の初めには、上田入道阿西が城主であったという。そして、阿西は、備中松山城(岡山県高梁市内山下)の三村元親の弟を養子に迎え、上田孫次郎実親と名乗らせた。
【写真左】石積が見える。
 この箇所はすでに城域の入り口付近だが、ここからぐるっと旋回する道となる。
 石積跡らしき大きな石が不揃いに残っている。
 小規模な出丸跡もしくは、櫓台かもしれない。



毛利勢の猛攻

 当城が毛利氏の手によって陥落したのは、天正3年(1575)の正月だとされている。城内には3,000余の兵が詰めていた。

 当初、上田勢は地の利を生かし、大木や大石などを落とし毛利勢の寄せ手を阻んでいたが、七重八重と取り囲んだ毛利氏がやがてじわじわと侵攻してきたため、城主実親は、残った城内の者たちの命を助けるために、自害したという。

 実親が養子として入ったのは、天正年間の初めとされるから、その2,3年後に落城したことになる。城主とはいえ、僅か20歳という若さで命を絶った。
【写真左】鬼ノ身城の略測図
 当城は、典型的な「扇の縄」といわれる連郭式の山城といわれている。

 この図でいえば、登城コースは北東部から回り込んで、東側の十二ノ壇あたりから向かう道が残るが、写真でも分かるように、登城した時期が5月でもあったため、草丈が伸びて遺構の詳細なものは撮れなかった。


 落城後、宍戸隆家(安芸・宍戸氏の墓(広島県安芸高田市甲田町)参照)が城主となり、城代として佐々部美作守(面山城(広島県安芸高田市高宮町佐々部字志部府)参照)が在番したが、その後隆家の嫡子左衛門佐元秀の子・備前守基継が城主となり、8万石を領した。慶長5年(1600)関ヶ原の合戦後、廃城となった。
【写真左】東側の低い郭段
 上図でいえば、十二ノ壇・十一ノ壇付近で、この辺りから踏み跡があったため、そのまま進む。
【写真左】上の段に向かう。
 轍がある所を見ると、この上まで軽トラで向かうように道が造られているようだ。
 遺構の管理より、樹木などの管理が主体となっているようだ。
 この箇所なども切崖若しくは虎口などがあったのかもしれない。
【写真左】三ノ壇付近
 坂を登ると、おそらく三ノ壇付近と思われるが、削平地がある。
 写真正面方向に二ノ壇、そして主郭となる一ノ壇が控える。
【写真左】一ノ壇に向かう。
 一ノ壇に向かう道は二ノ壇の左側(東側)にある坂道(犬走りか)を登る。
【写真左】一ノ壇・その1
 いわゆる主郭に当たる所だが、長径36m×短径22m前後の規模を持つもので、北辺の端部には列石で固められた部分があるとされている。
【写真左】一ノ壇・その2 諏訪神社
 現地には南側から鳥居が建立され、奥には祠が祀られている。その間には礎石が残るが、おそらく当社の本殿が建てられていたのだろう。
【写真左】三角点
 一ノ壇の南端部にあり、この先は切崖となっている。
【写真左】休憩所
 一ノ壇にはご覧のような建物が建っている。「瀬戸内大橋開通記念」という看板が飾られている。
 1988年に瀬戸内大橋が完成しているので、この建物もそれに併せて建てられたのだろう。
 中には、鬼ノ身城から眺望できる瀬戸内方面の絵図や、当山に咲く色々な花などを写した写真なども飾られている。
【写真左】南麓を見る。
 鬼ノ身城の南麓には西から新本川が流れ、広い平坦地が広がる。奥に見える東西の丘陵地を超えると、倉敷市真備町に至る。
【写真左】鬼ノ身城から夕部山城を遠望する。
 毛利氏(小早川隆景)が陣を構えた夕部山城(岡山県総社市下原)で、この他、西方には市場古城などがある。
【写真左】東南方向に児島半島を遠望する。
 現地の絵図には、天気が良いと常山城(岡山県玉野市字藤木・岡山市灘崎町迫川)が見えるようだが、この日は靄がかかり見えない。

2014年12月5日金曜日

喜時雨陣城(島根県鹿足郡津和野町田二穂)

喜時雨陣城(きじゅうじんじょう)

●所在地 島根県鹿足郡津和野町田二穂
●高さ H:227m(比高40m)
●築城期 永仁3年(1295)吉見氏城館、明徳元年(1390)牛王神社建立。喜時雨陣城:天文23年(1554)頃
●築城者 吉見氏、陶氏(益田氏か)
●遺構 郭・帯郭
●備考 津和野神社
●登城日 2014年3月27日

◆解説(参考文献 「喜時雨地区埋蔵文化財試掘調査報告書 Ⅱ」等)
 当城の位置は、吉見氏居城の津和野城(島根県鹿足郡津和野町後田・田二穂・鷲原)(三本松城)の西方の谷である喜時雨地区に所在し、その中心部には現在津和野神社が祀られている。
【写真左】喜時雨陣城跡
 ご覧のように陣城としての遺構を残すものはほとんどなく、津和野神社の向背に小丘が見える。






現地の説明板より

“津和野神社

 『津和野百景図』 第四拾七図 懸社津和野神社

 津和野神社のあるこの山は、中世において津和野三本松城の陣城であった。
【写真左】周辺地図
 喜時雨陣城は左側の赤い箇所で、右側には三本松城(津和野城)が図示されている。




 明徳元年(1390)に勧請された牛王神社があったが、坂崎出羽守により神殿が廃止され、4代亀井茲親が宝永4年(1707)に社殿を造営、埴安神社と改称している。

 明和5年(1768)亀井家第8代矩貞のとき、京都の吉田家から初代茲矩の霊に対し「武茲矩霊社」の号を送られ、埴安神社に埴安明神とともに配祀された。文化8年(1804)9代矩賢は武茲矩霊社二百年の大祭を行い、このときに拝殿脇の茲矩公の頌徳碑が建立されている。また、文化年間において具足や太刀、武器などの宝物が御書物蔵に納められるとともに、祭礼も盛大に執り行われている。
【写真左】参道脇にある段
 参道を登っていくと、右側の一番下には整地された運動場のようなものがあり、その上に写真にある段が設けられている。
 近代になって施工されたものだと思われるが、天文年間に陣城となる以前の鎌倉・南北朝期頃は、吉見氏の館などがあったかもしれない。

 この段からさらに神社本殿に登る階段がついているが、左側にはこれとは別の坂道が二本並列に敷設されている(冒頭の写真参照)。



 文久元年(1862)7月、社殿の改造が終わり上棟式並びに250年の大祭が執り行われた。
遷座にあわせ神霊に「元武大明神」の号が送られ、社名を「元武神社」に改称している。
 慶応3年、版籍奉還により津和野城を引き払う際、城にあった武州公ゆかりの御鎧、旗、槍、刀、鉄砲、大砲などが神社に移された。
【写真左】拝殿下の段
 石積などは説明板にもあるように、近世に施工されたものだろう。








 明治に入り「元武大明神」が「元武大神」に改め、明治4年(1871)8月には埴安神社と元武神社を合わせ「喜時雨神社」と改称された。
 明治8年(1875)に喜時雨神社は郷社に昇格、さらに明治43年(1910)2月には縣社に昇格し「津和野神社」に改称した。また、明治44年には300年祭が盛大に執り行われている。大祭には亀井家の代参として山辺丈夫が参列、一週間にわたり町内各所で催しが行われた。昭和12年(1937)には最後の藩主茲監の神霊も合祀されている。
【写真左】神社側から津和野城を遠望する。
 神社に登る坂道から少しあがったところに植樹された箇所があるが、そこに登って撮ったもの。

 一般的にはこの裏側、すなわち津和野の街並みからみた津和野城の写真が多いが、これは西麓から見たものになる。
【写真左】陶ヶ嶽城を遠望する。
 津和野城の南端と正対する位置には、三本松城の戦いの際、陶晴賢が本陣を構えた陶ヶ嶽城が見える。

 ただ、この位置からは津和野城側の尾根が邪魔をして、少ししか見えない。

 陶ヶ嶽城の右に見えるピークの山は野坂山(H:640m)で、山口県との県境になる。

 天文22年(1552)、三本松城の戦い緒戦では、嘉年城にあった下瀬頼定と波多野滋信が野坂峠まで出撃し、陶方を破っている。




 昭和25年(1950)7月、原因不明の出火により本殿および拝殿などすべてが焼失した。現在の拝殿は、その後の再建である。
 石段下の宝物館にある大型火器4門は、うち3門が青銅製の仏郎機砲である。津和野郷土館にも2門保管されており、津和野には計5門存在する。仏蘭機砲はヨーロッパにその起源を持ち、中国、東南アジアを経ながら、日本には戦国時代に伝来、当時は石火矢といった。伝来の経緯や製作地などは不明である。
   津和野町教育委員会”
【写真左】亀の甲羅を台座とした石碑
 この石碑と併せ、亀井茲矩を紹介した説明板と、亀井氏家紋である隅立四つ目結を刻印した石塔が建立されている。

 亀井茲矩については、因幡の鹿野城(鳥取県鳥取市鹿野町鹿野)及び、亀井茲矩の墓(鳥取県鳥取市鹿野町寺内)ですでに紹介しているとおりである。


喜時雨 

 喜時雨とかいて、きじう(きじゅう)と読む。時雨(しぐれ)を喜ぶという意味なのだろうが、もとは喜汁と書かれた地区である。
 石見吉見氏が最初に来住した木薗(吉見氏居館跡(島根県鹿足郡津和野町中曽野木曽野)参照)に館を築いてから暫く経った永仁3年(1295)、津和野川を下り、新たな館としたのが、この喜時雨である。
【写真左】境内から下を見る。
 予想以上に高低差と傾斜を感じさせる。
 このあと、本殿裏の高台を目指す。






 この場所は現在の津和野城の西麓に当たる個所で、度々氾濫する津和野川流域の中でも比較的洪水の少ない箇所で立地条件としては理想的な場所であったと思われる。そして、館をここに定めると、三本松城の築城に取り掛かることになる。

 従って、当初三本松城の大手は喜時雨側(西側)もしくは、現在の南端部である鷲原八幡宮側においていたものと思われる。
【写真左】下から高台を見上げる。
 ここから先には特に道は設けられていないので、適当に登っていく。







三本松城の戦い

 前稿・御嶽城(島根県鹿足郡津和野町中山字奥ヶ野)でも述べたように、当城が最も激しい戦いを繰り広げたのが天文23年(1554)に行われた、大内義長・陶晴賢と、当城主吉見正頼の戦い、すなわち「三本松城の戦い」である。
 この戦いは同年3月から始まり8月まで続くが、結果として勝敗つかず和睦・講和をもって終えている。

 この戦いで大内・陶軍が陣を張った一つが、今稿の喜時雨陣城とされている。先述したように、当地は吉見氏の居館があった所とされているが、おそらく天文年間にはその場所は別の所に移っていたのだろう。
【写真左】頂部・その1
 遺構らしきものは確認できなかったが、写真の奥に見えるように、津和野三本松城の尾根全体が確認できる。

 まさに、陶方にとっては理想的な陣所であったと思われる。


大塚兼正

 この場所において具体的な記録が残る武将の1人が益田氏家臣の大塚兼正である。兼正らが戦った時期は、天文23年(1554)4月18日とされているので戦い前半の頃である。
【写真左】頂部・その2
 喜時雨陣城は小規模な独立系の小丘だが、裏側(北側)天然の要害となっている。

 また、一旦谷(田圃か)介してさらに北側に小山があるが、ここには、「吉見乳母の墓(伝)」があるという。


 大塚兼正の出自は惣領・益田氏の庶流と云われている。益田氏11代・兼見の次男・兼弘が応安年間に山道(仙道)地頭となり、姓を山道とし、大塚地頭の祖となった。その後、一旦山道を廃して、大塚に改め、その後下氏を名乗り、12代兼正の代になって再び大塚を名乗った。

2014年12月3日水曜日

御嶽城(島根県鹿足郡津和野町中山字奥ヶ野)

御嶽城(みたけじょう)

●所在地 島根県鹿足郡津和野町中山奥ヶ野
●別名 鈴野川城、火の谷城
●高さ 440m(504m)、比高(200m)
●築城期 弘安5年ごろ(鎌倉後期))
●築城者 吉見頼行か
●城主 長野美作守
●遺構 郭、土塁、堀切、竪堀、虎口等
●登城日 2014年3月27日

◆解説(参考資料 「益田市誌(上巻)」、「山陰中央新報 マイタウン石見より 津和野藩ものがたり② 石見郷土研究懇話会副会長 山岡浩二」等)
 
 御嶽城は石見国(島根県)津和野町中山と、長門国(山口県)萩市との県境を跨ぐ標高500m余の山に築かれた城砦である。
【写真左】御嶽城遠望
 東麓側(島根県側)から見たもので、主郭を右側のピークとしているが、ひょっとして中央のピークであるかもしれない。




当城についてはこれまで、徳永城跡(島根県鹿足郡津和野町中曽野中組)吉見氏居館跡(島根県鹿足郡津和野町中曽野木曽野)でも紹介したように、津和野城主・吉見氏の始祖頼行が木薗(木曽野)に入部した弘安5年(1282)ごろ、周囲に支城として築城したものの一つであるとされている。

主郭の比定地

 ところで、登城の際、目的の山城・主郭などの位置については、当然ながら事前に調べていくのだが、今回も「島根県遺跡データベース」(以下「データベース」とする)を参考とした。
 特に主郭の位置については、データベースからの地図をもとに、国土地理院の地図と重ね比較しながら特定していくが、結論からいえば、この御嶽城の主郭位置は、実際とかなりずれがあるように思える。
【写真左】登山口の標識
 実際の主郭がある尾根から大分南に下がった位置の谷間に設置されている。
 途中で道が不明となる。



 具体的には、下図に示すように、データベースでは、南側の標高504mのピークを主郭としているが、実際にはこれより尾根伝いを北に約600mほど向かった標高440m余のピークではないかと思われる。
【写真左】御嶽城位置図
 データベース上では、△504mの位置が御嶽城(主郭)とされているが、これよりさらに北の△(この位置)と記した箇所が実際の主郭位置と思われる。


 前段で紹介している写真:「御嶽城の案内板」は、504mの位置に近い麓に設置されているが、この日、その谷から奥に進んだものの、途中から標識はおろか、道らしきものはなく、途中でこのコースを取りやめた。そして一旦降りて、麓にある地元の民家の御婦人に場所を確認した。
【写真左】登城道
 麓に一軒の家があり、その手前に空き地がある。そこに車を停め谷沿いに進む。
 途中までは踏み跡が鮮明に残っているが、その先はやや不鮮明になる。


 すると、この谷とは大分離れた北側のハウス栽培農家の所の谷から登城道があるという。それだけでは分からないだろうから、そのハウス農家の方に電話しておくから、そこで改めて聞いてほしいという。御親切な対応をしていだき、恐縮してしまった。お礼を述べた後、件のハウスに立ち寄り、登城道を教えていただいた。
【写真左】尾根鞍部が見えてくる。
 尾根を左に向かうと、おそらくデータベースに記された504mのピークにたどり着くと思われるが、地元の方に聞いた通り、逆の右の尾根を進む。


 ハウスの方も若いご主人で、さらに丁寧な道を教えていただいた。山城登城の満足度は勿論本丸などの踏査を成就することで満たされるが、それとは別にこうした地元の方との心地よいコミュニケーションなどがあると、気分的に随分違う印象を残し、遺構の充実度とは別の意味で嬉しい気持ちになる。改めてお礼申し上げたい。
 
【写真左】分岐点(県境)
 写真上方向が北となり、今回向かうコース。手前が504mのピークに向かう尾根筋。

 右の方が登ってきた坂、左側が山口県になる。

吉見正頼の陶晴賢討伐の戦い

 天文20年(1551)9月、大内義隆は大内家筆頭重鎮・陶晴賢の謀反によって長門大寧寺で自刃した。津和野・三本松城(津和野城)主・吉見正頼は義隆の義兄に当たる。このため正頼は復讐のため、同年10月挙兵した。正頼が最初にその矛先を向けたのが益田・七尾城の益田藤兼である。
【写真左】尾根道を北上
 先ほどの分岐点から尾根道を進んで行くが、その間数回のアップダウンを繰り返す。途中には削平されたような平坦地も認められた。

 写真の位置に来ると、道は尾根から逸れ西側(山口県側)の斜面をトラバースするようなコースとなる。


 同月5日、吉見正頼・上領頼規は、緒戦で益田藤兼を破り、明くる6日、上野頼兼が津和野村下領野戸路山における藤兼の陣攻撃に対して、正頼は軍忠を賞した(「萩閥56」)。

 これに対し、義隆を討ち果たした晴賢は、明くる天文21年3月、豊後から大友晴英を義隆後継者とし、大内義長と名乗らせた。そして、益田七尾城の益田氏には、義長名によって、藤兼を右衛門佐(すけ)に推挙し、益田尹兼には所領の安堵を行い、長門国豊田郡の地を領有させるなど、益田氏との強い絆を着々と深めていった。
【写真左】次第に高度を上げる。
 途中で竪堀のような箇所が見えたが、自然崩落の跡のようだ。
【写真左】向きを変えてさらに上がっていく。
 次第に一辺が短くなる九十九折となる。
城域が近くなってきた。
【写真左】御嶽城鳥瞰図
 踏査した記憶を頼りに描いたもので、主郭から北に下がる尾根には長い郭があるが、段差が残るので、それぞれ「二ノ壇」「三ノ壇」と名付けた。
 主郭から南に向かう尾根には、「四ノ壇」「五ノ壇」の二つの郭段が連続する。

 なお、二ノ壇側から四ノ壇に向かう犬走りを図示しているが、現地は殆ど崩落していて原形をとどめない。





 天文22年(1553)、晴賢と正頼の戦いはさらに本格的となり、10月12日、正頼は家臣の下瀬頼定と、石見国池田に陶晴賢の軍を破った(「下瀬文書」)。これに対し、晴賢は11月13日、大内義長と吉見氏の居城・三本松城を落とすべく、石見に入った。以後、両者の戦いは翌年の12月まで行われることになる。
【写真左】南に伸びる郭
 最後の登り坂は結構きつかったが、城域に入ると、ご覧の南側郭段(「二ノ壇」及び「三ノ壇」)に出てくる。
 南北60m×東西(5~10m)の細長い郭で、2,3段で構成されている。
 このあと、北側(手前)の主郭に向かう。


 翌23年1月23日、義長は津和野に赴き、平賀広相(頭崎城(広島県東広島市高屋町貞重)参照)に参陣を促した(「平賀文書」)。平賀氏がこの段階で津和野にいたということは、おそらく態度を決めかねていた毛利氏からの要請があったものかもしれない。

 ところで、晴賢(義長)と吉見氏との直接的な交戦記録は前半では余りない。むしろ、晴賢の命を受けた益田藤兼と吉見氏の戦いが多く、さらには藤兼の家臣・俣賀新蔵人が特に戦功を挙げている。
【写真左】主郭を見る。
 手前から傾斜がつき、主郭の段と2m程度の高低差がある。








 そして、さらに注目される出来事がこの間に起こった。それは、この年(天文23年)11月、尼子晴久が毛利元就の謀略によって、新宮党の尼子国久・誠久父子を誅滅したことである(新宮党館(島根県安来市広瀬町広瀬新宮)参照)。

 毛利氏は晴賢からの度重なる支援要請を受けていたが、あえてこの時期は態度を明確にしておらず、むしろ尼子氏対策に意を注いでいた。
【写真左】主郭東面
 右手前の斜面が登城道だが、その先(北)には、7~8m程下がった所に、東西に延びる郭段が控える。
【写真左】主郭西面
 縁には土塁の痕跡が認められ、その下は切崖状となっている。








三本松城(津和野城)御嶽城

 さて、この戦いの間、吉見氏の支城である御嶽城の動きはどうだっただろうか。

 陶晴賢らの動きについては諸説あるようだが、本格的な戦いが繰り広げられたのは、天文23年3月以降とされている。最初に本陣を定めたのが、渡川(阿東町)で、ここから先ず正頼方の波多野滋信・秀信父子が守備する嘉年城(山口県山口市阿東町嘉年下)を攻めた。
【写真左】東側から主郭を見る。
 北端部は土塁若しくは櫓台が残り、祠を囲むように構成されている。
【写真左】「御嶽本城址」と刻銘された石碑
 土塁で囲まれた北西端部に設置されているもので、相当古い石碑のようだ。






 当城には波多野氏以外に、下瀬頼定と町野隆風らが援軍として加わっていた。激しい攻防が繰り広げられたが、途中で城内の田中次郎兵衛が陶軍に寝返りしたため落城、城将・波多野滋信や吉見範弘など殆どの武将が討死した。

 3月16日、大内義長は本陣をさらに徳佐に進め、他方陶晴賢は長野へ進出、益田藤兼と合流した。その間、長門国側である阿武郡北部にあった吉見氏の五か所あった出城は次々と攻略され、ついに、木部の御嶽城も陶軍に完全包囲された。
【写真左】主郭跡に建立されている祠
 周辺部が伐採されている所を見ると、定期的に地元の方によって清掃作業がされているようだ。
 このあと、主郭から東に伸びる郭段に向かう。


 同月19日、陶方武将・江良丹波守房栄(槌山城(広島県東広島市八本松町吉川)五郎丸城(島根県鹿足郡吉賀町広石立戸)参照)は、先発隊として北上、津和野三本松城の搦手に陣を構えた。
【写真左】陶ヶ嶽遠望
 津和野川を挟んで北には三本松城がある。








 その後晴賢は、義長の徳佐本陣と連絡が取りやすい場所として、三本松城を北東眼下に見下ろす栃ヶ岳(H:420m。後の陶ヶ嶽)に本陣を構えた。

 晴賢らによる三本松城攻撃は、4月に入った中旬ごろといわれている。陶ヶ嶽に本陣を構えてから、実際に攻撃に入ったのが1か月も経ってからである。これは、おそらく御嶽城での戦いが長引いたことも一つの理由だろう。
【写真左】東の郭段・その1
 ご覧のように主郭側のような整備状況ではない。伐採された樹木などがそのまま放置してあるため踏査も手間がかかる。
 規模は凡そ東西80m×幅7m前後のもので、この箇所は一段目(「四ノ壇」)のもの。
 足元が引っかかるが、この先の先端部まで向かう。
【写真左】東の郭段・その2
 ここから下を覗くと、さらにもう一段腰郭(「五ノ壇」)が見える。









 記録では御嶽城は完全包囲されたものの、落城した記録は残っていない。おそらく、御嶽城攻めの途中で、吉見氏本拠城である三本松城攻撃が優先されたためではないかと考えられる。

 三本松城の戦いは4月中旬に始まり、8月2日まで計12回に及ぶ激戦が行われたが、結局三本松城の要害性と吉見正頼の徹底した籠城戦が功をそうし、両者は戦いを止め、和睦の形をとり講和が結ばれた。その条件の一つは、正頼の嫡男亀王丸(後の広頼)を差しだすことであった。また、三本松城における戦いの裏で、毛利元就は陶方の留守になった城を次々と落としていたが、そうした背景が陶氏による焦りを生み、停戦を余儀なくされたもう一つの理由でもあった。
【写真左】東の郭・2段目
 幅は上の郭とほぼ同じだが、奥行は10m前後で小規模なもの。
 この先は切崖となっており、その先には遺構は認められない。


 この後、弘治元年(1555)10月、毛利元就は宮島厳島において陶晴賢を破り、陶軍残党をおとすべく周防に攻め込んだ。吉見正頼は翌2年の春、奪われていた長門阿武郡方面に進み、平山星ノ城・嘉年城を奪還、大内義長は追われるまま西へ奔り、長府且山(勝山城・勝山御殿(山口県下関市田倉)参照)に逃げ込んだ。その後の顛末は周知の通りである。
【写真左】主郭から北東方向を俯瞰する。
 麓にはこの日登城道とした谷間が見える。

また、写真中央部の奥には、黒谷横山城(島根県益田市柏原)が控える。
【写真左】主郭から最初に登城を試みた箇所を見る。
 こうしてみると、麓にあった案内板はかなり位置がずれていると思われる。
 
【写真左】主郭から東南方向を見る。
 左奥に見えるのは青野山か。