2010年12月17日金曜日

嘉年城(山口県山口市阿東町嘉年下)

嘉年城(かねじょう)

●所在地 山口県山口市(阿東町)嘉年下
●別名 賀年城、勝山城
●築城期 不明(鎌倉後期~南北朝期)
●城主 虫追政国(石見国美濃郡長野庄惣政所)、波多野彦六郎、波多野滋信その他
●標高 516m
●比高 100m
●遺構 堀切、郭
●登城日 2010年9月18日

◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」「日本城郭大系第14巻」その他)
 前々稿で取り上げた吉見氏居館跡(島根県鹿足郡津和野町中曽野木曽野)から、南西方向である山口県側へ抜けると、途中に嘉年坂(かねさか)峠がある。これを越えると山口県に入るが、そこから少し下った嘉年下という地区に嘉年城がある。
【写真左】嘉年城遠望
 麓を走る道路は315号線











 当城は、津和野城の支城として主に使用された。築城期は不明だが南北朝期にはすでに存在していたといわれるので、本城である津和野城の築城期(正中元年:1325)とほぼ同時期と考えられる。

 最初に記録に出てくるのは、やはり石見南北朝のころである。以前にも石見南北朝の流れを三隅城などの稿で紹介してきたが、今稿の嘉年城もこのとき、重要な城となった。
【写真上】麓に設置された「嘉年故郷案内図」
 当地阿東町の支所のような施設に設置されたもので、嘉年城はこの図のほぼ中央に図示されている。

 この案内図はかなり詳しく地元の史跡関係が紹介がされているが、個別リストの項の文字が大分薄くなり、判読が困難になっている。

 戦国期関係で読み取れる事項としては、嘉年城(勝山の城址)の向背に「陶寄せ陣」というものが描かれているが、これは陶晴賢の軍のことである。
 また、315号線を挟んで東に小丘があるが、これを和田山城といい、陶方の三浦氏がここに陣をはったという(後段写真参照)。
 このほか、戦国関係の史跡としては、以下のものが記されている。
  • 大神宮 勝山城主波多野氏が1534年に伊勢から勧請した。
  • 波多野本家 勝山城主の館跡。堀があったが今は用水池となっている。
  • 若宮様 勝山城主波多野滋信公の御墓。1554年の合戦で戦死。
  • 龍昌寺 勝山城主波多野氏の菩提寺
  • 嘉年八幡宮 平安時代初期に宇佐から勧請。津和野より援軍に来た吉賀氏は、高佐で戦い、帰路追われてここで自害したという。
  • 茶臼山 合戦の時、陶方の弘中氏が陣を張り、津和野から勝山城への援軍を阻止した。
  • 物見ヶ岳 ここに狼煙場があり、勝山城と津和野三本松城との通信に使われた。
  • 姥ヶ迫 落城の時、若者を連れた乳母がここに逃れたが、味方を呼ぶために吹いたホラ貝を、敵に嗅ぎつけられたという伝説の地。


 建武4年(1337)4月、安芸の武田兵庫助信武は、吉川五郎次郎経盛、長門の厚東修理亮武実、そして石見の小笠原長氏らと連合し、三隅城(島根県浜田市三隅町三隅)に迫った。また、上野頼兼は、吉川実経代小林左衛門三郎を同じく三隅に向かわせた。

 これは北軍(尊氏)派の動きであるが、以前にも紹介したように、これに対する三隅兼連をはじめとする宮方軍は、逆に勢威を強め、5月になると、七尾城(島根県益田市七尾)を落とし、高津城(島根県益田市高津町上市)から黒谷横山城(島根県益田市柏原)(宮方軍居城)を進み、さらに北側から回って弥富・福田・生賀の諸城を焼き払い、ついに嘉年の西からこの嘉年城を攻め立てたという。

 嘉年城に拠った北軍の城主は、美濃郡(石見)長野庄惣政所の虫追(むそう)政国である。彼は、左膝に射傷を受け負傷したものの、そのまま大手門から打って出て、波多野六郎、難波中務入道の旗二旗を奪い取ったという(萩閥益田家文書)。

 このときの勝敗は宮方軍の勝利となったが、その後北軍は陣を立て直し、7月宮方軍の占拠する北方の黒谷横山城(島根県益田市柏原)に迫った。ここで数日間にわたる激戦が繰り広げられ、北軍として参戦した周防国仁保庄一分地頭・平子孫太郎親重は、上野頼兼から軍忠状を受けている(萩閥三浦家文書)。
【写真左】登城口
 登り始めたのが夕方近くだったが、ちょうどこのあたりで地元の方に登城路を確認し、向かった。
 なお、写真に見える位置は、市場という地区で、315号線の脇に車一台分のスペースがありそこに停めた。




 明けて暦応元年(延元3年:1338)3月、三星の城(益田市神田町:標高110m)の城主領家恒仲は、福屋・桜井氏と合力し、嘉年城攻めの宮方軍・三隅兼連・高津長幸らと呼応、石見に進出してきた安芸の北軍・武田氏を攻め、山県郡(広島県)の大朝・本庄に迫り、吉川辰熊丸を押し込み、14日には守護・武田信武を退けるなど、宮方軍の優位が続いた(那賀郡史など)。

 このころ中央では、5月22日、北畠顕家(北畠氏館跡・庭園(三重県津市美杉町下多気字上村)参照)が堺浦石津で高師直と戦い戦死。また閏7月2日には、新田義貞が斯波高経と戦って越前国藤島で敗死している。
 そして、翌月の11日、足利尊氏は征夷大将軍に任じられる。西国では今だ戦禍の絶えない状況下であるにもかかわらず、事実上室町幕府が始まることになる。その明くる年(暦応2年・延元4年:1339)8月16日、後醍醐天皇が没した。

【写真左】登り坂手前に設置された「勝山城(嘉年城)登山口」の標識
 最初の登山口から谷間を進み、ため池の手前から右に折れ、しばらく周回していくと、この場所に差し掛かる。

 ここからは、直坂登でほとんどつづら折りでないため、要所にはロープが設置されている。
 勝山城の特徴は、全周囲が急峻な山のため、「無類の天険」といわれている。

 地元の方によって、特にロープ等の整備がなされいるからなんとか登れるが、こうしたものがないと、登山に習熟した人でないと登れないだろう。設置整備された地元の方々に感謝したい。


 文明3年(1471)12月7日、陶弘護は、以下の報告を京都にあった大内氏に報告している(益田家文書)。
  • 吉見・三隅・周布・小笠原諸氏による嘉年城包囲
  • 益田貞兼の杉峠通路城・カケノ城・高津小城攻略
  • 自らの軍(弘護)による嘉年城を攻略
これは、応仁元年(1467)から始まった応仁の乱による石西・長門での戦いの記録である。
【写真左】急峻な登山道
 雨天時や積雪のあるときは、避けた方がいいだろう。ロープがあっても足元がすくわれる。先ず、無理である。
 また、複数で登るときは、上からの落石に注意した方がいい。
 
 先に登って行った連れ合いの真下から、何度も落石があり、「千早城の楠木正成ばりの攻撃?」を身内から受ける羽目になった。
 二人以上の場合は、十分に距離を保つことが必要だ。


 戦国期に入って当城での戦いがもっとも激しかったのは、天文22年(1553)から弘治3年(1557)ごろである。

 以前紹介した大内義隆墓地・大寧寺(山口県長門市深川湯本)で、義隆が自害すると、大内派だった吉見正頼は、天文22年10月、津和野城(三本松城)と、この嘉年城に拠って義兵を挙げた。

 同月12日、吉見正頼と下瀬頼定(下瀬山城主)は、石見国池田において陶晴賢の兵を破る(下瀬文書)。緒戦は吉見氏が優勢だったが、次第に陶氏が大内義長を戴いて攻勢を強めた。

【写真左】登り切った場所の三の丸と二の丸の中間点
 右に三の丸が控え、左に行くと武者走りが斜面に構成され、二ノ丸・本丸方面に繋がる。






 嘉年城は、城将・波多野滋信が守城し、粘り強く防戦したが、11月13日になると、晴賢・義長が一斉に攻めよせ、翌年3月3日、城中にあった田中某の一党が敵方に内応したことにより、落城、滋信は討死した。

 その後、吉見氏側は嘉年城から本城・三本松城へ敗走するも、12月追走した大内義長・陶晴賢によって再び破られた。しかし、翌弘治元年(1555)10月、吉見氏を破った陶晴賢は、厳島の戦い(宮尾城(広島県廿日市市宮島町)参照)で、毛利元就に敗れ自害した。
 残った大内義長は、大内義長墓地・功山寺(山口県下関市長府川端)で紹介したように、弘治3年(1557)4月2日、長福寺(功山寺)において自害する。

吉見正頼は、おそらく義長自刃後と思われるが、毛利元就の家臣となり、厚い信頼を受け元就死去後は、輝元の補佐役を務めていく。
【写真左】三の丸
 きぼはさほど大きくはないが、高低差は予想以上にある。
【写真左】二ノ丸
 二ノ丸と本丸は同じ頂部稜線上に造られている。
 二ノ丸の幅は6~7m、長さは40m程度と細長い。
 また両端部は険しい切崖を構成している。





【写真左】二ノ丸から本丸を見る。
 本丸に行くに従ってやや細くなる。写真の一番奥にみえるところが本丸になる。








【写真左】井戸跡か
 地形的にはこの場所で井戸を掘削しても水はでないような感じもするが、井戸跡であるとするなら、数十メートルは掘らないと水は出てこないだろう。






【写真左】三角点(本丸付近)
 標高516mとなる。
 本丸そのものは、4、5m四方の小規模なものである。









【写真左】本丸とその北に設置された郭
 写真の右側が本丸で、その左側に段差を持たせた郭が構成されている。規模は本丸より多少大きい。







【写真左】和田山城遠望
 前段で紹介した和田山城で、陶方の三浦氏が拠った。
 現在公園となって忠魂碑が建立されている。

 なお、和田山城はこの日登城していないが、サイト「城格放浪記」氏が紹介しているのでご覧いただきたい。


◎関連投稿

2010年12月15日水曜日

徳永城跡(島根県鹿足郡津和野町中曽野中組)

徳永城跡(とくながじょうあと)

●所在地 島根県鹿足郡津和野町中曽野中組
●築城期 弘安5年(1282)
●築城者 吉見氏
●城主 岡氏
●標高 327m
●比高 60m
●遺構 郭 等
●備考 
●探訪日 2010年7月21日

◆解説(参考文献「日本城郭大系14巻」等)
 前稿「吉見氏館跡」で触れた冨永八幡宮の東隣りに徳永城がある。
 訪れたこの日(2010年7月21日)は、吉見氏館跡が目的であったことや、時間があまりなかったこともあり、当城については登城していない。

【写真左】徳永城遠望
 本丸は右側の山になるが、左側の峰も城砦の遺構があると思われる。

 現地の簡単な説明板によると、築城期は吉見氏館が創建された時期と同じく、弘安5年(1282)となっている。築城者は吉見氏としているが、当初から吉見氏の一族であった岡氏が拠っていたのではないかと思われる。

 位置的に考えると、吉見氏館のある木園地区に入る手前の場所で、同館を守る番所的位置づけだったと思われる。
 また、もうひとつの役目は当城より北方にある「御嶽城」(同町中山奥ヶ野に所在する標高504mの山城)の支城・砦の役目もあったという。こうしたことから、小規模ながら重要な城砦であった。
【写真左】登城口付近
 整備されている風に見えたが、訪れたのが7月で、夏の真っ最中である。おそらく草丈が伸びて遺構の確認も困難だったと思われる。
 登城しなかったもう一つの理由は、今夏のクマの出没頻度が余りに多いため、断念したからである。

 ところで、この稿では番外編として、この地域に残るもう一つの近世史跡を紹介しておく。

岡 熊臣旧宅
●所在地 同町大字山下字清水前327番地
●指定 津和野町指定文化財

【写真左】岡熊臣旧宅

◆解説
 岡 熊臣(おかくまおみ)は、幕末に活躍した日本の国学者で、この地で生まれている。
 前稿「吉見氏館跡」で紹介した「冨長八幡宮」の神官・岡忠秀の子として生まれている。今稿「徳永城」と、冨永八幡宮とはわずか400mほどしか離れていない。

 徳永城の城主岡氏の一族が、富長八幡宮の神官も当時から務めていたと思われ、近世国学者の岡熊臣もその末孫であったと思われる。

現地の説明板より
“津和野町指定文化財 史跡「岡熊臣 旧宅」
     指定年月日 平成8年12月10日

【建物概要】
 現在の建物は、築後180年、宮大工によるものとされ、各所に特徴のある意匠が見られる。
「我が住む草の庵を桜のやどりとしもいう由は、今は昔おのがよつぎの親なりし治秀真人と聞こえしは、情けある人にて家の巡りに、名だたる桜木ども数多く求め植えられけり…」のとおり、当時は周囲に多くの桜の木が植えられ、文化12年から自宅で開いた塾も「桜陰館」と呼ばれていた。
 建物は、平成7年、岡氏より町へ寄贈され、平成8年12月、町文化財に指定、建物の修復整備が行われ現在に至っている。
【写真左】「桜陰館」の表札

【岡 熊臣 業績】
 岡 熊臣は、天明3年(1783)3月9日、鹿足郡山下村(現津和野町大字山下)で冨永八幡宮の宮司岡忠秀の長男として生まれた。はじめ忠栄、のち熊臣と称し、字は一朗、号には東嶺、桜廼舎などがある。

 本居宣長を師と仰ぎ、宣長の門人千家俊信、村田春門などに師事して国学を学んだ。
 熊臣が生涯に残した著作は、大著『日本書紀私伝』などを含め500巻以上、和歌も数千種に及び、今なお研究者に高く評価されている。また、教育に果たした役割も大きく、多くの先哲を輩出した藩校養老館の初代国学教授として迎えられ、国学を教育の基本に掲げ、学則を制定した。この養老館学則は、館教育の基本方針に留まらず、藩全体の精神的支柱になった。
 嘉永4年(1851)8月6日、津和野町官丁の官邸で68歳の生涯をとじた。
     津和野町教育委員会”

吉見氏居館跡(島根県鹿足郡津和野町中曽野木曽野)

吉見氏居館跡(よしみしきょかんあと)

●所在地 島根県鹿足郡津和野町中曽野木曽野
●築城期 弘安5年(1282)
●築城者 吉見頼行(頼忠)
●標高 260m
●指定 町指定
●登城日 2010年7月21日

◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」「島根県遺跡データベース」等)
 石見吉見氏関係では津和野町にある津和野城がもっとも知られているが、吉見氏が最初に石見に住んだ場所としては、今稿で取り上げる「吉見氏居館跡」がある。

【写真左】吉見氏居館跡に建つ碑
 下段の写真にもあるように、不揃いな棚田の奥にある畑地跡に建っているが、木製であるためか、文字も大分かすれている。













 所在地は、津和野城のある津和野の町から北西に伸びる「津和野田万川線(17号線)」を北上し、田尻四本松というところから分岐した津和野須佐線(124号線)にいったん入り、すぐに左(南西)に向かった木曽野(木薗)という山間部にある。
 ちなみにこの谷をさらに登って嘉年坂峠をこえると、長州(山口県)阿武郡に出る。
【写真左】居館跡
 当時の屋敷があったところの規模は約30aだったというから、現在の中規模な田圃一筆程度だったと思われる。
 写真にもあるように、背後は山に囲まれ、進入口である道路は、現在でも狭小な山道である。周辺には2軒程度の民家が建っているのみで、谷そのものも小さい規模だ。
 吉見氏が戦略的に考えて、あえてこうした辺境の地を選んだ理由がわかるような気もする。


 現地の説明板より

“木薗(木曽野)遺跡案内

 木園(木曽野)は、津和野町大字木部の南隅に位置し、中世津和野の歴史発祥の地である。南に鬼瘤山を控え自然の要害をなし、また、鶯の鳴く四季の風情豊かな里でもある。

 今から凡そ700年前、弘安5年(1282)源範頼の後裔吉見三河守頼行は、時の鎌倉幕府から沿海防備の命を受け、石見の守護として300町の地を給わり、一族13人、郎党36人と共に木部郷に入部し、ここ木園に居館をかまえた。

 頼行直ちに家士を地付け、兵士1千余人と共に開拓に着手する一方、鶴岡八幡宮や壷井権現、又処々に祖霊河内社と共に開発の祖を祀り、人心を安んじ、一方御嶽・茶臼・徳永に築城、猪の丸砦を構え、北の防備とした。

 永仁3年(1295)、津和野城築城縄張り、正中元年(1324)、2代直頼これを成就し居を津和野へと移した。その後も木園は祖霊を祀る地として大切にされた。


主な遺跡は次の通りである。
1、御所屋敷跡
  吉見頼行の邸跡で、今は水田となっている。

2、吉見の池
  吉見家の飲料水に利用したといわれ、池森家では後長く毎年元旦の若水として津和野の城へ献上したという。

3、鞭柳の碑
  10代城主隆頼公、山口へ参向の際、祖廟頼義社に詣で、その時柳の鞭の枝を土手に差し置き、生き継いだので鞭柳と名づけられた。数首の和歌が刻まれている。

4、頼義社(木園神社)
  源氏吉見家の祖霊社で、河内壷井権現を勧請、現在八幡宮に合祀され小社が建てられている。

5、源流寺跡と御塔
  吉見頼行の菩提寺源流寺跡と吉見家の墓、後、源流寺は津和野に移され、興源寺と改められた。


   平成元年2月 津和野町教育委員会 木部の歴史を守る会”
【写真左】居館跡に向かう途中の案内板
 上掲の説明板が、この写真にみえる足の部分だが、この場所で道が分岐していて 、どちらに向かうのかわからなかった。

 おそらく、この倒れた木製の案内板に矢印があったのだろうが、朽ち果ててしまっている。
 おかげで、この付近で相当時間を食ってしまった。


 上記の5に示した吉見家の墓とは、近くに頼行の奥方の墓と伝えられる宝篋印塔のことと思われるが、当日周辺を徘徊したものの、探すことはできなかった。

 ところで、以前取り上げた「津和野城」(2010年1月10日投稿)や、件の現地の説明板、また度々参考にしている「日本城郭大系14巻」などにもあるように、頼行が弘安5年、西石見の沿岸警備や、木園に来住したものと記されているが、「石見町誌・上巻」では、このことに疑問を投げかけている。

 これによると、弘安5年の西石見の沿岸警備(弘安の役)についたのは、頼行の父・頼忠で、さらに、恩賞としていきりなり300町(一説には500町)を宛がわれる状況ではなかったという。
 というのも、当時幕府は一町歩の田地もままならない状態で、戦後処理として先ず検地から始めなければならなかった。従って、恩賞の実施ができたのは弘安9年(1286)以降だという。

 また、説明板では津和野城の縄張を永仁3年(1295)としているように、築城竣工はそれよりさらに下った正中元年(1325)であろうとしている。
【写真左】冨永八幡宮の入口
  この階段付近に木製の碑があり、以下のことが記されている。
“郷中氏神の総社として祀る。弘安5年(1282)、吉見氏鎌倉鶴岡八幡宮を勧請して祀る”
 このことから、説明板にあった頼義社(木園神社)だと思われる。




 頼行の最期は、建武3年(1336)討死することになるが、逆算していくと、伝承とされている最初に功を挙げた弘安4年(1281)から50余年まで活躍していることになる。
 これは余りにも無理があり、確かに前半の活躍は父・頼忠のものと考えた方が妥当と思われる。

 ところで、この吉見氏居館跡は、拙稿「津和野城」でものべたように、津和野城が使用されてからも同地との往来は長く続いた。

【写真左】冨永八幡宮鳥居
 道路下の参道から本殿まではかなりの距離があるがあるが、その途中の広場などを含めると、かなりの規模になる。

 往時は相当参詣者があったのだろうとおもわせる雰囲気がある。

三宅御土居館跡(島根県益田市三宅町)

三宅御土居館跡(みやけおどい やかたあと)

●所在地 島根県益田市三宅町
●形式 居館跡
●築城期 平安時代末期~応安年間(1368~75)
●創建者 益田兼見
●規模 192m×85m
●遺構 土塁、掘立柱建物、柱穴、堀、その他
●指定 国指定
●標高 8m
●登城日 2010年9月12日

◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」、「日本城郭大系第14巻」等)
 七尾城に拠った益田氏の居館跡とされているのが、当城より北西700m余りにあった三宅御土居である。
 近年までその築城期が応安年間(1368~75)ごろ、益田兼見によって創建されたといわれてきたが、平成2年度から行われてきた益田市の発掘調査によって、その時期がさらにさかのぼった平安末期のころと訂正されている。

【写真左】三宅御土居跡
 写真のように「おどい広場」と命名され、市民の憩いの場のような施設をつくりつつある。

 現地にはこれまでの発掘調査で明らかになった詳細な内容を、大型のパネル型説明板を設置して紹介している。
 また、益田氏の歴史を活かしたまちづくりをめざして、「七尾城通り」「おどい広場」といった愛称を命名している。

 これまで取り上げた「七尾城」と今稿「三宅御土居」、さらに紹介はしていないが、益田氏や雪舟と深いかかわりのある「医光寺」の3カ所をもって「トライアングルゾーン」と位置付けている。
 
 なお、つい最近まで三宅御土居館跡には、益田氏とゆかりのある「泉光寺」という寺院が建っていたが、発掘調査のため移転している。

 【写真上】左図:七尾城想像図、右図:三宅御土居想像図
 写真がいびつだが、全体の構図は判断できると思われる。左図では三宅御土居は、上部の益田川を渡った位置に描かれている。
 三宅御土居は、想像図にもあるように、全周囲に堀が巡らされ、東西には土塁が設けられていた。この土塁は下の写真にもあるように現在でも残っている。

【写真左】東側の土塁
 最近まで寺院であったことからこの東西の土塁跡にも墓石が並んでいる。 
【写真左】東側の土塁から西側の土塁を見る。
 西側の土塁は高さは、東側のそれとほぼ同じだが、長さはやや短い。
 中央部の青いビニールシートがある付近が元の寺院跡で、下段の写真のように数カ所にわたって発掘調査が行われている。 
【写真左】発掘調査現況
 シートに覆われていない個所には、元の寺院の礎石が残っている。
 また、東側の広場としてすでに整備された位置には、井戸跡がのこっている。
【写真左】西側の土塁から東側の土塁方面を見る。
 三宅御土居の形状は、上掲したように東西に長い敷地となっている。また、この写真で見える右側の住宅地との段差でもわかるように、南側下段は帯郭の形式を持たせた構造になっている。
 おそらくその郭のレベルが掘に接していることから、船着き場として兼用されていたのかもしれない。
【写真左】三宅御土居から南東方向に七尾城を見る。
【写真左】当時の堀の状況
 下段が北になるが、上段(南)の堀の幅は広い所で40m前後あったという。搦手は北になる。

 なお、これら外堀の水は益田川から大堰堤を設置し引き、外堀の西側に江湾水溝を伸ばし、益田川下流(当時は高津川との合流)に結んだ。

2010年12月14日火曜日

七尾城・その3(島根県益田市七尾)

七尾城・その3

 前稿から大分日数が経ってしまったが、今稿では七尾城・その3として、歴代益田氏の中から主だった人物を挙げておきたい。

【写真左】 七尾城本丸付近より益田市内を見る。
 手前の川は益田川で、左上の方にかすかに高津城跡(万葉公園)の丘陵が見える。



益田兼堯(ますだかねたか)

 呼称が同じものとしては、以前取り上げた兼高(かねたか)がいるが、兼堯の方は、第15代で、父は兼理である。幼名は益一丸、または松寿・孫次郎と称した。兼堯の子は、二男三女で、貞兼と兼久があり、貞兼が家督を継ぎ、三女は大内氏の家老・陶弘護、益田兼春、吉見信頼に嫁がせた。

 父である兼理は、永享3年(1431)7月16日、足利義教の命によって、大内盛見に従って出陣し、筑前国深江で討死する。大内盛見も当地で戦死した。その3ヶ月後である10月23日、幕府は大内盛見の遺領を大内持世に相続させ、大内持盛に長門を与えた。同じころ、益田家では兼堯が跡を継いだ。

 兼堯は特に当時の状況が許さなかったこともあり、彼の一生はほとんど転戦に明け暮れている。主だったものだけでも次のようなものがある。

(1)嘉吉・宝徳の乱
 嘉吉元年(1441)7月4日、幕府(足利義教)は兼堯に赤松満祐の追討を命じた。8月23日、兼堯は山名道作の配下に属して、作州高尾の城を落とし、細川持之から感状を受けた。
 宝徳3年(1451)の夏、兼堯は吉川経信と連合し、伊予国にわたって、河野刑部大輔孝通を助けるため、河野伊予守通治の討伐に向かった。これにより、管領畠山持国から戦功を賞された。

(2)匹見三葛の戦い
 以前取り上げた三隅城の稿で、益田氏が三隅氏と長い間抗争を続けてきたことを紹介したが、益田氏はこれとは別に、益田氏領の南方にある石見・吉見氏とも長く抗争を続けている。

◎関連投稿
嶽山城(大阪府富田林市龍泉)
【写真左】七尾城 の絵図
 登城口付近に設置されている。この絵図にもあるように、登城口付近である北西麓には、益田川から濠を造るため開削した跡が残っており、現在もそのあとを残す池がある。


益田元祥(ますだもとよし)

 元祥は益田氏第20代である。先代である父・藤兼(19代)の子で、母は石津頼経の子である。
 永禄11年(1568)1月30日、加冠し毛利元就から偏諱の「元」を受け、益田次郎元祥と名乗った。そして、その2年後の元亀元年(1570)2月9日、藤兼は元祥に正式に益田氏の所領をほとんど譲ることになる。

 この時の詳細な譲状が残っているが、これによると、地元石州(益田市地域)はもとより、長州の東部一円、及び防州の恒富保・厚東・東豊田、そして九州筑前国にまで領有し、一時的には雲州(出雲)の生馬郷(松江市)までを領有していた。

 このように、防・長・雲・石・築の五州まで及んだことは、同氏累代の中で最も所領規模が大きく、元祥時代が一番繁栄した時期とも考えられる。
 ただ、その後支配した領地は、次第に毛利氏の権力強化により削減され、毛利氏の家臣団として主従関係の結果、同氏四家老の一人として位置づけされていく。

 ところで、元祥の活躍で主だったものとしては、秀吉の四国征伐と、九州島津義久の討伐がある。
 秀吉の四国征伐とは、長宗我部元親との戦いである。天正13年5月、益田元祥は毛利軍に属し、6~7月にかけて、先陣として高尾城(愛媛県西条市永見土居:標高240m)に向い、7月13日金子氏(金子山城)に攻め入り奮戦した。

 九州の島津氏討伐(天正15年:1587)では、特に宇留津・障子ヶ嶽の戦いが挙げられる。
 香春岳城(福岡県田川郡香春町)に拠った賀来恵慶は、島津軍に属し、その子久盛は手兵2000を率いて宇留津(福岡県築上郡築上町にある平城)の城に拠った。毛利方は先に息子久盛の宇留津の城を攻め、久盛は倒れ、残兵は香春城へ奔った。
 このときの益田元祥の戦いぶりは「安西軍策」に記され、僅かの部下を率いて多大な戦果を挙げた。これにより、元祥は毛利輝元から感状を、元長(吉川)からは太刀一腰、馬八疋を贈られた。
【写真左】 水源池
 上記した堀跡で、益田水源池といわれ、公園となって市民の憩いの場として使用されている。






 ただ、元祥にとってこの九州島津討伐の戦いは、決して晴れがましいことばかりではなかった。
 元祥の妻は吉川元春の娘であったが、天正14年(1586)12月25日、その元春が九州小倉の陣中で57歳の生涯を終えた。

 元春はその数年前には息子・元長に家督を譲り隠居していたが、秀吉の命によってやむなく出陣していた。死因ははっきりしないが、おそらく癌に冒されていたという。

 元春の死後、長子・元長がそのあとを引き継ぎ、益田元祥らは元長の指揮下に入った。天正15年6月、九州の平定がほぼ終了するころになって、今度は元長が急に病を発し早世した。日向(宮崎県)の都城で、秀吉帰洛の路を待っていたときであった。僅か40歳であった。
 元祥にとって、岳父(元春)と義兄弟の死は大きなショックであったと思われる。

 元長には実子がいなかったこともあり、しかも九州という陣地での出来事から、吉川家一門に動揺が走り、継嗣の議論が起こった。このため、宗家である毛利輝元と黒田如水が仲裁に入り、継嗣を弟の広家(経言)とした。そして、すぐに同月5日付で、下記の起請文を吉川家に諸将が提出している。その面々は以下の通り。
  • 益田右衛門佐元祥
  • 宍道備前守政慶
  • 天野民部大輔元弥
  • 周布左近太夫元城
  • 杉原弥五郎広亮
  • 湯 佐渡守家綱
  • 福屋左衛門尉元秀
  • 古志因幡守重信
  • 多賀彦三郎元忠
  • 都野弥次郎経良
  • 赤穴右京亮幸清
  • 熊谷豊前守元直
  • 佐波兵部少輔恵連
 これにより、吉川家の安泰が保たれたわけである。なお、この2日後の6月7日、秀吉は筑前国筥﨑(福岡市東区箱崎)で、諸将を会して、九州諸大名の封域を定めている。筥崎とは、おそらく「筥崎宮」のことと思われる。

 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに敗れた西軍側の益田元祥は、毛利輝元の家老として長門の須佐に移り、七尾城は300年の歴史に幕を閉じた。
【写真左】東尾根防塁群の一ノ段から西尾根防塁群との接続部(帯郭)を下に見る。

 東西防塁の接続点に馬釣井がみえるが、東尾根防塁群の下段の郭も尾根伝いに長く伸びている。

 【写真左】本丸付近
  現地の案内図では、一ノ段をまとめて本丸と定義しているが、幅はさほどないものの、南北に数十メートル伸びた構成をしている。

 この先にはかなりの高低差を持たせた切崖があり(7,8mはあるだろうか)、さらに南尾根防塁群へと続く。

 残念ながら、この南尾根防塁群は踏破していないが、相当起伏のある城砦のようだ。
【写真左】東尾根防塁群二ノ段から南方を見る。
 この場所から手前に下がって行くと、当時の登城ルートといわれる谷間にいけるが、現地は整備されていないので、省略した。

2010年10月9日土曜日

七尾城・その2(島根県益田市七尾)

七尾城・その2

●登城日 2010年9月12日

はじめに
 今稿では主に七尾城の主だった部分について、写真を交えて紹介したいと思う。なお、七尾城の遺構は、その規模・種類の多さなどから、今稿のみではすべてを網羅することはできない。
 予定としては、次稿で、室町・戦国期における益田氏一族の流れの中で補完したいと思う。

【写真上】益田市内の主な史跡配置図
 上部が日本海で、右に流れるのが益田川、左に流れているのが高津川である。
 「七尾城」は右下に図示されている。

【写真左】七尾城略図
 当城の麓登城口付近に設置されたもので、文字が小さいため読みづらいが、V字型の二つの尾根に造られ、大まかな構成としては、西尾根防塁群(図の下方の尾根)と、東尾根防塁群(図の上方の尾根)とで成り立っている。
 本丸の位置は、この図の右側にある。
【写真左】登城口から登って行く途中にある住吉神社の前の門
【写真左】本丸方向へ向かう道
 上記の門をそのまままっすぐ向かうと住吉神社本殿がある。
 七尾城に向かうには、その手前で左に鋭角に分岐した道があり、この道からつづら折りの経路となる。
 写真に見える尾根斜面は、「西尾根防塁群」のもので、本丸に向かわず真っすぐ行くと、この尾根先端部の尾崎丸まで向かうことになる。
【写真左】竪堀
 西尾根防塁群に見えたもので、登城途中にあるものとしては一番管理が行き届いている遺構である。 
【写真左】途中の分岐点
 西尾根防塁群の一ノ段といわれているところの中心部が、写真にあるように、左方面に向かう尾崎丸・千畳敷、右に向かうと、東尾根防塁群方面(本丸)との分岐点になる。
 最初は、右に向かった。
【写真左】三宅御土居遠望
 上記分岐点付近から少し北に進んだ「太鼓の壇」付近から見たもので、三宅御土居は、近いうちに取り上げる予定だが、応安年間(1368~75)ごろ益田兼見が創建したとされる益田氏の居館跡である。
 写真に見える左右の樹木間に設置されていた館で、左右の樹木は土塁跡であり、最近までこの中央部には寺院が建っていたが、益田市教育委員会による発掘調査のため、寺院は移転させている。
 なお、手前にみえる川は、益田川。
【写真左】厩の壇・その1
 太鼓の壇を過ぎると、広大な「厩(うまや)の壇」が見えてくる。南北56m、幅15mの規模で、騎馬で登城してきた武士たちがこの場所に馬をつないだといわれている。

【写真左】厩の壇・その2
 西尾根防塁群と東尾根防塁群をつなぐ郭段から撮ったもので、写真の奥が太鼓の壇側で、右に向かうと本丸(東尾根防塁群)がある。
【写真左】馬釣井
 先ほどの厩の壇から、東尾根防塁群に向かう途中の谷始点に井戸跡がある。案内板によれば、円形の割石積みの井戸で、直径1.2m、深さ4.5mだったという。
 位置的に厩の壇の附近にあることから、主に馬に飲ませる水のものだろうが、武士たちも飲料水として使っていたのかもしれない。なお、七尾城にはこれ以外に2カ所の貯水濠があったとされるが、具体的な場所は銘記されていない。

 なお、写真はないが、この東西尾根の谷筋が、大手と思われ、この東尾根防塁群の左側二ノ段斜面(帯郭)に、22m×5mの規模で礎石建物跡が発見された。倉庫の役目とした建物であったらしい。
【写真左】二の丸付近
 東尾根群に登る道の最初の到達点は、同群の「一ノ段」中央部にあたり、そこから南(右)に向かうと本丸に行く。
 二の丸の長さは、東尾根防塁群の中でも、その幅も含めもっとも規模が大きい。
 戦略的にもこの二の丸における位置は重要なものと思われ、多くの将兵が駐屯していたと思われる。
 二の丸の北端部ではかなり高低差(5,6m程度)のある堀切を持たせ、以下二ノ段、三ノ段、そして当該尾根群の最北端部の四ノ段まで約300m近くの長さに伸びている。
【写真左】二の丸から本丸方面を見る
  この写真は、二の丸から本丸方向を見たもので、本丸と二の丸の段差は1、2m程度でスロープ状になっている。同群尾根の縁は、原形が劣化しているものの、土塁状の痕跡が認められる。

 当時はおそらく、1m程度の高さがあったものだろう。なお、二の丸と本丸の境界部の幅は、意識的に狭められているような造りである。
【写真左】本丸側から北に二ノ丸方面を見る
 東尾根防塁群は全体に左右の斜面は切崖状になっている。
【写真左】本丸付近
 本丸を挟んで前後に礎石建物が発掘されたということから、これらはおそらく弘治2年(1556)、益田藤兼の代の修造と思われる。特に本丸最南端の礎石規模は、二ノ丸北端のそれと同等の大きさを持ち、郭幅いっぱいに建屋があったものと思われる。
【写真左】本丸跡から西方に益田市内を見る
 七尾城の本丸高さはさほど高くないものの、眺望は予想以上にいい。このため、西方からの動きは、この本丸からほとんど確認できたと思われる。
 東方は東尾根群の三ノ段や、四の段辺りから把握し、北方は西尾根群の北端である「尾崎丸」から見ていたのだろう。
 改めて七尾城の形状が、中世山城の城砦として独特のV字状の尾根を巧みに利用したものであることを感じる。

【写真左】千畳敷
 最初の西尾根防塁群に戻って、太鼓の壇の北部にあるもので、この位置から上に登ると当該遺構があるが、現状は時期が悪く、雑草が繁茂していて中までは踏破していない。
【写真左】七尾城から稲積城を遠望する。
 七尾城の西隣にある山城で、益田兼高が稲積神社を改修するため、山頂部を削平、平坦地(10a)を造った。

 その後、興国年間(1340~)、益田兼見の代になると、日野邦光が南朝方の三隅兼連らと呼応し、この城に拠って、兼見の居城である七尾城と対峙した。
 現地に行くと、七尾城と稲積城との距離が余りにも近接していることに驚く。稲積城は七尾城に比べ規模が小さいが、西に伸びた稜線とのつながりもあり、しかも、日野邦光が6カ月も持ちこたえたのは、さらに高津川西岸にあった高津城との連絡と兵糧の輸送が確保されていたからである。
 しかし、最終的には七尾城の兼見らによって、同城は落城(興国元年:1340年8月19日)、邦光は石見を去り、吉野(奈良県)に帰った。