2019年11月26日火曜日

織田信長戦地本陣(愛知県新城市牛倉城山)

織田信長戦地本陣(おだのぶなが せんちほんじん)

●所在地 愛知県新城市牛倉城山
●築城期 天正3年(1575)
●築城者 織田信長
●高さ 150m(比高50m)
●遺構 郭等
●備考 茶臼山
●登城日 2016年11月6日

解説
 織田信長戦地本陣は、長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内) から西へおよそ4キロほど向かった茶臼山に築かれた(以下「茶臼山本陣」とする。)城砦である。
【写真左】「織田信長戦地本陣跡」と書かれた看板。
 現在は最近できた新東名高速道路が東西を横断しているため、本陣とされる茶臼山は南北500m×東西250mほどの独立峰に見えるが、当時は北西側から延びる尾根の先端部だったと考えられる。









現地の説明板より

織田信長戦地本陣跡

 天正3年(1575)、長篠・設楽原の戦いに臨んだ織田信長は、設楽原の決戦を控えて上平井の極楽寺で軍議を開き、武田軍の騎馬隊攻略の作戦を練った。
 そして、自らはこの茶臼山に進撃し、本陣をおいて指揮をとった。
 このすぐ北側には、側近羽柴秀吉を従え、徳川家康を最前線の弾正山に配置した。
 布陣は、当時の信長の権力の絶大さを示しているといえよう。

 ここには、珍しい信長の歌碑がある。
「きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かね」

   昭和57年3月30日 新城市教育委員会″
【写真左】長篠設楽原PAから遠望・その1
 新東名高速道路のPAから直接歩いて向かうことができる。

 因みに、近距離で向かうには「下り線」のPAに駐車したほうがいいが、「上り線」のPAからでも距離は長くなるもの向かうことができるようだ。



信長本陣

 信長が最初に軍議を開いた場所が上平井の極楽寺といわれ、本稿の茶臼山本陣から南西へおよそ1.3キロほど向かったに位置になる。因みに、当時この極楽寺は廃寺となっており、その南にある平井神社付近も含めた箇所となる。

 この辺りの地勢は北西から伸びてきた舌状丘陵の先端部に当たり、当初この位置から東方に武田軍の動きを見ることができると考えたのだろう。
 その後、この茶臼山本陣に移ることになる。
【写真左】長篠設楽原合戦城鳥瞰図
 現地に設置されている大変に詳細な図だが、全図を添付すると文字が小さくなるため、主要な箇所のみを載せている。
 赤字で示した武将は信長・家康軍、青字のものは武田軍。

 参考までにこの戦い(設楽原の戦い)で参戦している主だった武将は次の通り。
《信長・家康軍》
 佐久間信盛、丹羽長秀、羽柴秀吉、滝川一益、石川数正、徳川家康、本多忠勝、大久保忠世、榊原康政、大須賀康高

《武田軍》
 真田信綱、穴山信君、馬場信房、土屋昌続、武田信豊、武田勝頼、小幡信貞、武田信康、内藤昌豊、原昌胤、山県昌景
【写真左】長篠設楽原PAから遠望・その2

下りPAの展望台から見たもので、左隅の道が下りPAからの道で、中央左の道が上りPAからの道のようだ。


現地の説明板より

‟解説
 天正3年(1575)旧暦5月、長篠城を取り囲んでいた武田勝頼軍は包囲を解き、茶臼山に布陣する織田・徳川連合軍に連吾川を挟み対峙します。
 21日早朝、織田・徳川連合軍3万8千人に対し、武田軍1万5千人は雨もよいの中進軍を試みますが、三段に設けられた馬防柵、土塁、火縄銃に行く手を遮られ、一部が馬防柵を突破するも、時間と共に信玄以来の武将の相次ぐ討死等損害を積み重ね、遂には撤退を余儀なくされました。
 武田軍は1万2千を失い撤退する中で、追撃する織田・徳川連合軍も5千を失う激しい戦いでありました。”
【写真左】登城用階段付近
 おそらく、新東名高速道路敷設に伴う周辺整備工事に併せて設置されたものだろうが、それまでは茶臼山の南麓から登って行く道が使われていた。
 両脇に「奉納 茶臼山稲荷祭」と書かれた赤いのぼりが立てられている。


鉄砲隊の威力

 長篠・設楽原の戦いで画期となったのは、大量の鉄砲隊が動員されたことである。織田・徳川連合軍、及び武田軍のそれぞれの兵力は、諸説あり確定されていないが、説明板にもあるように、武田軍の兵力に対し、織田・徳川連合軍はおよそ2.5~3.0倍とされている。

 さらに、この戦いで織田・徳川連合軍は2,500もの鉄砲隊を活用した。対する武田軍は「馬一筋」といわれる騎馬隊である。武田軍が信長らの鉄砲隊に関する情報はある程度知っていたものと思われるが、このときはそれほどの威力はないものと踏んでいたのだろう。

 果せるかな、武田軍はこの戦いで信玄以来の勇将といわれた山縣昌景・馬場信春・内藤昌豊など討死し、数千の兵力がこの合戦で散った。
【写真左】茶臼山稲荷の参道
 階段を登り、道なりに進むと、途中で南から登ってくる参道と合流する。
【写真左】茶臼山稲荷(神社)
 奥の高台に本殿が祀られ、その下が境内になっている。信長軍は主としてこの場所を軍議を行う際使っていたのだろう。

 なお、茶臼山には斜面に横穴式古墳2基があり、茶臼山の北側では平安末期といわれる経筒が出土している。また茶臼山稲荷とは別に山住稲荷という社もあったようだ。
【写真左】茶臼稲荷社の本殿
 当社本殿の建築様式は宮大工が建てたような神社形式のものでなく、現代風の建物で小規模なものだが、昔から氏子よって鎮守してきたものだろう。
【写真左】神社裏
 信長軍はこの茶臼山の東側を主な陣所とし、家康軍は茶臼山南麓に陣を構えたといわれている。
【写真左】織田信長歌碑が刻まれた石碑
 上掲した珍しい信長の歌碑が刻まれている。
【写真左】PAから鈴木金七誕生の地を遠望する。

 鈴木金七は、前々稿長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内) で紹介した鳥居強右衛門と共に長篠城を脱出し、岡崎に向かったが、かれはそのまま岡崎に留まったという。

 このため、強右衛門はその後英雄扱いされたが、金七は武士を捨て帰農した。
【写真左】新東名高速道路の長篠設楽原PA
 写真は下りのPAで、奥の林を超えると上りのPAがある。上下とも道路の南側に設置してある。 

2019年11月22日金曜日

三河・野田城(愛知県新城市豊島字本城)

三河・野田城(みかわ・のだじょう)

●所在地 愛知県新城市豊島字本城
●別名 根古屋城
●築城期 永正5年(1508)
●築城者 菅沼定則
●城主 菅沼氏
●指定 新城市指定史跡
●高さ 50m(比高10m)
●形態 平山城
●遺構 郭・土塁・堀・井戸等
●登城日 2016年11月5日

解説
 三河・野田城(以下「野田城」とする。)は、前稿長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内) が所在する位置から、豊川沿いにおよそ10キロ余り下った同市豊島本城に築かれた平城である。
【写真左】野田城の石碑
「野田城址」と筆耕された石碑が建つ。








現地の説明板・その1

‟野田城跡

 この城は、永正5年(1508)に築城されたと伝えられる。菅沼定則・菅沼定村・菅沼定盈等がここを居城とした。

 城郭は南北に長く、北より三の丸・二の丸・本丸と続くいわゆる連鎖式の山城である。東西両側は谷になっており、当時は自然の川をせき止めて堀を形成していた。
 戦国時代、今川・武田・徳川などによって幾度も争奪戦が繰り返され、天正18年定盈が関東へ入封されるまで続いた。

     昭和56年3月1日  新城市教育委員会”
【写真左】野田城の平面図
 この図は縄張図ではないが、もともと平城であるため郭間の高低差もさほどないため、現在では険峻さを感じない。
 しかし、当城の特徴は南北に配置された連続する渕と呼ばれた濠が最大の防御だったのだろう。


菅沼定盈

 野田城の城主は、前稿で紹介した長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内) と同じく菅沼一族である。もともと今川氏の支配下にあったが、その後徳川氏に属した。

 説明板にもあるように、野田城の初代城主・菅沼定則のころは今川氏に属し、東三河の抑えを任されていたが、享禄2年(1529)徳川家康の祖父・清康(三河松平氏)の三河宇利城攻めの際、軍功があり吉田・宇利の二郡を与えられ、この周辺部の国衆らは定則の勧誘によって徳川清康の支配下となった。因みに、このころ清康は一時的ではあったが三河国統一を成し遂げている。
【写真左】入口付近
 野田城の入口は当時の三の丸の西側にある。写真はその前を道路が設置されているが、当時はこの道は本丸から三の丸間を連絡する犬走があった可能性が高い。

 因みに道路の右側には龍渕と呼ばれる濠が三か所に亘って長く伸びていた。


 さて、定則の孫は定盈(さだみつ)である。徳川家康と同じく天文11年(1542)生まれといわれている。因みにこの年は、武田晴信(信玄)が諏訪頼重を甲斐国に幽閉させたのち自害させ、また、出雲国では山口の大内義隆が毛利元就らを引き従わせ、尼子晴久の居城・月山富田城攻めを開始した年でもある。

 定盈は19歳のとき家康に属している。定盈の父・定村の頃は今川氏に帰順していたようだが、同氏を含めた山家三方衆の分裂が生じ、この戦いによって定村は弘治2年(1556)に不慮の事故で亡くなっている。享年35歳。
 家康に仕えた定盈はその後離反することなく、一貫して家康の忠勤に励んだ。この後、遠江の高天神城攻めや、小牧・長久手の戦いに武功を挙げ、家康の江戸開幕に伴って上野国阿保で1万石を領した。
【写真左】二の丸
 入口から入るとすぐに二の丸に至る。奥には既に本丸に祀られている稲荷神社が見えている。

 なお、左側には三の丸があるが、どういうわけか管理人は写真に撮っていない。おそらく、この時は整備されていなかったかから撮っていなかったかもしれない。
【写真左】竪堀
 二の丸と本丸の間にある竪堀。上述した平面図にもあるように、三の丸・二の丸・本丸の3郭間の接続部は全体に絞られ、両側には竪堀で構成されている。
 平面部分の深さは現在では相当埋まったせいか浅いが、当時はもう少し深かったものと思われる。
【写真左】反対側
 奥に道路が見えるが、当時はそうしたものはなく、犬走か若しくはそのまま「龍渕」の方へ傾斜した竪堀だったのだろう。



現地の説明板・その2

“野田の戦

 元亀4年(1573)1月、上洛をねらう武田信玄は、宇利峠を越えて三河に進入してきた。菅沼定盈(さだみつ)の守るこの野田城を攻撃するためであった。

 野田城は小城であるが、そなえが固くなかなか攻め込めない。そこで信玄は、甲州の金堀人足を使って水脈を切り、城内の水をからしてしまった。
 定盈は、徳川家康の援軍も来ないので、城の運命もこれまでと判断し、城を明け渡した。

     新城市教育委員会”
【写真左】本丸へ向かう。
 手前は二の丸から本丸へつなぐ通路だが、当時は土橋で繋がれていたのかもしれない。
【写真左】本丸・その1
 北西の角に稲荷の鳥居が見えるが、その右側は少し下がった段になっており、次第に南東部に郭が伸びる。
【写真左】野田城稲荷
 菅沼一族の家紋は複数あるようだが、この家紋はそのうちの「菅沼三つ目」といわれるもの。
【写真左】侍屋敷
 本丸からさらに南に下がると、侍屋敷といわれる郭がある。
 主だった家臣たちの住居は主として南を流れる豊川沿いに配置されていたのだろう。
【写真左】切岸
 侍屋敷の北側斜面に当たる箇所で、この付近になると、桑渕は途切れているが、切岸の下方に最下段の郭を置き、その周りを杉川という豊川の支流が流れている。




狙撃された信玄

 本丸から少し南に下がった郭の一角に「伝 信玄公、狙撃場所」と書かれた場所がある。
 これは元亀4年・天正元年(1573)1月から2月にかけて行われた武田軍と徳川軍の戦いで信玄が野田城を包囲していた時、城内から信玄を標的にして火縄銃が放たれ、疵を負ったといわれるものである。
 
現地の説明板・その3

"伝 信玄公、狙撃場所

 笛の音に誘われた武田信玄をこの付近より火縄銃にて狙撃した。
 その銃は銃身だけが設楽原歴史資料館に展示してある。

     新城市教育委員会”

【写真左】信玄が狙撃された場所
 南側の郭に設置されているので、信玄は野田城の南麓側、即ち龍渕側に居たのだろう。





 伝承では、城内から美しい笛の音が流れ、それに誘われた信玄が本陣を抜け出した途端、定盈の家臣鳥居三左衛門の銃によって狙撃されたという。この鳥居三左衛門は、前稿長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内) で紹介した鳥居強右衛門と同姓だが、その関係は分からない。

 この戦いのあと、信玄は亡くなるのだが、そのきっかけがこのときの狙撃によるものという説もある。ただ、最近では信玄が亡くなる6年前から患っていた胃がんが原因とされている。
【写真左】井戸・その1
 本丸と侍屋敷の境に当たる南東部に井戸が設けられている。
 他の城郭では水源の確保が困難な場所が多く、城域から離れた場所に設けられることが多いが、この場所に井戸を確保できたことは菅沼氏らにとって大いに助かったことだろう。
【写真左】井戸・その2
 だいぶ埋まってはいるが、直径は3m近くはあるだろう。


2019年11月17日日曜日

長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内)

長篠城(ながしのじょう)

●所在地 愛知県新城市長篠市場、岩代、池内
●別名 末広城、扇城
●指定 国指定史跡
●築城期 永正5年(1508)
●築城者 菅沼元成
●城主 菅沼氏、奥平氏
●形態 平城
●遺構 郭・土塁・空堀・石垣
●備考 日本100名城 №・46
●登城日 2016年11月5日

解説
 長篠城は、三河(愛知県)の東端部新城市に所在する城郭で、この位置からおよそ8キロほど東進すると、遠江(静岡県)に至る。
【写真左】長篠城
 南側から見たもので、左に本丸があり、その右は空堀(当時は濠として水を溜めていた)がある。




現地の説明板より

”国指定史跡 長篠城

 ◆豊川本流(寒狭川)と、宇連川の合流点の断崖上にあり、本丸・帯郭・野牛郭・巴城郭(ほじょうくるわ)・瓢郭(ふくべくるわ)・弾正郭等、総面積約10ヘクタール。
 ◆本丸の土塁と堀の一部を今に残し、戦国末期の城郭の姿をよく見せている。
 ◆天正3年(1575)11月、徳川家康は奥平貞昌を城主に任命し、城郭整備5月、武田勝頼の猛攻に耐える。
【写真左】長篠城縄張概図
下方が北を示す。
 中央の上方に本丸があり、右に豊川(寒狭川)、左に宇連川が描かれている。そのうち寒狭川(かんさがわ)から城内に水を引き込み、本丸及び、二の丸、弾正郭などを二重の濠で囲む構成となっている。




 長篠の戦い

 天正3年(1575)5月、武田勝頼軍1万5千が、徳川家康の将奥平貞昌以下5百が守るこの長篠城を包囲して、攻防10日、織田信長3万・家康8千の援軍は、5月18日西方4キロの設楽原(したらがはら)に到着して陣を築く。武田軍は20日、長篠城の囲みを解いて設楽原へ進出、21日は夜明けとともに織田・徳川軍の陣地に突入し、壮絶に戦うが、数千挺の銃撃にさらされ歴戦武勇の将士の多くを失った。勝頼は数騎に守られて敗走した。”
【写真左】「長篠の戦い 史跡めぐりコース」の案内図
 現地には中央に長篠城を置き、その周囲を囲んだ武田軍の陣配置などが描かれた案内図が設置されている。
 これによれば、武田勝頼が本陣としたのは、長篠城の北方天神山陣地のさらに北に設けている。

 
 長篠城址史跡保存館

 ◆現地に残された武具や出土品、参戦将士子孫からの提供品、他に古文書などを収蔵し、長篠の戦いの全容を展示資料で見ることができる。
 ●奥平氏籠城の血染めの陣太鼓
 ●鳥居強右衛門落氏磔死(たくし)の図(落合左平次指物写)
 ●火縄銃(3-30匁)各種、弾丸・用具その他
 ●長篠合戦図屏風(尾張徳川家所蔵原寸復元)
 ●具足・武具 その他”
【写真左】本丸付近の濠
 右側が本丸で、左側が二の丸にあたる。上掲した縄張概図でも述べたように、現在は空堀となっているが、当時は水を蓄えた水堀となっていた。


菅沼氏

 長篠城の築城者は菅沼元成といわれている。築城期は永正5年(1508)といわれ、このころ元成が駿河の今川氏親と同盟関係を結んでいたという。当城の菅沼氏の出自については諸説あるものの、もともと美濃守護であった土岐氏の庶流ともいわれ、鳳来町長篠を本拠とし、北設楽郡田峰の菅沼氏や、南設楽郡作手の出である後段の奥平氏と合わせて山家三方衆と呼ばれた。いずれももとは今川氏の支配下にあった。
【写真左】本丸・その1
 現在長篠城の城域にJR飯田線が入っているため、遺構の一部は改変されているものの、主要な遺構は残っているものと考えられる。
 本丸の一角に「長篠城本丸跡」の標柱が建っている。


 長篠城は、長篠菅沼氏がしばらく当城の城主となった。元亀2年(1571)、武田信玄による三河侵攻により、菅沼氏は武田氏の軍門に降った。しかし、その2年後の元亀4年(天正元年・1573)信玄の病気により武田軍による三河侵攻は一旦停止した。これにより徳川家康が長篠城の城主・菅沼正貞を落とし、この年(天正元年)8月、正貞は放逐された。
【写真左】本丸・その2
 本丸跡はきれいに整備されている。方形の郭で、長径80m×短径50m前後の規模。





奥平氏

 菅沼氏のあと当城の城主となったのは奥平氏である。奥平氏は以前紹介したように後に江戸期に入って、豊前の中津城(大分県中津市二ノ丁)の城主となる一族である。

 奥平氏も元々今川氏や武田氏に属し、菅沼氏と同様武田氏の有力な家臣であった。家康はこのころ、武田氏による三河国進攻に大きな脅威を感じており、武力だけでは困難と考え、奥平氏に対する懐柔策を練った。

 その内容は、奥平貞能の嫡男貞昌に家康の長女・亀姫を嫁がせ、武田家に人質として送っていた先妻・おふうと離縁させたことである。もちろんこれだけの条件では奥平父子は承服しないので、領地加増を併せて提示し家康に帰順させた。
【写真左】土塁・その1
 本丸は西側(寒狭川寄り)を除いてほぼ土塁で囲繞されている。
 写真はこのうちもっとも明瞭に残る土塁で、この土塁の反対側に濠が巡らされている。


武田勝頼軍の長篠城攻め

 このため、説明板にもあるように、奥平氏が武田氏に離反したことにより、勝頼は天正3年(1575)5月、1万五千の大軍を率いて長篠城攻めを行った。このとき長篠城には奥平定昌ほか僅か500の手勢であったため、家臣の鳥居強右衛門に命じて、織田・徳川連合軍への要請を託した。
【写真左】土塁・その2
 JR飯田線側から見たもので、飯田線が敷設される前はこのあたりも土塁があり、おそらく宇連川の川岸まで伸びていたものだろう。
 線路側からは見上げるような姿に見えるが、その高さは5m前後はあったものと思われる。
【写真左】豊川の渓谷
 本丸から南側の渓谷に降りて行くと、豊川と宇連川が合流する位置に至る。
 写真は豊川で、右に長篠城、左に強右衛門が磔となった箇所がある。
【写真左】豊川本流
 豊川(寒狭川)と宇連川が合流する箇所で、奥には手前に県道433号線、奥に新東名高速道路の橋梁が掛かる。





鳥居強右衛門磔死

 ところで、話題は少しそれるが、昭和40年(1965)に放映されたNHK大河ドラマ『太閤記』で一躍有名になったのが、秀吉役の当時新人だった新国劇出身の緒形拳、そして同じく文学座の新鋭高橋幸治が演じた信長である。
【写真左】「磔に散る 烈士 鳥居強右衛門」と表記された説明板。
 長篠城内に設置されているもので、強右衛門は当時36才だったという。






 それまで時代劇いえば、東映や大映などが娯楽的要素を前面に押し出した映画作品が多かったが、史実をできるだけ忠実に守り、なおかつ実際の舞台となった現地の状況なども紹介したことから、さらに人気に火が付いた。
 さて、二人の演技にも魅了されたが、管理人にとって強烈に印象に残っているのが、この長篠の戦いでの鳥居強右衛門(すねえもん)を演じた高橋幸治と同じ文学座所属の北村和夫である。
【写真左】長篠城内にある「鳥居強右衛門磔の場所」と書かれた標柱
 強右衛門が磔にされた場所は、ここから寒狭川の対岸にある。(下図参照)



 武田氏による長篠城攻めで、節目となったのが開戦から5日目に武田軍から放たれた火矢が長篠城の兵糧庫に当たり焼失したことである。この結果、籠城を決め込んでいた奥平貞昌らは、兵糧が数日で底をつくことになり、戦略を変えざるを得なくなり、岡崎の家康に救いの手を求めることになった。しかし、城外は武田軍が包囲し、簡単には岡崎にたどり着くことはできない。そこでこの厳しい状況下で、使者として志願したのが北村和夫扮する鳥居強右衛門である。
【写真左】強右衛門磔の場所
 寒狭川(豊川)を挟んで、西岸に位置し、武田軍の篠場野陣地といわれている。



 夜陰に乗じて城の下水口から向かい、川の中を潜りながら武田軍の包囲網を突破、岡崎城にたどり着いた。運よく、このとき岡崎城には織田軍3万も到着しており、翌日には徳川・織田連合軍3万8千の大軍を率いて向かうことになった。この朗報を受け取った強右衛門は、すぐに取って返して長篠城に急いだ。しかし、運悪く長篠城の近くにある有海村で武田軍に捕まってしまった。

 武田軍は強右衛門を拷問にかけた結果、徳川・織田軍が長篠城の救援に向かうことを知った。このため、両軍が長篠城に到着するまでに、奥平氏に降伏・開城させることを決め、そのためにはこの強右衛門を使って、徳川・織田両軍が支援に来ないという虚偽の報告を籠城している長篠城側に伝える術を講じた。
【写真左】興国山新昌寺
所在地:新城市有海字稲場2
 創建は天文8年(1539)長篠医王寺四世月傳太隋大和尚。創建当時は「喜船庵」と呼ばれ、この場所も戦火に見舞われた。
 強右衛門は、この喜船庵に埋葬され、当院はその後萬治3年(1660)新昌寺に改められた。



 このとき、大河ドラマでは北村和夫演じる強右衛門は、先ず最初に武田軍が用意した茶漬けのような飯を大量に食べさせられ、そのあと、横たわっていたかなり高い磔柱(十字架)に縛り付けられ、そのまま一気に垂直に起こされた。これにより、長篠城側から強右衛門の姿が見えることになる。

 実際、強右衛門が磔となった場所は、長篠城の南西側を流れる豊川を挟んだ対岸で、長篠城から直線距離で180m前後の位置に当たる。今のように拡声器などない時代であるから、地声での伝達となる。

 180mも離れたところから、地声で伝えるとなると相当な声量の持ち主でないと務まらない。この大河ドラマで北村和夫を強右衛門役としたのは、すでに文学座の看板俳優として杉村春子の相手役などもこなしていた彼が適役だったのだろう。スタジオ収録なので、実際にはそこまでの声量は必要なかったのだろうが、テレビで見ていても北村演じる強右衛門は、その独特な分厚い声量を駆使して叫び、臨場感あふれる演技を見せた。
【写真左】鳥居強右衛門の墓
 新昌寺境内に建立されているもので、慶長8年(1608)強右衛門の子・信商によって作手鴨ヶ谷甘泉寺に移転され、宝暦13年(1763)に有志の手によって再建された。

 碑面に「天正三乙亥年 智海常通居士 五月十六日 俗名鳥居強右衛門勝商 行年三十六歳」とある。


 磔にされた強右衛門が最初に放った言葉は、武田軍にいわれたとおり、岡崎の徳川・織田軍は長篠城の救援に駆け付けないので、はやく降伏して城を明け渡すようにというものだったが、そのあと、突如、これは虚偽であり、実際には徳川・織田両軍がすでに支援に向かっているので、今しばらく持ち堪えてほしいと畳みかけるように叫んだ。慌てた武田軍は、すぐさま下から何本もの槍で強右衛門を突き刺し、絶命させた。

 強右衛門が命を賭して伝えたこの朗報に長篠城内は、大いに喜び士気が上がり、援軍が到着するまで城を持ち堪えた。この後、武田軍は織田軍らと長篠城手前の設楽原で戦うことになる。

2019年10月26日土曜日

昼寝城(香川県さぬき市多和)

昼寝城(ひるねじょう)

●所在地 香川県さぬき市多和
●指定 さぬき市指定史跡
●高さ 460m(比高220m)
●築城期 嘉吉年間(1441~44)ごろ
●築城者 寒川氏
●城主 寒川氏
●遺構 郭、土塁等
●登城日 2016年10月31日

◆解説
 「昼寝城」とは変わった城名である。伝承では、当城が難攻不落の城郭で、「昼寝をしていても落とされない」ことからこの名がつけられたともいわれている。

 当城はさぬき市を流れる鴨部川の上流部多和にあって、その支流・太郎兵衛川と並行して走る同名の矢筈大郎兵衛林道の途中から南に登った標高460mの山塊に築かれている。
 讃岐山脈(阿讃山脈)の一角に所在し、近くには矢筈山・女体山・東女体山といった標高800m近くの峰々が林立し、これを超えると四国88ヶ所霊場の結願所となる大窪寺がある。
【写真左】昼寝城遠望
 林道の途中から見たもので、讃岐山脈の山並みの一角にあるため、麓からはどの山に当たるのか分かりづらい。
 下山したあと、改めて確認できた。


現地の説明板より

‟昼寝城

 古代の讃岐公の一族で、世々寒川郡司をつとめた寒川氏は、室町時代後期には、大内・寒川の二郡のほかに小豆島も兼領し、この昼寝城を本城に、池の内の台ガ山城(長尾町名(長尾名か))を出城に、大内郡の虎丸(大内町)引田城(引田町)を支城にした。戦国期の終わり頃まではここに城があったと考えられる。
【写真左】案内図
 県道志度山川線と昼寝城に向かう枝線(林道矢筈大郎兵衛線)の分岐点に設置されているもので、昼寝城は中央右に描かれている。なお、下方が北になる。


 1980年の調査で、白磁は(ほ?)どの陶磁器や、銅環・銅製切羽などの金属製品、多数の銅銭、砥石、玉石などが出土した。また、最近の調査では、(1988年『中世城郭研究』)「遺構は尾根筋を堀切で遮断、土塁囲みを構築した本丸曲輪が見られ、シンプルな縄張りであるが、在地領主の小規模城郭としては、防御構築物に合理性が見られ、良くできた城郭と言える。」と評価されている。
【写真左】登城口
 林道の途中に車2,3台分駐車できるスペースがあり、当城の説明板などが設置されている。
 右側は谷となっており、しばらく山の右側斜面を進む道がついている。



 もともと、大多和神社(延喜式内社)から行基菩薩が布施屋を開いたという伝承のある古大窪に通じる道の途中、今も比丘尼(女性の宗教者がいたか?)渕と呼ばれる所から右に登る道があった。

 なぜ、こんな奥地にという疑問があるだろうが、古代の信仰集団の存在や、鉱物資源を求める工人集団の存在を示す遺構があり、今周辺に見られる石垣の見事さから、かなりの人の住居が想像できるのである。
    さぬき市教育委員会″
【写真左】登城道
 しばらくこうした斜面の道が続く。ところどころ道が崩れ、荒れた箇所が多いので、足元をすくわれそうになる。




古代讃岐公の後裔

 築城者は寒川氏(さんがわし)といわれている。説明板にもあるように、同氏は古代讃岐公の一族とされる。讃岐公という名称は、『新撰姓氏録』の記載名で、一般には古代氏族讃岐氏と呼ばれる(以下「讃岐氏」とする。)。

 讃岐氏は延暦年間(782~)ごろから本貫地を寒川郡神崎郷に置いている。この場所は、現在のさぬき市寒川町神前(かんざき)付近で、東に津田川、西に鴨部川の二つに囲まれた位置にある。

 讃岐氏の後裔としては、当城の築城者・寒川氏をはじめ、和気氏、植田氏(戸田山城(香川県高松市東植田町南城)参照) 、神内氏、三谷氏(王佐山城(香川県高松市西植田町) 参照)、由良氏、十河氏(十河城(香川県高松市十川東町) 参照)、高松氏(旧・高松城(香川県高松市高松町帰来) 参照)、高木氏、三木氏などの諸氏が輩出した。
【写真左】尾根にたどり着く。
 トラバース状の道をしばらく進むと、やっと尾根にたどり着いた。
 この個所には若干の平坦地があり、郭らしき雰囲気がある。


寒川氏安富氏東讃覇権争
 
 さて、今稿の昼寝城の城主として名が残るのは、寒川元家・元政父子らである。室町時代後期には、大内郡・寒川郡、及び小豆島を支配下に治めていたというから、現在のさぬき市・東かがわ市・小豆島町・土庄町となり、東讃のほぼ全域を領有していたことになる。

 本城となる昼寝城は、冒頭でも述べたように、東讃の中でももっとも南に向かった阿波国と接するさぬき市の多和の山間部に所在する。出城とした池の内の台ガ山城は、昼寝城から北に降りた長尾名にあって、別名池内城とよばれた標高87mの丘城である。また、支城とされるのは既に紹介した虎丸城(香川県東かがわ市与田山) と、引田城跡(香川県東かがわ市 引田) である。
【写真左】尾根左側へ
 尾根筋にたどり着いたものの、そのあと何度か尾根の左右を交互に進むルートとなる。





 ところで、この寒川氏と相争ったのが、讃岐・雨滝城(香川県さぬき市大川町富田中) の安富氏である。安富氏は、讃岐南北朝期における白峰合戦(白峰合戦古戦場(香川県坂出市林田町) 参照)で、細川頼之が南朝方を一掃したあと、細川氏は直臣を当地に下向させ支配を行っていくが、このとき下向したのが、安富氏をはじめ、香川氏(天霧城(香川県仲多度郡多度津町吉原)参照)、奈良氏(聖通寺城(香川県綾歌郡宇多津町坂下・平山) 参照)といった外来一族である。

 安富氏の居城雨滝城の所在地は、寒川氏の初期の本貫地寒川郡神崎とは津田川を介して僅か2キロほどしか離れていない。このため、安富氏の東讃下向時、在来の寒川氏との対立が勃発するのは当然の成り行きだった。しかし、讃岐守護細川氏の後ろ盾を背景に、東讃の守護代となり、名目上寒川氏は安富氏の傘下に置かれ、西讃の守護代は香川氏となっていく。
【写真左】再び右の斜面へ
 同じような写真が続くが、このあたりになると道はほとんど崩落状態で、しかも傾斜がさらにきつくなる。




 しかし、こうした東讃の勢力図も応仁・文明の乱のころになると極めて不安定な様相を呈し、文明元年(1469)、元は同族であった王佐山城の三谷氏と不和を生じ、細川政元の命よって一時は矛を収めたが、再び同氏を攻めている。このほか、応仁・文明の乱における東軍と西軍の対立は讃岐国にも及び、守護代をはじめ、中小の国人領主らが錯綜した争いを展開している。
【写真左】前方が開けてきた。
 山の形状が急峻なため、登城道はどうしても良好な状態には保てないようだ。

 逆に言えば、敵の侵入を困難にさせるまさに天然の要害ともいえる。

 
十河・三好氏の圧迫

 永正5年(1508)、大内義興が足利義稙を奉じて入京したころ、阿波の三好氏は東讃に介入し始めた。そして、植田氏及び、その系譜に繋がる十河氏らを抱き込み、香西・寒川氏らを攻め始めた。

 大永6年(1526)12月、三好氏の支援を受けた十河氏は、三千余騎をもって寒川氏を攻めた。これに対し、寒川氏は巧みな戦術で十河軍に大勝した。しかし、このころ、十河氏は、植田・神谷・三谷氏らとも連合し、数の上では圧倒的に寒川氏を上回っていた。このため、十河・三好氏の圧迫は寒川氏にとって次第に脅威となり、西讃の諸氏に援けを求めた。
【写真左】細尾根の郭
 尾根にたどり着くと、奥に向かって削平された長い郭が続く。昼寝城は細長い尾根上に構築された城郭のため、まとまった規模の郭は少ない。
 両岸は険峻な切岸である。


 それに応えたのが、香川山城守(天霧城(香川県仲多度郡多度津町吉原) 参照)と香西豊前守(勝賀城(香川県高松市鬼無町) 参照)である。さらに一宮大宮司らと図って、寒川氏支援のため、一宮に大軍を出兵させた。この場所は、現在の高松市一宮町付近で、十河氏の居城十河城や、由良山城などを寒川氏側と挟む位置にある。このため遠巻きに陣していた十河・三好氏連合軍は、これを知って兵を引き上げた。

 ところで、この戦いの6年後となる天文元年(1532)、十河一存(かずまさ)が、長尾名村の池内城を攻め、寒川方の神内左衛門兄弟の槍に左腕を刺されたが、これに屈せず一存は左衛門らを討った。この武勲により一存は「鬼十河」と巷間伝えられている。しかし、十河(三好)一存は、この戦いの年(1532年)に生まれているので、全く時期が合わない。おそらく、これはその後、兄・三好長慶を支えながら戦った畿内での武勇伝から生まれた逸話だろう。

 十河氏との戦いは、そのあと細川晴元(信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山) 参照)の斡旋により両者は和睦した。
【写真左】本丸が見えてきた。
 尾根伝いに中小の郭段が続いていくが、その奥には祠が祀られた本丸が見えてきた。




安富氏びの攻防

 十河氏は、細川晴元の斡旋を受け入れたが、しかし、安富氏はこれに従わなかった。安富氏がこうした行動に出たのは、すでに安富氏が寒川氏をはじめ、三好氏(十河氏)とも対立していた背景があった。
 天文9年(1540)、安富盛方は一千余騎をもって寒川領に侵攻、当時平時の住まいとしていた長尾名(池内城)を落とすと、寒川元政の子・元隣は昼寝城に立て籠った。すると、安富方はこの城を兵糧攻めにした。この戦いは3年に及んだが、戦いの決着はつかなかった。
【写真左】「昼寝山」と記された看板
 本丸付近には、「昼寝山 460m さぬき市合併10周年」と書かれた看板が木に懸けられている。
 当市は、2002年に合併しているので、2012年に設置されたものだろう。



昼寝城落城寒川氏滅亡

 東讃における安富・寒川氏らの攻防はその後も続き、元亀3年(1572)、安富氏が盛定となると、三好氏の重臣・篠原長房(上桜城(徳島県吉野川市川島町桑村)参照)の女を娶り、三好氏との関係を修復し、寒川氏打倒へと動いた。

 三好長治は安富氏の要請により、寒川氏に対し、同氏の領域である大内郡(おおちぐん)を引き渡すように命じた。大内郡というのは、現在の東かがわ市に当たる地域で、讃岐国(香川県)の東端部に当たり、阿波国(徳島県)と接している。このころの阿波三好氏の勢力は寒川氏にとって脅威であったため、これを受託、同郡内の支城であった虎丸城・挙山両城も差出した。そして寒川元隣は、昼寝城に退くことになる。
【写真左】祠
 本丸の一角に祀られているもので、大分古いようだ。








 ところが、川島城(徳島県吉野川市川島町川島)の稿でも述べたように、 この年(元亀3年)の三好氏の内訌となる川島合戦により、篠原長房は三好義賢の長子・長治との戦いで敗れ、安富氏も天正3年(1575)、阿波の海部城主・海部左近の攻撃で討死してしまった。

 このころ経緯は分からないが、寒川元隣は、三好存保(十河城(香川県高松市十川東町) 参照)のもとにあり、天正10年、長曾我部軍(長曽我部氏・岡豊城(高知県南国市岡豊町) 参照)との戦いとなる阿波中富川の戦いで参陣し、討死している。
【写真左】本丸
 さすがに本丸跡の規模はそれまでの細長い尾根筋と違い、削平されたようで、7,8m四方の大きさがある。




 また、これに先立つ、天正3年、昼寝城は元隣の弟・光永が守城していたが、上掲した阿波の海部氏に攻められ、難攻不落の城といわれた昼寝城もついにここに落城した。このため、兄・元隣を頼るも、天正10年に元隣が討死したため、出家したといわれる。
【写真左】本丸から振り返って見る。
 登ってきたときは、この長い郭の左側途中の箇所(虎口)からだったので、本丸とは反対側の先端部の方に向かうことにする。
【写真左】土塁
 本丸側には確認できなかったが、下手に当たるこの個所には土塁が築かれている。
【写真左】下手先端部
 本丸からこの下手先端部まではおよそ100mほどあり、この先は切岸となっている。
【写真左】瀬戸内方面を見る。
 木立の間から北の方向に瀬戸内の姿が確認できた。
 現在はほどんど眺望は望めないが、戦国期当時は当城から寒川氏領内がほとんど見えたことだろう。