2018年9月30日日曜日

近江・八幡山城(滋賀県近江八幡市見宮内町)

近江・八幡山城(おうみ・はちまんやまじょう)

●所在地 滋賀県近江八幡市宮内
●別名 八幡城、近江八幡城
●高さ 283m(比高100m)
●築城期 天正13年(1585)
●築城者 豊臣秀次
●城主 豊臣秀次、京極高次
●遺構 郭・石垣、居館
●登城日 2016年3月5日

◆解説(参考文献 『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』仁木宏・福島克彦編 吉川弘文館等)
 管理人が気に入っていたTV時代劇「鬼平犯科帳」などに度々使われてきた八幡堀界隈は、滋賀県近江八幡市に所在する。この八幡堀は八幡山城の築城者であった豊臣秀次が築城に併せて設置した外堀である。
【写真左】本丸跡の村雲御所瑞龍寺
 後段でも記すように、城主であった豊臣秀次が自刃した後、京極高次が城主となったが、その後破却されこともあり、当時の遺構が大分消滅している。
 なお、村雲御所瑞龍寺については下段で紹介する。

現地の掲示資料より

“八幡山城の歴史と環境

 八幡山城は、滋賀県近江八幡市北方の八幡山(鶴翼山)に所在する城跡で、当時は、後背から西にかけて津田内湖(昭和46年干拓)、東に西の湖が広がっており、内湖に囲まれた環境にありました。

 豊臣政権下の天正13年(1585年)には、羽柴秀次に近江43万石が与えられ、この八幡山に八幡山城が築かれました。築城に際しては、山麓に存在していた願成就寺が八幡山南方にある日杉山の南麓へ移動させられたことが史料に伝えられており、山腹に鎮座していた日牟礼八幡宮の上社も同じく、麓の下社と合祀されたことが伝わっています。
【写真左】八幡山城配置図
 八幡山城遺跡詳細測量図をもとに、管理人によって簡略化した配置図で、この図では秀次が居館としていた付近は図示していない。



 本丸および二ノ丸、北ノ丸、西ノ丸、出丸の城郭施設は標高283mの山頂に位置し、居館群は標高約130mの山腹の谷地形に平坦地を設けて造られています。
 大手道は、居館群最高所に位置する秀次館から麓に下り、築城時に開削されたと伝えられる八幡堀に到ります。この大手道両側には雛壇状に家臣団の居館群が広がっていて、東側の尾根と西側の尾根と八幡堀がセットで惣構えを構成していると考えられます。
【写真左】ロープウェイで山頂に向かう。
 山城愛好家としては本来徒歩で向かうべきなのだが、次の予定もあったため、これを利用させてもらった。
 乗車時間は僅か4分ほどである。


 天正18年(1590年)に秀次が尾張清洲に移った後は、京極高次が代わって、2万8000石で城主となり、秀次が自害する文禄4年(1595)に聚楽第と同じく破却されました。

 尚、昭和42年に、山頂本丸部分から山麓にかけて集中豪雨によって土砂崩れが発生しました。御来訪の皆様に安心して見学していただけるように近江八幡市では、関係各局と検討を重ね、さらにその検討資料となるように平成12年度より確認調査や、測量調査などを行っています。”
【写真左】二の丸直下付近
 ロープウェイを降りたところが当時の二ノ丸付近で、階段脇には石積が残る。






豊臣秀次の自刃

 八幡山城の築城者豊臣秀次は秀吉の甥である。秀吉の兄妹で最も有名なのが、常に秀吉を支えて来た実弟・秀長であるが、秀吉の姉には後に三好一路の妻となった瑞竜院日秀、通称「とも」がいた。この二人の間にできたのが秀次である。

 幼少の頃は、秀吉の戦歴の中で度々人質などになり、名前も度々変えている。最初の人質となったのが、小谷浅井氏の家臣宮部継潤に養子となって入った時である。このとき、宮部吉継と名乗る。その後、畿内で勢力を誇っていた三好一族の三好康長(岩倉城(徳島県美馬市脇町田上)参照)の養嗣子となり、三好信吉と改名し三好家の名跡を継いだ。
【写真左】出土した瓦片など
 すぐそばには展望資料館があり、遺跡調査したときの遺物などが展示されている。
 主に瓦関係が多いが、軒丸瓦・丸瓦・平瓦をはじめ、これに使われた釘なども展示されている。



 その後池田恒興の娘を妻に持ち、秀吉が賤ヶ岳の戦い(賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦)参照)で勝利を勝ち取り、天下人として歩み始めると、信吉(秀次)も秀吉の縁者の一人として重用されるようになる。秀次が三好姓から羽柴姓に復帰したのは天正12年(1584)頃といわれている。

 この年(天正12年)4月、秀吉は尾張国長久手で徳川家康と激突した。いわゆる長久手の戦いである。秀次はこの戦いで功を上げるため大将として志願したものの失態を演じ、秀吉から烈しく叱責された。その後汚名を晴らすべく、四国征伐などで功を挙げ、何とか面目を保ち、豊臣姓を下賜された。
【写真左】村雲瑞龍寺門跡と北の丸方面の分岐点
 左の階段を登ると瑞龍寺門跡へ、右奥の道を行くと北の丸へ繋がる。
 なお、この位置に来る手前までには西の丸へ向かう道があるが、先にこちらに向かった。

 先ず瑞龍寺門跡(本丸)に向かう。


 秀吉の初めての嫡男・鶴松が天正19年(1591)亡くなったことにより、改めて秀吉の養嗣子となり秀吉に替わり関白となった。それから2年後の文禄2年(1593)8月29日、秀頼が生まれた。このとき、秀吉は秀頼には秀次の娘を嫁がせ、秀次のあとは秀頼へ政権を継がせる計画があったという。

 しかし、この2年後の文禄4年(1595)7月、秀吉は秀次の関白職を剥奪、さらには自刃に追い込ませた。しかも、秀次の縁者であった子女、妻妾なども殺害した。
【写真左】村雲御所瑞龍寺門跡
 本丸跡の一角に建立されているもので、現地には次のように記されている。






 現地説明板より

“由緒
 村雲御所と称し日蓮宗唯一の門跡寺院である後継者は、皇族五摂家華族から出て代々尼宮が住持する慣わしであった。
 当所は、天正13年関白秀次公が八幡城を築いた要害の地であった。

 当門跡は、関白豊臣秀次公の生母智の方事瑞龍寺殿日秀尼公が秀次公の菩提を弔うために文禄5年正月に創建されたもので、後陽成天皇からは村雲の地と瑞龍寺の寺号及び、寺禄一千石を賜りまた紫衣着用と菊の御紋章を許されて勅願所となった。
 歴朝の尊崇も浅からず寺格は黒御所と定められ、これによって村雲御所と呼ばれることになった。
     本山村雲御所瑞龍寺門跡”

 因みに、秀次の生母・智(とも)が、秀次ら一族の菩提を弔うために開いた最初の場所は、京都の嵯峨にある二尊院の近くである。


 秀次に自刃を命じたのは秀吉だが、この年(文禄4年)の7月3日、聚楽第にあった秀次のもとに石田三成・前田玄以・増田長盛・宮部継潤・富田一白らが訪れ、秀次に謀叛の疑いがあるとし、五か条の設問状を示し出頭を促している。

 これに対し、秀次は出頭を拒否、誓紙を認め逆心がないことを誓ったが、8日に再び伏見に出頭を命じられ、已む無く伏見に赴くと、引見されず関白・左大臣の職を剥奪、さらには剃髪を命ぜられ、高野山清厳寺に流罪・蟄居となった。
【写真左】本丸の東側面の石垣
 昭和42年に土砂崩れがあったことから、石垣の状況は当時のものではないかもしれないが、位置は同じところに積まれたものだろう。
 上段奥に見えるのは、瑞龍寺門からさらに奥に向かった稲荷神社の本殿。


 石田三成など5名のものが秀次に対し、どういう理由・根拠の下に「謀反の疑い」をかけたのか、未だに詳細は明らかにされていない。

 ただ、この時期(同年7月)には、秀頼に対し秀吉直属の奉行人らが「太閤様御法度御置目」を誓約したほか、秀次が自刃した15日以後、前田利家・宇喜多秀家をはじめ、織田信雄・上杉景勝・徳川秀忠ら在京大名28人らが、血判起請文や血判連署起請文を提出している。何とも慌ただしい動きである。このことから、秀頼の継嗣に当たって、何らかの緊張状態があったのだろう。
【写真左】北の丸へ向かう。
 村雲御所瑞龍寺門跡を終えて、一旦下に下がり北の丸へ向かう。
 写真左側の石垣は上の写真と同じく、瑞龍寺門(本丸)側のもので、高石垣である。



 それにしても、秀次の自刃の処置については、フロイスが記したように、「老体の狂気」ともいうべき常軌を逸した秀吉の狂乱ぶりが背景にある。秀次の頸は京都三条河原で晒された上に、その前で今度は秀次の遺児、側室・侍女29名が処刑された。また最上義光の娘は、秀次に乞われて上洛させていたが、この娘も家康からの嘆願もむなしく斬首された。
【写真左】北の丸
 北側の尾根筋に配置された郭で、南北に長い方形の形態。
【写真左】北の丸から北方を見る。
 北の丸からさらに尾根筋に北に向かっていくと、堀切があり、さらにそこから1キロ前後進むと、「北の庄城」がある。
 残念ながらこの日は時間がなく、当城は登城していないが、佐々木六角氏によって築かれたともいわれ、大手の枡形虎口にみるべきものがあるという。
【写真左】北の丸から安土城及び観音寺城を遠望する。
 この日は靄がかかっていたため、現地に設置してあったものを撮影し、管理人によって加工修正している。

 近江八幡山城から安土城までは直線距離で5.4キロ、観音寺城(滋賀県近江八幡市安土町)までは凡そ7キロ離れている。
 戦国期は左側に見えている西の湖がさらに内陸部まで広がっていたものと思われる。
【写真左】北の丸から本丸側を振り返る。
 この位置では丁度本丸の北東隅の石垣が見えている。
 このあと、西に向かい西の丸に向かう。
【写真左】西ノ丸
 北の丸から少し西に回り込むと西の丸が控える。
【写真左】西の丸から水茎岡山城を遠望する。
 西方に目を転ずると琵琶湖がみえるが、その湖岸には水茎岡山城が見える。

 当城は頭山(147m)とその隣にある大山(187m)の二山に築かれた山城で、南北朝時代佐々木六角氏の湖上警備の支城として築かれたといわれる。

 ただ、本格的な築城は、永正5年(1508)、足利11代将軍義澄が足利義尹の入洛を怖れて近江に逃れた際、伊庭、九里(くのり)氏を頼って岡山城に入城したときとされている。
【写真左】出丸
 西の丸からさらに南の尾根筋に向かうと出丸が配置されている。
 ただ、この日登城したときはご覧のように、カラーコーンやロープなどで立ち入り禁止の処置がされていたので向かっていない。手前に崩落した石が見えたので、危険なため通行禁止となったのだろう。
【写真左】秀次館跡測量図
 秀次館は本丸と出丸の間の谷を降りた南側の山麓部にあり、中央部(赤い線)が大手道となっていた。
 秀次館中心部はこの図の上部にあって、平成12,13年度の遺構確認調査では大型の礎石建物や石組みの溝などが検出されている。
 また、家臣団の館は秀次館から下方に大手道を挟んで両側に雛壇状の平坦地を設け造られていた。

 なお、この日(2016年3月)は危険な箇所もあり大手道が封鎖されていて探訪することはできなかった。

2018年8月17日金曜日

山名寺・山名時氏の墓・その2(鳥取県倉吉市厳城)

山名寺・山名時氏墓・その2

●所在地 鳥取県倉吉市磐城
●山名寺創建 延文4年(1359)光孝報恩禅寺、戦国末期衰退し、慶長10年(1605)再興。
●創建者 山名時氏(光孝報恩禅寺)、倉吉城主中村伊豆守再興(山名寺)
●参拝日 2009年8月26日、及び2018年8月10日

◆解説
 山名寺・山名時氏の墓については、既に山名寺・山名時氏墓・その1(鳥取県倉吉市巌城)で紹介しているが、今回9年ぶりに再訪したので、前稿で紹介していなかった事柄などを中心に述べたいと思う。
【写真左】山名時氏の墓
 墓石の前には、「六分ノ一殿 山名家始祖 山名伊豆守時氏公之墓」と刻銘された石碑が建つ。
 左奥の墓が時氏の墓。




 先ず、縁起等については、前稿で触れていなかったので、当院境内に設置されている梵鐘の説明板を参考に触れておきたい。

“梵鐘再鋳の記

 当寺の淵源は、延文4年(1359)山名時氏公により創建されし、光孝報恩禅寺にあり。戦国末期、山名氏の滅亡により衰退、慶長10年(1605)倉吉城主中村伊豆守再興して、清淨山山名寺としょうせらる。
【写真左】山門
 山名寺は東方を流れる天神川と合流する支流小鴨川の北岸に所在し、それと並行する三明寺用樋門から流れてくる北条用水を渡り、厳城の山の斜面に建立されている。


 嘉永年間、伽藍焼失し明治維新を迎え、廃寺とされしも天瑞龍雲大和尚は、檀徒を糾合して明治12年(1879)大本山總持寺独住第一世旃崖奕堂(せんがいえきどう)禅師を拝請開山となして再興して現在に至る。
 明治16年に梵鐘を鋳造、その妙音は近郷に響けり、然るに大東亜戦争末期供出を命ぜられ雄途につき遂に再び妙音を聞く能わず。
 戦後幾度か再鋳の議起こるも機未だ熟さず、今漸く機縁熟し、檀信挙って喜捨し、再鋳の運びとなる。
【写真左】新しく設置された梵鐘
 平成の世になってやっと再鋳となった梵鐘。
右側には「ご自由にお撞きください」とかかれた標示がある。




銘白
一撞梵音  為海潮音  撞者聴者  

浄心一現  心身平安  種智円満

銘ニ曰く
ヒト撞キノ梵音ハ  海潮音トナリ  撞ク者モ聴ク者モ
浄心ハ一現シ  身モ心モ平安ニシテ  種智円満ナランコトヲ

平成15年夏

   幻住  黙山俊堂   誌”

【写真左】山名寺本堂
 山号:清淨山(しょうじょうさん)
 落ち着いた境内である。










光孝寺と山名寺

 この説明板によれば、現在の山名寺が創建されたのは、倉吉城主であった中村伊豆守が慶長10年(1605)に再興したとされる。倉吉城とは打吹山城(鳥取県倉吉市)のことだが、中村伊豆守は、関ヶ原後伯耆米子城(鳥取県米子市久米町)に入封した中村一忠の一族である。

 これに対し、山名寺が再興される前にあったのが、脇屋義助の墓(鳥取県倉吉市新町 大蓮寺)でも述べたように、光孝報恩禅寺(光孝寺)である。
 これは、山名時氏が延文4年(1359)、上野国(群馬県)から臨済宗の時の名僧・南海宝州を招いて建てたもので、南海宝州は、上野国世良田の長楽寺単寮より法を受けたのち、正中2年(1325)、小倉村(現桐生市川内町)に摂化伝道に努め瑞雲山東禅寺を開創した。
【写真左】時氏の墓に向かう。
 本堂の手前にある道を西に向かう。左側に案内板があるが、これには「ハイキングコース 三明寺古墳上り口」と書かれ、時氏の墓の案内は出ていない。


 因みに、時氏は幕府成立直後から尊氏に属していたが、観応の擾乱の際には直義側に加わり、尊氏派と激しい戦いを繰り広げていた。また一時は直冬派にも加勢していたが、最終的には貞治2年(1363)幕府の軍門に降ることになる。

 従って、光孝寺を創建したころは不安定な時機であったが、この前年(延文3年・1358)足利尊氏が京都二条萬里小路で没したことや、時氏と同じ新田一族で興国3年(1342)に亡くなった脇屋義助の菩提を供養する思いもあり、わざわざ自らの出身地・上野国から南海宝州を呼び、光孝寺を建てたものと推測される。
【写真左】墓石群・その1
 途中には歴代住職の墓などが点在している。
 写真の右側には五輪塔群などもある。

【写真左】歴代住職の墓
 上の墓石群とは別に、住職の墓が整然と並んでいるが、これらは山名寺時代のものだろう。このため、上の写真のものは光孝寺時代の住職のものかもしれない。


 因みに、時氏は応安4年(1371)に亡くなることになるが、「光孝寺殿鎮国道静大禅定門」の戒名はこの光孝寺、及び貞治5年(1366)に出家したときの法名「道静」から来ている。

 ところで、光孝寺の所在地についてははっきりしないが、現在の山名寺とほぼ同じ場所とされている。ただ、山名寺の裏に建立されている時氏の墓がもともと、山名寺の所在する厳城から東麓を流れる天神川を北へ凡そ2.5キロほど下った小田のJR山陰線沿いにあったことから、光孝寺もその近くにあったという可能性もある。
【写真左】山名氏関係の墓石群
 歴代住職の墓石群の近くには「山名氏関係の墓石群」が置いてある。
 墓石部位が散在したような状況だが、現地には次のような説明文が掲示してある。


“山名氏関係の墓石群
 境内のあちこちにあったのを集めたもの。室町時代の特徴を表す一石五輪塔や宝篋印塔がある。
 また生前に造った逆修塔には「慶長」の年号が入っている。
 奥に宝篋印塔の笠の部分だけたくさん残っているが、四角い塔身や台座は他に使用したようだ。
 前列の頭の丸い石塔は、卵塔とよび歴代住職の墓石である。
    平成23年4月”


 なお、明治12年、現在の山名寺を再興したときの拝請開山である独住第一世旃崖奕堂禅師の大本山總持寺とは、曹洞宗大本山總持寺のことで、所在地は神奈川県横浜市鶴見区鶴見にあり、曹洞宗の二大本山の一つである(もう一つは福井県の永平寺)。
【写真左】更に上に向かう。
 この坂を登ると時氏の墓に到る。
【写真左】山名時氏の墓・その1
 以前訪れたときとほとんど変わらないが、中央部の塔身がさらに細くなった印象がある。
 おそらく上部の相輪と下部の基礎・返花座の石質とは違って、劣化・摩耗しやすい石材が使われているのだろう。
【写真左】山名時氏の墓・その2
 横から見たもので、塔身部がさらに細く見える。
 ところで、山名寺・山名時氏墓・その1では触れていなかったが、時氏が亡くなった場所は当地(伯耆国)ではなく、京都であったといわれる。

 現地の石碑横にも、戒名と併せ、「応安4年4月28日 京に於て歿す」と記されている。そして当時守護国の一つであった丹波で荼毘に付され、遺骨がこの光孝寺に運ばれ埋葬されたわけである。

 なお、時氏の墓の傍らには左右に小さな五輪塔が寄り添っているが、おそらく時氏の身の回りの世話をしていた家臣(小姓か)のものだろう。時氏亡きあと、殉死したのだろう。


花かつみ由来

 ところで、山名寺境内には伯耆国からもたらされたアヤメ科の一種・花かつみの由来が記されている。
説明板より

“山名寺 花かつみ由来
       倉吉市教育委員会

 古歌に詠う「花かつみ」は諸説あるが、愛知県阿久比町ではアヤメ科のノハナショウブを「花かつみ」と呼んでいる。
 この花は、室町時代に伯耆国からもたらされたと伝わっており、伯耆国守護山名教之の娘、鶴姫が慕い続けた武将一色詮徳(あきのり)に手渡し息絶えたという伝説がある。
【写真左】花かつみの説明板
 境内周辺部をざっと見渡したが、この日は花かつみを確認できなかった。



 今のところ市内での自生は確認できないが、この由来を知った東海鳥取県人会のお力により、平成22年6月13日同町から倉吉市に贈呈され、ここ山名寺に移植した。
 この寺は山名氏の始祖で伯耆守護でもあった山名時氏が創建した光孝寺に由来し山名氏ゆかりの寺である。
 ここ500年の時を経て「花かつみ」は故郷に里帰りした。
    平成23年3月25日設置”

 山名教之は瑞応寺と瑞仙寺(鳥取県西伯郡伯耆町・米子市日下)で紹介したように、山名時氏の子・師義から数えて4代目の伯耆守護職で、応仁の乱で活躍した。
【写真左】打吹山城遠望
 山名寺の梵鐘付近から南に打吹山城が見える。

2018年8月10日金曜日

伊予・福岡城(愛媛県西条市丹原町今井)

伊予・福岡城(いよ・ふくおかじょう)

●所在地 愛媛県西条市丹原町今井
●備考 福岡八幡神社
●形態 丘城
●高さ 65m(比高30m)
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 今井三郎右衛門信氏
●遺構 郭
●登城日 2016年2月21日

◆解説(参考資料 HP『城郭放浪記』等)
 前稿・耳金城(愛媛県西条市丹原町久妙寺(丹原総合公園)でも少し紹介したように、耳金城から東南方向へ凡そ800m程向かったところに、四尾山(しぶやま)と呼ばれる標高60mほどの独立丘陵がある。
 現在この丘には福岡八幡神社が祀られているが、中世には福岡城と呼ばれる城郭があったといわれる。
【写真左】福岡城遠望
 東南側から見たもので、福岡城(四尾山)は長径(北東方向)240m×短径(北西方向)130mの規模を持つ小規模な独立丘陵である。

 なお、この写真の左側奥に前稿で紹介した耳金城が控える。



現地の説明板より

“稲荷神社由緒・沿革

 四尾山稲荷神社は、享保年中(西暦1725年頃)松山藩主松平定英の命令により、丹原の村おこし、町おこしのため福岡八幡神社宮司越智備後守が、京都伏見の稲荷大社より、周布桑村、両郡鎮守の別宮として分霊をお迎えしました。
 当時松山藩は、丹原を道前地方の商業地として指定、地租税を免除大発展を望み、そのため商業神、農業神である稲荷大神をお迎えしたのでしょう。

 下って弘化4年8月、神殿を再建しましたが、この地方の鎮守であったことを裏付けるように、建立費用は、松平定殻藩主命令の下に、両郡が負担しています。
 昭和27年1月修理。昭和62年8月26日、鳥居倒壊。同年12月吉日、福岡八幡神社氏子の奉賽によって、神殿、鳥居お再建しました。”
【写真左】参道入口
 本宮は頂上(主郭)にあるため、参道となる鳥居を潜り上に向かう。









城主・今井三郎右衛門信氏

 上掲したように、現地にある説明板には江戸時代に建立された稲荷神社の由来などしか書かれていない。

 当城の城主として記録が残るのは、今井三郎右衛門信氏という武将である。ただ、築城期・築城者をはじめとしてこれ以外に残る史料がなく、従って今井三郎右衛門信氏もいつの時代の武将なのか分からない。

 ただ、名字は、所在地である今井を名乗っているので、地元の国人領主であったと考えられる。また、前稿の耳金城とは指呼の間にあり、南北朝期当城も何らかの関わりを持ったものと推察される。
【写真左】長い階段が続く参道
【写真左】最初の段
 数分で階段を登りきると、中規模な平坦地が出てくる。

 城郭として使われていたときはおそらく後段の主郭を補完する腰郭の役目を担っていたものと思われる。
【写真左】本殿(主郭)側に向かう。
 上記した郭は北東部にあり、そこから南西方向にむかった通路がある。
 簡易舗装され、途中で斜めに曲がった形となっている。
【写真左】福岡八幡神社拝殿
 主郭の位置に相当するところで、上掲した通路より凡そ3m前後高くなった位置に鎮座している。
【写真左】境内北側
 写真の燈籠の下に昭和14年に奉献した方の芳名が三名記されている。そのうち代表者として「今井丹二」の名が見える。
 当城の城主であった今井氏の末裔かもしれない。

 なお、玉垣の外側は殆ど切崖状の斜面となっている。
【写真左】拝殿内部
【写真左】本殿裏側
 本殿境内(主郭)の規模は奥行20m×幅15m前後と思われる。
【写真左】本殿裏側の南西に伸びる尾根
 このさきには殆ど郭らしきものはない。
【写真左】主郭(境内)から燧灘を遠望する。
 写真中央にみえる小さな島は、平市島・小平市島で、右側に樹木があって見えないが、燧灘に向かっていくと、以前紹介した鷺ノ森城(愛媛県西条市壬生川)が控える。
【写真左】稲荷神社
 冒頭で紹介した松山藩主松平定英の命によって分霊された稲荷神社。
 本殿の隣に鎮座している。
【写真左】生木山 生木地蔵
 ところで、福岡八幡宮の入口(鳥居付近)の右側(東)には、生木山 生木地蔵(いききじぞう)と呼ばれる地蔵があった。

 奥に見えるのは樹齢1200年以上といわれる楠木で、弘法大師がこの生きた木に地蔵菩薩を刻んだとされている。
 昭和29年の台風によってこの古木は倒れたが、地蔵菩薩は無傷で、現在は本堂に安置してあるという。
【写真左】耳金城を遠望する。
 下山後、前稿の耳金城を再び遠望する。

2018年8月7日火曜日

耳金城(愛媛県西条市丹原町久妙寺(丹原総合公園)

耳金城(みみかねじょう)

●所在地 愛媛県西条市丹原町久妙寺(丹原総合公園)
●別名 耳金砦
●高さ 85m(比高50m)
●築城期 南北朝期か
●築城者 河野氏
●城主 河野氏、田中通澄
●遺構 ほとんど消滅
●備考 丹原総合公園
●登城日 2016年2月21日

◆解説(参考資料 HP『城郭放浪記』、『日本城郭体系 第16巻』等)
 耳金城は別名耳金砦ともいわれ、河野氏によって築かれたといわれている。築城期ははっきりしないが、康永2年・興国4年(1343)に細川頼春(細川頼春の墓(徳島県鳴門市大麻町萩原)参照)が当時南朝方であった河野氏を攻めたとき、この耳金城が落城したといわれているので、南北朝時代初期と考えられる。
【写真左】耳金城遠望
 麓から見たもの。
城を模した白壁の塀がみえるが、これは丹原公園の壁で、中には遊戯施設などが設置されている。




 その後、康暦元年・天授5年(1379)になると、細川頼之(讃岐守護所跡(香川県綾歌郡宇多津町 大門)参照)が大軍を率いて伊予に進攻し、再び当城を攻め落とすが、翌年河野氏が奪い返している。

 その後の詳細は不明だが、戦国期になると田中通澄の居城となり、秀吉の四国攻めで落城したあと通澄は帰農したといわれる。
 現在は遺構はほぼ消滅し、丹原総合公園として改変されている。
【写真左】丹原総合公園案内図
 現地に案内図が設置してあるが、下方を北にとった図であったため、管理人によって上を北方向に修正したもの。

 この中で、右下位置に「耳金砦遊戯広場」と記されている箇所が城跡付近と思われる。
【写真左】海抜28mの標示
 耳金城(耳金砦遊戯広場)の東麓には丹原町体育館があるが、その入口にはご覧の様に「津波避難は高台へ」と表示された看板が設置してある。

 この位置で海抜28mとなっている。因みに、ここから瀬戸内(燧灘)までは直線距離でおよそ6キロほどである。

 現在は耳金城から東北方面に向かって広大な道前平野が広がっているが、中世にはこの麓付近まで入江の地勢だったと考えられる。
【写真左】南側から入る。
 直接耳金城(遊技広場)に向かうコースもあったが、先ずは南側から入り、その後西の方向を目指すことにした。
【写真左】下の広場
 正面奥に耳金遊戯広場の白壁が見える。

 下の段も大分広く、公園の一部として改変されているため往時の状況は分からないが、郭段などもあったと考えられる。
【写真左】分岐点
 右に行くと耳金砦となっているが、先ずは左側の散策路と書かれたコースに向かう。
【写真左】福岡城を遠望する。
 福岡城は次稿に予定しているが、耳金城の東南東方向に700m程向かった田圃の中にある丘城である。

 おそらく、耳金城の前線基地的な役割を担い、物見櫓などがあったものだろう。
【写真左】さらに西へ
 散策路コースは予想以上に奥まで設置されている。

 途中で、写真にあるように鞍部となった箇所があるが、堀切のようなものがあったのかもしれない。
【写真左】展望台から南東方向を俯瞰する。
 このさきにも散策路があるようだが、最初のピークとなる展望台までとした。
 耳金城は正面の森の裏側にある。
【写真左】石鎚山を遠望する。
 この日は視界が良かったのか、雪を被った伊予の名峰・石鎚山が見えた。

 このあと、Uターンして耳金城跡となる遊戯広場に向かう。
【写真左】耳金城(耳金砦遊戯広場)・その1
 この名称を冠した広場が城跡の中心地と思われるが、ここから西に伸びる「さえずる森」といわれる付近も城域だったと考えられる。

 写真正面奥に燧灘(瀬戸内海)が遠望できる。
【写真左】耳金城(耳金砦遊戯広場)・その2
 完全に遺構は消滅している。
【写真左】お筆山古墳
 総合公園が設置される前、グランドの中ほどまで突き出ていたのが標高42mの通称お筆山といわれていた山である。

 その頂部にこの古墳があり、公園化に伴い現在地に移転復原している。



 この古墳は円墳の1号墳と、方墳の2号墳の二つがあり、1号墳は、楕円形でA・B二の石室を持つ。2号墳は復原されていないが、方形の墳丘に横穴式石室を持つ古墳だったという。

 このように、耳金城周辺は、古墳時代からこの場所に人々が生活をしていた場所である。なお、この耳金城を北東端に置く山塊は、北東方向に3キロの軸をとり、愛ノ山という山を頂点とした独立峰であり、中世にはこの山全体が戦略的な機能を有していたのかもしれない。
【写真左】東側から見上げる。
 下山後、東麓を走る町道・今井久妙寺線から見上げる。
 この位置から耳金砦までの比高は凡そ30m前後である。

 なお、当城の所在する地名ともなった久妙寺はこの場所から北西に800m程向かったところにある。

山号 梵音山、真言宗御室派。
行基開基、中興は弘法大師といわれる古刹である。