2014年11月19日水曜日

本山城(高知県長岡郡本山町本山)

本山城(もとやまじょう)

●所在地 高知県長岡郡本山町本山
●高さ 372m(比高120m)
●築城期 鎌倉初期か
●築城者 八木氏(吉良氏庶流)か
●城主 本山養明・清茂・辰茂、及び長宗我部氏
●指定 町指定史跡
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2014年3月17日

◆解説(参考資料「サイト『城郭放浪記』」等)
 本山城は、前稿土佐・和田本城(高知県土佐郡土佐町和田字東古城)の南麓を走る国道439号線を、東に約10キロほど向かった本山町本山に所在する。
【写真左】本山城遠望
 北麓にある本山土居跡から見たもの。なお、本山土居跡は次稿で紹介する予定である。






現地の説明板より・その1

“ 田井山の東端近く北にのびた尾根の先端部を利用した中世の山城跡・詰ノ段・二ノ段、三ノ段と小さな郭一つが残るが、土塁などの遺構は残っていず、三ノ段西方部はかつて射的場として造成されたものである。

 詰ノ段南下の尾根には、幅20mの堀切が残っている。土佐の戦国七雄の一、本山氏の城であるが、築城年代ははっきりしない。
【写真左】本山城及び十二所神社案内図
 北麓の本山町内に設置されているもので、現在地と書かれた所から、南に真っ直ぐ行くと、十二所神社(②)があり、その脇から西に向かって山を目指すと本山城がある。

 ただ、この案内図はこの箇所にしかないため、十二所神社にいきなり行くと、本山城の方向が分からなくなるかもしれない。


 本山氏の出自は、清和源氏吉良庶流の八木氏であるとも(「南路志」ほか)、平氏であるとも(「土佐名家系譜」)・但馬(兵庫県)国造八木氏とも(「本山城懐古史」)いうが、いずれも決め手を欠く。
 平安時代の末に当地に入り、吾橋庄の地頭職などを足がかりとして成長した八木氏が、のちに地名にちなんで本山氏を名乗ったものであろう。
【写真左】十二所神社参道
 ご覧の通りほぼ直線の坂道だが、街中も含め幅員が狭いので、慎重な運転が必要。
 運転に自信のない方は、街のほうに観光用の駐車場があったと思われるので、そこに停めて歩いて向かわれることをお勧めする。

 なお、十二所神社については後段で紹介したい。本山城はこの写真でいえば右側にある。


 戦国時代、養明次いで清茂(茂宗・梅慶・梅渓と号す)が出て、嶺北地方一帯に勢力をのばし、やがて南の高知平野に進出、土佐郡朝倉城(現高知市)を築いてここに移り、本山城は子の茂辰に委ねた。

 朝倉城に拠った清茂は、天文年間(1532~55)、現在の高知市域の支配を確立するとともに、機をみて荒倉山を越えて弘岡(現吾川郡春野町)に進出して、吉良氏を滅ぼし、更に仁淀川を渡って高岡郡に兵を出した。
 こうして西は幡多郡中村(現中村市の一条氏、東は長岡郡岡豊(現南国市)の長宗我部氏と対峙することとなった。
【写真左】本山城へ向かう。
 十二所神社の手前に西に向かう道がある。少し行くと「城山の森・展望所」などと書かれた看板があるが、そこをスル―して道なりに向かう。


 天文24年(1555)、清茂が没し茂辰があとを継いだが、永禄3年(1560)茂辰の家臣が長宗我部氏の兵糧船を襲ったことから、本山・長宗我部両氏の土佐中原をめぐる戦いが本格化し、吾川郡長浜(現高知市)の戦・土佐郡朝倉の朝倉合戦を経て、長宗我部氏の圧迫に耐えきれなくなった茂辰は、永禄6年朝倉城をすてて、本山に退いた。
【写真左】城域に入る。
 本山城は南北に伸びる尾根先端部に築かれており、南北に長く東西幅は短い。
 写真は、そのうち北端部最下段に当たる郭の一部で、東・北・西へと回り込んだ形となるため、帯郭といえる。


 本山城は要害の地にあるとはいえ、相次ぐ長宗我部氏の攻撃は本山家中に動揺と離反を引き起こし、茂辰は没し、子の親茂が防戦に努めたが、ついに長宗我部氏の軍門に降った。

 本山氏が長宗我部氏の配下に入った年についてははっきりしないが、元亀元年(1570)とも、元亀2年ともいわれている。”
【写真左】本山城から北方に本山の街並みを見る。
 当城の主要部からは眺望は期待できないが、東側の入り口付近からは本山の街並みが少し見える。
 吉野川は特にこの箇所で大きく蛇行している。


本山氏の出自

 説明板にもあるように、築城者である本山氏の出自については不明な点が多いが、この説明板では「平安時代の末に当地に入り、吾橋庄の地頭職などを足がかりとして成長した八木氏」がのちに当地名から本山氏を名乗ったのではないかとしている。

 八木氏といえば、説明板にもあるように、但馬(兵庫県)の八木氏が思い起こされる。
 以前紹介した八木城(兵庫県養父市八鹿町下八木)八木・土城(兵庫県養父市八鹿町下八木)、さらには但馬・朝倉城(兵庫県養父市八鹿町朝倉字向山)でも、八木氏及び朝倉氏が出てくる。
 こうしてみると、但馬国の八木氏と、そこから遠い土佐国にあった本山氏(八木氏)との間に、何らかの接点があったのかもしれない。
【写真左】北側最下段の帯郭
 説明板にある「三ノ段」という箇所に当たるが、実際は細かく見ると、4段の構成となっている。

 長さは周囲を取り巻くのでもっとも規模が大きい。なお、この写真では右側が北を示し、左側(南側)上部に本丸が控える。


安芸(高知)朝倉に進出

 ところで、前段で紹介した説明板は街中に設置されたものだが、これとは別に本山城の二ノ段付近にもある。本山氏がのちに安芸・朝倉に進出し、朝倉城(高知県高知市朝倉字城山)を築城した経緯も書かれている。
 内容は重複する箇所もあるが、全文を紹介しておきたい。

現地の説明板より・その2

“この地の豪族本山氏の居城跡で、標高は377.5m、町並みからの比高ほぼ130mの所に詰の段を構える山城である。
 土佐の戦国時代、本山養明、茂宗(梅慶)、茂辰と隆盛をきわめ、「土佐戦国の7守護」の一人に数えられた。1527年頃には現在の高知市朝倉に進出し、朝倉城を拠点にほぼ20年間土佐中原を支配した。
【写真左】安芸・朝倉城
 所在地:高知市朝倉字城山 写真:本丸附近。別名・重松城。

 本山梅慶が天文年間中に土佐中央部を支配し、同9年(1540)ここに移ったとされ、永禄3年(1560)頃より始まった長宗我部氏との攻防が約3年続き、死守困難とみた梅慶の嫡男・茂辰(しげとき)は、同6年(1563)1月、城を焼いて、本拠・本山城に退去した。


 しかし、長宗我部氏との激しい攻防戦に敗れ、本山城に撤退、さらに瓜生野城に退き、1571年に降った。
 山城の遺構は総じて各曲輪とも後世の手が入り、もとの形をそこねているが、詰の段南尾根の堀切と、その西側斜面にのびる竪堀は原形をとどめている。また堀切から尾根を38mほど登ったところに小規模な堀切も確認できる。”
【写真左】石積
 射的場として使われたというが、いつのころだろうか。









土佐七雄と本山氏

 さて戦国期における本山氏についてはこれまで、高知市朝倉にあった朝倉城でも紹介しているので、改めてご覧いただきたいが、土佐七雄の1人とされている。

◎土佐七雄の一族名称と当時の本貫地

   一族名称       おもな支配地
  • 本山氏         長岡郡
  • 長宗我部氏      長岡郡
  • 大平氏         高岡郡
  • 津野氏         高岡郡
  • 香宗我部氏      香美郡
  • 吉良氏         吾川郡
  • 安芸氏         安芸郡
【写真左】三ノ段
 西側に廻り、左側の二ノ段を見たもの。
このあと、東(左)に戻り二ノ段に向かう。
【写真左】二ノ段

【写真左】二ノ段から一ノ段へ向かう
 当日の踏査は順を追って進んだものでないため、写真の位置が今一つ整理できていないが、二ノ段の西側から繋がる坂道で、一ノ段に繋がる。
 石積された階段跡のようだ。
【写真左】一ノ段
 この奥にはさらに高さ1.5m程高くなった小郭状のものがある。
【写真左】主郭・その1
 この郭を含めると、下段から数えて4つの段が構成されている。
【写真左】主郭・その2
 石碑
 「大正元年十一月建立」と刻まれている石碑だが、その下の石積もこの時期のものだろう。
【写真左】南側から主郭を見上げる
 主郭の南に続く尾根は一旦ここで断ち切られている。
 ここからの比高は10m以上はあるだろう。
【写真左】本山土居跡
 本山城の北麓には、本山氏の土居跡とされる「本山土居」が見える。
 天正17年(1586)当時は、本山采女が住んでいたという。
 土居跡については次稿で改めて紹介したい。

 なお、本山城の北麓から西へ500m程向かったところに「山内刑部墓所」があるとの標識をみつけたが、この日はむかっていない。
 山内刑部は山内一豊の一族だろうか。
 このあと、本山城から西に回り、麓に出て再び下の方から登城始点の十二所神社に戻る。
【写真左】十二所神社
 本山城の北麓側から登城始点である十二所神社にもどるべく、あぜ道のようなところを歩く。

 縁起を見ると、今から800年以上前にはすでにあったというから古刹である。


“『十二所神社』

 うっ蒼たる巨杉老樹に囲まれたこの神域に鎮座する神社の祭神は、伊弉册尊・速玉男命・事解男之命・天照大御神・天忍穂耳尊・彦火瓊々杵尊・彦火火出見命・鸕鵜草不合尊・軻遇突知命・埴山姫命・岡象女命・稚産霊命の十二柱を祀る。

 当社の沿革は「長徳寺文書」承元2年(1209、鎌倉前期)の「十二所、供田」が初見で、建治2年(1276)、弘安11年(1288)正月、同年2月及び応安7年(1374)等の古文書がある。

 殊に弘安11年2月の文書には「土佐国吾橋山長徳寺若王子古奉祀熊野山十二所権現当山之地主等為氏伽藍経数百歳星霜之処也(以下略)」と、その創建が古代であることを記録している。

 『土佐州郡志』に「帰全山、或は之を別宮山と謂う 旧(もと)十二所権現社有り今は無し」と記し、当社が古代から中世にかけて帰全山に鎮座して居たことが示されている。

 戦国乱世の永禄年中、本山氏と長宗我部氏との合戦で兵火に罹災し、帰全山から永田村今宮に移り、慶長15年5月に再建され、寛永15年(1638)12月、領主野中兼山公のとき、現在地に遷る。
 明治元年、十二所大権現を十二所神社と改称した。

 明治41年、本山番匠屋敷に鎮座の若宮神社。同、東土居の地主神社。同、野々田の稲荷神社。同、帰全山の別宮神社。及び西山鎮座、天満宮の五社が本殿に合祀された。大正9年11月郷社に列せらる。

 年間祭事 ⋇夏祭 旧暦 6月8日 ⋇例大祭・護神幸祭 11月23日
      平成23年度 住民生活に光をそそぐ交付金事業
               本山町教育委員会”

2014年11月16日日曜日

土佐・和田本城(高知県土佐郡土佐町和田字東古城)

土佐・和田本城(とさ・わだほんじょう)

●所在地 高知県土佐郡土佐町和田字東古城
●別名 土佐・和田東古城
●高さ 695m
●築城期 貞応2年(1223)11月
●築城者 和田義直
●城主 和田義直、三男・三郎衛門高(若狭守)など
●遺構 土塁・郭・堀
●備考 東八幡宮、土佐・和田西城
●登城日 2014年3月17日

◆解説
 土佐・和田本城は、2009年に紹介した土佐・和田城(高知県土佐町和田)と対をなすもので、高知県のほぼ中央部にある四国の「水がめ」といわれる早明浦ダムの南西に伸びる標高700m弱の山頂に築かれている山城である。
【写真左】「土佐和田城址」の石碑
【写真左】和田本城及び西城・子守神社配置図
 西城から東の本城までのラインは東西に走る尾根筋になり、南(左側)は総じて断崖絶壁となっている。

 このため南側からの攻撃は不可能である。尾根から北側は比較的緩やかで、高所の割に平坦地が多い。








 前回訪れた「土佐・和田城」は、このうち西側に築かれた高さ732mの山頂に築かれているが、この位置から東におよそ1キロほど尾根伝いに向かった標高695.3mの頂部に今稿の土佐・和田本城がある。また両城とのほぼ中間点に「子守神社」が建立されている。
【写真左】分岐点・その1
 さめうらダム湖の南岸を進むと、ダム湖をまたぐ上吉野川橋が見えるが、この橋を渡らず、少し進むと左側に細い道が分岐している。この道を進んで行くと和田地区に入る。

 前回通った時、林道のような狭い道で民家が途切れ、さみしくなるようなところだが、暫く登っていくと和田の集落が見えてくる。
 写真は分岐点の箇所で、左側にはおそらく小学校だったと思われる建物がある。
【写真左】分岐点・その2
 右にいくと前回探訪した子守神社や西城に向かう。
 今回は、反対側の東方面(左)へ向かい、和田本城(東八幡社)を目指す。

 

 現地には「土佐和田城址」と刻銘された石碑のほか、土佐・和田氏の由来などを記した石碑が数基建立されている。
 以下主だった碑文を転記しておく。なお、原文は漢字とカタカナで記されているが、便宜上カタカナをひらがなに、また句読点なども含め管理人によって若干校訂している。
【写真左】西側付近
 別名東古城といわれているように、前回探訪した「子守神社」を中心に東へ伸びる尾根を進んで行った箇所に当たる。

 東古城までの道路は、途中で二つに分かれるが、登り坂となる左側の道を進む。枯れ枝や小石などが転がっているので、慎重に運転していく。たどり着くと、ご覧のような広場が出迎えてくれる。
 ここが、和田本城・東八幡宮である。
【写真左】本丸遠望
 上の写真とほぼ変わらないが、奥に本丸があり、その麓は整地され、公園のようになっている。
 おそらく当時はこの周りも郭段となっていたと考えられる。



現地の石碑より・その1

“和田氏太祖 侍所別当和田義盛

 建保元年5月北条氏と政権を争う、同族の三浦氏に裏切られ和田合戦に敗れ討死す。

 子四男若狭守義直一族を引連れ鎌倉を下り、讃岐和田浜に7年住す。此の間二度追手と戦い貞応2年11月和田へ入国、城を築き宮を建つ。子孫大いに繁昌、広く県内各地に分家し世を忍ぶ。
一門の軍神弓矢八幡大神、高野に奉祀す。
 義直三男三郎衛門高宗7歳、後二代若狭守となる。四男若名3歳で入国。栗木分家。義直妹照代姫30歳で入国。
【写真左】本丸跡に建つ東八幡宮
 最高所であるこの位置には現在東八幡宮が祀られている。

 下段の写真でも示すように、三方が土塁で囲繞され、その中には和田若狭守の墓や、小規模な本殿(祠)が祀られている。


家来一番 若狭守弥二郎衛門宗高 38歳
   二番 若狭守弥三郎義高 45歳
   三番 仝 盛近義盛 35歳
   四番 仝 義盛 58歳
   五番 仝 清之助義盛 55歳
   六番 仝 伊左衛門元近 60歳
   七番 仝 和田彦左衛門 80歳
   八番 仝 三郎衛門盛近 25歳
   九番 仝 若名義盛 48歳 神官
   十番 仝 和田宗近高盛 18歳
   十一番 仝 伊左衛門盛義 48歳
   十二番 仝 和田鹿之助義高 10歳
   十三番 仝 盛近義兼 35歳
   十四番 仝 近盛左衛門高義 21歳
   十五番 仝 新左衛門高義 75歳
   十六番 仝 伊左衛門竹義 76歳
【写真左】主郭中央部に向かう。
 左側はコンクリート壁が設置されているが、当時この付近も土塁や切崖で構成されていたと考えられる。



貞応2年6月鎌倉の使者6名出発
同12月末到達し討死
   一番 和田義盛 37歳
   二番 和田新左衛門盛近 70歳
   三番 和田盛左衛門高近 30歳
   四番 森若狭守義宗 35歳
   五番 和田盛之助宗盛 25歳
   六番 和田盛若 17歳”

 さらに、土塁で囲まれた箇所(主郭)には、「和田若狭守之墓」が建立され、墓石の三面には同氏の遺徳を顕彰した銘文が刻まれている。
【写真左】和田若狭守之墓
 土塁でかこまれた主郭の北側に祀られている。









現地の石碑より・その2

和田若狭守由緒

 土佐名家系譜に言う和田氏は、日本の名族なりと桓武天皇苗栄裔高望より出て、11代三浦大助義明の孫左衛門尉義盛相州三浦郡和田荘に住み、和田氏を称え以て和田氏の祖神たり。

 後裔鎌倉の城主和田若狭守義直又の名義則、故有って退城、貞応年間、子守神社を勧請供奉一族を率いて土佐に入国、土佐郡土佐村に止まり、邑主となる後、居城を興し地名を和田村と改め、威令四辺に及び、子孫大いに繁昌、幾多の功業を遣して此地に没す。
【写真左】東八幡宮・祠



  昭和44年如月裔栄進高野に鎮座す和田一門の軍神弓矢八幡並びに、祖神慰霊の祭儀奉仕の砌、和田若狭守の由緒の碑建立の儀を、石鎚派権中教範田岡妙栄に記して、伺い奏し奉りし處、突如榊葉揺れて其儀ゆくりなくも愛ぐし欣かしお思うとの神託あり、仍而和田一族の有志並に協賛者相諮り、若狭守由縁の地東古城の奥津城(おくつき)を撰び、謹みて此碑を建て、以て祖神の遺徳を顕彰す。
  和田義章 撰

 昭和45年3月15日
      建碑先達  和田栄進
        副先達  明坂峰富
    外和田一族並びに協賛者有志”
【写真左】主郭・祠・土塁
 土塁の上に登り、北から西側の方を見たもので、主郭内底面からの土塁の高さは1.5m前後だが、土塁の外側のうち、西・北・東面は切崖となっている。


和田義盛と和田合戦
 
 建保元年(1213)5月、頼朝以来幕府創立功臣の1人で、侍所別当であった和田義盛は、2代執権北条義時と鎌倉で争い、兵力に勝る幕府軍が圧倒、義盛は同月24日討死した。これを和田合戦という。
【写真左】北側の土塁
 この辺りの土塁天端幅は広い











 ところで、源頼朝が鎌倉幕府を開いた時期については、一般的にこれまで建久3年、すなわち1192年とされてきた。しかし、近年になって、この他に、①1180年説、②1183年説、③1185年説、④1190説などさまざまな説が生まれてきている。

 どちらにしても建久3年より早い段階で幕府の体制が確立していたことを示しているが、この時期は、のちの鎌倉御家人といわれる諸族が最も活躍したころである。
【写真左】西側の土塁
 南側から見たもので、南北およそ30m前後の長さを持つ。









 和田義盛は、上掲した説明板にもあるように、相模国三浦郡衣笠城主・三浦義明の孫といわれている。久安3年(1147)の生誕とされるので、頼朝と同じ年に生まれている。

 義盛が敗死した和田合戦のきっかけは、元をただせば頼朝の急死から始まる。こののち、嫡男頼家や、頼家の子・一幡(いちまん)および実朝などに託したものの、混迷の極みに達した。
【写真左】虎口跡か
 西側の土塁の途中にはご覧の開口部がある。おそらく虎口だったと思われる。
 また左側には根元に石積が見える。




 そして、結果的には将軍家外戚であった北条氏が、次々と有力御家人を誅滅・排除していったことになる。

 主だった御家人として、最初に討たれたのが梶原景時で、その後、頼家の外戚・比企能員(よしかず)、畠山重忠と続き、建保元年(1213)、北條氏打倒の陰謀があったとして、和田義盛までも北条義時によって討たれることになる。
【写真左】本丸から西方を見る。
 本丸の西方には整地された公園のような景色が広がる。

 中央の小高いところには休憩小屋のような建物があるが、出丸であったかもしれない。


和田合戦のその後

 義盛亡き後、和田一族余党は翌建保2年(1214)11月13日、頼家の三男・栄実を奉じ、京において蜂起した。栄実は一幡の異母弟であるが、彼はまだこのときわずか14歳であった。

 しかも和田余党に担がれる前、同じく北條氏に反旗を翻した信濃の豪族・泉親衡にも担がれ、北条義時誅滅の首謀者とされた。
【写真左】建仁寺
所在地・京都市東山区
臨済宗建仁寺派大本山寺院、京都五山の第3位。
創建、建仁2年(1202)、開基 源頼家、栄西(開山)。





 この謀計は義盛が討たれる3か月前の建保元年(1213)2月であったが、露見したため束縛、同年11月、祖母・北条政子の計らいで出家し、当時京に建立して間もない建仁寺伊志見郷(島根県松江市宍道町伊志見)参照)を建てた栄西の弟子となり、法名を栄実と名乗った。
【写真左】本丸西側の切崖
 西側が公園のようなっているため、比高はさほどないが、切崖の形状を残している。






 出家して間もない栄実であったが、翌2年11月13日、和田余党は京において再び彼を担ぎ出した。
 鎌倉における北条氏打倒の動きは、京においても同じような状況を呈していた。六波羅探題はいち早くこうした動きを封じ込めるため、監視体制をとっていたのだろう。和田余党はあえなく探題に攻め滅ぼされ、年若い栄実はここに自害した。
【写真左】本丸南側
 左側に本丸(東八幡宮)があり、その南側はご覧のように舗装された駐車場が施工されているが、おそらく当時はこのあたりに腰郭などがあったものと思われる。

 なお、その外側はかなり傾斜のついた斜面となっているので、要害性は高い。


四男・和田若狭守義直の四国下向

 京における和田余党の乱から2年後の建保4年(1216)、義盛の四男・義直は讃岐に入った。幕府御家人を次々と滅ぼした北条義時は、この年大江広元に源実朝の官位昇進を諌めさせた。これは明らかに政権を源氏から執権北條氏へ替えようとする動きの一つであった。
【写真左】和田氏末裔による寄付芳名者
 八幡宮の中にある建物には、和田氏一族の末裔者と思われる方々の芳名が記されている。
 地元土佐町をはじめ、佐川町、土佐山村、鏡村等が記されている。


 さて、義直が足を踏み入れた讃岐和田浜とは、現在の香川県観音寺市豊浜町和田浜付近で、ここに7年間住んだという。この間、追手である北條氏が2度も当地を攻めたといわれる。

 ところで、この追手追討は和田余党による栄実を奉じて蜂起した戦いのあとのものだけでなく、この間の承久3年(1221)に起こったいわゆる「承久の乱」があったことから、おそらく義直らは後鳥羽上皇に与し、敗れた結果、さらなる六波羅探題の追討をうけたため、讃岐からさらに奥深い四国山脈を越えた険しい山並みのこの地・和田へ逃げこみ住み着いたものだろう。

寳劍 伝天國

 義直の土佐入国以来、和田氏一族が代々秘蔵として受け継いできたものに「刀匠・天国」作といわれる「宝剣」があるという。その由来も現地の石碑に刻まれている。
【写真左】石碑に刻まれた「宝剣 伝天國」
















寳劍 伝天國 土佐和田家 重代

 「天国」は奈良朝末期から平安朝初期にかけて大和国に出現した神秘の刀匠と云われ、従来の唐太刀とは全くその作刀の基調を異にする諸刃鎬造の純日本刀を創始した。

 現在「天国」在銘の剣は皆無であり、皇室の御物小烏丸(伝天国)が天国の作ではなかろうかと云われているのみである。かくの如く上古刀の天国は幽玄で格調の高いものである。

 鎌倉時代―時の侍所の別当であった和田義盛が北條氏の策謀により非業に斃(たお)れた時、嫡子義則は危うく難を免れ、少数の同族と共にこの宝剣を抱いて四国山脈の懐深く潜伏し、時の至るのを待った。

 爾後星霜七百余年、幾多の起伏を経て天国の剣は、奇しくも殆ど完全な姿のまま和田一族の間に秘蔵されてきた。誠に神仏の加護による歴史的奇跡と云う他はあるまい。

    和田義盛後裔會
    昭和丁卯四月吉日
    医学博士法学士
        和田健偉 建立”

2014年11月12日水曜日

梨羽城(広島県三原市本郷町上北方)

梨羽城(なしはじょう)

●所在地 広島県三原市本郷町上北方
●高さ 179m(比高150m)
●築城期 室町初期(応永年間か)
●築城者 梨羽時春
●城主 梨羽氏
●遺構 郭・竪堀・井戸など
●登城日 2014年3月25日

◆解説(参考資料「サイト『城郭放浪記』」等)
 梨羽城は、三原市本郷町上北方にあって、小早川氏の庶流・梨羽氏が築いた城である。また、南麓部から東へ向かい沼田川を少しさかのぼると、小早川氏の居城である安芸・高山城及び新高山城に繋がる。
【写真左】梨羽城遠望・その1
 北西側の谷から見たもので、高山城と同じく当城の真下を山陽新幹線が走っている。
【写真左】梨羽城遠望・その2
 これは反対に南東麓が見たもので、手前には梨和川が流れている。
 この川を下っていく(右方向)と、沼田川にたどり着く。



 現地の説明板より

梨羽城周辺整備事業
 梨羽城は梨羽氏の城で小早川9代春平の三男を初代としている。代々のお墓は今井谷にあります。
 関ヶ原戦後慶長年中(1600年)長州(山口県)移転の時、城主6代の位牌を田中家(現在尾道市三成)に預けた。参勤交代等の節は墓所、田中家の位牌に参り、下北方心光寺の和尚にたのみ、供養をされることが明治維新まで行われていた。
   文化財保護委員 兼保 義之
【写真左】梨羽城位置図
 梨羽城の西麓付近に設置されている地図で、少し文字が小さいが、現在地付近(左側)に梨羽城、右側には高山城などが記されている。


梨羽氏系図
 9代・小早川春平
     ↓
 10代・則平
     令薫
     時春-潔景-元仁-景行-康平-友行-景宗(以下略)

梨羽城跡 三原市本郷町上北方
 現状 山林、保存状況 完存、立地 丘陵頂部、標高 179m・比高150m
 史料 芸藩通誌 巻85・92

 概要
  1郭は30m×25m程度の規模で、南側に2郭に通じる虎口が開く。2郭の北西下には径7mの凹みのある郭があり、井戸跡と思われる。1郭の東側には4条の、3郭の西側には2条の堀切がある。1・2郭の南側斜面には畝状空堀群がある。城主は梨羽氏と伝えられる。” 
【写真左】道路脇の大きな看板
 梨羽城の南麓を東西に走る道路(59号線)脇にご覧の大きな看板が設置されている。
 その後ろには梨羽城登城道が見えている。


【写真左】梨羽城イメージ図
 登城口一つである西麓付近に説明板が設置され、その中にご覧の絵が添えられている。








  
梨羽氏

 説明板にもあるように、梨羽氏は小早川氏9代の春平の三男・時春を初代としている。9代の小早川春平については、以前三原市沼田東町の米山寺・小早川隆景墓でも紹介しているように、応永4年(1398)、古刹・仏通寺を開基した人物である。

 春平の子には、長男・則平、二男・令薫、そして三男・時春がいた。長男・則平は、東広島市福富町上戸野にある安芸・高塚城でも触れたように、南北朝期、園城寺や東寺の寺領であった河内町・福富町を室町期に至ると、自らの所領として子息・煕平へとつないでいる。

 三男・時春の生没年などははっきりしないが、父・春平や長兄・則平などの記録を見ると、梨羽氏を名乗った時期は、おそらく室町初期の応永年間(1394~1427)頃だろう。
【写真左】登城道
 南西麓にある登城口付近には、北方のコミュニティセンターがあり、そこに駐車させていただいた。

 そこから道路を渡ると、直ぐに登城道がある。傾斜は多少あるものの、幅約1m程度の簡易舗装が主郭直下まで施工されているので、歩きやすい。
【写真左】主郭が見えてきた。
 西側から伸びる尾根を伝って進むが、途中で最初のピーク(見張櫓か)がある。このあたりから視界がぐんと広くなってくる。
【写真左】山陽新幹線
 西麓に目をやると、山陽新幹線が見える。奥のトンネルを過ぎ、山を越えると竹原市に至る。
【写真左】堀切
 最初に見えたもので、ここまで舗装されていると堀切のリアリティさが今一つ伝わってこないが、歩く分には助かる。
【写真左】今井谷城
 南麓の梨和側をはさんで南西方向には梨羽城の支城といわれた今井谷城が見える。H:160m。
 なお、この麓には梨羽氏累代の墓石がある(下段参照)。
【写真左】3郭西端部
 登城道はこの辺りで尾根筋から北側斜面に代わり、簡易舗装はここまで。
 写真右側の上には3郭が控えるが、その先端部にも小郭がある。
【写真左】井戸跡
 北側に変わった登城道をしばらく進むと、左下の斜面に井戸跡が見えてくる。
 現在は大分埋まっているが、直径約4m余とかなり大きなもの。
 この位置から真上には2郭が控えている。

 このあと、先ず2・3郭方面に登る。
【写真左】3郭
 西に向かって細くなった三角形の郭で、奥行15m前後のもの。
【写真左】2郭
 3郭の西に隣接するもので、長辺・短辺とも約15m前後の規模を持つ。
【写真左】2郭から1郭(主郭)を見上げる。
 2郭天端から1郭天端までの比高差は約10m前後あるが、比較的なだらかな切崖となっている。
 ここから1郭までの道は再び南側に設置されている。
【写真左】1郭に向かう階段部
 北側の斜面(切崖)はかなり険しいため、こちら(南)に設置されたようだ。
【写真左】1郭(主郭)・その1
 主郭は2,3郭に比べ傾斜は殆どなく、フラットな施工となっている。
 長径20m×短径15m前後の規模を持つ。

 なお、この写真の中央奥に見える台形状の山があるが、あるいは高山城かもしれない。
【写真左】主郭から西方に2郭・3郭を見る。
 この位置からは支城の今井谷や今井谷城がよく見える。
【写真左】主郭から南東方面を俯瞰する。
 この谷筋を下っていくと、沼田川本流や小早川家累代の墓所がある米山寺にたどり着く。
【写真左】畝状竪堀群
 1郭及び2郭の南側には10条以上の数を誇る畝状竪堀群がある。
 ただ現状は大分埋まっていて明瞭な箇所がすくなくなっている。
【写真左】梨羽城主歴代の墓・その1
 梨羽城の南麓にあたる今井谷には今井谷城があるが、この麓に今井谷集会所がある。この写真は入口付近で、おそらく今井谷城の登城口であったと思われる。
【写真左】梨羽城主歴代の墓・その2
 100mほど山の中に向かうと同氏累代の墓が祀られている。


初代・時春
2代・煕平(潔景)
3代・元仁
4代・景行
5代・康平
6代・友行