2012年10月17日水曜日

大杉城(兵庫県養父市大屋町大杉)

大杉城(おおすぎじょう)

●所在地 兵庫県養父市大屋町大杉
●築城年 不明(南北朝期とも)
●築城者 不明
●城主 不明(栃尾氏か)
●高さ 標高250m(比高100m)
●遺構 郭・堀
●登城日 2012年10月13日

◆解説(参考資料「サイト・大杉pcへようこそ」等)
 前稿大屋・城山城(兵庫県養父市大屋町夏梅・加保)で紹介した山城である。

 所在地は、前稿の城山城のある位置から大屋川を2キロ余りさかのぼった大杉という地区にある。大杉城を含め、西隣の尾根には丸部城があり、その尾根を登っていくと高城という城砦もある。これら3城は併せて、南麓の蔵垣・大杉の地区を扼する機能をもった城砦群と考えられる。
【写真左】大杉城遠望
 真正面に見えるのが大杉城で、その左に丸部城があり、さらにその向背の山は、高城。

 大杉城の南斜面は最近だろうか、かなりの規模で崩落があったようだ。
 なお、この写真の右側の谷から上っていくが、途中で大福寺という古刹がある。

【写真左】大杉城配置図











秀吉の中国攻め

天正年間、織田信長は石山本願寺制圧に多くの時間を費やすことになった。それは、中国の覇者・毛利輝元らが彼ら一向一揆を支援していたためである。このため、天正5年(1577)信長は、羽柴秀吉に中国攻めを命じた。秀吉が中国討伐のため、京都を出発したのが同年10月23日といわれている。
【写真左】二宮神社・大福寺への道
 大屋川にそそぐ小さな川の峡谷にあって、東側の斜面を登っていく。








藤堂高虎と小代一揆との戦い

 藤堂高虎が秀吉の実弟秀長に仕えたのは、この年の前年(天正4年)で、高虎21歳のときである。小代に攻め入った高虎ではあったが、次第に戦況は不利になり、天瀧越えして大屋の谷(西谷)に逃げ込んだ。高虎をかくまったのが、地元加保村の土豪・栃尾加賀守祐善・源左衛門父子であった。
【写真左】二宮神社
 大屋地区には、当社をはじめ加保に一宮神社、筏(いかだ)に三宮神社がそれぞれ祀られている。

 二宮神社のある大杉地区には、県指定民俗文化財・文化庁選択芸能の指定を受けた「大杉ざんざこ踊り」という伝統芸能が残っており、毎年8月16日、当社に奉納されるという。
 この踊りは江戸期に氏子繁栄のために始まったといわれている(現地の説明板より)。


敗走する高虎軍を追ったのが、小代谷の土豪・小代大膳(通称:がんどう)らで、栃尾加賀守の館を取り囲み、攻防を繰り返した。当時栃尾加賀守の館は、加保の法華寺付近といわれている。ただ、後段で示すように、これとは別に、加保より下流の大屋川南岸の夏梅(なつめ)に、加賀守の城砦といわれている栃尾城(現在の蓮華寺)があったことが知られ、居館を複数所有していた可能性がある。そしてこの栃尾城から、前稿の「大屋・城山城」まではわずか1キロほどしか離れていない。
【写真左】大福寺本堂
 二宮神社の上の段に建立されているもので、無住のようだ。
 この左側の斜面はすでに大杉城の東麓に当たり、中世にはおそらくこの辺りも大杉城の城域として郭段のようなものがあったのかもしれない。

 この場所からさらに左側に向かい、再び階段を登ると、大杉城に向かう。


さて、加賀守の館の攻囲に防戦した高虎は、その後、大屋川南岸の蔵垣野において小代一揆側と最期の攻防を行い、一揆の大将・小代大膳(がんどう)を討ち果たし、その戦功によって秀吉より3,000石が加増された。そのご、高虎は当地にしばらく留まり、祐善の媒酌によって、美含郡中野村の豪族・一色修理大夫の息女を娶った。
【写真左】本堂上の堂
 この建物も含め、大福寺等の縁起は分からないが、寺坊の一つかもしれない。
【写真左】大杉城登城口付近
 中央の雑草の後に看板が設置してあるが、この辺りから急峻な斜面になっており、案内板はあるものの、道としてはほとんど整備されていない。
 植林された杉に捕まらないととても上には進めない。この傾斜を見て管理人は、登城を断念した。
【写真左】大杉城の南斜面
 冒頭の写真でも分かるように、ご覧の傾斜である。
 なお、当城の遺構については、サイト「大杉pcへようこそ」に詳細写真が掲載されているのでご覧いただきたい。




栃尾城・蓮華寺

 ところで、大杉城のある大杉から大屋川を下った二宮神社のある夏梅(なつめ)には、近畿楽寿観音33か所霊場の第8番である「赤堂観音 蓮華寺」がある。

 当院は元々城郭とされた「栃尾城」の跡地に創建されたといわれている。
 藤堂高虎をかくまった栃尾加賀守の館は加保にあったとされているが、「栃尾城」という名前から考えると、加賀守の居城、もしくは拠城とも推察される。
【写真左】蓮華寺西方の県道6号線沿いに建つ蓮華寺の看板
 ここから東に100m前後進むと当院に至る。
【写真左】蓮華寺入口付近
 詳細な写真は撮っていないが、当院にのこる石垣は、栃尾城時代のものがあるという。


【写真左】赤堂観音堂
 元々三重塔だったらしいが、寛永年間に楼閣二階建てとして改築したという。
【写真左】宝篋印塔
 境内にはこの宝篋印塔の他に、2,3の五輪塔も祀られている。おそらく栃尾氏一族のものだろう。
【写真左】蓮華寺から城山城を見る。
 当院から西方に前稿の「城山城」が俯瞰できる。

2012年10月16日火曜日

大屋・城山城(兵庫県養父市大屋町夏梅・加保)

大屋・城山城(おおや・しろやまじょう)

●所在地 兵庫県養父市大屋町夏梅・加保
●築城期 不明
●城主 不明
●高さ 標高120m(比高30m)か
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2012年8月27日

◆解説(参考資料「サイト・大杉pcへようこそ」等)
 前稿小代・城山城(兵庫県美方郡香美町小代区忠宮)で紹介した藤堂高虎が、一時期拠った地域にある城砦である。
【写真左】城山城遠望・その1
 対岸である北側の「あゆ公園」側から見たもので、この箇所で大きく大屋川が南から東へと流れを変え、広い河原ができている。
 城山城の向背には、大屋富士が控える。
左側へ流れていく大屋川は、但馬の大河円山川と合流し日本海へ注ぐ。
【写真左】城山城と大杉城の位置図
 現地の観光案内図に書き加えたもので、かなり大雑把な図だが、およその位置は確認できるのではないかと思われる。
なお、上方が南を示す。
 

 ただこの城砦については、正式な名称が不明で、添付写真の「城山」とかかれた「ふれあいの森 城山」という看板を頼りに管理人が便宜上名づけたもので、地元では公式な名称があるのかもしれない。

 また、下段に示す現地の説明板は、当該城砦の位置に設置されたものではなく、麓を蛇行して流れる大屋川の対岸にある「あゆ公園」側にあるもので、大屋地区で戦いがあったことを示す内容のものである。
【写真左】城山城遠望・その2
 上記とは逆に南側から見たもので、手前の道路は県道6号線(養父宍粟線)。

 戦国期は下段の写真に示すように、向背に聳える大屋富士の尾根がつながっていたものと思われ、城域も南に延びていたと考えられる。
【写真左】城山側から大屋富士側を見る。
 道路も含め、奥に見える岩肌はおそらく採石のためによって削り取られていたと思われる。
【写真左】登城口付近の看板
 道路側に設置されているもので、「ふれあいの森」と記され、左右には地元の方による句が掲示されている。
 残念ながら、当城にはこれ以外説明板のようなものはない。
 登城口はこの看板の左側(大屋川側)にある。
【写真左】堀切
 川側(西側)の切崖を下に見ながら進み、小規模な郭を過ぎると、ご覧の堀切が見える。
【写真左】主郭手前の郭を見上げる。
 西から北にかけては大屋川が流れているため、文字通り濠の役目をしていたものと思われる。
 東側については全面にわたって険峻な切崖形状を残している。
【写真左】主郭下の郭段
 登ってみると、想像していた以上に規模が大きい。東側に幅の広い帯郭が北側に向かって伸びる。
【写真左】最高所
 主郭と思われる部分で、4,5m四方の規模を持つ。
【写真左】主郭北側から大屋川を見る。
 黄色にみえるのは田圃だが、おそらく戦国期はこの付近までが川、もしくは河原だったのだろう。
【写真左】主郭から対岸の「おおや農村公園」を見る。
 川向うには、前述したあゆ公園や、農村公園があり、すこし登っていくと、農村風のペンション施設がある。



現地の説明板より

“藤堂高虎と加保・蔵垣野の戦

 藤堂高虎は弘治2年(1556)近江国犬上郡藤堂村(滋賀県犬上郡甲良町)に生まれた。
 長じて羽柴秀吉に仕え、その後秀吉の弟・羽柴秀長の家臣となり、数々の勲功を挙げた。
  前国末期、秀吉の但馬征伐には、秀長に従って出陣し戦功を挙げた。
【写真左】藤堂高虎の標石柱
 平成23年に建立されたもので、大屋川を挟んで西側のあゆ公園入口付近に設置されている。


 中でも小代一揆との戦いは、高虎の出世の糸口となったといわれ、後世まで語り継がれてきた。この戦いは、天正5年(1577)第一次但馬征伐において、毛利方の一揆との間に繰り広げられた戦闘で、高虎は手勢を率いて七味郡・小代谷(美方郡美方町)に攻め入った。緒戦は圧倒的有利に展開したものの、小代一揆の猛反撃に遭って敗走し、わずかな手勢を率いて、辛うじて天瀧越えで大屋谷に逃げ込んだ。このとき、加保村の土豪・栃尾加賀守祐善とその子・源左衛門が高虎をかくまった。

 これを知った小代谷の土豪・小代大膳(通称小代がんどう)らが、天瀧越え大挙して攻め込み、栃尾加賀守の館を取り囲んで攻防を繰り返し、数日に及ぶ激戦の果て、蔵垣野の決戦で高虎勢は、ついに一揆の大将・小代大膳を討取り勝利した、と伝えている。
 いまに古戦場・蔵垣野には「がんどう塚」という慰霊碑が建ち、激戦の跡を残している。
【写真左】山城跡か
 上記の標柱側から北を見ると、ご覧のような景色が目に留まった。

 現地には「権現様」「牛飼場跡」と表記されたものがあったが、管理人にはどう見ても数段の郭を構成した城砦に見える。

 資料がないため判断がつかないが、今稿の城山城との関連から、支城もしくは向城として使用されたのではないだろうか。

 藤堂家文書には、この戦功によって高虎は、秀吉より3,000石が加増され、合わせて3,300石の知行取りになったと記録されている。
 これより高虎は、しばらく加保村栃尾方に滞在した。この間、祐善の媒酌により、美含郡中野村の豪族・一色修理大夫の息女を娶ったという。
 秀吉亡き後、高虎は徳川家康に仕え、忠勤と巧みな処世術により、津藩祖として藩制の基礎を築いた。晩年には伊勢32万石余りの大名に封ぜられた。
 寛永7年10月没 享年75歳。

平成6年5月 標柱・案内看板建立
平成15年3月 案内看板建替
        大屋町
        大屋町商工会・大屋支部
        大屋町観光協会
平成23年2月 標石柱建立

藤堂高虎公ゆかりの郷委員会”

【写真左】古戦場跡(蔵垣合戦地)とされた石碑
 大屋川・県道48号線沿いの蔵垣という地区に設置されている。


地元大屋町の大杉地区を紹介したHP(「大杉PCへようこそ」)には、藤堂高虎が当地で戦ったとされる史跡・城砦が掲載されている。

 上掲した説明板に示されている箇所については、このHPをみていただくとよく分かるが、今稿の「城山城」のある個所から、大屋川を少しさかのぼると、蔵垣という地区があり、ここが「蔵垣合戦地」とされ、「がんどう塚」が祀られている(「がんどう塚」については場所が分からず)。

 この位置から北方に見えるのが、「大杉城」「丸部城」そして「高城」の三城である。栃尾加賀守の館は、少し下った加保という地区に示されている(大杉城等については次稿で取り上げたい)。


高虎の天瀧越えまでのルート


【写真左】天瀧越えの谷・その1
 現在この谷には、天滝公園・キャンプ場、並びに「レストハウス天滝」という食堂兼土産物売り場があり、この位置に駐車して「天滝」に向かうことができる。

なお、藤堂高虎が小代での戦いに敗れ、敗走したとされる「天瀧越え」という箇所は、蔵垣からさらに大屋川をさかのぼった西谷というところから、北に杉ヶ沢高原の東方の峰を越えて、八木川の上流出合(であい)に至るルートである。ここまでのルートは分かるが、高虎が小代の城山からこの出合までたどりつくまでのルートは不明である。
【写真左】その2
 天滝の川は西の谷から流れ、高虎が越えた谷は、この写真にある東側の谷のようだ。

 現在の道を基準に考えると、小代の城山から一旦矢田川沿いに下がり、水間口というところから県道89号線(村岡小代線)に入り、三峠を越え、南に下り村岡のハチ北口から福岡養父線(269号線)に入れば出合にたどり着く。

しかし、これではかなり大回りにもなる上に、小代一揆が支配していた地域をしばらく通ることになり、不利である。
【写真左】ハチ高原スキー場
 高丸山や鉢伏山の山並み。

 そこで考えられるのが、小代の城山からそのまま矢田川をさかのぼり、現在のハチ高原スキー場に出てくる「小代越え」のコースである。

「小代越え」というのは、小代側すなわち現在の香美町小代区新屋(にいや)と、養父市大久保(ハチ高原スキー場側)の間に聳える高丸山(H:1,070m)の西尾根にある峠である。

 八木川の源流に近い大久保に出れば、そのまま八木川沿いに約5キロほど降ると、出合に出る。おそらく高虎はこのルートをとったのではないだろうか。

2012年10月5日金曜日

小代・城山城(兵庫県美方郡香美町小代区忠宮)

小代・城山城(おじろ・しろやまじょう)

●所在地 兵庫県美方郡香美町小代区忠宮
●築城期 鎌倉期~南北朝期
●高さ 396.7m(比高130m)
●築城者 不明
●城主 朝倉氏・八木氏、田公氏など
●遺構 主郭部・北砦・南砦・東砦・西砦、土塁・郭・堀
●登城日 2012年9月5日

◆解説
 但馬の城砦については、これまで馬場ノ平城(兵庫県美方郡新温泉町奥八田)芦屋城(兵庫県新美方郡温泉町浜坂)を除いて主に東部にあるものをとりあげてきた。管理人には中世の但馬地方に関する資料をほとんど持ち合わせていないこともあって、なおさら同国西部に関しては未開拓の地域である。
【写真左】小代・城山城遠望
 北側の矢田川付近から見たもの。
【写真左】小代・城山城の案内絵
 遠望写真がないが、現地には親切な案内図などが掲示してある。







 そうした中で、たまたまドライブ目的で美方郡香美町のハチ北高原を徘徊していたところ、この小代・城山のことが目に留まり、日を改めて登城した。

 所在地である小代(おじろ)は、山陰を横断する国道9号線の村岡区長坂から枝分かれてして南に向かう国道482号線を登ったところにある。

【写真左】香美町の案内図
 この図で「現在地」とされている箇所で、当城を含めた区域は「ふれあい公園」として整備されている。






秀吉による但馬・因幡国への進出ルート

 小代の谷を流れる矢田川は、鳥取と兵庫の県境にそびえる氷ノ山(須賀ノ山・H:1509m)の北尾根に繋がる赤倉山(H1332m)を源流としている。
 この矢田川に沿って走る国道482号線を南下し、この赤倉山西方の峠を越えると因幡国(鳥取県)若桜に出る。すなわち因幡・若桜鬼ヶ城跡(鳥取県若桜町)に繋がる。

 山深く、細い谷間が続き、生活の場としてはけっして条件のいいところではないが、南北に長く町並みが伸びる小代は、北方を走る山陰道とは別に、但馬と因幡を結ぶ街道の要所として古くから栄えてきたという。
 そして、戦国期に至ると、秀吉による但馬から因幡侵攻ルートの一つとして、この小代を押さえることが、因幡国への足掛かりの一つともなった。
【写真左】城跡群案内図
 註:右方向が北を示す。

登城口としては、東側の林間広場から向かうコースもあるが、現在はそこに行くまでの道が整備されていない。

 登城したこの日、地元の人に教えていただいて、城山城の北を流れる久須部川を登っていき、途中でこの川を渡って、急傾斜の林道(といってもアスファルト舗装の道)を進むと、左図に示すように、南側の「南砦」の脇に整備された駐車場(同図の左に現在地と記されている箇所)にたどり着く。
【写真左】駐車場及び南砦付近
 城山城も含み、この山全体が「みかた歴史の杜」という公園となっている。
 中央の案内図の向背は既に南砦の入口になる。


 現地の説明板より

“〈城山城跡の概要〉

 城山城は矢田川と久須部川に挟まれた上ノ山に所在し、城域は東西約510m、南北約500mある。
 標高396.7mの山頂に位置する主郭(東西約11m、南北22m)を中心に、四方向に派生する尾根に階段状に曲輪(削平地)を配置しており、主郭部と4つの砦(北・南・西・東砦)から構成されている。文献的には戦国末期まで存続が確認できるが、南北朝期から室町期の城郭遺構が良好に遺存している。
【写真左】南砦
 緩やかな2,3段の傾斜を持ち、頂部はほぼ2m前後の尾根幅と、奥行10mほどの郭を持つ。





 城主居館は、山裾の字「段の平」に所在していたものと思われる。
 城主は、朝倉氏・八木氏、次いで田公氏と替わったとされている。天正5年(1577)10月、羽柴長秀(秀長)の但馬攻めに際して藤堂高虎は「小代一揆」平定を命じられ、小代勢は当城で迎え撃っている。

 城主田公綱典(秋庭)は、因幡に逃走するが、太田垣信喬・広井典胤・小代大膳ら43名の小代勢が当城に立て籠もり、栃谷城(浜坂町)城主塩冶左衛門尉の援軍50騎と合わせ、藤堂高虎軍120騎と戦い勝利した。その後小代勢は横行(大屋町)に陣城を構築して藤堂高虎の居所であった大屋谷を攻撃し、横行・蔵垣・加保(大屋町)などで戦っている。
【写真左】南砦から主郭に向かう。
 南砦から一旦降る形で尾根筋を進むと、2,3回アップダウンを繰り返し、主郭手前の位置で堀切が出てくる。
 この写真では少し分かりづらいが、奥の階段手前に設置され、小規模な橋が渡されている。




 天正4年(1576)2月の「新屋田渕家由緒書」には、山本右兵衛・広井監物・坂本出雲守・上田若狭守・毛戸丹後守・西垣伊賀守ら22名の地侍の名前がみえ、彼らが小代勢の主力であった。

 さらに天正9年(1581)6月、秀吉の鳥取攻めの最中には、「小代一揆」鎮圧に杉原左衛門尉(家次)が派遣されていることから、「一揆」は同年まで続いていたと考えられる。”
【写真左】遺構の説明図
 要所にこうした遺構の絵図が設置されている。ただ、設置された遺構図の位置に必ずしもその当該遺構があるわけでなく、この辺りが不可解である。

 この図は「土塁」の絵図であるが、近辺には土塁はない。



築城期・築城者

 当城の築城期・築城者については、上掲の説明板に明記されていないが、別の史料によると、1190~1199年、すなわち建久年間の頃とされ、朝倉高清が築城したとしている。

 朝倉姓からも分かるように、高清はもとは八鹿町朝倉に居を構えていたが、平家に加担していたため、源平合戦で平家が敗れると、但馬西部の小代区実山の山奥(内倉洞)に主従と共に隠れ住んでいた。

 このあとが現実離れした逸話になるが、関東地方に人間でも食いちぎるという凶暴な白い猪が現れ、領民が困っていたところを、高清が強弓で倒したことから、鎌倉幕府から許され、旧領地及び但馬一円の領地まで与えられたという。

 但馬地方にも平家落人伝説が、海岸部・山間部問わずかなり残っているが、朝倉高清などもその一例かもしれない。
【写真左】主郭手前の階段部
 手前の尾根道から比高5m程度の高さをもって構成されている。







藤堂高虎

 築城の名手といわれ、秀吉亡き後家康に仕え、晩年伊勢32万石の大名となった高虎は、近江国犬上郡藤堂村に生まれた。高虎21歳の時、出世の糸口となったのが、この但馬国「小代一揆」との戦いである。

 秀吉が山陰の覇権を奪取する最初の第1次但馬征伐において、高虎は羽柴秀長の家臣となって、この七味郡・小代谷(香美町小代区)に攻入った。
 高虎の「小代一揆」攻めは、当初有利に働いたが、その後「小代一揆」の猛反撃に遭い、敗走した。高虎が敗走して逃げ込んだのが、小代から東南20数キロ至った大屋谷(養父市大屋町)である。大屋谷の蔵垣において、小代一揆に取り囲まれたものの、激戦の果て、高虎は小代一揆の主将・小代大膳を討取った。この戦功を皮切りに、高虎は出世していくことになる。

 この大屋地区の城砦については、次稿で取り上げたい。


遺構など

 小代・城山城の現地には遺構の概要も紹介されている。

“〈城砦群の説明〉
 城山城は主郭Ⅰを中心にして、そこから4方向に派生する尾根に曲輪を連郭式に配置した縄張であり、5つの城砦群で構成されている。

①主郭部(主郭1・曲輪2~7)
  主郭1(11×22m)をはじめとして、いずれの曲輪も削平や切崖がしっかりとしている。主郭1と曲輪2の間には、門があったであろう。堀切Ⅰは深く、南尾根筋を遮断する機能を持つ。
【写真左】主郭・その1
 現地には模擬櫓のような展望台が設置されている。
【写真左】主郭・その2 展望台
 登ろうとしたが、この辺りから雲行きが怪しくなり、さらには雷が次第に近づき、雨模様となったため、安全のため取りやめた。


②北砦(曲輪8~12)
  曲輪8(10×7m)の背後に堀切Ⅱをもち小規模ではあるが、しっかりとした曲輪群からなる。
【写真左】北砦方向を見る。
 遺構としては北砦が変化に富んでいるようだが、残念ながら断念した。

③南砦(曲輪14~16)
  曲輪15・16の削平はしっかりしているが、曲輪14はかなり自然地形を残している。

④東砦(曲輪13)
  曲輪13(7×30m)は規模も大きく、削平もしっかりしている。他の2つの曲輪は小規模である。
【写真左】東砦へ向かう道
 主郭を挟んで、東砦及び西砦に向かう道は、ご覧のように始点から急勾配で降っていく。

⑤西砦(曲輪17~19)
  曲輪19の背後に堀切は無く、曲輪17・18・19とも削平が甘く、自然地形を残す。曲輪18の西側には小曲輪(4×4m程度)8段重ねており、全体として古い様相をしている。”

2012年10月3日水曜日

鳥取城・その2 吉川経家の墓(鳥取県鳥取市円護寺)

鳥取城・その2

吉川経家の墓(きっかわつねいえのはか)


●所在地 鳥取県鳥取市円護寺
●探訪日 2006年12月20日、2007年1月及び2012年4月2日

◆解説
 前稿で紹介した吉川経家の墓を取り上げる。
 所在地は、2回目に登城したときの入口付近にあたる円護寺という地区で、新興団地が立ち並んだ一番奥に祀られている。
【写真左】吉川経家の墓所・その1
 団地の外周を回る道路の中側に霊廟・公園のような造りで祀られている。(2007年撮影)




現地の説明板より

“吉川経家公墓所

 吉川経家公は、天正9年(1581)の羽柴秀吉による鳥取城攻略に備え、中国地方の雄毛利氏から鳥取城将として派遣されてきたものである。
 羽柴秀吉の包囲作戦と吉川経家の籠城とによる対陣は、鳥取城の歴史の中で最大の攻防戦であった。

 この戦いは、天下統一をめざして中国地方を征討しようとする織田信長と、これを阻止しようとする中国地方の雄毛利氏との対立の中で、展開された。
 織田信長への服属の意を示した鳥取城主山名豊国の方針を不満とした森下道誉・中村春続らの因幡国方衆は、豊国を追放して、毛利氏に鳥取守城のための城将派遣を要請した。天正9年3月18日、毛利氏の一族で石見国福光城主吉川経安の嫡男経家が城将として鳥取城に入った。

 同年7月12日、信長の派遣した部将羽柴秀吉は鳥取に到着し、鳥取城背後の東北の山頂(現在の太閤ヶ平)に本陣を置き、前面の袋川沿いに各陣を布いて、2万余の軍勢により兵糧を絶つ鳥取城包囲作戦を展開した。
【写真左】吉川経家の墓所・その2
 1mほど高くなった壇を設け、7,8m四方の柵で囲まれた中に五輪塔が祀られている。(2007年撮影)



 これを迎え撃つ鳥取城の兵力は、芸州毛利氏よりの加番衆400と因幡国方衆1000余であった。毛利氏からの援軍・食糧の補給が阻止されて、包囲後3か月過ぎるころには、「籠城兵糧つき、牛馬人等喰ひ候」という状況となった。

 ついに10月25日、吉川経家は城兵を助けるために開城し、自身は城中広間で切腹した。時に35歳であった。死の前日、10月24日に本家吉川広家にあてた遺言状に、「日本二つの御弓矢境において忰腹に及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」と、経家は記している。織田信長と毛利氏という「日本二つの御弓矢」の正面対決による鳥取城攻防戦での切腹を、大きな名誉と感じていたのである。
 この五輪塔は、その吉川経家主従の墓と伝えられているものである。

 平成5年3月
      鳥取市教育委員会”
【写真左】吉川経家の墓
 おそらく右側の大きなものが経家の墓だろう。
(2012年撮影)







吉川経家

 当城がもっとも激しく、凄惨な戦いが繰り広げられたのは、説明板にもあるように、天正9年の鳥取城の渇え殺し」である。

鵯尾城」(2012年9月25日投稿)でも記したように、鳥取城を一時期支配していた武田高信が、次第に劣勢となると、山名豊国に誓紙を差出し、自ら鳥取城を明渡し、鵯尾城に移った。豊国が鳥取城に入城したのは天正元年(1573)の冬といわれている。名実ともに鳥取城主になった豊国ではあったが、すでにそこのころから西国の雄・毛利氏が東進してきており、さらには、東方から織田方羽柴秀吉が但馬を越えて因幡に進出しようとしていた。

 豊国としては、毛利・織田(秀吉)のいずれかに降る選択を余儀なくされた。家老たちは織田に戦いを挑むことを主張したが、豊国は逆に織田(秀吉)に与することを選んだ。このため、森下道誉・中村春続ら家老たちは、豊国を鳥取城から追放した。そして、毛利方の吉川元春に対し、新たな城主を鳥取城に迎えるよう請うた。
 この結果、元春が城番として派遣させたのは、石見福光城の城主吉川経安の嫡男・経家である。
【写真左】福光城遠望
 石見温泉津にあって、別名「不言(ものいわず)城」ともいう。








石見福光城は、以前紹介した福光城(島根県大田市温泉津町福波谷山)である。当稿でも紹介したように、別名「不言(ものいわず)城」といい、経家の父経安が、永禄2年(1559)の川本温湯城(温湯城・その3(島根県邑智郡川本町河本谷))攻めで功があった時、元就よりこの土地と城を与えられていた。ただ、この所領安堵については、経安・経家側にとって決して満足のいくものではなかったようで、度々本家(元春側)に加増等について、要望していたようである。

 ちなみに、この石見吉川氏については、嘉暦3年(1328)の経茂を初代とし、温泉津町井田津淵の殿村城(高越城)を本拠とし、経安で9代を数えていた。従って、順当ならば、経家は石見吉川氏の10代目として当地を引き継ぐ予定であった。
【写真左】経家の墓所から鳥取城を見る。
 こちら(北側)からは石垣などは見えない。








 天正9年(1581)2月、吉川元春から命を受けた経家は、家督を幼い元服前の嫡男亀寿丸(のちの経実)に相続させ、因幡鳥取城に向けて石見を経った。

 ところで、この命を受けるにあたっては、前記した石見吉川家の所領安堵の改善をその条件としていた節がある。

 そして、経家自身旅立つ前から、鳥取城の戦況についてはある程度把握していたようで、自らの死を覚悟していた。つまり「負け戦さ」を承知の上で向かったわけである。

 経家が入城して200日余、籠城してから100日、多数の餓死者を出し、同年10月25日、経家は鳥取城を明渡した。その日の朝、親族らに認めた数通の遺書を残し、自刃した。

2012年10月1日月曜日

鳥取城・その1(鳥取県鳥取市東町2)

鳥取城(とっとりじょう)その1

●所在地 鳥取県鳥取市東町2
●指定 国指定史跡
●別名 久松山城
●築城期 天文12年(1543)又は天文14年(1545)
●築城者 但馬山名氏又は、因幡山名氏(山名誠通)
●城主 山名誠通・武田高信・山名豊国・吉川経家・宮部継潤・池田氏等
●高さ 標高263m(比高240m)
●遺構 山上の丸(本丸・二の丸・三の丸・出郭)、山下の丸(天球丸・二の丸・三の丸・馬場・御米蔵・内堀)、石垣等
●登城日 2006年12月20日及び2012年4月2日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』『天正9年鳥取城をめぐる戦い』鳥取市博物館やまびこ館編等)
 戦国期因幡国の中心となった城砦である。これまで因幡国の山城を取り上げる際、度々登場してきた城砦であり、本来ならばとっくに投稿すべきメジャーな山城であるが、なかなかアップする準備まで至らなかった。
 今月は因幡の山城が続いたので、節目として当城を取り上げることにしたい。
【写真左】鳥取城遠望
 南西麓を走る国道29号線付近から見たもの。










太閤ヶ平と鳥取城を結ぶコースに設置された説明板より

“史跡 鳥取城跡附太閤ヶ平

 この久松山に築城された鳥取城は、戦国時代中ごろ(天文年間)に、自然地形を利用した山城として築かれたことにはじまり、以後、因幡地方の政治拠点となり、また近世においては、因幡・伯耆両国の支配拠点として明治維新まで存続していた。

 このため、鳥取城跡には、中世山城的性格と近世的城郭遺構が併存しており、このことは日本城郭史上、数少ない城跡であり、学術的・歴史的にも貴重なものとして国指定史跡になっている。
【写真左】配置図
 今回の登城口付近と、鳥取城・太閤ヶ平の配置図。

 2006年、初回登城のときは、南西麓の山下ノ丸付近から向かったが、2回目の今年は反対側(北東麓)の円護寺側から向かった。

 なお、この円護寺側には、次稿で予定している「吉川経家の墓」がある。
 従って、この図は下方が北を示す。


 この鳥取城の詳細な築城時期については諸説があるが、この城が因幡支配の本城となったのは、因幡国守護・山名豊国の時(1573)であった。

 この頃の鳥取城の主要城郭は、山上ノ丸と、それから西方に延びる急峻な尾根を中心に設けられており、現在も斜面を削り平坦部を造りだした遺構が多く残っている。
【写真左】登城口付近
 先ほどの図が掲げられている箇所で、右側の5号歩道というルートを進む。

 このルートは、途中で本陣山(太閤ヶ平)にも繋がる。



 近世になると、鳥取城は因幡・伯耆両国(32万石)の居城となり、これに伴って山下ノ丸が大きく拡充整備され、現在みられるような城跡の基礎が築かれた。

 この鳥取城には関ヶ原の戦以後、池田長吉・長幸父子。池田光政が相次いで城主となったが、寛永9年(1632)、岡山から池田光仲が入城して以後、光仲の子孫が明治維新まで城主となっていた。

 明治維新後、この城は政府の陸軍省の所管となり、明治12年に城郭すべての建物は撤去された。
【写真左】分岐点
 写真左側に進むと、ひょうたん池・栗谷方面へつながり、本陣山と久松山(鳥取城)の丁度中間を進むことになる。

 久松山方面は写真にあるように、ここから西に迂回していく。
 本陣山方面は、この写真にはないが、すぐ手前に分岐点があり、その道を東進していく。

 すでにこの辺りから秀吉方が陣した多くの陣所があるようだが、具体的にはどのあたりなのか管理人にはわからない。  


 なお、鳥取城は戦国時代末期、織田氏と中国地方の雄・毛利氏との対立から、二度にわたる羽柴秀吉の攻撃を受けた。天正9年(1581)、時の鳥取城城将・吉川経家は秀吉の強烈な鳥取城包囲に拠る兵糧攻めを受けた。

 このため、毛利氏の援軍と兵糧の補給を阻止されたことにより苦戦し、籠城およそ4か月ののち開城した。経家は開城に伴い秀吉の助命の意向に反し、自ら切腹し城将としての責任を明らかにした。この鳥取城攻めは「鳥取城の渇え殺し」として語り継がれ、岡山の「高松城の水攻め」とともによく知られている。

 昭和63年3月
      文化庁
      鳥取市教育委員会”
【写真左】陣所跡か
 途中で郭跡らしき遺構が見えるが、特に標記もされていないため、確認できない。

 この先を過ぎると、途端に急斜面を下るが、おそらく、この位置までは秀吉が攻囲していたのだろう。





築城期

 説明板にもあるように、築城期については確定したものがないが、冒頭でも記したように、以前は天文14年説が主流だったが、最近の研究ではそれより少し前の天文12年(1543)ではなかったかとされている。

 いずれにしても、鳥取城が築城された経緯はこれまで記してきたように、それまで布施の天神山城を本拠城としていた因幡山名氏が、但馬山名氏との抗争が激化し、当城の出城として久松山に築いたことがきっかけである。
【写真左】簡易舗装の道路と合流
 さきほどのところから坂を下ると、途端にご覧のような開けた場所に出る。

 右側の道路は管理用の道路のようで、円護寺側から伸びている。当然一般車は通れない。
 鳥取城へはそこからまっすぐのびる尾根伝いを進む。
【写真左】分岐点
 山上ノ丸(本丸)まで800mの地点で、別の道と合流する。これを右に進む。
【写真左】北側から回り込む。
 すでに本丸の北麓に位置しているが、この辺りから傾斜がきつくなっており、2,3度九十九折しながら登る。
【写真左】石積み跡
【写真左】山上ノ丸(本丸側)と十神砦との分岐点
 鳥取城の本丸側から北に延びる尾根の突端部には「十神砦」という遺構がある。

 十神砦へは右へ100mほどで、本丸側へはここから左へ600mほどの距離となる。
【写真左】十神砦から東麓に吉川経家の墓方面を見る。
 十神砦には高さ3m程度の大きな岩があり、おそらくこの岩が物見台を兼ねていたと思われる。

 この岩から東麓に目を向けると、円護寺という地区があり、現在「円護寺団地」「北園ニュータウン」という団地が出来ている。

 次稿で紹介する予定だが、この団地の東端には「吉川経家の墓」が祀らている。
【写真左】十神砦から秀吉方が陣した円護寺北方の山並みを見る。
 円護寺の団地となっているところも、当時秀吉方が陣を構えたところがあるが、さらにその向背の山にも7,8か所の陣が構えられていたという。
【写真左】久松山ロープウエイ施設跡と郭
 十神山砦から本丸に向かう途中には、以前使われていたロープウエイの駅舎跡がある。
 開業が1969年で、廃止になったのはその7年後の1976年という短い期間だった。

 水平長590m、傾斜長623m、高低差172m、定員41名の規模のもの。
 現在、山頂側の駅舎の一部は開放されて、休憩室のような使用となっている。

 この付近の登城道から、南側の尾根に設置された鉄の架台が朽ち果てた形で見える。
【写真左】出丸の前付近
 山上の丸側には、本丸・二の丸・三の丸をメインに、以下西の尾根伝いに、出丸・鐘ヶ平(なる)・太鼓ヶ平・松ノ丸などの郭が続いている。

 この写真は、それら反対方向の位置にある遺構で、虎口と思われる。
【写真左】郭
 上記の位置を過ぎて、左手にあるもので、中央部で少し段差が認められる。
 幅5m×奥行10m程度の規模。
【写真左】井戸跡
 井戸跡は本丸側にもあるが、これは三の丸手前に残るもの。直径は2m程度と小規模なもの。
【写真左】山上ノ丸案内図
 本丸を中心に、左上に天守櫓跡、その下の尾根に出丸があり、本丸の右側に二の丸・三の丸と図示されている。


【写真左】本丸を見る。
 先ほどの位置から西側に回り込んでいくと、石積みが残る本丸跡が見えだす。

 なお、この写真の左側には、山下の丸から登る道(大手道)がある。
【写真左】二の丸跡
 最初に二の丸側に向かう。本丸より少し下がった位置にあり、鉄筋コンクリート製の休憩室が片隅に建つ。

 この写真では右側から鳥取市内を俯瞰できる。
【写真左】二の丸から三の丸を見下ろす。
 二の丸をさらに奥に進むと、4m前後の高低差を持たせた三の丸が見える。
【写真左】本丸跡・その1
 東西70m×南北32mの規模を持つ。後段に示すように、天守櫓・月見櫓・車井戸などが残る。
【写真左】本丸跡・その2 車井戸
 池田長吉が慶長7年(1602)から行った城内大改築の時、掘った井戸と伝えられている。
【写真左】本丸跡・その3 天守櫓跡
 18m四方の規模のもので、穴蔵があったという。
 石垣の高さは西側で9.6m、東側で4.3m
 もっとも眺望がいい場所である。
【写真左】出丸
 本丸の真下に配置されたもので、東西に長く概ね二つの区分に分けられている。
【写真左】天守櫓から北方に、雁金城・丸山城を見る。
 二城とも鳥取城の支城として使われ、雁金城には芦屋城(兵庫県新美方郡温泉町浜坂)で紹介した塩冶周防守が、また丸山城には吉川元春の家人山県九左衛門を主将とし、津居山城(兵庫県豊岡市津居山)で紹介した奈佐日本助及び佐々木三郎左衛門らが守備した。

 奥に見える川は日本海に注ぐ千代川で、賀露の湊が河口西口に見える。
【写真左】本丸から西方に、布施天神山城・防己尾城を見る。
 西方には湖山池が見え、その東岸には因幡山名氏の本城・布施の天神山城(鳥取県鳥取市湖山町南)が見える。

 また、対岸の西には毛利方の一翼を担った吉岡将監の拠る防己尾城(鳥取県鳥取市金沢)が見える。
【写真左】本丸付近より東南方向に甑山城を見る。
 少し霞んでいるが、山中鹿助が拠った甑山城(鳥取県鳥取市国府町町屋)が見える。