玄蕃尾城(げんばおじょう)
●所在地 福井県敦賀市刀根・滋賀県伊香郡余呉町大字柳ケ瀬字北尾
●別名 内中尾山城
●指定 国指定史跡
●高さ 439m
●遺構 土塁・空堀・郭等
●築城期 不明(天正11年(1582)か)
●築城者 柴田勝家
●城主 柴田勝家
●登城日 2015年10月24日
◆解説(参考文献「近江の山城 ベスト50を歩く」中井均編等)
玄蕃尾城については賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦)の稿で直接その名を示していないが、天正11年(1583)における賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家が越前北ノ庄を出立したあと、最初に陣を構えた場所である。
当城は福井県敦賀市と滋賀県長浜市との県境にある標高439mの柳ケ瀬山に築かれている。
【写真左】空堀
南側が大手になるが、最初の郭の西側にやや屈曲させながら伸びる空堀。
現地の説明板より
“国指定史跡
玄蕃尾(内中尾山)城跡 文部省
指定年月日 平成11年7月13日
所在地及び地域
福井県敦賀市刀根60号字外ヶ谷5番の1
〃 69号字小唐子6番
滋賀県伊香郡余呉町大字柳ケ瀬字北尾624番の1・636番
〃 字内谷773番
〃 字坂手819番・820番
指定面積 158.772平方メートル(台帳面積)
指定理由(説明)
玄蕃尾(内中尾山)城跡は、滋賀県と福井県の柳ケ瀬山(内中尾山)山上にある。かつて、この城には賤ヶ岳の合戦(天正11年・1583)の際、戦国時代の武将である柴田勝家の本陣が置かれたところである。本遺構は、極めて限定された時期の城郭の遺構であることから、中世城郭から近世城郭への過渡期にあたる城郭編年の漂式遺跡として重要であること、遺構が良好に遺存していることなどから、史跡に指定して保存を図るものである。
平成11年11月1日 敦賀市教育委員会
余呉町教育委員会”
右側の尾根筋を南に3.5キロほど向かうと、行市山砦(ぎょういちやまとりで)にたどり着く。
柴田勝豊
本能寺の変後、羽柴秀吉は山崎の戦いにおいて明智光秀を降し、主君信長亡き後、尾張清洲において、信長の嗣子を決め、さらに重臣たちによる遺領処分を協議するという、いわゆる清州会議が行われた。天正10年(1582)6月27日のことである。
このとき、この会議の出席者の一人であった柴田勝家は、その2年前に一向一揆を平定した加賀国及び越前国と併せ、この会議において長浜を含む北近江3郡を領した。そして、これらの領地を治めるために、勝家は北近江の押さえとして長浜城に甥の柴田勝豊を守将として入れた。
【写真左】城域手前付近
先ほどの尾根分岐点から傾斜がきつくなり、九十九折れしながら高度を上げていく。途中でけたたましい鳴き声がし出した。
上を見ると木の枝に猿の群れが見える。大分興奮しているようで、あわただしく動き回っている。驚いたのは猿の方ではなく、我々二人なのだが、しばらくすると谷底の方へ移動していった。
城域はもう少し先になるが、この付近から綺麗に整備されている。
柴田勝豊は、越前・丸岡城(福井県坂井市丸岡町霞町1)でも述べたように、天正4年(1576)に越前に丸岡城を築いている。彼は勝家の姉の子といわれ、後に勝家の養子となっている。
勝家についてはこれまでのところ、後に信長の妹・お市と結ばれるまで独身であったということになっているが、詳細は不明である。どちらにしても、実子がなく、自らの後継ぎを養子として迎えたことはごく自然な流れである。
しかし養子として迎えたのは勝豊だけではななかった。勝家にはもう一人の姉(妹とも)がおり、彼女は佐久間盛次の妻となり、勝政を生んだ。この勝政も同じく勝家の養子となっている。二人とも血のつながった甥であったが、理由は不明だが勝家は勝政を優遇し、勝豊には冷淡であったという。
【写真左】玄蕃尾城の概要図
現地に設置されているもので、長径(南北)に凡そ300m、短径(東西)150mの規模を持つ。
城域の入口は南側にあり、大手口となり、尾根筋に沿って北に伸びていくが、中央にほぼ方形の主郭を置き、南北に大小の郭を連郭状に配置している。
また主だった郭には二つ以上の虎口を有し、城内を連絡している。
天正10年12月、すなわち賤ヶ岳の戦いが始まる4ヶ月前の前哨戦となるが、秀吉はこの勝豊が拠る長浜城を攻めた。勝豊はこの戦いで大谷吉継の調略もあり、殆ど防戦することなく城を明け渡し、秀吉に寝返った。この行動に至った背景には、それまでの勝家に対する恨みも根底にあったのかもしれない。
幾何学的縄張と築城期
さて、玄蕃尾城は現地に設置してある概要図を見ても分かるように、各郭や土塁・空堀などが直線的な構図で構成されていることである。特に主郭や北側の郭などは二辺は直線で構築され、郭群の配置構成もバランスがとれ、俯瞰しても幾何学的縄張で一種の造形美さえも醸し出している。
さらに特筆されるのは、主郭の北東隅には天守台の痕跡があることである。この箇所は約11m四方あり、主郭より1.5m高く、その下には礎石が検出されていることから2,3階の天守があったと推測されている。
【写真左】南虎口 大手口
南側の入口付近で、左側には空堀が奥まで続き、右側には西側と東側に腰郭が付随している。
ところで、当城は「極めて限定された時期の城郭」とされている。この限定の意味するところは、その使用期間が賤ヶ岳の戦いが行われた天正11年の一時期ということからだと思われるが、件の「天守台」の存在や、精緻な縄張を見る限り、築城時期はもう少し遡る必要があるように思える。といのも、これだけの普請をするためには、とても1年程度では竣工できないのではないかと考えられるからである。
【写真左】虎口郭の土塁
現地名「虎口郭」と呼称されている郭で、南北に長く三角形の形状をしている。周囲はなだらかな傾斜となった土塁が囲繞している。
また、玄蕃尾城の位置は南方の久々坂峠及び、北方の椿坂峠を結ぶ尾根上の中間点に当たり、築城期についても、賤ヶ岳の戦い直前とは別に、室町期に地元の柳ケ瀬秀行が築城、又は越前朝倉氏の家臣で前稿の越前・疋壇城(福井県敦賀市疋田)城主・疋壇久保が築城した等々諸説があるため、なお一考を要するのではないかと思われる。
【写真左】東虎口付近
最初の虎口郭の中を北に進むと、次の虎口郭があるが、ここで一旦左に折れ、そのあと右に進む。
【写真左】虎口郭・攻撃用大手郭
この箇所の虎口郭は幅は10mにも満たないが、長さは30m前後ある。
現地には攻撃用大手郭(出撃拠点)と表示されている。
ここで陣を何列かに編隊し向かう場所としたのだろう。
【写真左】主郭の方へ向かう。
上記の郭から北に向かうと、右に折れるが、その右側には「馬出郭」と呼ばれる小さな郭が土塁で囲まれている(下段の写真参照)。
【写真左】馬出
主郭の南虎口部分に接している箇所で、規模は大きなものでないので、主郭に陣を張った城将など限られた者たちの馬が置かれていたのだろう。
【写真左】主郭南の馬出との連絡路
左側がさきほどの馬出部分で、ここから右に向かうと主郭に繋がる。
奥の堀は主郭の西南角から始まる長大な空堀。
【写真左】主郭・その1
南側虎口から北方向を見たもので、ほぼ方形の形態となっている。
左側の開口部はその奥にあるもう1つの馬出郭への入口で、そこからさらに左に向かうと、後段で紹介する搦手郭・兵站基地(虎口郭)に繋がる。
【写真左】主郭・その2
西側から東方向を見たもので、奥に土塁が見え、その右側に虎口が覗く。
また左側にある樹木の向背に櫓台(天守台)が見える。
【写真左】櫓台(天守台)
およそ11m四方の規模。
主郭の北東隅に設けられているもので、既述したように天守台があったとされている。
【写真左】礎石
櫓台の天端にはご覧の様な礎石が残る。この日踏査した限りでは、このほかに長方形のものがあり、天守台を設けていたとすれば、最低でも4ヵ所あるはずだが、他の2か所は確認できなかった。
【写真左】北側の馬出
先ほどの櫓台から東に土塁・空堀を直接越えて、東側に下りると、南端部にある張出郭(見張台)から伸びた通路に出る。ここから再び主郭の北側にあたる細い郭(通路)を進むと、前述した馬出郭がある。
【写真左】馬出から主郭を見る。
主郭の北西隅にある虎口で、この位置から見ると、主郭から2m以上の高低差がある。
【写真左】搦手郭・虎口部
馬出から西に狭い虎口を通り抜けると、当城最大の郭である搦手郭がある。
【写真左】搦手郭
ほぼ長方形だが、北西隅はやや曲線となっており、西から北にかけて土塁が囲繞し、北東端で虎口を設け、東側に再び土塁がほぼ直線で構成されている。
【写真左】空堀・その1
搦手郭側のものだが、玄蕃尾城の主だった郭はほとんどこのような精度の高い空堀で構成されている。
空堀・その2
【写真左】玄蕃尾城から東麓を走る国道365号線を俯瞰する。
玄蕃尾城からの眺望は、残念ながら周辺の樹木が生い茂っているためよくないが、一部東側に東麓を走る国道365号線、即ち北国街道が見える。
左に行くと、椿坂峠へ繋がり、さらに北上すると栃ノ木峠で越前国(福井県)に至る。また、右に行くと木之本に至る。
その他の遺構
このほか、東側にある張出郭(見張台)、外周部の腰郭群なども紹介したいところだが、割愛させていただく。
どちらにしても、陣城としては他に類をみない見事なもので、しかも定期的に管理清掃が行き届いていることから、山城ファンとしては必見の城郭である。
●所在地 福井県敦賀市刀根・滋賀県伊香郡余呉町大字柳ケ瀬字北尾
●別名 内中尾山城
●指定 国指定史跡
●高さ 439m
●遺構 土塁・空堀・郭等
●築城期 不明(天正11年(1582)か)
●築城者 柴田勝家
●城主 柴田勝家
●登城日 2015年10月24日
◆解説(参考文献「近江の山城 ベスト50を歩く」中井均編等)
玄蕃尾城については賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦)の稿で直接その名を示していないが、天正11年(1583)における賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家が越前北ノ庄を出立したあと、最初に陣を構えた場所である。
当城は福井県敦賀市と滋賀県長浜市との県境にある標高439mの柳ケ瀬山に築かれている。
【写真左】空堀
南側が大手になるが、最初の郭の西側にやや屈曲させながら伸びる空堀。
現地の説明板より
“国指定史跡
玄蕃尾(内中尾山)城跡 文部省
指定年月日 平成11年7月13日
所在地及び地域
福井県敦賀市刀根60号字外ヶ谷5番の1
〃 69号字小唐子6番
滋賀県伊香郡余呉町大字柳ケ瀬字北尾624番の1・636番
〃 字内谷773番
〃 字坂手819番・820番
指定面積 158.772平方メートル(台帳面積)
【写真左】登城口付近
福井県側の柳ケ瀬街道を東進し、滋賀県と境をなす柳ケ瀬トンネルに入る直前に、柳ケ瀬山(中尾山)西麓を南に向かう谷筋を道なりに進むと、数台駐車できるスペースがある。
ここに車を停め、登城開始する。この位置から玄蕃尾城までは凡そ700m前後となる。
玄蕃尾(内中尾山)城跡は、滋賀県と福井県の柳ケ瀬山(内中尾山)山上にある。かつて、この城には賤ヶ岳の合戦(天正11年・1583)の際、戦国時代の武将である柴田勝家の本陣が置かれたところである。本遺構は、極めて限定された時期の城郭の遺構であることから、中世城郭から近世城郭への過渡期にあたる城郭編年の漂式遺跡として重要であること、遺構が良好に遺存していることなどから、史跡に指定して保存を図るものである。
平成11年11月1日 敦賀市教育委員会
余呉町教育委員会”
【写真左】玄蕃尾城方面と、行市山砦方面との分岐点
暫くすると尾根ピークにたどり着くが、この位置が久々坂峠(刀根越え)といわれる箇所で、左側に向かうと玄蕃尾城へ(残り500m)。
右側の尾根筋を南に3.5キロほど向かうと、行市山砦(ぎょういちやまとりで)にたどり着く。
行市山砦は、東野行一(行市)が砦を築いたといわれているが、賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家方の佐久間盛政が城将を務めた。
柴田勝豊
本能寺の変後、羽柴秀吉は山崎の戦いにおいて明智光秀を降し、主君信長亡き後、尾張清洲において、信長の嗣子を決め、さらに重臣たちによる遺領処分を協議するという、いわゆる清州会議が行われた。天正10年(1582)6月27日のことである。
このとき、この会議の出席者の一人であった柴田勝家は、その2年前に一向一揆を平定した加賀国及び越前国と併せ、この会議において長浜を含む北近江3郡を領した。そして、これらの領地を治めるために、勝家は北近江の押さえとして長浜城に甥の柴田勝豊を守将として入れた。
【写真左】城域手前付近
先ほどの尾根分岐点から傾斜がきつくなり、九十九折れしながら高度を上げていく。途中でけたたましい鳴き声がし出した。
上を見ると木の枝に猿の群れが見える。大分興奮しているようで、あわただしく動き回っている。驚いたのは猿の方ではなく、我々二人なのだが、しばらくすると谷底の方へ移動していった。
城域はもう少し先になるが、この付近から綺麗に整備されている。
柴田勝豊は、越前・丸岡城(福井県坂井市丸岡町霞町1)でも述べたように、天正4年(1576)に越前に丸岡城を築いている。彼は勝家の姉の子といわれ、後に勝家の養子となっている。
勝家についてはこれまでのところ、後に信長の妹・お市と結ばれるまで独身であったということになっているが、詳細は不明である。どちらにしても、実子がなく、自らの後継ぎを養子として迎えたことはごく自然な流れである。
しかし養子として迎えたのは勝豊だけではななかった。勝家にはもう一人の姉(妹とも)がおり、彼女は佐久間盛次の妻となり、勝政を生んだ。この勝政も同じく勝家の養子となっている。二人とも血のつながった甥であったが、理由は不明だが勝家は勝政を優遇し、勝豊には冷淡であったという。
【写真左】玄蕃尾城の概要図
現地に設置されているもので、長径(南北)に凡そ300m、短径(東西)150mの規模を持つ。
城域の入口は南側にあり、大手口となり、尾根筋に沿って北に伸びていくが、中央にほぼ方形の主郭を置き、南北に大小の郭を連郭状に配置している。
また主だった郭には二つ以上の虎口を有し、城内を連絡している。
天正10年12月、すなわち賤ヶ岳の戦いが始まる4ヶ月前の前哨戦となるが、秀吉はこの勝豊が拠る長浜城を攻めた。勝豊はこの戦いで大谷吉継の調略もあり、殆ど防戦することなく城を明け渡し、秀吉に寝返った。この行動に至った背景には、それまでの勝家に対する恨みも根底にあったのかもしれない。
幾何学的縄張と築城期
さて、玄蕃尾城は現地に設置してある概要図を見ても分かるように、各郭や土塁・空堀などが直線的な構図で構成されていることである。特に主郭や北側の郭などは二辺は直線で構築され、郭群の配置構成もバランスがとれ、俯瞰しても幾何学的縄張で一種の造形美さえも醸し出している。
さらに特筆されるのは、主郭の北東隅には天守台の痕跡があることである。この箇所は約11m四方あり、主郭より1.5m高く、その下には礎石が検出されていることから2,3階の天守があったと推測されている。
南側の入口付近で、左側には空堀が奥まで続き、右側には西側と東側に腰郭が付随している。
ところで、当城は「極めて限定された時期の城郭」とされている。この限定の意味するところは、その使用期間が賤ヶ岳の戦いが行われた天正11年の一時期ということからだと思われるが、件の「天守台」の存在や、精緻な縄張を見る限り、築城時期はもう少し遡る必要があるように思える。といのも、これだけの普請をするためには、とても1年程度では竣工できないのではないかと考えられるからである。
【写真左】虎口郭の土塁
現地名「虎口郭」と呼称されている郭で、南北に長く三角形の形状をしている。周囲はなだらかな傾斜となった土塁が囲繞している。
また、玄蕃尾城の位置は南方の久々坂峠及び、北方の椿坂峠を結ぶ尾根上の中間点に当たり、築城期についても、賤ヶ岳の戦い直前とは別に、室町期に地元の柳ケ瀬秀行が築城、又は越前朝倉氏の家臣で前稿の越前・疋壇城(福井県敦賀市疋田)城主・疋壇久保が築城した等々諸説があるため、なお一考を要するのではないかと思われる。
【写真左】東虎口付近
最初の虎口郭の中を北に進むと、次の虎口郭があるが、ここで一旦左に折れ、そのあと右に進む。
この箇所の虎口郭は幅は10mにも満たないが、長さは30m前後ある。
現地には攻撃用大手郭(出撃拠点)と表示されている。
ここで陣を何列かに編隊し向かう場所としたのだろう。
【写真左】主郭の方へ向かう。
上記の郭から北に向かうと、右に折れるが、その右側には「馬出郭」と呼ばれる小さな郭が土塁で囲まれている(下段の写真参照)。
【写真左】馬出
主郭の南虎口部分に接している箇所で、規模は大きなものでないので、主郭に陣を張った城将など限られた者たちの馬が置かれていたのだろう。
【写真左】主郭南の馬出との連絡路
左側がさきほどの馬出部分で、ここから右に向かうと主郭に繋がる。
奥の堀は主郭の西南角から始まる長大な空堀。
【写真左】主郭・その1
南側虎口から北方向を見たもので、ほぼ方形の形態となっている。
左側の開口部はその奥にあるもう1つの馬出郭への入口で、そこからさらに左に向かうと、後段で紹介する搦手郭・兵站基地(虎口郭)に繋がる。
【写真左】主郭・その2
西側から東方向を見たもので、奥に土塁が見え、その右側に虎口が覗く。
また左側にある樹木の向背に櫓台(天守台)が見える。
【写真左】櫓台(天守台)
およそ11m四方の規模。
主郭の北東隅に設けられているもので、既述したように天守台があったとされている。
【写真左】礎石
櫓台の天端にはご覧の様な礎石が残る。この日踏査した限りでは、このほかに長方形のものがあり、天守台を設けていたとすれば、最低でも4ヵ所あるはずだが、他の2か所は確認できなかった。
【写真左】北側の馬出
先ほどの櫓台から東に土塁・空堀を直接越えて、東側に下りると、南端部にある張出郭(見張台)から伸びた通路に出る。ここから再び主郭の北側にあたる細い郭(通路)を進むと、前述した馬出郭がある。
【写真左】馬出から主郭を見る。
主郭の北西隅にある虎口で、この位置から見ると、主郭から2m以上の高低差がある。
【写真左】搦手郭・虎口部
馬出から西に狭い虎口を通り抜けると、当城最大の郭である搦手郭がある。
【写真左】搦手郭
ほぼ長方形だが、北西隅はやや曲線となっており、西から北にかけて土塁が囲繞し、北東端で虎口を設け、東側に再び土塁がほぼ直線で構成されている。
【写真左】空堀・その1
搦手郭側のものだが、玄蕃尾城の主だった郭はほとんどこのような精度の高い空堀で構成されている。
空堀・その2
【写真左】玄蕃尾城から東麓を走る国道365号線を俯瞰する。
玄蕃尾城からの眺望は、残念ながら周辺の樹木が生い茂っているためよくないが、一部東側に東麓を走る国道365号線、即ち北国街道が見える。
左に行くと、椿坂峠へ繋がり、さらに北上すると栃ノ木峠で越前国(福井県)に至る。また、右に行くと木之本に至る。
その他の遺構
このほか、東側にある張出郭(見張台)、外周部の腰郭群なども紹介したいところだが、割愛させていただく。
どちらにしても、陣城としては他に類をみない見事なもので、しかも定期的に管理清掃が行き届いていることから、山城ファンとしては必見の城郭である。
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