2014年3月14日金曜日

熊山城(岡山県赤磐市奥吉原(熊山神社)

熊山城(くまやまじょう)

●所在地 岡山県赤磐市奥吉原(熊山神社)
●高さ 509m
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 児島高徳等
●指定 国指定史跡
●備考 熊山神社・石積遺構・帝釈山霊仙寺
●登城日 2013年9月17日

◆解説(参考文献・下段参照)
 このところ四国の山城が続いていたので、今稿では久しぶりに備前国の山城を取り上げたい。
 もっとも今稿の熊山城は、一般的な山城というよりも、謎に包まれた石積遺構としての史蹟価値が高く、極めて特異な仏教遺跡としての認知度が高いものである。
【写真左】熊山城遠望
 南西麓を流れる吉井川の備前・福岡城付近から見たもの。









 そしてこの山城に関わった武将として有名なのは、説明板にもあるように、これまでに度々紹介してきた南北朝期の南朝方忠臣・児島高徳である。

児島高徳

 児島高徳については、これまで

児島高徳の墓(兵庫県赤穂市坂越)
院庄館(岡山県津山市院庄)
備中・福山城(岡山県総社市清音三因)
砥石城・その1(岡山県瀬戸内市邑久町豊原)

 で度々紹介してきているので、詳細は省くが説明板によれば、建武3年(1336)4月、この地で兵を挙げた場所とされている。
 この年の2月足利尊氏は、京の都で新田義貞に敗れ、一旦海路を使って鎮西(九州)に奔った。その後、尊氏・直義らは菊池武敏・阿蘇惟直と筑前国多々良浜で戦い、これを破り再び勢威を取り戻し、4月に博多を出発、都へと東上を開始した。
 児島高徳が4月に兵を挙げたのは、この尊氏の東上を阻止することだったと思われる。

上寺山の館

 ところで、高徳が熊山に向かう前にいた場所といわれているのが、上寺山館(岡山県瀬戸内市邑久町北島)である。
【写真左】上寺山餘慶寺
 所在地:瀬戸内市邑久町北島1187

 小丘陵地にあって、このまわりには現在多くの寺院・神社が建ち並ぶ。




 現在の上寺山餘慶寺(よけいじ)がある場所で、当院は中国観音霊場第2番札所・山陽花の寺霊場第16番札所でもある。

 ここから吉井川の東岸を伝って登っていくと、熊山までは約16キロ程度の距離となる。ちなみに、当院境内には、児島高徳・和田範長一族の供養塔が祀られている(下段の写真参照)。
 そして、当院は和田範長一族の居城・居館があったところとされている。当院(居城・居館)については、改めて別稿で取り上げたい。

熊山遺跡

 さて、熊山(城)だが、当山に向かうには南側からと北側からの2コースがあるようだ。この日は南方の備前市大内側(国道2号線)から向かったが、最終地点にあった駐車場のもう一つの道側には通行止めがしてあったので、北側は使えないかもしれない。
【写真左】大滝山生活環境保全林案内図
 備前市側になるが、熊山に向かう途中に森林浴の森・展望の森などと設定された「大滝山生活環境保全林」の案内図が設置されている。

 熊山方面はこの図では左上の先にある。
なお、この図には書かれていないが、登城途中の右下付近には、狐塚城(H:240m)、鬼ヶ城、伊部(いんべ)城(H:230m)など城砦も記録されている。
【写真左】上図設置付近
 この先で分岐点があり、左側の道を進むと熊山にたどり着く。







現地の説明板より・その2

“国指定史跡 熊山遺跡
   管理団体 岡山県赤磐市
   指定年月日 昭和31年9月27日

 この遺跡は、熊山山頂(508m)に在って、全国に類を見ない石積みの遺構である。ほぼ、方形の基壇の上に、割石をもって三段に築成している。第1段は南面が狭く、北面が広い台形、第2段は、南面が広く、北面が狭い台形になっている。第2段の四側面の中央に龕(がん)が設けてある。第3段は、方形であるが、中央部分に大石で竪穴の蓋がしてある。
【写真左】熊山の駐車場
 2号線から熊山に向かう途中の麓の道は狭いところが多かったが、山に向かうと整備された道となっており、さらに驚いたのがこの駐車場である。
 大変に広く、バスでも駐車できそうだ。


 石積の中央には、竪穴の石室(約2m)が作られていて、その石室に陶製の筒形(5部分に分けられる)の容器(高さ1.6m)が収められていた。この陶製の筒の中に、三彩釉の小壷と文字が書かれた皮の巻き物が収められていた、と伝えられている。

 陶製の筒形容器と三彩釉の小壷からみて、本石積遺構の築成年代は、奈良時代前期で、三段の石積の仏塔と考えられる。

 また、熊山山塊には、現在大小32基の石積の跡が確認されている。国指定の石積遺構に類似しているが、築成の目的、年代、築成者などは異なるものと思われる。”
【写真左】熊山周辺の配置図
 地の色が緑色のため少し見難いが、右方向が北を示し、駐車場は中央下のところになる。
 ここから歩いて、熊山神社・熊山石積遺構などへ向かう。


熊山神社

 駐車場からしばらく西の方向へ向かうと、分岐点があり、右にいくと「二つ井戸」があるが、今回はスルーして左側の道を進むと、最初に熊山神社がある。
【写真左】熊山神社・その1
 少し傾斜のついた坂になっている参道を進むと、鳥居の奥に本殿が見えてくる。






現地の説明板より・その1

“児島三郎高徳 挙兵の跡

 太平記に詳しく記述されているが、建武3年(1336)4月、上寺山の館から熊山に兵を挙げた時の腰掛岩と旗立岩である。
  熊山町教育委員会”
【写真左】腰掛岩と旗立岩・その1
 本殿に向かって右側にあるもので、座面2m余りのものが腰掛岩、その奥に積み上げられた岩塊が旗立岩のようだ。

【写真左】腰掛岩と旗立岩・その2
 裏から見たもの。










熊山遺跡 基壇の目的

 この特異な石積遺跡については、長い間なんの目的で作られたものか不明とされてきたが、近年になって、仏教遺跡の一つ、「仏塔」であることがほぼ確定しているという。
【写真左】熊山遺跡・その1
【写真左】熊山遺跡・その2
【写真左】熊山遺跡・その3
 裏側から見たもの。











 因みに、この保存状態のいい基壇(仏塔)のほかに、この山には大小32基も類似した基壇があったとされ、伝承ではこの山が帝釈山霊仙寺があったとされ、山そのものがそうした仏教霊場の場として使われていたと思われる。

 一般的には五重塔や三重塔といったいわゆる建築物としてのものが多いが、熊山遺跡の場合はすべて石によって積み上げていることから、かなり古いものとおもわれる。

 この熊山遺跡(基壇)を目にしたとき、すぐに思い浮かんだのが小豆島の星ヶ城・その2(香川県小豆島町大字安田字険阻山)を探訪した折にみた、東峰本丸に設置された祭祀遺構である。
【写真左】小豆島星ヶ城の祭祀遺構
 大きさは、熊山遺跡に比べると小さい。また、石積も整然と並んだものではなく、石も不揃いなものが多いようだ。



 こちらの方は熊山遺跡のように四角張ったものでなく、中央東部や四隅の突起部分の頂部は円形のもので、形は大分違うものだが、古代のものとすれば、仏塔と祭祀というそれぞれ目的は違うものの、どちらも当時の人々が具象化した祈りのシンボルとして造られたものだろう。

★注記
 
 サイト『城郭放浪記』氏より、この祭祀遺構について下記のような御教示をいただいた。


“ 石塔はミャンマー様式の仏塔であるパゴダをモチーフにしたものだそうで、同書によれば「山小屋を住居にしていた某宗教の信者らが、山頂部を鉢巻状に囲んでいた石塁の石を無断で運搬し建造したものという。」とあり、近代に造られたもののようです。”

 改めてお礼申上げます。


【写真左】石積階段
 石積基壇(仏塔)は削平された先端部(東側)にあるが、その北側には入口と思われる石積の階段がある。

 この階段を上がると下段に示した鐘楼跡の礎石が配されている。
【写真左】五輪塔
 おそらくこの平坦地には寺院が建っていたものと思われるが、周囲にはこうした五輪塔や宝篋印塔などが分散して残っている。
【写真左】宝篋印塔
 この宝篋印塔は正応5年(1292)建立されたとされ、当山にいた僧顕空の供養塔とされている。






 熊山に残るこうした古代から中世にかけて仏教遺跡や、児島高徳らが挙兵したような城砦遺構などを目にするとき、数百年に亘って、霊仙寺を主体としながら、当山はその目的・用途をその都度変えながら続いてきたものと思われる。
【写真左】展望台から南方を俯瞰する。
 熊山は北方の眺望は期待できないが、南方は麓を流れる吉井川を中心に瀬戸内市や岡山市などが俯瞰できる。

 写真にはいずれ投稿予定をしている「備前・福岡城」や、宇喜多直家が在城した乙子城(岡山県岡山市乙子)などが見える。

 奥には児島半島が見えるが、おそらく右側の一番高い山が以前紹介した常山城(岡山県玉野市字藤木・岡山市灘崎町迫川)と思われる。
【写真左】小豆島を見る。
 さらに目を東に転ずると、小豆島が見え、上段にも紹介している星ヶ城・その1(香川県小豆島町大字安田字険阻山)の星ヶ城山が見える。
【写真左】屋島を見る。
 小豆島を介して西に目を移すと、遥か彼方の四国・讃岐の特徴ある屋島の山容が見える。
【写真左】岡山市街地
 右を見ると岡山市街地が見える。








 


黒田官兵衛と鐘

 ところで、戦国期、備中高松城攻めで有名な水攻めの際、黒田官兵衛が当山の霊仙寺跡の釣鐘を持ち出し、船の上からこの鐘をたたいて気勢をあげたという。
【写真左】釣鐘があったとされる鐘楼跡の礎石











 高松攻めのあと、この鐘は金山寺(写真参照)の仲介で、雪舟が幼少時代過ごしたといわれる宝福寺(写真参照)が持ち帰り、今に伝えているという。
【写真左】金山寺の山門(仁王門)
 所在地 岡山市北区金山寺
 山号 銘金山
 宗派 天台宗
 創建 天平勝宝元年(749年)(伝)
 写真の山門は、岡山市重要文化財で、探訪したこの日(2011年8月16日)は改修工事が行われていた。
【写真左】宝福寺・その1
 所在地 岡山県総社市井尻野1968
山門付近

 探訪日 2014年2月24日

 残念ながら釣鐘の写真は撮っていないが、他のサイトなどを見る限り船に乗せて叩いていたということから小ぶりな釣鐘のようだ。
【写真左】宝福寺・その2
 探訪日 2006年11月21日

 紅葉の時期は観光客で賑わう。







◎参考文献
 『日本城郭体系第13巻』、「熊山と児島高徳、黒田官兵衛のかかわり」(熊山遺跡群調査・研究会 岡野進、その他。

2014年3月9日日曜日

三滝城(愛媛県西予市城川町窪野)

三滝城(みたきじょう)

●所在地 愛媛県西予市城川町窪野
●別名 御岳城
●史跡 県指定史跡
●高さ 642m(比高258m)
●築城期 永享年間(1429~41)
●築城者 紀実次
●城主 紀氏
●遺構 郭・石垣・井戸等
●登城日 2014年1月28日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
 前稿甲之森城(愛媛県西予市城川町土居)で少し紹介したように、紀氏後期の本拠城・三滝城を取り上げる。
【写真左】三滝城遠望
 三滝城に向かう南側の道から見たもので、当城へは途中から左に分かれる枝線があり、三滝神社まで車で向かうことができる。
 ちなみにこの道をさらに進み、大茅峠を越えると高知県高岡郡梼原町に至る。

 三滝城へ向かう枝道は、本線に比べると林道のような状況で、枯れ枝や小さな落石が道に落ちており、注意が必要だ。


現地の説明板より

“県指定史跡・名勝
 三滝城跡

 三滝城は、標高642m、面積約100ヘクタール。紀親安、西園寺15将の中でも勇将といわれた北ノ川殿の居城で、要害堅固の場所にあって雄大である。
 また麓には変わらぬ千古の流れ三滝川があって、溪谷には伝説を秘めた名瀑(滝)があり、幽谷としての景観は見事である。
【写真左】林道と三滝山(神社)方面との分岐点
 右側の林道と分岐する地点で、この左隅に小さな「三滝城」の標識や、「三滝城址案内図」などが設置されている。


 その辺りに立ちて、古城跡三滝山を遠望するとき、誰もが等しく400年の昔、城主親安公の善政や、公が天正11年、長宗我部の軍勢1万3千騎の攻撃による落城の悲運に遭い、万斛の涙のんで大銀杏の下で悲壮なる自決された事を偲ぶでしょう。

 大銀杏と共に昭和28年3月、天然記念物に指定されたシルリア紀(ゴトランド石灰岩)、名瀑、古樹林、草苔、山と川とに誇りをもつ三滝城全域を県下初めての史跡名勝、二つ併せて天然記念物に指定された。毎年4月第3日曜日の三滝神社春季大祭城主護蔵王大権現)に八ツ鹿踊り(昭和49年国の無形文化財指定)が、公の遺徳を偲び奉納される。
 世の栄枯盛衰も知らぬげに、世俗に超然たる自然の姿は幽遠そのものである。
    西予市教育委員会”
【写真左】三滝城の大銀杏
急坂を道なりに進むと、最初に出迎えてくれるのが、この大銀杏である。






 現地の説明板より

“県指定記念物(天然記念物)
  三滝城の大いちょう
  所在 西予市城川町窪野
  指定 昭和26年11月27日

この樹は雌樹で、三滝城旧二の丸にあり、高さ40m、根まわり約8.6m、目通り約7.4m、枝張り半径約15m、地上8mにて、二大幹となっている。推定樹齢550年。
 昔からこのいちょうの木を煎用すれば、母乳の少ない人に卓効があると伝え来られ、木を削りに取った跡が散見される。
 天正の昔、三滝城主紀親安公が土佐長宗我部元親の軍勢に攻めたてられ、城中より討って出て、依岡左京、依岡三郎と戦って、武運拙く敗れ、この大いちょうの樹の下で自害し果てたと伝えられる。御年32歳、一朝の露と消えられたことにちなむ霊木として、今日まで里人の尊崇の篤い大樹である。
 樹木の石碑いは
   『蔭山の花は咲けとも  散りくちて  草の都の花さかり見む』
 親安公の辞世の歌碑が建てられている。
   親安の 最期を語る 大銀杏
            (城川かるた)
     西予市教育委員会”


西園寺15将

 戦国期における当城主・紀親安は、黒瀬城(愛媛県西予市宇和町卯之町)で紹介したように、西園寺氏の連合組織武士団といわれた「西園寺15将」の1人とされている。この西園寺15将とは以下の面々である。
  1. 御庄殿     勧修寺兵庫守基詮        城辺本城(城辺)
  2. 津島殿     津島越前守通孝        高田釈ヶ森城(津島)
  3. 板島殿     西園寺中将宣久          板島丸串城(宇和島城
  4. 河原淵殿 渡辺式部少輔教忠           河後森城(愛媛県北宇和郡松野町松丸)
  5. 北之川殿 紀式部卿親安              窪野三滝城(城川)
  6. 魚成殿   魚成豊後守通親            魚成村龍ヶ森城(城川)
  7. 野村殿     宇都宮左近尉乗綱        野村白木城(野村)
  8. 東多田殿 宇都宮石見守宣綱           東多田下木城(宇和)
  9. 南方殿     摂津豊後守実親             五反田元城(宇和)
  10. 萩森殿     宇都宮彦右衛門尉房綱   八幡浜萩之森城(八幡浜)(※)
  11. 法華津殿 法華津播磨守法延         法華津本城(吉田)
  12. 有馬殿     今城肥前守能親               戸雁金山城(三間)
  13. 土居殿     土居式部太夫清良           宮下大森城(三間)
  14. 深田殿     竹林院右衛門佐公明       是延一の森城(三間)
  15. 中野殿     河野新蔵人通賢               沢松高森城(三間)
【写真左】林庭院
 大銀杏のある個所は平坦地となっているが、この反対側の所に鳥居があり、三滝神社の参道となっている。

 その脇には紀親安の廟といわれる堂が建っている。

現地の説明板より

“市指定 有形文化財(建造物)
 林庭院
   所在地 西予市城川町窪野
   指定 平成元年2月21日

 三滝城主紀親安の廟

 碑石にのちの庄屋、矢野惣左衛門景遠・同惣之蒸景長父子が願主となり、宝暦13年(1763)親安の命日に当たる正月13日追塔焉とあるから、親安没後180年後の建立となる。
 建物は平成2年原型のままに再建されたが、その原型は明治24年(1891)の改築であったから、それまでにも幾度か改築があったものと思われる。
 碑文正面中央が親安公の林庭院日殿蹄正春大居士であるが、その左頓秀山花大姉は、奥方の菊の方、その右月峯正詠上座は、長男正親を合祀したものといわれている。
   西予市教育委員会”


 さて、この15将は確かに頭に「西園寺氏」を冠しているが、これらのほとんどは西園寺氏から恩賞・恩給として所領を得たものでなく、それぞれの小地域に昔から代々継承されてきた国人領主であって、西園寺氏と強い主従関係を持つものではなかった。

 このため、時には西園寺氏と敵対する場合もあり、そうした絶対的な関係を持たなかったことが後々まで同氏が隆盛を誇ることができなかった原因でもある。なお、(※)印で示した萩森殿は、大洲城(愛媛県大洲市大洲)主宇都宮氏の一族であり、その中に加えるべきでないとする説が有力といわれる。
【写真左】三滝神社鳥居
 下の鳥居から参道を登っていくとこの神社前の鳥居に至るが、この日は車でここまで来た。
 奥深く急峻な三滝山であるが、この境内付近はなだらかな平坦地があり、境内も広い。

 夕方近くでもあったので、神社はあとで参拝することにして、すぐに三滝城へ向かう。


三滝城歴代城主・紀氏

 説明板にもあるように、当城最後の城主親安は、天正11年長宗我部元親の攻略によって討死したとされる。
 ここで改めて当城歴代城主を整理しておきたい。
  • 初代 実定(甲之森城主)
1.    実平 甲之森城在城中に三滝城へ移城する計画を立てる(縄張り開始)。
2.    実次 実平の跡を継ぎ築城施工(永享年間 1429~41年)
3.    実正
4.    実道
5.    実勝 ⇒ 早逝
6.    道安(実道弟) 室 湯築城主河野氏女
7.    通安
8.    経安 大永年間(152128)に北ノ川庄を土居村と窪野村の二つに改める。
9.    親安 長宗我部元親の妹婿波川玄蕃の息女を妾

 ご覧のように、6代道安すなわち、4代実道の実弟のとき、湯築城(愛媛県松山市道後湯之町)主河野氏の娘を室に迎え、河野氏との連携を強めている。西園寺15将とされた時期はおそらくそのあとのことと思われ、9代に至っては、その名が示す通り、長宗我部元親のおそらく偏諱を受けたと思われる「親安」が、西園寺15将のまま、長宗我部氏に与したと思われる。
【写真左】「法経一字一石」の石碑
 記録によれば、長宗我部氏と最も激しい戦いが行われたのが、三滝城の西側直下にあるこの平坦地付近であったといわれている。

 一字一石とは、供養を目的として経文を一個の小石に刻んで埋納する意味だが、この石碑でまとめて供養したものだろう。
 ここを過ぎると、いよいよ三滝城の城域に入る。


 上掲したように、親安は元親の妹婿であった土佐国の波川玄蕃城(高知県吾川郡いの町波川)の波川清宗(玄蕃)の息女を妾としていた。清宗はその後元親に対し、天正7年(1579)謀反を企て、露見後自害することになる。

 親安は清宗の息女を妾としていたということから、元親は清宗とおなじく気脈を通じており、謀叛の疑いありとして、部下の久武内蔵助・桑名太郎左衛門に命じて、三滝城を攻撃させた。この時期については、現地の説明板では天正11年とされているが、史料によってはこの前後に数回行われたとされている。
【写真左】登城道
 三滝神社から三滝城へ向かう道は、最初尾根伝いを進むが、途中から南側の斜面を使って伸びている。

 登城道としては幅が広く、歩きやすいほうだ。
【写真左】三の丸から二の丸・本丸方面を見る。
 登城道が取付いているのが、三の丸の南側になる。
 三滝城の規模は、東西250m×南北60mの細長い形態を持つ。

 この三の丸は二の丸と3mの比高差を持ち、東西35m×南北40mの半円形である。なお、この位置に井戸跡があるということだが、ほとんど埋まっていて確認できない。
【写真左】三滝城の石碑
 昭和43年の建立らしい。
 右隣りには、「金五百年」と刻銘された石碑がある。この石碑だけでも時代を感じる。
【写真左】二の丸・本丸を見る。
手前が二の丸で、その奥に少し段を設けて本丸が控える。
【写真左】二の丸から本丸を見る。
 二の丸と本丸には比高1m程度の段がある。
二の丸と本丸の規模はほぼ同じ大きさで、東西50m前後×南北20mぐらいか。
【写真左】本丸北側斜面
 本丸が三滝山頂部に当たり、北・東・南の三面とも切崖状となっている。
【写真左】本丸東端部から二の丸方面を振り返る。
 長径100m以上であるが、現地に立つとその長さはさらに奥深く感じる。
【写真左】腰郭
 三の丸の下(比高10m前後)にあるもので、「く」の字状に三の丸を囲む形で構成されている。
 なお、さらにこの下に3段の腰郭が連続し、西麓の古戦場跡とされる「法経一字一石」の石碑
に繋がる。
 
 また、写真にはないが、三の丸の南側には東西20m×5m前後の帯郭が付随している。
【写真左】三滝神社・その1
【写真左】三滝神社・その2
 本殿はご覧のようにさらに屋根を設けて保護している。
 おそらくこのあたりは四国といえども積雪が多いのだろう。
【写真左】三滝溪谷自然公園の案内板
 三滝城の麓には溪谷の自然を楽しむための施設が点在している。
 この図には、右側に「窪野八つ鹿踊り」(国選択無形民俗文化財)の絵が描かれている。

 この踊りは、冒頭でも紹介した最後の城主紀親安公の遺徳を偲び行われてきたもので、毎年4月奉納される。
 参考までに、YouTubeでも紹介されているのでご覧いただきたい。
 
【写真左】三滝溪谷自然公園の駐車場から三滝城を遠望する。
 ちなみに、この場所から登山コースとして三滝城までの歩道が整備されている。

2014年3月6日木曜日

甲之森城(愛媛県西予市城川町土居)

甲之森城(こうのもりじょう)

●所在地 愛媛県西予市城川町土居
●別名 かぶとのもりやま城、甲が森城
●築城期 応永年間(1394~1428)か
●築城者 紀実定
●城主 紀氏(実次)、長山伯耆守豊岡
●高さ 451m(比高251m)
●遺構 郭・石垣・空堀・井戸
●登城日 2014年1月28日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
 前稿黒瀬城(愛媛県西予市宇和町卯之町)から肱川沿いに東に下って行くと、野村町に入る。ここで肱川から分かれて、県道35線(野村城川線)に入り、国道197号線と合流し、城川町支所付近で分岐する城川梼原線という2号線(市道か)を進むと、土居という所に至る。

 この土居の北方に聳える標高451mの山に、甲之森城がある。麓には黒瀬川(肱川支流)の支流滝川が流れ、それを遡っていくと、築城者である紀氏が当城から後に移ったとされる三滝城が控えている。
【写真左】甲が森城本丸・二の丸跡
 現在、本丸・二の丸跡には電波塔の施設が建っている。







紀実定・実平

 伝承では、甲之森城は紀貫之13代の孫式部卿紀実定が、伊予国周知郷北ノ川庄5,300貫を拝領して、京都より下向し築城したとされている。もっともこれを裏付ける史料が少ないため、あくまで伝承である。そして、当城主は、下記の7城と22ヶ村の太守となったといわれている。

 紀氏7城
  1. 甲之森城 本稿
  2. 三滝城  次稿で紹介予定
  3. 大番城 西予市城川町高野子
  4. 鎧ヶ端城
  5. 白岩城
  6. 猿ヶ森城
  7. 白石城
【写真左】本丸側から北方を見る。
 縄張は南北に長い細尾根を利用し、北端部に小郭を配して、尾根に空堀を介し、帯郭・腰郭と繋がり、本丸を中心に据え、南側には本丸より約2倍の長さを持つ二の丸を置き、更に3m程度下がった所に三の丸を置いていた。

 規模は、長さ南北250m×東西40m前後。
 しかし、現在はこうした遺構は電波塔関連の施設ができた関係でかなり遺構が消失している。


 実定の子・実平の代になると、甲之森城より要害に優れた三滝山に城(三滝城)を築くことを計画した。この城は甲之森城の麓を流れる滝川を4キロほど遡った窪野にあるが、この地は土佐国(高知県)との境に当たる。

 三滝城(愛媛県西予市城川町窪野)については、次稿で紹介する予定である。
【写真左】説明板
 施設を囲っている網に設置されている。かなり文字が薄くなっているため、判読は不可能。
 城址関連のものとしては、現地にはこれ以外表示されたものはない。



 
 さて、実平は三滝山に築城を計画したものの、病に罹り夭逝、このため、その子・実次が父のあとを継ぎ、永享年間(1429~41)にかけて三滝城を築城、これにより甲之森城は、三滝城の支城とされた。

 天正13年(1585)、土佐の長宗我部氏が南予に侵入、甲之森城の城代・長山伯耆守豊岡は当城に拠って守備したものの、衆寡敵せず落城、伯耆守は自害したとされるが、一説ではその後、長宗我部氏の被官となって活躍したともいわれている。
【写真左】二の丸跡
 下段の位置は三の丸跡と思われる。
【写真左】二の丸付近切崖
 東側の面で、急峻である。
【写真左】二の丸の東面
 左側に笹竹が繁茂しているため分かりにくいが、この箇所も急峻となっている。
【写真左】三の丸先端部
 当城の南端部あたるところで、この箇所も天険の要害である。

2014年3月5日水曜日

黒瀬城(愛媛県西予市宇和町卯之町)

黒瀬城(くろせじょう)

●愛媛県西予市宇和町卯之町
●築城期 天文15年(1548)
●築城者 西園寺実充
●高さ 350m(比高200m)
●形態 連郭式山城
●遺構 堀切・土塁・腰郭・犬走り・井戸等
●登城日 2014年1月28日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
 前稿鳥坂城(愛媛県西予市宇和町久保)から宇和川(肱川)を降っていくと、西予市街地に至る。市街地から宇和川の西岸にある運動公園の方を見ると、お椀型の山が見える。これが戦国後半期に当地を支配した西園寺氏の居城・黒瀬城である。
【写真左】黒瀬城遠望
 麓にある運動公園から見たもの。
遠くからみるとなだらかな山容である。








宇和西園寺氏

 宇和西園寺氏については、以前北宇和郡松野町にある河後森城でも少し紹介しているが、当地に下向したきっかけは、阿波の白地・大西城・その1(徳島県三好市池田町白地)で述べたように、承久の乱後朝廷において、幕府と強力な関係を持った摂関家の一人・西園寺氏公経(きんつね)によるところが大きい。
【写真左】説明板
 大分劣化していてほとんど読めない。また縄張図も本丸までは描かれているが、東側の二の丸・三の丸などが剥離している。


 嘉禎2年(1236)、幕府と強いつながりを持った前太政大臣西園寺公経は、それまで橘氏が所有していたこの宇和荘を、子息実氏の荘園として幕府から認めさせた。朝廷側で幕府と交渉に当たる公家は、関東申次(もうしつぎ)といわれ、公経はこの職を使って、次から次へと露骨に所領や利権獲得に動いた。

 宇和荘を手に入れたのはこの年だが、実氏が関東申次を父から受け継いだのは寛元4(1246)で、その後西園寺氏は、・実兼・公衡(きんひら)・実衡(さねひら)・公宗と同氏嫡流がこの職を継いでいくことになる。
【写真左】登城口
 南東麓にある宇和運動公園側にあり、ここから西の方へ向かってトラバースしながら徐々に比高を上げていく。




 宇和に最初に下向したのは西園寺氏の庶流といわれ、当地に土着していくことになる。その後南北朝期の中先代の乱において、公宗が北条氏と通じていたため、所領を没収されるが、公宗の弟公重が兄の陰謀を密告したことにより、その功によって再び還付されたという。

 そして、公重の弟といわれる公良(別説:庶流)が、初めて同氏宗家として宇和荘の松葉村へ入り、以後「松葉殿」と呼ばれ、公家大名から戦国大名へとたどることになる。
【写真左】岡城方面との分岐点
 尾根ピークに着く。この位置は、黒瀬城の支城といわれた西にある岡城との分岐点になる。

 この日は時間もなく、岡城の方へは向かわず、東の尾根筋にある黒瀬城へ進んだ。



松葉城から黒瀬城へ

 西園寺氏が最初に居城として築城したのが、当城から市街地を挟んで北東に聳える松葉城である。松葉城の築城期ははっきりしないが、公良時代の永和2年(1376)には築城されていたといい、その後19代実光(充)の代まで続く。そして20代公家の代になって、松葉城から黒瀬城へと移った。
【写真左】堀切
 黒瀬城は西側から東に向かって、本丸・二の丸・三の丸と続いている。

 この日登城したコースは西側からのもので、本丸に至るまでに2か所の堀切がある。
 2か所とも大分埋まってはいるが、尾根を断ち切った跡は明瞭に確認できる。


 その理由は諸説あるが、このころ(戦国時代)豊後の大友氏、土佐の一条氏、さらには長宗我部氏などの勃興が激しく、松葉城より戦略的に優れた位置にあるこの黒瀬城がその条件を満たしたからだといわれている。
 確かに、黒瀬城に登ってみると、宇和川(肘川)を眼下に南から東、さらに北方を視界に入れることができる。そして、黒瀬城に移ったあと、松葉城は支城としてその後も利用された。
【写真左】本丸
 東西130m×南北25mという長大な規模を持つもので、圧巻である。

 この先には二の丸・三の丸と続くが、本丸の南側(右)には、三の丸側から西に伸びた犬走りが本丸西端部まで来ており、北側中間点までは、下段の写真のように、二の丸の犬走り(空堀)が同じく来ている。
【写真左】空堀(犬走り)
 北側(左)は当然ながら土塁構造となる。また、堀底から本丸までは平均して比高5m前後を測る。





最後の城主・公広

 ところで、歴代城主名として、前記したように19代実光(充)、20代公家と記しているが、資料によっては、これが逆になっているものもある。最後の城主はこのあとを継いだ公広である。
【写真左】井戸跡
 本丸(一の郭)には井戸跡が2か所残る。
 長大な城域であったことを考えると、籠城に備え相当な人数(兵力)が駐屯していたのだろう。水の手の確保は、要害性と併せもっとも重要なものである。


 元亀3年(1572)、西園寺公広は、土佐一条氏を攻めた。これを知った一条氏の縁戚である豊後の大友宗麟は、豊後水道を渡海して黒瀬城に攻め上った。

 公広は大友氏の前に利あらずと、和睦を結んだ。そして、10年余には土佐の長宗我部氏の四国統一の前に屈し、さらには秀吉の四国征伐によって、小早川隆景に降伏、秀吉の九州征伐に従軍するも、天正15年(1587)宇和の新領主となった秀吉の家臣・戸田勝隆によって謀殺されたという。ここに名門宇和西園寺氏は、黒瀬城とともに亡ぶことになる。
【写真左】付郭
 本丸を過ぎて東に進むと二の丸に至るが、その間には「付郭」という小郭がある。
 本丸と二の丸の比高差はかなりあるため、途中にこの郭が設けられたものだろう。
【写真左】帯郭
 前記した空堀(犬走り)の東端部に当たり、二の丸との中間点でもある。

 ちなみに黒瀬城は南側の斜面は急峻なため目立った遺構は少ないが、北側は南に比べるとややなだらかである。このためこうした土塁や空堀といった遺構が東端部まで続く。

なお、この付近にも井戸跡が残る。
【写真左】二の丸
 東西20m×南北15m前後の規模を持つもので、
本丸よりは大分規模は小さい。
【写真左】三の丸
 二の丸を過ぎると、すぐに三の丸が控える。
東西30m×南北20m前後の規模で、中央部で少し屈曲したような形だが、このあたりから視界が広がってくる。
 前述したように、この三の丸から西の本丸南側まで犬走りが伸びているが、これも含めると、長さは100m前後もあり、もっとも長大な郭といえる。
【写真左】水溜の池
 三の丸の南東隅にあるもので、現在は窪み状となった遺構しか見えないが、水の手の施設として設置されたもののようだ。
【写真左】先端部
 三の丸を過ぎてさらに東に下がりながら進むと、当城の東端部に至る。
 見張櫓などがあったものだろう。大変に視界が広い。
【写真左】土塁
 この箇所の北側面には二の丸の北側まで向かって空堀が連続し、その西端部には腰郭が配置されている。
 戦略上最前線の位置にあるため、防御性を高めている。(下段の写真参照)
【写真左】空堀
 上段の三の丸との段差である切崖状のものは認められないが、おそらく自然崩落したため、現在のようになだらかになったものと思われる。
【写真左】西予市(宇和町)を眺望する。
 先端部には展望台のような小屋があり、ここから北東麓の西予市街地が眺望できる。
 正面に控える山は、下段に示す松葉城。
【写真左】松葉城を遠望する。
 西園寺氏初期の居城であった松葉城は、標高400mで、この黒瀬城が350mであるから、少し高いようだ。
【写真左】南東方面を遠望する。