吾妻子の滝(あづまこのたき)
●所在地 広島県東広島市西条町御薗宇
●別名 東子の滝・千尋の滝
●落差 15m
●滝幅 35m
●水系 黒瀬川水系(三永水源地)
●探訪日 2015年6月27日等
◆解説(参考資料 「東広島てくてくマップ・黒瀬川散策 西条編」等)
本稿は「山城」でないが、前稿安芸・二神山城(広島県東広島市西条町下見)で述べたように、菖蒲御前が京都から安芸に逃れて最初に立ち寄ったといわれる通称「吾妻子の滝」や、その他関連史跡を取り上げておきたい。
【写真左】吾妻子の滝・その1
前日降った雨のせいか、少し濁った大量の水が流れ落ちる。
吾妻子の滝
この場所は、二神山城から東へ約5キロほど向かった三永水源地の取水口となった箇所で、種若丸が亡くなったあと、悲嘆にくれた菖蒲御前が、この場所で石を重ね墓の印とし、親の手向け草として詠んだ箇所である。
【写真左】吾妻子の滝・その2
左上部が上流部だが、この付近には基盤となる大岩が滝の豪快さを演出している。
現地の説明板より・その1
“吾妻子(あづまこ)の滝
西条盆地を南流する黒瀬川にかかるこの滝は、呉市三永水源地の取水口が設けられ大きく形は変わっていますが、市内でも最大級の滝です。
落ち口の幅36m、高さは現在15mを測ります。昭和初期までは雄滝(おだき)と雌滝(めだき)に分かれて流れていましたが、雄滝は現在水は流れておらず、今の滝はいわゆる雌滝に当たります。滝の基盤は花崗岩です。滝を境に下流は黒瀬川によって大きく浸食されていて、上流は平坦地が広がっています。これは、滝の岩盤によって浸食が食い止められていることを示していると思われます。
【写真左】観音堂
滝の脇に突出した磐の上に建立されているもので、堂の中には、この場所で病没したといわれる菖蒲御前の遺児・種若丸の墓が納められている。
墓の形式は宝篋印塔。
平安時代末期、源三位頼政の妻菖蒲の前は、遺児とともに平氏の追手から逃げてこの滝のそばに隠れました。しかし、頼政の遺児は病死し、滝の傍らに葬られました。菖蒲の前の悲しみは深く
吾妻子や 千尋(ちひろ)の滝のあればこそ
広き野原の 末をみるらん
と詠んだと伝えられます。後に頼政の遺児の霊を祭るために石塔が建てられました。
社団法人 東広島市観光協会”
また。上掲した説明板とは別に橋の袂にも当該滝の由来が記載されている。
【写真左】上から見たもの。
現在は滝の上部は堰が設けられ、滝の水系とは別に、分水して三永水源地に送る水門が左側にも見える。
“霊験記
菖蒲の前の遺告により世の人小倉大明神と崇め遠くは、毛利元就・隆元は小倉大明神に祈願し原村槌山城の戦に平賀隆保に戦勝す 近くは昭和8年(2回)雨を戴く後雨乞の神変じて水源地となり、呉市民20余万の人々に潤をたれ 又今日に藤の花を咲かせ菖蒲の前の遺告通り世の人々を利益せしむ。
【写真左】「吾妻子の滝公園」
この滝も含め、南岸側は公園化され「吾妻子の滝公園」となっている。
種若丸が亡くなり失意の底にあった菖蒲御前は、その後御薗宇の寿福寺で男子を生み、豊丸と名付けた。これがのちの水戸新四郎頼興となる。
前稿では、種若丸が新四郎となったとあるが、ここでは次子とされる。このことから、京から安芸賀茂郡へ逃亡中、すでに菖蒲御前の腹には頼政の二人目の子が宿っていたと思われる。
【写真左】白牡丹精米臼場跡の碑
当地西条町は江戸時代から今日まで日本酒の製造が盛んである。
石田三成の家臣であった島左近が、関ヶ原の戦で敗れると、その次男彦太郎忠正が母と共にこの安芸西条に逃れ、その孫六郎兵衛晴正が酒造業を興したといわれる。これがのちの名酒・白牡丹を生み出すことになる。
【写真左】白牡丹酒造の煙突
所在地:広島県東広島市西条本町15番5号
延宝3年(1675)創業。
この場所は、落差と水量の多いことから大型の水車を廻して酒米を精米していた場所といわれている。
観現寺(かんげんじ)
吾妻子の滝から黒瀬川を約2キロ余り上った所には、菖蒲御前開基とされる観現寺がある。
当院境内には、史跡の宝篋印塔があるが、これが、菖蒲御前母子を警固してきた猪早太の墓といわれている。
●所在地 東広島市西条町御薗宇
●開基 菖蒲御前(西妙尼)
●山号 勝谷山
●宗派 真言宗御室派
●文化財 宝篋印塔、厨子他
●参拝日 2015年6月27日
【写真左】観現寺山門
右側の石碑には、真言宗御室派 勝谷山 観現寺と刻銘されている。
山門は最近新しくなったようだ。
建久2年(1191)、すなわち頼朝が征夷大将軍になる前年だが、賀茂郡に落ち延びていた菖蒲御前は後鳥羽院から当地一円を賜った。
後鳥羽院、のちに上皇となって北条執権体制の鎌倉幕府を倒そうとした天皇である。ただ、帝はこのときまだ11歳前後で、この年関白となった九条兼実(白地・大西城・その1(徳島県三好市池田町白地)参照)が事実上の権力者であったことを考えると、兼実の意向が相当働いていたものと思われる。
【写真左】境内
右側に山門があるが、その右に土手を介して黒瀬川が流れている。
現地の説明板より・その1
“広島県重要文化財 観現寺厨子
平成4年(1992)10月29日指定
観現寺は、源頼政の妻、菖蒲前(西妙尼)の開基と伝えられています。現在の本堂は寛政6年(1794)の再建ですが、堂内に安置されている厨子は、建築様式から15世紀のものと考えられます。厨子とは、仏像や経巻を入れておく箱型の容器のことで、この厨子の中に仏像が安置されています。
【写真左】護摩堂
本尊 不動明王 弘法大師
また、源三位頼政、あやめの前(菖蒲御前)も祀られている。
厨子の大きさは、高さが約89cm、幅が約49cmです。建築様式は正面の蟇股(かえるまた)を除いて唐様で、柱の下に礎盤という材や、板と桟で組んだ桟唐戸(さんからと)という戸を使ったりしています。蟇股というのは、和様という建築様式で用いられる部材で、この蟇股は左右の脚を別材で作っている古式なものです。
また厨子の上部には、如意頭という飾りがついています。中世の建築が少ない安芸国(広島県西部)では、貴重な文化財です。
平成5年(1993)3月31日
東広島市教育委員会”
猪隼大の宝篋印塔
境内脇の小高い墓地付近には猪隼人の墓といわれる宝篋印塔が祀られている。
猪隼大は猪早太とも書かれているが、勝屋右京と名乗り、当院を維持すべく努めたという。建保4年(1216)に亡くなったといわれている。
【写真左】猪隼大の墓・その1
境内の一角に祀られているもので、少し小高いところにある。
現地の説明板より
“市史跡 宝篋印塔
昭和53年(1978)11月15日指定
この宝篋印塔は、江戸時代の歴史書の芸藩通志よると、碣面(けつめん)に梵字、左に勝屋右京墓、右に建保四丙子(ひのえね)年(1217)7月8日と刻んでいるとあるが、現在は判読できない。
現存高約1m、最大幅34cmの規模で、塔身と笠の組合せは若干異なるようである。笠や基礎の特徴から鎌倉時代後半期のものと思われる。
【写真左】猪隼大の墓・その2
中央に宝篋印塔があり、その左右には大小の五輪塔も隣接している。
また、このほか周辺部にも小さな五輪塔群が建立されている。
勝屋右京は、もと猪隼太(いのはやた)といい、源頼政の家人で、治承4年(1180)に頼政が宇治で敗死後、その妻菖蒲前に従って下原村(現、西条町御薗宇)に移り住みこの地の名をとって勝屋四郎兵衛と改めたといわれる人物である。
この宝篋印塔の他にも当地には菖蒲前にまつわる伝説が数多く残されている。”
【写真左】猪隼大の一石供養塔
「勝谷右京八百回御遠忌ノ砌奉建立」と刻銘された一石供養塔も隣接している。
従って、おそらく最近供養されたものと思われる。
福成寺(ふくじょうじ)
●所在地 東広島市西条町下三永
●開基 奈良時代
●宗派 真言宗
●山号 表白山 九品院
●参拝日 2010年11月1日
福成寺は、吾妻子の滝からおよそ5キロ余り南東へむかった西条町三永にある古刹である。
菖蒲御前は賀茂一円を賜ったのち、当地下原村を「御薗宇」と改めたが、その後菩提寺として三永にある福成寺を再建したという。
【写真左】福成寺
参拝日 2010年11月1日
当院を訪れたのは4年前で、目的は戦国期の天正年間、伊予の河野通直が土佐の長宗我部の攻撃を受けたため、毛利輝元に救いの手を求めるため会見した寺であったことから探訪している。
南北朝期には南朝方の拠点でもあったといわれている。
この寺は奈良時代の神亀3年(726)の開基で、当時は福納寺と呼ばれていた。その後平安時代の寛仁年間(1017~21)に現在地に移転された。
【写真左】頼政と菖蒲御前を供養した追慕碑
境内には「源三位頼政=西妙尼(菖蒲御前)一族」と刻銘された追慕碑が立つ。
【写真左】石塔群
追慕碑の周りには多くの墓石が並んでいる。
五輪塔や宝篋印塔形式のものなど混然としているが、中には菖蒲御前の一族のものもあるだろう。
小倉神社
●所在地 東広島市八本松町原
●参拝日 2014年9月22日
さて、菖蒲御前は二神山城において、土肥遠平の攻撃をうけて落城したあと、逃れて二神山城から北西へ約6キロほど向かった小倉大谷に移った。そして、そのまま当地で没したといわれている。
【写真左】小倉神社鳥居
麓にも小倉神社が祀られているが、本宮とされるのはこの社で、標高370m付近にある。
東麓の方からほぼ真っ直ぐに伸びる道を進むと、当社にたどり着くが、この日は北東側の曾場ヶ城南麓部から伸びる林道から向かった。
当社の由来は次のように表記されている。
“小倉神社縁起
當社は、源頼政の室菖蒲前を祀る。御誓いあらたかに、五穀豊穣、民安全の守護神なり。わけて旱天に雨を祈るに応験著し。
【写真左】本殿
ほぼ直線となっている長い参道を登ると、見事な石垣によって造られた境内があり、その中央に本殿が静かなたたずまいを見せている。
治承3年(1179)源頼政宇治平等院に討死し、菖蒲前のがれて芸州下原村(西條町御薗宇)にひそみ、やがて後鳥羽院より賀茂郡一円を賜い、二神城(西条町下見)を築く。賊徒、城を攻むるやまたのかれ、ついに元久元年(1204)8月27日、この小倉大谷に入定す。
生所小倉の里(京都)にちなみ愛せしところ、所領西條郷を一望する風光絶佳(景)の地なり。
小倉山 茂る宮居となるならば
民の竃をわれぞ守らん
【写真左】鵺退治の絵馬
本殿には頼政の鵺退治をテーマとしたものや、菖蒲御前の絵馬など多くのものが飾られている。
東(吾妻)子滝・二神城跡・姫ヶ池・馬頭観音・汗平・芋福・経納・福成寺など有縁の地多し。
毛利元就以来、領主の尊信厚し、小倉寺は當社の別當寺なり。今は円福寺と改称す。
※入定の地 御墓は神社に面し左側山中にあり”
【写真左】菖蒲御前の墓・その1
本殿から左に進むと、菖蒲御前の墓が見えてくる。
【写真左】菖蒲御前の墓・その2
【写真左】菖蒲御前の墓・その3
宝篋印塔の形式で、現在でも地元の方によって大切に守られているようだ。
【写真左】小倉神社付近から二神山城を遠望する。
小倉神社の参道から少し東側の林道付近まで進むと東に眺望が開ける。
この位置から前稿で紹介した安芸・二神山城(広島県東広島市西条町下見)が確認できる。
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●所在地 広島県東広島市西条町御薗宇
●別名 東子の滝・千尋の滝
●落差 15m
●滝幅 35m
●水系 黒瀬川水系(三永水源地)
●探訪日 2015年6月27日等
◆解説(参考資料 「東広島てくてくマップ・黒瀬川散策 西条編」等)
本稿は「山城」でないが、前稿安芸・二神山城(広島県東広島市西条町下見)で述べたように、菖蒲御前が京都から安芸に逃れて最初に立ち寄ったといわれる通称「吾妻子の滝」や、その他関連史跡を取り上げておきたい。
【写真左】吾妻子の滝・その1
前日降った雨のせいか、少し濁った大量の水が流れ落ちる。
吾妻子の滝
この場所は、二神山城から東へ約5キロほど向かった三永水源地の取水口となった箇所で、種若丸が亡くなったあと、悲嘆にくれた菖蒲御前が、この場所で石を重ね墓の印とし、親の手向け草として詠んだ箇所である。
【写真左】吾妻子の滝・その2
左上部が上流部だが、この付近には基盤となる大岩が滝の豪快さを演出している。
現地の説明板より・その1
“吾妻子(あづまこ)の滝
西条盆地を南流する黒瀬川にかかるこの滝は、呉市三永水源地の取水口が設けられ大きく形は変わっていますが、市内でも最大級の滝です。
落ち口の幅36m、高さは現在15mを測ります。昭和初期までは雄滝(おだき)と雌滝(めだき)に分かれて流れていましたが、雄滝は現在水は流れておらず、今の滝はいわゆる雌滝に当たります。滝の基盤は花崗岩です。滝を境に下流は黒瀬川によって大きく浸食されていて、上流は平坦地が広がっています。これは、滝の岩盤によって浸食が食い止められていることを示していると思われます。
【写真左】観音堂
滝の脇に突出した磐の上に建立されているもので、堂の中には、この場所で病没したといわれる菖蒲御前の遺児・種若丸の墓が納められている。
墓の形式は宝篋印塔。
平安時代末期、源三位頼政の妻菖蒲の前は、遺児とともに平氏の追手から逃げてこの滝のそばに隠れました。しかし、頼政の遺児は病死し、滝の傍らに葬られました。菖蒲の前の悲しみは深く
吾妻子や 千尋(ちひろ)の滝のあればこそ
広き野原の 末をみるらん
と詠んだと伝えられます。後に頼政の遺児の霊を祭るために石塔が建てられました。
社団法人 東広島市観光協会”
また。上掲した説明板とは別に橋の袂にも当該滝の由来が記載されている。
【写真左】上から見たもの。
現在は滝の上部は堰が設けられ、滝の水系とは別に、分水して三永水源地に送る水門が左側にも見える。
“霊験記
菖蒲の前の遺告により世の人小倉大明神と崇め遠くは、毛利元就・隆元は小倉大明神に祈願し原村槌山城の戦に平賀隆保に戦勝す 近くは昭和8年(2回)雨を戴く後雨乞の神変じて水源地となり、呉市民20余万の人々に潤をたれ 又今日に藤の花を咲かせ菖蒲の前の遺告通り世の人々を利益せしむ。
【写真左】「吾妻子の滝公園」
この滝も含め、南岸側は公園化され「吾妻子の滝公園」となっている。
種若丸が亡くなり失意の底にあった菖蒲御前は、その後御薗宇の寿福寺で男子を生み、豊丸と名付けた。これがのちの水戸新四郎頼興となる。
前稿では、種若丸が新四郎となったとあるが、ここでは次子とされる。このことから、京から安芸賀茂郡へ逃亡中、すでに菖蒲御前の腹には頼政の二人目の子が宿っていたと思われる。
【写真左】白牡丹精米臼場跡の碑
当地西条町は江戸時代から今日まで日本酒の製造が盛んである。
石田三成の家臣であった島左近が、関ヶ原の戦で敗れると、その次男彦太郎忠正が母と共にこの安芸西条に逃れ、その孫六郎兵衛晴正が酒造業を興したといわれる。これがのちの名酒・白牡丹を生み出すことになる。
【写真左】白牡丹酒造の煙突
所在地:広島県東広島市西条本町15番5号
延宝3年(1675)創業。
この場所は、落差と水量の多いことから大型の水車を廻して酒米を精米していた場所といわれている。
観現寺(かんげんじ)
吾妻子の滝から黒瀬川を約2キロ余り上った所には、菖蒲御前開基とされる観現寺がある。
当院境内には、史跡の宝篋印塔があるが、これが、菖蒲御前母子を警固してきた猪早太の墓といわれている。
●所在地 東広島市西条町御薗宇
●開基 菖蒲御前(西妙尼)
●山号 勝谷山
●宗派 真言宗御室派
●文化財 宝篋印塔、厨子他
●参拝日 2015年6月27日
【写真左】観現寺山門
右側の石碑には、真言宗御室派 勝谷山 観現寺と刻銘されている。
山門は最近新しくなったようだ。
建久2年(1191)、すなわち頼朝が征夷大将軍になる前年だが、賀茂郡に落ち延びていた菖蒲御前は後鳥羽院から当地一円を賜った。
後鳥羽院、のちに上皇となって北条執権体制の鎌倉幕府を倒そうとした天皇である。ただ、帝はこのときまだ11歳前後で、この年関白となった九条兼実(白地・大西城・その1(徳島県三好市池田町白地)参照)が事実上の権力者であったことを考えると、兼実の意向が相当働いていたものと思われる。
【写真左】境内
右側に山門があるが、その右に土手を介して黒瀬川が流れている。
現地の説明板より・その1
“広島県重要文化財 観現寺厨子
平成4年(1992)10月29日指定
観現寺は、源頼政の妻、菖蒲前(西妙尼)の開基と伝えられています。現在の本堂は寛政6年(1794)の再建ですが、堂内に安置されている厨子は、建築様式から15世紀のものと考えられます。厨子とは、仏像や経巻を入れておく箱型の容器のことで、この厨子の中に仏像が安置されています。
【写真左】護摩堂
本尊 不動明王 弘法大師
また、源三位頼政、あやめの前(菖蒲御前)も祀られている。
厨子の大きさは、高さが約89cm、幅が約49cmです。建築様式は正面の蟇股(かえるまた)を除いて唐様で、柱の下に礎盤という材や、板と桟で組んだ桟唐戸(さんからと)という戸を使ったりしています。蟇股というのは、和様という建築様式で用いられる部材で、この蟇股は左右の脚を別材で作っている古式なものです。
また厨子の上部には、如意頭という飾りがついています。中世の建築が少ない安芸国(広島県西部)では、貴重な文化財です。
平成5年(1993)3月31日
東広島市教育委員会”
猪隼大の宝篋印塔
境内脇の小高い墓地付近には猪隼人の墓といわれる宝篋印塔が祀られている。
猪隼大は猪早太とも書かれているが、勝屋右京と名乗り、当院を維持すべく努めたという。建保4年(1216)に亡くなったといわれている。
【写真左】猪隼大の墓・その1
境内の一角に祀られているもので、少し小高いところにある。
現地の説明板より
“市史跡 宝篋印塔
昭和53年(1978)11月15日指定
この宝篋印塔は、江戸時代の歴史書の芸藩通志よると、碣面(けつめん)に梵字、左に勝屋右京墓、右に建保四丙子(ひのえね)年(1217)7月8日と刻んでいるとあるが、現在は判読できない。
現存高約1m、最大幅34cmの規模で、塔身と笠の組合せは若干異なるようである。笠や基礎の特徴から鎌倉時代後半期のものと思われる。
【写真左】猪隼大の墓・その2
中央に宝篋印塔があり、その左右には大小の五輪塔も隣接している。
また、このほか周辺部にも小さな五輪塔群が建立されている。
勝屋右京は、もと猪隼太(いのはやた)といい、源頼政の家人で、治承4年(1180)に頼政が宇治で敗死後、その妻菖蒲前に従って下原村(現、西条町御薗宇)に移り住みこの地の名をとって勝屋四郎兵衛と改めたといわれる人物である。
この宝篋印塔の他にも当地には菖蒲前にまつわる伝説が数多く残されている。”
【写真左】猪隼大の一石供養塔
「勝谷右京八百回御遠忌ノ砌奉建立」と刻銘された一石供養塔も隣接している。
従って、おそらく最近供養されたものと思われる。
●所在地 東広島市西条町下三永
●開基 奈良時代
●宗派 真言宗
●山号 表白山 九品院
●参拝日 2010年11月1日
福成寺は、吾妻子の滝からおよそ5キロ余り南東へむかった西条町三永にある古刹である。
菖蒲御前は賀茂一円を賜ったのち、当地下原村を「御薗宇」と改めたが、その後菩提寺として三永にある福成寺を再建したという。
【写真左】福成寺
参拝日 2010年11月1日
当院を訪れたのは4年前で、目的は戦国期の天正年間、伊予の河野通直が土佐の長宗我部の攻撃を受けたため、毛利輝元に救いの手を求めるため会見した寺であったことから探訪している。
南北朝期には南朝方の拠点でもあったといわれている。
この寺は奈良時代の神亀3年(726)の開基で、当時は福納寺と呼ばれていた。その後平安時代の寛仁年間(1017~21)に現在地に移転された。
【写真左】頼政と菖蒲御前を供養した追慕碑
境内には「源三位頼政=西妙尼(菖蒲御前)一族」と刻銘された追慕碑が立つ。
【写真左】石塔群
追慕碑の周りには多くの墓石が並んでいる。
五輪塔や宝篋印塔形式のものなど混然としているが、中には菖蒲御前の一族のものもあるだろう。
小倉神社
●所在地 東広島市八本松町原
●参拝日 2014年9月22日
さて、菖蒲御前は二神山城において、土肥遠平の攻撃をうけて落城したあと、逃れて二神山城から北西へ約6キロほど向かった小倉大谷に移った。そして、そのまま当地で没したといわれている。
【写真左】小倉神社鳥居
麓にも小倉神社が祀られているが、本宮とされるのはこの社で、標高370m付近にある。
東麓の方からほぼ真っ直ぐに伸びる道を進むと、当社にたどり着くが、この日は北東側の曾場ヶ城南麓部から伸びる林道から向かった。
当社の由来は次のように表記されている。
“小倉神社縁起
當社は、源頼政の室菖蒲前を祀る。御誓いあらたかに、五穀豊穣、民安全の守護神なり。わけて旱天に雨を祈るに応験著し。
【写真左】本殿
ほぼ直線となっている長い参道を登ると、見事な石垣によって造られた境内があり、その中央に本殿が静かなたたずまいを見せている。
治承3年(1179)源頼政宇治平等院に討死し、菖蒲前のがれて芸州下原村(西條町御薗宇)にひそみ、やがて後鳥羽院より賀茂郡一円を賜い、二神城(西条町下見)を築く。賊徒、城を攻むるやまたのかれ、ついに元久元年(1204)8月27日、この小倉大谷に入定す。
生所小倉の里(京都)にちなみ愛せしところ、所領西條郷を一望する風光絶佳(景)の地なり。
小倉山 茂る宮居となるならば
民の竃をわれぞ守らん
【写真左】鵺退治の絵馬
本殿には頼政の鵺退治をテーマとしたものや、菖蒲御前の絵馬など多くのものが飾られている。
東(吾妻)子滝・二神城跡・姫ヶ池・馬頭観音・汗平・芋福・経納・福成寺など有縁の地多し。
毛利元就以来、領主の尊信厚し、小倉寺は當社の別當寺なり。今は円福寺と改称す。
※入定の地 御墓は神社に面し左側山中にあり”
【写真左】菖蒲御前の墓・その1
本殿から左に進むと、菖蒲御前の墓が見えてくる。
【写真左】菖蒲御前の墓・その2
【写真左】菖蒲御前の墓・その3
宝篋印塔の形式で、現在でも地元の方によって大切に守られているようだ。
【写真左】小倉神社付近から二神山城を遠望する。
小倉神社の参道から少し東側の林道付近まで進むと東に眺望が開ける。
この位置から前稿で紹介した安芸・二神山城(広島県東広島市西条町下見)が確認できる。
◎関連投稿
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源頼政の墓・宇治平等院(京都府宇治市宇治蓮華116)
高天神城(静岡県掛川市上土方・下土方)・その1
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