安芸・二神山城(あき・ふたがみやまじょう)
●所在地 広島県東広島市西条町下見
●別名 茶臼山城
●高さ 313m(比高90m)
●築城期 平安末期か
●廃城年 元久元年(1204)
●築城者 不明
●城主 水戸新四郎
●遺構 郭・堀切・竪堀等
●登城日 2014年11月10日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
前稿源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)で紹介した源頼政の室・菖蒲御前や、その子とされる種若丸(のちの水戸新四郎)が、築城(又は居城)したとされる安芸の二神山城を取り上げたい。
【写真左】二神山城遠望
南麓の西条町下見付近から見たもの。
当城の東方(この写真でいえば、右側になる)約3キロほどむかったところには、鏡山城(広島県東広島市西条町御園宇)が所在する。
現地の説明板より
“二神山城跡
由緒
西条盆地に古くからある「菖蒲前物語(あやめのまえものがたり)」に、この山の城跡としての今日がある。
即ち、宇治の平等院の扇の芝で平氏に追われ敗死した源頼政の一子種若丸は、妻の菖蒲前に守られて、従者猪早太と共にこの地に陰棲していた。
【写真左】二神山散策道案内の図
二神山城は西側の二神山頂上(313m)を主郭とし、その北側のピーク(305m)、を西城とし、さらにそこから尾根伝いに東に向かった東ピーク(310m)を東城としている。
世が源氏の時代となり、源頼朝は鎌倉に幕府を開いた。その時種若丸は成人して元服し、水戸新四郎頼興と命名、賀茂一円を賜り「二神山」に城を築いたという。
山上には、本城(南北30間・東西8間)、東城、西城が構築されていたという。
元久元年(1204)3月、土肥遠平の為に陥られたといわれている。
下見の歴史散歩道 下見地域振興協議会 2010.11”
【写真左】南側の登山口
登城口は上図にあるように5ヵ所(A~E)あるが、この日は南側(A)から向かった。
なお、駐車場が完備されているのはこのA地点のみで、写真の道路を挟んだ左側にある。
菖蒲御前(あやめごぜん)と種若丸
前稿でも述べたように、源頼政が以仁王(もちひとおう) とともに、平家打倒をめざし宇治平等院に討死したあと、頼政の室・菖蒲御前が安芸の国に逃れたのは、この年(治承4年:1180)である。
おそらく、頼政は菖蒲に対し、宇治平等院での戦いの前に遠国(安芸国)へ逃れるよう手筈を整えていたのかもしれない。
【写真左】分岐点
登城口から暫く谷間のような箇所を進んで行くと、この位置で分岐している。右に向かうと、東城へ、左にいくと西城に向かう。
先ずは、西城及び主郭を目指す。
【写真左】平坦地
分岐点を過ぎてしばらく歩くと、ごらんのような平坦地が現れる。
下段に紹介する「西城」へ上がる手前の箇所になるが、この辺りに屋敷があったのかもしれない。
伝承では、菖蒲御前とその子・種若丸を護衛すべく、頼政の家臣・猪早太が随従していたという。
最初に足を踏み入れた場所が、芸州下原村といわれ、現在の東広島市西条町御薗宇である。この場所は中心部を国道2号線が走り、南に山陽新幹線、北に山陽自動車道・JR山陽本線などが走り、東広島市の中心部となっているところで、二神山城の東方にはのちに室町期、大内氏によって築城された鏡山城(広島県東広島市西条町御園宇)がある。
【写真左】西城
看板には「西城跡 36㎡」と記されている。頂部が削平された郭が残り、目だった遺構は他には見られないが、北方を扼する物見的機能を有していたと思われる。
このあと、南側に向かい主郭を目指す。
ところで、なぜ菖蒲御前らが、この御薗宇を逃亡先としたのだろう。平家が隆盛を誇っていたとき、特に西国には多くの荘園を有していた。当然ながら安芸国などは平家のもっとも支配が及んだ地域である。
【写真左】主郭手前の郭段
西城から主郭に向かうにはいったん鞍部となった箇所を進み、そこからかなり傾斜がついた坂道を登る。
途中から2,3段の小郭が左右に見え始める。
単純に考えれば、菖蒲御前はそうした場所に行けば危険はさらに高まるはずである。そこで考えられるのが、逃亡先の一角には平家の支配が及ばない地域があったということだろう。
【写真左】主郭・その1
およそ東西20m×南北5~10mの規模を持つ郭で、南側に切崖を持つ。
【写真左】主郭・その2
三角点
【写真左】主郭・その3
南西方向に伸びる郭段。
細い尾根を使って伸びたもので、両側は切崖となっている。
それを裏付けるものの一つとしては、御薗宇が賀茂郡であったことである。すなわち、賀茂神社の荘園であったことから、平家の支配が及ばないこの場所を選択したのではないか推察される。もっとも、入国直後は源平争乱の真っ最中で、表立った動きはできなかったが、平家が倒れ、源氏の世になってからやっと解放されたと思われる。
【写真左】東城遠望
主郭から東方に東城が望める。主郭から東城までは直線距離では400m程度だが、そこに行くまでにはいったん西城との鞍部まで下がり、そこから尾根伝いを進むので、実際にはその倍(800m)はあるだろう。
土肥遠平
水戸新四郎が二神山城を築いたその後、当城は土肥遠平によって陥れたという。
土肥遠平、すなわち小早川遠平のことである。安芸・高山城(広島県三原市高坂町)・その1でも述べたように、鎌倉幕府御家人であった土肥実平の嫡男で、のちの小早川氏(沼田)の祖となる人物である。
【写真左】鏡山城遠望
主郭から同じく東方を見たもので、東城の右後方に見える。
手前の建物は広島大学の校舎
遠平の父実平が最初に西国に足を踏み入れたのは、元暦元年(1184)、備前・備中・備後の惣追捕使となって、備後国の有福荘を拠点としたことから始まる。その後、平氏が滅亡し遠平の代になると南下し、沼田荘へ本拠地を移し始める(安芸・高木山城(広島県三原市本郷町下北方)参照)。
沼田小早川氏が築城したといわれる居城・安芸高山城が完成したのが建永元年(1206)といわれるので、遠平が二神山城を攻略したのは、その2年前となる。
【写真左】切崖
主郭南側にあるもので、草木が繁茂しているため写真では分かりづらいが、7~8m程度の高低差がある。
このあと主郭を降り、再び分岐点まで戻り、東城に向かう。
それにしても、平家打倒という共通の目的の下にあった両者である。菖蒲御前・水戸新新四郎らは摂津源氏系であり、河内源氏系の血を引く頼朝の傘下にあった土肥(小早川)氏が、二神山城にあった摂津源氏を攻め落とすという構図は、一見不可解な行動にも見える。だが、土肥遠平が二神山城を攻略したこの年の状況を考えると、強ちそうでもないことが分かる。
【写真左】菖蒲御前か
分岐点付近の樹木に掛けてあったもので、おそらくこの女性は「菖蒲御前」なのだろう。
二神山城攻略の前年、すなわち建仁3年(1203)、北条時政・大江広元は、征夷大将軍に任じられて間もない源頼家を伊豆修善寺に幽閉、ほぼ同時期に時政は執権となった。そしてあくる元久元年(1204)7月18日、頼家は当地で殺害された。
平家を駆逐し鎌倉幕府を開いた頼朝の死去後、源氏による幕府基盤は脆くも崩れていくことになる。こののち、北条時政の子・義時が御家人を統率する侍別当を兼務した執権体制が続くことになる。
従って、土肥氏(小早川氏)の二神山城攻略はそうした中央の動きと連動していたのだろう。
【写真左】郭段
東城に向かう途中にあるもので、全体に細尾根が多いが、この箇所だけは人工的に手が加えられたように見える。
次稿では、菖蒲御前の嫡男種若丸は元服したとされるが、ところが、これとは別に種若丸が御薗宇の地に辿りついたとき、病気に罹って亡くなったという伝説が残る史跡「吾妻子の滝」などを紹介したい。
【写真左】展望箇所
東城に向かう途中に1か所ピークがあるが、そこは北方を俯瞰できる岩塊が露出している。
自然石だろうが、かなり整然と並んでいるので、施工された可能性もある。
また、その付近には磐でかこまれた窪地があるが、井戸跡のようにも見えるが、虎口のような形状もしている。
【写真左】東城
頂部はおよそ5m四方の大きさの平坦面が残るが、明確な遺構は残っていない。
高さ310m。
●所在地 広島県東広島市西条町下見
●別名 茶臼山城
●高さ 313m(比高90m)
●築城期 平安末期か
●廃城年 元久元年(1204)
●築城者 不明
●城主 水戸新四郎
●遺構 郭・堀切・竪堀等
●登城日 2014年11月10日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
前稿源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)で紹介した源頼政の室・菖蒲御前や、その子とされる種若丸(のちの水戸新四郎)が、築城(又は居城)したとされる安芸の二神山城を取り上げたい。
【写真左】二神山城遠望
南麓の西条町下見付近から見たもの。
当城の東方(この写真でいえば、右側になる)約3キロほどむかったところには、鏡山城(広島県東広島市西条町御園宇)が所在する。
現地の説明板より
“二神山城跡
由緒
西条盆地に古くからある「菖蒲前物語(あやめのまえものがたり)」に、この山の城跡としての今日がある。
即ち、宇治の平等院の扇の芝で平氏に追われ敗死した源頼政の一子種若丸は、妻の菖蒲前に守られて、従者猪早太と共にこの地に陰棲していた。
【写真左】二神山散策道案内の図
二神山城は西側の二神山頂上(313m)を主郭とし、その北側のピーク(305m)、を西城とし、さらにそこから尾根伝いに東に向かった東ピーク(310m)を東城としている。
世が源氏の時代となり、源頼朝は鎌倉に幕府を開いた。その時種若丸は成人して元服し、水戸新四郎頼興と命名、賀茂一円を賜り「二神山」に城を築いたという。
山上には、本城(南北30間・東西8間)、東城、西城が構築されていたという。
元久元年(1204)3月、土肥遠平の為に陥られたといわれている。
下見の歴史散歩道 下見地域振興協議会 2010.11”
【写真左】南側の登山口
登城口は上図にあるように5ヵ所(A~E)あるが、この日は南側(A)から向かった。
なお、駐車場が完備されているのはこのA地点のみで、写真の道路を挟んだ左側にある。
菖蒲御前(あやめごぜん)と種若丸
前稿でも述べたように、源頼政が以仁王(もちひとおう) とともに、平家打倒をめざし宇治平等院に討死したあと、頼政の室・菖蒲御前が安芸の国に逃れたのは、この年(治承4年:1180)である。
おそらく、頼政は菖蒲に対し、宇治平等院での戦いの前に遠国(安芸国)へ逃れるよう手筈を整えていたのかもしれない。
【写真左】分岐点
登城口から暫く谷間のような箇所を進んで行くと、この位置で分岐している。右に向かうと、東城へ、左にいくと西城に向かう。
先ずは、西城及び主郭を目指す。
【写真左】平坦地
分岐点を過ぎてしばらく歩くと、ごらんのような平坦地が現れる。
下段に紹介する「西城」へ上がる手前の箇所になるが、この辺りに屋敷があったのかもしれない。
伝承では、菖蒲御前とその子・種若丸を護衛すべく、頼政の家臣・猪早太が随従していたという。
最初に足を踏み入れた場所が、芸州下原村といわれ、現在の東広島市西条町御薗宇である。この場所は中心部を国道2号線が走り、南に山陽新幹線、北に山陽自動車道・JR山陽本線などが走り、東広島市の中心部となっているところで、二神山城の東方にはのちに室町期、大内氏によって築城された鏡山城(広島県東広島市西条町御園宇)がある。
【写真左】西城
看板には「西城跡 36㎡」と記されている。頂部が削平された郭が残り、目だった遺構は他には見られないが、北方を扼する物見的機能を有していたと思われる。
このあと、南側に向かい主郭を目指す。
ところで、なぜ菖蒲御前らが、この御薗宇を逃亡先としたのだろう。平家が隆盛を誇っていたとき、特に西国には多くの荘園を有していた。当然ながら安芸国などは平家のもっとも支配が及んだ地域である。
【写真左】主郭手前の郭段
西城から主郭に向かうにはいったん鞍部となった箇所を進み、そこからかなり傾斜がついた坂道を登る。
途中から2,3段の小郭が左右に見え始める。
単純に考えれば、菖蒲御前はそうした場所に行けば危険はさらに高まるはずである。そこで考えられるのが、逃亡先の一角には平家の支配が及ばない地域があったということだろう。
【写真左】主郭・その1
およそ東西20m×南北5~10mの規模を持つ郭で、南側に切崖を持つ。
【写真左】主郭・その2
三角点
【写真左】主郭・その3
南西方向に伸びる郭段。
細い尾根を使って伸びたもので、両側は切崖となっている。
それを裏付けるものの一つとしては、御薗宇が賀茂郡であったことである。すなわち、賀茂神社の荘園であったことから、平家の支配が及ばないこの場所を選択したのではないか推察される。もっとも、入国直後は源平争乱の真っ最中で、表立った動きはできなかったが、平家が倒れ、源氏の世になってからやっと解放されたと思われる。
【写真左】東城遠望
主郭から東方に東城が望める。主郭から東城までは直線距離では400m程度だが、そこに行くまでにはいったん西城との鞍部まで下がり、そこから尾根伝いを進むので、実際にはその倍(800m)はあるだろう。
土肥遠平
水戸新四郎が二神山城を築いたその後、当城は土肥遠平によって陥れたという。
土肥遠平、すなわち小早川遠平のことである。安芸・高山城(広島県三原市高坂町)・その1でも述べたように、鎌倉幕府御家人であった土肥実平の嫡男で、のちの小早川氏(沼田)の祖となる人物である。
主郭から同じく東方を見たもので、東城の右後方に見える。
手前の建物は広島大学の校舎
遠平の父実平が最初に西国に足を踏み入れたのは、元暦元年(1184)、備前・備中・備後の惣追捕使となって、備後国の有福荘を拠点としたことから始まる。その後、平氏が滅亡し遠平の代になると南下し、沼田荘へ本拠地を移し始める(安芸・高木山城(広島県三原市本郷町下北方)参照)。
沼田小早川氏が築城したといわれる居城・安芸高山城が完成したのが建永元年(1206)といわれるので、遠平が二神山城を攻略したのは、その2年前となる。
【写真左】切崖
主郭南側にあるもので、草木が繁茂しているため写真では分かりづらいが、7~8m程度の高低差がある。
このあと主郭を降り、再び分岐点まで戻り、東城に向かう。
それにしても、平家打倒という共通の目的の下にあった両者である。菖蒲御前・水戸新新四郎らは摂津源氏系であり、河内源氏系の血を引く頼朝の傘下にあった土肥(小早川)氏が、二神山城にあった摂津源氏を攻め落とすという構図は、一見不可解な行動にも見える。だが、土肥遠平が二神山城を攻略したこの年の状況を考えると、強ちそうでもないことが分かる。
【写真左】菖蒲御前か
分岐点付近の樹木に掛けてあったもので、おそらくこの女性は「菖蒲御前」なのだろう。
二神山城攻略の前年、すなわち建仁3年(1203)、北条時政・大江広元は、征夷大将軍に任じられて間もない源頼家を伊豆修善寺に幽閉、ほぼ同時期に時政は執権となった。そしてあくる元久元年(1204)7月18日、頼家は当地で殺害された。
平家を駆逐し鎌倉幕府を開いた頼朝の死去後、源氏による幕府基盤は脆くも崩れていくことになる。こののち、北条時政の子・義時が御家人を統率する侍別当を兼務した執権体制が続くことになる。
従って、土肥氏(小早川氏)の二神山城攻略はそうした中央の動きと連動していたのだろう。
【写真左】郭段
東城に向かう途中にあるもので、全体に細尾根が多いが、この箇所だけは人工的に手が加えられたように見える。
次稿では、菖蒲御前の嫡男種若丸は元服したとされるが、ところが、これとは別に種若丸が御薗宇の地に辿りついたとき、病気に罹って亡くなったという伝説が残る史跡「吾妻子の滝」などを紹介したい。
東城に向かう途中に1か所ピークがあるが、そこは北方を俯瞰できる岩塊が露出している。
自然石だろうが、かなり整然と並んでいるので、施工された可能性もある。
また、その付近には磐でかこまれた窪地があるが、井戸跡のようにも見えるが、虎口のような形状もしている。
【写真左】東城
頂部はおよそ5m四方の大きさの平坦面が残るが、明確な遺構は残っていない。
高さ310m。
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