安田要害山城(やすだようがいさんじょう)
●所在地 島根県安来市伯太町安田関要害山
●登城日 2008年5月3日●築城期 不明(戦国期)
●築城主 安井光照
●城主 福山源五郎
●標高 281m
●備考 新山城・長台寺城
●遺構 郭、帯郭、土塁、堀切、陶磁器片出土
◆解説(参考文献「島根県遺跡データベース」等)
前稿「手間要害山」でも少し触れたが、当城は出雲(雲州)国と伯耆国との境に立つ山城である。訪れた日は、5月であったこともあり、山城探訪としては時宜を逸し、現地では雑草丈が相当伸び、明瞭な遺構写真はあまりとれなかった。しかし、本丸跡からみる眺めは良好で、戦国期当城をめぐって両国からのせめぎあい、毛利・尼子の戦いが彷彿とする城跡である。
主な登城ルートは、西麓側にある長台寺から登る道と、北側県道(101)から登るコース、それに南部町(鳥取県)側から登り、同じく南方の県境にそびえる母塚山(275m)からの縦走コースのルートなどがあるようだ。今回は島根県側の長台寺から登ることにした。
【写真左】長台寺入口付近
当城の資料については手元にないため、現地の説明板より転載する。
“安田要害山(標高281.2m)
この山は、出雲側では「安田要害」、伯耆側では「新山要害」と呼ばれている。
古代は祭祀の場であり、城ができるはるか以前から重要な見張り場所で、のろし揚げ場でもあったといわれる。
戦国期、尼子経久の家臣・安井光照が雲伯の国境警備のためにこの山頂に城砦を築いた。
その後、福山源五郎が城主のとき、尾高城主杉原盛重が率いる毛利勢に攻められ、攻防争奪を繰り返したが、ついに永禄8年(1565)3月落城した。
明治40年頃までには、ここに城主を祀る福山権現の祠があったが、現在は麓の長台寺境内に移されている。今なお焼米等が掘りだされることがあり、中国11州の太守・尼子氏滅亡の悲しい名残の地である。
平成元年3月 伯太町”
【写真左】長台寺にある「出雲札所案内図」
当寺は広瀬の19番札所観音寺の次に当たる第20番になっている。次番は名刹・清水寺である。
【写真左】長台寺境内
この写真中央にみえる階段が安田要害山登城口になる。
なお、当寺の縁起と、当城の概要を示す説明板があるので、下段に転載しておく。
“長台寺と要害山の案内(由来)
福寿山長台寺は、今から1300年前行基菩薩によって開創され、本尊は行基の一刀三札の作千手観音像をまつり、もとはここより500m奥の坊床に寺があったが、白鳳9年の大洪水により流失し、今のところに安置された。
9世紀には、聖武天皇の勅願により寺院建立になり隆昌を極めて、その後度々興廃があった。
徳川時代になって母里藩主松平直員により再現され(直員の額現存)鬼門除け・長寿祈願道場として寺領を付与された。現在は比叡山延暦寺末である(出雲札所20番)。
本坊の庭には、1300年前の塔(高さ25米位)の心礎がある。
【写真左】最初の急坂を過ぎたころに見える平坦地
おそらくこの地が、当寺が最初に建立されていた場所と思われる。
要害城山(海抜281m)は、尼子時代に福山源五郎が拠った古城跡である。
山頂からは、脚下に米子市街地、目前に出雲富士、遠くには中海と日本海、弓ヶ浜半島と島根半島を望み、眺望佳絶である。
登山道の各所には、88個の地蔵があり、数えながら登るのも一興である。
安田公民館”
【写真左】登城途中の小郭
登城途中には、こうした小規模な郭が点在しているが、ほとんど保全されていないため、分かりにくい。
【写真左】郭
本丸まではこうした尾根伝いのアップダウンが数回ある。この郭は割と規模が大きいようだ。
【写真左】本丸下の削平地
簡易便所が設置されている付近は、平坦な仕上がりになっているが、雰囲気からして近年重機のようなもので改変された可能性が高い。
【写真左】本丸に向かう坂道
草丈が伸びていて判断はできないが、ワダチの痕跡がある。これは明らかに重機による仕上げだ。
この段階で、だんだんと興ざめしてくる。
【写真左】本丸跡
登山者の休憩場所を確保するためだろうが、ほとんど公園化をはかっているような施工跡である。
この場所に立った段階で、遺構の探索は断念し、眺望を堪能することにした。
【写真左】本丸跡に立つトミー嬢
「草が伸びすぎて周りが見えない?」
【写真左】本丸跡から中海・弓ヶ浜半島・島根半島を見る
この場所なら澄んだ日には隠岐島も見えるだろう。
【写真左】本丸跡から東方を見る。
写真上部にはおそらく「大山」が見えるはずだが、この日は残念ながら雲にさえぎられていた。
●所在地 島根県安来市伯太町安田関要害山
●登城日 2008年5月3日●築城期 不明(戦国期)
●築城主 安井光照
●城主 福山源五郎
●標高 281m
●備考 新山城・長台寺城
●遺構 郭、帯郭、土塁、堀切、陶磁器片出土
◆解説(参考文献「島根県遺跡データベース」等)
前稿「手間要害山」でも少し触れたが、当城は出雲(雲州)国と伯耆国との境に立つ山城である。訪れた日は、5月であったこともあり、山城探訪としては時宜を逸し、現地では雑草丈が相当伸び、明瞭な遺構写真はあまりとれなかった。しかし、本丸跡からみる眺めは良好で、戦国期当城をめぐって両国からのせめぎあい、毛利・尼子の戦いが彷彿とする城跡である。
主な登城ルートは、西麓側にある長台寺から登る道と、北側県道(101)から登るコース、それに南部町(鳥取県)側から登り、同じく南方の県境にそびえる母塚山(275m)からの縦走コースのルートなどがあるようだ。今回は島根県側の長台寺から登ることにした。
【写真左】長台寺入口付近
当城の資料については手元にないため、現地の説明板より転載する。
“安田要害山(標高281.2m)
この山は、出雲側では「安田要害」、伯耆側では「新山要害」と呼ばれている。
古代は祭祀の場であり、城ができるはるか以前から重要な見張り場所で、のろし揚げ場でもあったといわれる。
戦国期、尼子経久の家臣・安井光照が雲伯の国境警備のためにこの山頂に城砦を築いた。
その後、福山源五郎が城主のとき、尾高城主杉原盛重が率いる毛利勢に攻められ、攻防争奪を繰り返したが、ついに永禄8年(1565)3月落城した。
明治40年頃までには、ここに城主を祀る福山権現の祠があったが、現在は麓の長台寺境内に移されている。今なお焼米等が掘りだされることがあり、中国11州の太守・尼子氏滅亡の悲しい名残の地である。
平成元年3月 伯太町”
【写真左】長台寺にある「出雲札所案内図」
当寺は広瀬の19番札所観音寺の次に当たる第20番になっている。次番は名刹・清水寺である。
【写真左】長台寺境内
この写真中央にみえる階段が安田要害山登城口になる。
なお、当寺の縁起と、当城の概要を示す説明板があるので、下段に転載しておく。
“長台寺と要害山の案内(由来)
福寿山長台寺は、今から1300年前行基菩薩によって開創され、本尊は行基の一刀三札の作千手観音像をまつり、もとはここより500m奥の坊床に寺があったが、白鳳9年の大洪水により流失し、今のところに安置された。
9世紀には、聖武天皇の勅願により寺院建立になり隆昌を極めて、その後度々興廃があった。
徳川時代になって母里藩主松平直員により再現され(直員の額現存)鬼門除け・長寿祈願道場として寺領を付与された。現在は比叡山延暦寺末である(出雲札所20番)。
本坊の庭には、1300年前の塔(高さ25米位)の心礎がある。
【写真左】最初の急坂を過ぎたころに見える平坦地
おそらくこの地が、当寺が最初に建立されていた場所と思われる。
要害城山(海抜281m)は、尼子時代に福山源五郎が拠った古城跡である。
山頂からは、脚下に米子市街地、目前に出雲富士、遠くには中海と日本海、弓ヶ浜半島と島根半島を望み、眺望佳絶である。
登山道の各所には、88個の地蔵があり、数えながら登るのも一興である。
安田公民館”
【写真左】登城途中の小郭
登城途中には、こうした小規模な郭が点在しているが、ほとんど保全されていないため、分かりにくい。
【写真左】郭
本丸まではこうした尾根伝いのアップダウンが数回ある。この郭は割と規模が大きいようだ。
【写真左】本丸下の削平地
簡易便所が設置されている付近は、平坦な仕上がりになっているが、雰囲気からして近年重機のようなもので改変された可能性が高い。
【写真左】本丸に向かう坂道
草丈が伸びていて判断はできないが、ワダチの痕跡がある。これは明らかに重機による仕上げだ。
この段階で、だんだんと興ざめしてくる。
【写真左】本丸跡
登山者の休憩場所を確保するためだろうが、ほとんど公園化をはかっているような施工跡である。
この場所に立った段階で、遺構の探索は断念し、眺望を堪能することにした。
【写真左】本丸跡に立つトミー嬢
「草が伸びすぎて周りが見えない?」
【写真左】本丸跡から中海・弓ヶ浜半島・島根半島を見る
この場所なら澄んだ日には隠岐島も見えるだろう。
【写真左】本丸跡から東方を見る。
写真上部にはおそらく「大山」が見えるはずだが、この日は残念ながら雲にさえぎられていた。
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