2010年2月5日金曜日

宝石城(鳥取県米子市橋本)

宝石城跡(ほうせきじょうあと)

●所在地 鳥取県米子市橋本
●登城日 2009年12月1日
●築城者 行松氏
●別名 七尾城
●標高 70~100m前後か
●備考 阿陀萱(あびだ、又は、あだかや)神社鎮座

◆解説
 前稿「尾高城」の中で触れた行松(ゆきまつ)氏の支城といわれているが、詳細は不明である。


【写真左】宝石城遠望
 南西方向からみたもの










 最初に、当城の麓に祀られている阿陀萱神社の縁起を参考までに示す。

“阿陀萱神社

 古事記(712年)によれば、大国主命は大勢の兄神様と一緒に八上姫へ求婚のため、因幡国への途次、因幡の白兎を助けた縁で結ばれ、出雲の直会(なおえ)で多岐喜姫(当社祭神)が生まれ給う、因幡国へ里帰りの途中、多岐喜姫は榎原郷橋本邑(むら)の榎の俣に指を挟まれ、此処にとどまり鎮守神として祭祀された歴史ある古社です。

 また、阿陀萱神社由緒書には、合祀の宗像神社祭神を天平6年(735)9月15日、安芸国厳島神社より勧請の記述あり。


【写真左】宝石城と大山
 手前左に見える山が、宝石城。中央奥に見える山が大山(だいせん)である。







 戦国時代は七尾城(当、宝石山山頂)の守護神として篤く崇敬され、大永年間(1521)行松源太兵衛城主、出雲富田城主尼子経久侯(1523)、米子城主吉川広家侯(1601)より寄付あり、依って神領地も多く、瑞光山清水寺地蔵院(安来市)が当社の別当を勤め、長らく祭祀厳重なり。

 神社創建の年代不詳なれど、古くより阿陀萱大明神と称し、榎原郷八ヶ邑(はっけむら)の鎮守神であったが、現在は榎原、吉谷、古市、橋本の氏神様として祭祀継承されております。

主祭神 阿陀加夜奴志多岐喜比売命(父神大国主命、母神八上姫命)

祭神  宗像大社祭神(市杵島姫命、田心姫命湍津姫命)
     大山祗命(山を司る神、八重垣姫の祖父神)
     素戔鳴命(熊野大社祭神)
     誉田別命(八幡宮祭神)
     武内宿禰命(因幡国一宮、宇倍神社祭神)
     八ツ耳命(神武天皇の皇子)
     宇迦之御魂命(稲荷大社祭神)”
【写真左】阿陀萱神社
 宝石城の西麓にある神社で、縁起にもあるように非常に歴史を感じさせる雰囲気を持っている。
 
 余談ながら、当社本殿前の灯篭は、非常に珍しいデザインで、龍が巻きつき、刀などが彫刻されている。八岐大蛇伝説にちなんだものかもしれない。




 さて、行松氏の本城は、前稿で取り上げた尾高城(鳥取県米子市尾高)である。この尾高城から西南に向い、日野川を渡り、支流法勝寺川を2キロほどさかのぼると、西1キロに小高い宝石山がみえる。山城としては支城であることから、小規模な方だが、出雲国との境界でもあったことから、位置的には重要な城だったと思われる。

 この山に城を築いたのは、おそらく行松氏が下向した鎌倉期までさかのぼるかも知ない。
 同氏が初期に治めていた地域は、伯耆国の西部が中心で、東部は度々紹介した南条氏(羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石)参照)が扶植していた。もっとも両氏とも、その武威を誇れたのは、守護として君臨した山名氏の存在があったからである。

【写真左】鳥居前に鎮座している大岩
 伝承では、空から降ってきた岩といわれており、「いん石」とのこと。これが本当なら、日本で最大級のものとなるのだが…

 「宝石」という珍しい名称を冠した山城であるが、おそらくその語源は、この大岩から名づけられたものと思われる。 ちなみに、近隣では松江市美保関町に10数年前、本物のいん石が落ち、現在同町で保管されている。



 永正年間になると、尼子氏が次第に伯耆国へ侵攻し始め、行松氏は本城尾高城を追われる。このとき宝石城も同時に手放したと思われる。

 その後毛利氏の台頭が山陰に起きると、永禄年間に再び尾高城を手に入れる。しかし、このころから杉原氏(神辺城(広島県福山市神辺町大字川北)参照)が行松氏の所領を取りはじめ、同氏は次第に弱体化していく。そして、毛利氏配下であったため、関ヶ原の戦で没落していく。

【写真左】宝石城登城口と思われる道
 この日、忠犬?トミー嬢が珍しく同伴登城を拒み、かなり粘ったが、どうしても厭だというので、登城は断念した。おそらくイノシシやタヌキの匂いが相当漂っていたのだろう。

 遠望から判断しても、頂上付近は相当ブッシュ状態かもしれない。
 なお、当城の標高はさほど高くないようで、おそらく70~100m前後だろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿