2018年3月10日土曜日

高八山城(広島県三次市三和町上壱)

高八山城(たかはちやまじょう)

●所在地 広島県三次市三和町上壱
●別名 山光寺山城
●指定 三次市指定史跡
●高さ H:430m(比高80m)
●築城期 不明(永正年間 1504~21年ごろか)
●築城者 上山氏
●城主 上山加賀守実広
●遺構 郭・井戸・堀切等
●登城日 2015年11月28日

◆解説(参考文献 『日本城郭体系 第13巻』、HP『城郭放浪記』等)
 広島県の呉市を起点とし、北に向かって三次市に向かう国道375号線は、管理人がよく利用していた道路で、近年尾道道ができたことにより最近はあまり利用していないが、高八山城はその375号線沿いの東側に築かれた連郭式の山城である。
【写真左】高八山城遠望
 西麓を走る国道375号線を挟んで西側に建立されている了安寺から見たもの。

 当城の尾根伝いを南に進むと、最初に築こうとしていた城山城がある。



現地の説明板より

“高八山城址
 この山城は、もと南側の城山にあったが、水の便が悪いため下手の山(山光寺山)に移ったと伝えられている。
 築城の時期は、永正年間(1504~1530(ママ))には築かれていたものと思われ、実戦的な山城である。城主上山氏は、大江流の長井氏の一族が上山郷の地頭職に補され上山氏を名乗ったものという。
 はじめは山内氏に属していたが、永正年間以前より毛利氏に属し、掃部助広信は、天文13年備後布野の合戦で討死している。城主上山元忠の備中高松における奮戦後、天正19年毛利氏に従って広島に移り廃城となる。
   三和町教育委員会”
【写真左】高八山城鳥瞰図
 現地に設置されていたものだが、大分劣化していたため、管理人によって加筆修正を加えている。
 当城はご覧の通り単純な連郭式山城で、規模もさほど大きくはない。


長井氏(ながいし)

 高八山城の城主上山氏(うえのやまし)は、大江広元の孫で備後国守護を務めた長井泰重の弟泰経から出ている。従って、毛利元就を輩出した安芸毛利氏の始祖・毛利時親の曽祖父が大江広元であるので、長井氏(上山氏)も同族になる(吉田郡山城・その1(広島県安芸高田市吉田町吉田)参照)。

 大江広元は元々朝廷につかえる官吏だったが、後に鎌倉幕府が開かれると幕府政所初代別当を務め、頼朝を補佐した。広元の正室は多田仁綱(源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)参照)の娘といわれている。
【写真左】登城口付近
 国道375号線から狭い農道を東に進むと、ご覧の「高八山城」と書かれた標柱が立っている。
 車1台分のスペースが確保されているので、ここに停める。


 広元の子には、長子として親広がおり、その実弟とされるのが長井時広である。兄の親広は承久の乱において倒幕方すなわち、後鳥羽上皇に与したため失脚、このため弟時宏が大江氏の惣領となった。

 時宏が大江姓から長井姓に変えたのは、出羽国置賜郡の長井荘を所領としたことから、在地名である長井氏を名乗っている。因みに、出羽国置賜郡の長井荘とは、現在の山形県置賜郡を中心とした場所であるが、近接の米沢市に所在し、のちの伊達政宗が深くかかわることになる出羽・米沢城は、大江時宏が暦仁元年(1238)に築いたといわれる。
【写真左】ここから登る。
 谷に沿って南に向かうと、途中で小さな五輪塔が一基建立されている。さらに進むと正面に砂防ダムが見えてくる。
 この手前に説明板や案内図などが設置されており、その脇の登り坂が入口となる。


 さて、この時広の子に泰秀、泰重がおり、その弟達の一人に泰経がいたとされる。

 時宏の次男・泰重が備後国守護に補任された時期ははっきりしないが、元々六波羅探題の評定衆を務め、建長4年(1252)周防国守護を皮切りに、備前国および、父時広の代から守護職として補任されていた備後国も受け継いでいるので、建長4年をすこし下った時期だろう。そして、備後守護職となった泰重は、弟泰経には高八山城を中心とするこの飯田川流域一帯を地頭職として統治するよう命じたものと思われる。
【写真左】登城道
 左わきには、上掲した鳥瞰図及び、搦手入口  九十九折の道(幾重にも曲がりくねった道)140mと書かれた説明板が建っている。

 従って、大手道は西側、すなわち国道375号線側にあったものだろう。




上山氏(うえのやまし)

 泰経は当地(上山郷)に下向した段階で、長井氏から上山氏を名乗ったものと思われるが、所領範囲は下向したころから殆ど変らず、室町期に至ると当時の備後守護職であった山名俊豊から西隣を本拠としていた毛利弘元(多治比・猿掛城(広島県安芸高田市吉田町多治比)参照)は、明応2年(1493)、伊多岐(三和町上板木・下板木・羽出庭)・則光壱分(三和町上壱)・黒河郷・津田郷・重永領家・小国等(世羅郡世羅西町)の安堵を受け、その3年後の明応6年にも敷名郷(三和町敷名)伊多岐などを山名氏から与えられている。
【写真左】三の丸・その1
 登城道は三の丸に繋がれており、この下には北の丸がある。
 北の丸及び、その下に堀切があるようだが、現地は整備されておらず踏査していない(下段の写真参照)。
 


 これらの版図は、上山氏領地(上山郷)をほぼ囲むもので、毛利弘元がこのころ伸張著しいものがあったことを示す。
 こうしたことから永正年間(1504~1520)になると、時の城主上山加賀守実広は、吉原次良五郎通親・敷名左馬助亮秀らと共に、毛利興元(弘元の子で、元就の兄)との間で、お互いに協力することを申し合わせ毛利氏に従った。
【写真左】三の丸・その2
 かなり古い説明板が設置されている。









 ところで、上山氏が毛利氏に属する前は、山内氏の臣下にあったという。この山内氏とは以前紹介した甲山城(広島県庄原市山内町本郷)の山内首藤氏のことで、山内通資が蔀山城(広島県庄原市高野町新市)から、地毘庄の甲山城に移った文和4年(1355)をあまり下らない時期に従属していたものと思われる。

 さて、享禄5年・天文元年(1532)、毛利家総帥となった元就から上山氏は改めて領地を与えられた。これはおそらく同年7月13日、福原広俊以下32名の家臣が、元就に対して3か条の起請文を提出しているが、これと関わるものだろう。
【写真左】土塁
 三の丸の北端部に残るもので、幅0.5m前後、高さ0.5mと小規模なものだが、当時はもう少し大きな規模のものだったのだろう。
【写真左】下の段を見る。
 三の丸の北側には北の丸が控え、その奥には堀切があるようだが、ご覧の状況で確認できない。



 
 32名の中に上山氏の名があるのか分からないが、家臣夫々が所領する領地の管理・維持や、不良債権の担保、被官人・下人などの罪科について、互いに相談することなどが記されている。

 毛利氏が上山氏を福原・坂氏などのように同族(一族)として見ていたのか、それとも粟屋・赤川氏のような譜代家臣として位置づけしていたのかはっきりしないが、いずれにしてもこの年(享禄5年)は、元就が「毛利家中」を曲がりなりにも最初に確立しようとした時期である。なお、この段階では「井上衆誅伐事件」は起きておらず、天文19年まで待たなければならない(阿賀城(広島県安芸高田市八千代町下根)参照)。
【写真左】井戸
 三の丸の南隅に配置されているもので、大分埋まっているが、現在でも水が少し溜っている。

【写真左】表道
 三の丸の南西隅には「表道」と表示された看板がある。いわゆる大手道だったところだが、奥の方は整備されておらず、現在ではあまり使用されていないようだ。



 ところで、説明板にもあるように、上山掃部助広信は、天文13年備後布野の合戦で討死している。
 布野の合戦とは、狐城と千人塚(広島県三次市布野町下布野)でも紹介しているように、天文12年(1543)大内氏が月山富田城攻めで敗北を喫した後、尼子晴久がこの機を狙って逆に備後に打って出た戦いの一つで、別名「布野崩れ」ともいわれた戦いである。この合戦において、上山実広の子広信は討死している。
【写真左】石垣
 三の丸の脇道から二の丸方面に向かう途中に見えたもので、二の丸の切崖の一部として積まれたものだろう。
 なお、帰宅してから分かったのだが、二の丸の写真がなかったことから、おそらく二の丸の方は整備されていなかったため、踏査していないと思われる。
【写真左】本丸
 本丸の北端部は余り整備されていないが、南側は歩きやすくなっている。先に向かっていた連れ合いが、西側にも道を見つけた。恐らく大手道のルートで、連れ合いが立っている箇所は虎口だろう。
【写真左】本丸から西麓を俯瞰する。
 南北に走る国道375号線が見え、その奥には下段で紹介する了安寺が見える。
 この写真では、右に行くと三次市内へ、左に行くと、東広島市へ繋がる。
【写真左】土壇
 本丸の南端部には土壇が控え、一部石積が確認できる。この頂部が当城の最高所となり、物見台として使われたのだろう。
 なお、この土壇の一角には竪堀のような遺構が見えたが、崩落した跡にも見える。
【写真左】堀切
 土壇の上から南側の切崖を見下ろすと、堀切が確認できる。かなり急傾斜で深く、下まで降りていないが、南から続いてきた尾根を完全に遮断するのもので、当城の遺構の中では最大のもの。
【写真左】了安寺から高八山城を望む。
 冒頭でも紹介したように、当城の西麓には浄土真宗本願寺派の了安寺がある。
 当院には縁起などを示すものはなかったため、詳細は不明だが、上山氏が当地を支配していたころ、なんらかの関わりがあったものと思われる。

2018年3月1日木曜日

足助城(愛知県豊田市足助町 真弓山)

足助城(あすけじょう)

●所在地 愛知県豊田市足助町 真弓山
●別名 真弓山城、松山城
●高さ 301m(比高170m)
●築城期 室町時代
●築城者 鈴木氏
●城主 鈴木氏
●遺構 郭・堀切・井戸・高櫓・厩等
●登城日 2015年10月25日

◆解説
 足助城は三河国に所在する城郭である。同国の城郭を紹介するのは足助城が初めてである。当城については、2007年に登城した美濃の苗木城跡・岐阜県中津川市苗木を探訪した折、その存在を知ったのだが、その経緯についてはほとんど記憶がない。ただ、「足助」という変わった名前だけは脳裏に残っていた。
【写真左】足助城
 ご覧のように城跡公園として大変綺麗に整備され、散策しやすくなっている。








現地の説明板より

“足助城
 足助城は、標高301mの真弓山の山頂を本丸として、四方に張り出した尾根を利用した、連郭式の山城です。
 真弓山は、足助の町並みを眼下に見下ろす要害の地です。

 足助城は、「真弓山城」とも呼びますが、「松山城」「足助松山の城」とも呼んだようです。鎌倉時代に足助氏が居城したという、「足助七屋敷(足助七城)」の一つとも伝えられますが、今回の発掘調査では、この時代の遺物は発見されず、現在残された遺構は、15世紀以降に鈴木氏が築城した跡と考えられます。
 なお、足助城は、元亀2年(1571)武田信玄に攻略され、天正元年(1573)まで、武田方の城代が在番しました。”
【写真左】縄張図
 現地に設置されているものだが、一般的な縄張図の描き方とは少し違って、デフォルメされた図である。

 中央部に本丸があり、その左に西ノ丸、右下に南の丸が図示されている。斜線で区画された箇所が城域だが、公園として整備されているのは中央の点線で囲った箇所になる。
【写真左】本丸・南の丸・西の丸配置図
 上記の縄張図では分かりにくいため、本丸など主要な箇所のみを示した要図が設置されていたので、併せて掲載しておく。

足助街道

 足助は古来より「塩の道」として有名な三州街道の宿場町・足助宿として栄えた。

 江戸期の足助街道の始点は、岡崎城下を走る東海道の能見口(能見町)から枝分かれする地点で、最初に5キロほど北上する県道56号線を進み、そのまま県道39号線となっていくルートがほぼ当時の足助街道と重なる。
【左図】足助城・飯盛山城を中心とした支城と当時の街道を示した図
 現地に設置されていたもので、文字などが擦れていたため、管理人によって修正を加えたもの。


 途中から矢作川の支流巴川と並行して北東方向に進み、足助の手前で西から伸びる飯田街道(国道153号線)と合流し、足助街道はここで終点となるが、そのまま飯田街道を上っていくと、信州に入り(三州街道)、伊那の飯田に繋がる。
【写真左】公園入口
 手前に駐車場があり、そこから坂を登っていくと左側に事務所があり、そこで入場料を払って入る。







足助氏鈴木氏

 足助城の築城者及び城主は下段の説明板にもあるように、鈴木氏といわれている。鈴木氏が当地を支配する前に居たとされるのが、平安時代末期に足助城の隣にあった飯盛山城を本拠とした足助氏である。

 足助城を訪れた際、飯盛山城にも登城しようと試みたが、この日は近くにある景勝地・香嵐渓(こうらんけい)に多くの観光客が訪れていたため、駐車場の確保が困難であったことから断念した。

 前述したように、足助氏は飯盛山城を居城とし、その周辺に6ヶ所の支城を配置している(上図参照)。この支城の一つが本稿の足助城(真弓山城)である。因みに、他の5ヵ所は、臼木ヶ峯城、大観音城、城山城、成瀬城、黍生城で、本城・飯盛山城と併せて、「足助七城」と呼ばれた(上図参照)。
【写真左】南の丸を見上げる。
 登城コースは、南の丸の下から西に向かうようになっている。南の丸の切崖はかなり険しく、崩落したのだろう斜面が改修されている。

 なお、この南の丸から下に繋がる尾根筋には、腰郭が2段構成されている。



“鈴木氏

 鈴木氏は、戦国時代に西三河山間部に勢力をもっていた一族です。そのうち、足助の鈴木氏は、忠親→重政→重直→信重→康重と5代続き、初代忠親は、15世紀後半の人といわれます。

 16世紀に入ると、岡崎の松平氏との間で従属離反を繰り返しますが、永禄7年(1564)以降は、松平氏のもとで、高天神城の戦いなどに武勲をあげます。そして、天正18年(1590)康重のとき、徳川家康の関東入国に従って、足助城を去りますが、間もなく家康から離れ、浪人となりました。

 なお、飯盛城の居館(現香積寺(こうじゃくじ)付近)なども、使用したと思われますが、よくわかりません。”
【写真左】井戸
 南の丸腰郭から西ノ丸へ向かう途中にあるもので、石積跡が残る。








  “発掘調査

 平成2年度から4年度まで、足助城の発掘調査を行いました。室町時代から戦国時代の山城の発掘調査は、全国的にも珍しいものです。

 山城は、戦いの時の砦とも考えられますが、足助城では、どの曲輪からも建物跡の柱穴がみられ、多くの日用雑貨や茶道具・文房具・白磁などの渡来品(輸入品)も出土したことから、生活の場であったともいえましょう。

 明確な建物跡がわかったのは、本丸・南の丸・北腰曲輪1・同2・西物見台で、いずれも、掘立柱の建物です。本丸腰曲輪3からは、建物の礎石が見つかっています。また、本丸と南物見台を結ぶ橋・井戸・堀切などもわかりました。”
【写真左】西の丸と、西ノ丸腰郭の分岐点
 右に上ると西ノ丸に直接つながるが、先ずそのまままっすぐ腰郭の方へ向かう。







“整備

 足助城は、400年の歳月を経て、再び姿をあらわしました。変転極まりない戦国時代を生きた足助城は、ふるさと足助の一つの姿です。

 足助町は、愛知のふるさとづくり事業、町制施行100周年記念事業として、足助城を再現しました。工事は発掘調査の結果をもとに、忠実い施工したものです。戦国時代の山城跡の本格的な復元は全国でも初めての試みです。足助城を通して戦国の世を生きた人々の心に、思いを寄せていただけることを願います。”
【写真左】西ノ丸腰郭1
 西ノ丸の下に構築された郭で、半円形のもの。
【写真左】西の丸を見上げる。
 西の丸腰郭1から見上げたもので、高低差は7~8m位か。
 このあと、西の丸に向かう。
【写真左】西の丸
 東西に長軸をとる形状で、15m前後の奥行がある。
【写真左】西の丸から西物見台と本丸を見上げる。
 西の丸の東側には茅葺の西物見台の建物が建っている。
 その右奥に本丸が見える。
 このあと、右側の通路を通って、先ず南の丸に向かい、その後本丸に向かう。
【写真左】南の丸へ向かう。
 西物見台から左手に本丸を見ながら、先ず南の丸へ向かう。
 奥に南の丸の建物が見える。
【写真左】南の丸・その1
【写真左】南の丸・その2
 南の丸には当時二つの建物が建っていたことが分かっている。

 具体的には厨(くりや)などがあるが、いずれも平時の生活が当城で営まれた可能性が高い。
【写真左】物見台
 南の丸と上にある本丸の中間点に設けられたもので、南の丸の段からは確認できない視界を、より高い位置にあるこの物見台で補完していたものだろう。
【写真左】本丸を遠望する。
 南の丸の東側に回り込むと、奥に本丸が見える。
【写真左】本丸に向かう。
 手前に橋が架けられているが、これは物見台に繋がる段の間に堀切があるためである。
【写真左】本丸
 本丸には櫓があったことが知られており、現地には復元された建物が建つ。
【写真左】本丸東面
 本丸の東側にも北郭1、2と二つの腰郭が配置されている。手前の階段を左に降りていくと北腰郭1に繋がり、その下には腰郭2がある。

【写真左】飯盛山城と足助の街並み
 足助城の西麓を流れる巴川は支流足助川と合流しているが、その東岸には飯盛山城が見える。
 また眼下には足助の街並みが見える。
【写真左】足助城遠望
 足助の街並みから見たもので、手前には巴川が流れる。

2018年2月4日日曜日

岐阜城(岐阜県岐阜市金華山)

岐阜城(ぎふじょう)

●所在地 岐阜県岐阜市金華山
●別名 稲葉山城、金華山城、井ノ口城
●高さ 336m(比高308m)
●築城期 建仁年間(1201~04)
●築城者 二階堂行政
●城主 二階堂行政、佐藤朝光、その他(下段参照)
●廃城年 慶長5年(1600)
●指定 国指定史跡
●遺構 郭・石垣・居館等
●登城日 2015年10月25日

◆解説
 切り立つ山の頂点に天守(模擬)を設け、眼下に広大な濃尾平野を俯瞰する岐阜城。改めて紹介する必要もないほどの有名な城郭であるが、管理人にとって長い間未登城のままだったこともあり、今回(2015年)やっとその念願がかなった。
【写真左】岐阜城遠望
 麓から見たもので、管理人のカメラはズームの能力に限界があるため、天守は豆粒ほどの大きさになっている。
 手前は織田信長像。



 岐阜城の歴史については、下段に示すように現地に詳しい内容が掲示されている。

現地の説明板・その1

“岐阜城の歴史(1) 二階堂行政~長井新左衛門尉

 13世紀のはじめ(建仁のころ)、鎌倉幕府の政所令(まんどころれい)二階堂行政が、ここに砦を構えたのが築城のはじめです。二階堂氏は鎌倉の二階堂に住み、氏を称えました。
 その一門は、関東から美濃・伊勢・薩摩などで豪族として栄えました。美濃の場合、関の新長谷寺(しんちょうこくじ)(吉田観音)を建てたのも二階堂氏です。

 その後、行政の子孫はここに居城し、姓を稲葉氏と改め稲葉山城といわれるようになりました。
 戦国時代の動乱の中で、土岐・斉藤氏の一族が稲葉氏の砦遺構を利用して、ふたたび城を築き、城下町もできました。大永5年(1525)、美濃国で内乱がおき、守護土岐氏と守護代斉藤氏の実権は、長井氏に移りました。稲葉山城も斉藤氏の一族が居城していましたが、長井氏に追放され、長井新左衛門尉の居城となりました。新左衛門尉は、斉藤道三のの父親といわれ、大永から享禄年間(1521~32)の史料に、名前がしばしばでてきます。”
【写真左】若武者の出迎え
 いつもの山城と違って、岐阜城ではこのように甲冑を身に付けた若武者が出迎えてくれた。

 10月の後半とはいうものの、この日は夏の様な陽射しで、特に冑を被った左の武将には、顔から滝のような大汗を掻きながらポーズをとっていただいた。ご苦労様です。





現地の説明板・その2

“岐阜城の歴史(2)  斉藤氏三代(道三・義龍・龍典)

 斉藤道三が、灯油売り商人として、京都から美濃国へ下り、守護土岐頼芸(よりなり)の知遇を得て、美濃一国を征服したことは、NHKの大河ドラマ「国盗り物語」などで有名です。
 しかし、最近発見された南近江の大名六角承禎(じょうてい)書状から、道三の前半生は父の長井新左衛門尉のことであり、後半生が道三の事績ということがわかりました。

 道三は稲葉山城を要害化し、山の西麓に居館を建て、百曲通(ひゃくまがりどおり)と七曲通(ななまがりどおり)に住人を集めて城下町をつくりました。
 また、御園・岩倉・中川原に市場を設けて、商取り引きを盛んにしました。
 天文23年(1554)、道三は突然隠退して家督を子の新九郎利尚(としひさ)(義龍(よしたつ))に譲りましたが、やがて父子の対立が生じ、弘治2年(1556)の戦いで討死しました。
【写真左】岐阜公園案内図
 岐阜城の東麓部には岐阜公園をはじめとする多くの史跡が点在している。
 この図では文字が小さいため分かりにくいが、左上に岐阜城があり、一般の観光客は東麓部にある金華山ロープウェーを使って向かう。

 因みに、このロープウェー乗場の近くには、現在発掘調査中の織田信長居館跡(後段参照)などがある。
 

 義龍は戦国大名として領国経営に力をそそぎましたが、道三死後、わずか6年で突然病死し、あとを幼い虎福丸(龍典)が継ぎました。
 しかし、斉藤氏の勢威は弱まり、織田信長の攻勢が盛んになる時に、永禄7年(1564)、家臣の竹中半兵衛重治らによって、稲葉山城が一時期占拠される事件がおきました。
 その後、竹中氏らは敗北し、稲葉山城は再び龍典の手に戻りましたが、この事件によって斉藤氏は一挙に衰退し、ついに永禄10年(1567)、稲葉山城は織田信長に攻略され、龍典は城を捨てて逃れました。

    岐阜市”
【写真左】山頂のロープウェー駅に着く
 本来ならば麓から足を使って登るべきだが、乗車中に見る稲葉山からの景色も見たかったので観光客と一緒にロープウェーに乗って着いた。

 写真は本丸に向かう最初の門だが、この駅の手前に硝煙蔵などがある。



歴代城主

 およそ400年という長い歴史を持つ城址であることから、当然歴代城主の数も多くなる。しかし他の城郭はそうした状況の場合、城主名が詳細に記録されているところは意外と少ない。この点岐阜城については、史料が余り消失することがなかったのか詳しく残っている。参考までに現在分かっている城主名を時系列で紹介しておきたい(参考 Wikipedia:等)。
【写真左】伝・一ノ門跡
 岐阜城の各出入口にはこうした巨石や石垣を使った門跡がある。手前の石は元々上に積まれていたようで、崩落してこの位置にあるようだ。




(1)二階堂氏・伊賀氏  (鎌倉~南北朝~室町初期)

 二階堂行政(二階堂氏祖)、伊賀朝光(二階堂行政の娘婿)、伊賀光宗(朝光次男)、稲葉光資(光宗弟)、二階堂行藤(二階堂行有の子)
【写真左】馬場跡
 現地にはご覧の様に敷石が張られ、歩きやすい通路のようになっているが、当時の馬場跡といわれている。
 規模 幅3間(5.4m)×長さ30間(54m)。一説では馬場でなく、矢場ともいわれる。



(2)美濃斉藤氏・家臣  (室町~戦国期)

 斉藤利永(稲葉山城再興)、斉藤妙椿(利永弟)、斉藤利藤(利永嫡男・妙椿養子)、斉藤利茂(利藤養子の息子)、長井新左衛門尉(長井長弘家臣:元京都妙覚寺僧)、斉藤道三(長井新左エ門城嫡男)、斉藤義龍(道三嫡男)、斉藤龍興(義龍嫡男)、安藤守就(龍興家臣)
【写真左】切通
 馬場跡を過ぎて進むと、途中で左手に尾根を断ち切った切通(堀切)が見える。
 写真左側が登ってきた一ノ門で、右に行くと次に紹介する二ノ門などが控える。



(3)織田氏及び豊臣家臣  (戦国期~安土桃山)

 織田信長織田信忠(信長嫡男)、斉藤利堯(斉藤道三の子・織田信忠家臣)、織田信孝(信長三男)、池田元助(池田恒興嫡男)、池田輝政(池田恒興次男)、豊臣秀勝(秀吉姉の子)、織田秀信(織田信忠嫡男)
【写真左】二ノ門
 この辺りから道は屈曲したラインとなり、二ノ門という虎口が出てくる。これを過ぎると、再び屈曲して「下台所」という郭段があり、そこから階段を登っていくと、「上台所」が控える。
 写真に見える白壁の塀は近代のもの。
【写真左】上台所へ向かう。
 この写真では見えてないが、中央の明るい箇所には天守が見えている。
【写真左】井戸跡
 台所(上台所)の脇から下に降りると、ご覧の井戸跡がある。
 井戸といってもこの付近の地形・地質から考えて、下に水源があるとは思えず、現地の説明板にもあるように、岩盤を四角形にくり抜いて造られ、雨水を貯めた貯水施設だったようだ。
【写真左】いよいよ天守が見えてきた。
【写真左】鷺山城及び黒野城を俯瞰する。
 坂道途中から左手に長良川を挟んで、北西方向には鷺山城と黒野城が確認できる。

 鷺山(さぎやま)城は、標高70m弱の丘城で、鎌倉時代に佐竹常陸介秀義が築城したといわれ、その後土岐氏が代々居城とし、戦国期に至り、土岐頼芸の重臣であった斉藤道三がのちに嫡男義龍と対立したとき、この城に拠った(下段の説明板参照)。

 黒野城は、秀吉の家臣加藤貞泰が築城し、家康の代までわずか16年間しか使用されなかった。
【写真左】天守
 鉄筋コンクリートによる3層4階建てで、昭和31年(1956)復元されている。
 斉藤氏や信長時代、どのようなものだったかわからないが、「天守」は池田輝政時代に改変されている。

 なお、岐阜城ではもう一つ「てんしゅ」と呼ばれていたところがある。それが麓の「天主」といわれたところで、信長時代の御殿跡を指す。下段の写真でも紹介しているように、現在も発掘調査が続けられている。
【写真左】二階堂行藤画像
 天守の中には岐阜城に関係した武将たちの資料などが展示されている。

現地説明板より

“二階堂氏
 鎌倉時代に入って、源頼朝い仕えて功績を挙げた二階堂山城守行政が、建仁年間(1201~1204)に稲葉山頂に砦を築いたとする説がある。ついでその子・佐藤伊賀守朝光、その二男・伊賀二郎左衛門光宗、光宗の弟・稲葉伊賀三郎左衛門尉光資まで代々居城したといい、正元の頃(13世紀半ば)に、二階堂行政の5代目に当たる二階堂出羽守行藤入道道雅が暫く居城したとされる(美濃明細記、美濃雑事記)。行藤の画像が関市の新長谷寺にある。” 

 なお、二階堂行藤は行有の子で、永仁元年(1293)に鎌倉幕府政所執事となり、正安3年(1301)出家し、同年東宮儲嗣問題解決のため、幕使として上洛している。


【写真左】斉藤妙椿
 
 現地説明板より

“斉藤妙椿(みようちん)
  応永18年(1411)~文明12年(1480)

 美濃守護代として、応仁文明の乱に守護土岐成頼在洛10年の間、その兵站の確保に努め隣境の諸強の侵入を許さず、よく留守役の大任を果たした。
 土岐氏は初め東軍細川氏に従ったが、後に西軍山名氏に味方した。東軍側に味方していた郡上郡大和村牧の東常縁の篠脇城を占領し、不破郡関ヶ原町今須の長江氏を滅ぼした。後日東常縁の和歌に感動して、篠脇城を東氏に返還した。文武両道をわきまえた立派な武将である。”

 斉藤妙椿は、文明3年(1471)に近江の太尾山城(滋賀県米原市米原)を攻略しているが、この戦も応仁・文明の乱の最中で、おそらく上掲の説明板にある不破郡関ヶ原町今須の長江氏を滅ぼした戦いと連動したものだったのだろう。 
【写真左】斉藤道三像

現地説明板より

“斉藤道三公
  生年不詳~弘治2年(1556)
 斉藤道三は下剋上大名の典型であり、僧侶から油商人を経てついに戦国大名にまで成りあがった人物だとされてきた。近年は古文書「六角承禎条書」によって、美濃の国盗りは道三一代のものではなく、父・長井新左衛門尉との二代にわたるものとする説が有力になっている。
 道三は、天文年間(1532~54)には稲葉山城の修築を行い入城したとされる。また、のちに娘・濃姫を嫁がせ織田信長と姻戚となった。天文23年(1554)、家督を子・義龍へ譲り、常在寺で剃髪入道を遂げて道三と号し、鷺山城に隠居した。
 弘治2年(1556)、長良川の戦いで子・龍興に敗北し戦死。その首塚が道三塚として今に残る。”


【写真左】織田信忠像

現地説明板より

“織田信忠
  弘治3年(1557)~天正10年(1582)
 元亀3年(1572)正月に弟の信雄・信孝とともに岐阜城で元服して勘九郎信重と名乗り、7月には信長に従って浅井攻めに初陣した。天正2年(1574)、信忠と改めた。翌3年11月、信長から正式に家督と尾張・美濃を与えられ、岐阜を居城とする。同5年10月には松永久秀討伐の功績により、従三位左中将に叙任。これ以後、順次信忠は信長に代わって軍団を指揮することが多くなり、同7年の荒木村重討伐や、同10年の甲斐遠征には一月足らずで武田氏を討伐するなど、その手腕が大いに発揮された。本能寺の変時には、寄宿先の妙覚寺から二条新御所に立て籠もるが、明智光秀軍の猛攻に遭って自刃した。享年26歳。”
【写真左】織田秀信所用烏帽子形兜
 織田秀信は、織田信忠の嫡男で、信長の孫に当たる。幼名は三法師。

 有名な清州会議で信長後継を巡って、秀吉が肩車している絵が知られているが、その秀吉の肩に乗った幼児が三法師、後の織田秀信である。
 関ヶ原の戦いでは西軍に属し、敗戦後岐阜13万石は没収され、高野山へ送られた。しかしほどなくして下山し、死因は不明だが、奇しくも父と同じ26歳の若さで亡くなっている。
 結果的には岐阜城最期の城主となった。
【写真左】石垣
 天守台を降りて、帰りはさらに南に延びる犬走りのような道を進んだが、その途中の右上にご覧の石垣が見える。

 元々この付近の地形は谷を形成していたが、この石垣で両側を護岸し通路を構成している。
 また、この近くにも貯水用の井戸が残っている。
【写真左】信長居館跡・その1
 ロープウェーで下山後、西麓にある信長居館跡に向かう。
 現在も発掘調査中のため、中に入ることは出来ないが、外から状況を確認できる。
【写真左】信長居館跡・その2
 今のところ、信長居館跡は、2か所に分散し、A地区では大規模な庭園が、B地区では
茶室などがあったとされている。
【写真左】信長以前の居館
 斉藤氏時代のものといわれ、下層から石積の穴と階段が確認されている。

 地面の上に炭層があることから、信長が稲葉山城(岐阜城)を攻略した際、火災があったことを示すものとされる。  



秀吉墨俣城

 ところで、歴代城主として最も有名なのは、上掲した説明板にもあるように、斉藤道三と織田信長であるが、信長が岐阜城を落城させ、入城したのは、永禄10年(1567)8月15日といわれる。
【写真左】岐阜城から墨俣城方面を見る。
 右に見える長良川を下っていくと、次第に左にカーブし、大垣市の飛地の一つ墨俣町が西岸と接し、その北東端では犀川が合流する。

 墨俣城はちょうどその合流地点に築かれた平城である。
 伝承では秀吉が一夜で築いたといわれ、通称「墨俣一夜城」とも呼ばれている。


 
 入城に至るまでの経緯は他の資料などにも多く書かれているので詳細は省くが、岐阜城攻略の下準備をつくったのは信長の命を受けた木下秀吉(秀吉)である。永禄9年(1566)9月24日、斉藤龍興を落とすため、秀吉は同国(美濃)墨俣に城を築き、龍興を破った。

 この墨俣城というのは、岐阜城の麓を流れ長良川を凡そ12キロほど下った大垣市墨俣町墨俣にあった城で、現在その位置に墨俣一夜城歴史資料館という模擬天守が建っている。