2011年11月12日土曜日

田尾城(徳島県三好市山城町岩戸)

田尾城(たおじょう)

●所在地 徳島県三好市山城町岩戸●別名 多尾城、白地山城
●築城期 久安6年(1150)ごろ、または南北朝期(興国元年ごろ)
●高さ 標高500m(比高300m)
●指定 三好市市指定史跡
●築城者 脇屋義助・小笠原頼清
●城主 近藤(大西)京帝、大西覚用・頼信等
●遺構 郭・堀・土塁等
●登城日 2011年11月9日

◆解説(参考文献『城郭放浪記』等)
 前稿川之江城(愛媛県四国中央市川之江町大門字城山)で少し触れたように、南北朝期南朝方新田義貞の弟・脇屋義助が関わった山城である。
【写真左】田尾城遠望
 西側からみたもので、左(北)に向かうと吉野川の支流・銅山川につながる。







 川之江城から当城に向かうルートとして考えられるのは、国道11号線から国道192号線(阿波街道)にいったん入り、県道5号線(川之江大豊線)に向かい、「堀切トンネル」をくぐって、銅山川水系の新宮ダム付近に出て、そこから同川と並行して走る国道319号線を下り、三好市の山城町黒川まで来ると当城の麓にたどり着く。

 おそらくこのルートは南北朝期の河野氏細川氏の争い、また戦国期には、長宗我部氏の四国制覇の際度々利用された経路と考えられ、阿波国と伊予国の境目でもあったことから、時の支配者にとっては最も重要な経路だったと考えられる。
【写真左】田尾城配置図
 現地(山城町)の黒川谷川付近に設置された「グリーンツーリズム体感マップ」という地図に示されている。
 この図では左側が北を示す。
 管理人が登城したこの日は、引地というところから登り、登城後反対側の「現在地(黒川)」へ降りた。


 ただ、引地というところからは向かうコースは、とんでもなく急坂・急カーブ、そして道が狭く、運転に未熟な人にはお勧めできない。ほとんどガードレールがない道で、一つ間違うと谷底へ車ごと落ちてしまうスリル満点?のコースである。



 ちなみに、前述した愛媛県側の「堀切トンネル」が開通する前は、江戸時代初期、土佐藩が参勤交代の際、西方にある「堀切峠」を使っていたといわれている。

 現在では、徳島自動車道を使って、井川池田ICから国道32号線を南下し、そこから319号線に入れば短時間でたどり着ける。
【写真左】長宗我部元親の指揮所跡
 田尾城登城口と反対側に建立された場所で、写真中央に石碑が祀られている。


この場所は田尾城の現在の登城口と近接しており、違和感を感じるが、当時の田尾城の大手門登城口は別のところにあったようだ。



現地の説明版より

“山城町指定 田尾城址


 田尾城は中世の山城で、南城と北城がある。南北朝時代の山城の特色は、石垣のない空堀で、城の配置にも特色がある。
 当時は北城が正面・戦国時代南城が改修され正面に変わる。


戦史
1、南北朝時代
 平地より侵攻してきた北朝方の細川頼春に対し、池田城小笠原義盛は、南朝方に味方して西暦1337年、挙兵し戦ったが戦い利あらず和を結んだ。長男頼清は、節を曲げず、讃岐に侵攻してきた南朝方の山岳武士集団の脇屋義助と呼応して、田尾城を築き、八石城と連携した阿波山岳武士の拠点である。
【写真左】田尾城登城口付近
 駐車場は、この手前3,40m付近に確保されていて、そこから歩いていく。

 写真右側に設置されているものが、転載している説明版で、平成15年に整備されたようだ。




2、戦国時代
 土佐の長宗我部元親は、四国制覇の野望を抱き、約三千の兵を従え、天正5年春1578年侵攻してきた。白地城大西覚用は、砦の田尾城を改修し、弟頼信13歳を城主とし、守将の寺野源左衛門武次に兵300を与え、猛反撃を繰り返したので、力攻めでは落とせないと見た元親は、夜陰に乗じ山に火を放った。火攻めにあい落城したので、白米伝説がある。


備考  
 1150年 近藤京帝 白地城を築く 大西と改姓
 1221年 小笠原長清 池田大西城築く
      勝瑞城に移り三好と改姓


   平成15年8月31日
     山城町教育委員会”
【写真左】登城道
 全体に傾斜のある直進の坂道だが、簡易舗装など大変に整備が行き届いており、歩きやすい。
 ただ、この箇所の道は当時のものでなく、近年新たに作られた道のようだ。





脇屋義助

 説明板にある池田城の小笠原義盛が、北朝方の細川頼春と和議を結んだ西暦1337年とは、延元2年(建武4年)のことである。

 金ヶ崎城(福井県敦賀市金ヶ崎町)でも紹介したように、この年正月、高師泰が越前国金ケ崎城を攻撃し、3月6日、当城は陥落し、恒良親王は捉えられ、新田義貞の長男・義顕は自害する。

 脇屋義助は兄・新田義貞とともに、越前国でその後も戦うが、翌延元3年(1338)に義貞が戦死すると、兄に代わって同国の宮方総大将として戦うことになる。しかし、戦況は次第に不利となり、越前国から退いた。
【写真左】虎落(もがり)のサンプル
 登城途中にはこうした戦の際使用されたサンプルを設置している箇所がある。





 義助が中四国の南朝方の総大将として西国にやってきたのは、病死する康永元年(興国3年:1342)とされている。したがって、田尾城を築いたのはこの年ということになるが、この年以前にはすでに当地に赴いていた可能性が高い。

 というのも、脇屋義助が関わった城砦としては、この田尾城の他に、説明版にもあるように三好市の東方井川町井内にある「八石城(H780m)」や、東みよし町東山の「東山城(H401m)」は、脇屋義助が山岳武士の拠点としたところで、これら複数の城砦を短期間に築城することは、現実的には無理があるからである。

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【写真左】堀切
 堀切の箇所で、両側に石積を行い橋をかけているが、これは田尾城の歴史から考えると、ありえない。


 また、この箇所からさらに上に行くと、途中に近世城郭の「狭間」などが設置されているが、これもあり得ない。



戦国期

 戦国期においては説明版にもあるように、長宗我部元親の侵攻が記録されている。当時、この地域一帯は大西氏が支配していたが、阿波細川氏から実権を奪取した三好氏に服属していった。こうした中、土佐の長宗我部氏が四国支配の最重要拠点として、伊予街道と徳島街道の合流点にあたる位置に築かれた白地城(白地・大西城・その1(徳島県三好市池田町白地)参照)を攻略した。天正4年(1576)のことである。

 そして、翌天正5年、白地城の支城であった田尾城を攻め落とすことになる。

 なお、説明版に天正5年春1578年とあるが、天正5年は1577年である。
【写真左】本丸跡・その1
 登城道を直進していくと本丸にたどり着く。
ほぼ円形の形を成している。規模は下記の通り。
南北21m、東西18m。
土塁 高さ 1~1.6m、幅 3~4m
本丸北側には、毛抜堀、片薬研堀、畝堀、竪堀があり、搦め手となっていた。



大西覚用

 大西覚養、または角養とも記す。
 大西氏は、説明板には書かれていないが、鎌倉時代京都から荘官として派遣されていた近藤氏が当地に土着し、大西氏と改姓したことに始まる。そして小笠原氏とは緊密な関係を保ち、南北朝時代には南朝方として戦った。(白地・大西城・その1(徳島県三好市池田町白地)参照)

 しかし、小笠原氏と一旦、袂を分かつきっかけとなったのが、説明板にもあるように、小笠原義盛が細川方と和議を結んだことからである。しかし、のちに小笠原氏はこの場所から東方に移住し、三好氏と改姓していく。戦国期に至ると、覚用の父・頼武は三好長慶の妹を娶り、息子の覚用自身も三好家の女を娶っている。

 三好氏は長慶の時代になって、本国阿波から畿内に上り一時は畿内を制圧するほどの勢力を誇った。ただ、阿波国西部における三好氏の支配が弱くなり、大西氏に限定されたことが、のちには長宗我部氏の台頭を誘引したともいえる。
【写真左】本丸跡・その2
 本丸から北側に進もうとしたが、整備されておらず、写真に撮っていないが、毛抜堀は確認できた。
【写真左】天神社殿
 本丸奥の中央部に祀られている。


 なお、この場所では時々地元の方々によっていろいろなイベントが行われているようだ。
【写真左】土塁
 全周囲にわたって土塁が張り巡らされている。
 保存状態は良好である。
【写真左】田尾城付近から北麓を見下ろす。
 改めてこの位置から眺めると、田尾城の険峻さに驚く。
【写真左】田尾城遠望・その2
 下山途中から田尾城を遠望する。


【写真左】下山した黒川谷川付近から上流部を見上げる。
 写真右下の道(黒川林道)を登っていくと、愛媛県との県境にある「塩塚高原」につながる。

2011年11月11日金曜日

川之江城(愛媛県四国中央市川之江町大門字城山)

川之江城(かわのえじょう)

●所在地 愛媛県四国中央市川之江町大門字城山
●高さ 標高62m
●別名 仏殿城・河江城・土肥城
●築城期 暦応元年(延元3年:1338)
●築城者 河野通政・土居義昌
●城主 妻鳥采女・光家、河上安勝
●形態 平山城
●遺構 郭・石垣等
●指定 四国中央市指定史跡
●登城日 2008年3月8日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第16巻』)
 川之江城は、愛媛県の東方四国中央市東端部にある城砦である。川之江城は別名仏殿(ぶつでん)城といわれている。

現地の説明板より

“川之江城史

 南北朝動乱の頃(約650年前)南朝方河野氏の砦として、土肥義昌が延元2年(1337)鷲尾山(城山)に川之江城を築いた。 興国3年(1342)北朝方細川頼春が讃岐より7千の兵を率いて攻めてきた。 義昌は出城の畠山城主由良吉里と共に防戦したが破れ、城を落ち延びて各地を転戦した末、武蔵国矢口の湊で戦死している。

 細川氏の領有後、河野氏に返され城主は妻鳥友春になった。元亀3年(1572)阿波の三好長治が攻めに入ったが撃退している。 

 土佐の長宗我部氏の四国平定の力に抗しきれなかった友春は、河野氏に背いて長宗我部氏に通じた。怒った河野氏は河上但馬守安勝に命じて城を攻めとらせた。天正7年(1579)前後のことと思われる。河上但馬守は轟城の大西備中守と戦い、討たれたという話も残っているが、天正10年(1582)長宗我部氏の再度の攻撃に破れ、戦死落城している。そのとき、姫ヶ嶽より年姫が飛込んで自殺したという悲話伝説も残っている。

 天正13年(1585)豊臣秀吉の四国平定に破れ、小早川、福島、池田、小川と目まぐるしく領主が替わり、加藤嘉明のとき最終的に廃城になった。数々の攻防は川之江城が地理的に重要な位置にあったための悲劇ともいえる。

 戦国の世も終わった寛永13年(1636)一柳直家が川之江藩28,600石の領主になり、城山に城を築こうとしたが、寛永19年(1642)病没、領地は没収されて幕領となり明治に至ったため、わずか6年の「うたかたの川之江藩」で終わった。”
【写真左】川之江城模擬天守・その1
 1984年ごろから川之江市制施行30周年記念事業の一環として城山公園整備事業が開始され、本丸跡に天守・涼櫓・櫓門・隅櫓などが設置された。

 鉄筋コンクリート製の建物で模擬天守であるが、眺望はまずまずである。



 形態としては平山城としているが、築城期とされる南北朝初期は、恐らく現在の東麓部(川之江駅周辺)も遠浅の海であり、当城は海城の形態をもったものだったと思われる。

 また、川之江城から南に金生川まで伸びた低丘陵部も、当時川之江城の出城のような役割をしていたものと思われる。
【写真左】模擬天守・その2













土肥義昌

 川之江は伊予国東部に当たるが、この地も鎌倉期にあって河野氏の領地とされている。ただ東・南方の讃岐・土佐と接する境目でもあったことから、特に讃岐国を治めていた細川氏からの侵略を防ぐため、暦応元年(延元3年:1338)、河野通政が家臣であった土肥義昌に鷲尾山といわれたこの山に仏殿城(川之江城)を築くよう命じた。

 築城して間もない康永元年(1342)7月、脇屋義助脇屋義助廟堂(愛媛県今治市国分4丁目)参照)、すなわち新田義貞の弟は、朝廷側(南朝方)の調整役として当地に赴任してきたが、突然死去した。
【写真左】本丸跡北端部から瀬戸内方面を見る。
 写真にあるように城下北西部の麓には工場などが建っているが、当時は海(燧灘)だったことから、この周囲に多くの軍船が係留されていたと思われる。



 これを知った足利方(北朝方)の細川頼春は、その機に乗じて伊予・讃岐・阿波・淡路から7千余騎を率いて攻撃を開始した。

 最初の攻撃目標とされたのが、この仏殿城(川之江城)であった。城主・土肥義昌の軍勢はわずか数百のため、金谷経氏らの水軍の援助があったものの、10日余りの末落城したという。

 その後、細川氏が伊予を引き上げたため、再び河野氏の支配になった。以後、当城は河野氏と細川氏によって度々争奪戦を繰り返して戦国期に至る。
【写真左】城山公園観光案内図
 斜めから撮ったため見難いが、東から三の丸、二の丸、本丸と続く。









戦国期

 戦国期の城主としては、妻鳥采女うねめ)が記録されている。城主になった経緯は不明であるが、現在同市寒川町に妻鳥という地名が残っていることから、おそらく采女は当地の出身と思われる。

 元亀3年(1572)、宇摩の細野城主薦田大和守が攻撃したが、これを防いだ。このころ、城主・妻鳥采女は、西方の新居郡の金子山城(愛媛県新居浜市滝の宮町)の城主・金子備後守元宅(もといえ)とともに、それまで河野氏に属していたが、長宗我部元親の懐柔策によって河野氏を離れ、長宗我部に与した。

 その後、阿波国の三好長治による攻撃を受け、天正2年(1574)には、当時の城主妻鳥光家が、河野通直の命によった河上安勝に攻められたが、容易に落城しなかった。このため新居・宇摩郡からの加勢を得て落城させた。そして、当城は河上安勝が城主となった。

 しかし、四国の情勢は土佐の長宗我部元親による勢いが日増しに高まり、天正10年(1582)当城は大軍を率いた長宗我部氏の前に防戦むなしく落城、河上安勝は当城に火を放ち、自害した。

 なお、河上安勝の死については、下記に示すように謀殺された説も残されてる。
【写真左】「姫ヶ嶽」の説明版
 河上安勝の娘であった「年姫」の悲話が、掲げてあり、後段には与謝野晶子の句が添えられている。





“姫ヶ嶽


 天正10年(1582)6月10日、川之江城主河上但馬守が三島宮に詣でての帰途、村松字崩の松原において、謀臣秋山嘉兵衛のために誘殺され、城は秋山の内通により轟城主大西備中守の急襲をうけて、落城するに至った。


 このとき、但馬守の息女・年姫は横死の父のあとを追って、この断崖より燧灘に身を躍らして、はかなくも花の生涯を閉じたといわれている。


 春風秋雨三百八十余年、落城の悲話として、今に伝えて、ここを姫が嶽と呼ぶ。


 姫ヶ嶽 海に身投ぐる いや果とも
         うまして入りぬ 大名の娘は


 与謝野晶子


 その3年後の天正13年になると、豊臣秀吉による四国討伐が始まり、小早川隆景によって落城、しばらくは秀吉の部将が入れ替わりながら城主となったが、加藤嘉明の代になって廃城となった。

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2011年11月1日火曜日

河後森城(愛媛県北宇和郡松野町松丸)

河後森城(かごもりじょう)

●所在地 愛媛県北宇和郡松野町松丸
●別名 皮籠森城・向後森城
●築城期 建久7年(1196)
●築城者 渡辺連
●城主 渡辺有高・時忠・政忠・教忠等
●指定 国指定史跡(H9年9月11日)
●形態 山城
●遺構 城門・郭・空堀
●高さ 標高171m(比高70m)
●登城日 2010年3月18日

◆解説(参考文献『松野町HP』『日本城郭体系第16巻』等)
 前稿宇和島城(愛媛県宇和島市丸之内)から土佐街道(320号線)を東進し、鬼北町を超えて四万十川の支流広見川と並行して走る381号線に入ると、やがて松野町役場が見えてくる。
河後森城は、この役場の西南に築かれた山城である。
【写真左】河後森城遠望
南麓からみたもの。
 南側に駐車場があり、そこから数分で城内に入ることができる。




宇和西園寺氏

 宇和島城の稿でも述べたように、松野町も含めた南予地方は鎌倉時代、藤原一門で九摂関家の一つであった西園寺氏が当地に下向した。

同氏は土着したのち南予のほとんどを支配し、戦国末期まで続くことになる。この結果、宇和西園寺氏の名が四国全土に知られることとなる。

 さて、河後森城の戦国時代の城主としては、宇和西園寺氏の麾下であった渡辺教忠がいる。彼は、宇和西園寺氏15将の一人として、別名河原淵殿と呼ばれ、豊後の大友氏、土佐の一条氏・長宗我部氏らと戦っている。
【写真左】河後森城概要図
 当城は「河後森城跡生活環境保全林」(えひめ森林浴88か所)の指定も受けている。


 左図はその関係案内図で、城跡遺構を示すものではないが、中央に風呂ヶ谷があり、北東部は古城、そのまま西進すると本郭(主郭)群にむかう。
 風呂ヶ谷の東方には新城があり、やや独立した丘陵部に築かれている。



 ただ、この15将は、もともと西園寺氏から恩給を受けて領地を支配したものでなく、むしろ各自が独力で築き上げてきた国人領主であって、西園寺氏と絶対的な主従関係を持つものではなく、場合によっては、西園寺氏と袂を分かつことも厭わない諸将であった。このことは、西園寺氏が戦国期に盤石の支配体制を築くことができなかった最大の原因となる。
【写真左】風呂ヶ谷
 右側には新城、まっすぐ向かうと本郭・古城を含めた郭群の切崖が立ちはだかる。


 おそらくこの谷に入ったら、三方から攻撃を受けることになるだろう。



築城期

築城期については、記録がないためはっきりしないが、鎌倉時代の建久7年(1196)、渡辺綱から6代目となる源七郎兵部少輔源連という武将が当城に入城したという記録があるが、後世に記されたもので断定できない。
【写真左】風呂ヶ谷から新城・古城方面を目指す。
 登城道も整備され歩きやすいが、勾配はかなりあるので、比高の低さの割に要害性が高いと思われる。




渡辺氏

 『清良記』『渡辺教忠掟書』『大洲旧記』などの史料によると、渡辺氏の系譜で、室町時代に左近将監有高、明応年間(1492~1501)に肥前守時忠、天文年間(1532~55)に越後守政忠、永禄から天正年間(1558~92)に、先述した教忠(式部少輔)の名が残る。
【写真左】新城
 最初に南東部の新城に向かった。
 『日本城郭体系第16巻』には記載されていない箇所で、北側の古城との間には鞍部を介し、その東麓部には意識的に広げたような深い谷が伸びている。


 新城にも多数の郭群が配され、主郭と思われる位置は南端部にある。


渡辺教忠は、敵方でもあった土佐一条氏(房家)の三男・東小路法行の子である。先代の越後守政忠に嫡男がいなかったため、苦渋の選択の末、教忠を養子として迎え入れた。このことが後に、一条家による南予攻略の際、彼は城を出ず、不戦の態度を示したため、西園寺氏をはじめ同氏14将からも非難を受けた。

そして永禄10年(1567)、西園寺公広を先頭に河後森城の攻略が開始された。このため、教忠は養子を人質に出しどうにか許しを得た。
【写真左】新城の修復工事個所
 比高が低いこともあって、険しい切崖構造箇所が多数みられる。このため、写真のような崩落個所が発生したのだろう。




土佐一条氏

ところで、土佐一条氏は、応仁の乱を避けて所領の一つであった土佐幡多荘(現、四万十市)に応仁2年(1468)、一条兼良の子・教房が下向したのに始まる(土佐・中村城・その1(高知県四万十市中村丸之内)参照)。

土佐一条氏は、その地理的条件を生かした対外貿易や海上交通を盛んに取り入れた。特に豊後水道や伊予灘を介して大友氏や大内氏とも強い関係を保ち、勢力を誇った。しかし、その後暗愚の継嗣が続き、兼定の代でほぼ途絶えた。
【写真左】新城から風呂ヶ谷を挟んで西北に本郭および西第10郭を望む。
 現在は杉などの植林があってはっきりしないが、当時はこれら連続する郭群が壮大に見えたことだろう。



 ちなみに、以前出雲国の大内神社(島根県東出雲町 西揖屋)を取り上げたが、尼子氏の月山冨田城攻めによる大敗で、溺死した大内晴持は、この土佐一条氏・房冬の子で、母は大内義隆の姉である。

 大内義隆が家督を継いだ享禄元年(1528)ごろ(晴持3,4歳ごろ)、義隆、すなわち叔父のところへ養嗣子として山口に移った。
【写真左】古城の郭群
 古城は東方に細長く伸びた郭群で構成されている。郭間の高低差は余りないが、両端部の切崖はここでも険峻である。






家臣による追放

さて、その後の教忠は、城主としての地位を失い家臣に追い出されてしまう。そして新たに河後森城主となったのは、鳥屋ヶ森城(とやがもりじょう)(北宇和郡鬼北町大字生田)の城主であった芝美作守政輔である。

 彼は教忠に見いだされ後に鳥屋ヶ森城主となった。実際に追放したのは彼の四男・源三郎である。
 時期ははっきりしないが、天正8年から9年(1580~81)のころと推定される。その後、長宗我部氏と西園寺氏の両者に巧みに仕え一族安泰を図ったが、秀吉の四国征伐の際、当城を手放すことになった。
【写真左】古城付近から北麓を見る。
 中央左に見える川は広見川で、四万十川に合流する。手前が上流部。橋の手前の建物は松野町役場。写真には見えないが、広見川と並行して予土線が走っている。


 なお、この河後森城付近には支城と思われる城砦(山城)が約10か所ほど確認されている。



遺構の概要

 河後森城の発掘調査が始まったのは、平成3年度からだという。そして平成9年には国指定史跡の指定を受け、地元松野町において平成11年度から環境整備事業が実施されているようだ。

 昭和55年発行の『日本城郭体系第16巻』(㈱新人物往来社編)で、当城の要図が示されているが、この段階では未だ本格的な調査がされていないこともあって、「新城」などを含め、その全容は示されていない。
【写真左】古城側から本郭を見る。
 古城を過ぎると、途端に高低差のある郭群が連続する。





 現在でも地道な調査や整備が継続されているが、主だった遺構を示すと次のようになる。

 河後森城は三本の川に取り囲まれ、独立した丘陵に築かれているが、中央の南北を走る谷(風呂ヶ谷)を取り囲むように馬蹄形を構成する郭群が配置されている。

 主郭とされる中央部から西に向かって9か所の郭群を置き、東に向かっては第2、第4とあり、その東には古城があり、ここに7か所の郭がある。さらに南方には新城の郭群が残る。標高はだいぶ違うが、美作の岩屋城(岡山県津山市中北上)の縄張り図に似ている。
【写真左】本郭側から古城方面を振り返る。
 古城側からは3,4段の郭を超えて本郭につながる。
【写真左】本郭
 河後森城の中心部で、本郭と称された場所。いわゆる本丸にあたる個所だが、この位置が最高所の171mにあたる(比高88m)。


 写真に見える四角いものは当時建てられていた建物跡を示す。調査した結果、建物10棟、門跡1基、土塀1基があったという。建物形式は掘立柱を用い、屋根は板を葺いたものが使用されたという。

 建物の種類は、城主が居住した主殿舎(連合いと犬がいるところ)、料理の台所、見張りの番小屋など。出土品は15世紀から16世紀にかけて使用されたもの。


 なお、このほかに明らかに時期が違う遺構があり、これが河後森城の最終段階である戦国末期から慶長年間ごろに存在したといわれる天守跡ではないかといわれている。具体的なものとしては、瓦・礎石・石垣などだが、これらが前稿「宇和島城」築城の際、再利用されたのだろう。
【写真左】本郭から東南に新城を見る。
 先ほどの新城とは反対に、本郭から新城をみたもので、築城年代を無視すれば、「一城別郭」形式ともいえる。
【写真左】本郭入口
 南側からみたもので、崩落しやすいため土嚢で保持されている。
【写真左】本郭から西出郭に向かう。
 本郭を過ぎて西へ向かうと、約9段の連続する郭群が伸び、次第に下がっていく。
【写真左】西出郭・その1
 どの郭も整備が行き届いている。
 
【写真左】西第10郭にある復元建物
 西出郭群最南端である第10郭跡に建てられた建物で、掘立柱形式のもの。
 この郭には、この他もう一つの建物と、南側には土塁に沿うように多聞櫓跡があったという。
【写真左】土塁跡
 復元された土塁で、幅約2.2m弱、高さ50cm~90cm前後の規模。南側から東側にかけて復元されている。
【写真左】西第10郭から本郭に繋がる西出郭群を振り返る。
 中央左には垣根のようなものがあって見難いが、右下につながる風呂ヶ谷から上ってきたコースに「門」が建っている。
【写真左】西第10郭から風呂ヶ谷を挟んで、新城を遠望する。
 この位置からみると、新城の主郭高さと西第10郭はほぼ同じぐらいに見える。




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2011年10月31日月曜日

宇和島城(愛媛県宇和島市丸之内)

宇和島城(うわじまじょう)

●所在地 愛媛県宇和島市丸之内
●別名 丸串城・板嶋城・鶴島城
●築城期 嘉禎2年(1236)、および戦国期・慶長5年(1600)
●築城者 藤堂高虎
●形態 平山城
●遺構 天守閣・本丸・二の丸・搦め手門
●高さ 標高50m(比高45m)
●指定 国指定史跡
●登城日 2010年3月18日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
 愛媛県南予の中心地宇和島に築かれた平山城である。南予地方はこれまで2,3度訪れているが、豊後と並んで管理人にとって好きな地域である。特に豊後水道を望む入り組んだリアス式海岸を眺めていると、その自然造形美に魅了される。
【写真左】宇和島城
西側の二の門付近から天守を見る。









現地の説明版より

“宇和島城の沿革


 戦国時代高串道免城主の家藤監物が、天文15年(1546)板島丸串城に入ったというのが、板島丸串城の記録に現れた始めである。
 その後、天正3年(1575)西園寺宣久の居城となったが、同13年(1585)には、伊予の国が小早川隆景の所領となり、持田右京が城代となった。その後、同15年(1587)宇和郡は戸田勝隆の所領となり、戸田与左衛門が城代となった。


 文禄4年(1595)、藤堂高虎が宇和郡7万石に封ぜられ、その本城として慶長元年(1596)築城工事を起こし、城堀を掘り、石垣を築いて、天守閣以下大小数十の矢倉を構え、同6年(1601)ごろまでかかって厳然たる城郭を築き上げた。
【写真左】藩老桑折(こおり)氏武家長屋門
 北東側の登城口付近にある建物で、宇和島藩家老桑折氏の長屋門を、昭和27年この場所に移設したものという。


 なお、登城口はこの場所のほかに、南側に「上り立ち門(搦め手)」があり、そこからも向うことができる。


 慶長13年(1608)、高虎が今治に転封となり、富田信高が入城したが、同18年(1613)に改易となったので、約1年間幕府の直轄地となり、高虎が預かり、藤堂良勝を城代とした。


 慶長19年(1614)12月、仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が宇和郡10万石に封ぜられ、翌元和元年(1615)3月に入城の後、宇和島城と改めた。
 それ以後、代々伊達氏の居城となり、2代宗利のとき寛文4年(1664)天守閣以下城郭全部の大修理を行い、同11年(1671)に至り完成した。
 天守閣は国の重要文化財に、また城跡は史跡に指定されている。別称鶴島城ともいう。

 宇和島市教育委員会”
【写真左】登城途中
 この付近から「井戸丸」「井戸矢倉」(下の写真参照)が見えてくる。






築城期

 高縄山城(愛媛県松山市立岩米之野)でも少しふれたように、南予地方は鎌倉期にそれまで支配していた橘氏に代わって西園寺氏が支配するようになった。

 ちなみに、橘氏は承平・天慶の乱(936~41)の戦功によって支配をしてきたが、承久の乱(1221)によって没落、代わって西園寺氏が当地を支配するようになる。

 従って、築城期は厳密に言えば、天慶4年(941)ごろと思われるが、中世城砦としてその形を成したのはおそらく鎌倉期、すなわち嘉禎2年(1236)、西園寺公経が統治を治めた時期と思われる。
【写真左】井戸跡(井戸丸)
 宇和島城には3か所の井戸があり、この井戸がもっとも重要なものだったという。直径2.4m、周囲8.5m、深さ11mの規模を持つ。




戦国期

 説明版にある高串道免城主の家藤監物という武将は、西園寺氏の麾下であり、天正3年ごろになると、当城の役目がさらに重要なものとなり、主君である西園寺氏が入城したものと思われる。

 『清良記』という史料によれば、天文年間から永禄年間にかけて、豊後水道を挟んだ対岸の豊後国大友氏が度々南予を攻めている。ただ、このころは宇和島城付近よりも、西園寺氏の本拠であった黒瀬城(愛媛県西予市宇和町卯之町)などが目標とされていた。
【写真左】石垣
 井戸丸を過ぎて二の門に向かう途中に見えた石垣で、下から登ってくると威圧感を覚える。







天正13年(1585)、小早川隆景の所領により城代持田右京が統治するが、2年後の15年には小早川隆景は筑前に転封され、同年10月に豊臣秀吉の家臣・戸田勝隆が、宇和・喜多両郡併せて16万石を領し、大洲地蔵ヶ嶽城(大洲城)に入り、丸串城には戸田信家が城代として入った。

藤堂高虎

 そして文禄4年(1595)7月22日、藤堂高虎が宇和郡7万石に封じられ、丸串城に入城した。このころから丸串城は、板島城とも呼ばれ、のちに宇和島城と改称されていく。現在の宇和島城の原型ができあがるのは、この藤堂高虎の時代からである。
【写真左】櫛形矢倉跡
 二の門を過ぎると二の丸があり、そこからUターンするように本丸に向かう。本丸手前には一の門(櫛形門)があり、西に櫛形門矢倉、東に北角矢倉がある。


 写真はそのうちの西側にある櫛形矢倉跡の石垣に植えられた桜である。
 この日(2010年3月18日)の早朝登城したが、すでに地元の方数人が散歩を兼ねて登城していた。桜の開花は5分咲き程度だったが、城跡の風景と相まって美しい。


 藤堂高虎は加藤清正と並んで築城技術に長けた武将である。特に石垣を高く積み上げ、堀を重視した設計思想に特徴がある。

 宇和島城については、慶長元年8月に修復に着手するも、翌2年に朝鮮出兵し、帰国後5年に再開、翌6年に天守閣がほぼ竣工したとされている。その後高虎自身が行ったものではないが、付属する施設として、月見櫓を増築するため、河後森城(愛媛県北宇和郡松野町松丸)の天守閣を解体し宇和島城へ移設設置した。慶長9年のことである。
【写真左】鉄砲矢倉跡
 本丸南西部に設置されている。
 石積み2段で、長さは20m弱、幅3m程度か。礎石のようなものが2,3点在している。




 ちなみに、このころの高虎は各地の築城工事のため多忙を極めている。慶長7年には今治城の築城に着手し、竣工後当城を居城とした。そして同13年には伊勢・伊賀22万石に転封し、伊賀・上野城(いが・うえのじょう)・三重県伊賀市上野丸の内を改修した。
【写真左】井戸跡か
付近に表示板のようなものがなかったと記憶しているが、井戸跡かもしれない。
【写真左】御大所跡
 本丸には天守のほか、前掲した櫛形矢倉・北角矢倉・鉄砲矢倉・御弓矢倉のほか、写真にある御大所(御台所)などがある。
【写真左】天守・その1
 三層三階の総塗籠造り。
 1階は6間四方、2階は5間四方、3階は4間四方でバランスをとっている。
【写真左】天守・その2
【写真左】本丸から宇和島の街並みを見る・その1
【写真左】本丸から宇和島の街並みを見る・その2










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