2018年10月29日月曜日

伊勢・神戸城(三重県鈴鹿市神戸5)

伊勢・神戸城(いせ・かんべじょう)

●所在地 三重県鈴鹿市神戸5
●築城期 不明(天文年間:1550年年代)
●築城者 不明(神戸具盛か)
●城主 神戸具盛、神戸信孝、織田信孝、本多忠統
●形態 輪郭式平城
●指定 三重県指定史跡
●遺構 石垣、堀等
●登城日 2016年3月5日

◆解説(参考資料 「週刊ビジュアル 戦国王 056」等)
 伊勢・神戸城(以下「神戸城」とする)は、三重県鈴鹿市に所在した平城で、現在の神戸公園となっている箇所である。
【写真左】神戸城
 本丸天守跡にのこる石垣











 現地の説明板より

“三重県指定・史跡
神戸城跡
  昭和12年12月14日指定

 伊勢平氏の子孫関氏の一族神戸氏は、南北朝時代(14世紀)飯野寺家町の地に沢城を築いたが、戦国時代の1550年には、この地に神戸城を築いて移った。   
 神戸氏7代目友盛は、北勢に威を振るったが、信長軍の侵攻により永禄11年(1568)その三男・信孝を養子に迎えて和睦した。

 信孝は、天正8年(1580)ここに金箔の瓦も用いた五重の天守閣を築いた。しかし、本能寺の変後、岐阜城に移り、翌年秀吉と対立して知多半島で自刃し、文禄4年(1595)には天守閣も桑名城に移され、江戸時代を通して天守閣は造られず、石垣だけが残された。

 江戸時代、城主は一柳直盛、石川氏三代を経て享保17年(1732)本多忠統(ただむね)が入国する。
 本多氏の治世は140年間7代忠貫(ただつら)まで続き、明治8年(1875)城は解体される。
 その後、堀は埋められ城跡は神戸高校の敷地となった。天守台や石垣に悲運の武将を偲ぶことができる。
    平成14年3月
       鈴鹿市教育委員会”
【写真左】神戸城配置図
 神戸城の配置図で、右側(東側)は県立神戸高等学校が道路を挟んで隣接しているが、説明板にもあるように当時は当校も神戸城の城域であった。
 なお、当城は神戸公園として整備されている。



神戸氏

 説明板にもあるように、神戸氏は伊勢平氏子孫である関氏の一族とされている。神戸城を築いたのは戦国期だが、その前の南北朝期に築いたのが沢城とされている。場所は神戸城から南西に凡そ900mほど向かった飯野寺家町字城掛である。

 神戸氏は室町期に伊勢国司であった北畠氏の力を借りて勢力を伸ばした。特に、北畠材親(霧山城・その2 (三重県津市美杉町下多気字上村)参照)の頃には養子縁組があったとされるが、明確な資料は残っていない。
【写真左】本丸跡
 上掲した配置図に対し、現在は堀などが埋められ、大分改変されている。
 当時の二ノ丸・千畳敷といわれた箇所は駐車場や公園公衆トイレなどが設置され、遺構の輪郭を残しているのは主として本丸付近である。


神戸信孝(織田信孝)

 戦国に至って、神戸氏の家督を引き継いだのは織田信長の三男信孝である。永禄11年(1568)2月、信長は上洛に先立ち北伊勢に侵攻、神戸氏第7代具盛は信長に降伏、信孝はこれによって神戸具盛の養嗣子となった。信孝はこのとき11歳で、以後「神戸三七郎」と称した。

 養子となった信孝(三七郎)であったが、次第に養父・具盛と不和になり、元亀2年(1571)正月、信長の命により、具盛は隠居に追いやられ、信孝が神戸氏の当主となった。併せて、それまで関氏も麾下にあったが、関当主盛信も元亀4年(1573)追放され、関氏の領地亀山も信孝が相続することとなった。
【写真左】本丸・天守台・その1













 信孝が本格的に戦に従軍参加するのは、天正2年(1574)の長島一向一揆攻めからである。この後、越前一向攻め、紀伊雑賀攻めと続き、21歳の天正6年(1578)には兄信忠に従って大坂本願寺攻めに従軍している。そして、説明板にもあるように神戸城を修築したのはこの2年後となる天正8年(1580)である。 
【写真左】本丸・天守台・その2
 天守台に登る階段付近から見る。

 







 本丸には石垣から高さ20m、初重7間半×7間(13.5m×12.6m)、三重目いは破風がある五重天守が築かれたという。父信長が築いた安土城は、これより4年前の天正4年(1576)に築かれているが、信孝も父譲りの金箔瓦などを本丸で用いている。
【写真左】本丸・天守台・その3
 天守台から周辺を見る。












信孝自刃

 父・信長が本能寺の変に倒れた天正10年(1582)、信孝は25歳であった。この変において信孝の軍は大半が四散したという。その後、山崎の合戦では秀吉の軍に参戦し、清州会議の結果、信孝は三法師(信秀)の後見役となった。そして美濃(岐阜城)を与えられた。

 しかし、清洲会議のときから信孝は秀吉対し敵意を感じており、このため柴田勝家に接近した。これが次第に顕著となり、この年(天正10年)の12月、秀吉は岐阜城を攻略し、信孝を降伏させた。これによって三法師を秀吉に渡し、信孝は母(坂氏)を人質に指し出すことになる。
【写真左】神戸城の石碑
 明治9年に建立されたもので、この前年城は解体されている。筆耕文字が大分劣化しているため解読は困難だが、神戸信孝(織田信孝)をはじめ、その後長らく城主であった藩祖本多忠統らの名が刻まれている。


 天正11年(1583)正月、ついに秀吉に敢然と反旗を掲げたものが出た。滝川一益である。滝川一益はこのころ北伊勢を本拠としており、信孝と普段から誼を通じていたのだろう。3月に至ると、柴田勝家が挙兵、信孝もほぼ同時期に続いた。
 4月20日、秀吉は賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦) に柴田勝家を敗走させ、24日は北ノ庄城(福井県福井市中央1丁目) に勝家を滅ぼした。あくる25日、秀吉に与していた信孝の兄・信雄は再び岐阜城を包囲、信雄の勧めによって信孝は開城し、尾張に堕ちていった。その後信雄は秀吉の命によって、野間の大御堂寺にあった信孝を安養寺(愛知県知多郡美浜町大字布土大池)に幽閉、自刃させた。

信孝辞世の句

“昔より  主(あるじ) 内海(討つ身)
     野間なれば  むくいを待てや  羽柴ちくぜん”

 信孝は切腹の際、無念のあまりかききった腸(はらわた)を目の前の掛け軸に投げつけて果てたといわれ、同院には今でもそのときの掛け軸と、使われた短刀が残されている。享年26歳。
 因みに、当院には信孝の墓とは別に、源頼朝及び義経の父である義朝もこの地で謀殺され、眠っている。
【写真左】本丸・天守台・その3
 横から見たもの
【写真左】石垣
天守台のもので、野面積み形式。全体に丸い石が多く、ところどころにこのような大きな石が使われている。
【写真左】土塁・その1
内側から見たもの

【写真左】土塁・その2
本丸の周りを囲む土塁。
なお、土塁の一角には隅櫓などもあったという。
【写真左】堀
本丸の外側にあるもので、奥に本丸が見える。
【写真左】西側の堀付近
 旧西大手付近で、公園化されているため当時とはだいぶ違うかもしれないが、堀の配置は現在のような状況だったと思われる。
 また、この写真の右側には武家屋敷群があった。
【写真左】南側の堀付近
 こちらのほうはだいぶ狭められている。

2018年10月21日日曜日

大谷吉継の墓・陣跡(岐阜県不破郡関ヶ原町山中32)

大谷吉継墓・陣跡(おおたによしつぐのはか・じんあと)

●所在地 岐阜県不破郡関ヶ原町山中32
●指定 国指定史跡
●参拝・登城日 2016年3月5日


◆解説
 徳川家康と石田三成による天下分け目の戦いといわれた関ヶ原の戦いについては、以前関ヶ原古戦場・笹尾山(岐阜県関ヶ原町)で紹介したが、本稿ではその三成に与し、現地で壮絶な戦いの末自害した大谷吉継の陣跡及び、墓を紹介したい。
【写真左】大谷吉継の墓
 吉継の墓は後段で紹介している陣跡から凡そ5分のところに建立されている。
 この日参拝したときも、一人の若い女性が花を持って上がってきたが、しばらくするとまた別の女性2,3人が同じく花を抱えて登ってきた。
 噂には聞いていたが、本当に彼の墓には花が絶えることがないようだ。


現地の説明板より その1

“国史跡(昭6・3・30指定)

大谷吉隆(吉継)墓

 吉隆は三成の挙兵に対し、再三思い止まるよう説得しましたが、三成の決意は変わりませんでした。
 旧友の苦痛を察した吉隆は、とうとう死を共にする決意をし、死に装束でここ宮上に出陣してきたのです。
 壮絶な死闘の末、吉隆は、首を敵方に渡すな、と言い残して自害しました。
 これは敵方藤堂家が建てたものです。

     関ヶ原町”
【写真左】藤川台ふじかわだい
 この辺りには藤古川(関の藤川)という川が流れているが、その右岸に位置している箇所で、その名が示すように、地形が平で、やや高いところにある。

 この場所で、吉継、戸田重政、平塚為広らが対陣し、小早川秀秋隊と壮絶な死闘を展開した。
 ここから右へ600mほど向かったところには、宇喜多秀家隊(18,000)があり、左に100m向かうと、平塚隊(吉継麾下)があったというから、平塚隊は、ほぼこの写真の場所である。

 吉継が最初に構えた陣はここから500mほど奥の森に入った場所にある。このあとそちらに向かう。


【写真左】大谷吉継の墓・その1
  途中で吉継陣跡と吉継墓に向かう分岐点があるが、先にこちらに向かった。
 周辺部は木立があるものの、整備されている。

 墓地の入口両側には吉継が使っていた二つの家紋のうち、「鷹の羽」の幟が建てられている。


大谷吉継

 大谷吉継については以前敦賀城(福井県敦賀市結城町)の稿でも述べたように、秀吉が関白になったとき、同時に刑部少輔に任じられ、天正17年(1589)9月に越前・敦賀城主として5万7千石を与えられている。
 吉継の出自については諸説あり確定していない。一説では近江伊香郡余呉町小谷の出で、父は九州豊後の大友宗麟の家臣・大谷盛治という。また別説では、六角義賢(よしかた)の家臣・大谷吉房の子ともいわれているが、いずれも裏付けがなく、定かでない。
【写真左】大谷吉継の墓・その2
 中央のものが吉継の墓で、その左奥にあるのは、湯浅五助隆貞。

 吉継の最期を見届けたのは、湯浅五助をふくめ僅か4名だったといわれる。
 吉継は彼らに、自分の頸を敵に晒したくない、敵に分からぬよう地中深く埋めるようにと命じていた。
 吉継自刃のあと、五助らは吉継にいわれた通り陣羽織に包んだまま埋めたという。その後五助以外の者は敵中に飛び込み討死したという(五助については後段参照)

 なお、吉継の墓は五輪塔形式だが、湯浅五助のものは近世に建立されたもののようだ。因みに、墓そのものが設置されたのは明治39年8月と記されている。


 ところで、白い頭巾で顔を隠した姿が紹介されているが、それがハンセン病であったというのも記録になく、断定できない。もっとも関ヶ原の戦いの頃は殆ど目も見えない状態であったらしく、進行性の高い病気であったことは確かのようだ。

 関ヶ原の戦い前、再三再四三成に翻意を促そうとしたが、意志を曲げない愚直な三成に吉継も根負けし、勝ち目のない戦と知りながら三成との友情を選んだ。
 三成とは秀吉に仕官して以来およそ20年の付き合いである。因みに、吉継の娘は真田幸村の妻となっていることはよく知られているが、幸村の妹(姉とも)は、宇田頼次に嫁ぎ、頼次の妹は石田三成の妻である。つまり、真田昌幸を介して親戚関係でもあった。

 昨今の歴女ブームなどでも大谷吉継の人気が高くなっているが、男性からみても「義に生きた武将」として心を打たれるものがある。

藤堂高虎
 
 吉継の墓の脇には吉継の石碑が建立されている。これらは下段にもあるように、藤堂高虎の子孫で、第21代当主高紹の書になるものである。
【写真左】「大谷刑部少輔吉隆碑」と筆耕された石碑
 表には
昭和15年9月15日
東京帝国大学教授文学博士 宮地直一 撰文
関ヶ原古蹟保存會長 升田憲元 建立

 とあり、裏には
伯爵 藤堂高紹 書
 と刻まれている。

 藤堂高紹(たかつぐ)は、藤堂高虎に繋がる藤堂宗家第21当主。関ヶ原の戦いで高虎は東軍方として戦い、京極高知(たかとも)らと吉継を相手に戦った。

 伝承では、湯浅五助が吉継の頸を埋めていた現場を藤堂高利(高虎の甥)に見られ、このことを口外しないとの約束で、五助は高利の介錯により頸をうたれた。そして、五助の頸は家康による頸実検の場に出され、高利は吉継の頸のありかを問われたが、五助との約束を堅く守り答えなかった。家康もそれ以上問い詰めることもなく、むしろ褒め称えたといわれる。
 頸実検の際、おそらく高虎も同席していたと思われ、事前に高利は高虎に相談し、家康に問われても拒否する旨を伝えていたものと思われる。

 関ヶ原合戦後、藤堂高虎はこの地に吉継の墓と五助の墓を建立したとされ、上掲したように明治になって再築されたものと思われる。

◎関連投稿
宇和島城(愛媛県宇和島市丸之内)

大谷吉継陣跡

 吉継の墓から南に少し向かうと、吉継の陣跡がある。この場所は南麓を東西に走る旧中仙道を挟んで、南に小早川秀秋が陣した松尾山を望む位置になる。

現地の説明板より その2
 
“大谷吉隆(吉継)陣跡

 親友三成の懇請を受けた吉隆は、死に装束でここ宮上に出陣してきました。
 松尾山に面し、東山道を見下ろせるこの辺りは、古来山中城といわれるくらいの要害の地でした。
 9月3日の到着後、山中村郷士の地案内と村の衆の支援で宇喜多隊ら友軍の陣造りも進め、15日未明の三成ら主力の着陣を待ったといいます。
     関ヶ原町”

【写真左】吉継陣跡・その1
 吉継の周りにはこの陣下に平塚為広、木下頼継、戸田重政らが陣取り、吉継前線部隊の形をとっていた。
 写真でいえば、右側の斜面付近に当たる。
【写真左】吉継陣跡・その2
宮上 大谷吉隆陣所古址」と刻まれた石碑が建立されている。
 このあと、さらに東にある松尾山眺望地に向かう。
【写真左】松尾山眺望地
 陣跡から少し歩くと松尾山眺望地がある。

現地の説明板より

“松尾山眺望地

 正面1.5キロ先に望む標高293mの山が松尾山である。関ヶ原合戦において、小早川秀秋が布陣したことで有名である。当時の遺構がほぼそのまま残っており、山頂に軍旗が翻っているのが確認できる。

 吉継は予てから秀秋の二心を疑っていたので、自ら約2千の兵を率い下方山中村の沿道に出て、専ら秀秋に備えていた。案の定秀秋の兵1万3千が山を下り突撃してきたが、その大軍を麓まで撃退すること三度。遂に総崩れとなり吉継は自刃した。
 こうして眼下で数倍の敵と互角以上の死闘を展開した大谷吉継の雄姿が偲ばれる。
    関ヶ原町”
【写真左】眺望地から松尾山を見る。
【写真左】吉継の顔出し看板
 どういう目的で設置されいるのか分からないが、吉継公に憚りながら………。
【写真左】関ヶ原古戦場 決戦地
 関ヶ原古戦場・笹尾山(岐阜県関ヶ原町)の稿でも述べたが、大谷勢が小早川勢の攻撃を受け西軍方右翼が崩壊すると、東軍の攻撃が左翼にあった笹尾山の石田勢に一気にシフトする。

 笹尾山の南では激戦が繰り広げられた。この場所を決戦地としている。
 なお、この場所から石田勢の笹尾山が見える。

2018年9月30日日曜日

近江・八幡山城(滋賀県近江八幡市見宮内町)

近江・八幡山城(おうみ・はちまんやまじょう)

●所在地 滋賀県近江八幡市宮内
●別名 八幡城、近江八幡城
●高さ 283m(比高100m)
●築城期 天正13年(1585)
●築城者 豊臣秀次
●城主 豊臣秀次、京極高次
●遺構 郭・石垣、居館
●登城日 2016年3月5日

◆解説(参考文献 『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』仁木宏・福島克彦編 吉川弘文館等)
 管理人が気に入っていたTV時代劇「鬼平犯科帳」などに度々使われてきた八幡堀界隈は、滋賀県近江八幡市に所在する。この八幡堀は八幡山城の築城者であった豊臣秀次が築城に併せて設置した外堀である。
【写真左】本丸跡の村雲御所瑞龍寺
 後段でも記すように、城主であった豊臣秀次が自刃した後、京極高次が城主となったが、その後破却されこともあり、当時の遺構が大分消滅している。
 なお、村雲御所瑞龍寺については下段で紹介する。

現地の掲示資料より

“八幡山城の歴史と環境

 八幡山城は、滋賀県近江八幡市北方の八幡山(鶴翼山)に所在する城跡で、当時は、後背から西にかけて津田内湖(昭和46年干拓)、東に西の湖が広がっており、内湖に囲まれた環境にありました。

 豊臣政権下の天正13年(1585年)には、羽柴秀次に近江43万石が与えられ、この八幡山に八幡山城が築かれました。築城に際しては、山麓に存在していた願成就寺が八幡山南方にある日杉山の南麓へ移動させられたことが史料に伝えられており、山腹に鎮座していた日牟礼八幡宮の上社も同じく、麓の下社と合祀されたことが伝わっています。
【写真左】八幡山城配置図
 八幡山城遺跡詳細測量図をもとに、管理人によって簡略化した配置図で、この図では秀次が居館としていた付近は図示していない。



 本丸および二ノ丸、北ノ丸、西ノ丸、出丸の城郭施設は標高283mの山頂に位置し、居館群は標高約130mの山腹の谷地形に平坦地を設けて造られています。
 大手道は、居館群最高所に位置する秀次館から麓に下り、築城時に開削されたと伝えられる八幡堀に到ります。この大手道両側には雛壇状に家臣団の居館群が広がっていて、東側の尾根と西側の尾根と八幡堀がセットで惣構えを構成していると考えられます。
【写真左】ロープウェイで山頂に向かう。
 山城愛好家としては本来徒歩で向かうべきなのだが、次の予定もあったため、これを利用させてもらった。
 乗車時間は僅か4分ほどである。


 天正18年(1590年)に秀次が尾張清洲に移った後は、京極高次が代わって、2万8000石で城主となり、秀次が自害する文禄4年(1595)に聚楽第と同じく破却されました。

 尚、昭和42年に、山頂本丸部分から山麓にかけて集中豪雨によって土砂崩れが発生しました。御来訪の皆様に安心して見学していただけるように近江八幡市では、関係各局と検討を重ね、さらにその検討資料となるように平成12年度より確認調査や、測量調査などを行っています。”
【写真左】二の丸直下付近
 ロープウェイを降りたところが当時の二ノ丸付近で、階段脇には石積が残る。






豊臣秀次の自刃

 八幡山城の築城者豊臣秀次は秀吉の甥である。秀吉の兄妹で最も有名なのが、常に秀吉を支えて来た実弟・秀長であるが、秀吉の姉には後に三好一路の妻となった瑞竜院日秀、通称「とも」がいた。この二人の間にできたのが秀次である。

 幼少の頃は、秀吉の戦歴の中で度々人質などになり、名前も度々変えている。最初の人質となったのが、小谷浅井氏の家臣宮部継潤に養子となって入った時である。このとき、宮部吉継と名乗る。その後、畿内で勢力を誇っていた三好一族の三好康長(岩倉城(徳島県美馬市脇町田上)参照)の養嗣子となり、三好信吉と改名し三好家の名跡を継いだ。
【写真左】出土した瓦片など
 すぐそばには展望資料館があり、遺跡調査したときの遺物などが展示されている。
 主に瓦関係が多いが、軒丸瓦・丸瓦・平瓦をはじめ、これに使われた釘なども展示されている。



 その後池田恒興の娘を妻に持ち、秀吉が賤ヶ岳の戦い(賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦)参照)で勝利を勝ち取り、天下人として歩み始めると、信吉(秀次)も秀吉の縁者の一人として重用されるようになる。秀次が三好姓から羽柴姓に復帰したのは天正12年(1584)頃といわれている。

 この年(天正12年)4月、秀吉は尾張国長久手で徳川家康と激突した。いわゆる長久手の戦いである。秀次はこの戦いで功を上げるため大将として志願したものの失態を演じ、秀吉から烈しく叱責された。その後汚名を晴らすべく、四国征伐などで功を挙げ、何とか面目を保ち、豊臣姓を下賜された。
【写真左】村雲瑞龍寺門跡と北の丸方面の分岐点
 左の階段を登ると瑞龍寺門跡へ、右奥の道を行くと北の丸へ繋がる。
 なお、この位置に来る手前までには西の丸へ向かう道があるが、先にこちらに向かった。

 先ず瑞龍寺門跡(本丸)に向かう。


 秀吉の初めての嫡男・鶴松が天正19年(1591)亡くなったことにより、改めて秀吉の養嗣子となり秀吉に替わり関白となった。それから2年後の文禄2年(1593)8月29日、秀頼が生まれた。このとき、秀吉は秀頼には秀次の娘を嫁がせ、秀次のあとは秀頼へ政権を継がせる計画があったという。

 しかし、この2年後の文禄4年(1595)7月、秀吉は秀次の関白職を剥奪、さらには自刃に追い込ませた。しかも、秀次の縁者であった子女、妻妾なども殺害した。
【写真左】村雲御所瑞龍寺門跡
 本丸跡の一角に建立されているもので、現地には次のように記されている。






 現地説明板より

“由緒
 村雲御所と称し日蓮宗唯一の門跡寺院である後継者は、皇族五摂家華族から出て代々尼宮が住持する慣わしであった。
 当所は、天正13年関白秀次公が八幡城を築いた要害の地であった。

 当門跡は、関白豊臣秀次公の生母智の方事瑞龍寺殿日秀尼公が秀次公の菩提を弔うために文禄5年正月に創建されたもので、後陽成天皇からは村雲の地と瑞龍寺の寺号及び、寺禄一千石を賜りまた紫衣着用と菊の御紋章を許されて勅願所となった。
 歴朝の尊崇も浅からず寺格は黒御所と定められ、これによって村雲御所と呼ばれることになった。
     本山村雲御所瑞龍寺門跡”

 因みに、秀次の生母・智(とも)が、秀次ら一族の菩提を弔うために開いた最初の場所は、京都の嵯峨にある二尊院の近くである。


 秀次に自刃を命じたのは秀吉だが、この年(文禄4年)の7月3日、聚楽第にあった秀次のもとに石田三成・前田玄以・増田長盛・宮部継潤・富田一白らが訪れ、秀次に謀叛の疑いがあるとし、五か条の設問状を示し出頭を促している。

 これに対し、秀次は出頭を拒否、誓紙を認め逆心がないことを誓ったが、8日に再び伏見に出頭を命じられ、已む無く伏見に赴くと、引見されず関白・左大臣の職を剥奪、さらには剃髪を命ぜられ、高野山清厳寺に流罪・蟄居となった。
【写真左】本丸の東側面の石垣
 昭和42年に土砂崩れがあったことから、石垣の状況は当時のものではないかもしれないが、位置は同じところに積まれたものだろう。
 上段奥に見えるのは、瑞龍寺門からさらに奥に向かった稲荷神社の本殿。


 石田三成など5名のものが秀次に対し、どういう理由・根拠の下に「謀反の疑い」をかけたのか、未だに詳細は明らかにされていない。

 ただ、この時期(同年7月)には、秀頼に対し秀吉直属の奉行人らが「太閤様御法度御置目」を誓約したほか、秀次が自刃した15日以後、前田利家・宇喜多秀家をはじめ、織田信雄・上杉景勝・徳川秀忠ら在京大名28人らが、血判起請文や血判連署起請文を提出している。何とも慌ただしい動きである。このことから、秀頼の継嗣に当たって、何らかの緊張状態があったのだろう。
【写真左】北の丸へ向かう。
 村雲御所瑞龍寺門跡を終えて、一旦下に下がり北の丸へ向かう。
 写真左側の石垣は上の写真と同じく、瑞龍寺門(本丸)側のもので、高石垣である。



 それにしても、秀次の自刃の処置については、フロイスが記したように、「老体の狂気」ともいうべき常軌を逸した秀吉の狂乱ぶりが背景にある。秀次の頸は京都三条河原で晒された上に、その前で今度は秀次の遺児、側室・侍女29名が処刑された。また最上義光の娘は、秀次に乞われて上洛させていたが、この娘も家康からの嘆願もむなしく斬首された。
【写真左】北の丸
 北側の尾根筋に配置された郭で、南北に長い方形の形態。
【写真左】北の丸から北方を見る。
 北の丸からさらに尾根筋に北に向かっていくと、堀切があり、さらにそこから1キロ前後進むと、「北の庄城」がある。
 残念ながらこの日は時間がなく、当城は登城していないが、佐々木六角氏によって築かれたともいわれ、大手の枡形虎口にみるべきものがあるという。
【写真左】北の丸から安土城及び観音寺城を遠望する。
 この日は靄がかかっていたため、現地に設置してあったものを撮影し、管理人によって加工修正している。

 近江八幡山城から安土城までは直線距離で5.4キロ、観音寺城(滋賀県近江八幡市安土町)までは凡そ7キロ離れている。
 戦国期は左側に見えている西の湖がさらに内陸部まで広がっていたものと思われる。
【写真左】北の丸から本丸側を振り返る。
 この位置では丁度本丸の北東隅の石垣が見えている。
 このあと、西に向かい西の丸に向かう。
【写真左】西ノ丸
 北の丸から少し西に回り込むと西の丸が控える。
【写真左】西の丸から水茎岡山城を遠望する。
 西方に目を転ずると琵琶湖がみえるが、その湖岸には水茎岡山城が見える。

 当城は頭山(147m)とその隣にある大山(187m)の二山に築かれた山城で、南北朝時代佐々木六角氏の湖上警備の支城として築かれたといわれる。

 ただ、本格的な築城は、永正5年(1508)、足利11代将軍義澄が足利義尹の入洛を怖れて近江に逃れた際、伊庭、九里(くのり)氏を頼って岡山城に入城したときとされている。
【写真左】出丸
 西の丸からさらに南の尾根筋に向かうと出丸が配置されている。
 ただ、この日登城したときはご覧のように、カラーコーンやロープなどで立ち入り禁止の処置がされていたので向かっていない。手前に崩落した石が見えたので、危険なため通行禁止となったのだろう。
【写真左】秀次館跡測量図
 秀次館は本丸と出丸の間の谷を降りた南側の山麓部にあり、中央部(赤い線)が大手道となっていた。
 秀次館中心部はこの図の上部にあって、平成12,13年度の遺構確認調査では大型の礎石建物や石組みの溝などが検出されている。
 また、家臣団の館は秀次館から下方に大手道を挟んで両側に雛壇状の平坦地を設け造られていた。

 なお、この日(2016年3月)は危険な箇所もあり大手道が封鎖されていて探訪することはできなかった。

2018年8月17日金曜日

山名寺・山名時氏の墓・その2(鳥取県倉吉市厳城)

山名寺・山名時氏墓・その2

●所在地 鳥取県倉吉市磐城
●山名寺創建 延文4年(1359)光孝報恩禅寺、戦国末期衰退し、慶長10年(1605)再興。
●創建者 山名時氏(光孝報恩禅寺)、倉吉城主中村伊豆守再興(山名寺)
●参拝日 2009年8月26日、及び2018年8月10日

◆解説
 山名寺・山名時氏の墓については、既に山名寺・山名時氏墓・その1(鳥取県倉吉市巌城)で紹介しているが、今回9年ぶりに再訪したので、前稿で紹介していなかった事柄などを中心に述べたいと思う。
【写真左】山名時氏の墓
 墓石の前には、「六分ノ一殿 山名家始祖 山名伊豆守時氏公之墓」と刻銘された石碑が建つ。
 左奥の墓が時氏の墓。




 先ず、縁起等については、前稿で触れていなかったので、当院境内に設置されている梵鐘の説明板を参考に触れておきたい。

“梵鐘再鋳の記

 当寺の淵源は、延文4年(1359)山名時氏公により創建されし、光孝報恩禅寺にあり。戦国末期、山名氏の滅亡により衰退、慶長10年(1605)倉吉城主中村伊豆守再興して、清淨山山名寺としょうせらる。
【写真左】山門
 山名寺は東方を流れる天神川と合流する支流小鴨川の北岸に所在し、それと並行する三明寺用樋門から流れてくる北条用水を渡り、厳城の山の斜面に建立されている。


 嘉永年間、伽藍焼失し明治維新を迎え、廃寺とされしも天瑞龍雲大和尚は、檀徒を糾合して明治12年(1879)大本山總持寺独住第一世旃崖奕堂(せんがいえきどう)禅師を拝請開山となして再興して現在に至る。
 明治16年に梵鐘を鋳造、その妙音は近郷に響けり、然るに大東亜戦争末期供出を命ぜられ雄途につき遂に再び妙音を聞く能わず。
 戦後幾度か再鋳の議起こるも機未だ熟さず、今漸く機縁熟し、檀信挙って喜捨し、再鋳の運びとなる。
【写真左】新しく設置された梵鐘
 平成の世になってやっと再鋳となった梵鐘。
右側には「ご自由にお撞きください」とかかれた標示がある。




銘白
一撞梵音  為海潮音  撞者聴者  

浄心一現  心身平安  種智円満

銘ニ曰く
ヒト撞キノ梵音ハ  海潮音トナリ  撞ク者モ聴ク者モ
浄心ハ一現シ  身モ心モ平安ニシテ  種智円満ナランコトヲ

平成15年夏

   幻住  黙山俊堂   誌”

【写真左】山名寺本堂
 山号:清淨山(しょうじょうさん)
 落ち着いた境内である。










光孝寺と山名寺

 この説明板によれば、現在の山名寺が創建されたのは、倉吉城主であった中村伊豆守が慶長10年(1605)に再興したとされる。倉吉城とは打吹山城(鳥取県倉吉市)のことだが、中村伊豆守は、関ヶ原後伯耆米子城(鳥取県米子市久米町)に入封した中村一忠の一族である。

 これに対し、山名寺が再興される前にあったのが、脇屋義助の墓(鳥取県倉吉市新町 大蓮寺)でも述べたように、光孝報恩禅寺(光孝寺)である。
 これは、山名時氏が延文4年(1359)、上野国(群馬県)から臨済宗の時の名僧・南海宝州を招いて建てたもので、南海宝州は、上野国世良田の長楽寺単寮より法を受けたのち、正中2年(1325)、小倉村(現桐生市川内町)に摂化伝道に努め瑞雲山東禅寺を開創した。
【写真左】時氏の墓に向かう。
 本堂の手前にある道を西に向かう。左側に案内板があるが、これには「ハイキングコース 三明寺古墳上り口」と書かれ、時氏の墓の案内は出ていない。


 因みに、時氏は幕府成立直後から尊氏に属していたが、観応の擾乱の際には直義側に加わり、尊氏派と激しい戦いを繰り広げていた。また一時は直冬派にも加勢していたが、最終的には貞治2年(1363)幕府の軍門に降ることになる。

 従って、光孝寺を創建したころは不安定な時機であったが、この前年(延文3年・1358)足利尊氏が京都二条萬里小路で没したことや、時氏と同じ新田一族で興国3年(1342)に亡くなった脇屋義助の菩提を供養する思いもあり、わざわざ自らの出身地・上野国から南海宝州を呼び、光孝寺を建てたものと推測される。
【写真左】墓石群・その1
 途中には歴代住職の墓などが点在している。
 写真の右側には五輪塔群などもある。

【写真左】歴代住職の墓
 上の墓石群とは別に、住職の墓が整然と並んでいるが、これらは山名寺時代のものだろう。このため、上の写真のものは光孝寺時代の住職のものかもしれない。


 因みに、時氏は応安4年(1371)に亡くなることになるが、「光孝寺殿鎮国道静大禅定門」の戒名はこの光孝寺、及び貞治5年(1366)に出家したときの法名「道静」から来ている。

 ところで、光孝寺の所在地についてははっきりしないが、現在の山名寺とほぼ同じ場所とされている。ただ、山名寺の裏に建立されている時氏の墓がもともと、山名寺の所在する厳城から東麓を流れる天神川を北へ凡そ2.5キロほど下った小田のJR山陰線沿いにあったことから、光孝寺もその近くにあったという可能性もある。
【写真左】山名氏関係の墓石群
 歴代住職の墓石群の近くには「山名氏関係の墓石群」が置いてある。
 墓石部位が散在したような状況だが、現地には次のような説明文が掲示してある。


“山名氏関係の墓石群
 境内のあちこちにあったのを集めたもの。室町時代の特徴を表す一石五輪塔や宝篋印塔がある。
 また生前に造った逆修塔には「慶長」の年号が入っている。
 奥に宝篋印塔の笠の部分だけたくさん残っているが、四角い塔身や台座は他に使用したようだ。
 前列の頭の丸い石塔は、卵塔とよび歴代住職の墓石である。
    平成23年4月”


 なお、明治12年、現在の山名寺を再興したときの拝請開山である独住第一世旃崖奕堂禅師の大本山總持寺とは、曹洞宗大本山總持寺のことで、所在地は神奈川県横浜市鶴見区鶴見にあり、曹洞宗の二大本山の一つである(もう一つは福井県の永平寺)。
【写真左】更に上に向かう。
 この坂を登ると時氏の墓に到る。
【写真左】山名時氏の墓・その1
 以前訪れたときとほとんど変わらないが、中央部の塔身がさらに細くなった印象がある。
 おそらく上部の相輪と下部の基礎・返花座の石質とは違って、劣化・摩耗しやすい石材が使われているのだろう。
【写真左】山名時氏の墓・その2
 横から見たもので、塔身部がさらに細く見える。
 ところで、山名寺・山名時氏墓・その1では触れていなかったが、時氏が亡くなった場所は当地(伯耆国)ではなく、京都であったといわれる。

 現地の石碑横にも、戒名と併せ、「応安4年4月28日 京に於て歿す」と記されている。そして当時守護国の一つであった丹波で荼毘に付され、遺骨がこの光孝寺に運ばれ埋葬されたわけである。

 なお、時氏の墓の傍らには左右に小さな五輪塔が寄り添っているが、おそらく時氏の身の回りの世話をしていた家臣(小姓か)のものだろう。時氏亡きあと、殉死したのだろう。


花かつみ由来

 ところで、山名寺境内には伯耆国からもたらされたアヤメ科の一種・花かつみの由来が記されている。
説明板より

“山名寺 花かつみ由来
       倉吉市教育委員会

 古歌に詠う「花かつみ」は諸説あるが、愛知県阿久比町ではアヤメ科のノハナショウブを「花かつみ」と呼んでいる。
 この花は、室町時代に伯耆国からもたらされたと伝わっており、伯耆国守護山名教之の娘、鶴姫が慕い続けた武将一色詮徳(あきのり)に手渡し息絶えたという伝説がある。
【写真左】花かつみの説明板
 境内周辺部をざっと見渡したが、この日は花かつみを確認できなかった。



 今のところ市内での自生は確認できないが、この由来を知った東海鳥取県人会のお力により、平成22年6月13日同町から倉吉市に贈呈され、ここ山名寺に移植した。
 この寺は山名氏の始祖で伯耆守護でもあった山名時氏が創建した光孝寺に由来し山名氏ゆかりの寺である。
 ここ500年の時を経て「花かつみ」は故郷に里帰りした。
    平成23年3月25日設置”

 山名教之は瑞応寺と瑞仙寺(鳥取県西伯郡伯耆町・米子市日下)で紹介したように、山名時氏の子・師義から数えて4代目の伯耆守護職で、応仁の乱で活躍した。
【写真左】打吹山城遠望
 山名寺の梵鐘付近から南に打吹山城が見える。