2018年8月10日金曜日

伊予・福岡城(愛媛県西条市丹原町今井)

伊予・福岡城(いよ・ふくおかじょう)

●所在地 愛媛県西条市丹原町今井
●備考 福岡八幡神社
●形態 丘城
●高さ 65m(比高30m)
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 今井三郎右衛門信氏
●遺構 郭
●登城日 2016年2月21日

◆解説(参考資料 HP『城郭放浪記』等)
 前稿・耳金城(愛媛県西条市丹原町久妙寺(丹原総合公園)でも少し紹介したように、耳金城から東南方向へ凡そ800m程向かったところに、四尾山(しぶやま)と呼ばれる標高60mほどの独立丘陵がある。
 現在この丘には福岡八幡神社が祀られているが、中世には福岡城と呼ばれる城郭があったといわれる。
【写真左】福岡城遠望
 東南側から見たもので、福岡城(四尾山)は長径(北東方向)240m×短径(北西方向)130mの規模を持つ小規模な独立丘陵である。

 なお、この写真の左側奥に前稿で紹介した耳金城が控える。



現地の説明板より

“稲荷神社由緒・沿革

 四尾山稲荷神社は、享保年中(西暦1725年頃)松山藩主松平定英の命令により、丹原の村おこし、町おこしのため福岡八幡神社宮司越智備後守が、京都伏見の稲荷大社より、周布桑村、両郡鎮守の別宮として分霊をお迎えしました。
 当時松山藩は、丹原を道前地方の商業地として指定、地租税を免除大発展を望み、そのため商業神、農業神である稲荷大神をお迎えしたのでしょう。

 下って弘化4年8月、神殿を再建しましたが、この地方の鎮守であったことを裏付けるように、建立費用は、松平定殻藩主命令の下に、両郡が負担しています。
 昭和27年1月修理。昭和62年8月26日、鳥居倒壊。同年12月吉日、福岡八幡神社氏子の奉賽によって、神殿、鳥居お再建しました。”
【写真左】参道入口
 本宮は頂上(主郭)にあるため、参道となる鳥居を潜り上に向かう。









城主・今井三郎右衛門信氏

 上掲したように、現地にある説明板には江戸時代に建立された稲荷神社の由来などしか書かれていない。

 当城の城主として記録が残るのは、今井三郎右衛門信氏という武将である。ただ、築城期・築城者をはじめとしてこれ以外に残る史料がなく、従って今井三郎右衛門信氏もいつの時代の武将なのか分からない。

 ただ、名字は、所在地である今井を名乗っているので、地元の国人領主であったと考えられる。また、前稿の耳金城とは指呼の間にあり、南北朝期当城も何らかの関わりを持ったものと推察される。
【写真左】長い階段が続く参道
【写真左】最初の段
 数分で階段を登りきると、中規模な平坦地が出てくる。

 城郭として使われていたときはおそらく後段の主郭を補完する腰郭の役目を担っていたものと思われる。
【写真左】本殿(主郭)側に向かう。
 上記した郭は北東部にあり、そこから南西方向にむかった通路がある。
 簡易舗装され、途中で斜めに曲がった形となっている。
【写真左】福岡八幡神社拝殿
 主郭の位置に相当するところで、上掲した通路より凡そ3m前後高くなった位置に鎮座している。
【写真左】境内北側
 写真の燈籠の下に昭和14年に奉献した方の芳名が三名記されている。そのうち代表者として「今井丹二」の名が見える。
 当城の城主であった今井氏の末裔かもしれない。

 なお、玉垣の外側は殆ど切崖状の斜面となっている。
【写真左】拝殿内部
【写真左】本殿裏側
 本殿境内(主郭)の規模は奥行20m×幅15m前後と思われる。
【写真左】本殿裏側の南西に伸びる尾根
 このさきには殆ど郭らしきものはない。
【写真左】主郭(境内)から燧灘を遠望する。
 写真中央にみえる小さな島は、平市島・小平市島で、右側に樹木があって見えないが、燧灘に向かっていくと、以前紹介した鷺ノ森城(愛媛県西条市壬生川)が控える。
【写真左】稲荷神社
 冒頭で紹介した松山藩主松平定英の命によって分霊された稲荷神社。
 本殿の隣に鎮座している。
【写真左】生木山 生木地蔵
 ところで、福岡八幡宮の入口(鳥居付近)の右側(東)には、生木山 生木地蔵(いききじぞう)と呼ばれる地蔵があった。

 奥に見えるのは樹齢1200年以上といわれる楠木で、弘法大師がこの生きた木に地蔵菩薩を刻んだとされている。
 昭和29年の台風によってこの古木は倒れたが、地蔵菩薩は無傷で、現在は本堂に安置してあるという。
【写真左】耳金城を遠望する。
 下山後、前稿の耳金城を再び遠望する。

2018年8月7日火曜日

耳金城(愛媛県西条市丹原町久妙寺(丹原総合公園)

耳金城(みみかねじょう)

●所在地 愛媛県西条市丹原町久妙寺(丹原総合公園)
●別名 耳金砦
●高さ 85m(比高50m)
●築城期 南北朝期か
●築城者 河野氏
●城主 河野氏、田中通澄
●遺構 ほとんど消滅
●備考 丹原総合公園
●登城日 2016年2月21日

◆解説(参考資料 HP『城郭放浪記』、『日本城郭体系 第16巻』等)
 耳金城は別名耳金砦ともいわれ、河野氏によって築かれたといわれている。築城期ははっきりしないが、康永2年・興国4年(1343)に細川頼春(細川頼春の墓(徳島県鳴門市大麻町萩原)参照)が当時南朝方であった河野氏を攻めたとき、この耳金城が落城したといわれているので、南北朝時代初期と考えられる。
【写真左】耳金城遠望
 麓から見たもの。
城を模した白壁の塀がみえるが、これは丹原公園の壁で、中には遊戯施設などが設置されている。




 その後、康暦元年・天授5年(1379)になると、細川頼之(讃岐守護所跡(香川県綾歌郡宇多津町 大門)参照)が大軍を率いて伊予に進攻し、再び当城を攻め落とすが、翌年河野氏が奪い返している。

 その後の詳細は不明だが、戦国期になると田中通澄の居城となり、秀吉の四国攻めで落城したあと通澄は帰農したといわれる。
 現在は遺構はほぼ消滅し、丹原総合公園として改変されている。
【写真左】丹原総合公園案内図
 現地に案内図が設置してあるが、下方を北にとった図であったため、管理人によって上を北方向に修正したもの。

 この中で、右下位置に「耳金砦遊戯広場」と記されている箇所が城跡付近と思われる。
【写真左】海抜28mの標示
 耳金城(耳金砦遊戯広場)の東麓には丹原町体育館があるが、その入口にはご覧の様に「津波避難は高台へ」と表示された看板が設置してある。

 この位置で海抜28mとなっている。因みに、ここから瀬戸内(燧灘)までは直線距離でおよそ6キロほどである。

 現在は耳金城から東北方面に向かって広大な道前平野が広がっているが、中世にはこの麓付近まで入江の地勢だったと考えられる。
【写真左】南側から入る。
 直接耳金城(遊技広場)に向かうコースもあったが、先ずは南側から入り、その後西の方向を目指すことにした。
【写真左】下の広場
 正面奥に耳金遊戯広場の白壁が見える。

 下の段も大分広く、公園の一部として改変されているため往時の状況は分からないが、郭段などもあったと考えられる。
【写真左】分岐点
 右に行くと耳金砦となっているが、先ずは左側の散策路と書かれたコースに向かう。
【写真左】福岡城を遠望する。
 福岡城は次稿に予定しているが、耳金城の東南東方向に700m程向かった田圃の中にある丘城である。

 おそらく、耳金城の前線基地的な役割を担い、物見櫓などがあったものだろう。
【写真左】さらに西へ
 散策路コースは予想以上に奥まで設置されている。

 途中で、写真にあるように鞍部となった箇所があるが、堀切のようなものがあったのかもしれない。
【写真左】展望台から南東方向を俯瞰する。
 このさきにも散策路があるようだが、最初のピークとなる展望台までとした。
 耳金城は正面の森の裏側にある。
【写真左】石鎚山を遠望する。
 この日は視界が良かったのか、雪を被った伊予の名峰・石鎚山が見えた。

 このあと、Uターンして耳金城跡となる遊戯広場に向かう。
【写真左】耳金城(耳金砦遊戯広場)・その1
 この名称を冠した広場が城跡の中心地と思われるが、ここから西に伸びる「さえずる森」といわれる付近も城域だったと考えられる。

 写真正面奥に燧灘(瀬戸内海)が遠望できる。
【写真左】耳金城(耳金砦遊戯広場)・その2
 完全に遺構は消滅している。
【写真左】お筆山古墳
 総合公園が設置される前、グランドの中ほどまで突き出ていたのが標高42mの通称お筆山といわれていた山である。

 その頂部にこの古墳があり、公園化に伴い現在地に移転復原している。



 この古墳は円墳の1号墳と、方墳の2号墳の二つがあり、1号墳は、楕円形でA・B二の石室を持つ。2号墳は復原されていないが、方形の墳丘に横穴式石室を持つ古墳だったという。

 このように、耳金城周辺は、古墳時代からこの場所に人々が生活をしていた場所である。なお、この耳金城を北東端に置く山塊は、北東方向に3キロの軸をとり、愛ノ山という山を頂点とした独立峰であり、中世にはこの山全体が戦略的な機能を有していたのかもしれない。
【写真左】東側から見上げる。
 下山後、東麓を走る町道・今井久妙寺線から見上げる。
 この位置から耳金砦までの比高は凡そ30m前後である。

 なお、当城の所在する地名ともなった久妙寺はこの場所から北西に800m程向かったところにある。

山号 梵音山、真言宗御室派。
行基開基、中興は弘法大師といわれる古刹である。

2018年7月24日火曜日

長門・由利城(山口県美祢市大嶺町東分字中村)

長門・由利城(ながと・ゆりじょう)

●所在地 山口県美祢市大嶺町東分字中村
●別名 茶臼山城
●築城期 鎌倉時代
●築城者 由利氏
●高さ H:149m(比高60m)
●形態 丘城
●遺構 郭・土塁
●登城日 2016年2月11日

◆解説(参考資料 『日本城郭体系 第14巻』、『益田市史』等)
 JR美祢線の美祢駅より西方へ凡そ400m程むかった位置に北から伸びた緩やかな舌陵丘陵がある。この先端部を中心としたエリアに鎌倉時代の後半に築城された由利城がある。別名茶臼山城ともいわれている。
【写真左】由利城遠望
 東南方向から遠望したもの。由利城の南側にはJR美祢線が走り、由利城の北側尾根筋には美祢市立病院(右の白い建物)や、団地が建ち並んでいる。



由利氏

 築城者といわれるのが由利氏である。由利氏はもともと奥州出羽国由利郡(現在の秋田県由利本荘市周辺)を本貫地とし、のちに「由利十二頭」といわれた豪族であったという。

 ただ、由利氏が当地を治めていたのは頼朝による奥州合戦後で、その後和田合戦で大井氏が地頭として入部していることから、由利氏はこのころその庶流が長門に下向したのではないかと考えられる。
【写真左】南東麓側から遠望
 中央に見える高い箇所が主郭と思われる。
南東麓には現在団地などが点在しているが、近世のころは緩やかな勾配を保った田畑が広がっていたものと思われる。



 長門における由利氏の初見の記録としては、元弘の役において、厚東氏の配下として南朝方に加わっていることが見える。このとき由利氏以外には、伊佐・河越・厚の大領地頭らである。

 豊田氏館(山口県下関市豊田町大字殿敷)でも述べたが、南北朝期の元弘3年(1333)3月、長門探題の北条時直は、倒幕方の吉見・高津両石見軍の南進攻勢を知り、長門の厚東武美及び、豊田胤藤(種藤)の二将をして迎撃させたが、同月29日大嶺の戦いに敗れた。
 このため、大峰(嶺)の地頭由利氏、伊佐の地頭伊佐氏ら一族は率先して帰順、厚東武美も霜降城(山口県宇部市厚東末信)を落とされ、ついに恭順の意を表した。
【写真左】散逸した五輪塔等
 登城口付近にあったもので、下段で紹介している由利氏関連のものかもしれない。
 






由利氏関連の解明

 由利氏に関する遺跡として挙げられるのは、写真でも示した五輪塔関連のものだが、この他、由利城から北へ凡そ1キロほど向かった下領八幡宮境内の仏堂の傍らにある宝篋印塔や、基壇等の数多い墓石があり、さらに北方に向かった上領八幡宮の付近は「土井の前」という名が残り、これらが由利氏の屋敷跡といわれている。
【写真左】南斜面
 この斜面だけは綺麗に伐採され、見通しがよくなっている。
 登城道は右側に設置されているが、狭い道なので、歩いて登る。
 自然地形の斜面で、手が加えられた形跡はない。


 ところで、これらの場所については管理人は訪れていないが、『日本城郭体系』にもあるように、同氏が鎌倉末期から南北朝時代、さらには室町期に至って大内氏の支配下にあって当地の豪族として名を残していながら、同氏に関わる具体的な調査研究による解明が未だ手つかず状態であるのは残念なことである。
【写真左】忠魂碑が建つ主郭付近
 下段でも紹介しているように、広々とした削平地になっている。

 おそらく中世にはこの辺りが主郭をはじめとする郭段や犬走りなどがあったのかもしれない。


 『日本城郭体系』では、
「……大正末年から昭和の初めにかけて頂上に忠魂碑を建てる工事が進められ、頂上の旧平地は拡張され旧時のままではないが、中世山城であったことは確かである。
 と記されている。

 ただ、左側の名簿を見ると先の大戦(第二次世界大戦)時に亡くなった方が多いので、中央の石碑が昭和初期に建立されたものかもしれない。
【写真左】忠魂碑から南を望む。
 奥行は50m以上あるかもしれない。
【写真左】先端部から麓を俯瞰する。
【写真左】先端部の東側
 道は東側にあるが、全体がなだらかなスロープになっているので、どこからでも登れる。
 このあと縁周辺に向かう。
【写真左】西側斜面
 整備されていない西側斜面だが、削平地する際盛土されたため切崖状の構造となったのかもしれない。
【写真左】土塁
 当城の中で唯一遺構と思われる土塁。

 記憶がはっきりしないが、西側の最深部(北側)だったと思われる。
 高さ0.5~1.0m前後の規模。
【写真左】五輪塔群
 下山途中に見つけた複数の五輪塔。かなりバラバラになっていたのをこの箇所に集めた感じだ。

 民家奥の片隅にあり、手前には祠らしきものがあったので、地元の人が普段から供養しているようだ。
【写真左】団地側から遠望
 再び南側におりて遠望したもの。
【写真左】正隆寺
 南麓には正隆寺という浄土真宗派寺院がある。

 当院は江戸時代に伊能忠敬ら測量隊が日本地図作成のため宿泊したところで、境内奥にはその資料館があるという。

 残念ながら当日は探訪していないが、珍しい資料も残されているという。
 因みに、忠敬らが当院に宿泊したのは、文化8年(1811)1月18日と記録されている。当時この地区は大嶺村と呼ばれていた。

2018年7月20日金曜日

長門・飯塚城(山口県下関市豊田町大字手洗)

長門・飯塚城(ながと・いいつかじょう)

●所在地 山口県下関市豊田町大字手洗
●高さ 83m(比高50m)
●築城期 不明
●築城者 飯塚氏か
●城主 飯塚氏
●遺構 郭
●登城日 2016年2月11日

◆解説
 前稿の長生寺城(山口県下関市豊田町大字殿敷長正司公園)から木屋川と並行して走る県道34号線を凡そ4キロほど下ると、道路の右側(北側)に独立した小丘が見える。
 探訪したこの日(2016年2月11日)、頂部から南斜面にかけて伐採された景色が目に入った。長門・飯塚城(以下「飯塚城」とする。)である。
 標高80m余りで、南麓部には集落があるが、ほぼ田圃に囲まれた状況で、山城としてはかなり小規模な部類に入る。
【写真左】飯塚城遠望
 東から南麓にかけて走る国道34号線から見たもの。右奥に見える山は、長門国の霊山といわれた華山(げざん)。





 飯塚城については、しばしば参考にしている『日本城郭体系 第14巻』にも記載されておらず、詳細は不明である。ただ、写真にもあるように当地名を名乗る飯塚氏が開祖とあり、築城者も同氏と思われる。
【写真左】北側から登城開始
 周辺部には案内標識のようなものは一切ないため、伐採作業にともなって設置された道路の入口から向かった。
 場所は北端部に当たる。



 また、所在する豊田町の大字手洗(三野和手洗・三野和飯塚)は、南隣の菊川町に入る入口付近でもあることから、飯塚氏は豊田氏一族と関わっていたことされ、一説には同氏は豊田氏の家臣であったとも伝えられている。

 また、長生寺城の稿でも触れているが、菊川町に向かう街道、即ち小月街道には、関所を設け城戸とした、とあるので、当城(飯塚城)はそれ(城戸)とセットになっていたのかもしれない。
【写真左】頂部(主郭)が見えてきた。
 比高50m前後のため、簡単に登れると思っていたが、前日降った雨のため、泥濘に足を取られる。





遺構の状況

 写真にもあるように、最近かなりの範囲にわたって伐採作業が行われ、この作業のための重機などが移動できるように作業道が設置された。このため、遺構は殆ど消滅している。唯一石碑が祀られている最高所の主郭付近に郭の面影が残る。
【写真左】北東部
 この日探訪したときは、主に北東部の斜面が伐採され、斜面の要所に作業用の仮設道路が設置されていた。
 写真で見る限り、この辺りの傾斜は険しくなっている。

 奥に見えるのは木屋川で、南の菊川町へ流下している。
【写真左】東南部から振り返る。
 北側から登り、東斜面伝いに南に向かっていった。
 途中で振り返ってみたものだが、写真中央部には郭段のようなものがあったように思える。
 ただ、伐採のため大胆に土砂が移動しているため判断できない。
【写真左】最高所に建立された石碑
 上段部には横書きの文字が筆耕されているようだが、判読不能。

 中央に縦書きで次のように記されている。
飯塚開祖 飯塚三郎之碑
 この飯塚というは、先述したように地元手洗にある三野和・飯塚の地名から名乗ったものと思われる。
【写真左】横から見たもの
【写真左】祠
 石碑の隣には祠が祀られている。
【写真左】祠と燈籠
 祠の南側には燈籠や石柱も建立されている。
この石柱には文字が筆耕されているが、大分劣化していて判読が困難。

 ただ、「…陸軍曹長 竹杉…」という文字があり、先の大戦もしくは日清日露戦争時の忠魂碑かもしれない。
【写真左】三角点
 100mにも満たない山だが三角点が設置されている。
 左奥には電波塔らしき設備があるが、稼働してないような状況に見える。
【写真左】北から西の方へ向かう。
 伐採されていない西側に少し向かう。当時はこの方向が大手だったのかもしれない。
【写真左】南側の切崖
 かなりの急傾斜となっている。
【写真左】主郭付近から北方に長生寺城を遠望する。
 下山途中に見えたもので、豊田氏居城の長生寺城が確認できる。

 この位置から双方で狼煙などをあげていたのかもしれない。
【写真左】北東麓を見る。
 正面に見る田圃や、奥の丘陵地が小字名の三野和飯塚という地区になる。

 飯塚城は、東麓に本流木屋川が流れ、北側にはその支流・本浴川(数軒建っている手前の川)、南麓には同じく支流・江良川が流れているので、三本の川に囲まれるように位置している。
 ことから、これらが三本の川が濠の役目をしていたものと思われる。
【写真左】最初に登ってきた段
 重機で改変されているが、当時の二の丸的機能を有していたのかもしれない。