2011年12月14日水曜日

海老山城(島根県松江市 上佐陀町~八束郡 鹿島町)

海老山城(えびやまじょう)

●所在地 島根県松江市 鹿島町 名分 七日市
●別名 恵美山城
●築城期 不明
●築城者 新田(仁田)右馬頭
●落城 永正17年(1520)
●高さ 標高86m
●遺構 土塁・井戸・堀切7・郭
●登城日 2010年2月5日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』「佐太神社HP」等)
島根県の旧鹿島町と松江市の境にそびえる恵美山に築かれた山城で、小規模ながら堀切に見るべきものがある。
【写真左】海老山城遠望
 北麓の講武付近から見たもので、写真右に向かうと佐太神社・芦山城方面へ向かう。



現地の説明板より

“海老山城(恵美山城)


 海老山城主新田右馬頭守は、永正17年(1520)に佐太神社神主でもあった佐太宮内蘆山城主・朝山越前守綱忠と佐太神領を侵したとして争いになり、新田氏は討ち滅ばされました。


 海老山城跡は、標高70mの山頂にあり、山頂部は削平され平坦地で、井戸跡もあります。尾根には6か所の堀切があり、堅固な城構えです。


海老山城の落城した5月20日に山に入ると、鯨波(ときのこえ)や、轡(くつわ)の音、黄金の鶏の鳴き声がし、その声を聞いた者は不幸が来ると恐れられ、誰もその日には入るものはいなかったという。今でもこの周りの人たちはこの言い伝えを守っています。
生馬公民館
 平成10年9月吉日”
【写真左】登山道入り口
 松江市から鹿島町へ向かう県道37号線の上佐陀町付近で右に枝分かれする道があり、ここを少し進むとご覧の看板が見える。




 説明板にある佐太宮内の蘆山城とは、海老山城の西麓を流れる佐陀川を挟んで北北西にあった「芦山城」ではないかとされている。

この城は、宝徳2年(1450)、朝山越前守貞昌が築城したとされているので、永正年間に海老山城を攻めた越前守綱忠は、その孫あたりになるのだろう。
【写真左】蘆山城(芦山城)遠望
北東側から見たもので、手前の川が佐陀川。


中央の山(海地呂山)に築かれた山城で、遺構としては郭が残っているというが、管理人は未だ登城していない(登城道はないかもしれない)。


なお、この川の左側を進むと、佐太神社や海老山城に達するが、そのまま川を進むと宍道湖につながる。逆に右に向かうと日本海へ出る。


江戸時代の天明5年(1785)、清原太兵衛がこの佐陀川の開削工事を開始し、宍道湖と北の日本海を運河でつないだ。
【写真左】登城道
 先ほどの登山道入口から進むと、神社(加茂志神社だったと思う)があり、その脇を通って登っていく。
 踏み跡が結構あったので、迷うことはない。


佐太神社

 佐太神社は出雲国でも出雲杵築大社・熊野大社と並び、「出雲国三大大社」の一つとされた古い歴史を持つ社である。

 神主とされる朝山氏については、以前取り上げた旅伏山城(島根県出雲市美談町旅伏山)姉山城・朝山氏(島根県出雲市朝山)、及び平田城(島根県出雲市平田町極楽寺山)でも紹介したように、南北朝期から室町初期のころ、出雲国の国衙在庁官人兼社家奉行の任にあったとされ、京極高詮が出雲守護職を得たころ、同氏の一部(出雲朝山郷を支配していた人物)は室町幕府の奉公衆として京都に上ったとされる。
【写真左】佐太神社
 海老山城の西を流れる佐陀川を挟んで西岸に鎮座する。

由緒より、


“出雲国風土記に、佐太大神社或いは佐太御子社とあり、三笠山を背に広壮な大社造りの本殿が相並んで御鎮座になっているので佐太三社とも称され、延喜式には佐陀大社と記され、出雲二宮と仰がれてきた御社である。…”


 そして、出雲国に残った朝山氏のうち、宝徳年間に越前守貞昌が、支配地の中心を現在の宍道湖北岸にある佐陀神社近辺に定めていったものと思われる。
【写真左】堀切・その1
 海老山城の特徴としては、堀切が挙げられる。標高が100mにも満たないため、これを補完するための要害として堀切が多用されたと思われる。


 なお、このころの出雲国守護は京極持清だが、同国にある杵築大社や神魂神社、及び雲樹寺、出雲安国寺などに対し、幕府の命によって課役の免除や社領・寺領の安堵などを行っている。

 鹿島の佐陀神社に関するものはあまり残っていないが、おそらく同様の事務所管を行っていたものと思われる。

 ところで、海老山城と蘆山城の間は直線距離でわずか1キロ余りである。さらに佐陀神社と海老山城の距離となるとさらに短く、指呼の間である。

 このことから、おそらく蘆山城主・朝山越前守綱忠と海老山城の新田氏との境界争いは度々行われていたものと思われ、永正17年に至って、ついに戦端が開いたのではないかと思われる。

新田氏

 海老山城の城主は新田氏とされているが、史料によっては、「仁田氏」とも記されている。同氏の出自など詳細は不明であるが、地元の小国人領主であったのだろう。
【写真左】堀切・その2
 堀切は本丸を中心に東西にバランスよく配置されている。
現地には「堀切・№」の表示が設置してあり、分かりやすい。
【写真左】一段高くなった郭段
 全体に東西に延びる尾根を利用した城砦で、尾根幅も広くなく、小規模なものだが、逆にいえば、限られた条件でどれだけ有効な城砦施設が設計できるか、築城当事者が苦心した様子がうかがえる。
【写真左】西に延びる郭
 この先からはほぼフラットな形状が続き、しばらくすると主郭が見えてくる。
【写真左】海老山城主郭
 東西に長く、南北は10m前後の規模である。
【写真左】土塁
 主郭の北側を中心に土塁跡が見える。
永正年間朝山氏の攻撃を受けていることを考えると、当然北側や西側の防備には意を用いていたと思われる。
【写真左】主郭から南方に佐陀川を見る。
 写真右側のまっすぐに伸びた川が佐陀川で、奥の宍道湖とつながる。
 写真の右(北)に向かうと、日本海の鹿島漁港に出る。


戦国期まではこの写真に見える田圃は、宍道湖として、深く入り込んだ入江だったと思われる。
【写真左】主郭から北に島根原子力発電所を見る。
 主郭から西方の佐太神社は樹木があるため俯瞰できないが、北北西に島根原子力発電所の鉄塔が尾根越しに見える。
 この尾根の向こうは日本海になる。
【写真左】西方の堀切・その1
 主郭を過ぎて、反対側の西側ルートを降りていくと、いきなり見ごたえのある堀切が出てくる。


「空堀・4」と表示さている箇所で、登ってきた東側の堀切に比べ、さすがに規模が大きく、切崖も見ごたえがある。
【写真左】堀切・その2
 堀切を含め、西方には大きな窪地(郭か)が残っているが、おそらく馬場・駐屯地のような施設として使われたのだろう。
【写真左】崩落した南面
 下山コースの一部で、この写真の上を通って降りていくのだが、歩いている最中は分からず、下に降りて、この光景を目にしびっくりした。


 意外と地盤は弱いようだ。
【写真左】出雲二十七番札所・千光寺
 写真左側が下山した位置になるが、この場所は出雲二十七番札所、千光寺の境内につながる。


開基・創立など縁起は分からないが、古刹であることは間違いないようだ。

2011年12月9日金曜日

山南城(島根県邑智郡美郷町村之郷)

山南城(やまみなみじょう、又は、やまなじょう)

●所在地 島根県邑智郡美郷町村之郷
●築城期 鎌倉時代末期
●築城者 小笠原長親又は家長
●高さ 標高260m(比高40m)
●遺構 郭等
●別名 城山・南山城
●遺構 郭等
●登城日 2011年7月22日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』『石見町誌・上巻』等)
 石見国(島根県)の旧大和村(現邑智郡美郷町)の村之郷に築かれた山城で、島根県遺跡データベースによれば、本城とされる北側の最高所には明確な遺構は残っていないが、南側に出城と思われる箇所が残り、そこには祠が祀られている。
【写真左】山南城遠望
 北側から撮影したもので、山城というより小砦、もしくは居館跡といったほうがよさそうな規模の小さい城砦である。





 所在地は旧大和村と呼ばれた現在の邑智郡美郷町の南方にあって、江の川の西方に位置する。

 江の川側から向かう場合、木立の深い狭く曲がりくねった邑南飯南線(県道55号線)を進むと、最初に戦国期尼子・毛利の激戦地となった「尼子陣所跡」がある。

 ここからさらに西に向かい、橋ヶ峠を越えていくと、次第に谷間が開けてくる。山南城は途中でT字に分岐する位置に築かれている。

現地の説明板より

“山南(やまな)城址
 この小山は、山南城址の一部で、城山とよばれている。
 当地方一帯を古くは「山南(やまな)の里」と称した。城の名称もここに由来する。
 13世紀(鎌倉時代)四国阿波の小笠原氏、石見沿岸防備の功により、当地方を加増されてこの地方入りの拠点としたのが当城である。


 その詳細な年代については、諸説あり、特定できない。


 拠点を川本温湯城に移した後は、その食糧基地として、宮内~布施奥谷~芋畑を経る「笠取り横手」と呼ばれる間道を通じ、補給の拠点となった。
今は、近くの「弓場が谷」等の地名や、「矢竹」の繁茂が往時をしのばせる。”
【写真左】現地に設置された説明板












石見・小笠原氏

 山南城及び、築城者といわれる石見・小笠原氏については、丸山城跡(島根県川本町田窪古市)の際、少し紹介しているが、本稿で改めて整理しておきたい。

 石見・小笠原氏は一般的に、弘安の役(1281)により、阿波・小笠原氏の長経の孫・長親がその功によって、石見国邑智郡村之郷を賜ったのが初期とされ、下向したのがその14年後の永仁3年(1295)ごろとされている。


 説明板にある「石見沿岸防備」とは、弘安の役すなわち、蒙古襲来における日本海岸周辺の防備で、石見地方の沿岸部には18か所の砦が築かれた。これを石見十八砦と呼ぶ。

 中世石見の主だった一族が確立するきっかけとなったのが、この18か所の城砦が築かれ、それぞれの担当箇所が定められたことにある。そして、それはその後の領有地と深く結びついていくことになる。
【写真左】最初の郭段
 細長いスロープ状の形状を持ち、奥に行くにしたがって広くなる。








主だった石見の一族

吉見氏・益田氏・三隅氏・福屋氏・周布氏・小笠原氏・出羽氏・井原氏・重富氏・三宅氏・大場氏・佐波氏・久利氏・富永氏など。



 さて、この中の小笠原氏についてだが、当初同氏はどの城砦を担当していたのかはっきりしない。

 しかし、出典が不明ながら「沿岸警固のため石西に出張し、妻は益田兼時七尾城 参照)の女美夜」であったという記録があり、このことから当初石見の西方、すなわち益田市沿岸部を担当していたということが読み取れる。

 また弘安の役後「その功により、邑智郡に加封され、村の郷に南山城(山南城)を築いた」とある。
【写真左】下の郭から主郭を見上げる。
 高さはおよそ5,6m程度か、登り道のような箇所が残っていたので、ここから登る。







 ところで、『日本城郭体系第14巻』では、村之郷へ最初に入ったのは、長親ではなく、その子・家長であったとしている。

 そして、最初の本拠地はこの村之郷ではなく、江の川をもう少し下った現在の川本町付近であったとし、村之郷(山南)は食糧補給の拠点として、城代福田氏が経営に当たったと記している。
【写真左】主郭・その1
 祠のようなものが二基祀られている。
【写真左】主郭・その2
 中には仏像のようなものが見えた。
【写真左】古墓
 主郭の隅に見えたものだが、宝篋印塔のような古墓が3基欠損のまま置いてある。
【写真左】切崖
 主郭の裏側は巨岩による切崖形状となっている。










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2011年12月6日火曜日

益富城(福岡県嘉麻市中益)

益富城(ますとみじょう)

●所在地 福岡県嘉麻市中益
●別名 大隅城
●築城期 永享年間(1429~41)
●築城者 大内盛見
●城主 大内氏・杉氏・秋月氏・早川長政・後藤又兵衛・母里友信等
●高さ 標高188m(比高150m)
●遺構 石垣・竪堀・空堀・郭・搦手門その他
●備考 筑前六端城の一つ
●廃城年 元和元年(1615)
●登城日 2011年3月12日

◆解説(参考文献『益田市誌・上巻』等)
 福岡県のほぼ中央部、現在の嘉麻(かま)市に築かれた山城である。益富城は旧筑前国に所在するが、北東部を走る秋月街道(R322 )と接し、同街道を登るとすぐに豊前国に至る。つまり境目の城である。
【写真左】益富城遠望
 南西麓から見たもので、一般的な要害性を持つ険峻な山城とは趣が違い、頂上部は南北に長く緩やかな平坦面に見える。

 なお、当城は城山自然公園として現在整備中であり、南西麓を走る国道211号線から城山公園に向かう道が整備されている。


現地の説明板より

“益富城の歴史
  • 永享年間(1430年頃) 大内盛見によって築城される。
  • 永禄年間(1560年頃) 毛利元就の領有となり、杉七郎忠重が城番となる。
  • 天正年間(1580年頃) 秋月氏の隠居城となる。
  • 天正15年(1587年)  豊臣秀吉は、秋月氏を攻略した後、早川主馬首を城番として居城させる。
  • 慶長5年(1600年)   黒田六端城の一つとなり、後藤又兵衛が城主となる。
  • 慶長11年(1606年)  後藤又兵衛は出奔し、後の元和元年(1615)大坂夏の陣で討死する。
  • 同年           母里太兵衛が益富城主となる。
  • 元和元年(1615年)  母里太兵衛が病死する。 幕府より一国一城令が発布され、黒田の本城を残し、六端城はことごとく破却される。益富城廃城となる。
【写真左】益富城(城山)自然公園案内図
 茶色に塗られた箇所が城域で、右側中段に主だった遺構がある。
 左側から二の丸・あずまや・白米流し跡・本丸・展望台などと図示されている。


“益富城の規模
 当城は、標高187mの山頂に築かれた山城で、本城は、本丸・二の丸・馬屋からなり、その東側に、出丸を設け、両脇を固めるように別曲輪を5か所に配置している。

 これらは、東の豊前方面に対する堅固な守りとして築かれている。その形は、出丸を頂点とした三角形を呈していて、一つの陣形を示すようにも見える。
全体の規模は、おおよそ5町歩(50,000㎡)ほどと考えられる。”
【写真左】「一夜城倉庫新築工事」の看板
 登城したのは、今年(2011年)3月12日で丁度工事中であったため、作業をしている人の邪魔にならないようにして踏査した。



応永の乱

 築城者は大内盛見とされている。彼の父は弘世で、彼の子には長兄・義弘を頭に、満弘、弘正、盛見弘茂、弘十道通と多くの男子がいた。盛見の兄・義弘は、応永の乱の首謀者である。

 当時、室町幕府は、応永元年(1394)に第3代義満が将軍職を辞し、嫡男・義持に引き継いだ。そして本人は太政大臣となるもその翌年出家し、道義と号した。
 義満については以前にも紹介したように、強大な力を誇示していた守護大名たちを巧みに利用したり、あるいは削ぎ落としたりしながら、京都室町においていわゆる「室町幕府」を確立した第3代足利将軍である。
【写真左】伐採された別曲輪
 益富城の二の丸手前の東側に残る郭で、最近まで樹木が生い茂っていたようだ。


 この付近を伐採すると、東側の駐車場から二の丸方面にむけて視界が良くなる。




 大内盛見の兄・義弘は、南北朝後期九州探題今川了俊に属して、南朝方と戦い豊前守護職を与えられ、さらには明徳の乱においても活躍、和泉・紀伊の守護職も与えられた実力者だった。

 こうした活躍の蓄積によって、最盛期には本国周防・長門に加え、石見を合わせると6か国の守護を数えるほどになった。

 また、日本海に近い地の利を生かし、朝鮮との貿易で莫大な財力を蓄え、このことが次第に幕府から警戒されるようになる。義満は出家したのち、北山第(金閣寺)の造営を計画、諸大名にその費用と施工人の提供を求めた。これに対し、義弘は「武士の奉公にあらず」として拒否、こうしたこともあって次第に両者の溝は深まった。
【写真左】空堀
 二の丸に向かう途中の南側に設置されたもので、竪堀形式のもの









 応永6年(1399)10月28日、ついに大内義弘は鎌倉公方(関東管領)足利満兼と呼応し、倒幕の兵をあげた。
そして11月29日、幕府軍は大内義弘の拠った堺城を包囲、翌月21日には当城陥落し、義弘は討死した。

 このとき、兄義弘に従っていた盛見の弟は、兄の敗死によって幕府に降伏し、義満に恭順の意を示し、長兄の家督を継ごうと義満に接近した。

 これに対し、盛見はもっぱら本国にあって兄義弘の留守を預かり、兄義弘の敗死後、兄の遺志を継ぐべく、義満への抵抗を燃やし続けた。
【写真左】益富城要図
 説明が前後するが、登城したこの日益富城を見学できたのは、この図でいえば、右側上(東)から別曲輪を通り二の丸~本丸と向かい、北側の馬場跡のエリアのみである。


 これ以外の北東部に残る出丸を中心とした城域には向かっていない(整備されていないと思われる)。

【写真左】二の丸
 先ほどの堀切付近から10数メートル登ると二の丸が現れる。長径25m前後、短径10m前後で、この幅のまま本丸へとつながる。



筑前国深江の戦い

 このため、義弘亡き後の大内氏家督騒動が、盛見と弟・弘茂との間でくりひろげられることになる。

 弘茂が応永7年(1400)、周防・長門に戻ると、盛見は一旦豊後に下がり、翌8年に反撃に転じ、家督を相続した。そして、盛見に対抗する諸将も近隣にはおらず、幕府もそれを認め周防・長門の守護職を安堵した。この後、盛見は北九州にも進出し、豊後守護職も任命された。

 応永32年(1425)九州探題であった渋川義俊が、少弐満資・菊池兼朝に敗れると、急ぎ九州に赴き、乱を平定し、義俊の従弟渋川満直を新たな九州探題とし、自らは筑前が幕府の御料所となるとその代官に任命された。

おそらく、このとき益富城は築かれたものと思われる。
【写真左】枡形虎口
 二の丸と本丸の間に残る。











 しかし、筑前国については少弐氏や大友氏が依然として支配力を堅持していたため、盛見は彼らとこの領地を巡って交戦を交えることになる。のちに、この戦いは、筑前国深江の戦いと呼ばれた。

永享3年(1431)、6月28日盛見はこの深江で討死した。享年55歳。

 この戦いは、地元北九州の武将の他、石見国からは益田七尾城主の益田兼理も盛見の配下に属して戦い、盛見の後を追って翌29日討死した。そして、同年7月16日、足利義教は兼理の活躍を賞した(「萩閥7」)。

 なお、筑前国深江というのは、現在の福岡県糸島市二丈深江で、おそらく当時は文字通り玄界灘から深く入った入江の地勢であったものと思われ、盛見側は当初、深江の東方福井方面に陣を構えていたという。こうしたことから、この戦いは陸上戦と船戦さの混在したものだったと思われる。
【写真上】二の丸付近の説明図
 大分年数がたち汚れた説明板だが、主だった遺構として、次のものが挙げられている。

  1. 枡形の虎口 後藤又兵衛・母里太兵衛時代のもの
  2. 白米流し跡 天正15年秀吉の攻略の際行われた。
  3. 横矢 後藤又兵衛・母里太兵衛時代、土塁を張出し、ここから矢を射かけた。
  4. 水の手曲輪 秋月時代、飲料水として使われた。
  5. 空堀・畝状竪堀 秋月時代
  6. 櫓跡 後藤又兵衛・母里太兵衛時代、二の丸で使われた。

秋月氏

 秋月氏については、「秋月城」(2010年3月5日投稿)でも少し触れているが、益富城から秋月街道(R322号線)を南下した朝倉市秋月の「古処山城」(H:860m)を本拠とし、建仁3年(1201)種雄を祖とし、16代・385年まで続いた名族である。

 秀吉が益富城を攻略した際の顛末について、当地に「一夜城伝」というのが下段に示すように伝わっている。

 なお、文中の「岩石城(がんじゃくじょう)」というのは、益富城から東方約20キロほど向かった田川郡添田町にある標高454mの山城で、『城郭放浪記』氏がすでに登城・公開されているのでご覧いただきたい。
【写真左】二の丸から本丸に向かう。
 二の丸と本丸の間は少し高くなり、右に見える築山状のものは、櫓跡。
 また、左の道奥に見える建物が、一夜城の倉庫のようだ。





“一夜城伝


 天正15年(1587)豊臣秀吉は、30万の軍勢とともに小倉城に入り、4月1日には、秋月攻略の火蓋が切られた。秋月二十四城の一つ豊前の岩石城を1日で陥落させた豊臣の軍勢は、怒涛のごとく大隅の町に押し寄せた。
【写真左】一夜城倉庫
 建物はほぼ完成しているようだが、外構工事がこれからというところか。








 岩石城の落城の知らせを受けた秋月種実は、種長の守る古処山本城へといち早く逃れた。秀吉は、まず嘉麻・穂波の村々にかがり火を焚かせた。


次に、大隅町民に命じて、町中の戸や障子を益富城へと運ばせ、一夜にして仮城を築いた。その光景を前にした秋月父子は、恐れおののき、戦わずして降伏した。

秀吉は、協力した大隅町民に対し、愛用の陣羽織と佩刀(はいとう)を与え、お墨付きをもって永代貢税を免除した”
【写真左】本丸付近から西麓を見る
 眺望は西側の一部のみが俯瞰できる。この谷の中央を流れるのは遠賀川で、奥の山並みを超えると飯塚市方面につながる。
【写真左】土塁
 本丸付近に残る土塁で、両側にほぼ構築されている。
【写真左】建物礎石群
 本丸跡に残るもので、おそらくこの場所に天守があったものと思われる。
【写真左】旗立石
 本丸の近くにあった石で、ご覧の通り穴が残っている。
【写真左】櫓跡
 本丸を過ぎた地点に残っている。
【写真左】畝状竪堀群
本丸を過ぎ北端部から降ると、北側に連続して残るもので、深さもかなりあるようだ。
【写真左】馬屋跡
 先ほどの畝状竪堀群を過ぎると、4,5段の腰曲輪が続き、最後にこの馬屋跡がある。
 半円形の形をなし、周囲は土塁のような囲繞遺構が残る。




◎関連投稿

2011年12月2日金曜日

障子ヶ岳城(福岡県田川郡香春町・京都郡みやこ町)

障子ヶ岳城(しょうじがたけじょう)

●所在地 福岡県田川郡香春町鏡山・京都郡みやこ町勝山松田
●別名 牙城
●高さ 標高427m(比高350m)
●築城期 建武3年・延元元年(1336)
●築城者 足利駿河守統氏
●城主 足利統氏・門司国親・毛利氏・黒田氏他
●形態 連郭式山城
●遺構 郭・土塁・堀切
●登城日 2011年3月12日

◆解説(参考文献『サイト:城郭放浪記』『益田市誌・上巻』等)
 障子ヶ岳城は、福岡県の北東部京都郡みやこ町と、田川郡香春町に挟まれた山城である。
 サイト『城郭放浪記』氏も述べているように、規模そのものは大きなものではないが、現地に足を踏み入れてみると、隅々まできれいに管理されている。掛け値なしに、これほど気持ちのいい山城はめったにお目にかかれない。まるで、庭園を鑑賞するような造形美さえ感じる。
【写真左】障子ヶ岳城遠望
 北東麓の勝山宮原方面から見たもの。
 麓から見ても整備されていることがよく分かる。



 下段に示す二つの説明板を読むと、当城が二つの町に跨っていることもあり、おそらくこの両方の町の人たちによって継続的に清掃や管理がされているようだ。

 山城はいわゆるメジャーな観光地ではないため、探訪者も当然限られてくる。山城ファンや、登山を趣味にしている人たちが大半である。

 それでもこうして地元の方々によって、地道に郷土の史跡を保存管理されていることを思うと、頭が下がる思いである。出雲から来た一山城愛好者として、関係者の方々に感謝の意を表したい。
【写真左】登城道・味見峠付近
 登城口は複数あるようだが、この日は北側の味見峠側から向かった。


 64号線(苅田採銅所線)から鋭角に分岐する山道があり、屈曲したカーブを進んでいくと、本来はこの写真の位置まで車で来ることができるが、途中で道路改修工事があり通行止めされ、車はその脇に停め、そこから歩いて向かった。


現地の説明板・その1

“味見峠と障子ヶ岳城跡
 味見峠(標高247m)は、養老4年(720)採銅所長光にある清祀殿で鋳造した銅の神鏡を、古宮八幡宮から宇佐八幡宮に奉納する際、御神輿の行列が通ったことで有名であり、英彦山山伏の峰入りコースの一部でもあった。


 昭和56年(1981)中腹に苅田~採銅所線として味見トンネルが開通し、今日では人通りも途絶えているが、かつては経済的、人的交流(婚姻など生活交流)の峠道でもあった。
【写真左】障子ヶ岳登り口の看板
 この位置で他の登り道と合流する。ここから1キロ余りの距離となる。


 ご覧の通り、登城道は登山者が多いことと、管理が行き届いているため、距離はあるものの爽快な気分になる。
 
また、所々で左右に景色が見え、楽しめる。



○味見「アジミ」の由来は
  1. 宇佐八幡の所領としての勾金荘が「安心院氏」によって支配されていたこと。
  2. 障子ヶ岳と龍ヶ鼻の鞍部、すなわち馬の鞍の古語「アジム」。
  3. 採銅所中野に魚市場があったことから、京都郡豊前海の新鮮な魚介類が人の背によって運ばれ、峠で鮮度や味見をしたこと。 などの諸説がある。
【写真左】本丸が見え始める。
上記の位置から尾根伝いにほぼ真っ直ぐにむかうが、途中で2,3所アップダウンがある。このうち一か所は砦跡と表示されたところがある。いわば北方の出城の役目を成したものだろう。



    味見峠から登られる障子ヶ岳城跡

     障子ヶ岳(427.3m)の山頂にあった障子ヶ岳城は、戦略上の要衝の地であるため、この城をめぐって幾度か攻防が繰り返された。

     この城跡は、牙城跡(きばじょうあと)とも呼ばれ、中世の山城の姿を極めてよく残している。
     建武3年(1336)、足利尊氏の命によって、足利駿河守統氏の築城といわれ、その後度重なる戦乱で城主は変わり、天正14年(1586)豊臣秀吉の九州平定に伴い、黒田孝高の軍に落とされた。

     平成16年7月吉日 香春町ボランティアグループ 味見会 製作”
    【写真左】本丸直下付近
     尾根筋をかなり長く歩くと、やがて本丸の真下に行き着く。この部分は少し下がっているため、よけいに本丸の比高を高く感じる。


     ここまで歩いた尾根筋には左右に多くの木が植えてあったが、おそらく桜の木だろう。春に探訪すれば見事な景色の桜並木道となるだろう。



    現地の説明板・その2

    “障子ヶ岳城址

     この障子ヶ岳は標高427mで、京都、田川の郡境に位置し、戦略上、要衝の地にあるため、この城をめぐって幾度か攻防が繰り返されてきました。特に1399年(応永6年)に繰り広げられた大内、大友の両家の戦いは有名で、「応永戦覧」の中でも紹介されています。

     この城址は、牙城跡とも呼ばれ、中世の山城の姿を残しています。障子ヶ岳城は、1336年(建武3年)足利尊氏の命によって、足利駿河守統氏が築城し、その後の度重なる戦乱で、城主は次々と変わっています。

     この城は、豊臣秀吉の九州平定に伴い、1586年(天正14年)黒田孝高の陣に下り、その翌年には豊臣秀吉も入城したとされています。
     その後、この城は1615年(元和元年)に徳川家康の一国一城令によって廃城となったとされています。

     昭和63年12月
      勝山町教育委員会

    ※この城址は、長く雑木がうっそうと生い茂り、その姿も消えようとしていたものを、地権者の理解を得て、今春4か月をかけて実施した「障子ヶ岳の城攻め」と銘打った清掃事業に参加した延べ623名のボランティアの手により、この美しい姿を取り戻したものです。”
    【写真左】上記の位置から後ろを振り返る。
     右側はご覧の通り切崖状となっている。










    足利尊氏の西下

     障子ヶ岳城の築城期は、説明板にもあるように建武3年(1336)とされ、築城を命じたのは足利尊氏である。
     この年の1月、尊氏は京都賀茂河原で新田義貞(新田義貞戦没伝説地(福井県福井市新田塚)参照)に敗れ、いったん丹波国に逃れた。そして赤松円心(白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)参照)の勧めを聞き入れ、九州に下った。

     九州で体勢を立て直し、宮方の菊池武敏・阿蘇惟直らと筑前多々良浜(福岡市東区)で戦い、これに勝利したのが、同年3月2日とされている。

     障子ヶ岳城を築いた足利駿河守統氏については詳細は不明だが、おそらく上記の多々良ヶ浜の戦いに向けて築城されたものだろう。
    【写真左】北の丸
     障子ヶ岳城は南北に長く伸びた郭群を構成し、北の丸から堀切を介して、南へ馬場跡・二の丸・本丸と続く。


     登城入口は北の丸の南にある堀切付近にある。
     この写真は堀切側から北の丸を見たもの。



    豊臣秀吉の九州征伐

     秀吉が九州征伐、すなわち島津義久らの討伐を開始したのは天正14年(1586)のことであるが、このときの障子ヶ岳城周辺を任された秀吉方の主だった将は、小早川隆景および黒田如水(孝高)らである。

     障子ヶ岳城に小早川隆景らが迫ったのは、同年11月10日とされている。そしてわずか5日で落城した。しかし、障子ヶ岳城が落城したその日(11月15日)、隆景の兄・吉川元春は、豊前小倉の陣中で没した。享年57歳。
    【写真左】馬場跡・その1
     幅10m前後、長さは40m前後と規模はあまり大きくない。
     奥に二の丸・本丸が控える。
    【写真左】馬場跡・その2
     北の丸の東側から捉えたアングルで、色合いが少し違うが、少し手動調整している。





     ところで、障子ヶ岳城の西方2キロには当城の本城とされていた香春岳(かわらだけ)がある。

     この城には、当時高橋種元(筑前・岩屋城・その1(福岡県太宰府市大字観世音寺字岩屋)参照)が城主であったが、交戦中、東方に見える支城・障子ヶ岳城の落城を目の当たりにした種元は、その後戦意を喪失し投降した。

     ちなみに、障子ヶ岳・香春岳城の戦いの前哨戦としては、宇留津城(福岡県築上郡築上町大字宇留津)の戦いがあった。宇留津城は、現在の築上郡築城町にあった平城で、周防灘に面した位置にあり、形態としては当時は海城だったと思われる。

     城主は賀来恵瓊で、毛利軍は先にこの城を落とした。その際、残兵は大半が香春岳城へ奔ったという。
    【写真左】二の丸手前の説明板
     この説明板が上段で紹介した内容のもの(その2)である。
     北の丸から本丸までの総延長は210mで、本丸の頂部と、北の丸のそれとはほぼ同じ高さとなっている。



     この戦いでは、毛利方の武将として参加した石見の七尾城主益田越中守元祥(七尾城・その3(島根県益田市七尾)参照)は、多大な活躍を見せ、輝元から感状を、吉川元長から太刀一腰、馬八疋を贈られている。

     さらに、元祥は香春岳城の戦いでも殊勲を立て、のちに黒田如水の口添えで、秀吉から感状を受けた。

     最終的に秀吉の九州征伐が完了するのは、翌天正15年(1587)5月8日である。その前日、雨窓院において剃髪した義久(島津)は、龍伯と改め、当日佐々成政を介して秀吉に謁見した。

     本来ならば、義久は敗将として自刃を迫られてもおかしくない状況である。秀吉が義久に対して命を奪うどころか、旧領の大隅・薩摩・日向南部の領有を認めている。秀吉がこうした処置をとった背景には、日向方面(東軍)の総大将だった秀吉の実弟・秀長との事前の講和が背景にある。
    【写真左】二の丸から振り返ってみる。
     手前が馬場跡、いったん下がったところが堀切、そして奥に独立した郭・北の丸がみえる。
     北の丸の延長方向(北方)は北九州市方面になる。
    【写真左】二の丸と本丸
     手前が二の丸で、その奥に本丸が控える。二の丸と本丸との比高は約4m前後か。
     傾斜はあるものの、これだけきれいに管理されていると、登るのも苦にならない。
    【写真左】本丸・その1
     本丸に上がると、ご覧の通り庭園のように整備されている。
     ほぼ全周にわたって土塁が取り巻く。高さは1m弱か。
    【写真左】本丸・その2
     土塁の西側切崖部分もきれいに整備されている。
    【写真左】本丸・その3
     標柱脇にはやや時期が過ぎたものの、水仙の花が咲いていた。
    【写真左】本丸の西側切崖から北の丸方面を見る。
     遺構の種類や規模としては物足りないものかもしれないが、山城の骨格を知るうえでは大変貴重な素材ともいえる。
    【写真左】振り返って二の丸を見る
     二の丸は北の方にかけて少し幅が狭くなる。
    【写真左】本丸から再び見下ろす
     この角度から見ると、全体に弓型の形状にみえる。








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