2022年4月13日水曜日

備中・折敷山城(岡山県笠岡市走出字要害)

 備中・折敷山城(びっちゅう・おりしきやまじょう)

●所在地 岡山県笠岡市走出字要害
●別名 尾敷山城、尾鋪山城
●高さ 60m(比高30m)
●築城期 不明
●城主 有岡氏、小田氏
●形態 丘城
●遺構 郭、堀
●登城日 2017年9月16日

解説(参考資料 『日本城郭体系 第13巻』等)
 備中・折敷山城(以下『折敷山城』とする。)は、笠岡市の北端走出の地にあって、その北側には小田川が東西に流れる。
写真左】折敷山城遠望
 麓から見たもので、高さが60m前後しかないため一見するとありふれた小丘に見える。





現地の説明板より

折敷山(尾鋪山)城址

  折敷山城は『備中府志』に天文年間(15321555)の頃、城主は有岡新之丞(摂州池田の有岡城城主池田正充の次男)であったと記してある。

 新之丞の出奔後、走出村は小田氏領となり、小田政清(小田氏第五代)が城主となった。 永禄年中(155869)の頃の城主は政清幕下の有岡右京(新之丞の弟)と、名越修理であった(走出村明細帳)。

 永禄12年(1569)小田乗清(小田氏第六代高清の弟)が城主となり、続いて小田元家(小田氏第七代)が城主となった。

 徳川時代になると、走出村は徳川氏の直轄地となり、折敷山城は楢村(ならむら)監物に任された。後に一国一城制となり、折敷山城は廃城となった。

本丸 5,000㎡   西ノ丸 1,300
北の丸 1,000㎡   的場 500㎡   弓場 500

    北川の昔を訪ねる会
    北川公民館“
【写真左】案内標識
 登城したのが5年前だったこともあり、記憶がはっきりしないが、北側の搦手から登城したと思われる。

 写真は、「北川の昔を訪ねる会」という団体が設置した標識。「卍33番札所 212m」と書かれている。


中世小田川流域の地勢

 折敷山城の北方を流れているのが小田川である。この川は現在東に下って真備町付近で高梁川と合流している。しかし、古くは井原市南端で東西に分流し、山裾を西流し、広島県側の芦田川にも流れ込んでいたという説も残る。
【写真左】折敷山城要図
 現地に設置されていた説明板の添図で、中央右に本丸、左に堀切を挟んで西の丸、北側にも堀切を挟んで北の丸があり、本丸の南側には帯がが2段構成されている。

また、南側には弓場、的場といった単独の遺構も残されている。







 折敷山城は、この小田川がもたらした東西に長い田園地帯に独立した丘城として見えるが、添付した想像図にもあるように、中世戦国期に同川の築堤はほとんど構築されておらず、毎年のように川の流れも変わり、しかも川幅は現在の低地に広がる田園とほぼ同じ規模を持っていたものと思われる。

【上図】中世の小田川地勢想像図
 管理人が作図したもので、小田川は右(東)へ流れ、高梁川と合流する。


 加えて、東隣の矢掛町側には「浅海」という地名も残り、折敷山城を含めたこの付近は東西に長い湖を形成していた可能性が高く、折敷山城を含む2,3の小丘も、大げさに言えば瀬戸内に浮かぶ島嶼の景観と変わらない姿だったかもしれない。

 実際江戸期まで、東方の矢掛町には廻船問屋などがあったことから、折敷山城は当時河城若しくは、海城として水運の機能も兼ねた城郭であったと推測される。
【写真左】左手に墓地
 中腹部には墓地があるため、この位置までは簡易舗装がされている。

 上記要図(見取り図)と対比すると、本丸を囲繞している三の壇の位置になる。


小田氏

 折敷山城の初期の城主は説明板にもあるように、「天文年間(15321555)の頃、有岡新之丞(摂州池田の有岡城城主池田正充の次男)であった」とされている。

 これより遡る記録では、南北朝期の北朝方(幕府)の家臣床上小松が後に小田清秀と名乗り、正平24年(1369)小田の地に入封したという。そしてこの時、小田・甲弩・山口・新賀の4か村を領した。この4か村はいずれも小田川の支流尾坂川沿いの地区である。
【写真左】北の丸
 墓地の上が北の丸になる。
折敷山城の現状は御覧の通り竹で覆われ、簡単には中に踏み込めない。
 よく見ると、北の丸も上段と下段で構成されているようにも見える。



 因みに、尾坂川沿いにある甲弩神社は、奈良時代に創建された古刹で、源平争乱の兵火により社殿が焼失したが、小田氏が多くの社領を寄進し、再建したとされる。
 また、甲弩神社の南方にある神護寺は、戦国期の永禄11年(1568)、小田高清を大檀那として本堂が建立されている。

 さて、その戦国期になると、小田氏は毛利氏の麾下となった。本稿の折敷山城の他に笠岡市山口にあった馬鞍山城も持城とした。
【写真左】分岐点
 右へ北の丸、正面へ西の丸、左へ本丸と書かれている。
 先ず正面の西の丸を目指す。
【写真左】真っ直ぐ行く。
【写真左】北の丸手前
 途中の右手にあったもので、
竹・木が生えいて入れない 北川の昔を訪ねる会」という看板が建てられている。
【写真左】北の丸頂部
 看板では中に入れないとあったが、強引に突き進み、頂部に辿り着いた。
【写真左】奥に行くと西の丸
 一旦ここで足を止め、本丸を目指す。
【写真左】本丸虎口
 西の丸と本丸虎口境には小規模な堀切があり、一段下がっている。

 ここから東側に向かって登坂となり、少し開けた開口部がある。本丸の虎口である。
【写真左】水道施設?
 本丸の西側が少し高くなり、その上にコンクリート製のタンクが見える。地元の水道施設だったようだ。
【写真左】西から奥の方を見る。
 雑木などが生えているが、北の丸ほどひどくはないようだ。
【写真左】本丸中央部
本丸の底面は平滑になっている。印象では近年まで果樹園か畑地だったような雰囲気が残る。

 奥行100m×幅50mという大きさなので、低山の割に広大な規模といえる。
 小田氏居城の頃、ここには数棟の建物が建っていたと考えられる。
【写真左】石垣
 見取図にもあるように、本丸の西(虎口周辺部)には石垣が残る。
 竹林化しているため鮮明ではないが、2,30mの長さで築かれている。
【写真左】間道
本丸側から西側先端部を見たもので、この位置から下に間道が見え、その奥に西の丸が控えている。
 本丸虎口から少し離れていた箇所であったことから堀切の延長線でもある。
【写真左】再び本丸を見る。
【写真左】本丸を降りて西の丸を見る。
 さすがにこれでは西の丸へ向かうことはできない。
【写真左】下城
 この坂を下りると、田園地帯が広がっている。左側には市立北側小学校が見える。


 戦国期にはその麓まで小田川水系の大きな湖があったものだろう。
【写真左】第73番札所 出釈迦寺
【写真左】石碑と祠
注連縄が掛けられている以外、標記されたものはない。小田氏を祀るものだろうか。

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