大和・郡山城(やまと・こおりやまじょう)
●所在地 奈良県大和郡山市城内町
●形態 平山城
●高さ 69m(比高10m)
●別名 犬伏城、雁陣之城
●築城期 応保2年(1162)又は天正8年(1580)
●築城者 郡山衆、筒井順慶
●城主 筒井氏、豊臣氏、水野氏、柳沢氏等
●廃城年 明治6年(1873)
●指定 奈良県指定史跡
●遺構 石垣、堀等
●登城日 2015年12月1日
◆解説
大和郡山城(以下「郡山城」とする。)が所在する大和郡山市は、奈良県の北西部に位置し、郡山城の東西には、大和川の二つの支流である佐保川と富雄川が流れている。
【写真左】改修中の大和・郡山城
この日(2015年12月)訪れたときは、天守台付近の改修工事が行われていたため、本丸付近まで入ることはできなかった。
予定では平成29年度まで(3月下旬)立ち入り禁止とあったので、現在(2018年4月以降)は入場できると思われる。
現地の説明板より
“県指定史跡 郡山城跡
郡山城は、天正6~7年(1578~1579)に筒井順慶が縄張りをおこない、同8年の一国一城令に基づき拡張、同11年には天守閣も完成を見た。同13年豊臣秀長が入部してさらに拡張され、文禄5年(1596)には、増田長盛による秋篠川の付け替えが行われ、外堀を一周させ、城下町の完成を見るに至った。
関ヶ原戦後、長盛が改易され、大坂夏の陣以降、水野勝成が、さらに松平、本多が入城し、享保9年(1724)以降、幕末まで、柳澤15万石の居城として栄えた。
現在のこる縄張りは、秀長時代のもので、左京堀、鰻堀、鷺堀で囲まれた本丸、二の丸、三の丸などが城内で、それ以外の外堀に囲まれた地域が城下となる。
なお、史跡として指定されているのは、本丸、毘沙門曲輪、法印郭、玄武郭、陣甫郭及びその内堀である。
指定年月日 昭和35年7月28日
奈良県教育委員会”
【写真左】大和郡山市案内図
左上の黄色線で囲んだところが、郡山城で、その右斜め下には当時の外堀跡が残る。
このことから、城下町はこの外堀と本丸の間に囲まれた城の東側に配置されていた。
また、右側の赤い線で囲んだ箇所は、下段で紹介した「羅城門跡」の位置。
筒井順慶
郡山城の築城者は筒井順慶とされている。ただ、この場所には応保2年(1162)、郡山衆が雁陣の城を築いたという記録がある。もっともこの頃の城は盛土と柵を巡らした環濠集落の形態のようなものであったとされ、郡山城から南東へ2キロ余り向かったところにある稗田環濠集落もその当時の面影を残している。
また、郡山城から東へ1.3キロほど向かった佐保川沿いには、平城京羅城門跡があり、奈良時代の平城京の南側の入口があった場所と推定されている。
【写真左】郡山城跡案内絵図
現地に掲示されていたものだが、三の丸の位置が図示されていなかったため、追記している。
なお、城域内には現在郡山高校の学舎等が建っている。
さて、中世戦国期に至ると、それまで同市筒井町にあった筒井城(奈良県大和郡山市筒井町)の筒井順慶が、郡山城に居を移し、ここを新たな大和国支配の拠点とするべく築城に取り掛かった。説明板にもあるように、天正11年(1583)には天主閣も造営されている。
順慶については、筒井城で紹介しているが、郡山城の天守を築いた翌年の天正12年(1584)に亡くなっている。享年36歳。
【写真左】三の丸を縦断する近鉄橿原線
入口は2,3か所あるが、この日は南東部にある近鉄橿原線の踏切側から向かった。
因みに近鉄橿原線は三の丸の西端部五軒屋敷池と並行して南北に走っており、この付近も当時の三の丸のエリアである。
豊臣秀長
順慶が亡くなったあと、翌天正13年豊臣秀吉の弟・秀長が大和・和泉・紀伊の三国を併せた100万石余の領主として郡山城に入城した。このとき、当城はさらに規模を拡大し、城下町の整備も行われた。現在の町割りの基礎となったのが秀長時代のものとされ、当時の町名も多く残っている。
【写真左】鉄御門
先ほどの踏切を渡ると、鉄御門といわれる入口に差しかかる。
南側が二の丸となり、北側が南北に細長い陣甫郭(じんぽぐるわ)という馬出としての機能を有する郭がある。
【写真左】表門
二の丸の北側にあるもので、現在二の丸跡には郡山高校冠山学舎が建っている。
【写真左】本丸側に向かう。
二の丸と本丸の間には堀があり、竹林橋と言う橋を渡ると、手前には柳澤神社が祀られている。
【写真左】柳澤神社
本丸に向かう道の左側にあり、写真右に
「祭神 旧川越・甲府城主 柳澤美濃守吉保公」
と刻銘された石碑が建つ。
柳沢吉保は江戸時代前期の第5代将軍徳川綱吉の大老格として活躍した人物。綱吉が館林藩主であったときから仕えていたため、綱吉が江戸城に入ると、そのまま仕え、次第に頭角を現した。
【写真左】天守台
この日探訪できたのは柳澤神社境内までで、その奥の天守周辺はご覧の様な改修工事が行われていたため入ることはできない。
【写真左】堀
天守側の堀で、工事の関係なのか、このエリアだけは空堀状態となっている。
【写真左】毘沙門郭側から天守方向を見る。
天守の東側には堀を挟んで毘沙門郭があるが、この位置から先ほどの柳澤神社の屋根と天守の工事用クレーンの一部が見える。
【写真左】毘沙門郭北側から本丸東の石垣を見る。
【写真左】毘沙門郭北から玄武郭を見る。
天守の北側には堀を挟んで玄武郭があり、その先には馬場先門があった。
【写真左】追手向櫓
本丸の北側毘沙門郭の北東部に配置されたもの。
現地の説明板
“追手向櫓
追手門(梅林門)を守るための櫓で、本多氏時代(1639~1723年)は、大手先艮角櫓(おおてさきうしとら すみやぐら)と呼ばれていました。
追手向櫓と呼ばれるようになったのは、柳沢氏入城後(1724年)のことです。
櫓は明治6年に取り払われましたが、記録によると、下重(1階)は4間2尺に5間、上重(2階)は2間四方の二重櫓であったと伝えられています。
昭和62年3月吉日
大和郡山市教育委員会”
【写真左】土塁
毘沙門郭の北隅には土塁の一部が残っている。
また写真の左側には、南北朝期から室町初期にかけて活躍した能の観世流祖・観阿弥の墓も祀られている。
これは、観阿弥の出身地が大和郡山市の南にある現在の川西町であったことからと思われるが、郡山城との関連は分からない。おそらく現地にあるものは、観阿弥の供養塔と思われる。
【写真左】空堀
毘沙門郭及び東側の旧三の丸の外側には堀があったようだが、現在は三の丸側は殆ど消滅し、北側の毘沙門郭の一角には一部こうした空堀が残る。
【写真左】追手門の多聞櫓
北東部に位置するところで、三の丸側の桜御門から西に進んで、五軒屋敷池を南に向かうと、東隅櫓がある。ここを西に向かうと、追手門に繋がる。
●所在地 奈良県大和郡山市城内町
●形態 平山城
●高さ 69m(比高10m)
●別名 犬伏城、雁陣之城
●築城期 応保2年(1162)又は天正8年(1580)
●築城者 郡山衆、筒井順慶
●城主 筒井氏、豊臣氏、水野氏、柳沢氏等
●廃城年 明治6年(1873)
●指定 奈良県指定史跡
●遺構 石垣、堀等
●登城日 2015年12月1日
◆解説
大和郡山城(以下「郡山城」とする。)が所在する大和郡山市は、奈良県の北西部に位置し、郡山城の東西には、大和川の二つの支流である佐保川と富雄川が流れている。
【写真左】改修中の大和・郡山城
この日(2015年12月)訪れたときは、天守台付近の改修工事が行われていたため、本丸付近まで入ることはできなかった。
予定では平成29年度まで(3月下旬)立ち入り禁止とあったので、現在(2018年4月以降)は入場できると思われる。
現地の説明板より
“県指定史跡 郡山城跡
郡山城は、天正6~7年(1578~1579)に筒井順慶が縄張りをおこない、同8年の一国一城令に基づき拡張、同11年には天守閣も完成を見た。同13年豊臣秀長が入部してさらに拡張され、文禄5年(1596)には、増田長盛による秋篠川の付け替えが行われ、外堀を一周させ、城下町の完成を見るに至った。
関ヶ原戦後、長盛が改易され、大坂夏の陣以降、水野勝成が、さらに松平、本多が入城し、享保9年(1724)以降、幕末まで、柳澤15万石の居城として栄えた。
現在のこる縄張りは、秀長時代のもので、左京堀、鰻堀、鷺堀で囲まれた本丸、二の丸、三の丸などが城内で、それ以外の外堀に囲まれた地域が城下となる。
なお、史跡として指定されているのは、本丸、毘沙門曲輪、法印郭、玄武郭、陣甫郭及びその内堀である。
指定年月日 昭和35年7月28日
奈良県教育委員会”
【写真左】大和郡山市案内図
左上の黄色線で囲んだところが、郡山城で、その右斜め下には当時の外堀跡が残る。
このことから、城下町はこの外堀と本丸の間に囲まれた城の東側に配置されていた。
また、右側の赤い線で囲んだ箇所は、下段で紹介した「羅城門跡」の位置。
筒井順慶
郡山城の築城者は筒井順慶とされている。ただ、この場所には応保2年(1162)、郡山衆が雁陣の城を築いたという記録がある。もっともこの頃の城は盛土と柵を巡らした環濠集落の形態のようなものであったとされ、郡山城から南東へ2キロ余り向かったところにある稗田環濠集落もその当時の面影を残している。
また、郡山城から東へ1.3キロほど向かった佐保川沿いには、平城京羅城門跡があり、奈良時代の平城京の南側の入口があった場所と推定されている。
【写真左】郡山城跡案内絵図
現地に掲示されていたものだが、三の丸の位置が図示されていなかったため、追記している。
なお、城域内には現在郡山高校の学舎等が建っている。
さて、中世戦国期に至ると、それまで同市筒井町にあった筒井城(奈良県大和郡山市筒井町)の筒井順慶が、郡山城に居を移し、ここを新たな大和国支配の拠点とするべく築城に取り掛かった。説明板にもあるように、天正11年(1583)には天主閣も造営されている。
順慶については、筒井城で紹介しているが、郡山城の天守を築いた翌年の天正12年(1584)に亡くなっている。享年36歳。
【写真左】三の丸を縦断する近鉄橿原線
入口は2,3か所あるが、この日は南東部にある近鉄橿原線の踏切側から向かった。
因みに近鉄橿原線は三の丸の西端部五軒屋敷池と並行して南北に走っており、この付近も当時の三の丸のエリアである。
豊臣秀長
順慶が亡くなったあと、翌天正13年豊臣秀吉の弟・秀長が大和・和泉・紀伊の三国を併せた100万石余の領主として郡山城に入城した。このとき、当城はさらに規模を拡大し、城下町の整備も行われた。現在の町割りの基礎となったのが秀長時代のものとされ、当時の町名も多く残っている。
【写真左】鉄御門
先ほどの踏切を渡ると、鉄御門といわれる入口に差しかかる。
南側が二の丸となり、北側が南北に細長い陣甫郭(じんぽぐるわ)という馬出としての機能を有する郭がある。
【写真左】表門
二の丸の北側にあるもので、現在二の丸跡には郡山高校冠山学舎が建っている。
【写真左】本丸側に向かう。
二の丸と本丸の間には堀があり、竹林橋と言う橋を渡ると、手前には柳澤神社が祀られている。
【写真左】柳澤神社
本丸に向かう道の左側にあり、写真右に
「祭神 旧川越・甲府城主 柳澤美濃守吉保公」
と刻銘された石碑が建つ。
柳沢吉保は江戸時代前期の第5代将軍徳川綱吉の大老格として活躍した人物。綱吉が館林藩主であったときから仕えていたため、綱吉が江戸城に入ると、そのまま仕え、次第に頭角を現した。
【写真左】天守台
この日探訪できたのは柳澤神社境内までで、その奥の天守周辺はご覧の様な改修工事が行われていたため入ることはできない。
【写真左】堀
天守側の堀で、工事の関係なのか、このエリアだけは空堀状態となっている。
【写真左】毘沙門郭側から天守方向を見る。
天守の東側には堀を挟んで毘沙門郭があるが、この位置から先ほどの柳澤神社の屋根と天守の工事用クレーンの一部が見える。
【写真左】毘沙門郭北側から本丸東の石垣を見る。
【写真左】毘沙門郭北から玄武郭を見る。
天守の北側には堀を挟んで玄武郭があり、その先には馬場先門があった。
【写真左】追手向櫓
本丸の北側毘沙門郭の北東部に配置されたもの。
現地の説明板
“追手向櫓
追手門(梅林門)を守るための櫓で、本多氏時代(1639~1723年)は、大手先艮角櫓(おおてさきうしとら すみやぐら)と呼ばれていました。
追手向櫓と呼ばれるようになったのは、柳沢氏入城後(1724年)のことです。
櫓は明治6年に取り払われましたが、記録によると、下重(1階)は4間2尺に5間、上重(2階)は2間四方の二重櫓であったと伝えられています。
昭和62年3月吉日
大和郡山市教育委員会”
【写真左】土塁
毘沙門郭の北隅には土塁の一部が残っている。
また写真の左側には、南北朝期から室町初期にかけて活躍した能の観世流祖・観阿弥の墓も祀られている。
これは、観阿弥の出身地が大和郡山市の南にある現在の川西町であったことからと思われるが、郡山城との関連は分からない。おそらく現地にあるものは、観阿弥の供養塔と思われる。
【写真左】空堀
毘沙門郭及び東側の旧三の丸の外側には堀があったようだが、現在は三の丸側は殆ど消滅し、北側の毘沙門郭の一角には一部こうした空堀が残る。
【写真左】追手門の多聞櫓
北東部に位置するところで、三の丸側の桜御門から西に進んで、五軒屋敷池を南に向かうと、東隅櫓がある。ここを西に向かうと、追手門に繋がる。
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