2015年4月7日火曜日

木浦城(愛媛県今治市伯方町木浦)

木浦城(きのうらじょう)

●所在地 愛媛県今治市伯方町木浦
●高さ 90m
●築城期 嘉応2年(1170)頃
●築城者 紀氏
●城主 紀氏、村上氏
●遺構 郭・堀切・石垣など
●形態 連郭式
●備考 伯方本城の出城、ふるさと歴史公園
●登城日 2013年5月22日


◆解説(参考資料「日本城郭体系第16巻」等)
  木浦城を訪れたのは2年も前になる。後段でも紹介するように、現在模擬天守風の資料館などが建ち、観光として訪れるのには相応しいが、木浦城は藪コギ覚悟の山城登城を主とする管理人にとって、聊か物足りなかったのか、その後当城の記憶が薄らぎ、投稿する時宜を逸してしまった城である。
【写真左】木浦城遠望
 南側から見たもの。東麓には伯方造船のドックなどが見え、手前には伯方小学校などの建物がある。






現地の資料より

“《中世後期の山城木浦城》
 《木浦城》は城郭史の権威として知られている、財団法人日本城郭協会理事長である井上宗和氏の考証を基礎にして復元されました。

 井上宗和氏の考証

 ― 木浦城があった岩ヶ峯は古代の防御集略、古墳、および13世紀以前にこの地の領主であったと考えられる紀氏一族の所領、14世紀以降は村上氏の本城伯方城に付属する出城であったと推察される。
 従って木浦城の最盛期は、12世紀から13世紀にかけて紀氏一族の本城であった時期と考察される。

 山城の詰の城には、土木構築物において歴然とした遺構がある。すなわち、山城には山頂および稜線上に五郭の削平地として残存し、城地として構成されていたことは明白であり、さらに郭の形成ならびに防備思想をかねた石塁が構築され、山上各所に残存する ― 。”
【写真左】木浦城鳥瞰図
 南東側から想像で描いたもので、中世の頃は東麓部は燧灘(瀬戸内海)が木浦城の縁まで来ていたものと思われる。

 木浦城の標高は90m程とあまり高くなく、縄張は単純な構成となっているが、かなり険峻な独立峰のため要害性は高く、また望楼的機能も優れていたものと思われる。



築城者・紀氏の没落

 木浦城の築城期は12世紀と記されている。『日本城郭体系』によれば、嘉応2年(1170)とされている。前期村上氏が当地を支配する前で、紀氏が当城を築城している。

 紀氏については、伯耆・岩倉城(鳥取県倉吉市岩倉)でも少し触れているが、当地(東予)の紀氏は、このころおそらく平氏に属していたものと思われ、『日本城郭体系』では伊予河野氏の有力な武将であったという。
【写真左】木浦城案内図
 伯方島の東方に所在する。











 ただ、紀氏が伊予に初めて関わることになるのは、推古期、すなわち大和時代といわれるから大分古い。以前紹介した南予の三滝城(愛媛県西予市城川町窪野)や、甲之森城(愛媛県西予市城川町土居)などの築城者もその紀氏の末裔といわれている。

 木浦城主紀氏はその後、鎌倉期においても当城を居城としているので、平家没落後も幕府から当地支配を許されたのだろう。しかし、承久の乱においては主君河野氏ともども後鳥羽上皇に与したが、幕府軍に敗れ、当城に拠るも河野氏とともに滅亡した。このことについては、以前紹介した高縄山城(愛媛県松山市立岩米之野)の中の、「承久の乱と河野氏の所領没収」の項で述べたとおりである。

 さて、紀氏の時代に構築されたそのころの木浦城は、形態としては本格的な城郭構造(水軍城)をもったものではなく、望楼的機能や、通信手段を主とするものであったと考えられる。そして本格的な水軍城の形態を成したのは前期村上氏や、後期村上氏の代になってからであろう。
【写真左】北側から本丸(本壇)を見る。
 旧名「三の平」「二の平」といわれる北側の郭跡から見たもので、現在公園として大幅に整備されているため、当時の遺構の残存度は不明だが、本丸側との段差は当時もこの位(2m前後)あったと思われる。

 階段を上がったところの建物は、模擬城門。



北畠師清と能島村上氏

 以前にも紹介したように、南北朝期、伊予瀬戸内における戦いは南朝方にとって最後の主戦場となった。当時、伯方島は大覚寺系統の庄園である極楽寺真如堂領加納荘として南朝方の地盤であったという。

 このことから北畠師清が伊予に派遣され、前期村上氏最後の頭首・村上三郎左衛門義弘病没後、師清は大島にあった義弘残党を降し、さらには因島釣島沖にて今岡水軍(因島・青陰山城(広島県尾道市因島中庄町)参照)を破り、姓を村上氏と改め、ここに後期村上氏が始まることになったとされる。もっともこれについては伝承などに基づくため確定したものではない。
【写真左】ふるさと歴史公園居館
 本丸(本壇)跡に建っている史料館で、模擬天守風の建物。







 師清の嫡男義顕には、その後3人の男子があった。応永26年(1419)、この3人を能島・来島・因島の三家に分立させた。これがのちに三島村上氏と称されることになる。
【写真左】検出された什器など。
 木浦城を含めた伯方城関係史跡から発掘されたものらしい。
 高杯・杯身・土師器・須恵器・脚付長頸瓶などが展示してある。


 
伯方城(はかたじょう)

 木浦城は伯方島の東方に所在する城砦であるが、当城も含め木浦のほぼ全域に十指を超える中小の城塞があり、これらを総称して「伯方城」と定義されている。したがって、今稿の木浦城も、群郭複合式海城である伯方城の出城の一つである。
 参考までに木浦周辺に配置された主な城砦は次の通りである。
  1. 伯方本城(伯方館)
  2. 木浦城
  3. 獅子ヶ城
  4. 金ヶ崎砦
  5. 亀ヶ浦砦
  6. 長崎山の砦
  7. 梅ヶ鼻の砦
  8. 小鳥山砦
  9. 小丸子山の砦
  10. 城の台砦
  11. その他
【写真左】模擬天守から北東を俯瞰する。
 奥に見える海は燧灘。
本丸の東奥は現在アスファルト舗装による段が設けられているが、上段の鳥瞰図でも示したように、腰郭若しくは帯郭が走っていたものと思われる。

 また、燧灘に突出した奥の半島部は、伯方城の支城の一つといわれる金ケ崎砦が見える。
 右下は伯方造船所のドック。
【写真左】模擬天守から南方の伯方港を見る。
 奥の尖った山は、見張台として使われた高丸山。

 おそらく、木浦城からは死角となる南~西方のエリアを監視し、事あればすぐに烽で木浦城や伯方館に合図を送っていたものと思われる。
【写真左】北方を俯瞰する。
 左から生口島、その右に岩城島などが見える。
【写真左】南西麓に木浦の街並みを見る。
 この麓には伯方の館があったとされる。

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