備前・白石城(びぜん・しらいしじょう)
●所在地 岡山県岡山市北区建部町大田
●築城期 嘉吉年間(1441~44)
●築城者 田淵氏光
●城主 田淵氏・橋本氏(松田氏家臣)・岡氏(宇喜多氏家臣)
●高さ 150m(比高80m)
●指定 岡山市指定史跡
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2014年3月12日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
備前・白石城(以下「白石城」とする)は、岡山市北区建部町大田に所在する城砦である。
前稿虎倉城(岡山県岡山市北区御津虎倉)の東麓を流れる宇甘川を下り、途中で御津久保から建部大井線(71号線)を使って山間部を東進し、宇甘川の本流・旭川に出ると、建部町大田にたどり着く。
この大田側の東岸に独立した小さな山があるが、ここに築かれた小規模な山城が白石城である。
【写真左】白石城遠望
旭川を挟んで西側から見たもの。
現地の説明板より
“建部町指定文化財(史跡)
白石城址
白石城は、室町時代の嘉吉年間(1441~44)に、播磨から備前に進出した赤松氏に属した田淵氏光が築城し、永禄7年(1564)に5代城主田淵氏相が、宇喜多勢に攻められ落城するまでの約120年間、田淵氏の居城であったと伝えられている。
その後、金川城主松田氏・岡山城主宇喜多氏の支配を経て、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で、宇喜多氏滅亡後は廃城となり、美作への備えは対岸の建部陣屋へ移った。
【写真左】登城口付近
登城口は西麓を走る国道54号線と、北麓を走る484号線が交わる北西端部(484号線側)に設置されている。
駐車スペースは、この右側に1台程度の空き地があるが、傾斜になっているのでサイドブレーキはしっかりとセットしておく。
白石城は、旭川と長谷川が合流するすぐ北にある比高約80mの急峻な独立山塊を利用して築城している。山上部を削平整地して、本丸を置き、三方に下降する尾根上に計12段の小郭を設け、北西斜面には放射状の空堀14条と、その下方に山形に掘られた2本の大空堀を配している。
城山の東西は川に挟まれ、山上からの眺望視野も広く、小規模ながら均整のとれた山容とともに、天険と地の利を併せ持つ要衝の地に築城された中世山城跡である。
白石城址保存会”
【写真左】登城道
登城道はよく整備されている。しばらく簡易舗装された道を進むと、やがて傾斜が付き始めるが、要所に階段が設けられている。
登城道は、西側から回り込むコースとなっているが、途中で南西端側からの道と合流するようになっている(下段写真参照)。
ほぼ直登だが、この写真は奥に見える竪堀が角度を変える箇所で、道はここからさらに右に回るようになっている。
【写真左】竪堀
登城道側に最も近いところに造られた竪堀で、長さはおそらく50m以上はあると思われる。
なお、このほか東側には畝状竪堀群が数条設けられているが、当日はその箇所までは向かっていない。
田淵氏
田淵氏の祖は、清和源氏新田氏の後裔十左衛門氏光が伊勢国田淵に生まれ、姓を田淵としたのに始まるという。その後、説明板にもあるように、嘉吉年間(室町時代)に至って、播磨から備前に支配を広げた赤松氏に仕えることになる。
置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その1でも述べたように、「嘉吉の変」によって、足利義教を謀殺した首謀者・赤松満祐は、この年(嘉吉元年:1441年)9月10日、播磨木山城において山名宗全の攻略によって自刃することになる。おそらく、白石城の田淵氏も「嘉吉の変」の際、備前のこの地において、宗全らの追討に抗したものだろう。
その後、田淵氏は備前を支配した浦上氏に属していくが、以前にも述べたように、戦国後期にいたると、備前は宇喜多直家の勃興が勢いを増すことなり、田淵氏は宇喜多氏の軍門に下ることになる。
【写真左】登城道分岐点付近の郭
もう一つの登城道とされる南西部から登ってきた道の脇に見えるもので、幅8m×奥行10m前後の規模。
ここから直角に左に向きを変え、南側からほぼ直登のコースを進む。
【写真左】本丸が見えだす。
左側に連続する郭段が見えてくる。
【写真左】本丸から下3段目の郭
2段目から上は整備されているが、3段目以降は熊笹などが繁茂しているため、あまりいい状態ではない。
右側は桧や雑草などがあるため分かりにくいが、この箇所から切崖となっている。
【写真左】本丸・その1
東西に長軸をとり、幅7m×長さ20m前後の規模。
中央には電波塔などの建物が建つ。
【写真左】本丸・その2
「白石城址」と刻銘された石碑がある。
裏面には、「五百年記念 田淵一族建立」と刻銘され、隣には祠が祀られている。
【写真左】本丸・その3
東端部で、右側は伐採されていないが、よく見るとこの面も天険の要害となっており、急峻な構えである。
【写真左】本丸・その4
東側から西方を見たもので、ベンチなどが設置されている。
なお、植栽された樹木があるが、おそらく桜の木だろう。
【写真左】本丸・その5
振り返って、登城道をみる。
右側が本丸で、その下に2段目・3段目の郭が続く。
【写真左】旭川上流方向を見る。
北側をみたもので、写真中央の街は建部町川口の街並みで、ここから旭川の支流・誕生寺川を登っていくと、美作国に繋がる。
【写真左】旭川下流方向を見る。
旭川を降ると、一時当城を支配していた松田氏の金川城(岡山県岡山市北区御津金川)へ繋がる。
【写真左】東方を見る。
本丸から東方を俯瞰できる箇所は少ないが、戦国期は浦上氏の居城・天神山城(岡山県和気郡和気町田土)の動きも常に監視下に置かれていたものと思われ、もっと視界が確保されていたものと思われる。
【写真左】出城か
この写真の右側に白石城が控えているが、白石城の北麓を走る484号線の北には、ごらんの小丘が見える。
白石城の北の守りとして、おそらくは見張櫓もしくは、出城の役目があったのかもしれない。
●所在地 岡山県岡山市北区建部町大田
●築城期 嘉吉年間(1441~44)
●築城者 田淵氏光
●城主 田淵氏・橋本氏(松田氏家臣)・岡氏(宇喜多氏家臣)
●高さ 150m(比高80m)
●指定 岡山市指定史跡
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2014年3月12日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
備前・白石城(以下「白石城」とする)は、岡山市北区建部町大田に所在する城砦である。
前稿虎倉城(岡山県岡山市北区御津虎倉)の東麓を流れる宇甘川を下り、途中で御津久保から建部大井線(71号線)を使って山間部を東進し、宇甘川の本流・旭川に出ると、建部町大田にたどり着く。
この大田側の東岸に独立した小さな山があるが、ここに築かれた小規模な山城が白石城である。
【写真左】白石城遠望
旭川を挟んで西側から見たもの。
現地の説明板より
“建部町指定文化財(史跡)
白石城址
白石城は、室町時代の嘉吉年間(1441~44)に、播磨から備前に進出した赤松氏に属した田淵氏光が築城し、永禄7年(1564)に5代城主田淵氏相が、宇喜多勢に攻められ落城するまでの約120年間、田淵氏の居城であったと伝えられている。
その後、金川城主松田氏・岡山城主宇喜多氏の支配を経て、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で、宇喜多氏滅亡後は廃城となり、美作への備えは対岸の建部陣屋へ移った。
【写真左】登城口付近
登城口は西麓を走る国道54号線と、北麓を走る484号線が交わる北西端部(484号線側)に設置されている。
駐車スペースは、この右側に1台程度の空き地があるが、傾斜になっているのでサイドブレーキはしっかりとセットしておく。
白石城は、旭川と長谷川が合流するすぐ北にある比高約80mの急峻な独立山塊を利用して築城している。山上部を削平整地して、本丸を置き、三方に下降する尾根上に計12段の小郭を設け、北西斜面には放射状の空堀14条と、その下方に山形に掘られた2本の大空堀を配している。
城山の東西は川に挟まれ、山上からの眺望視野も広く、小規模ながら均整のとれた山容とともに、天険と地の利を併せ持つ要衝の地に築城された中世山城跡である。
白石城址保存会”
【写真左】登城道
登城道はよく整備されている。しばらく簡易舗装された道を進むと、やがて傾斜が付き始めるが、要所に階段が設けられている。
登城道は、西側から回り込むコースとなっているが、途中で南西端側からの道と合流するようになっている(下段写真参照)。
ほぼ直登だが、この写真は奥に見える竪堀が角度を変える箇所で、道はここからさらに右に回るようになっている。
【写真左】竪堀
登城道側に最も近いところに造られた竪堀で、長さはおそらく50m以上はあると思われる。
なお、このほか東側には畝状竪堀群が数条設けられているが、当日はその箇所までは向かっていない。
田淵氏
田淵氏の祖は、清和源氏新田氏の後裔十左衛門氏光が伊勢国田淵に生まれ、姓を田淵としたのに始まるという。その後、説明板にもあるように、嘉吉年間(室町時代)に至って、播磨から備前に支配を広げた赤松氏に仕えることになる。
置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その1でも述べたように、「嘉吉の変」によって、足利義教を謀殺した首謀者・赤松満祐は、この年(嘉吉元年:1441年)9月10日、播磨木山城において山名宗全の攻略によって自刃することになる。おそらく、白石城の田淵氏も「嘉吉の変」の際、備前のこの地において、宗全らの追討に抗したものだろう。
その後、田淵氏は備前を支配した浦上氏に属していくが、以前にも述べたように、戦国後期にいたると、備前は宇喜多直家の勃興が勢いを増すことなり、田淵氏は宇喜多氏の軍門に下ることになる。
【写真左】登城道分岐点付近の郭
もう一つの登城道とされる南西部から登ってきた道の脇に見えるもので、幅8m×奥行10m前後の規模。
ここから直角に左に向きを変え、南側からほぼ直登のコースを進む。
【写真左】本丸が見えだす。
左側に連続する郭段が見えてくる。
【写真左】本丸から下3段目の郭
2段目から上は整備されているが、3段目以降は熊笹などが繁茂しているため、あまりいい状態ではない。
右側は桧や雑草などがあるため分かりにくいが、この箇所から切崖となっている。
【写真左】本丸・その1
東西に長軸をとり、幅7m×長さ20m前後の規模。
中央には電波塔などの建物が建つ。
【写真左】本丸・その2
「白石城址」と刻銘された石碑がある。
裏面には、「五百年記念 田淵一族建立」と刻銘され、隣には祠が祀られている。
【写真左】本丸・その3
東端部で、右側は伐採されていないが、よく見るとこの面も天険の要害となっており、急峻な構えである。
【写真左】本丸・その4
東側から西方を見たもので、ベンチなどが設置されている。
なお、植栽された樹木があるが、おそらく桜の木だろう。
【写真左】本丸・その5
振り返って、登城道をみる。
右側が本丸で、その下に2段目・3段目の郭が続く。
【写真左】旭川上流方向を見る。
北側をみたもので、写真中央の街は建部町川口の街並みで、ここから旭川の支流・誕生寺川を登っていくと、美作国に繋がる。
【写真左】旭川下流方向を見る。
旭川を降ると、一時当城を支配していた松田氏の金川城(岡山県岡山市北区御津金川)へ繋がる。
【写真左】東方を見る。
本丸から東方を俯瞰できる箇所は少ないが、戦国期は浦上氏の居城・天神山城(岡山県和気郡和気町田土)の動きも常に監視下に置かれていたものと思われ、もっと視界が確保されていたものと思われる。
【写真左】出城か
この写真の右側に白石城が控えているが、白石城の北麓を走る484号線の北には、ごらんの小丘が見える。
白石城の北の守りとして、おそらくは見張櫓もしくは、出城の役目があったのかもしれない。