近江・小谷城(おだにじょう)・その3
●所在地 滋賀県長浜市湖北町伊部・郡山
●築城期 永正13年(1516)ごろ
●築城者 浅井氏
●城主 浅井亮政・長政、羽柴秀吉
●指定 国指定史跡
●備考 日本五大山城
●高さ 495m(比高450m)
●遺構 郭・土塁・石垣・堀切・石垣その他
●登城日 2014年9月10日(前回2008年3月19日)
◆解説
今稿は小谷城・その3として、黒金門を入口とする大広間から順次紹介していきたい。
【写真左】大広間・ぞの1
【写真左】本丸及び大広間 絵図
“本丸 大広間
本丸は、古絵図では鐘丸とも天守とも記される。南北40m、東西25mを測り、南北2段の構造で、北側の上段に櫓を附属する中心建物が建っていたと考えられる。東西の石垣下には土塁が築かれ、敵が側面を回れない構造をもっていた。
北側の大堀切で、小谷城主要部は二つに分断される。南側には石垣が積まれ、その下の大広間は南北85m、東西35mを測り、山上の小谷城内で最大の曲輪となっている。大広間には御殿が建ち、井戸や土塁が存在したことが分かっている。大広間南側には黒金門があった。”
【写真左】大広間・ぞの2
南側から見たもので、他の曲輪群とは一線を画すほど長大なものである。
奥には本丸の石垣が見える。
【写真左】大広間・ぞの3 井戸跡
大広間の北東端にあるもので、内側には石積が残る。形状は四角形に見える。
【写真左】大広間・ぞの4
北側上段の本丸側から見下ろしたもの。
【写真左】本丸側の石垣
大広間を過ぎると本丸が控えている。大広間の天端から約5m弱高くなっている。
【写真左】本丸・その1
上下2段で構成され、特に上の段には天守のような建物があったと想定されている。
天正元年(1573)9月1日、浅井長政は前月の27日自刃した父・久政に続いて、本丸東の赤尾屋敷(近江・小谷城・その2参照)で自刃したといわれている。
【写真左】本丸・その2
本丸は2段で構成されている。上の段とは約1.5m程度の高低差がある。
このまま本丸先端部に向かう。
【写真左】本丸から大堀切を見下ろす。
先端部まで来ると、ほぼ垂直に切り取られた大堀切が見える。
この堀切は小谷城を意識的に2か所に区分したもので、敵方をこれ以上侵入させないという思惑がみてとれる。
無理すれば降りれるが、ここは一旦戻り大広間側から向かう。
【写真左】至 御局屋敷
本丸から再び大広間に戻り、左側の犬走りを進むと、その左下には前稿で紹介した御茶屋側から来ている帯曲輪が伸びているが、その末端部の幅の狭い郭は、「御局屋敷」といわれている。
かなり急坂で崩れていたため、降りていないが、本丸を守備するためのものといわれている。
【写真左】大堀切・その1
文字通り当城最大の堀切で、底部は大分フラットになっているため、郭状にも見えるが、当時はもっとV字状に深く抉られていたものだろう。
長さ(尾根幅)40m弱×幅20m前後の規模。
【写真左】大堀切・その2
右側が本丸で、左側が次に向かう中丸側。
【写真左】大堀切側から中丸を見上げる。
次第に上部郭段との高低差が高くなってくる。
【写真左】中丸・絵図
“中丸(なかのまる)
南北3段から成り、最上段に刀洗池がある。この池の縁を通って、上段の京極丸につながる。
3段目と2段目の間や、1段目の南側正面には小規模な石垣が存在し、この曲輪も基本的には石垣で固められていたとみられる。
虎口を中央に設置しているのは、中丸より上部の郭だけで、ここより下の郭は、敵がまっすぐ突き抜けられないよう側面から入る構造になっている。
本丸との間に大土木工事によって造られた大堀切がある。清水谷側には御局屋敷と通称される腰曲輪が付属する。”
【写真左】中丸の虎口と1段目
【写真左】中丸・1段目から2段目に向かう。
1段目と2段目の高低差は1m余りで、規模は大きさの順でいえば、1段目・3段目・2段目となっている。
なお、このあたりから左側に付随していた帯曲輪が無くなり、両側の切崖は険しくなっている。
【写真左】刀洗池
最上段の3段目の郭にあるもので、右奥に設けられている。
現在水は無く、窪みが残るだけだが、戦いの激しさを物語る。
このあと、さらに進んで京極丸に向かう。
【写真左】京極丸・入口付近
ここは虎口ではなく、右側の箇所のもの。
【写真左】京極丸と小丸の絵図
“京極丸(きょうごくまる)
浅井氏が守護京極氏の居所として用意した曲輪といわれる。南北4段の構造を持ち、清水谷(西側)に枡形虎口がある大きな曲輪を附属する。
この虎口は清水谷から登る「水の手」に繋がるが、小谷落城の際に秀吉が攻め上がった道である。
須賀谷側(東側)に造られた高さ3mほどの土塁は小谷城最大の規模を誇る。
小丸(こまる)
山王丸と京極丸の間にあり、東西2段の構造を持つ。東側が高いが、小谷落城の際に久政が籠り自刃した場所はここであろう。”
小谷城における京極氏
浅井久政・長政が最期となったこの小谷城攻めの際、京極丸には誰がいたのか詳細な記録はない。説明板にもあるように、近江の守護職であった京極氏を招いて、この場所を提供し住まいとさせているが、小谷城落城の天正元年にはすでに同氏はいなかったのではないだろうか。
伝聞では、京極高清(京極氏館跡(滋賀県米原市弥高・藤川・上平寺)参照)の次男・高吉が家督を巡って兄・高延と争い、一時高延を支援していた浅井亮政が高延と対立すると、高吉は父・高清(別説では材宗)と共に北近江の浅井に迎えられたという。しかし、実態は傀儡であったため、京極父子は浅井氏のもとから離れることになる。
ただ、史料によって京極高延の方はその後、天文19年(1550)、浅井亮政・久政父子と和睦をしているというのもあるので、このあたりがはっきりしない。
尼子義久の妻
ところで、以前出雲の尼子氏最後の当主となった尼子義久の妻は、京極修理大夫の子息・五郎という人物の姫(尼子義久の墓(山口県阿武郡阿武町大字奈古 大覚寺)参照)といわれている。
京極氏累代の当主の中で、修理大夫の官位を受けているのは、丹波国宮津藩主・京極高知である。ただ、彼は元亀3年(1572)生まれであるから、時期が合わない。
そこで考えられるのが、高知の父、すなわち、兄・高延と争った弟・高吉である。
高吉には、長門守・中務少輔の官位があるものの、修理太夫記録がなく、さらに息子としては高次・高知しかいないようだが、状況を考えると、高吉に極めて近い縁者(材宗など)と思える。
一時浅井氏に迎えられ京極丸に居を構えたものの、実権は浅井氏に掌握されていた。高吉としては孫娘の将来を考え、出雲尼子氏(義久)に嫁がせたのではないだろうか。
【写真左】京極丸・その1
【写真左】京極丸・その2
絵図に描かれている東西の段差は、現状では大分薄らいでいるが、右側の土塁は明瞭に残っている(下の写真参照)。
【写真左】京極丸・その3
土塁
よほど東側の防備が重要と見えたのか、施工も良好に残っている。土塁天端を歩いてみたが、高低差を感じる。
【写真左】京極丸・その4
左側(西側)先端部で、こちらには土塁はない。
このあとすぐ上段の「小丸」に向かう。
【写真左】小丸・その1
“小丸跡
二代城主・久政が引退した後に居住した所と考えられている。
天正元年(1573)8月27日に京極丸より羽柴秀吉に攻められ、鶴松太夫の介錯により49歳を一期として自刃した。”
久政は30代後半にして、長政はじめ家中から強制的に引退させられているが、織田信長との盟約については当初から反対の態度を示し、凋落の見えていた朝倉氏との同盟を強く主張したという。
信長の妹・お市を妻とする長政にとって、義兄信長との戦いを当初から望んではいなかったのだろう。しかし、結果として長政は父・久政の意見に従ったことになる。
【写真左】小丸・その2
このあと、詰めの丸といわれている「山王丸」に向かう。
【写真左】山王丸に向かう・その1
小丸から山王丸に向かうには、ご覧のような比高10m前後の切崖を登り、最初の郭段につくと、再び同じような険しい切崖が待っている。
【写真左】山王丸・絵図
“山王丸(さんのうまる)
標高約400mに位置する小谷城の詰の丸。南面に馬出しを配し、鎌刃(かまのはじょう)と同形態の石垣で固められた虎口を二重に備える。
【写真左】山王丸に向かう・その2
崩れている石垣
手前が馬出し付近となる。
南口の虎口は、破城の痕跡が現在も明瞭に残り、石垣が散乱して登山の障害となっている。中央の曲輪には山王社を祀っていた。
南側正面石垣の石は、小谷城でも最大の大きさを誇り、この図の裏に当たる東斜面には、今も大石垣が残っている。”
【写真左】山王丸・その1
下の段
【写真左】山王丸・その2
山王丸中心部
下には不揃いな石が見えるが、山王社が祀られていたときの礎石だろう。
小谷城絵図には、この山王丸から清水谷に向けて搦手道が描かれているという。
さらにこの奥に進む。
【写真左】山王丸・その3
山王丸の一部と思われるが、東西に土塁が壁のように伸びている。
【写真左】山王丸・その4
裏に回ると、ここから尾根は下っていくので、前方に見えた土塁は当城の最高所ということか。
土塁というより土檀と言った方がいいかもしれない。
【写真左】六坊-清水谷-嶽城の案内標識
山王丸から更に北に向かうと、上記にたどり着くが、ここからかなり深い谷に向かうことになるので、今回はここまでとした。
このあと再び元に戻るが、途中で見過ごした大石垣に向かう。
【写真左】大石垣
上掲した京極丸の東斜面にあるもの。
“大石垣
小谷城でもっとも壮大な石垣である。比較的大きな石を用いた石垣で高さ約5mを測り、その規模は本丸を上回る。
現在は崩壊しているが、東面に残る石垣に往時に姿を偲ぶことができる”
●所在地 滋賀県長浜市湖北町伊部・郡山
●築城期 永正13年(1516)ごろ
●築城者 浅井氏
●城主 浅井亮政・長政、羽柴秀吉
●指定 国指定史跡
●備考 日本五大山城
●高さ 495m(比高450m)
●遺構 郭・土塁・石垣・堀切・石垣その他
●登城日 2014年9月10日(前回2008年3月19日)
◆解説
今稿は小谷城・その3として、黒金門を入口とする大広間から順次紹介していきたい。
【写真左】大広間・ぞの1
【写真左】本丸及び大広間 絵図
“本丸 大広間
本丸は、古絵図では鐘丸とも天守とも記される。南北40m、東西25mを測り、南北2段の構造で、北側の上段に櫓を附属する中心建物が建っていたと考えられる。東西の石垣下には土塁が築かれ、敵が側面を回れない構造をもっていた。
北側の大堀切で、小谷城主要部は二つに分断される。南側には石垣が積まれ、その下の大広間は南北85m、東西35mを測り、山上の小谷城内で最大の曲輪となっている。大広間には御殿が建ち、井戸や土塁が存在したことが分かっている。大広間南側には黒金門があった。”
【写真左】大広間・ぞの2
南側から見たもので、他の曲輪群とは一線を画すほど長大なものである。
奥には本丸の石垣が見える。
【写真左】大広間・ぞの3 井戸跡
大広間の北東端にあるもので、内側には石積が残る。形状は四角形に見える。
【写真左】大広間・ぞの4
北側上段の本丸側から見下ろしたもの。
【写真左】本丸側の石垣
大広間を過ぎると本丸が控えている。大広間の天端から約5m弱高くなっている。
上下2段で構成され、特に上の段には天守のような建物があったと想定されている。
天正元年(1573)9月1日、浅井長政は前月の27日自刃した父・久政に続いて、本丸東の赤尾屋敷(近江・小谷城・その2参照)で自刃したといわれている。
【写真左】本丸・その2
本丸は2段で構成されている。上の段とは約1.5m程度の高低差がある。
このまま本丸先端部に向かう。
【写真左】本丸から大堀切を見下ろす。
先端部まで来ると、ほぼ垂直に切り取られた大堀切が見える。
この堀切は小谷城を意識的に2か所に区分したもので、敵方をこれ以上侵入させないという思惑がみてとれる。
無理すれば降りれるが、ここは一旦戻り大広間側から向かう。
【写真左】至 御局屋敷
本丸から再び大広間に戻り、左側の犬走りを進むと、その左下には前稿で紹介した御茶屋側から来ている帯曲輪が伸びているが、その末端部の幅の狭い郭は、「御局屋敷」といわれている。
かなり急坂で崩れていたため、降りていないが、本丸を守備するためのものといわれている。
【写真左】大堀切・その1
文字通り当城最大の堀切で、底部は大分フラットになっているため、郭状にも見えるが、当時はもっとV字状に深く抉られていたものだろう。
長さ(尾根幅)40m弱×幅20m前後の規模。
【写真左】大堀切・その2
右側が本丸で、左側が次に向かう中丸側。
【写真左】大堀切側から中丸を見上げる。
次第に上部郭段との高低差が高くなってくる。
【写真左】中丸・絵図
“中丸(なかのまる)
南北3段から成り、最上段に刀洗池がある。この池の縁を通って、上段の京極丸につながる。
3段目と2段目の間や、1段目の南側正面には小規模な石垣が存在し、この曲輪も基本的には石垣で固められていたとみられる。
虎口を中央に設置しているのは、中丸より上部の郭だけで、ここより下の郭は、敵がまっすぐ突き抜けられないよう側面から入る構造になっている。
本丸との間に大土木工事によって造られた大堀切がある。清水谷側には御局屋敷と通称される腰曲輪が付属する。”
【写真左】中丸の虎口と1段目
【写真左】中丸・1段目から2段目に向かう。
1段目と2段目の高低差は1m余りで、規模は大きさの順でいえば、1段目・3段目・2段目となっている。
なお、このあたりから左側に付随していた帯曲輪が無くなり、両側の切崖は険しくなっている。
【写真左】刀洗池
最上段の3段目の郭にあるもので、右奥に設けられている。
現在水は無く、窪みが残るだけだが、戦いの激しさを物語る。
このあと、さらに進んで京極丸に向かう。
【写真左】京極丸・入口付近
ここは虎口ではなく、右側の箇所のもの。
【写真左】京極丸と小丸の絵図
“京極丸(きょうごくまる)
浅井氏が守護京極氏の居所として用意した曲輪といわれる。南北4段の構造を持ち、清水谷(西側)に枡形虎口がある大きな曲輪を附属する。
この虎口は清水谷から登る「水の手」に繋がるが、小谷落城の際に秀吉が攻め上がった道である。
須賀谷側(東側)に造られた高さ3mほどの土塁は小谷城最大の規模を誇る。
小丸(こまる)
山王丸と京極丸の間にあり、東西2段の構造を持つ。東側が高いが、小谷落城の際に久政が籠り自刃した場所はここであろう。”
小谷城における京極氏
浅井久政・長政が最期となったこの小谷城攻めの際、京極丸には誰がいたのか詳細な記録はない。説明板にもあるように、近江の守護職であった京極氏を招いて、この場所を提供し住まいとさせているが、小谷城落城の天正元年にはすでに同氏はいなかったのではないだろうか。
伝聞では、京極高清(京極氏館跡(滋賀県米原市弥高・藤川・上平寺)参照)の次男・高吉が家督を巡って兄・高延と争い、一時高延を支援していた浅井亮政が高延と対立すると、高吉は父・高清(別説では材宗)と共に北近江の浅井に迎えられたという。しかし、実態は傀儡であったため、京極父子は浅井氏のもとから離れることになる。
ただ、史料によって京極高延の方はその後、天文19年(1550)、浅井亮政・久政父子と和睦をしているというのもあるので、このあたりがはっきりしない。
尼子義久の妻
ところで、以前出雲の尼子氏最後の当主となった尼子義久の妻は、京極修理大夫の子息・五郎という人物の姫(尼子義久の墓(山口県阿武郡阿武町大字奈古 大覚寺)参照)といわれている。
京極氏累代の当主の中で、修理大夫の官位を受けているのは、丹波国宮津藩主・京極高知である。ただ、彼は元亀3年(1572)生まれであるから、時期が合わない。
そこで考えられるのが、高知の父、すなわち、兄・高延と争った弟・高吉である。
高吉には、長門守・中務少輔の官位があるものの、修理太夫記録がなく、さらに息子としては高次・高知しかいないようだが、状況を考えると、高吉に極めて近い縁者(材宗など)と思える。
一時浅井氏に迎えられ京極丸に居を構えたものの、実権は浅井氏に掌握されていた。高吉としては孫娘の将来を考え、出雲尼子氏(義久)に嫁がせたのではないだろうか。
【写真左】京極丸・その1
【写真左】京極丸・その2
絵図に描かれている東西の段差は、現状では大分薄らいでいるが、右側の土塁は明瞭に残っている(下の写真参照)。
【写真左】京極丸・その3
土塁
よほど東側の防備が重要と見えたのか、施工も良好に残っている。土塁天端を歩いてみたが、高低差を感じる。
【写真左】京極丸・その4
左側(西側)先端部で、こちらには土塁はない。
このあとすぐ上段の「小丸」に向かう。
【写真左】小丸・その1
“小丸跡
二代城主・久政が引退した後に居住した所と考えられている。
天正元年(1573)8月27日に京極丸より羽柴秀吉に攻められ、鶴松太夫の介錯により49歳を一期として自刃した。”
久政は30代後半にして、長政はじめ家中から強制的に引退させられているが、織田信長との盟約については当初から反対の態度を示し、凋落の見えていた朝倉氏との同盟を強く主張したという。
信長の妹・お市を妻とする長政にとって、義兄信長との戦いを当初から望んではいなかったのだろう。しかし、結果として長政は父・久政の意見に従ったことになる。
【写真左】小丸・その2
このあと、詰めの丸といわれている「山王丸」に向かう。
【写真左】山王丸に向かう・その1
小丸から山王丸に向かうには、ご覧のような比高10m前後の切崖を登り、最初の郭段につくと、再び同じような険しい切崖が待っている。
【写真左】山王丸・絵図
“山王丸(さんのうまる)
標高約400mに位置する小谷城の詰の丸。南面に馬出しを配し、鎌刃(かまのはじょう)と同形態の石垣で固められた虎口を二重に備える。
【写真左】山王丸に向かう・その2
崩れている石垣
手前が馬出し付近となる。
南口の虎口は、破城の痕跡が現在も明瞭に残り、石垣が散乱して登山の障害となっている。中央の曲輪には山王社を祀っていた。
南側正面石垣の石は、小谷城でも最大の大きさを誇り、この図の裏に当たる東斜面には、今も大石垣が残っている。”
【写真左】山王丸・その1
下の段
【写真左】山王丸・その2
山王丸中心部
下には不揃いな石が見えるが、山王社が祀られていたときの礎石だろう。
小谷城絵図には、この山王丸から清水谷に向けて搦手道が描かれているという。
さらにこの奥に進む。
【写真左】山王丸・その3
山王丸の一部と思われるが、東西に土塁が壁のように伸びている。
【写真左】山王丸・その4
裏に回ると、ここから尾根は下っていくので、前方に見えた土塁は当城の最高所ということか。
土塁というより土檀と言った方がいいかもしれない。
【写真左】六坊-清水谷-嶽城の案内標識
山王丸から更に北に向かうと、上記にたどり着くが、ここからかなり深い谷に向かうことになるので、今回はここまでとした。
このあと再び元に戻るが、途中で見過ごした大石垣に向かう。
【写真左】大石垣
上掲した京極丸の東斜面にあるもの。
“大石垣
小谷城でもっとも壮大な石垣である。比較的大きな石を用いた石垣で高さ約5mを測り、その規模は本丸を上回る。
現在は崩壊しているが、東面に残る石垣に往時に姿を偲ぶことができる”
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