2014年10月28日火曜日

伯耆・市場城(鳥取県倉吉市小鴨)

伯耆・市場城(ほうき・いちばじょう)

●所在地 鳥取県倉吉市小鴨
●築城期 不明(鎌倉末期~南北朝期頃か)
●形態 平山城(居館跡)
●高さ 70m(比高20m)
●遺構 郭・空堀・土塁
●城主 岡田氏
●登城日 2011年10月15日及び2014年10月26日

◆解説(参考文献「サイト『城郭放浪記』」、『県史 鳥取県の歴史』山川出版社等)
 本稿では前稿でとりあげた伯耆・岩倉城(鳥取県倉吉市岩倉)の城主・小鴨氏の居館といわれている市場城を取り上げたい。
【写真左】市場城遠望・その1
 東側から見たもの。
 手前は田圃が広がり、市場城の西側に出ると、再び隣の谷が北東方向に伸びている。




現地の説明板より

“市場城跡

 小鴨氏の居城であった岩倉城の出城で、小鴨氏の家来・岡田某氏がいた、ということである。
 天正10年(1582)5月、吉川軍に攻められて落城し、本城の岩倉城と共に廃城となった。(伯耆民談記による)

 文政元年(1818)鳥取藩が調査して作成した古図が残っている。
 市場村古城跡
 高6間位(約10m)
 天神野ノ裾通リニシテ松林有
 當時山上ハ社地也”

【写真左】市場城遠望・その2
 小鴨氏の居城・岩倉城から見たもの。
 左(南側)から細い丘陵が伸びているが、その一角に築かれている。


小鴨氏

 ところで小鴨氏の出自については、前稿でも述べたようにその出自は平安末期に遡る地元在庁官人とされている。

 小鴨氏はその後戦国期にいたると、伯耆国における国人衆「伯耆衆」の一人とされている。ちなみに、伯耆衆とは、
  • 小鴨・越振・塩冶・遠藤・長(ちょう)・山口・広瀬・野津
の諸氏である。
 小鴨氏はその後、山名氏の衰退にともない南条氏と結び、南条宗元(入道宗勝)の次男・元清が小鴨氏に養子として入り、小鴨元清と名乗った。元清の兄は南条元続(勘兵衛・直秀)(羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石)参照)であるが、彼ら兄弟は、当初毛利方に属していたものの、その後信長の西進に従い、毛利氏を離れ、秀吉方についた。
【写真左】入口付近
 東麓を流れる用水路を渡ると、4m前後の高さ(土塁跡か)の坂があり、それを登ると最初の小郭がある。

 現在はこの箇所から入るようになっているが、主要な入口としての虎口は、後段で紹介する西側の土塁群の一角だったと思われる。


市場村古城跡図

 現地の説明板には、「文政元年(1818)鳥取藩が調査して作成した古図が残っている」、と記され、それをもとにした図が描かれている。


【写真左】市場村古城跡図



 これを見ると、市場城は二つに区分され、

(1)横三十間(約55m)×長百間位(約182m)
(2)横四十間(約73m)×長七十間(約127m)

の二つが並んでいることになる。

 そして(2)の方には西側(上段)に土手が描かれ、その先には堀切を介して「表夘四間四方(8×8m)」のものがあったとされている。
 この古図の描き方には、平面図的な作図と、立体的な書き方が混ざったもので、すこし混乱するが、概ね配置状況は同図でいえば、右が北を示し、上が西を示すものだろう。

 そして、上段にかかれている「表夘四間四方(8×8m)」には、付記されている「山上ハ社地」すなわち、小鴨氏が崇拝した神社が祀られていたものだろう。

 また、現在畑地となっているところが、左側のもの、即ち(2)の箇所と思われ、(1)は現在、野地(一部畑地)となった低地付近と思われる。
【写真左】東麓部
 市場城の東面で、北側から見たもので、境には現在農道や用水路などが並行して走っているが、当時はこの周囲には濠が巡らされていたと考えられる。


市場城の周辺

 前回の登城(2011年)の際、東側から入って現在畑地となっている館跡付近しか踏査していなかったが、『城郭放浪記』氏など他のサイトを確認したところ、周囲に空堀などがあることが分かり、今回(2014年)再登城した。

 市場城のある位置は、南西部から伸びた長い低丘陵の中にある。いわゆる山城的な要害性を持たせた性質のものでなく、比高もさほどなく、館跡としての機能が優先された城館である。しかし、周囲にこれだけ大規模な空堀と土塁を駆使していることは、防御の面においてかなり意を用いたものといえるだろう。
【写真左】土塁
 入口から少し入った所で、東側に残る土塁。
 左側は小郭となっており、ここからさらに西に向かって5m程度高くなった上段の郭がある。
【写真左】上段の郭
 現在一部がこのような畑地となっているが、奥に見える野地となった箇所も郭跡と考えられ、おそらく小鴨氏(家臣・岡田某氏)の居館などが建っていたものと思われる。

 中央や左側も藪化しているが、この郭(居館跡)の北・西・南側はほぼ土塁で囲繞されている。

 なお、右側の藪は切崖となっており、奥に進むほど(北方向)比高が高くなり、切崖の様相を呈している。
  規模は上掲した市場村古城跡図の(2)に該当する場所と思われ、横約73m×長約127mの大きさだろう。
【写真左】北端部の切崖
 北に向かうにつれ、麓の農道と市場城郭天端との比高差が高くなっていく。

 おそらくこの位置では10mを測るだろう。急傾斜の切崖である。
【写真左】南端部
 一旦城域から外に出て、南側に回り込むと、丁度城域の境に当たる位置には西に向かって登り坂が敷設されている。
 左の竹藪が城域になるが、実はこの道路側から土塁が道路に沿って下まで伸び、その土塁の中側には長大な空堀が敷設されている。
【写真左】東西に伸びる空堀と土塁
 道路側のもので、右の土塁を超えるとすぐに道路となっており、左側の土塁を登ると、市場城の館・郭に繋がる。

 なお、右側の土塁天端から堀切底部までは3~5m、左側の土塁天端から堀切底部までは最大で8m前後の比高差がある。

 この箇所における空堀総延長は東端部から西端部(1郭まで)で約40m前後。

 次に、もう少し坂を上った所から改めて向かう。
【写真左】西端部の堀切
 西側の堀切で、驚異的な孟宗竹の繁茂のため写真では分かりづらいが、中央部が堀切底部で、右の土塁の上が市場城館になる。

 なお、左の土塁を登るとさらに高い郭跡があるようだが、おそらくこの上に「社」があったものと思われる。
 奥行は、従って130m前後あるだろう。
【写真左】東西の空堀と西側の南北の空堀が交差する箇所
 写真右が道路側に当たるが、竹がなければ見事な空堀を見ることができるだろう。
【写真左】西端部境
 城域の西側境を過ぎると、傾斜を保ったまま、現在ナシ園となった畑地が続く。
【写真左】市場城から南東方向に岩倉城を遠望する。
 市場城から岩倉城方面を見ると、手前左右の山が若干遮ることになり、岩倉城の全景は見ることができないようだ。
【写真左】市場城から打吹城を遠望する。
 小鴨氏の元主君であった山名氏の居城・打吹山城はどの方向からでも流麗な山容を見せてくれる。

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