2018年2月4日日曜日

岐阜城(岐阜県岐阜市金華山)

岐阜城(ぎふじょう)

●所在地 岐阜県岐阜市金華山
●別名 稲葉山城、金華山城、井ノ口城
●高さ 336m(比高308m)
●築城期 建仁年間(1201~04)
●築城者 二階堂行政
●城主 二階堂行政、佐藤朝光、その他(下段参照)
●廃城年 慶長5年(1600)
●指定 国指定史跡
●遺構 郭・石垣・居館等
●登城日 2015年10月25日

◆解説
 切り立つ山の頂点に天守(模擬)を設け、眼下に広大な濃尾平野を俯瞰する岐阜城。改めて紹介する必要もないほどの有名な城郭であるが、管理人にとって長い間未登城のままだったこともあり、今回(2015年)やっとその念願がかなった。
【写真左】岐阜城遠望
 麓から見たもので、管理人のカメラはズームの能力に限界があるため、天守は豆粒ほどの大きさになっている。
 手前は織田信長像。



 岐阜城の歴史については、下段に示すように現地に詳しい内容が掲示されている。

現地の説明板・その1

“岐阜城の歴史(1) 二階堂行政~長井新左衛門尉

 13世紀のはじめ(建仁のころ)、鎌倉幕府の政所令(まんどころれい)二階堂行政が、ここに砦を構えたのが築城のはじめです。二階堂氏は鎌倉の二階堂に住み、氏を称えました。
 その一門は、関東から美濃・伊勢・薩摩などで豪族として栄えました。美濃の場合、関の新長谷寺(しんちょうこくじ)(吉田観音)を建てたのも二階堂氏です。

 その後、行政の子孫はここに居城し、姓を稲葉氏と改め稲葉山城といわれるようになりました。
 戦国時代の動乱の中で、土岐・斉藤氏の一族が稲葉氏の砦遺構を利用して、ふたたび城を築き、城下町もできました。大永5年(1525)、美濃国で内乱がおき、守護土岐氏と守護代斉藤氏の実権は、長井氏に移りました。稲葉山城も斉藤氏の一族が居城していましたが、長井氏に追放され、長井新左衛門尉の居城となりました。新左衛門尉は、斉藤道三のの父親といわれ、大永から享禄年間(1521~32)の史料に、名前がしばしばでてきます。”
【写真左】若武者の出迎え
 いつもの山城と違って、岐阜城ではこのように甲冑を身に付けた若武者が出迎えてくれた。

 10月の後半とはいうものの、この日は夏の様な陽射しで、特に冑を被った左の武将には、顔から滝のような大汗を掻きながらポーズをとっていただいた。ご苦労様です。





現地の説明板・その2

“岐阜城の歴史(2)  斉藤氏三代(道三・義龍・龍典)

 斉藤道三が、灯油売り商人として、京都から美濃国へ下り、守護土岐頼芸(よりなり)の知遇を得て、美濃一国を征服したことは、NHKの大河ドラマ「国盗り物語」などで有名です。
 しかし、最近発見された南近江の大名六角承禎(じょうてい)書状から、道三の前半生は父の長井新左衛門尉のことであり、後半生が道三の事績ということがわかりました。

 道三は稲葉山城を要害化し、山の西麓に居館を建て、百曲通(ひゃくまがりどおり)と七曲通(ななまがりどおり)に住人を集めて城下町をつくりました。
 また、御園・岩倉・中川原に市場を設けて、商取り引きを盛んにしました。
 天文23年(1554)、道三は突然隠退して家督を子の新九郎利尚(としひさ)(義龍(よしたつ))に譲りましたが、やがて父子の対立が生じ、弘治2年(1556)の戦いで討死しました。
【写真左】岐阜公園案内図
 岐阜城の東麓部には岐阜公園をはじめとする多くの史跡が点在している。
 この図では文字が小さいため分かりにくいが、左上に岐阜城があり、一般の観光客は東麓部にある金華山ロープウェーを使って向かう。

 因みに、このロープウェー乗場の近くには、現在発掘調査中の織田信長居館跡(後段参照)などがある。
 

 義龍は戦国大名として領国経営に力をそそぎましたが、道三死後、わずか6年で突然病死し、あとを幼い虎福丸(龍典)が継ぎました。
 しかし、斉藤氏の勢威は弱まり、織田信長の攻勢が盛んになる時に、永禄7年(1564)、家臣の竹中半兵衛重治らによって、稲葉山城が一時期占拠される事件がおきました。
 その後、竹中氏らは敗北し、稲葉山城は再び龍典の手に戻りましたが、この事件によって斉藤氏は一挙に衰退し、ついに永禄10年(1567)、稲葉山城は織田信長に攻略され、龍典は城を捨てて逃れました。

    岐阜市”
【写真左】山頂のロープウェー駅に着く
 本来ならば麓から足を使って登るべきだが、乗車中に見る稲葉山からの景色も見たかったので観光客と一緒にロープウェーに乗って着いた。

 写真は本丸に向かう最初の門だが、この駅の手前に硝煙蔵などがある。



歴代城主

 およそ400年という長い歴史を持つ城址であることから、当然歴代城主の数も多くなる。しかし他の城郭はそうした状況の場合、城主名が詳細に記録されているところは意外と少ない。この点岐阜城については、史料が余り消失することがなかったのか詳しく残っている。参考までに現在分かっている城主名を時系列で紹介しておきたい(参考 Wikipedia:等)。
【写真左】伝・一ノ門跡
 岐阜城の各出入口にはこうした巨石や石垣を使った門跡がある。手前の石は元々上に積まれていたようで、崩落してこの位置にあるようだ。




(1)二階堂氏・伊賀氏  (鎌倉~南北朝~室町初期)

 二階堂行政(二階堂氏祖)、伊賀朝光(二階堂行政の娘婿)、伊賀光宗(朝光次男)、稲葉光資(光宗弟)、二階堂行藤(二階堂行有の子)
【写真左】馬場跡
 現地にはご覧の様に敷石が張られ、歩きやすい通路のようになっているが、当時の馬場跡といわれている。
 規模 幅3間(5.4m)×長さ30間(54m)。一説では馬場でなく、矢場ともいわれる。



(2)美濃斉藤氏・家臣  (室町~戦国期)

 斉藤利永(稲葉山城再興)、斉藤妙椿(利永弟)、斉藤利藤(利永嫡男・妙椿養子)、斉藤利茂(利藤養子の息子)、長井新左衛門尉(長井長弘家臣:元京都妙覚寺僧)、斉藤道三(長井新左エ門城嫡男)、斉藤義龍(道三嫡男)、斉藤龍興(義龍嫡男)、安藤守就(龍興家臣)
【写真左】切通
 馬場跡を過ぎて進むと、途中で左手に尾根を断ち切った切通(堀切)が見える。
 写真左側が登ってきた一ノ門で、右に行くと次に紹介する二ノ門などが控える。



(3)織田氏及び豊臣家臣  (戦国期~安土桃山)

 織田信長織田信忠(信長嫡男)、斉藤利堯(斉藤道三の子・織田信忠家臣)、織田信孝(信長三男)、池田元助(池田恒興嫡男)、池田輝政(池田恒興次男)、豊臣秀勝(秀吉姉の子)、織田秀信(織田信忠嫡男)
【写真左】二ノ門
 この辺りから道は屈曲したラインとなり、二ノ門という虎口が出てくる。これを過ぎると、再び屈曲して「下台所」という郭段があり、そこから階段を登っていくと、「上台所」が控える。
 写真に見える白壁の塀は近代のもの。
【写真左】上台所へ向かう。
 この写真では見えてないが、中央の明るい箇所には天守が見えている。
【写真左】井戸跡
 台所(上台所)の脇から下に降りると、ご覧の井戸跡がある。
 井戸といってもこの付近の地形・地質から考えて、下に水源があるとは思えず、現地の説明板にもあるように、岩盤を四角形にくり抜いて造られ、雨水を貯めた貯水施設だったようだ。
【写真左】いよいよ天守が見えてきた。
【写真左】鷺山城及び黒野城を俯瞰する。
 坂道途中から左手に長良川を挟んで、北西方向には鷺山城と黒野城が確認できる。

 鷺山(さぎやま)城は、標高70m弱の丘城で、鎌倉時代に佐竹常陸介秀義が築城したといわれ、その後土岐氏が代々居城とし、戦国期に至り、土岐頼芸の重臣であった斉藤道三がのちに嫡男義龍と対立したとき、この城に拠った(下段の説明板参照)。

 黒野城は、秀吉の家臣加藤貞泰が築城し、家康の代までわずか16年間しか使用されなかった。
【写真左】天守
 鉄筋コンクリートによる3層4階建てで、昭和31年(1956)復元されている。
 斉藤氏や信長時代、どのようなものだったかわからないが、「天守」は池田輝政時代に改変されている。

 なお、岐阜城ではもう一つ「てんしゅ」と呼ばれていたところがある。それが麓の「天主」といわれたところで、信長時代の御殿跡を指す。下段の写真でも紹介しているように、現在も発掘調査が続けられている。
【写真左】二階堂行藤画像
 天守の中には岐阜城に関係した武将たちの資料などが展示されている。

現地説明板より

“二階堂氏
 鎌倉時代に入って、源頼朝い仕えて功績を挙げた二階堂山城守行政が、建仁年間(1201~1204)に稲葉山頂に砦を築いたとする説がある。ついでその子・佐藤伊賀守朝光、その二男・伊賀二郎左衛門光宗、光宗の弟・稲葉伊賀三郎左衛門尉光資まで代々居城したといい、正元の頃(13世紀半ば)に、二階堂行政の5代目に当たる二階堂出羽守行藤入道道雅が暫く居城したとされる(美濃明細記、美濃雑事記)。行藤の画像が関市の新長谷寺にある。” 

 なお、二階堂行藤は行有の子で、永仁元年(1293)に鎌倉幕府政所執事となり、正安3年(1301)出家し、同年東宮儲嗣問題解決のため、幕使として上洛している。


【写真左】斉藤妙椿
 
 現地説明板より

“斉藤妙椿(みようちん)
  応永18年(1411)~文明12年(1480)

 美濃守護代として、応仁文明の乱に守護土岐成頼在洛10年の間、その兵站の確保に努め隣境の諸強の侵入を許さず、よく留守役の大任を果たした。
 土岐氏は初め東軍細川氏に従ったが、後に西軍山名氏に味方した。東軍側に味方していた郡上郡大和村牧の東常縁の篠脇城を占領し、不破郡関ヶ原町今須の長江氏を滅ぼした。後日東常縁の和歌に感動して、篠脇城を東氏に返還した。文武両道をわきまえた立派な武将である。”

 斉藤妙椿は、文明3年(1471)に近江の太尾山城(滋賀県米原市米原)を攻略しているが、この戦も応仁・文明の乱の最中で、おそらく上掲の説明板にある不破郡関ヶ原町今須の長江氏を滅ぼした戦いと連動したものだったのだろう。 
【写真左】斉藤道三像

現地説明板より

“斉藤道三公
  生年不詳~弘治2年(1556)
 斉藤道三は下剋上大名の典型であり、僧侶から油商人を経てついに戦国大名にまで成りあがった人物だとされてきた。近年は古文書「六角承禎条書」によって、美濃の国盗りは道三一代のものではなく、父・長井新左衛門尉との二代にわたるものとする説が有力になっている。
 道三は、天文年間(1532~54)には稲葉山城の修築を行い入城したとされる。また、のちに娘・濃姫を嫁がせ織田信長と姻戚となった。天文23年(1554)、家督を子・義龍へ譲り、常在寺で剃髪入道を遂げて道三と号し、鷺山城に隠居した。
 弘治2年(1556)、長良川の戦いで子・龍興に敗北し戦死。その首塚が道三塚として今に残る。”


【写真左】織田信忠像

現地説明板より

“織田信忠
  弘治3年(1557)~天正10年(1582)
 元亀3年(1572)正月に弟の信雄・信孝とともに岐阜城で元服して勘九郎信重と名乗り、7月には信長に従って浅井攻めに初陣した。天正2年(1574)、信忠と改めた。翌3年11月、信長から正式に家督と尾張・美濃を与えられ、岐阜を居城とする。同5年10月には松永久秀討伐の功績により、従三位左中将に叙任。これ以後、順次信忠は信長に代わって軍団を指揮することが多くなり、同7年の荒木村重討伐や、同10年の甲斐遠征には一月足らずで武田氏を討伐するなど、その手腕が大いに発揮された。本能寺の変時には、寄宿先の妙覚寺から二条新御所に立て籠もるが、明智光秀軍の猛攻に遭って自刃した。享年26歳。”
【写真左】織田秀信所用烏帽子形兜
 織田秀信は、織田信忠の嫡男で、信長の孫に当たる。幼名は三法師。

 有名な清州会議で信長後継を巡って、秀吉が肩車している絵が知られているが、その秀吉の肩に乗った幼児が三法師、後の織田秀信である。
 関ヶ原の戦いでは西軍に属し、敗戦後岐阜13万石は没収され、高野山へ送られた。しかしほどなくして下山し、死因は不明だが、奇しくも父と同じ26歳の若さで亡くなっている。
 結果的には岐阜城最期の城主となった。
【写真左】石垣
 天守台を降りて、帰りはさらに南に延びる犬走りのような道を進んだが、その途中の右上にご覧の石垣が見える。

 元々この付近の地形は谷を形成していたが、この石垣で両側を護岸し通路を構成している。
 また、この近くにも貯水用の井戸が残っている。
【写真左】信長居館跡・その1
 ロープウェーで下山後、西麓にある信長居館跡に向かう。
 現在も発掘調査中のため、中に入ることは出来ないが、外から状況を確認できる。
【写真左】信長居館跡・その2
 今のところ、信長居館跡は、2か所に分散し、A地区では大規模な庭園が、B地区では
茶室などがあったとされている。
【写真左】信長以前の居館
 斉藤氏時代のものといわれ、下層から石積の穴と階段が確認されている。

 地面の上に炭層があることから、信長が稲葉山城(岐阜城)を攻略した際、火災があったことを示すものとされる。  



秀吉墨俣城

 ところで、歴代城主として最も有名なのは、上掲した説明板にもあるように、斉藤道三と織田信長であるが、信長が岐阜城を落城させ、入城したのは、永禄10年(1567)8月15日といわれる。
【写真左】岐阜城から墨俣城方面を見る。
 右に見える長良川を下っていくと、次第に左にカーブし、大垣市の飛地の一つ墨俣町が西岸と接し、その北東端では犀川が合流する。

 墨俣城はちょうどその合流地点に築かれた平城である。
 伝承では秀吉が一夜で築いたといわれ、通称「墨俣一夜城」とも呼ばれている。


 
 入城に至るまでの経緯は他の資料などにも多く書かれているので詳細は省くが、岐阜城攻略の下準備をつくったのは信長の命を受けた木下秀吉(秀吉)である。永禄9年(1566)9月24日、斉藤龍興を落とすため、秀吉は同国(美濃)墨俣に城を築き、龍興を破った。

 この墨俣城というのは、岐阜城の麓を流れ長良川を凡そ12キロほど下った大垣市墨俣町墨俣にあった城で、現在その位置に墨俣一夜城歴史資料館という模擬天守が建っている。

2018年1月25日木曜日

近江・蓮華寺(滋賀県米原市番場511)

近江・蓮華寺(おうみ・れんげじ)

●所在地 滋賀県米原市番場511
●山号 八葉山
●宗旨 浄土宗
●寺格 本山
●本尊 釈迦如来・阿弥陀如来
●開山 一向俊聖(中興)・弘安7年(1284)
●開基 伝・聖徳太子
●文化財 紙本墨書陸波羅南北過去帳、梵鐘
●参拝日 2015年10月24日

◆解説
 現在の滋賀県米原市は、古代・中世には東山道と呼ばれた街道が走り、江戸時代に至ると、この区間は中山道(中仙道)という呼称に代わり、東隣の美濃国(岐阜県)との往来の出入口ともなった。
 因みに、美濃から近江に入って最初の宿場となるのが、60番目となる柏原宿で、そのあとに豊富な湧き水で有名な「居醒泉」の醒井宿が続き、62番目の宿場となるのが今稿で取り上げる「蓮華寺」が所在する番場宿である。
【写真左】六波羅探題北条仲時以下430余が自害し、後に祀られた墓石群
 蓮華寺境内奥にあり、整然と並んでいる。






現地の説明板より

“中山道「番場宿」、南北朝の古戦場

 蓮華寺(れんげじ)
◇山号 八葉山 ◇宗派 浄土宗 ◇本尊 阿弥陀如来像 市指定文化財、釈迦如来像 市指定文化財

 聖徳太子によって開かれた寺と伝えられ、当初は寺号を法隆寺と称していました。歴代天皇の信仰も厚く、花園天皇(1308~18)寺紋として菊の紋を下されました。
 昭和17年に浄土宗鎮西西派に帰属して、浄土宗本山として現在に至ります。書院の東南に広がる庭園は、釈迦嶽の山裾にあたる池庭で、背景に山が迫り、谷が深く幽遠です。コウヤマキの巨樹や、山腹にはミツバツツジが群生して春の色どりは格別です。
【写真左】蓮華寺山門
 中仙道沿いにあり、現在は街道から奥に続く参道途中の頭上を名神高速道路が横断している。防音壁があるものの、周囲の山に反射するのか、なんとも騒々しく、落ち着かない。

 写真は内側から見たもので、奥に青と白に塗られた名神高速道の防音壁が見える。


 元弘3年(1333)、京都の合戦に敗れた六波羅探題北条仲時は、この地で京極道誉南朝軍の包囲に遭い、本堂前庭で仲時以下430余名が自刃しました。仲時一行の供養の墓碑が境内にあります。また、斉藤茂吉は、恩師佐原窿応が当寺49世住職になったことから、参詣して短歌を残しています。

◇銅鐘 重要文化財
◇紙本墨書陸波羅南北過去帳 重要文化財
◇絹本著色一向上人像 県指定文化財
◇石造宝篋印塔 市指定文化財”
【写真左】境内と本堂
 入山料を払い、境内を散策する。なお、この日かなり大勢の方々が庫裡の方へ向かわれたが、どうやら研修かなにかあったようだ。



足利高氏(尊氏)反旗

 上記の説明板にもあるように、元弘3年(1333)、この番場の蓮華寺において、六波羅探題の北条仲時ら主従430名余りが自刃した。

 ところで、足利尊氏が倒幕の旗幟を鮮明にしたのは、元弘3年・正慶2年(1333)の5月ごろとされている。
 きっかけとなったのは後醍醐天皇が隠岐を脱出後、名和長年一族を頼り伯耆船上山に立て籠り(名和長年(1)船上山参照)、地元守護佐々木清高を討ち勝利を収め、そののち、各地の武士団が続々と後醍醐天皇のも途に馳せ参じたことも理由の一つであるが、直接的には播磨の赤松一族が摂津付近まで進出し、六波羅を打ち破ったため、同年4月1日、幕府が名越高家と高氏(尊氏)を討手の大将として京都への進軍を命じたことが転機となった。
【写真左】仲時以下随士430余名の墓案内板
 境内の右側を進んで行くと、ごらんの案内板があり、ここから向かう。






 当然ながらこの段階では幕府は、尊氏らがこの命に従ってくれるものと思っていた。事実、足利と名越両軍併せて1万余りの大軍が京に到着した段階で、幕府軍の士気は大いに上がった。
 さっそく軍議を開き、尊氏は山陰道から、名越高家は山陽道からそれぞれ伯耆国へと向かった。4月27日のことである。
 山陽道を進み始めた名越軍は、しかし、いきなり鳥羽(京都)で、赤松軍と激突、高家は赤松軍の流れ矢にあたり、あえなく戦死、名越軍は総退却した。
【写真左】階段を登っていく。
 仲時以下の墓石群はこの階段を上がっていった左側に建立されている。
 右側は歴代住職の墓のようだ。



 高家戦死の訃報を知った尊氏であったが、そのまま進軍し当時自領であった丹波国篠村に入った。ここで、尊氏は信濃の小笠原貞宗、北関東の結城宗広、そして南九州の島津貞兼らに密使を遣わし、後醍醐天皇の命を伝えた。それは、尊氏が幕府討幕という反旗を敢然と翻した瞬間であった。
【写真左】篠村八幡宮
 所在地 京都府亀岡市篠町篠
主祭神 誉田別命(応神天皇)。創建 延久3年(1071)後三条天皇勅宣により河内国誉田八幡宮から勧請。
 写真:境内にある「足利尊氏旗あげの地」の石碑。
参拝日 2018年3月28日


 因みに、現在の京都府亀岡市にある篠村八幡宮は、尊氏倒幕挙兵地として知られ、その後後醍醐天皇と決別したとき、再びこの地で再起を図った場所でもある。
 尊氏の反旗は瞬く間に全国の武士に知れ渡り、多くの者が彼の下に馳せ参じた。
【写真左】北条仲時以下430余の墓石群
 430余名という数の多さもあって、ご覧のように3~4段に分けて建立されている。





六波羅滅ぶ

 幕府から後醍醐追討の命を受け伯耆に向かっていた尊氏本人が、その後逆に倒幕という反旗を掲げたことに六波羅は驚愕した。
 5月7日早朝、亀岡から転じて京に向かっていた尊氏らは嵯峨野から内野まで来ていた。一方一足先に入京していた赤松軍は東寺周辺で、六波羅軍と対峙していた。辰の刻になると、両軍は一気に六波羅軍を攻めたてた。こののち、千種忠顕軍も参陣し、六波羅軍は総退却していった。

 六波羅探題北方大将・北条仲時ならびに、南方大将北条時益は、この一方的な大敗を目の当たりにし、もはや京を脱出し、光厳天皇、後伏見・花園両上皇を奉じて、関東(鎌倉)へ遁走する術しかなかった。
【写真左】中央部
 細部まで見ていないので分からないが、おそらく右側の大きな五輪塔が北條仲時で、左側が時益のものと思われる。





 しかし、落ち行く先々で野武士が待ち受けていた。京を出て間もなく、北條時益は四宮河原(現:山科区)で野武士によって絶命、また逢坂山では光厳天皇の左肘に流れ矢があたり流血、このあたりから当初つき従っていた軍勢は死者や脱落逃亡などがあり、700余りとなっていた。

 それでも何とか、佐々木(六角)時信の居城・観音寺城(滋賀県近江八幡市安土町)までたどり着いた。ここで一泊し、あくる日近江を抜け美濃を目指すため、番場峠まできた。すると、その前に立ちはだかっていたのが、地元近江をはじめ、美濃・伊勢・伊賀の野武士や悪党ども5,000ほどの軍勢である。おそらくこれらは尊氏の命を受けた佐々木道誉が手筈したものだろう。
【写真左】「北条仲時及び従兵四百餘人 記念碑」と刻銘された石碑
 傍らにはいつごろ設置されたのか分からないが、ご覧の石碑も建立されている。






 仲時ら六波羅軍は勝算のない戦となることを敢えて承知の上だったのだろう、それでも数刻激しく戦った。しかし、多勢に無勢である、仲時はもはやこれまでと、蓮華寺の庭に鎧を脱ぎ、満身創痍の身体で腹部に刀を突き刺した。

 仲時自刃のあと、従者たちも次々と殉死していった。このとき自害した主従は総勢430名余と伝えられ、のちに『太平記』にその凄まじさが描かれることになる。

 仲時らの死後、時の蓮華寺住職・同阿は、これら430名余の霊を供養するため、その姓名を記録(過去帳)に記し、48日間にわたって常行三昧の念仏を修したとされる。このときの過去帳が、重要文化財となっている「紙本墨書陸波羅南北過去帳」である。 
【写真左】一向上人の廟
 墓地の奥には当院開山といわれる一向上人の廟が祀られている。
 一向上人は、浄土宗第三祖良忠上人の弟子で、教えを説き人を導くため、北は奥州から南は九州までの各地を遊行し、この番場で一生を終えた高僧。



殉死者達

 因みに、仲時のあとを追った殉死者達として、これまで紹介したのは次の武将達である。
なお、この自刃の際、殉死せず逃亡した武将もいた。その一人が、安芸小早川家から参陣していた小早川貞平である(米山寺・小早川隆景墓(広島県三原市沼田東町納所)参照)。
 貞平に限らず、他にも多くのものが離脱したものと思われるが、貞平の場合も、彼が本国安芸に帰還しなかったら、その後の小早川氏も違った歴史を歩んだかもしれない。
【写真左】歴代住職の墓
 少し下がったところには、歴代住職の墓が祀られている。おそらくこの中に、同阿のものもあると思われる。





佐々木道誉動向

 ところで、この蓮華寺における戦いでは、具体的な佐々木道誉の動きについて記したものは今のところない。彼については、勝楽寺・勝楽寺城(滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4)の稿でも述べたように、番場で尊氏が道誉の饗応を受けていたことを考慮すると、彼がこの戦い(蓮華寺)で倒幕方を主導していた可能性が高い。
 因みに、蓮華寺から東方10キロ余り向かった清滝には、のちに道誉が深くかかわることになる清瀧寺徳源院・柏原城(滋賀県米原市清滝)があり、当初から道誉は北条仲時の敗走ルートを知っていたのではないかとも思われ、うがった見方をすれば、仲時らを一泊させた観音寺城の六角時信とも密議を交わしていたのではないかとも思えたりする。

伝・土肥元頼墓

 ところで、蓮華寺境内には北条仲時らの墓とは別に、蓮華寺から南に1キロほど向かったところにある鎌刃城(かまばじょう)の城主・土肥三郎元頼の墓と伝えられている墓もある。
【写真左】伝・土肥元頼墓
 鎌刃城については、以前この近くにある太尾山城・その2でも少し紹介しているが、最近では築城者が土肥氏であったという伝承はあるものの、定かでなく、文明4年(1472)に坂田郡の今井秀遠(ひでとみ)が、堀次郎左衛門の籠る鎌刃城を攻めたという記録が最古とされるため、この宝篋印塔も土肥氏であるかどうか、なお検討の余地があるようだ。


現地の説明板より

“ 伝 土肥元頼墓(市指定石造宝篋印塔)
 鎌刃城主・土肥三郎元頼の墓と伝えられています。元頼は、正応元年(1288)9月18日逝去して、蓮華寺の墳墓に葬られました。宝篋印塔には銘文等が確認できず、塔の様式からし元頼の年代とくらべて新しいものである可能性もあります。蓮華寺は、聖徳太子が創建し法隆寺と称していましたが、建治2年(1276)落雷により焼失。その後、弘安7年(1284)の夏に、一向上人が諸国を巡る旅の杖を留めて、この地で念仏を広く唱えて民衆を教え導かれました。この地の領主であった元頼も深くその教えに従い、焼失した堂塔を再興して、「八葉山蓮華寺」と改称し、一向上人を開山上人に迎えました。
    米原市教育委員会”


番場忠太郎地蔵尊
 
 江戸幕末期・嘉永年間を時代設定とし、劇作家・長谷川伸が創作した『瞼の母』などをメインに、シナリオライター三村伸太郎が脚本、中川信夫が監督した映画『番場の忠太郎』が1955年に公開された。
 いわゆる「股旅物」の映画だが、「両の瞼を閉じれば、懐かしいおっ母あの顔が浮かんでくらー…」というセリフは当時大いにはやった。
 この作品では直接忠太郎の出身地である番場は特に出てこないが、地元の蓮華寺境内には彼を祀って地蔵尊が建立されている。

【写真左】忠太郎地蔵尊

 現地説明板より

“忠太郎地蔵尊の由来
 昭和33年8月3日 文壇の雄長谷川伸先生が南無帰命頂禮 親をたづぬる子には親を 子をたづねる親には子を めぐり合わせ給えと悲願をこめて建立された地蔵尊である。
 このお地蔵さまを拝めて親子の縁はもとより あらゆる縁が完全に結ばれて家庭円満の楽しみを受けることができる それにはお互いが をがみ合うすなをな心が大切である それをこのお地蔵さまは 合掌せよとお示めしになっている
  番場史蹟顕彰会”

2018年1月14日日曜日

竹生島・宝厳寺(滋賀県長浜市早崎町)

竹生島・宝巌寺(ちくぶしま・ほうごんじ)

●所在地 滋賀県長浜市早崎町
●面積 0.14㎢
●最高所 197.3m
●所在海域 琵琶湖
●寺社 宝厳寺・都久夫須麻神社等
●創建 伝・神亀元年(724)
●開基 伝・行基、聖武天皇(勅願)
●参拝日 2015年10月24日

◆解説(参考資料 宍道町史、HP『江のふるさと滋賀』等)
 竹生島は琵琶湖の北に浮かぶ神秘の島として知られ、今風にいえばパワースポットとして多くの参拝者で賑わう。

 2015年10月24日、玄蕃尾城(福井県敦賀市刀根)の登城を終え、南下し昼食は長浜港近くのホテルで湖北の名物「サバそうめん」を食べた。何度か北近江は探訪しているが、いつも山城登城を優先していたため、琵琶湖の湖岸道路を走るたびに、竹生島の姿が車中から見えていたものの探訪を保留していた。今回時間が取れたので、竹生島クルーズの一つ長浜航路(長浜港⇔竹生島往復)で向かうことにした。
【写真左】竹生島遠望
 フェリーの桟橋から見たもの。
面積は僅か0.14㎢で、琵琶湖の中では沖島についで2番目に大きい島。この付近では水深70m前後と深い。恐らく湖底から見ると切り立った山に見えるだろう。


現地の説明板より

“宝厳寺弁才天堂  昭和17年建築

 竹生島宝巌寺の本尊は「弁才天」。寺伝によると神亀元年(724)、聖武天皇が天照皇大神の神託により僧行基に勅命し弁才天を祀ったのが始まりと言います。本尊の弁才天像は、江戸時代まで島の東側の弁財天社(現、都久夫須麻神社本殿)に安置されていました。

 しかし、明治時代の神仏分離によって弁財天社は都久夫須麻神社本殿と定められたため、明治4年(1871)、やむなく弁才天像は塔頭妙覚院(たっちゅうみょうかくいん)の仮堂に仮安置されました。以来66年間、弁才天堂の造営は未着手のまま時が流れましたが、昭和12年(1937)6月、ようやく起工式を執り行うまでに至りました。
【写真左】山本山城を遠望する。
 フェリーの船上から撮ったもので、客室内部からガラス越しに撮ったため、反射して分かりずらいが、山本山城の姿が見えた。
 山本山城の向背には浅井氏居城の小谷城が控える。
【写真左】小谷城から竹生島を遠望する。
 2014年に登城した近江・小谷城から見たもので、竹生島を挟んで、東岸には山本山城、中島城、丁野山城などが配置する。




 しかし、翌月には盧溝橋事件が発生。日中戦争が勃発し半ば事業も中止状態になってしまいます。この事態を憂慮した東京在住の事業家滝富太郎は、自ら再建局長の任に着き、広く篤志を募る一方、巨万の私財を投じ遂に昭和17年(1942)10月、太平洋戦争中にも拘わらず完成させたのが現在の弁才天堂です。なお、設計・監督は文部省の乾兼松。堂内の壁には、法隆寺金堂壁画模写事業の主任画家を務めた荒井寛方筆の飛天が描かれています。”
【写真左】竹生島が見えてきた。
 この日利用した長浜航路(長浜港⇔竹生島港)では、乗船時間は30分程かかる。






出雲尼子氏竹生島造営奉加帳

 竹生島・宝厳寺の由来などは上掲した説明板にある通りであるが、戦国期には小谷城主・浅井長政の父・久政が、長政の家督相続をめぐって家臣団に一時幽閉されている。また、その後浅井氏を倒した織田信長が参詣したり、豊臣秀吉が亡くなったあと、秀頼が秀吉の霊廟の門を竹生島に寄進などしている。
【写真左】宝厳寺本堂に向かう。
 竹生島にある主だった史跡としては、宝厳寺本堂(弁才天堂)・三重塔・宝物殿・観音堂・唐門・船廊下・都久夫須麻神社本殿、そしてかわらけ投げで有名な龍神拝所などがある。
 狭い島の一角に集中して建てられているため、急勾配の階段が多い。


 ところで、これらの出来事に先立つ天文年間、出雲の尼子氏が竹生島の社殿造営に関わり奉加していることが知られる。
【写真左】尼子氏の居城・月山富田城
南側から見たもの。







 天文9年(1540)、竹生島の自尊上人は出雲の尼子氏のもとに向かった。目的は、勧進を依頼する、即ち寺院の改築費用を依頼するためであった。竹生島はこのころ浅井長政の祖父・亮政(小谷城・その1(滋賀県長浜市湖北町伊部)参照)が庇護につとめていた。おそらく、自尊上人は亮政に最初に相談に行き、亮政から勧進者の一人として、出雲尼子氏の名を挙げられたのだろう。
【写真左】浅井氏三代の墓
所在地 長浜市平方町872(徳勝寺境内)

参拝日 2016年6月29日

写真左から、長政、亮政、久政

 浅井氏三代の墓が祀られている徳勝寺は、元は「医王寺」と号して東浅井郡湖北町上山田にあった。その後、永正15年(1518)、小谷城主浅井亮政が城下の清水谷に移して同家の菩提寺とした。

 しかし、姉川の合戦で小谷城が落城し、豊臣秀吉が居城を長浜に移した際、文禄4年当院も長浜城内に移築、亮政の法号に因んで「徳勝寺」と改称。
 慶長11年(1606)、内藤信成が長浜城主となったとき、一時田町(現朝日町)に移築、さらに寛文12年(1672)彦根藩主井伊直孝によって現在の地に移され今日に至っている。


 亮政が出雲尼子氏の名を挙げた理由は、その4年前のことからも推察できる。すなわち、天文5年(1536)12月26日、尼子経久は備中・美作の戦況を近江の浅井亮政に報告(『江北記』)している。

 以前にも述べたが、元々出雲尼子氏の主君は京極氏である。しかし、その後京極氏の没落と浅井氏の台頭によって、事実上出雲国の守護職は京極氏から浅井氏に代わっていた時期と考えられ、守護代であった尼子氏も守護職を浅井氏と位置付けていたものと思われる。
 
 京極氏館跡(滋賀県米原市弥高・藤川・上平寺)の稿でも紹介したように、出雲尼子氏と京極氏の繋がりは極めて強く、尼子経久が当時又四郎と名乗っていた少年期、同氏館周辺の北近江や京での生活が約5年間続いた。
 この時期、京極氏の譜代家臣だったのが浅井氏である。又四郎(経久)が、同族(佐々木京極氏)であった主君京極氏や、同氏譜代家臣であった浅井氏と改めて強い絆を育んだことは想像に難くない。
【写真左】宝厳寺・本堂
 二つの長い急傾斜の階段を登りきると、宝厳寺・本堂が現れる。
 西国三十三所観音霊場・第三十番札所で、本尊は日本三弁才天の一つである弁才天(大弁才天)と千手観音。


 さて、竹生島自尊上人の出雲尼子氏による勧進は、自尊の思惑通りにはいかなかった。
 このため、尼子経久の孫・晴久は、天文11年閏3月29日付書状で、勧進の協力がうまくいかないことを詫びている。

 これと併せて新宮党頭首尼子国久も、上人の長期逗留並びに帰国延引きを浅井氏に詫びている。結局、上人は天文9年の出雲入国から天文11年まで当地に留まっている。
【写真左】石造五重塔
 宝厳寺の傍らには、鎌倉時代のものといわれる五重塔が建立されている。
 五重塔で重要文化財の指定を受けているのは全国で7基しかなく、そのうちの一つで、材料となった石材は比叡山中から採石された小松石という。


 この理由は、勧進の遅延もあっただろうが、尼子経久が天文10年(1541)11月3日に亡くなっているので、上人としても経久の葬儀や菩提を弔うなど予想外の出来事が生じたこともその一因かもしれない。

 しかし、結果として尼子氏は一族・家臣ら併せて121名(又は117名)による奉加を竹生島へ納めている。因みに、日付は天文9年(1540)8月19日となっているが、前述したような経緯があったので、竹生島宝厳寺・社殿造営の行事日程を遵守するため、記録上はこの日とし、実際に金品が奉加されたのは、上人が竹生島に戻った天文11年のはじめごろではないかと考えられる。
【写真左】三重塔
 建立されたのは1484年といわれるから、室町期の文明16年である。ただ、江戸時代初期に落雷で焼失したため、2000年に地元郷土史料「浅井郡誌」に基づき再建された。
【写真左】宝厳寺側から竹生島フェリー乗り場を見る。
 ご覧の通り急傾斜の階段である。
【写真左】唐門・観音堂
 国宝となっている唐門や、観音堂は残念ながらこの日探訪したときは改修工事で内部の一部は見えたが、全体は見ることは出来なかった。
【写真左】船廊下の懸造り
 観音堂と都久夫須麻神社を結ぶ廊下で、写真はその下にある懸造り(崖造り)。
【写真左】桟橋から見る。
 奥の最高所に三重塔や宝物殿が見え、その下に改修中の唐門・観音堂などの建物が見える。
【写真左】龍神拝所先端部
 かわらけ投げの尖端部にあたるが、写真左上隅に拝所が見え、その右下に的となる鳥居が見える。